アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様が3月13日(主日)の御ミサの後にしてくださった、「天主の十戒」についての霊的講話をご紹介いたします。
第4回目は、「第一戒(の最後)」と「第二戒」についてです。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2016年3月13日―大阪 霊的講話「第一戒(の最後)」と「第二戒」
親愛なる兄弟の皆さん、
前回私が説明しなかった礼拝の行為がもう一つあります。聖なるもの、特に秘蹟を正しく用いることです。まことの天主にしてまことの人間である私たちの主イエズス・キリストは、私たちの救いのために七つの秘蹟を制定されました。これら最も聖なる恩寵豊かな手段を敬虔に用いることは、まさしく私たちの主に、天主に確実に敬意を捧げることです。しかし、これらの手段を無視することは主の名誉をけがすことです。そのため教会は、秘蹟は救いに必要であると教えています。私たちの主イエズス・キリストご自身が、洗礼の必要性とご聖体の必要性を教えられました。「まことにまことに私は言う。水と霊とによって生まれぬ者は天の国に入れぬ」(ヨハネ3章5節)。「まことにまことに私は言う。人の子の肉を食べず、その血を飲まなければ、あなたたちの中には命がない」(ヨハネ6章53節)。秘蹟を正しく用いること、特に告解と聖体拝領を頻繁に用いることは、天主に大きな敬意を捧げることであり、また私たちが大変豊かな恩寵をいただく源なのです。
しかし、秘蹟を乱用することは大変重い罪です。第一戒に反する汚聖の罪です。告解において、まだ告白していない大罪を隠すとき、汚聖が起こります。不幸なことに、汚聖が悪しき聖体拝領において今日頻繁に起こりますが、それは人々が良心に大罪を抱えたままご聖体を受けるときです。ほとんど告解に行かないまま、どのミサでも聖体拝領に行くことによって多くの人々が告解を無視することは、多くの汚聖へと扉を開くのです。手による聖体拝領も、大変多くの汚聖へと扉を開いてきています。手による聖体拝領では、私たちの主にふさわしい敬意を、私たちが主に負い目として持っている敬意を、主はお受けになりません。不幸なことに、この現代に起きている汚聖のもう一つの例は、聖職者や奉献された人による不純の罪です。これは、叙階の秘蹟の乱用、「奉献された人」のけがれです。
聖パウロは言います。「人は心で信じて義とせられ、言葉で宣言して救いを受ける」(ローマ10章10節)。内的な信仰は天主に敬意を捧げますが、外的な信仰の告白もまたそうです。殉教者たちは信仰を告白し、裁判官の前でさえ、その「信仰の告白」で堪え抜き、このために処刑されました。彼らは「信仰の証人」であり、信仰のために喜んで血を流すことによって、信仰の真理を証言しました。これがまさに、殉教者という言葉の意味です。これが第二戒の目的、つまり信仰を告白することによって天主に敬意を捧げることです。初期の教会においては、カトリック信仰のために逮捕され、裁判官のところに連れて行かれたカトリック信者がいました。彼らはキリストを告白し、キリストのために死ぬ覚悟をしました。でも投獄され(しばしば拷問を受け)ましたが、そこでは死なず、のちに釈放されました。これらの人々は「証聖者」と呼ばれました。なぜなら、公に信仰の告白をしたからです。のちに教会は、聖なる生活によってカトリック信仰を公に告白しても、殉教者として死ななかった聖人たちにも「証聖者」という称号を与えるようになりました。天主は真理です。「私は道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14章6節)。ですから、私たちは喜んで真理のために立ち上がり、私たちの主イエズス・キリストの真理を証言しなければなりません。これが天主に敬意を捧げることです。「人々の前で私の味方だと宣言する者を、私もまた天にいます父の前で味方だと宣言しよう。人々の前で私を否む者を、私もまた天にいます父の前で否む」(マテオ10章32-33節)。注意していただきたいのは、まことの殉教者は自殺をするのではなく、ましてや(イスラム教徒がするように)他の人々を殺すことはありません。彼らは、キリストのために迫害者によって処刑されるのです。
