アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
1月16日に大阪で行った聖伝のミサ(教皇殉教者 聖マルチェッロ)のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
2016年1月16日 土曜日 教皇殉教者 聖マルチェッロ(歌ミサ)
小野田神父 説教
聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は2016年1月16日、聖教皇、聖マルチェロ殉教者のミサをしております。このミサの直後、1月にはいつも恒例の、踏み絵で犯された罪の償いをする事を提案します。どうぞ皆さん御聖体拝領のようにいらして、踏み絵に接吻をなさって下さい。
その後に公教要理をまた始めたいと思います。1月、2016年からは、レネー神父様は、新しく「十戒」の連続御説教を始めましたし、ちょうど私たちも公教要理で、「イエズス・キリスト」について到達しました。そこで、1月のこの今年からの、ちょうどイエズス様の御生涯を深く黙想する前に、その付録として、信仰について、信仰の徳について、希望の徳について、愛の徳について、それを振り返ってから、またイエズス様の話に戻りたいと、イエズス様の信仰に関する、信仰を深く、深める事をする事はどうか、信仰にも色々あるけれども、「信仰が強い」とか、信仰が、「完全な信仰だ」とか、「不完全な信仰だ」とか、或いは、信仰に反する罪はどれほど重いのか、とか色々な観点から、公教要理を今年からまた学んでいきたいと思います。
2月10日は灰の水曜日で、私たちは21歳以上59歳までの健康なカトリック青年男女は、大小斎を守らなければなりません。また14歳以上のカトリック信者は、年齢の制限なしに小斎を守らなければなりません。また聖ピオ十世会では、四旬節中の全ての金曜日に、大小斎を守っていますので、もしも皆さんご一緒にできる方がいらっしゃれば、どうぞなさって下さい。また、シュテーリン神父様は、2016年の決心として、毎月13日には、大小斎をファチマのマリア様の意向で捧げる事を提案しています。マニラの司祭とブラザー、シスターたちは、さっそく1月13日にこれを捧げましたけれども、皆さんももしもよろしかったら、毎月13日に大小斎を捧げて下さい。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、昨日私たちは、イエズス様の聖心を是非私たちの心に頂いて、私たちがイエズス様の心を以って、マリア様を愛する事ができるように、最高の諸聖人が、今までマリア様に対する信心を行った中で、最高のやり方の信心を、私たちは黙想しました。イエズス様の聖心を私たちの心の中に頂いて、それを以って、マリア様を愛する。では、これをする為に、どうやったら良いか、という事も黙想しました。それをする為には、私たちはいつもお祈りをして、この御恵みを求めなければならない。特に、御聖体拝領の中で、このお祈りを、この御恵みを祈り求めなければならない。毎日、射祷で、朝起きた時に、また日々思い出すごとに、「イエズス様、聖心をどうぞ私の心に下さい。その御身の聖心で、マリア様を愛する事ができますように」と、祈らなければならない、と黙想しました。
私たちはそれだけでなくて、実際にイエズス様のなさったように、私たちも努力しなければならない、と黙想しました。どんな事をするかというと、昨日黙想したのは、「イエズス様のように、マリア様に従順でなければならない」。マリア様をお喜ばせる為に、マリア様のお望みのままに、私たちも従順となる。イエズス様の30年間の御生涯に、全くピタリと一致して倣う、という事です。
また、マリア様を尊敬して、崇敬して、マリア様を褒め讃えなければならない。マリア様の名誉の為に、何かをしなければならない、と黙想しました。
