「包括性」の余地はない。同性愛とトランスジェンダー主義は自然そのものに反する罪である
―――カトリックの視点からLGBTイデオロギーにアプローチする (第1回)
No room for ‘inclusion’: Homosexuality and transgenderism are sins against nature itself
カトリック神学は、同性愛やトランスジェンダーのライフスタイルを、善からの逸脱のうちで最も過激な種類のものだと認識している。
ルイス・ナフキ
2022年11月1日(火曜日) 米東部標準夏時間午前11時30分
分析
ローマ(LifeSiteNews)LGBT問題について、教会とカトリック神学はどう教えているのでしょうか? この記事では、カトリックの視点からLGBTイデオロギーにアプローチする連載の第1回として、以下の内容を取り上げます。
教会中に広がっているLGBTイデオロギー 人間の行動におけるさまざまな種類の秩序 徳の秩序からの逸脱 自然の秩序からの逸脱 悪徳が極端になれば、さらに多くの極端な悪徳を生み出すのは、どのようにしてかLGBTイデオロギーが教会中に広がっている
カトリック神学によれば、徳は中庸にありますが、その一方で、悪徳は人間の行動が極端になるところにあります。経験が裏付けるように、徳の中庸から逸脱する形はたくさんあり、複数の悪徳が極端になると、しばしば極端な悪徳を互いに生み出し合います。「滅びに至る門は大きく、道は広く、そこを通る人は多い。しかし、命に至る門は狭く、その道は細く、それを見つける人も少ない」(マテオ7章13節)。
そのことは、カトリックの性道徳に関する教えに当てはめてみても、違いはありません。貞潔の徳から逸脱する形はたくさんあり、性的な悪徳が極端になれば、実際、互いに生み出し合います。貞潔の徳については、「門は狭く、その道は細く、それを見つける人も少ない」というキリストの言葉を正しく適用することができますが、その一方、性的放縦の道は大きくて広く、それを歩む人は多いのです。
LGBTアジェンダ(行動計画)が社会、学校、家族、ティーンエイジャー、そして幼い子どもたちにまでますます押し付けられる一方で、これらのライフスタイルの嘘と悲劇的な影響が、左派の政治家や目覚めた社会学者、そして巨大製薬会社によって沈黙させられるのを拒否する人々によって、続々と明らかになっています。巨大製薬会社は、親の意向に反してまで子どもに押し付けるトランスジェンダー手術から何百万もの利益を得る立場にあります。
教会内では、LGBTの「包括性」(inclusiveness)【受け入れ】の新しい波が、あらゆる階級の聖職者にまで広がっており、それは、LGBTのグループを謁見するローマにいる教皇から、虹をテーマにしたミサを公然と捧げ、同性婚を祝福し、秘跡としての結婚という「理想」とは異なるライフスタイルをさらに「受け入れ」るために教会の道徳的教えを変えるよう声高に呼びかけている司祭や司教にまで至っています。
これらの問題について、教会は正確にはどう教えているのでしょうか? 聖アウグスティヌスの格言「罪を憎むが罪人を愛する」を、カトリック教徒はどのように適用するのでしょうか? LGBT推進派がそう見せかけているように、キリストは「包括的」だったのでしょうか? これらのことは断罪されるべきものなのでしょうか、それとも耳を傾けて共に歩むという新しく発見された愛徳の名の下に受け入れるべきものなのでしょうか?
明確にするために、教会とカトリック神学がこれらの問題について教えていることを、ここでは体系的なアプローチで提示します。こうすることで、主にこれらの問題の道徳性を見ることになるでしょう。さらに完全な対策をするには、医学的で心理学的な側面からの考察が必要となりますが、それは他の人にお任せすることにします。
人間の行動における三つの異なる種類の秩序
性道徳の問題についてさらに具体的に特定の判断を見ていく前に、人間の行動には三つの基本的な秩序があって、それぞれに、その行動が善か悪かを判断する原則があることに注目すべきです。
第一の秩序は、人間の本性そのものから生じる最も基本的な秩序であり、それによれば、人間には、自分を完成または完全にしたり、あるいは人間の生活と繁栄に必要だったりする、いくつかの基本的な種類の善への傾きがあります。
第二の基本的な秩序は、正しい理性から生じる秩序であり、この秩序は、真理を理解し、いくつかの善は慎重かつ決定的な方法で求めるべきものだとみなします。人間にとって真に善であると理解されるものを求める、この慎重な方法が、徳の秩序です。
人間の行動の第三の秩序は、天主の聖寵によってもたらされるものであり、この秩序によって、人間は、主に秘跡を通して伝えられる、キリストの贖いの死の力および聖寵を通して、天主を信じ、天主に希望し、天主を礼拝し、天主を愛するように超自然的に高められます。
人間の行為の連続した各秩序は、前にある秩序を前提にし、それを高め、それを完成させます。これらの人間の行為の秩序は、時間的に連続しているのではなく、むしろ完成させるために連続しているのです。例えば、婚姻の秘跡において、キリスト教徒の配偶者の愛が、教会に対するキリストの愛を意味すると言うとき、これは同時に、配偶者が婚姻の貞潔において互いに忠実であるという徳の秩序と、互いへの愛がそれぞれ成熟した大人の男女の愛であるという自然の秩序を前提としています。
