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幼きイエズスの聖テレジアの「小さき道」(1) 天主のあわれみ深い愛を信じる:私を天にまで昇らせるエレベーター

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幼きイエズスの聖テレジアの「小さき道」についての説教(1)

ドモルネ神父 2023年9月10日

はじめに

教皇聖ピオ十世は、幼きイエズスの聖テレジアを、「現代の最も偉大な聖人」、すなわち、私たちの時代の最も偉大な聖人と呼びました。聖人たちは、私たちの聖性の模範です。天主が、幼きイエズスの聖テレジアを私たちの時代に立てられたのなら、それは特に私たちの時代に適した、したがって私たちに適した聖性の道を教えるためなのです。私たちは天国に行きたいと思っていますし、天主にお会いしたい思っていますし、天主の神聖な命にあずかりたいと思っています。そうするためには、私たち全員が例外なく、聖人にならなければなりません。次のように言う人がいるかもしれません。「難しすぎます! 私は弱いので、聖人たちのように苦行をする勇気はありません!」。あるいは、「私はどんなに努力しても、また小さな罪に陥ってしまいます。だから、聖人になるなんて、私には向いていません!」。あるいは、「私は心から天主を愛することができませんし、隣人を自分のように愛することもできません。だから、聖性なんて、私には向いていません!」。幼きイエズスの聖テレジアが私たちに示してくれたのは、そのような考えを持っている人が完全に間違っているということです。ですから、今日はそのことを、お話ししようと思います。

基本テキスト

まず、聖テレジアの自叙伝からの、長い引用をお読みいただきたいと思います。非常にやさしい言葉とイメージで、聖テレジアは基本となる教理的、霊的な深みのある考えを表現しています。

「私はいつも聖女になりたいと望んでいました。けれども聖人方と自分を比べると、まるで雲間に頂を隠す高い山と、通行人の足下に踏まれるつまらない砂の一粒ほどの相違があるのをいつも認めました。それでも、失望するどころか自分にこう言っていました。『天主さまが、実現できない望みを起こさせるはずはない。だから私は、小さくても、聖徳にあこがれてよいはずだ……。大きくなる……それはとてもできない。欠点だらけの自分をそのまま我慢しなければならない。でも、まっすぐでとても早く行ける小さな道、まったく新しい道を通って天国に行く方法を見つけたい。今は発明の時代で、階段を一段ずつ登らないで済む、お金持ちの家には便利なエレベーターがあるから。私もイエズスさまのところまで昇って行くエレベーターを見つけたい。完徳の険しい階段をよじ登るにはあまり小さすぎるから』と。

そこで、望みのまとであるエレベーターの手がかりになるものはないかと、聖書の中を探しました。そして永遠の知恵から出た次の句を見つけました。『小さい者ならだれでも私のもとに来なさい』(箴言9章4節)。それで、天主さま! 自分が探し求めていたものを見つけたと思って、おそばにまいりました。そしてあなたの招きに応えるごく小さい者に対して、あなたがどうなさるかを知りたいと思い、なお探し続けました。そして次の句を見つけたのです。『母親がその子を愛撫するように、私もあなたたちを慰め、あなたたちを胸に抱き、膝の上にのせて愛撫しよう』(イザヤ66章12−13節)。これほど優しく、これほど美しい言葉が私を喜ばせたことはこれまでにありませんでした。イエズスさま! 私を天にまで昇らせるエレベーター、それはあなたの腕なのです。ですから私は大きくなる必要はありません。かえって小さいままでいなければなりません」(手記C)

天主のあわれみ深い愛への信仰

このテキストのうち、今日は、私たちに対する天主の愛に注意を向けていただきたいと思います。「母親がその子を愛撫するように、私もあなたたちを慰め、あなたたちを胸に抱き、膝の上にのせて愛撫しよう」(イザヤ66章12-13節)。私たちの聖化の第一原則は、私たちに対する天主のあわれみ深い愛を固く信じることです。ここには、「愛」そして「あわれみ深い」という、考察すべき言葉が二つあります。