今日提案するのは、イエズス様がマリア様の子だ、という事で、マリア様と瓜二つだった、という事で、「マリア様の御徳と、イエズス様の徳が似ていた」という事、それで、「イエズス様がマリア様の真似して、マリア様に従順であって、崇敬して、それを真似した」という事を考えたら、「マリア様は、私たちにも、イエズス様になさると同じ様な事を、私たちになさって下さる」という事を黙想したいと思います。
第1の点は、イエズス様がマリア様に対してなさった事、第2の点は、ですから、マリア様が私たちに於いて、あたかもイエズス様に対してなさるかのようにする、この事をみて、それで最後に、私たちは遷善の決心を立てる事に致しましょう。
それで、私たちがこの黙想の結果、どうやって、この黙想がよくできたか、できなかったか、或いは、この黙想が実りがあったか、なかったか、という判断はどうやってつけたら良いのか、どうやって私たちのその黙想を評価したら良いか、という事も、黙想を考えてみます。
イエズス様はでは、マリア様に従順で、マリア様に尊敬を払っていた。その結果、マリア様の事を真似よう、真似よう、と思っていました。イエズス様の笑い方、イエズス様の口調、イエズス様の物腰、イエズス様の仕草は、マリア様そっくりでした。
マリア様はどんな方だったでしょうか?マリア様の事をよくご覧になって下さい。マリア様は童貞の内の童貞であり、とても清い方でした。イエズス様も全く純潔の純潔、清い方でありました。マリア様はご自分の事を、「主の婢女なり」と、天使に言いました。「主の婢女なり。自分の事はどうでもいいのです、主の御旨が行われますように。たとえ、主の御旨が何か見た目には不可能であるかのように見えるけれども、私は童貞でありながら、母親となる。あたかも、モーゼの青い、青々とした木が、轟々と火で燃えているかのように」しかしマリア様は、深い信仰を以って、「我は主の婢女なり、仰せの如く我になりかし」ご謙遜と深い信仰と、自分の利益を忘れるほどの謙遜を以って、ご自分が何であるかを示しました。
イエズス様も全く同じでした。「イエズス様もこの世に入る時に、『見よ、私は御身の御旨を果たす為に来ます。』と、イザヤの預言書に書かれてある通りの事を言った」と、聖パウロは証言しています。イエズス様のその従順、御謙遜、これはマリア様と瓜二つです。
マリア様は、深い信仰と、その全てが不可能であるかのようにも思われたそのお告げの時から、カナの婚宴、イエズス様からあたかも拒まれたかのようにも見えた、「これが、あなたと私の間に一体何の関係があるのか」それでも、「さあ、この人の通りになさりなさい」として、奇跡を起こさせた、起こしてもらった。
或いは、天主であるにもかかわらず、死を迎えた。「キリストは死なない」と、書かれてあるのに、目の前で死んでいる。その不可能であるかのような現実、天主の御子であるはずなのに、何故この私の息子は、「主よ、何故我を見捨て給うのか」と言う、あたかも絶望したかのような言葉を仰っている。しかしマリア様は、全てを超えて信じていました。深い信仰を持っていました。
マリア様は、天使のお告げを受けてからすぐに、エリザベトの事を聞き、愛徳を以って実践しました、「あぁ、エリザベトはもう年をとっている。助けてあげよう、さぞかし苦しんでいるに、さぞかし大変な事に違いない」自分の地位、自分の「天主の御母」という素晴らしい事はすっかり忘れて、エリザベトの愛徳の奉仕の為に行きます。マリア様の霊的な、マリア様を通して、イエズス様は霊的な奇跡さえも行います。
イエズス様は、そのようなマリア様の行いを、そのようなお姿を、いつも真似しておられました。
第2のポイントで、マリア様はでは、イエズス様にどのような事をなさるのでしょうか?いえ、もっと言うと、イエズス様の聖心を私たちが頂いた、イエズス様の聖心を頂いている私たちに、マリア様は一体どのような事をなさるでしょうか?
