【参考文献】ヴィガノ大司教インタビュー、コンクラーベについて(続き)その2
高品質の製品とは、カトリックの教理、道徳、典礼を象徴しています。低品質の商品との競争とは、近代主義的なイデオロギー的ながらくた、つまり主に改革されたミサ典礼のことです。…ほとんどすべての販売拠点を閉鎖し、…輸入製品が粗悪品であることを人々に見抜かれないようにするため、高品質の製品を単になくしてしまうことで比較を回避しています。 もし「顧客」が「大規模小売業者」によって押しつけられたものを買うことを諦めるとすれば、それは詐欺や市場操作によって自由な選択の可能性を奪われたからに他なりません。 地獄の門は遊園地のお化け屋敷と同じように、すでに私たちの主によって決定的に征服された者たちによって作られた印象的な舞台装置に過ぎないことを私たちは理解するでしょう。Viganò Interviewed on the Conclave, Continued...
ヴィガノ大司教インタビュー、コンクラーベについて(続き)その2
第2部(7月28日追加)
【解説】ヴィガノ大司教は、カトリック教会の高位聖職者です。以前はバチカンの行政機構の上層部で働き、ベネディクト十六世によって在米教皇大使を任命されました。聖ピオ十世会という修道会に所属する司教ではありません。聖ピオ十世会の考えを代弁しているというわけでもありません。ただし、以前、新しいミサを行っていたけれどもその弊害に気が付き、聖伝のミサに立ち戻った高位聖職者であり、第二バチカン公会議の実りとは何かを直視することができるようになった司教の一人です。そこで参考情報として最近のヴィガノ大司教の発言を日本語で紹介します。私たちは教皇さまのことは普通は教皇としての名前で呼ぶ習慣があります。たとえばベネディクト十六世とか、フランシコとかです。しかしイタリア語では、時として教皇の苗字で呼ぶこともなされるとのことです。例えば、パパ・パッチェリ(ピオ十二世)、モンティーニ(パウロ六世)など。
【問い】大司教様、第1部の終わったところから続けましょう。教会で起きていることと世俗の領域で起きていることは、明白な並行関係にあります。大司教様がよく使われる表現に、「すべてが一つで説明がつく」“everything holds together.”というものがあります。これについてもう少し説明していただけますか。
【ヴィガノ大司教】民主的な国家機関や超国家機関の権威主義(昨日は口実のパンデミック緊急事態、今日は不条理な環境緊急事態)は、シノドスのバチカン機関の権威主義(昨日は口実のエキュメニカル対話、今日はそれに劣らない口実である性的・道徳的逸脱の奨励)とまったく変わるところがありません。どちらも真の権威が腐敗したものの表現であり、一方は世界的なクーデターのディープ・ステート、他方はザンクトガレン・マフィアのクーデターのディープ・チャーチです。どちらにおいても、メンバーの腐敗が、彼らが従属的であり続けることを保証しています。なぜなら、その腐敗のせいで彼らを脅迫するのは簡単なことだからです。この理由で、これらの機関で一定のレベルに昇進している人々が正直であることは不可能です。なぜなら、正直であれば、腹話術師の手中にある操り人形のような、重要な役割を担う操作しやすい操り人形を欲する人々の支配から逃れることができるはずだからです。
ですから、離教がベルゴリオの究極の目標です。なぜなら、それはファリザイ派のやり方、つまり、偽善的で偽りの形式主義というやり方であり、教会から善きカトリック信者を追い出して、教会を裏切り者や反逆者の権力に完全に委ね、その時点で彼らが望むことを教会に対して自由にできるようにするからです。
同じことが世俗の領域でも起きています。西側諸国の支配者や支配階級全体が、誰も選んでいない権力に完全に隷属しています。国家の利益に反してでも、また市民の基本的権利を侵害してでも、彼らはこの権力に従っています。そして、彼らを大逆罪で裁いて断罪する意思も能力もある機関や司法は存在しません。
