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フェレー司教の霊的講話「カトリックの真の従順は、必ず天主に対する従順です。聖トマス・アクイナスがすでに問い、かつ完璧に答えました。」

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2023年1月29日(日)フェレー司教様霊的講話

「カトリックの真の従順は、必ず天主に対する従順です。聖トマス・アクイナスがすでに問い、かつ完璧に答えました。」

親愛なる信徒の皆様、
小野田神父様から霊的講話をするようにと依頼されたので、今日は二つ重要な点を申し上げたいと思っています。

第一点は、今の教会の状況が非常に悪化しているので、大きな疑問が起きています。その疑問とは、従順に関してです。私たちは従順というものをどう考えたら良いのだろうか、ということです。

もう一つは、やはり教会の内部で起きている状況が非常に悪くなっているので――私たちが持つべき徳は希望の徳です――ですから、希望の徳についてお話ししたいと思っています。

まず第一のポイントとして、皆さんが今日ここに、つまり教会の中ではなくて教会の信徒会館ではなくて、このような場所にいらしてミサをしたりいまお話を聞いていらっしゃるのは、それはある一人の司教様が「違う!」と言ったからです。この司教様は「新しいミサを立てない!」とおっしゃって、そして教会の中に新しい新奇な特別のことを導入するといったときに「いや、それはしない!」とおっしゃったので、私たちは今ここにいます。

しかし、この新しいものを取り入れないとか教会の法を変えないという態度のために、この司教様は「不従順だ」とか、あるいは「反抗している」とか、「反乱を起こしている」などというレッテルを貼られました。これは50年以上前の話で、今でもそうです。ですから私たちは、もっと否定的な反乱とか反抗とか離教とかあるいはその他の名前をつけられて、捨てられているかのような表現を受けています。

カトリック信者にとって、従順というのは最も大切な基本的なことです。なぜかというと、従順というのは私たちの意志を天主に服従させて天主に従わせるということにあるからです。そして天主の御旨に従わせるのみならず、天主の権威を代表している方々である人間にも、従わせるからです。なぜかというと、私たちにとっての目上の“権威”は、天主の声を代表するからです。もちろん私たちにとって、完璧な全知全能の天主に対して「はい、従順にします。従います」というのは簡単です。しかし、不完全で間違いを起こすことができる人間に、「はい、あなたに従います」というのは、時には大変な難しいところがあります。でも人間の権威は天主の意志を代表しているので、 私たちは従わなければなりません。天主はこの従順を望んでおられます。私たちが従順であることを望んでおられます。

その最も良い模範が、私たちの主イエズス・キリストです。フィリピ人への手紙の中に「イエズス・キリストは死に至るまで、十字架の死に至るまで従順だった」と書かれています。御父に最後まで、全く完全に従順になられたということです。では、もしもイエズス様がそうであったのならば、私たちはどこまで従順であるべきなのでしょうか。すべてにおいて従順であるべきなのでしょうか。

ところで私たちは、この問題について、この答えを発見する必要はありませんでした。なぜかというと、13世紀にすでに聖トマス・アクイナスという立派な神学者が、このことについて問いをかけて、それに対して完璧な答えを与えているからです。聖トマス・アクイナスは、「私たちは常に教会の長上たち、つまり司教様や教皇様たちに、いつでもすべてにおいて従順であるべきだろうか」という問いを立てて、それに回答しています。

聖トマス・アクイナスによると、私たちが長上からの命令に「いいえ、それには従うことができません」と言う時に、「はい」ということができない時に、三つの状況があると言います。そのときに従うことができないというのは不従順のように見えるんだけれども、しかしそれは不従順ではないと言っています。

その最初のケースは簡単なものです。それは、長上の命令が天主の命令に直接に反対している時です。これは、長上が天主の名前によって発言・命令しなければならないのに、その天主に逆らっているのですから、これは権威の濫用だと言わなければなりません。

この例は、つい最近ありました。たとえば、家族に関するシノドにおいて、教皇様はアモーリス・レティティア(Amoris Laetitia)という有名な文書を発表しました。それによると、結婚した人が、結婚した相手と離れて、誰か別の人とあたかももう一度結婚したかのように一緒に住んでいる人が、御聖体拝領をすることができるか否か、という問いに、このアモーリス・レティティアというものによれば「できる」という方向に書かれています。