マリア様は、イエズス様になさるのと同じ様な事を私たちになさいます。どういう事かというと、マリア様は、私たちに於いてイエズス様が形作られる様に、イエズス様がますます生きる様に、私たちにとって生きる、というのはイエズス・キリストであるように、私たちが、イエズス様のように考えて、イエズス様のように話して、イエズス様のように行う事ができるように、マリア様は育ててくれます。私たちの中にイエズス様をますます形作ってくれます。ますます、言ってみれば、養い、育てて、教育してくれます。マリア様は、私たちに於いて、イエズス・キリストをますますご覧になるからです。
イエズス様の聖心を頂けば頂くほど、マリア様がますます私たちにイエズス・キリストを形作ろうとして、私たちに色々な助言やアドバイスや教えを与えてくれます、よく聞いて下さい。ちょうど司祭がホスチアを聖変化させて、イエズス様の御体にするように、マリア様も私たちに語りかけて、私たちを、見た目にはパンのまま、見た目にはそのままだけれども、実は、イエズス・キリスト自身である、というように変えて下さいます。
では、マリア様の話を、言葉を、よく聞いて下さい。マリア様は一体、何と仰るでしょうか?マリア様は、イエズス様の聖心が私たちの心にますます入るように、私たちの心をきれいにしなさい、イエズス様に対して戦っている、イエズス様に反対している様なものを、ますます取り除きなさい、とアドバイスして下さいます。
何故かというと、賢い母は、イエズス様が入ろう、と、イエズス様が御自分の聖心を下さろうとしているにもかかわらず、それを妨害している私たちに気が付いているからです。ですから、イエズス様がせっかく、「自分の心を以ってマリア様を愛しなさい」と、あげたくてあげたくてたまらないにもかかわらず、マリア様も、「あぁ、早く受け取って欲しい、受け取って欲しい」と言うにもかかわらず、私が、それを邪魔して、邪魔ものを付けているので、どうしてもイエズス様がそれを下さる事ができない。マリア様がそれを願っても、その邪魔ものがあるので、ハラハラハラハラしながらも、まだこれを受け取れないでいるのを見て、はがゆい思いをしている。
「では、マリア様、一体どうしたら良いのですか?」
すると、イエズス様の聖心を私たちが受けるに邪魔する様なものは、私たちの欠点だ、私たちの悪い傾きだ、私たちがよく深く根強く持ってしまっている、悪い癖がある。その癖の為に、イエズス様を素直に聖心を素直に入る事ができなくなっている。
「では、その癖は一体何なのでしょうか?」マリア様は私たちに、「どんな癖があるか考えてごらんなさい?」と、招いておられるようです。
もしかしたら私たちは、虚栄を追っていて、人からいつも褒められたり、ちやほやされるのを望んで、隠れて望んでいるのかもしれません。
或いは、私たちには、「いやぁ、大した事ないですよ」と、口先だけでは言うけれど、本当は傲慢で、「大した事がないんですね」と、そのまま言われると、「え!?」と、却って怒ってしまったりするかもしれません。
或いは、私たちは非常に短気で、ちょっとした事によっても、すぐ敏感に、「え!?」と怒るのだけれども、他の人が怒るのを見て、「何だ、この人は」と言うのかもしれません。
或いは、私はもしかしたら、とても野心家で、人の上に立ちたい、人の上に号令をして、「こうだ、こうだ」とやりたい、と、「仕切りたい」と、思っていて、でも他の人が何か選ばれてやると、「あ!何だこの人は」と言って、妬みを起こしたり、嫉妬を起こしたりしているのかもしれません。もしかしたら、その仕返しをしてやろうとか、復讐をしてやろうとか、今度会ったら見返してやろうと思っているのかもしれません。
イエズス様の柔和、謙遜な心とは反対なのかもしれません。
或いは、私たちはとても性格が良くて、「さあ」良い事を聞くと、「さあ、やろう!」と思うのだけれども、ちょっと経つと、「あぁ、もうやめた」と、すぐに根気が無くて、すぐに、「もう難しいから」或いは、「あぁ、めんどくさいから」或いは、「あぁ、気が散った」と言って、すぐにやめてしまって、せっかく立てた決心も3日坊主どころか、3時間で終わってしまうかもしれません。
或いは、私たちの行いはあまりにも見かけだけで、心の底には全然響いてなくて、外見だけ、見かけだけで、心が伴っていなかったのかもしれません。
或いは、私たちの行動は、いつも肉欲に、或いは情欲に動かされていて、いつも、「楽をしたい、怠惰に時を過ごしたい」或いは、「つまらない情欲に流されたい。食べて、飲んで」という事だけを求めていたかもしれません。
或いは、私たちは、私は自分の事だけを考えて、マリア様のように、「あぁ、隣人が困っている」或いは、「天主様の為に」という事よりは、自分はこんなに困っていて、自分はこんなに疲れていて、自分はこうで、自分は、自分は、自分は自分は、としか考えていなかったかもしれません。
マリア様は、そのよう私たちに於いて、「イエズス様の精神と反対の精神は有りませんか?」と、今日尋ねておられます。
私たちがそれを、自分のその欠点を、或いはその主要な不足な所を発見するのは、御恵みが必要です。中には自分の正直な姿を見るのは怖いし、或いは嫌だし、或いは正直な姿を見ても、自分が自分で以って思っている姿というのと、もしかしたら一致しなくて、正直な所を見る事ができないかもしれません。
でもマリア様の御取次ぎによって、ますます私たちがイエズス様を受け入れる事ができるように、その自分、私の欠点が、或いは不足の所が、妨害物が何かをよく悟らせて下さるようにお祈り致しましょう。
もしも、もしもそのような主要な欠点が何か分かったら、私たちはどうしたら良いでしょうか?