ベルゴリオの保守派に対する排斥は、グローバリストのエリートが新型コロナウイルス感染症や地球温暖化の「否定派」に対して行う排斥と同じです。サイコパンデミックや環境の茶番劇に科学的根拠がなく、著名な科学者や反論の余地のない証拠によって否定されていることは問題ではありません。科学は科学主義に取って代わられ、これらのテーマに関するあらゆる科学文献は今や削除され、取り消され、検閲されています。ですから、カトリックの教導権に関して第二バチカン公会議以降の「教導権」があからさまに矛盾していることを考えれば、ここでも教会との並行関係があらゆる証拠によって見えてくるのです。教理は異端に、道徳は個人の主観に、典礼儀式は冒涜的な即興に取って代わられました。そして、たとえば、ワクチンを受けた者だけの突然死や、公会議後の期間の召命の危機を強調することによって、公式の物語(ナラティブ)に疑問を呈する者たちは犯罪者とされます。なぜなら、彼らの反対意見は理性的かつ合理的であり、反論できないものだからです。反論する代わりに、その反対意見を表明する各個人を攻撃することによって、その意見を委縮させるのです。
【問い】この時点で、「どうすればこの状況から抜け出せるのか」という問いに戻ります。ここ数日間、ここ「Duc in altum」では、多くの読者の参加を得て、このテーマについて幅広い議論が交わされてきました。ベルゴリオと彼の部隊がカトリック世論にクロロホルムをかがせることに失敗したのは明らかなようです。
【ヴィガノ大司教】祈りによってそこから抜け出さなければならない、と提案する人々もいます。それは正しいことです。全能の天主に歴史の手綱を握っていただくことは、確かに効果的な手段です。しかし、同時に、それだけでは十分ではありません。祈り(それは常に欠かすことのできないものです)はまた、私たちの信仰の父祖たち(使徒たち、初期キリスト教徒たち、そしてすべてのカトリック信者たち)が常に行ってきたように、暴君たちやサトラップたちに、過去二千年にわたって立ち向かってきたように、行動を伴っていなければなりません。この暴君たちは、ヴォルテールが冒涜して言った「"恥知らず"を粉砕せよ」(écrasez l'infame)が可能だと確信していました。しかし、教会の敵どもは今やすべて死んで葬られたものの、教会は今でも生きています。
最初のインタビューで述べたように、この行動はまず第一に、聖伝の運動の戦略的分断化を見越しておかなければなりません。聖伝の運動は、一撃で全体を攻撃されるのを不可能にするために、協調しつつも独立した状態のままでいなければなりません。私の考えでは、聖伝の運動を分断化しておくことが、現在の攻撃に対する唯一の可能な対応策です。私たちは、新たな教会に似たような組織を設立してはならず、むしろ、異なる勢力間で最小限の協調を維持するのです。そうすれば、真のカトリック信者がとどまるべき唯一の真にして合法的な場所である教会において、遅かれ早かれ、自分たちが完全な市民権を取り戻すことが分かるでしょう。明らかなことですが、このことは、沈んでいく船の乗客として、起きていることを傍観して見守っていることではありません。それどころか、教会にとどまることで、私たちは教会の子として、内部から敵の第五列【反逆者、スパイ】として行動する人々の攻撃から教会を守るように駆り立てられなければなりません。
一方でベルゴリオが私たちの逃げ道をすべてふさぎたいと思っているのなら、他方で私たちは他の逃げ道を開ける必要があります。もしベルゴリオの行動が、私たちを孤立させることで、臆病にさせて【活動を】思いとどまらせることを目的としているのであれば、私たちは使えるあらゆる手段で横領を糾弾しなければなりません。そして、遅かれ早かれ、迫害は「必然的に」、もう一度言います、必然的に、バチカンの報復の可能性から何とか守られていると信じ込んでいる人々にも広がっていくでしょう。ですから、彼らも今や、信者に聖なるミサと秘跡を保証することになる、ますます切迫した「必要性の状態」によって強化された抵抗の形態を組織し始めることができるようになるでしょう。
【問い】この点に関して、大司教様は、司教としての兄弟の方々にどんな提案をなさいますか。
