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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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聖なる夜、天主の無限の愛が私たちに現れた

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 12月25日、主の御降誕の大祝日に大阪で行った聖伝のミサ(真夜中のミサ)のお説教をご紹介いたします。


天主様の祝福が豊かにありますように!

2015年12月25日 主の御降誕【真夜中のミサ】
小野田神父 説教



 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 愛する兄弟の皆さん、私たちの主イエズス・キリストの御降誕のお喜びを申し上げます。今日のこの御ミサの直後に、幼きイエズス様の御足の接吻をする、というローマの伝統に従った儀式を行いたいと思います。御ミサの直後に、御聖体拝領の感謝の祈りの後に、またこの前に跪いて、イエズス様に礼拝を捧げて下さい。その後、簡単な御降誕のお祝いの小さなパーティーがあります。

 愛する兄弟の皆さん、日本でもこのクリスマスは、聖夜と呼ばれ、多くの人たちが、この夜をイルミネーションで飾り、クリスマスのプレゼントを交換する、クリスマスギフトを送るという事をしています。では、このクリスマスの聖なる夜、一体何が起こったのか、一体誰が、誰の為に何をなさったのかを黙想して、それを受けた私たちがどのような反応をしたのかを黙想して、何か私たちの取るべき決心を立てる事にしましょう。

 今日、2015年前の今日、クリスマスに、牧場にいた羊飼いたちが、羊たちの群れの番をしていると、天使が、天使の光が彼らを包みました。その光があまりにも畏れ多く、威光に満ちて、この世を離れた、とても神々しいものであったので、この眩しい光を見て、「一体これは何なんだろう。」羊飼いたちは恐れました。すると、光に輝く美しい天使が、一位の天使が彼らに現れて、「恐れるな。私はお前たちに大きな喜びを伝える。お前たちの為に、ダヴィドの村に救い主が生まれた。それがキリストである。」と、喜びのメッセージを伝えました、「大きな喜びをお前たちに告げる。」と。

 そのメッセージを伝えると、一位の天使と共に、天軍の、天の軍隊の天使たちが、数千、数万、数億と、数え切れないほどの天使たちが光輝いて、天を覆って、大きな声で主を賛美しながら、「天のいと高き所には天主に栄光あれ。この地上には、善意の人々に平和あれ。」と歌を歌って、その天上の美しい歌を、光に満ちて歌って、それを羊飼いたちは目を大きくして、驚きと喜びに満たされて、「救い主が生まれた!その天も地も喜んでいる。」という事を見て、「さあ、では私たちはその救い主を拝みに行こう!」と、その救い主を探して、羊飼いたちは、そのそこに救い主を、イエズス様を探して、そこに目指して行った、という事が起こったのです。

 ですから、このクリスマスの夜は、本当に聖なる夜であって、光に満ちた、歌に満ちた夜なのです。天主様が人間に最高の贈り物をした夜です。何故最高の贈り物かというと、天主が私たちに下さったのは、単なる金や銀や、或いはダイヤモンドや、或いは食べ物など、朽ちる被造物ではなく、天主様が私たちの為に与えて下さったのは、天主の御一人子、永遠の天主の御言葉、聖父と全き栄光と、全能と、全知を持つ、天主三位一体の第2のペルソナが人となって、私たちの為に与えられた、私たちの為に生まれた、私たちの救い主として与えられたからです。

 「天主が人となった」という事を考えてみて下さい。天皇陛下が、地震にあった被害者をお見舞いに行って、「どうですか。大変でしたね。」と言って、膝をついて、顔と顔を合わせて、目線を低くして、「大変でしたね。」と、慰労して慰めるのを見ると、「あぁ、天皇陛下は本当に優しい方だ。天皇陛下はご謙遜な方だ。」と思いますが、天主様が、永遠無限の全能の天主が、天使たちもその言葉一つによって全地を駆け巡る天主が、この全宇宙でさえもそれを抱えきる事ができないほどの天主様が、何万光年、何光年、光の速さで行っても行っても行っても、何万年行っても、その端が見えないほどの、それをその宇宙を大宇宙を創った天主が、小さな子供となって、赤ちゃんとなって、私たちの為に生まれた、というのみで、私たちはどれほど、その御謙遜と優しさに感謝しなければならないでしょうか。

 聖パウロは今日の書簡で、「天主の、私たちの主、天主の御恵みが、私たちに現われた。」と言います。天主様の目に見えない愛が、目に見える形となって現れました。この聖なる夜は、天主様が私たちに示す愛の夜でもあります。

 天主様は一体、誰の為に人となったのでしょうか。それは、私たち人類の、私たちの為、皆さんと私の為でした。私たちは、ちょうど天主様の大きな大海の海の中に泳ぐ小さな魚のような、本当にもう僅かな、ゴミだか塵だか分からないようなものですが、その私たちの為に、私たちの救いの為に、私たちが天主の命を得る事ができるように、私たちが天主と共に、永遠の喜びに入る事ができるように、永遠の命に入る事ができるように、死ぬべき命をとって生まれて来ました。