一番よく勧められているのが、私たちの欠点に反対する様なイエズス様の善徳を、聖徳を、美徳を、私たちがそれを見て、そこに於いて、イエズス様に倣うように努力する、という事です。
例えばもしも、私はとても根気が無くて、ちょっとすると、「あぁ、ダメだ」「あぁ、もう気が散った」「もう、インターネットだ」「あぁ、テレビを見ちゃおう」さあ本を開いたけれども「あぁ、もうダメだ」というような人には、イエズス様の十字架の道行き、倒れても倒れても歩いたイエズス様、「イエズス様、どうぞ、その根気を下さい」というお祈りをしたらどうでしょうか。イエズス様にその根気を願ったらどうでしょうか。一度にアッと、もちろんイエズス様は下さらないかもしれませんけれども、しかし、少しずつ少しずつ、その力を与えてくれるはずです。
もしも、私がとても傲慢で、「私の名誉が傷付いた」といつも敏感になっている場合には、イエズス様の柔和、謙遜である聖心に祈って、イエズス様が、屈辱を受けても、何も返答せずに、黙ってそれを耐え忍んでおられた御受難を黙想する事によって、お捧げするのはどうでしょうか。
第2に、もしも私がその欠点を犯してしまったら、どうしたら良いでしょうか?
マリア様は、欠点を犯したら、「すぐに、償いをしなさい」と、仰います。もしも私たちがそれをすぐに償うならば、どうやって償ったら良いか、という事も、どうぞマリア様にお伺い下さい、マリア様はここで、「また気を散らしてしまいました」「あぁ、短気になってしまいました」或いは、「こうなってしまいました、どうしたら良いでしょうか?」マリア様は、「では、それの償いに、この十字架を受けなさい」「この今の仕事を終わらせてしまいなさい」などと仰るかもしれません。私たちはその、或いは償いにめでたしをここで、或いは償いの祈りを唱えよう、と思うかもしれません。すぐに償えば償うほど、それは私たちの犯した過失は、恵みの源となります。
こうやってマリア様は私たちに、イエズス様と反対する様なものを、イエズス様の御恵みを妨害する様なものを浄めよう、浄めようと教えてくれます。
では今日、どのような遷善な決心を立てたらよろしいでしょうか?