【ヴィガノ大司教】私は彼らに、良心の呵責をもって(onerata conscientia)、このことを検討するように勧めます。つまり、ベルゴリオによる更なる策略の可能性や、世俗当局が聖伝のカトリック信者を公然と迫害する行動に出ることを考慮して、自分たちの保守的な司祭のために秘密の形態の役務を考えることが適切かどうか、を検討することです。米国でトリエント・ミサに関連する信者のグループをFBIが調査したことは、諜報機関の逸脱した部分がカトリック信者を彼らの破壊転覆的計画にとって脅威とみなしていることを示唆していますが、一方で彼らはベルゴリオの教会に味方を得ています。
聖伝の修道共同体、特に観想生活の女性たちの共同体は、物質的・霊的な相互支援と援助を与え合うために、常に連絡を取り合っていなければなりません。教会の最高レベルを占拠しているこの異端者たちや変質者たちの集団に反対する非主流派が、メディアやソーシャル・ネットワーク・プラットフォームでますます存在感を増すことが重要であり、そうすることで、背教に対する諦めたような沈黙と必要とされる反対との間でまだ躊躇している人々を励ますことができます。これらの司祭たちに語ってもらいましょう。彼らに声を与え、彼らを慰め、彼らに家庭や教会、修道院で歓迎されていると感じてもらいましょう。
忘れてはならないのは、グローバリストのエリートたち、そしてその手先であるベルゴリオのセクトを動かしているメンタリティーは、商業的なもの、つまり典型的なプロテスタント的かつ高利貸的なものだということです。支配的な考え方は、権力と利益であり、これはあらゆるものを商品化することによって、つまり、生活のあらゆる面を、売却したり購入したりできる商品に変えることによって得られるものです。そして、商業戦略は常に、市場を征服するための明確に決められたプロセスに従います。
【問い】例を挙げていただけますか。
【ヴィガノ大司教】承知しました。二つの会社があると考えてください。一つは、第三世界で質の悪い製品を低価格で生産している外国の多国籍企業で、もう一つは、同じ製品をイタリア国内だけで生産された高品質の原材料を使い、熟練した技術と適正な価格で生産しているイタリアの職人企業です。このような状況では、多国籍企業が新たな外国市場で自らを押しつけることができる見込みがないのは明らかです。通常の条件下では、政府は自国の国内企業家の優秀性を保護する形をとり、輸入品に重い関税を課しているからでもあります。しかし、欧州連合(EU)に加盟すると、加盟国は自国企業を優先することを禁じられ、過酷な税金や関税が課され、原材料や生産のコストが上昇し、多国籍企業への信用供与が容易になり、中小企業への利用が大幅に制限されます。こうした経済・財政政策の背後には、もちろん大金融グループのロビイストがいます。この時点で、イタリアの企業は値上げを余儀なくされ、多国籍企業は直ちに競争力を持つようになります。そこで多国籍企業は、イタリア市場に参入し、印象的なメディア・キャンペーンを展開しますが、小さな競合企業にはそんな余裕はありません。しばらくすると、多国籍企業はその小さな会社を買収し、しばらくの間その会社に仕事をさせます。多国籍企業は何を得たのでしょうか。代替製品の消滅と全般的な製品の品質低下です。競争は排除され、製造された製品は、市場で唯一提供されているという理由だけで、価格を上げることができます。このプロセスでは、高品質の製品を排除することが不可欠です。なぜなら、中国の刑務所やインドの村で大量生産される製品との比較は、迷惑な話だからです。そうなれば、貴重な職人製品を排除し、質の悪い製造品を優先することになります。
では、外国との競争に対処するために、どのような解決策が提案されているのでしょうか。原材料コストを下げた後に残るのは、人件費コストの削減だけであり、それは賃金の引き下げと低賃金の外国人労働者の導入により、また北アフリカからの不法移民の上陸や、トルコから欧州に入国した移民の圧力のせいでもあります。この協調攻撃に、エネルギーコストの上昇(これらはすべて意図的に引き起こされたものです)とEU加盟国(あるいは少なくとも一部の国)の財政均衡の義務を加えると、この場合も、唯一の望ましい道を除いて、すべての逃げ道が閉ざされていることが分かります。でも、その望ましい道は、それを選んだ者にとっては致命的です。