これはイエズス様がおっしゃったこととは、全く正反対のことです。なぜかと言うと、もしも結婚した人が離れて他の誰かと一緒になるならばそれは姦淫の罪を犯すことになるのだ、とおっしゃっているからです。姦淫の罪というのは重大な罪であって、これは大罪の状態です。で、そのような状態においては、罪の状態においては、御聖体拝領をすることができません。ですから、本来ならばこのような人たちには御聖体拝領をすることができないのにもかかわらず、その文書には「できる」というように書かれています。ですから、私たちが「そうではありません」という時に、これは天主に対して不従順であることではありません。なぜかというと、教皇様や司教様たちが天主様の命令に反することを教えているからです。

アモーリス・レティティアの8番、しかもその脚注に、離婚して再婚した人が御聖体拝領をすることができるというようなことが書いてあるのですけれども、この書き方があまりにも曖昧なので、これを解説する司教様たちでさえも、中には互いに反対の解釈をする司教様たちがいます。

たとえば、アルゼンチンではこの司教様たちが、このところを見て「あぁ再婚した人たちは御聖体拝領をすることができる、OK だ!」といいます。でもポーランドの方は「だめだ!」「けっしてできない」といいます。ドイツでは「できる!」といいます。ですから司教様たちにおいても意見が違っています。

私は、実際にアルゼンチンの一人の司教様にお会いしました。この司教様は、現役時代に自分の教区の信徒たちに司教書簡を出して、教皇様のアモーリス・レティティアの解説をして、「離婚してしまってそして再婚した人は、御聖体拝領をすることができない。私たちはそのような方に御聖体を配ることができない。」と書きました。すると、この司教様は、そう書いたがために、ローマによって司教を首にされました。罰を受けました。

ではいったい、本当の従順というのはどこにあったのでしょうか。この司教様こそが本当に従順でした。昔からのイエズス様の教えに従順でした。なぜかというと、私たちのカトリックの従順というのは、超自然の従順であって、必ず「天主に対する従順」であるからです。どのような人間に対しても従順という、人間的な従順のことではないからです。

カトリックの従順というのは、こうです。「私は自分をこの人のもとに従わせる、なぜかというと、この人において天主の権威を認めるからだ」と。「この人は天主を代表しているからだ」と。「正当な代理者であるからだ」と。これがカトリックです。ですから、もしも天主の掟に反するときには、私たちは、人間の命令に「それはできない」と言わなければならない時があります。もしもそうできないと言ったがために、人間の当局からは罰を受けるかもしれません。しかし、不従順ではありません。 

第二のケースです。これは理論的には非常に単純で、何をしたらよいか、もう誰でもわかるものです。しかし実際にこれを実践するには大変です。どういうことかというと、自分の直接の上司がそれよりもさらに高い上司と反対の命令を私たちにする時です。もちろん、私たちは理論としては、その上の権威に従う、もっとも高い権威の望みに従うべきです。しかし直接の上司がやっていることを、その上の上司は知らないかもしれません。そしてその直接の上司が自分の思い通りに私たちが動かないがために、私たちは罰せられるかもしれません。つまり権威を濫用するかもしれません。このことは本当に起こりました、教会の中で。

この実際の例を――これは私たちにとって非常にデリケートなので本当はこう説明したくないのですけれども、少し説明させてください。教会の中で最も高い権威というのは教皇様ですから、教皇様がサインした教会法というのがありますが、その教会法というのはすべてのカトリック信者に適用されるべきもので、私たちが従わなければならない法律のことです。掟です。

ところで、この教会法によると、新しい教会法によると、全てのカトリック信者は御聖体拝領のやり方を選ぶ権利があると言われています。口によって聖体拝領するか、あるいは手によるかは自由に選ぶことができるとあります。もちろん、私たちは手による聖体拝領に反対していますし、そのような権利があるとは私たちは思っていませんけれども、しかし、新しい教会法によると手と口と両方に権利があると言われています。まあこれがあるとしましょう。これは教皇様によって発布されたものですから、これは全てのカトリック信者に与えられた権利と考えられています。

ところで、コロナのために世界中で、司教様や司祭たちが口による御聖体拝領を禁止しました。手による聖体拝領を押し付けました。しかし、それは教会法に反していることです。なぜかと言うと、教会法では、私たちは口で聖体拝領することができるとしているからです。ですから私たちは「いや、私は教会法に従って口で聖体拝領をします」とか「教会法に従います。従順にします。」ということができます。それが最も高い法律であるからです。しかし、司教様がそれはだめだというと、いったい私たちはどうなるのでしょうか。