 私たちが、か弱い私たちが天主様の力を得る事ができるように、救いの力を得る事ができるように、か弱い姿をとられ、今日お生まれになりました。私たちが天に昇る事ができるように、地上に降りて来られました。

 つい最近、私の記憶が正しければ、金星の惑星に、衛星が軌道にのるかのらないか、失敗するか、失敗しないか、それが成功した、「金星の惑星についた」と、「その軌道にのった」というような記事を読んだのですけれども、しかし天主様は、天からこの地上に降りて、人間として、私たちの救いの為に降りて来られました。私たちの為に。

 何故、ではこのような幼子の姿をとられたのでしょうか?何故かというと、私たちがこの天主に近寄る事ができるように、天主が私たちをどれほど愛しているか、という事を私たちが見る事ができるように、私たちの愛を引き寄せる事ができるように、わざと、大人ではなく、王様の帝王の姿ではなく、か弱い、私たちの一番弱い、何もすることのできない、一番弱い状態の姿でお生まれになりました。この姿を見せる事によって、私たちもイエズス様を愛する事ができるように。

 私の知っているお友達は、とても動物が好きで、猫が好きで、猫を側にいつも居て、「あぁ、この猫は死んでしまうんではないか。猫を看取りたい。猫から離れると、猫からちょっと悪く思われるんじゃないか。」と思って、猫を大切にしているお友達がいます、とても心の優しいお友達です。私たちは、小さなか弱い動物や、か弱い赤ちゃんや、小さなものを見ると、「あぁ、可愛いなぁ。」と思って、それを「大切にしたい。」と思います。それが人情ではないでしょうか。イエズス様も、私たちからの愛を受けようと、私たちへの愛を見せると同時に、私たちからの愛を受けようと、このような姿をとりました。

 では、この世の人たちは、どのような態度を取ったでしょうか。確かに羊飼いのように、その光を見て、「あぁ、さぁじゃあ私たちも行こう!」と「その救い主を見に、礼拝しに行こう!」と、言う人々もいました。東の博士のように、はるばる遠くから旅行をして、イエズス様のこの御降誕に合わせて、この星に導かれて来られた方もいました。しかし、人類の大部分は、ほとんどの人々は、イエズス様を認めませんでした。イエズス様を受け入れませんでした。イエズス様を受け入れる場所がありませんでした。イエズス様がお生まれようとしたのに、それを拒みました。イエズス様が天主であるにもかかわらず、人となって、幼くなって、か弱くなって、「さあ、私を愛して下さい。」と言って生まれて来たにもかかわらず、人々は、「嫌だ」「断る」「入って来るな」「邪魔だ」と言って、イエズス様を、イエズス様に入る隙間も与えませんでした。

 考えてもみて下さい。もしも天皇陛下が、「さあ、聖ピオ十世会の皆さん、お友達になりたいと思います。さあ、お友達になって下さい。」と言ったら、「あぁ、もちろん陛下、何という名誉でしょうか。お友達になります。そのようなお言葉を聞いて本当に名誉です。」と、私たちは言うではないでしょうか。「あぁ、私は有名な作家の何とか何とかが、私は友達なんだよ。」「映画俳優の何とかは、僕の友達なんだ」と、「高校の同級生なんだ。あぁ、何とか大臣の、総理大臣は私の同級生でね、」「この政治家の市長様は私はいつも電話をしているんだ。」と、お友達がいるというのを大切に思うではないですか。動物でさえも、友達にしたいと思うではないですか。

 でも、イエズス様の場合にはそうではありませんでした。イエズス様だけは友達になりたくない、イエズス様だけは受け入れない、と、多くの人はイエズス様を認めませんでした。イエズス様を救い主として、救世主として、真の天主として、礼拝する事を拒んだのです。拒みつつあります。イエズス様がこうやって御謙遜に幼子になっているにもかかわらず、「イエズス・キリストの前に跪いてはいけない。」と、言う人さえいます。

 聖書によれば、イエズス様の前で、羊飼いも、3人の博士たちも、「礼拝した“adoraverunt”」と書かれています。つまり、この「礼拝した」というのは、天主として認めて、自分が被造物である、と言う事を認めて、最も低い態度をとった、という事です。それをさえ、「してはいけない」と、言われています。

 イエズス様は、イエズス様は2000年前、生まれる場所がありませんでしたが、イエズス様が私たちの心に入ろうとする時に、それを拒む人がいます。例えお生まれになったとしても、生まれた直後であったとしても、ヘロデのように、イエズス様を亡き者にしようと、「あぁ、そうか、博士よ、救い主は生まれたか。でも救い主に私の地位を譲る事はできない。救い主よりも私の方が大切だ。救い主の前に膝をかがめるよりも、救い主は邪魔者だ。救い主イエズス・キリストは亡き者でなければならない。私が、私の思い通りの事をする為に、キリストに道を譲る事はできない。」と。イエズス様を死に追いやろうとした王もあります。

