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冒涜の罪とつまずきの罪について:冒涜は非常に重い罪、それは天主ご自身を、憎しみから攻撃すること。天主の罰はこの罪がどれほど重いかを示す。

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冒涜の罪についての説教

ドモルネ神父 2023年10月15日

はじめに

大いなる悲しみと聖なる怒りをもって、私たちは、上野の藝大アート・プラザに展示されている冒涜的ないわゆる芸術作品を目撃しています。その芸術作品は「キリスト・サンドバッグ」と題されています。それは、サンドバッグのように三脚から吊り下げられている大きな十字架像であり、この十字架像を殴りたい人々のためにボクシングのグローブが用意されています。私は今日、この胸が張り裂けそうな悲しい機会を利用して、冒涜の罪とつまずきの罪についてお話ししたいと思います。

冒涜の罪

冒涜とは、天主を傷つけるなんらかの言葉や行いのことです。冒涜は、心の中で天主を侮辱する場合には、内的に犯されるものであり、天主を傷つけるような言葉、文章、身振り、行動によって外部に現す場合には、外的に犯されるものです。冒涜する方法には、いくつかあります。

第一の冒涜の方法は、天主を傷つけることを述べることです。天主に関して、天主にふさわしくないことを述べたり、天主の完全性を否定したりすることです。最初の場合、たとえば、天主は私たちを忘れてしまうとか、天主は暴君であるとか、天主の掟に従うことは不可能である、などと述べることは冒涜です。二番目の場合、たとえば、天主が被造物や私たちを気にかけていないとか、天主がすべてを支配してはいないとか、天主は不正である、などと述べることは冒涜です。また、天主のみに属する完全性や誉れを被造物のものだとすることも冒涜です。たとえば、使徒行録には、ヘロデ・アグリッパ王が人々に向かって演説したとき、人々がこう叫んだと書かれています。「『これは天主の声だ。人間の言葉ではない』。しかし、天主に光栄を帰さなかったヘロデは、突如として主の天使にみまわれ、虫にかみ裂かれて息絶えた」(使徒行録12章22-23節)。悪魔崇拝者たちは、天主のみに属する科学と力をサタンのものだとすることで、天主を冒涜しているのです。

第二の冒涜の方法は、天主に関する事実であっても、そのことを、天主を軽蔑したり嘲笑したりしながら述べることです。たとえば、鞭打ちの時、兵士たちはイエズスに茨の冠をかぶせ、イエズスの前でひざまずいてこう言いました。「ユダヤ人の王よ、あいさつ申します」(マテオ27章29節)。イエズスがユダヤ人の王であることは事実ですが、兵士たちは嘲笑しながら言ったのです。それは冒涜でした。ローマ皇帝の背教者ユリアヌスは、イエズス・キリストおよび教会と戦いました。彼はもちろん失敗し、死ぬ間際に、私たちの主に向かって怒りながらこう言いました。「ガリラヤ人よ、おまえの勝ちだ!」。イエズスがガリラヤ人だったのは事実ですが、背教者ユリアヌスは侮蔑しながら言ったのです。それは冒涜でした。東京の藝大アート・プラザでは、十字架にかけられたイエズス・キリストがサンドバッグとして展示されています。これは、ある意味で事実です。主のご受難について、私たちの主イエズスご自身が、預言者イザヤを通してこう言われました。「私はそれに抵抗せず、退かなかった。打つ人に私の背中を、ひげを引き抜く人に私のほおをまかせ、ののしりとつばから、顔を隠さなかった。…私は顔を石のように固くした」(イザヤ50章5-7節)。しかし、藝大アート・プラザでは、ご受難のときの私たちの主の柔和と忍耐、主の私たちへの愛が、嘲笑されています。それは冒涜です。天主を侮蔑しながら、聖なるものを嘲ったり、軽蔑して語ったりすることも冒涜です。たとえば、童貞聖マリアの終生童貞の特権を嘲ることは冒涜です。

第三の冒涜の方法は、天主に邪悪なことを願うことです。たとえば、天主は存在しなかったとか、天主は死んだとか、天主は罪を罰しなかった、と願うことです。また、天主が軽蔑されるようななんらかのことが起こるように願うことも冒涜です。たとえば、人々が信仰を失うようにするために、一部のカトリック聖職者の罪ができる限り公になることを願うことです。