信仰の告白に反する罪は、冒涜であり、天主についての偽りのことを肯定し(あるいは天主についての真理を否定し)、天主を、特に御摂理を批判することです。私たちは、そのような冒涜を自ら行うことは絶対にしてはなりません! 何か理解していないことがあるなら、謙遜にそれについて祈り、そのことに詳しい誰かに助けを頼むべきです。天主は恩寵を謙遜な者に与えられます。大変多くの教義を否定し、自分だけの方法で天主のみ言葉を「再解釈」し、教義からまことの意味を実質的になくしてしまう異端者たちは、カトリック信仰を否定するとき、たとえ冒涜だと理解していなくても、実際は冒涜しているのです。キリストの神性の否定は、イスラム教徒だけでなくエホバの証人や他のグループによって行われていますが、これは冒涜です。しかしまた、ご聖体を否定することや、ご聖体におけるキリストの現存を否定することも冒涜です。これは、私たちに対する天主の愛の最も偉大なるしるしを否定すること、天主の愛を否定することです! これは冒涜です。同じことが、信仰の他の真理を否定することにも当てはまります。真理へ同意することを拒否するのは異端であり、第一戒に反します。公に否定することによってその拒否を告白することは冒涜であり、第二戒に反します。冒涜の典型的な例は、私たちの主が悪魔であるとファリザイ人が告発したことです。「あなたはサマリア人で悪魔に憑かれている! イエズスは、『私は悪魔に憑かれてはいない。私は私の父を尊んでいるのに、あなたたちは私を軽蔑している。私は自分の光栄を求めていないが、それを求めてそして裁かれる方がある』と言われた」(ヨハネ8章48-50節)。言い換えましょう。気を付けよ、あなたたちは天主の審判で、この冒涜の報告をしなければならなくなる。だから悔い改めよ。
私たちの言葉で天主に敬意を示す方法のひとつは、私たちが言うことの中に明らかになっていない真理がある場合、それが真理であることの証人を天主にお願いすることによってです。これが「誓い」です。例えば「反近代主義の誓い」があります。天主だけが心のうちをご存じであり、人が本当に信じていることをご存じです。この誓いをすることによって、私たちがまことの真理に執着し、近代主義者の誤謬を拒否することについて、天主に証人をお願いするのです。これは、天主の最高の知識とその正義に敬意を捧げることです。「誓い」という言葉の意味はこうです。「天主に私が言うことの証人になっていただくこと」。そのような真剣な言葉は、大変な注意をもって、ふさわしい理由があって、軽々しくない場合だけに使うべきです。反近代主義の誓いのように、正当に使われるなら、それは徳の行いです。しかし誤った方法で使われるなら、それは罪であり、重い罪です。まず第一に、偽りのことを誓うことによって、その罪を犯すことがあります。偽りの誓いをすることは、偽証という大変重い罪です。しかし、軽々しく誓うときも、その罪を犯すことがあります。すなわち、無価値なこと、本当に必要ではないことを誓うときです。これは「天主の名をみだりに呼ぶ」ことにあたります。また同じ罪が起こるのは、誰かが天主やイエズス、聖人たちの聖なる御名を、必要もなく、自分が言っていることに注意を払わず、聖なる御名に当然あるべき敬意を示さずに、会話の中で差し挟む場合です。天主の御名やイエズスの御名、聖人たちの名前を、目的もなく常に口に出す人々がいます。これは悪いこと、非常に悪いことです。たとえば敬虔な祈りにおいて正しく天主の聖なる御名を呼ぶことが天主に大いなる敬意を示すのに対して、ほとんど罵り言葉で天主の聖なる御名を不正に呼ぶことは、罪深いことであり、すべきではありません。これはまた、聖なることと関係のある言葉の使い方にも当てはまります。