アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
12月25日、主の御降誕の大祝日に大阪で行った聖伝のミサ(日中のミサ)のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
2015年12月25日 主の御降誕【日中のミサ】
小野田神父 説教
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
今日の、クリスマスの、主の御降誕のお祝いを申し上げます。このミサの直後に、感謝のミサの後の祈りをした後に、ローマの習慣に従って、イエズス様の御足に接吻をする儀式を行いたいと思います。どうぞ皆さん、1日何度も接吻をなさって下さい。イエズス様に、愛と感謝で迎え入れるようになさって下さい。それから、今日はクリスマスの大祝日ですので、公教要理はお休みで、簡単なスナックなどが用意されております。また明日、10時30分から土曜日のミサがあります。大晦日の12月31日には、夕方18時30分から。お正月、新年1月1日には、新年のミサが10時30分から、朝の10時30分から。土曜日には、2日の土曜日には10時30分からミサがあります。どうぞいらして下さい。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
今日、入祭誦では、“Puer natus est”“filius datus est nobis”と、歌いました。幼子が私たちの為に生まれ、御子が私たちに与えられた。では、今日御ミサでは、一体何の為に、幼子が私たちの為に生まれ、御子が私たちに与えられたのか、その何故かを黙想し、第2に、この幼子、御子をお喜ばせする為にはどうしたら良いのかを黙想し、最後に遷善の決心を立てる事に致しましょう。
一体、幼子は何故、私たちの為に生まれたのでしょうか。それは、私たちを愛して、私たちに永遠の命を与える為でした。私たちに真の平和を与える為でした。私たちを天主の子とする為でした。私たちを、私たちの罪を赦す為でした。私たちにはどうしても償いを果たす事の出来ない、その罪を全て償って、全く赦し、私たちを御父の元に連れて行く為でした。幼子は私たちを、ただ単に赦す為に、お生まれになったのでした。
私たちは天主に対して、一体どんな良い事をしたのでしょうか?何か良い功徳を積んだのでしょうか?何かその赦しを得るに相応しい何かがあったのでしょうか?
いえ、全くありませんでした。しかし、天主の御あわれみと、その良さによって、ただ単に天主が良い御方であるので、私たちを赦そう、私たちをひたすらに赦そうと思って、御子を与えて下さいました。私たちに命を、永遠の命を与える為に、赦す為に、人となり給うたのでした。幼子となったのでした。
考えてもみて下さい。私たちがもう不治の病で、もう命が無い、どうしても、どうしても助からない。ただし、唯一、助かる方法がある。それは、誰かが、健康な、病気を一つもした事がないようなとても健康な人が、その臓器を、体の一部を、それを取って私に与えて、その血液もほとんど皆私にくださったら、輸血をしたら、私の命は助かるかもしれない、助かる。でもそれは非常に危険な手術で、その臓器を提供したり、献血をする人は、とても痛い思いをしなければならないし、苦しい思いをしなければならないし、命は、死ぬ事はないけれども、しかし一生、不便な思いをして生きて行かなければならない、という人がいたら、でも、でも私の所にやって来て、「あぁ、あなたの事を愛しています。どうぞ私の体の一部を使って下さい。私の血をあげます。」という人がいたら、本当に私は感謝して、どうやってお礼を言ったら良いでしょうか。本当にもうこの人の為に、一生お礼を言って、何をどうやって恩返しをしたら良いか分からないほどです。
イエズス・キリストは、真の天主の御子は、単なる人間であったとしても、それほどの感謝をするべきなのに、真の天主の御一人子は、私たちに永遠の命を与える為に、私たちを生かす為に、御自分を、御自分の御血を全く流して、私たちを御自分の御体で養う為に、子供となって、幼子となって、今日、お生まれになりました。
何という私たちにとって、愛と喜びと平和の日であるでしょうか。私たちはこのイエズス様に、何と感謝と愛を捧げなければならないでしょうか。しかし、そのような事実を知りながら、天主御子イエズス・キリストが、私たちの為に人となって、「我らの救いの為に人となり、」と、例えば使徒信経で言ったとしても、一体私はその意味をどれほど深く考えたでしょうか。イエズス様から与えられたその永遠の命を、どれほど粗末に扱った事でしょうか。永遠の命と引き換えに、天主の御聖寵と引き換えに、つまらない地上での楽しみや、ほんの瞬間の罪、或いは嘘、或いはほんのちょっとした利益の為に、それを取り換えてしまった事が、どれほど多かった事でしょうか。
考えてもみて下さい。その私に輸血をして、臓器を与えて、「さぁ、健康になって下さい。」と言った人に対して、私が、「あぁ、もうあなたなんかいりません。邪魔です。」と言ったとしたら、その人はどれほど傷付く事でしょうか。或いはせっかく頂いた臓器も、乱暴に、また健康を壊すような事をして粗末にしたら、一体誰がもう1回、そのような大切な臓器を私たちに下さる方がいるでしょうか。誰が一体献血して、「さあ、もう1回血を受けて下さい。さあ、もう1回手術をして下さい。」と言う方がいるでしょうか。
イエズス様は、何度も何度も、私から冷たい思いをされながらも、その度に、私たちにあわれみと、赦しと、慈悲を、何度も何度も下さり続けました。御血を、御血によって私の罪を赦し、また赦し、また赦し、それを何度も何度もして下さいました。その為に、イエズス様は幼子となられました。
一体、このイエズス様にどうやって、どうやって感謝したら良いでしょうか?どうやってお喜ばせしたら良いでしょうか?