実際に起こった例があります。二つの神学校が、教会法に従ったがために、二つとも廃止されました。 一つはハンガリー 、もう一つはアルゼンチンで起こったことです。2021年に廃校になりました。なぜかというと、そこの二つの神学校の神学生たちが、全員、司教様の命令にもかかわらず、 皆教会法に従いたい、つまり口によって御聖体拝領をしたいといって、手による聖体拝領を皆拒否したからです。そのために司教様は、その神学校を閉鎖してしまいました。国も違えば状況も違いましたけれども、原理は同じでした。しかもそのうちの一つの神学校の廃止については、ローマがそれをよろしいと認可しました。つまりこの神学生たちは、教会法の通りに行動していたにもかからず、司教様の権力の濫用によって罰を受けてしまったのです。彼らは罰を受けたにもかかわらず不従順ではありませんでした。なぜかというと教会法に従っていたからです。権威の濫用による罰を受けるということは、だからといって不従順ということではありません。可哀想なのは、このような被害を受けた人々で、多く苦しまなければなりませんでした。

第三のケースは、ちょっと複雑です。しかしこのことを理解すると、従順とは何かということに、光りをよくあててくれます。私たちは従順にしなければならないのですけれども、その命令を下す方が、もしも自分の持っている権威以外のところを命令するときに、それは私たちを縛る力がありません。私たちは従順する義務はありません。

これはちょっと複雑かもしれませんけれども、説明します。たとえば、この一番よい例が裁判所です。裁判官がもしも何かこう訴訟を受ける時には、そのときに自分の管轄下にあるかどうかを調べます。そして、自分がそれに審判を下すことができる力があるかどうかを、まず見ます。たとえば大阪で起こったケースを、誰かが、札幌のテリトリーしか裁判することができない裁判官に持って行っても、ここは大阪のケースを扱う所ではありません、と言われるだけです。それはテリトリーだけではなくて、どのようなケースを取り扱うかということもあります。たとえばある裁判所では、刑法・犯罪に関する告訴を取り扱う権威を持っている、そういう力を持っている、裁治権を持っている。ところがあるところは、たとえば遺産の相続に関する民法のものを取りあつかうところもあるかもしれません。ですからそのようなところに犯罪のケースが上がっても、それはお門違いということです。これは裁判所のみならず、人間の組織のどのところでもこれがあたります。教皇様にとっても同じです。なぜかというと、教会も人間たちがつくる組織だということができるからです。教皇様も地上における最高の権威を持っていますけれども、しかし教皇様の権威とて無限ではなくて、限界があります。

第三のケースの最も基本的な原理というのは、これです。いろいろな団体組織は違いがあります。いったいなぜ違いがあるのでしょうか。それは設立された目的が違うからです。ゴールが違うからです。確かにいろいろな人々が集まって、いろいろな組織がつくられていますけれども、それはある特定の目標のためにあります。そしてそこにある長上、責任者あるいはボスは、そこのメンバーの意志を一つにして、その目的に向かって到達することができるようにするためにあります。ですから、励ましたりとか、動機付けをしたりとか、あるいは規則を作ったり、そして人々を一つにまとめて、その目的に容易に到達できるようにするのです。これは全ての団体について言えます。例えばスポーツクラブとか、あるいは銀行、あるいは学校、あるいは教会についても同じです。人々がある特定の目的のために集まって、そして権威が与えられているという構造があります。組織があります。でもその権威というのは、権威があるというのは、その目的に到達するために与えられた権威です。ですから、もしも長上が、その設立された団体の目的以外のことを命ずる時に、その力がありません。その範囲外と言わなければなりません。

例えば、スポーツクラブの監督が、選手に、トレーニングではなくて誰それと結婚しなさいと命令したとしても、それは監督のテリトリーの権威の外にあるものです。あるいは銀行の頭取が、出勤後の職員に「では明日選挙だから、なんとか党の誰それに投票しなさい」と命じたとしても、それはいくら銀行の頭取であってもそれは銀行の目的ではありませんし、頭取にはそういうことを命じる資格がありません。学校でも、学校の先生が生徒たちに「じゃあ、みんな、生徒たち、今から命令します。今から私のために三週間どこかに行ってお牛さんのお乳を絞ってきてください。私が飲みますから。」と言ったとしても、それは先生のテリトリーの力のことではありません。