1つは、イエズス様の聖心を頂くように、ますます今日も、毎日、御聖体拝領の時に、霊的聖体拝領によって、或いは日々のお祈りによって、イエズス様の聖心を求めましょう。イエズス様の聖心を以ってマリア様をお愛しする事ができるように、マリア様に従順であり、マリア様を褒め讃えて、マリア様の真似をするように致しましょう。
第2に、マリア様の勧めに従って、私たちの心から、イエズス様を邪魔をするようなものを浄める事ができるように、今日是非、私にとって、イエズス様に一番反対する様なものは何かを、ちょっとボヤッとではなくて、一体本当は、具体的に、「本当の所は何なのだろうか」と、マリア様にお伺いしてみる事に致しましょう。マリア様に、どうぞ、そのイエズス様から邪魔するものを、ますます少なくして下さるように、私たちに、それに反対する徳を実践する事ができるようにお祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
1月16日に大阪で行った聖伝のミサ(教皇殉教者 聖マルチェッロ)のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
2016年1月16日 土曜日 教皇殉教者 聖マルチェッロ(歌ミサ)
小野田神父 説教
聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は2016年1月16日、聖教皇、聖マルチェロ殉教者のミサをしております。このミサの直後、1月にはいつも恒例の、踏み絵で犯された罪の償いをする事を提案します。どうぞ皆さん御聖体拝領のようにいらして、踏み絵に接吻をなさって下さい。
その後に公教要理をまた始めたいと思います。1月、2016年からは、レネー神父様は、新しく「十戒」の連続御説教を始めましたし、ちょうど私たちも公教要理で、「イエズス・キリスト」について到達しました。そこで、1月のこの今年からの、ちょうどイエズス様の御生涯を深く黙想する前に、その付録として、信仰について、信仰の徳について、希望の徳について、愛の徳について、それを振り返ってから、またイエズス様の話に戻りたいと、イエズス様の信仰に関する、信仰を深く、深める事をする事はどうか、信仰にも色々あるけれども、「信仰が強い」とか、信仰が、「完全な信仰だ」とか、「不完全な信仰だ」とか、或いは、信仰に反する罪はどれほど重いのか、とか色々な観点から、公教要理を今年からまた学んでいきたいと思います。
2月10日は灰の水曜日で、私たちは21歳以上59歳までの健康なカトリック青年男女は、大小斎を守らなければなりません。また14歳以上のカトリック信者は、年齢の制限なしに小斎を守らなければなりません。また聖ピオ十世会では、四旬節中の全ての金曜日に、大小斎を守っていますので、もしも皆さんご一緒にできる方がいらっしゃれば、どうぞなさって下さい。また、シュテーリン神父様は、2016年の決心として、毎月13日には、大小斎をファチマのマリア様の意向で捧げる事を提案しています。マニラの司祭とブラザー、シスターたちは、さっそく1月13日にこれを捧げましたけれども、皆さんももしもよろしかったら、毎月13日に大小斎を捧げて下さい。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、昨日私たちは、イエズス様の聖心を是非私たちの心に頂いて、私たちがイエズス様の心を以って、マリア様を愛する事ができるように、最高の諸聖人が、今までマリア様に対する信心を行った中で、最高のやり方の信心を、私たちは黙想しました。イエズス様の聖心を私たちの心の中に頂いて、それを以って、マリア様を愛する。では、これをする為に、どうやったら良いか、という事も黙想しました。それをする為には、私たちはいつもお祈りをして、この御恵みを求めなければならない。特に、御聖体拝領の中で、このお祈りを、この御恵みを祈り求めなければならない。毎日、射祷で、朝起きた時に、また日々思い出すごとに、「イエズス様、聖心をどうぞ私の心に下さい。その御身の聖心で、マリア様を愛する事ができますように」と、祈らなければならない、と黙想しました。