第2のポイントです。この幼子イエズス様を、私たちはもはや悲しませたくない、お喜ばせしたい、と思います。ではどうしたら良いでしょうか?「幼子は、幼子のやり方がある。」と聖人たちは言います。イエズス様は大人となって、この権威ある王として、私たちを処罰する、裁く、或いは、「こうだ、こうだ」と言う者として、お生まれになったのではなく、何もする事のできない、小さな、か弱い赤子となって生まれて下さいました。この赤子は怒る事を知りません。知っているのは、泣く事と、笑う事です。赤ちゃんに、こうちょっとだけこう笑顔を見せると、「いない、いない、ばあ」を見せると、赤ちゃんはニコニコとして、けらけらと笑います。イエズス様をどうしてお喜ばせしたら良いでしょうか?
イエズス様をお喜ばせするのはいとも簡単です。それは、私たちが過去の罪を悔い憎んで、悔い改めて、イエズス様に、痛悔の涙と痛悔の念を捧げる事で、イエズス様はニコリと満足致します。
昔、中国でのことです。周の王であった幽王という王様の所で、非常に美しい褒姒(ほうじ)というお姫様がいたそうです。そのお姫様は、とても絶世の美女で、とても美しかったのですけれども、ニコリともしなかったそうです。王様が何を、色々な事をして笑わせよう、喜ばせようとするのですけれども、ぶすっとしていて、何も笑おうとしない。するとある時に、何かの間違いで、敵が来たという事で警報を鳴らして、王様の軍隊が大勢集まって来て、「さあ、敵が来た!」という事で、整列を揃えて、戦いに備えているのですけれども、実はそれが間違いで、誤報だった、という事が分かると、皆が兵隊たちが、「あぁ、何だ。」と言って、引き返して行きます。
それを見て、その王様のお姫様は何か笑ったそうです。王様はその笑ったのを見て、「あぁ、これだ。」と言って、何度も何度もそのような誤報を出して、兵隊を集めて、お姫様を笑わせようとしたそうです。しかし、あまりやってるうちに、兵隊も、「何だ、また。あぁ、嘘だよ、また。練習だよ、また。これ、何でもないよ。」と言って、本物の敵が来た時に、準備ができなくて、この国は滅びてしまったそうです。
イエズス様をニコリと笑わせるには、このように大変ではありません。イエズス様をニコリと笑わせるには、私たちは愛の言葉を、愛の礼拝を、愛の感謝を申し上げれば、それでイエズス様はとても満足です。イエズス様は過去の事などすっかりコロリと忘れて、非常に満足されます。何故ならばイエズス様は、私たちを赦す為に来られたからです。
では、私たちは今日、このクリスマスに、一体どのような決心をしなければならないでしょうか。
ひたすらに、イエズス様をお喜ばせする為に、決してもう今後イエズス様を悲しませることのないように、私たちの大恩人であるイエズス様の心を傷付ける事がないように、私たちは、遷善の決心を立てる事に致しましょう。罪の機会と罪から遠ざかり、イエズス様を、イエズス様をお喜ばせする事をのみする事ができるように、イエズス様に御助けを乞い求めましょう。
第2に、イエズス様は私たちを赦す為に、このすすんで、自らすすんで人となりました。ですから、私たちもイエズス様に倣って、幼子のようになり、私たちの受ける侮辱や屈辱、或いは嫌がらせなどを、心から赦す御恵みを乞い求めましょう。もしかしたら皆さんは、「あぁ、何故、」ちょうど3人の博士たちが言われたように、「何故、そんな遠い所まで、聖伝のミサを与りに行くのか。」「あぁ、そんな救い主は、綺麗な立派な王宮で生まれるのではないか。何故そんな貧しい、みそぼらしい馬小屋なんかで生まれるはずがない。」「ミサはきれいな教会で立てられなければならない。」或いは、色々な悪口や誤解や、悪口を言われるかもしれません。どうぞそのような方々の為にお祈りをなさって、私たちは、罪を、そのような方々の事を、心から寛大に対応するように致しましょう。
