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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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死者のための祈り。- 死者への信心は、恐れと信頼の精神に基づいていなければならない。

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第一部 煉獄、正義の神秘

第2章

死者のための祈り。- 恐れと信頼。
死者のための祈り、死者のためのいけにえや祈りは、すべてキリスト教の礼拝の部分をなす。煉獄の霊魂への信心は、聖霊が愛徳をもって信者の心に広める信心である。聖書によれば、死者が罪から解放されるように、死者のために祈ることは、聖なる有益な考えである(1)。
(1) II マカベオ12:46

それが完全であるためには、死者への信心は、恐れと信頼の精神に基づいていなければならない。一方では、天主の神聖さとその正義が、私たちに有益な恐れを抱かせ、他方では、天主の無限の憐みが、私たちに限りない信頼を与えてくれる。

天主は、太陽が光である以上に聖であり、その御顔の前には罪の陰であっても全くありえない。あなたの目は清く、御目は不義を見るに耐えられない、と預言者は言う(1)。だから、被造物に不義が起こるとき、天主の聖性はそれに対する贖いを求める。この贖いが正義の厳しさをもってなされるとき、それは恐ろしいものとなる。この贖いが正義の厳しさを尽くしてなされるとき、それは恐ろしいことである。だから聖書はまた、「天主の御名は聖く、恐ろしい(2)」と言うのである。あたかも聖書は天主の正義は、その正義が無限であるので恐ろしい、とでも言っているかのようである。

天主の正義は恐るべきものであり、どんなに些細な過ちであっても極めて厳しく罰せられる。その理由は、私たちの目には軽いこれらの過ちも、天主の前ではまったくそうではないからである。ほんの些細な罪も、天主にとっては無限に不愉快なものであり、無限の神聖さを害されるため、ほんの些細な違反が巨大な割合を占め、巨大な償いを必要とするのである。これが、あの世での罰の恐るべき厳しさを説明するものであり、私たちを聖なる恐れで満たすべきものなのだ。

煉獄の恐れは救いに有益な恐れである。その効果は、苦しむ霊魂に対する愛徳に満ちた同情心だけでなく、自分自身に対する警戒心に満ちた熱意を私たちに起こさせることだ。煉獄の火を思い浮かべれば、些細な過ちも避けようとするだろう。煉獄の火を思い浮かべれば、償いを実践し、来世よりも現世で天主の正義を満足させようとするだろう。

しかし、過度の恐れに注意し、信頼を失わないようにしよう。天主の憐みを忘れてはならない。天主の憐みは天主の正義に劣らず無限である。「主よ、あなたの慈しみは天の高さにまさる(3)」と預言者は言い、また別の箇所では、「主は慈しみと寛容に満ち、忍耐強く、惜しみなく慈しんでくださる(4)」とある。この計り知れない慈しみは、私たちの強すぎる不安を鎮め、聖なる確信で満たしてくれるはずだ。In te Domine speravi, non confundar in aeternum. 主よ、私は御身に希望した、永遠に恥ずることなからん。

もしも私たちがこの二つの感情に基づくならば、つまりもしも、天主の憐みに対する信頼が、天主の正義がわれわれに抱かせる恐れと同じであるならば、われわれは死者に対する真の信心の精神を持つことになる。
さて、この二重の感情は、正しく理解すれば、正義と憐みの二重の神秘を含む煉獄の教義から自然に引き出される。この2つの観点から煉獄を考察し、その教義を説明しよう。

(1) ハバククI, 13 - (2) 詩篇110篇。- (3) 詩篇107篇 - (4) 詩篇144篇。- (5) 詩篇70篇。


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