【問い】大司教様、口を差しはさむのをお許しください。しかし、このような表現をされると、次のように言う人々がいます。「ヴィガノ大司教は司牧者としての自分に関係のないことを話している」と。
【ヴィガノ大司教】ここで、司教として発言しているテーマに対して、私たちが少なくとも「通常ではない」土台にいることを、私は理解しています。私は、かつてバチカン市国行政庁次官として、経済問題にも取り組まなければなりませんでした。お気づきのように、私が今説明した商業戦略は、教会の領域でも採用されています。高品質の製品とは、カトリックの教理、道徳、典礼を象徴しています。低品質の商品との競争とは、近代主義的なイデオロギー的ながらくた、つまり主に改革されたミサ典礼のことです。「顧客」は、比較にならないほど劣ったものと引き換えに、いつも持っている高品質の製品を自由に手放そうとはしないため、「公会議の多国籍企業」が「小さな職人会社」を買収し、その製品を「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)の下で提供させますが、その後、ほとんどすべての販売拠点を閉鎖し、「トラディティオーニス・クストーデス」(Traditionis Custodes)という法を押し付けることによって、伝統的な「学事規定」(ratio studiorum)に従った聖職者や修道者の教育形成を妨げます。また、輸入製品が粗悪品であることを人々に見抜かれないようにするため、高品質の製品を単になくしてしまうことで比較を回避しています。しかし、このような作戦は、組織的な観点からは効果的であったとしても、二つの選択肢の間の溝が非常に明白になるのを防ぐことはできません。もし「顧客」が「大規模小売業者」によって押しつけられたものを買うしかないと諦めるとすれば、それは詐欺や市場操作によって自由な選択の可能性を奪われたからに他なりません。
宗教的な問題において、このような「小売店主」的なアプローチが不適切で不快なものであることはよく承知しています。特に、信仰の善は計り知れない価値があり、天主の壮大さによって私たちに惜しみなく与えられている一方で、私たちに提案されているもう一つのものは少なくとも競争不可能なものであり、その代価は私たちの永遠の滅びであるからです。しかし、異端や倒錯の販売者たちの高利貸的な冷笑主義が、この問題を商業的な交換とみなして、あらゆるものに値段をつける、ということを超えることができないことは、私たち誰もが気づくことだと思います。ユダの裏切りに対して最高法院(サンへドリン)が支払った30デナリオはこのことを裏付けており、この金額を支払う用意のある大司祭や、神殿の衛兵に接吻して進んで主を引き渡す反逆の使徒が常にいるということです。
これが商人を動かして方向づけるメンタリティーです。世界経済フォーラムは、社会に新たなライフスタイルの採用を強制する場合には、金と権力を渇望する企業家のロビーであることを忘れてはなりません。社会的操作はマーケティング活動に不可欠な部分であり、販売される「製品」が実験的な血清や電気自動車である場合、需要を喚起して市場に投入する方法には、マスコミ、個々のジャーナリスト、いわゆる「専門家」(たとえばウイルス学者や気候学者)や政治家の協力による、パンデミックや環境社会への警鐘を鳴らすメディア・キャンペーンが含まれます。彼らのすべてが、事実上、世界経済フォーラムの技術ロビーに雇われています。なぜなら、彼らはバンガード、ブラックロック、ステート・ストリートといった大手投資ファンドに所有されているか、あるいは直接・間接的にスポンサーになってもらっているからです。
新聞が特定のニュースを流すとすれば、これやそれやの多国籍企業がその新聞を支配しているから、あるいは広告スペースを買い、イベントに資金を提供しているからです。また、研究機関や大学、財団にも同じことが当てはまり、その物語(ナラティブ)を裏付けるような研究を発表する任務が割り当てられています。これは、公的機関への干渉やロビー活動を伴うものであり、公的機関の職員は民間団体と協定を結んでおり、よく知られた回転ドアの慣行に従って、見返りとして活動に資金を提供したり、任期終了後に雇用したりしています。