或いは、もしかしたら私たちは、本当はこれほど良い事をしたのに、これほど親切をしたのに、これほど相手の為にしたのに、それに対して却ってけなされたり、悪い評価を受けたり、或いは嫌がらせをされたりするかもしれません。それも、イエズス様が受けたその辛い悲しみを思って、お捧げする事に致しましょう。
もしかしたら私たちは、天主様の御摂理によって、本当なら受けて当然の様な事を受けなかったり、或いは辛い境遇にあったり、或いは病気になったり、或いは事故に遭ったり、痛い思いをしたり、損をしたりするかもしれません。それもしかも悪意をもってされるかもしれません。それもイエズス様に、イエズス様の為に赦す御恵みを乞い求めましょう。
第3には、イエズス様はいつもマリア様の元に来られようとしました。マリア様の、マリア様を通してお生まれになり、マリア様の元に30年間従順でいる事によって、最大の栄光を、天主に栄光を帰す事を知っていました。ですから私たちも、イエズス様に倣って、イエズス様のように幼くなり、小さくなり、マリア様の良き子供として生きる事ができるように、お祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
12月25日、主の御降誕の大祝日に大阪で行った聖伝のミサ(日中のミサ)のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
2015年12月25日 主の御降誕【日中のミサ】
小野田神父 説教
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
今日の、クリスマスの、主の御降誕のお祝いを申し上げます。このミサの直後に、感謝のミサの後の祈りをした後に、ローマの習慣に従って、イエズス様の御足に接吻をする儀式を行いたいと思います。どうぞ皆さん、1日何度も接吻をなさって下さい。イエズス様に、愛と感謝で迎え入れるようになさって下さい。それから、今日はクリスマスの大祝日ですので、公教要理はお休みで、簡単なスナックなどが用意されております。また明日、10時30分から土曜日のミサがあります。大晦日の12月31日には、夕方18時30分から。お正月、新年1月1日には、新年のミサが10時30分から、朝の10時30分から。土曜日には、2日の土曜日には10時30分からミサがあります。どうぞいらして下さい。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
今日、入祭誦では、“Puer natus est”“filius datus est nobis”と、歌いました。幼子が私たちの為に生まれ、御子が私たちに与えられた。では、今日御ミサでは、一体何の為に、幼子が私たちの為に生まれ、御子が私たちに与えられたのか、その何故かを黙想し、第2に、この幼子、御子をお喜ばせする為にはどうしたら良いのかを黙想し、最後に遷善の決心を立てる事に致しましょう。
一体、幼子は何故、私たちの為に生まれたのでしょうか。それは、私たちを愛して、私たちに永遠の命を与える為でした。私たちに真の平和を与える為でした。私たちを天主の子とする為でした。私たちを、私たちの罪を赦す為でした。私たちにはどうしても償いを果たす事の出来ない、その罪を全て償って、全く赦し、私たちを御父の元に連れて行く為でした。幼子は私たちを、ただ単に赦す為に、お生まれになったのでした。
私たちは天主に対して、一体どんな良い事をしたのでしょうか?何か良い功徳を積んだのでしょうか?何かその赦しを得るに相応しい何かがあったのでしょうか?