冒涜は非常に重い罪です。なぜなら、それは天主ご自身を、憎しみから攻撃することだからです。冒涜する者に対する天主の罰は、この罪がどれほど重いかを示しています。なぜなら天主は、不正な罰を与えることがおできにならないからです。レビ記の中で、天主はこう言われました。「主の名を冒涜する者は、死刑に当たる。民衆一同は、その者を石殺しにする」(レビ24章16節)。聖書の中で、センナケリブ王は天主をひどく冒涜しました。その罰として、彼の軍隊のほとんどは、天主から遣わされた天使によって殺され、センナケリブ自身も間もなく自分の息子たちによって殺されました。聖パウロはティモテオに対して、二人の男をサタンに渡したのは、「冒涜を言ってはならぬことを学ばせるため」(ティモテオ前書1章20節)だったと語っています。

冒涜の行為を前にしたとき、私たちはどうすればいいでしょうか。天主に償いを捧げるべきです。冒涜は、基本的に天主に対する憎しみの行いです。ですから、私たちは、天主に対して可能な限り最も完全な愛の行いをすることによって、冒涜の償いをするのです。そして、冒涜が公的なものである場合、私たちは公的な償い、つまり天主を愛する公的な行いを天主に捧げるべきなのです。たとえば、「イエス・キリスト・サンドバッグ」の場合、藝大アート・プラザのその十字架像の前で、公的にロザリオを祈ることはまったくふさわしいことです。

つまずきの罪

藝大アート・プラザでの冒涜は、単に冒涜であるだけでなく、つまずきでもあります。

つまずきとは、他人に罪を犯させるように追いやる言葉や行いのことです。たとえば、主日のミサにあずかるのを無視する人は、他人をつまずかせます。なぜなら、その人の事例が、他人に同じことをするように誘惑する原因になるからです。十字架につけられた私たちの主イエズス・キリストをサンドバッグに変え、ボクシンググローブを使えるようにするという、このいわゆる芸術家は、それを見るすべての人をつまずかせます。すでに述べたように、この芸術家は自ら冒涜しており、また他人に同じことをするよう誘惑しているのです。

私たちがつまずきの罪を犯すのは、たとえ実際に他人が罪を犯さないとしても、私たちが進んで他人に直接的または間接的に罪を犯すよう誘惑するときです。たとえ誰も十字架につけられた私たちの主を殴るためにグローブを使わなかったとしても、このいわゆる芸術家は、重大なつまずきの罪を犯しています。実際、つまずきは、他人に犯させる罪が深刻であればあるほど、さらに深刻なものです。また、つまずきは、そのつまずきにさらされる人々の数が多ければ多いほど、さらに深刻なものです。私たちの主は、福音の中でこう言われました。「つまずきを起こすこの世に呪いあれ。…つまずかせる人に呪いあれ」(マテオ18章7節)。つまずきの罪は、兄弟愛の掟に反する罪です。隣人が天国に行くのを助ける代わりに、その人を地獄に追いやるのですから。

つまずきを与える状況を前にしたとき、私たちの義務はどんなものでしょうか。明らかなことですが、それを止めるために私たちは全力を尽くすべきです。そして、そのつまずきが重大であればあるほど、それを取り除くためにもっと努力すべきです。私たちが避けることはできても、実際には止めることができないつまずきもあります。例えば、すべてのコンビニエンスストアから性的な雑誌を撤去することです。しかし、私たちが何かをできる別のつまずきもあります。例えば、「キリスト・サンドバッグ」のつまずきを取り上げましょう。私たちができることは何でしょうか。アート・プラザの十字架像の前に行って、交代しながらロザリオを祈ること。その館長に手紙を出して、このような展示は恥であると伝えること。そのウェブサイトでこの展示に抗議すること。この冒涜の即時撤去を求める嘆願書を作成すること。この展示が即時撤去されない場合、キリスト教徒の弁護士はアート・プラザに対して法的措置を取る可能性を研究すべきであること。社会に何らかの影響力を持つ人々が館長に圧力をかけるべきであること、です。このつまずきが続く限り、このつまずきが撤去されるように、私たちは努力を続けなければなりません。

結論

親愛なる信者の皆さん、私たちの主を本当に愛していながら、このような冒涜を前にして沈黙するなどということはあり得ません。ですから、私たち一人一人が、私たちの主イエズスと聖母に対して寛大に償いを捧げ、このつまずきができる限り早く撤去されるために、勇気をもって自分にできることを行いましょう。


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