私たちはそれだけでなくて、実際にイエズス様のなさったように、私たちも努力しなければならない、と黙想しました。どんな事をするかというと、昨日黙想したのは、「イエズス様のように、マリア様に従順でなければならない」。マリア様をお喜ばせる為に、マリア様のお望みのままに、私たちも従順となる。イエズス様の30年間の御生涯に、全くピタリと一致して倣う、という事です。
また、マリア様を尊敬して、崇敬して、マリア様を褒め讃えなければならない。マリア様の名誉の為に、何かをしなければならない、と黙想しました。
今日提案するのは、イエズス様がマリア様の子だ、という事で、マリア様と瓜二つだった、という事で、「マリア様の御徳と、イエズス様の徳が似ていた」という事、それで、「イエズス様がマリア様の真似して、マリア様に従順であって、崇敬して、それを真似した」という事を考えたら、「マリア様は、私たちにも、イエズス様になさると同じ様な事を、私たちになさって下さる」という事を黙想したいと思います。
第1の点は、イエズス様がマリア様に対してなさった事、第2の点は、ですから、マリア様が私たちに於いて、あたかもイエズス様に対してなさるかのようにする、この事をみて、それで最後に、私たちは遷善の決心を立てる事に致しましょう。
それで、私たちがこの黙想の結果、どうやって、この黙想がよくできたか、できなかったか、或いは、この黙想が実りがあったか、なかったか、という判断はどうやってつけたら良いのか、どうやって私たちのその黙想を評価したら良いか、という事も、黙想を考えてみます。
イエズス様はでは、マリア様に従順で、マリア様に尊敬を払っていた。その結果、マリア様の事を真似よう、真似よう、と思っていました。イエズス様の笑い方、イエズス様の口調、イエズス様の物腰、イエズス様の仕草は、マリア様そっくりでした。
マリア様はどんな方だったでしょうか?マリア様の事をよくご覧になって下さい。マリア様は童貞の内の童貞であり、とても清い方でした。イエズス様も全く純潔の純潔、清い方でありました。マリア様はご自分の事を、「主の婢女なり」と、天使に言いました。「主の婢女なり。自分の事はどうでもいいのです、主の御旨が行われますように。たとえ、主の御旨が何か見た目には不可能であるかのように見えるけれども、私は童貞でありながら、母親となる。あたかも、モーゼの青い、青々とした木が、轟々と火で燃えているかのように」しかしマリア様は、深い信仰を以って、「我は主の婢女なり、仰せの如く我になりかし」ご謙遜と深い信仰と、自分の利益を忘れるほどの謙遜を以って、ご自分が何であるかを示しました。
イエズス様も全く同じでした。「イエズス様もこの世に入る時に、『見よ、私は御身の御旨を果たす為に来ます。』と、イザヤの預言書に書かれてある通りの事を言った」と、聖パウロは証言しています。イエズス様のその従順、御謙遜、これはマリア様と瓜二つです。
マリア様は、深い信仰と、その全てが不可能であるかのようにも思われたそのお告げの時から、カナの婚宴、イエズス様からあたかも拒まれたかのようにも見えた、「これが、あなたと私の間に一体何の関係があるのか」それでも、「さあ、この人の通りになさりなさい」として、奇跡を起こさせた、起こしてもらった。
或いは、天主であるにもかかわらず、死を迎えた。「キリストは死なない」と、書かれてあるのに、目の前で死んでいる。その不可能であるかのような現実、天主の御子であるはずなのに、何故この私の息子は、「主よ、何故我を見捨て給うのか」と言う、あたかも絶望したかのような言葉を仰っている。しかしマリア様は、全てを超えて信じていました。深い信仰を持っていました。
マリア様は、天使のお告げを受けてからすぐに、エリザベトの事を聞き、愛徳を以って実践しました、「あぁ、エリザベトはもう年をとっている。助けてあげよう、さぞかし苦しんでいるに、さぞかし大変な事に違いない」自分の地位、自分の「天主の御母」という素晴らしい事はすっかり忘れて、エリザベトの愛徳の奉仕の為に行きます。マリア様の霊的な、マリア様を通して、イエズス様は霊的な奇跡さえも行います。
イエズス様は、そのようなマリア様の行いを、そのようなお姿を、いつも真似しておられました。
第2のポイントで、マリア様はでは、イエズス様にどのような事をなさるのでしょうか?いえ、もっと言うと、イエズス様の聖心を私たちが頂いた、イエズス様の聖心を頂いている私たちに、マリア様は一体どのような事をなさるでしょうか?
