表現の自由についての説教
ドモルネ神父 2023年10月29日
はじめに
先日、藝大アート・プラザにおいて、私たちの主イエズス・キリストに対する冒涜的な展示が行われました。この展示を正当化するのに使われる議論の一つは、表現の自由、すなわちすべての人は何でも自分の表現したいことを、公に自由に表現する権利がある、というものです。私たちは、この議論にどのように答えるべきでしょうか?表現の自由には、真の表現の自由と偽りの表現の自由があります。今日は、このことについてお話しします。
1. 偽りの「表現の自由」
偽りの「表現の自由」というのは、すべての人は何でも自分の表現したいことを自由に表現し、それを演説やマスメディアを通じて広める権利がある、というものです。具体的に言えば、これが意味するのは、例えば数学において、2足す2は4である、または2足す2は5であると言って、それを教える権利が私にあるということです。地理において、地球が平らである、または球形であると言って、それを教える権利が私にあるということです。歴史において、太平洋戦争の責任はすべて日本人にある、またはないと言って、それを教える権利が私にあるということです。道徳について、小児性愛はよいことである、またはそれは犯罪であると言って、それを教える権利が私にあるということです。誰に対しても、証拠がなくても、告発したり、中傷したりする権利が私にあるということです。宗教において、天主は存在しない、または存在すると言って、それを教える権利が私にあるということです。すべての宗教はよいものである、または全ての宗教は悪いものであるといって、それを教える権利が私にあるということです。キリストをサンドバッグにして、嘲る権利が私にあるということです。このようなことです。
端的に言えば、偽りの「表現の自由」とは、真実であることや偽りであること、正義であることや不正義であること、良いことや悪いこと、美しいことや醜いことを、見境なく、演説やマスメディアを通じて広めることができるという、いわゆる権利のことです。このような自由は本当に存在するのでしょうか?そうではありません。
2. いわゆる表現の自由は存在しない
真実であること、良いこと、美しいことを公に表現し、奨励する権利は、明らかに存在します。人は、互いにより良くなるよう助け合う義務があります。しかし、人は、真理を知り、良いことを愛して実行し、美しいことを称賛するとき、より良く、より尊厳ある者となります。
また、人が、互いにより良くなるよう助け合う義務を果たすためには、自分の尊厳を低めるものをすべて、できる限り取り除かなくてはならないことも、明らかです。しかし、人は、誤っているとき、不正義を行うとき、悪意をもった行動を取るとき、醜いものを作り出すときには、その尊厳が下がります。
ですから、偽りのこと、悪いこと、醜いことを広める権利とされる、表現の自由などというものは存在しません。その反対に、指導者には、自分の責任下にある人々の尊厳を低めることを防ぎ、その人々がより良くなることを助けるものを奨励する義務があります。父親は自分の家族に対して、会社の取締役は自分の会社に対して、アート・ギャラリーの責任者は自分のアート・ギャラリーに対して、学校の校長は自分の学校に対して、国の首長は自分の国に対して、のようにです。
3. いわゆる表現の自由はイデオロギー的な武器である
偽りの表現の自由は、自分たちの誤った考えや道徳的な腐敗を、妨害なしに広めるために作られた、イデオロギー的な武器です。実際具体的には、この偽りの表現の自由には、誤りや嘘や道徳的倒錯を広めることを許す以外の目的がありません。
この表現の自由は実際には存在しませんが、人々がそれに惹かれるのは、それが人の自尊心をくすぐるからです。それは、人がすべてのものごとの究極の審判者であり、真実と善の源であるという印象を、人に与えるのです。しかし、明らかにこれは誤りです。人が自分自身の人としての本性を作ったのではありません。人が自分自身に命を与えたのではありません。人が宇宙やそれを掌る法則を作ったのではありません。人が真実のものや、良いものを作るのではありません。人は、人としての本性をそのまま受け、自分の命を受け、自分の意思には基づかない法則に支配された宇宙の中に置かれるのです。人が真実や誤りを作るのではなく、自分の周りの現実をそのまま知る限りにおいて、真実の中にあるのです。人が良いものや悪いものを作るのではなく、自分の存在の理由や、自分の周りの宇宙の法則や、とりわけ自分を造られた天主の法と自分を贖ってくださったキリストの法に服従する状態にある限りにおいて、その行動が良いものとなるのです。
4. 真の「表現の自由」
私はここまで偽りの「表現の自由」についてお話ししてきました。では、真の「表現の自由」というのは存在するのでしょうか?はい、存在します。人には、互いがより良くなるよう、つまり、真理を知り、良いことを行い、種々の才能を開発するよう助け合う義務があると言いました。ですから、表現の自由は、真理を語り、良いことを奨励し、他の人がそれから恩恵を受けられるようにする全ての人が持っています。
表現の自由は、とりわけ、世界中におけるカトリック教会が持っています。それはなぜでしょうか?それは、カトリック教会は、天主に関する最も重要な真理や、人間の存在の理由に関する知識をすべての人にもたらし、またカトリック教会のみが、人が聖なる者となり、永遠の幸福を実現する方法を、すべての人に与えるからです。すべての政府は、カトリック教会に表現の自由を与えるだけでなく、できる限りそれを奨励しなくてはなりません。カトリック教会から表現の自由を奪う政府は、カトリック教会や自らの国民にたいして、たいへん重大な不正義を犯しているのです。
結論
親愛なる信者の皆さん、偽りの表現の自由に騙されないようにしましょう。自由は、何をしても、考えても、言ってもいいという許可ではありません。自由は、私たちの持つ、選択する能力です。自分の自由を適切に使う方法は、正しいものを選ぶことです。実際、自分の知性を適切に使う方法は、ものごとをありのままに知ることです。間違いを犯すのは、自分の知性の使い方の誤りです。自分の意思を正しく使う方法は、良いことをすることです。悪いことをすることは、自分の意思の使い方の誤りです。自分の自由を正しく使う方法は、真実であること、良いこと、美しいことを選ぶことです。誤ったこと、悪いこと、または醜いことを選ぶことは、自分の自由の使い方の誤りです。
では、私たちに完徳や幸福を実現させてくれる、真実であること、良いこと、美しいことは、どこにあるでしょうか?私たちの主イエズス・キリストがおっしゃったように、それは主にあります。「私は世の光である。私にしたがう人はやみの中を歩かず、命の光をもつであろう。」(ヨハネ8章12節)「私は、心の柔和な、謙遜な者であるから、私のくびきをとってならいなさい。そうすれば、霊魂は休むであろう。私のくびきは快く、私の荷は軽いからである。」(マテオ11章29-30節)「まことにまことに、私はいう。信じる人は永遠の命をもつ。」(ヨハネ6章47節)ですから、私たちの自由を最も良く使う方法は、私たちの主イエズス・キリストを私たちの王として選び、一生涯主を愛し、主に従うことです。とこしえに、すべての栄誉と栄光が主にあらんことを。アーメン。