教皇様もそれと同じです。教皇様も教会の設立の目的のために権威が与えられました。教会の目的というのは、霊魂の救いです。永遠の命、つまりすべての人間の究極の目的のために設立されていました。ですから、教会というのは、すべての団体よりもさらに高い最も最高の権威が与えられています。しかし、この霊魂の救いという目的のためにこの権威が与えられているので、これ以外のことについては教皇様といえども、私たちに命令する資格というかその権威はありません。たとえば教皇様が、気候変動について、あるいは地球の温暖化について、私たちにこうしなさいと教える時には、それは霊魂の救いのこと以外のことですから、それは「教皇様、それは科学のやることであって、教皇様のテリトリーの権威のもとにあるものではありません」ということができます。 

それから、もう一つ言葉をつけ加えるならば、教皇様の不可謬性ということについて、言及しなければなりません。なぜかというと、天主様は非常に私たちのことを愛しておられるので、教皇様には特別のお恵みがくだされていて、教皇様には不可謬権という特別のお恵みを与えました。教皇様は間違ったことを教えることができないということですけれども、これはいったいどういうことでしょうか。これについて多くの人たちが誤解をしてしまっています。ですから、これについて説明させてください。

確かに教皇様は不可謬ですけれども、しかしその不可謬のためには条件があります。もしもその条件を――これは四つあるんですけれども――その条件を満たす時にそのときにはじめて教皇様が不可謬である、となります。ですから、もしもその条件を満たしていない場合には、必ずしも不可謬であるとは限りません。

第一の条件は、教えなければならないということです。つまり、教皇様が全教会の頭(かしら)として権威をもって教える、ということです。ですから、「これは私の意見だ」というのではありません。たとえばヨハネ・パウロ二世教皇様の回勅のほとんどは、このように始まっています。「これは私の黙想の結果である。黙想である。」と。不可謬性を帯びるためには教えなければならなくて、黙想するのはもちろんよいことですけれども、黙想を伝えたとしても、これは不可謬とは限りません。

第二の条件は、これは何を教えるかについてです。つまり、信仰とあるいは道徳に関することであるならば、これは不可謬性の条件を満たすということです。ですから、先ほど申し上げましたように、地球の温暖化について話されても、これは不可謬性を保証する内容ではありません。

第三は、教皇様は、はっきりした明確なそして正確な定義を、教えなければなりません。たとえば、夢について語ったり、あるいは詩を私たちに語ったりしても、それは不可謬ではありません。この最も典型的な例は、第二バチカン公会議でその公会議の最中、その司教様たちは「この公会議の内容の言いたいことが何かはっきりわかるように、定義を作りましょう」と教皇様に提案したのですけれども、しかし公会議は「いや、定義は与えない。なぜかというとこれは教義の公会議ではなくて、司牧的公会議に過ぎないからだ」と言って、明確な定義は与えられずに終わってしまいました。

この公会議について少し話を付け加えると、では公会議に参加した司教様たちは「それでは第二バチカン公会議というのは不可謬なんですか、それとも不可謬じゃないのでしょうか。」と聞いた時に、公会議は公会議の記録の中に二つの答えがあって、それによると「第二バチカン公会議は必ずしも不可謬ではない」と搭載があります。

第四の条件は、教皇様が、良心に、私たちの心に、それを信じることを命ずる、私たちが信じることを義務付けるという時です。たとえば例があります。ヨハネ・パウロ二世教皇は、堕胎は罪である、あるいは、安楽死は罪である、としました。堕胎と安楽死を排斥しました。また同じくヨハネ・パウロ二世は、女性司祭というものも、これは「女性が司祭になることはできない」として、不可謬権の四つの条件を全て満たして、排斥しました。ですから、もしもこれに反することを発言するとか行うことは信仰に反する罪となって、そして、これは私たちがもしもそうしてしまったらカトリック信仰を失ってしまうことになります。特に女性の司祭ということについては、これは教会法の中にも書かれていて、これは信仰に反する罪であるとあります。つまり、四つの条件を満たして不可謬権を行使して出されたそのような教えは、もう後の教皇様も新しい教皇様も、私たちが一体何をしようとも、変えることはできない信仰のドグマであると宣言されたことになります。ですから、もはやこれに逆らおうとする人、これを何か反対することを行おうとする人は、カトリックではなくなってしまいます。 