例えば、「hell(地獄)」という言葉ですが、「to have a hell of a good time(とても愉快な時を過ごす)」という表現のように、正しい文脈以外で常時それを使う人々がいます。主は福音書の中で、これを断固として非難しておられます。「私は言う、決して誓ってはならぬ。天を指して誓ってはならぬ、そこは天主の玉座である。地を指しても誓ってはならぬ、そこは天主の足台である。エルザレムを指しても誓ってはならぬ、そこは大王の都である。自分の頭を指しても誓ってはならぬ、あなたには一本の髪の毛さえ白くも黒くもできぬ。『はい』なら『はい』、『いいえ』なら『いいえ』とだけ言え。それ以上のことは悪魔から出る」(マテオ5章34-35節)。
旧約においては、敬虔なユダヤ人は、天主がモーゼに啓示なさった聖なる御名を決して口にしませんでした。その御名が聖書に書かれたとき、ユダヤ人は、「ヤーウェ/イェホヴァ」と読む代わりに「アドナイ」と読みました。その結果、紀元前二百年頃に聖書がギリシャ語(七十人訳)に翻訳されたとき、アドナイという言葉は「Kyrie―主」と翻訳されました。新約においては、使徒たちはこの習慣に従って、「すべての名にまさる名」(フィリッピ2章9-11節)を明らかに意図していながら、 イエズスを「主」と呼んでいました。
当然の敬意もなく、会話の中に聖なる御名や他の聖なる言葉を差し挟む悪い習慣のある人は誰であれ、その悪い習慣と強く闘い、そういう誤りをしたのに気付くたび、毎回祈りを唱えてそれを償わなければなりません。こうすることによって、その人は、きちんとした慎重さもなく口を通して「漏れ出る」その言葉の使い方に完全に同意した訳ではないことを保証するのです。しかし、その習慣と闘わないのなら、その人はその誤りに完全に同意したことになり、完全に大罪の状態になるのです。もし誠実にその習慣と闘うならば、そんな言葉が漏れ出たとしても、完全な同意を与えていないので小罪になるでしょう。即座に償いと祈りをすれば、それが聖なる御名への敬意、隣人への啓発になり、その人はこの悪い習慣に対する勝利を得るでしょう。
聖なる御名を呼ぶためのもう一つの良い方法は、天主に対して約束をするときです。これは「誓願」と呼ばれます。聖にして母なる教会は、三つの福音的誓願、いや三つの福音的勧告を守る誓願を、常に高く評価してきました。聖人の生涯には他の誓願もあります。「贖虜(しょくりょ)の聖母修道会(メルセス会)」の会員は、人質となった人を取り戻すために必要ならば、隣人の霊魂を救うのを助けるための聖なる取引をして、自らをイスラム教徒の奴隷として差し出す誓願をするのです。またイエズス会士は、教皇が依頼するどのような布教活動へも行くという、布教活動の誓願を立てます。会の初期には多くの聖なるイエズス会士が非常に困難な布教に行きました。カナダで殉教したブレブフの聖ヨハネのように。これは重要な問題ですから、司祭が前もってはっきりとした許可を与えていなければ、信者は誓願を立ててはならないと、教会は教えています。天主への正式な約束ではなくて、むしろ単なる「良い決心」と考えるべきです。
聖トマス・アクィナスは、誓願の善について、次のように説明します。「木を丸ごと誰かに与えることは、単に毎年その木の果物を与えることにまさる。木を丸ごと与えた者は、その木になる果物についての権利自体を放棄しているのだから、果物は木をもらった人のものである」。このように、三つの福音的誓願をたてた人は、もはや所有の権利を持たず、自分の意志の権利さえ持たないのです。その誓願をたてた男性あるいは女性は、全面的に私たちの主イエズス・キリストのものなのです。誓願はまた、約束したことを果たそうとする私たちの意志を強めてくれます。なぜなら、天主に敬意を捧げようと思うからであり、また私たちが約束を結んだキリストに対して罪を犯すことに聖なる恐れを抱くからです。特に従順の誓願を通じて、三つの功徳を獲得します。良い行いそれ自体(例えば祈りなど)の功徳、従順の功徳、そして誓願の功徳です! しかし、その誓願を守ることができなければ、一度に三重の罪を犯すことになります。義務それ自体が守れなかったこと、従順が守れなかったこと、誓願に反したことです。