このサークル(円形)は、欠けていた最後のピース(部品)で閉じられます。それは、グローバリスト・エリートのクーデターに対するカトリック教会と他の宗教の協力ですが、完全に副次的なやり方です。ディープ・チャーチは、この醜い同盟に役立つのを一瞬も躊躇しません。なぜなら、ディープ・チャーチは、完全にディープ・ステートにつながる人物によって占められているからです。サイコパンデミックの茶番劇に迎合し、次にウクライナ危機に足並みを合わせ、次にパチャママ崇拝を通じてアマゾンの香りのグリーン物語(ナラティブ)を受け入れ、ついにはシノドスを目覚めた(woke)イデオロギーに身売りさせたのです。
そして、サンタ・マルタ館のセクトのこの「奴隷根性」(libido serviendi)が自発的でなかった場合でも、私たちは、主要な人物の恐喝によって、息をつく間もなく足並みを揃えるように説得されたであろうことをよく知っています。元枢機卿マカリックと、まだ権力を握っている彼の手下たち(スーピッチ、グレゴリー、ファレル、トービン、マッケルロイ…)のスキャンダルは、ジョー・バイデンの息子のスキャンダルと大差はありません。
検閲や隠蔽という、あわれでグロテスクな試みは、現在権力を握っている小児性愛者・悪魔崇拝者の集団を待ち受けている「会計の報告」(redde rationem)を先延ばしにすることはできるかもしれませんが、真実がその恐るべき重大性で明らかになったり、悪しき者【悪魔】に自らを捧げるこれらの変質者たちに正義を行ったりするのを阻止することは成功しないでしょう。私たちはこの局面で、広大な共謀ネットワークに目を見開く用意をしておかなければなりません。そうなれば、この地獄のマシーンがなぜここまでうまく機能しているのかが明らかになるでしょう。
【問い】しかし、このような広範で組織化されたネットワークに、どのようにして効果的に対処すればいいのでしょうか。それに反対する人々の力は、大きな情熱と犠牲の精神に支えられているとはいえ、はるかに不十分なように見えます…。
【ヴィガノ大司教】いいですか、私は、敵【悪魔】の勢力が非常に効率的に組織化されていることは、私たちの無秩序と分断に比べれば、確かに強みであると思っていますが、同時に、そのことは敵【悪魔】のアキレス腱であるとも思っています。私たちが無秩序であること、私たちに自律的に動く能力があること、私たちの動きが予測不可能であることが、ディープ・ステートが私たちを教会から追い出そうとする企てを成功させるのを阻むことになり、同様に、私たちを世俗社会から追い出そうとするディープ・ステートの努力をも阻むことになるのです。そしてその逆もまた然りで、まさに彼ら組織に霊魂がないこと、そして彼らの指揮系統が特定可能であることが、私たちが彼らの計画を妨害し、その計画の作者を糾弾し、彼らの行動を挫折させることを可能にするのです。
ですから、短期的なプロジェクトと長期的なプロジェクトを検討し始めましょう。私たちは、ただ抵抗するだけであってはなりません。反応する者(reactors)になるのではなく、行動する者(actors)にならなければなりません。私が各地で起きていると思っているように、主導権を取らなければなりません。そうすることによってのみ、「小さな群れ」(pusillus grex)はそれほど小さくはないこと、地獄の門は遊園地のお化け屋敷と同じように、すでに私たちの主によって決定的に征服された者たちによって作られた印象的な舞台装置に過ぎないことを私たちは理解するでしょう。
最後に、ベルゴリオの軍事政権(junta)によって迫害されている司祭、神学生、男女の修道者を支援するために私が設立した団体「Exsurge Domine」(主よ立ち上がり給え)の活動を支援してくださるようお願いしたいと思います。皆さんのご支援があれば、信仰を持たず、何よりも愛徳を持たない恥知らずの傭い人の標的となっている、これらの善き霊魂に対する多くの差別状況に対応することができます。ウェブサイトwww.exsurgedomine.orgを訪問していただければ、すべての情報と寄付の方法をご覧になれます。
英語版 UPDATED: Viganò Interviewed on the Conclave, Continued...