従順についてもう一つ言いたいのは、教会が「新しいことを導入しろ」という時に、私たちは「それはできない」と言わなければなりません。それは教会の全歴史がそう教えています。例えば最も有名なのは、西暦450年頃にレランの聖ヴィンチェンツオ(Vincent de Lérins [Vincentius Lirinensis])という聖人が、

私たちにコンモニトリウム・アドヴェルスス・ヘレセス(Commonitorium Adversus haereses)という「異端に対する警告の書」という本を書いています。それによると、もしも、教会の一部に病気の部分があるならば、私たちは健康な健全な部分に一致しなければならないと言っています。ではもしも、教会全部が異端によってダメージを受けているならば、私たちは健全だった過去の教えに忠実にならなければならないと教えています。これは、健全な過去というのは、すなわち聖伝のことです。これはただ一人聖ヴィンチェンツオが言ったのみならず、この教えを第一バチカン公会議もそれを取り入れて、この彼を引用して、同じことを教えています。

私たちが今直面している問題は確かに難しい問題ではありますけれども、しかし過去、すでに同じようなことが取り交わされているので、私たちは今ひとりで戦っているわけではありません。私たちは教会の聖伝と一致しているからです。もしも私たちが、教会の過去の教えにそのまま従順であるならば、それは不従順ではなくて、本当の従順だと言わなければなりません。 

第二のポイントは希望の徳です。今の状況は大変難しいにもかかわらず、天主は私たちのために働いてくださっているということを見ることができるので、本当に慰めに満たされています。特に、ルフェーブル大司教様のなさったお仕事に、主は多くの祝福を与えてくださって、そして多くの実りを下さったということをみることができ、そしてそのことはローマも認識しています。

たとえば、1988年にルフェーブル大司教様が四人の司教様を聖別していたときに、ああルフェーブル大司教様にしては破門だと言われて、その十年後、2000年に初めて、ローマと初めて正式の面会会合がありました。その時に、カスティリオン・ホヨス枢機卿さまが、そこに居合わせた3人の司教たちに「はあ、聖ピオ十世会の実りはすばらしい、とても良いものである、だからこれは聖霊が働いているということの証拠だ」と言いました。

フランシスコ教皇様も、ボット枢機卿様に「私は聖ピオ十世会のことをアルゼンチン時代からよく知っている。彼らはよい仕事をしている」と言いました。

ポッツォ枢機卿様という方は、聖ピオ十世会と直接に関わり合った枢機卿様なのですけれども、お会いした時にこう仰いました。「聖ピオ十世会は、今の教会を危機の状態から脱出させてくれるすべての手段を持っている」

この、いま枢機卿様の名前を明かすことはできないのですけれども、しかしローマで、ある責任を持っておられる枢機卿様が、3回私こうおっしゃいました。3回です。「教会の救いは聖ピオ十世会のなかにある」と。

これは、聖ピオ十世会を栄光化させるとか自慢するというつもりではなくて、このことで私が言いたいのは、天主はもしも私たちがその主の栄誉のためにその誉れのために働くならば、そして天主をその最高の第一の場所につかせて、そのために何も惜しまないで働くならば、そのような人たちに天主は顔を遠ざけたりあるいは逃げ去ったりしまったりするようなことは決してしないということです。その反対にそのような人々を主が助けて、そして守って、そして祝福して、そして多くのもので満たしてくださるということです。

ですから、もしもある霊魂達が天主の方に行くのなら、近づくのならば、そして助けを求めるならば、必ず助けてくれます。「求めよ、さらば与えられん。叩け、さらば開かれん。」と約束されました。そしてこの約束は必ず守られます。イエズス様は言いました。「もしもあなたたち人間に子どもがあったとして、子どもが『玉子が欲しい』と言ったのに蛇をあるいはサソリをあるいは石コロをあげる父親がいるだろうか。もしもお前たち人間でもそんなことをするならば、天にまします御父はどれほどおまえたちに良いものを与えてくれないはずはないだろうか。」ですから、私たちは信頼して主に近寄らなければなりません。なぜならば、必ず救うというのは、主が約束されたことであるからです。