つまり、自然の欲求は、徳によって高められ、徳は聖寵によって高められます。そして、人間の本性は、創造主なる天主によって私たちに与えられています。
これらの原則を人間の性に当てはめると、カトリックの教えの基本的な概略は以下のようになります。性欲とは、子どもを残すために異性との性交渉に向かう自然な傾きです。この自然の欲求は、家族を増やすために婚姻状態にある配偶者との性交渉に限定されるとき、徳によって高められます。これが婚姻の貞潔の徳です。最後に、洗礼を受けた人同士の結婚は聖寵によって高められますが、それは、その結婚がキリストによって秘跡とされるからであり、またキリストの花嫁である教会に対する、キリストの忠実で実りある霊的な愛を表すものであるからです。このように、貞潔の徳は、聖寵によって高められ、完全になるのです。
自然または徳または聖寵の正しい秩序に反して、人間は、これら三つの秩序のいずれにおいても、天主が人間に望まれる特定の善に反して行動することによって、天主を怒らせるという方法で罪を犯すことがあり得ます。性的な罪は、具体的には、秘跡的な聖寵の秩序から、あるいは理性的な徳の秩序から、あるいはさらに深く基本的で根本的な自然の秩序から逸脱することがあり得ます。LGBTは、特に貞潔の徳に反する罪と、男女の自然で性的な違いと補完性に反する罪を犯しているため、ここで私は、LGBTのライフスタイルに内在する、徳の秩序と自然の秩序からの道徳的逸脱について考察してみます。
徳の秩序からの逸脱
婚姻の貞潔の徳に反して、避妊を実践して、第一の目的である出産を妨げながら性交渉を行うことで、配偶者とともに罪を犯すことがあり得ます。このような行為は結婚の範囲内にとどまりますが、それにもかかわらず、夫婦行為をその自然の第一の目的から切り離しているため、徳から逸脱することになります。姦淫の場合は他人の配偶者と婚姻外の、私通の場合は完全に婚姻外の性交渉を行うことによって、婚姻の貞潔の徳からさらに逸脱することがあり得ます。どちらの場合も、性交渉は婚姻の絆による安定した結合から切り離されています。
その他の罪は、性的な満足を性交渉そのものから切り離すもので、これらの罪の中には、ストリップクラブへ行くこと、ポルノを使うこと、自慰行為などがあります。いずれも、婚姻外だけでなく、婚姻において自然に一緒になるものを切り離すことで、性的な満足を得ることにより、徳の正しい秩序からさらに逸脱しています。このような罪では、快楽は、触れることなく視覚によって、あるいは個人と個人との関係なしに技術によって、あるいは他人がいなくても触れることによって得られます。これらの行為はすべて、性交渉そのものから切り離されており、個人同士の関係のない、まったく不毛なものとなっています。
自然の秩序からの逸脱:同性愛、トランスジェンダー主義
上記の貞潔に反する罪は、すべてが正しい理性によって確立された徳の秩序から逸脱していますが、それでも異性に対する自然の欲求や傾きはそのまま残っています。そうは言っても、人間が貞潔の徳から逸脱すればするほど、自然の秩序そのものが壊れ始めます。それについては、以下でさらに明らかになるでしょう。
自然の秩序に反する典型的な罪は、同性愛行為を通して、異性への傾きから逸脱することにあります。両性愛の行為やライフスタイルは、男女の違いを区別することさえせず、どこにでも性的満足を求めます。これは、多くの若い異性愛者が「一夜限りの関係」を通じて実践する、多くの性的パートナーとの無計画な性関係と類似しており、性交渉を最低限の特定の関係に制限することさえありません。
性的な逸脱やライフスタイルの中で最も憂慮すべきなのは、トランスジェンダー・イデオロギーです。ここでは、自然の秩序から逸脱した二つのカテゴリーに大別されるものがあるように思えます。
第一に、単に自分が異性だと認識するだけの人々がいます。これは、自分が違う種類の肉体を持っていると考えたり、想像したりする、主に心理的な状態にあります。肉体的な変更を求めずに、異性のスポーツ大会に参加したり、異性の浴室やロッカールームを使用したりすることを要求します。その結果、レイプや肉体的な性的虐待の事例が増加し、それは通常、自分を女性として認識している男性によって犯されることになります。性的衝動の強さを考えれば、男女の違いについて正しく考える人にとっては、このようなことは驚くことではないはずです。
第二に、「思春期ブロック剤」(puberty blockers)、ホルモン注射、肉体手術を受けて、自分がそうだと認識している異性の外見的特徴を獲得しようとする人々がいます。このような手術には、男性の場合は性器を、女性の場合は乳房を切除することや、異性の性器の「構築」などが含まれます。公式には、法律、医学、カトリックの道徳の枠内では、このような行為は、新しい子どもの生命を生み出して維持するために必要とする、健康で機能する肉体の一部を切除することです。このような切除は、無知で脆弱な犠牲者に対して頻繁にしつこく勧められるのとは逆に、元に戻すことはできません。また、その切除は、親の知らないところで、親の同意に反して、10代の若者、さらには思春期前の子どもたちに押し付けられることも頻繁にあるのです。