いえ、全くありませんでした。しかし、天主の御あわれみと、その良さによって、ただ単に天主が良い御方であるので、私たちを赦そう、私たちをひたすらに赦そうと思って、御子を与えて下さいました。私たちに命を、永遠の命を与える為に、赦す為に、人となり給うたのでした。幼子となったのでした。
考えてもみて下さい。私たちがもう不治の病で、もう命が無い、どうしても、どうしても助からない。ただし、唯一、助かる方法がある。それは、誰かが、健康な、病気を一つもした事がないようなとても健康な人が、その臓器を、体の一部を、それを取って私に与えて、その血液もほとんど皆私にくださったら、輸血をしたら、私の命は助かるかもしれない、助かる。でもそれは非常に危険な手術で、その臓器を提供したり、献血をする人は、とても痛い思いをしなければならないし、苦しい思いをしなければならないし、命は、死ぬ事はないけれども、しかし一生、不便な思いをして生きて行かなければならない、という人がいたら、でも、でも私の所にやって来て、「あぁ、あなたの事を愛しています。どうぞ私の体の一部を使って下さい。私の血をあげます。」という人がいたら、本当に私は感謝して、どうやってお礼を言ったら良いでしょうか。本当にもうこの人の為に、一生お礼を言って、何をどうやって恩返しをしたら良いか分からないほどです。
イエズス・キリストは、真の天主の御子は、単なる人間であったとしても、それほどの感謝をするべきなのに、真の天主の御一人子は、私たちに永遠の命を与える為に、私たちを生かす為に、御自分を、御自分の御血を全く流して、私たちを御自分の御体で養う為に、子供となって、幼子となって、今日、お生まれになりました。
何という私たちにとって、愛と喜びと平和の日であるでしょうか。私たちはこのイエズス様に、何と感謝と愛を捧げなければならないでしょうか。しかし、そのような事実を知りながら、天主御子イエズス・キリストが、私たちの為に人となって、「我らの救いの為に人となり、」と、例えば使徒信経で言ったとしても、一体私はその意味をどれほど深く考えたでしょうか。イエズス様から与えられたその永遠の命を、どれほど粗末に扱った事でしょうか。永遠の命と引き換えに、天主の御聖寵と引き換えに、つまらない地上での楽しみや、ほんの瞬間の罪、或いは嘘、或いはほんのちょっとした利益の為に、それを取り換えてしまった事が、どれほど多かった事でしょうか。
考えてもみて下さい。その私に輸血をして、臓器を与えて、「さぁ、健康になって下さい。」と言った人に対して、私が、「あぁ、もうあなたなんかいりません。邪魔です。」と言ったとしたら、その人はどれほど傷付く事でしょうか。或いはせっかく頂いた臓器も、乱暴に、また健康を壊すような事をして粗末にしたら、一体誰がもう1回、そのような大切な臓器を私たちに下さる方がいるでしょうか。誰が一体献血して、「さあ、もう1回血を受けて下さい。さあ、もう1回手術をして下さい。」と言う方がいるでしょうか。
イエズス様は、何度も何度も、私から冷たい思いをされながらも、その度に、私たちにあわれみと、赦しと、慈悲を、何度も何度も下さり続けました。御血を、御血によって私の罪を赦し、また赦し、また赦し、それを何度も何度もして下さいました。その為に、イエズス様は幼子となられました。
一体、このイエズス様にどうやって、どうやって感謝したら良いでしょうか?どうやってお喜ばせしたら良いでしょうか?
第2のポイントです。この幼子イエズス様を、私たちはもはや悲しませたくない、お喜ばせしたい、と思います。ではどうしたら良いでしょうか?「幼子は、幼子のやり方がある。」と聖人たちは言います。イエズス様は大人となって、この権威ある王として、私たちを処罰する、裁く、或いは、「こうだ、こうだ」と言う者として、お生まれになったのではなく、何もする事のできない、小さな、か弱い赤子となって生まれて下さいました。この赤子は怒る事を知りません。知っているのは、泣く事と、笑う事です。赤ちゃんに、こうちょっとだけこう笑顔を見せると、「いない、いない、ばあ」を見せると、赤ちゃんはニコニコとして、けらけらと笑います。イエズス様をどうしてお喜ばせしたら良いでしょうか?