まず、「愛」という言葉です。天主は私たちを愛しておられるのであり、それは絶対に確実です。私たちが存在しているという事実そのものが、それを証明しています。なぜなら、天主は、私たちが幸せになることを必要としてはおられないからです。天主は、純粋な善意から私たちを創造され、私たちに善を行ってくださいました。次に天主は、啓示を通して、私たちにご自分の愛を明確に知らせてくださいました。この愛は、聖書のすべてのページで輝いています。この愛は、人となられた天主である私たちの主イエズス・キリストの生涯と教えで、特に明らかです。聖ヨハネは第一の書簡の中で、こう書いています。「天主は愛である。私たちに対する天主の愛は、ここに現れた。すなわち、天主のその御独り子を世に遣わされた。それは私たちを御子によって生かすためである」(ヨハネ第一書4章8-9節)。

天主は、私たちを愛しておられます。しかし、私たちが愛するということは、私たちが愛している人の善を望むことです。ですから、天主は、私たちの善を望んでおられるのです。しかし、絶対的な善は天主ご自身です。ですから、天主は、ご自身を私たちに伝えたいと望んでおられるのです。これこそが、私たちに対する天主の愛の効果です。天主は、ご自身を私たちに与えたいと望んでおられるのです。

「あわれみ深い」という言葉を見てみましょう。あわれみ深いということは、人の不幸に同情し、その人をできる限り助けることです。天主は、あわれみ深い愛で私たちを愛してくださいます。天主の愛は、私たちが不幸だという理由で、私たちに引き寄せられるのです。コップは、空っぽでなければ、水を満たすことができません。それと同じように、すべての完徳を豊かに持っておられる天主は、私たちが空っぽで、貧しく、みじめで、すべてを欠如している場合にのみ、ご自身を私たちに伝えることがおできになるのです。天主がその強さで私たちを満たしてくださるのは、私たちが弱いからです。天主がその知識で私たちを満たしてくださるのは、私たちが無知だからです。天主がその善で私たちを満たしてくださるのは、私たちが善を欠如しているからです。ですから、私たちの弱さと霊的な貧しさは、天主と聖性を所有するための障害物ではなく、そのための必要条件なのです。このため、聖パウロは「私は弱いときに強い」(コリント後書12章10節)と言っているのです。

私たちは決して、自分の小ささや弱さを理由にして、悲しんだり、がっかりしたりしてはなりません。そうすることは、高慢でないふりをした高慢にほかなりません。同様に、自分の弱さや小ささを、聖人になれない言い訳に使ってはなりません。そうすることは、怠惰でないふりをした怠惰にほかなりません。自分の弱さや小ささにがっかりするのではなく、それを愛し、それを喜ばなければなりません。幼きイエズスの聖テレジアはこう言っています。「善き主が私の小さき霊魂で喜ばれるのは、私が自分の小ささと貧しさを愛し、主のあわれみに限りない信頼を寄せているのをご覧になることです」。驚くべき一文ですが、深遠なる真理です! 私たちの聖性は、私たち自身が作り出した聖性ではなく、私たちの内におられる天主の聖性なのです。私たちの主イエズスは、すべての人にこう言われました。「あなたたちの天の父が完全であるように、あなたたちも完全な者になれ」(マテオ5章48節)。ですから、すべての人が聖性に召されているのであり、聖性はすべての人に可能なものなのです。

結論

親愛なる信者の皆さん、私たちの霊的生活、私たちの聖化の第一原則は、私たちの人生で何が起ころうとも、私たちに対する天主のあわれみ深い愛を固く信じることです。私たちの小ささ、弱さは、私たちを小さな子どもと似た者にしますが、それこそが、天主の愛、優しさ、母のような配慮を、私たちに引き寄せるのです。天主は聖書の中でこう言っておられます。「小さい者ならだれでも私のもとに来なさい」(箴言9章4節)。「母親がその子を愛撫するように、私もあなたたちを慰め、あなたたちを胸に抱き、膝の上にのせて愛撫しよう」(イザヤ66章12-13節)。私たちはこれにどう答えるべきでしょうか。聖ヨハネのように、こう答えましょう。「私たちは、私たちに対して持っておられる天主の愛を知り、それを信じた」(ヨハネ第一書4章16節)。

次回は、私たちの聖化の第二原則、すなわち天主のあわれみ深い愛に対する信仰の効果についてお話しします。この効果、それは天主を愛したいという望みです。


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