極端な悪徳がさらに多くの極端な悪徳を生み出す
社会が、ある極端な悪習をさらに受け入れ、さらに一般化するようになると、二つのことが頻繁に起こります。第一に、かつては当然と思われていた道徳の基本原則が疑われ始めること、第二に、社会に道徳の危機をもたらした小さな一歩一歩が簡単に忘れ去られることです。
カトリックの性道徳の基本原則を説明した上で、過剰な性的放縦という滑りやすい坂道が、まさに私たちが今いるところにいかにして私たちを連れてきて、私たちをLGBTプロパガンダの最前線に相対させているのかを説明したいと思います。
この文脈で注目すべきなのは、オープンな異性間セックスが過剰になると、欲望が満たされなくなるのは避けられず、現代のテクノロジーが指先に与えた、いつでも利用可能なポルノのようなものでしか、その欲望をなだめられなくなることです。インターネットやスマートフォンがどこでも利用可能になると、ポルノやそれに付随する性的満足は、ブラウザを開くだけで利用できるようになり、ポケットに入れてどこへでも持ち歩き、退屈な時間のほとんどで使えるようになっています。このような男女双方の目や想像力を使った私通は、結婚生活を破綻させる大きな原因の一つとなっており、その結果、過剰な視覚による性的刺激を受け続けるために性交渉ができなくなってしまうことさえあります。
このような状況において、私たちが扱おうとしているのは、単に婚姻内の性交渉から婚姻外の性交渉への移行だけではありません。むしろ、私たちが目撃しているのは、性交渉による性的満足から、性交渉を伴わない性的満足への移行、あるいは触れることや他人との親密な関係による性的満足から、触れることや親密な関係を伴わない性的満足への移行、あるいは自然に生命を生み出す性的行為から、新しい生命を生み出すことができない性的行為への移行なのです。
この最後の移行については、避妊、ポルノ、自慰行為、同性愛、トランスジェンダーの性行為に共通しているのは、子どもを得られないことであると認めなければなりません。このようなすべての行為において、性的快楽は、性交渉の主要かつ自然な目的である、新しい人間の生命を生み出す能力から切り離されています。この文脈において、避妊がいかに深刻なものであるかを、さらに深く理解することができます。たとえ婚姻内で行われたとしても、避妊は、出産の自然の秩序からの第一にして深刻な逸脱なのです。
また、不特定多数の異性との過剰な乱交は、不特定多数の同性との乱交の主要な原因の一つであることが、研究によって示されています。異性の肉体を単なる快楽の対象として完全に物とみなした後で、自分の同種の肉体も同様に物とみなせば、今度は同性から得られる性的快楽への転換は難しくないでしょう。同様に、避妊による異性との不毛な性交渉、ストリップクラブやポルノによる不毛な性的満足から、同性との性的満足を伴う不毛な性行為に移行することは簡単です。出産という最終目的がなければ、セックスは、異性への自然な傾きからさえも簡単に放たれてしまうのです。
同性愛により、男女を正しく区別する能力の崩壊が本格的に始まります。異性か同性かの確定した性行為から、両性との性行為を行うという確定していない流動性が、簡単に受け入れられるようになります。異性か同性かを選べるのであれば、同じ原理で両方を選んでもいいのではないでしょうか? その結果、同性に惹かれることを肯定して男性と女性の区別を維持した後、異性への傾きに戻るのですが、今度は同性に惹かれることを排除するわけではありません。なぜなら、両性愛者は単に、惹かれる対象として男女を区別しないからです。
性道徳における自然の秩序からの、両性愛者のライフスタイルの流動性からの、おそらく最も過激な逸脱においては、一方の性から異性への完全な「移行」が、男性または女性としての自身の肉体に不幸や不満を感じることの解決策になります。
このような「移行」は、同性愛から異性愛への一種の倒錯した回帰であり、あるいは異性愛から同性愛への倒錯した道です。同性愛の男性あるいはレズビアンの女性が異性に「移行」すれば、その同性愛的な愛は倒錯した形で「異性愛的」となり、その一方で、異性愛の男性や女性が異性に移行すれば、その異性愛的な愛はさらに倒錯した形で「同性愛的」となります。
悲劇的なことに、「移行」あるいは「脱・移行」した後、性的欲求自体が破壊され、新しい生命を生み出す能力が完全に損なわれることが頻繁にあります。その結果、新しい生命を生み出す可能性を奪われた関係、性交渉のない関係、そして性的欲求さえも奪われた関係になります。このような場合、自然からの逸脱がまさに完全になるため、自然な欲求がすべて破壊されてしまうのです。このようなイデオロギーによる真の犠牲者である「移行」手術を受けた人々が、若い年齢であっても自殺を考えることが頻繁にあるのも不思議ではありません。
今、学校や法律で、トランスジェンダー・アジェンダ(行動計画)の押しつけに最も率直な反対意見を持っている人々は、このような犠牲者たちなのです。