イエズス様をお喜ばせするのはいとも簡単です。それは、私たちが過去の罪を悔い憎んで、悔い改めて、イエズス様に、痛悔の涙と痛悔の念を捧げる事で、イエズス様はニコリと満足致します。
昔、中国でのことです。周の王であった幽王という王様の所で、非常に美しい褒姒(ほうじ)というお姫様がいたそうです。そのお姫様は、とても絶世の美女で、とても美しかったのですけれども、ニコリともしなかったそうです。王様が何を、色々な事をして笑わせよう、喜ばせようとするのですけれども、ぶすっとしていて、何も笑おうとしない。するとある時に、何かの間違いで、敵が来たという事で警報を鳴らして、王様の軍隊が大勢集まって来て、「さあ、敵が来た!」という事で、整列を揃えて、戦いに備えているのですけれども、実はそれが間違いで、誤報だった、という事が分かると、皆が兵隊たちが、「あぁ、何だ。」と言って、引き返して行きます。
それを見て、その王様のお姫様は何か笑ったそうです。王様はその笑ったのを見て、「あぁ、これだ。」と言って、何度も何度もそのような誤報を出して、兵隊を集めて、お姫様を笑わせようとしたそうです。しかし、あまりやってるうちに、兵隊も、「何だ、また。あぁ、嘘だよ、また。練習だよ、また。これ、何でもないよ。」と言って、本物の敵が来た時に、準備ができなくて、この国は滅びてしまったそうです。
イエズス様をニコリと笑わせるには、このように大変ではありません。イエズス様をニコリと笑わせるには、私たちは愛の言葉を、愛の礼拝を、愛の感謝を申し上げれば、それでイエズス様はとても満足です。イエズス様は過去の事などすっかりコロリと忘れて、非常に満足されます。何故ならばイエズス様は、私たちを赦す為に来られたからです。
では、私たちは今日、このクリスマスに、一体どのような決心をしなければならないでしょうか。
ひたすらに、イエズス様をお喜ばせする為に、決してもう今後イエズス様を悲しませることのないように、私たちの大恩人であるイエズス様の心を傷付ける事がないように、私たちは、遷善の決心を立てる事に致しましょう。罪の機会と罪から遠ざかり、イエズス様を、イエズス様をお喜ばせする事をのみする事ができるように、イエズス様に御助けを乞い求めましょう。
第2に、イエズス様は私たちを赦す為に、このすすんで、自らすすんで人となりました。ですから、私たちもイエズス様に倣って、幼子のようになり、私たちの受ける侮辱や屈辱、或いは嫌がらせなどを、心から赦す御恵みを乞い求めましょう。もしかしたら皆さんは、「あぁ、何故、」ちょうど3人の博士たちが言われたように、「何故、そんな遠い所まで、聖伝のミサを与りに行くのか。」「あぁ、そんな救い主は、綺麗な立派な王宮で生まれるのではないか。何故そんな貧しい、みそぼらしい馬小屋なんかで生まれるはずがない。」「ミサはきれいな教会で立てられなければならない。」或いは、色々な悪口や誤解や、悪口を言われるかもしれません。どうぞそのような方々の為にお祈りをなさって、私たちは、罪を、そのような方々の事を、心から寛大に対応するように致しましょう。
或いは、もしかしたら私たちは、本当はこれほど良い事をしたのに、これほど親切をしたのに、これほど相手の為にしたのに、それに対して却ってけなされたり、悪い評価を受けたり、或いは嫌がらせをされたりするかもしれません。それも、イエズス様が受けたその辛い悲しみを思って、お捧げする事に致しましょう。
もしかしたら私たちは、天主様の御摂理によって、本当なら受けて当然の様な事を受けなかったり、或いは辛い境遇にあったり、或いは病気になったり、或いは事故に遭ったり、痛い思いをしたり、損をしたりするかもしれません。それもしかも悪意をもってされるかもしれません。それもイエズス様に、イエズス様の為に赦す御恵みを乞い求めましょう。
第3には、イエズス様はいつもマリア様の元に来られようとしました。マリア様の、マリア様を通してお生まれになり、マリア様の元に30年間従順でいる事によって、最大の栄光を、天主に栄光を帰す事を知っていました。ですから私たちも、イエズス様に倣って、イエズス様のように幼くなり、小さくなり、マリア様の良き子供として生きる事ができるように、お祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。