私は、総長として聖ピオ十世会における状況を見てきて、奇跡を見てきました。確かに主は働いておられている、ということをこの目で見てきました。もちろん主は、通常は通常の手段で私たちを助けてくださいますが、しかし通常の手段でも足りない時には、それよりももっと上の手段を使って助けてくださいました。これは非常に大切なことです。私たちは、このことをいつも覚えていなければなりません、知っていなければなりません。主は、私たちをけっして捨てることもないし、そして天主はすべてのことを管理しておられる、統治しておられる、主宰しておられます。

ですから、すべてのことは主の許しがあってのみ、初めて起こることなのです。この世でもしも何か悪が生じたとしても、それは主の許しがあったからこそ起ったのであって、許しなくして起ることは一切ありません。で、もしも何かが被造の世界において悪が起こってしまったとしたら、それは主が、それをその悪を治すことができるからであり、しかもその悪には限度をつけます。そしてこれ以上私たちが耐えることができない以上のことは、決して限界を超えないようにされています。主の御手から逃れるものは何もありません。すべてが主のもとにあって、そして、もしも悪が主に許されて起ってしまったとしたら、それは私たちを害するためではなくて、この悪の中からそれよりもさらにもっとよい善を引き出す為にこの悪を許されます。それほど主には力があって全能なのです。ですからこの悪があったとしたら、それよりもかならずもっとより良いもの、これよりも偉大なものが、これよりも崇高なものが与えられる、私たちの善のためにある、この悪よりももっと利益が私たちのために待っている、ということを知ってください。

もちろんこの悪があることによって私たちは苦しまなければならないかもしれません。しかし、罪の入ってしまったこの世においては、十字架あるいは苦しみというのは避けることができないものです。しかし、私たちに害のためにあるのではなくて、私たちによりよい大きな善をひきだすためにあるのです。歯医者のことを考えてください、私たちが虫歯になってしまった時に、歯医者に行って、器械でガガーンと削られるかもしれません。しかしその痛みや不愉快なものは、それは私たちを害するためでなくて、私たちの歯を治すためです。それとこれとは全くお粗末なイメージですけれども、天主も私たちに悪を許すことによって、それよりも偉大な善を引き寄せようとなさっています。ですから、私たちはいつもこの希望を持っていなければなりません。そして確信を持っていなければなりません。すべては主の御手のなかにあって、すべては、主を愛する者にとっては善となるということです。

これをもう一度強調させてください。もしも霊魂達が天主の方に行くならば、必ず天主は助けてくださいます。つまり、天国へと導いてくださいます。これは教会が不可謬だと教えた祈りです。もしも私たちがこの祈りをするならば、必ず主はこれを聞き入れるという祈りです。教会はこのような祈りについては、あえて不可謬であると宣言しました。そのような必ず聞き入れられる祈りとは、私たち自身の救い・永遠の救霊を祈る祈りのことです。

しかし、ただ「天国に行きたい、行かせてください。これでさあ終わった。」のではありません。四つの条件があります。これは、信仰を持って、信頼を持って、謙遜に、そして堅忍してつまり祈り続けている時に、必ず主は、私たちに天国…永遠の祝福・永遠の救いを保証してくださる、必ず保証してくださる、確かである、ということです。ですから、このことを教会から教えられると、私たちの霊魂には平安が来ます。私たちの主の愛を理解します。もちろん、私たちはとても弱々しくて、そして力のないものですけれども、今日のミサの集祷文を見てください。「天主よ、御身はかくも多くの危険において成り立つ我らが人間的なもろさゆえに自存しえぬことを知り給う。我らに心と肉体の健康を与え給え。そは、我らの罪ゆえに我らが苦しむことを、御身が助け給うことによりて我らが打ち勝たんがためなり。」つまり、私たちは本当に人間の弱さに囲まれていますけれども、か弱いすぐに壊れてしまうものですけれど、どうぞ御身の力で助けてください、力づけてください、と祈っています。これこそが教会の精神であって、教会は私たちにこの精神で祈らせてくれます。