マリア様は、イエズス様になさるのと同じ様な事を私たちになさいます。どういう事かというと、マリア様は、私たちに於いてイエズス様が形作られる様に、イエズス様がますます生きる様に、私たちにとって生きる、というのはイエズス・キリストであるように、私たちが、イエズス様のように考えて、イエズス様のように話して、イエズス様のように行う事ができるように、マリア様は育ててくれます。私たちの中にイエズス様をますます形作ってくれます。ますます、言ってみれば、養い、育てて、教育してくれます。マリア様は、私たちに於いて、イエズス・キリストをますますご覧になるからです。
イエズス様の聖心を頂けば頂くほど、マリア様がますます私たちにイエズス・キリストを形作ろうとして、私たちに色々な助言やアドバイスや教えを与えてくれます、よく聞いて下さい。ちょうど司祭がホスチアを聖変化させて、イエズス様の御体にするように、マリア様も私たちに語りかけて、私たちを、見た目にはパンのまま、見た目にはそのままだけれども、実は、イエズス・キリスト自身である、というように変えて下さいます。
では、マリア様の話を、言葉を、よく聞いて下さい。マリア様は一体、何と仰るでしょうか?マリア様は、イエズス様の聖心が私たちの心にますます入るように、私たちの心をきれいにしなさい、イエズス様に対して戦っている、イエズス様に反対している様なものを、ますます取り除きなさい、とアドバイスして下さいます。
何故かというと、賢い母は、イエズス様が入ろう、と、イエズス様が御自分の聖心を下さろうとしているにもかかわらず、それを妨害している私たちに気が付いているからです。ですから、イエズス様がせっかく、「自分の心を以ってマリア様を愛しなさい」と、あげたくてあげたくてたまらないにもかかわらず、マリア様も、「あぁ、早く受け取って欲しい、受け取って欲しい」と言うにもかかわらず、私が、それを邪魔して、邪魔ものを付けているので、どうしてもイエズス様がそれを下さる事ができない。マリア様がそれを願っても、その邪魔ものがあるので、ハラハラハラハラしながらも、まだこれを受け取れないでいるのを見て、はがゆい思いをしている。
「では、マリア様、一体どうしたら良いのですか?」
すると、イエズス様の聖心を私たちが受けるに邪魔する様なものは、私たちの欠点だ、私たちの悪い傾きだ、私たちがよく深く根強く持ってしまっている、悪い癖がある。その癖の為に、イエズス様を素直に聖心を素直に入る事ができなくなっている。
「では、その癖は一体何なのでしょうか?」マリア様は私たちに、「どんな癖があるか考えてごらんなさい?」と、招いておられるようです。
もしかしたら私たちは、虚栄を追っていて、人からいつも褒められたり、ちやほやされるのを望んで、隠れて望んでいるのかもしれません。
或いは、私たちには、「いやぁ、大した事ないですよ」と、口先だけでは言うけれど、本当は傲慢で、「大した事がないんですね」と、そのまま言われると、「え!?」と、却って怒ってしまったりするかもしれません。
或いは、私たちは非常に短気で、ちょっとした事によっても、すぐ敏感に、「え!?」と怒るのだけれども、他の人が怒るのを見て、「何だ、この人は」と言うのかもしれません。
或いは、私はもしかしたら、とても野心家で、人の上に立ちたい、人の上に号令をして、「こうだ、こうだ」とやりたい、と、「仕切りたい」と、思っていて、でも他の人が何か選ばれてやると、「あ!何だこの人は」と言って、妬みを起こしたり、嫉妬を起こしたりしているのかもしれません。もしかしたら、その仕返しをしてやろうとか、復讐をしてやろうとか、今度会ったら見返してやろうと思っているのかもしれません。
イエズス様の柔和、謙遜な心とは反対なのかもしれません。
或いは、私たちはとても性格が良くて、「さあ」良い事を聞くと、「さあ、やろう!」と思うのだけれども、ちょっと経つと、「あぁ、もうやめた」と、すぐに根気が無くて、すぐに、「もう難しいから」或いは、「あぁ、めんどくさいから」或いは、「あぁ、気が散った」と言って、すぐにやめてしまって、せっかく立てた決心も3日坊主どころか、3時間で終わってしまうかもしれません。
或いは、私たちの行いはあまりにも見かけだけで、心の底には全然響いてなくて、外見だけ、見かけだけで、心が伴っていなかったのかもしれません。
或いは、私たちの行動は、いつも肉欲に、或いは情欲に動かされていて、いつも、「楽をしたい、怠惰に時を過ごしたい」或いは、「つまらない情欲に流されたい。食べて、飲んで」という事だけを求めていたかもしれません。
或いは、私たちは、私は自分の事だけを考えて、マリア様のように、「あぁ、隣人が困っている」或いは、「天主様の為に」という事よりは、自分はこんなに困っていて、自分はこんなに疲れていて、自分はこうで、自分は、自分は、自分は自分は、としか考えていなかったかもしれません。
マリア様は、そのよう私たちに於いて、「イエズス様の精神と反対の精神は有りませんか?」と、今日尋ねておられます。
私たちがそれを、自分のその欠点を、或いはその主要な不足な所を発見するのは、御恵みが必要です。中には自分の正直な姿を見るのは怖いし、或いは嫌だし、或いは正直な姿を見ても、自分が自分で以って思っている姿というのと、もしかしたら一致しなくて、正直な所を見る事ができないかもしれません。
でもマリア様の御取次ぎによって、ますます私たちがイエズス様を受け入れる事ができるように、その自分、私の欠点が、或いは不足の所が、妨害物が何かをよく悟らせて下さるようにお祈り致しましょう。
もしも、もしもそのような主要な欠点が何か分かったら、私たちはどうしたら良いでしょうか?