 ヘロデは私たちの、憐れな罪人である私たちのかたどりでもあります。私たちはどれほどイエズス様を受け取りつつも、イエズス様を、罪の赦しを受けてイエズス様を私たちの心に受け取りつつも、イエズス様よりも大罪を好む事によって、「あぁ、イエズス様、やっぱりもういりません。私は自分の思い通りの事をします。イエズス・キリスト、あなたは邪魔です、邪魔者です。」と、言って、大罪を以って、私たちの中に住む天主の聖寵を殺し、イエズス様を追い出し、「イエズス様の住む、イエズス様の場所はもう無い。」と、何度言ってきた事でしょうか。そし罪を犯すたびに、このヘロデの虐殺と同じような事を私たちは繰り返してきました。ベトレヘムの住民たちが聖家族にした事と同じような事を繰り返して来ました。私はイエズス様をどれほど心から、霊魂から追い出してきた事でしょうか。イエズス様に冷たい態度を取った事でしょうか。イエズス様に、「あなたの場所はありません。さあ、さあ!」と、追い払った事でしょうか。

 では、私たちは今日このクリスマスに、この聖なる光に満ちた天主様からの贈り物のクリスマスに、一体どのような決心をしなければならないでしょうか。

 愛する兄弟の皆さん、この2015年のクリスマスに、この今日この年は、私にとってとても、とても特別な聖なる年です。何故かというと初めて、司祭となって初めて、日本でクリスマスの真夜中のミサをする事ができているからです。

 今年、聖ピオ十世会は、日本で初めて主の御降誕の真夜中のミサをしています。

 もう金輪際、イエズス様を、この今年のクリスマスから、もう絶対に悲しませることのないように、もうイエズス様を泣かせる事がないように、私たちの為に生まれたイエズス様に、もう「どっかに行け。」と、言ってしまう事がないように、「イエズス様、私の心を温めて下さい。私の心をきれいにして下さい。」「私がいつもイエズス様を迎えて、イエズス様が私の心を叩く為に、どうぞイエズス様、思召しの通りになさって下さい。」「私の小さな住処にいらして下さい。どうぞイエズス様、私の全てとなって下さい。イエズス様、私の心に来て下さい。もうイエズス様を追い出してしまう事がないように。」遷善の決心を立てる事に致しましょう。「もしもイエズス様と被造物、イエズス様と私のどっちを取るか、という時には、イエズス様どうぞ、御あわれみによって、常にイエズス様の御旨とイエズス様を取る事ができるように、例えそれが私にとって犠牲を払わなければならない事であったとしても、聖家族を私の胸に迎える事ができるように助けて下さい。」と、お祈り致しましょう。

 第2には、イエズス様は、イエズス様は私たちの心に入りたい、入りたい、行きたい、私たちの心に生まれたい、と思いつつも、多くの心はイエズス様を閉ざしています。その心が開かれるように、私たちが代わりにお祈りして、犠牲を捧げて、私たちがイエズス様に代わりにその礼拝を捧げて、愛を捧げて、「どうぞそのような人々の心を開いて下さい。イエズス様、この彼らの心に生まれる事ができるように助けて下さい。」とお祈り致しましょう。

 ファチマの天使は、ポルトガルの守護の天使は、イエズス様、御聖体の前で跪いて、額ずいて礼拝して、「私は御身を信じ、御身を礼拝し、御身に希望し、御身を愛し奉る。私は御身を信じない人々の為に、礼拝しない人々の為に、希望しない人々の為、愛さない人々に代わって、愛し、礼拝し、希望し、信じます。」と、何度も何度も繰り返して礼拝していました。子供たちもそれを真似して礼拝していました。私たちもそれを真似する事ができますように、このクリスマスから真似する事ができますように。

 この、今日、イエズス様がお生まれになった、私たちの為に、救い主がお生まれになった、という事を聞いて、天使の喜びの声を聞いて、光に満ちた、その天軍の声を聞いて、私たちもイエズス様の元に駆け走る、参ずる事に致しましょう。イエズス様の元に近付いて、「イエズス様、私はこうやってイエズス様の前に近付き、馳せ参じ、跪いて、額を地に付けて、御身を礼拝致します。御身を愛し奉ります。御身を信じ、御身に希望します。」と、礼拝を捧げる事にしましょう。

 最後に、羊飼いたちは、マリア様を見て、マリア様と共に居るイエズス様を見ました。ですから私たちも、イエズス様が与えられますように、私たちの心にイエズス様が生まれますように、いつも、この生まれたイエズス様を離す事が無いように、マリア様に御取り次ぎを乞い求めましょう。マリア様は汚れの無い御方で、無原罪の御宿りで、汚れ無い御心で、決して天主を悲しませたり、イエズス様を追いやったり、聖霊を追い払ったりする事はありませんでした。マリア様の御取り次ぎによって、私たちが相応しく主を礼拝して、讃美して、感謝して、愛して、良き御降誕節とする事ができますように、お祈り致しましょう。

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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