ですから、私たちは、天主の方へとますます寛大であってください。そして主にどれほど寛大であっても主は必ずその寛大さに報いてくださいます。主のためにしたことには、それにまさる報いがあるということです。そして主はその寛大さにおいて、私たちに負けることは決してありません。もしも私たちがこれほど主のために尽くしたら、信じられないほどの寛大な答えが返って来ます。なぜかというと、主は私たちを愛しておられて、主は私たちの善を望んでおられるからです。確かに今現在の生きている私たちの世界は、難しい十字架の道です。天国へとたどる道は、十字架の道です。しかし、アヴィラの聖テレジアはこう言いました。「この世というのは嫌な旅館に泊まる嫌な一夜(ひとよ)のようなものだ。しかし翌日には、素晴らしい朝が待っている」と。

では、いろいろな実際にあったお話があるのですけれども、その中から一つだけ話をすることにして、この講話を終わりにします。それは、天主様が普通の手段では足りない時にはどれほど私たちのために働いてくださるか、ということです。

二年前に私は、カリブ海にあるマルティニーク諸島というところに行きました。そこには聖ピオ十世会の修道院があるのですけれども、ちょうどつい最近に聖ピオ十世会を発見して聖伝のミサに与り始めた女性の方と会いました。そして、その女性の方が別の女性の方にその話をしたことなのですけれども、その最近発見した方は聖伝というミサのことも聖ピオ十世会のことも全く知らずにそこに住んでいました。新しいミサに与っていた方で、とても敬虔で熱心にお祈りをした方で、聖グリニョン・ド・モンフォールに従ったマリア様への奉献とか、あるいは霊的指導者について霊的な道を進んでいた方なんですけれども、かといって、聖伝については全く知識がありませんでした。聖ピオ十世会があるということも知りませんでした。

その方がある時、夢を見たのです。夢の中では、三人の男性の方がおしゃべりをしていたんです。そのうちの二人は誰かが判りました。ひとりはビアンネ神父様――アルスの聖なる司祭――で、もう一人はパードレ・ピオでした。もう三人目は男の方ですけれども誰だかよくわからなかったんです。それはその夜はそのような夢を見たということでそのまま何もすることができずに時が経ったんですけれども、そのうちにはっきりとした声を聞くようになり非常に正確な内容が伝えられました。それによると「なんとか通りの何番地にあるミサに与りに行きなさい。この住所のミサに与りなさい」。という内容でした。実はそこに聖ピオ十世会の教会があるということも知らずにいたんですけれども、その声を聞いてからどれほどの時があったのかもよくわかりませんが、最後についにはその声に従って行ってみると――教会があったということも知らなかった――行ってみると、聖ピオ十世会の修道院があるんです。で、ところでそのフォール=ド=フランスという首都の修道院には入り口が二つあって、一つは教会のほうへ直接に行くのと、もうひとつは本屋・信心用具を売っているお店を通して教会に行く道があるんですけど、みんながその本屋さんの方に行くので、おしゃべりをしたりとかいろいろみんなと仲良くするために行くので、入り口はそっちだと思って本屋の方に行きました。すると、その本屋には綺麗な額縁に男の人の写真があって、それがその人物は夢で見た三番目の方と同じ人でした。ところで実はこの写真はルフェーブル大司教様であって、そのルフェーブル大司教様だということを見た瞬間、この方はそのままずっとここでこのミサに与るようになりました。

この話をサントドミンゴという島にあるシスターたちに話したのです。するとシスターたちは「実はね、司教様、私たちも同じ話があるんです」と言ってシスターたちの経験を話してくれました。それによるとシスターたちは首都から車で2時間ぐらいのちょっと郊外に修道院があるんですけれども――そこのシスターたちが知っている話は「ある人が、その首都のサントドミンゴに住んでいる人が夢を見た。夢の中で教会の姿が現れてしかも電話番号も現れたと。それでその電話番号がくっきりと浮かんできたので、起きた時にその番号の通りに電話してみたら、聖ピオ十世会の修道院だった。で、修道院だということを聞いて、じゃあ行ってみるといって、行ってみると、修道院の教会が実は夢で見た教会のまさにそれだった。それで聖ピオ十世会の教会のミサに与るようになった。」というものです。

この話で言いたいのは‥‥天主様はまことに在しまして、皆さんと一緒におられて、霊魂の救いのために心を使っておられるので、主を信頼してください。信仰を持ってください。私たちの身分上の務めをよく果たしてください。そして主を愛してください。主は、私たちの父として私たちを見守ってくださっているので、どうぞそれに信頼してください。どうもご静聴ありがとうございました。


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