一番よく勧められているのが、私たちの欠点に反対する様なイエズス様の善徳を、聖徳を、美徳を、私たちがそれを見て、そこに於いて、イエズス様に倣うように努力する、という事です。
例えばもしも、私はとても根気が無くて、ちょっとすると、「あぁ、ダメだ」「あぁ、もう気が散った」「もう、インターネットだ」「あぁ、テレビを見ちゃおう」さあ本を開いたけれども「あぁ、もうダメだ」というような人には、イエズス様の十字架の道行き、倒れても倒れても歩いたイエズス様、「イエズス様、どうぞ、その根気を下さい」というお祈りをしたらどうでしょうか。イエズス様にその根気を願ったらどうでしょうか。一度にアッと、もちろんイエズス様は下さらないかもしれませんけれども、しかし、少しずつ少しずつ、その力を与えてくれるはずです。
もしも、私がとても傲慢で、「私の名誉が傷付いた」といつも敏感になっている場合には、イエズス様の柔和、謙遜である聖心に祈って、イエズス様が、屈辱を受けても、何も返答せずに、黙ってそれを耐え忍んでおられた御受難を黙想する事によって、お捧げするのはどうでしょうか。
第2に、もしも私がその欠点を犯してしまったら、どうしたら良いでしょうか?
マリア様は、欠点を犯したら、「すぐに、償いをしなさい」と、仰います。もしも私たちがそれをすぐに償うならば、どうやって償ったら良いか、という事も、どうぞマリア様にお伺い下さい、マリア様はここで、「また気を散らしてしまいました」「あぁ、短気になってしまいました」或いは、「こうなってしまいました、どうしたら良いでしょうか?」マリア様は、「では、それの償いに、この十字架を受けなさい」「この今の仕事を終わらせてしまいなさい」などと仰るかもしれません。私たちはその、或いは償いにめでたしをここで、或いは償いの祈りを唱えよう、と思うかもしれません。すぐに償えば償うほど、それは私たちの犯した過失は、恵みの源となります。
こうやってマリア様は私たちに、イエズス様と反対する様なものを、イエズス様の御恵みを妨害する様なものを浄めよう、浄めようと教えてくれます。
では今日、どのような遷善な決心を立てたらよろしいでしょうか?
1つは、イエズス様の聖心を頂くように、ますます今日も、毎日、御聖体拝領の時に、霊的聖体拝領によって、或いは日々のお祈りによって、イエズス様の聖心を求めましょう。イエズス様の聖心を以ってマリア様をお愛しする事ができるように、マリア様に従順であり、マリア様を褒め讃えて、マリア様の真似をするように致しましょう。
第2に、マリア様の勧めに従って、私たちの心から、イエズス様を邪魔をするようなものを浄める事ができるように、今日是非、私にとって、イエズス様に一番反対する様なものは何かを、ちょっとボヤッとではなくて、一体本当は、具体的に、「本当の所は何なのだろうか」と、マリア様にお伺いしてみる事に致しましょう。マリア様に、どうぞ、そのイエズス様から邪魔するものを、ますます少なくして下さるように、私たちに、それに反対する徳を実践する事ができるようにお祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。