私たちの主イエズス・キリストが私たちの中に生きておられるとき、信仰と愛徳によって、主は私たちの考えと愛情を主のそれらに一致させられます。そうすると私たちの言葉は私たちの主イエズス・キリストのみ言葉を繰り返すようになるはずですから、私たちの会話は良いものとなり、啓発的になるはずです。主は言われます。「良い人はその心の良い倉から良いものを出し、悪い人は悪い倉から悪いものを出す。口は心にあふれるものを言葉に出すからである」(ルカ6章45節)。主が私たちの心を、私たちの霊魂を統治なさっているのであれば、私たちの会話、私たちの言葉は聖なるものになるべきであって、品のないものであってはなりません。私たちは、良い、啓発的な話題について話すべきであって、世俗的なものについて話すべきではありません。第二戒は、天主の御名の使い方について私たちに直接義務を負わせますが、またより一般的に、私たちの話すことについても義務を負わせます。真のカトリック信者の会話は世俗的な人々の会話のようであってはなりません。そこには、主に対して罪を犯すようなものは何もあってはなりません。冒涜もなく、みだりにする誓いもなく、呪いもなく、汚い言葉もなく、人を傷つける言葉も、他のそのようなものもあってはなりません。それどころか、聖ヤコボが言うように、聖なるもので、けがれのないものでなければなりません。「あなたたちの中に賢明なそして経験のある人がいるだろうか。その人はよい生活(会話)をし、知識と柔和をもってその業を行っていることを示せ。…上からの知恵はまず清いもの、そして平和な寛容な謙譲なもの、あわれみとよい実に満ち、人を差別せず、偽らないものである」(ヤコボ3章13-17節)。
私たちの主イエズス・キリストは、御父のみ言葉、愛を呼吸する完全なみ言葉、すべてに超えた天主の愛と隣人への愛です。主が地上に来られたとき、主のみ言葉は「恩寵のみ言葉」でした。「人々はみなイエズスをそれと認め、その口から出た優雅なみ言葉に感嘆し」(ルカ4章22節)た。私たちの主イエズス・キリストが私たちの中に生きておられるとき、私たちの会話は主にふさわしいものになります。聖パウロがティトにこう言うように。「あなた自身がよい行いの模範となれ。教えにあたっては廉正と威厳、とがのない健全な言葉を示せ。私たちについて反対者に悪口(あっこう)を言わせず、自ら恥じ入らせるためである」(ティト2章7-8節)。「あなたたちが言葉と行いをもってすることはすべて、キリストによって、父なる天主に感謝しつつ、主イエズスのみ名によって行え」(コロサイ3章17節)。
天主に敬意を捧げるため、私たちの主イエズス・キリストに敬意を捧げるために私たちの口を使いましょう。まことのカトリック信者の口にのぼることがそぐわないような言葉を、私たちは一言も言わないようにしましょう。このことは、子どもたちの教育にも役立ちます。どんな悪い言葉も決して使うことのないよう、敬意のないまま天主の御名を決して使うことのないよう、両親が気を付けていれば、子どもたちは良い友達と悪い友達を会話によって簡単に区別するでしょう。良くない話をする人々を自然に嫌うようになるでしょう。子どもが家庭で覚えなかった言葉を使ったとき、それが家庭で覚えたものでないことが十分にわかっていれば、両親が「どこでその言葉を覚えたの?」と言えば、子どもはすぐに、そのような言葉を使う人々を避けるべきだということが分かるでしょう。
童貞聖マリアが、私たちが常に良きかつ聖なる話をするよう、その模範と祈りによって、お助けくださいますように! 聖福音において、聖母は常に話を非常に控えておられ、言われる言葉は少なかったものの、知恵に満ちていました。聖母が多くお話しになった唯一のときは、マグニフィカトで天主を讃美するためでした。聖母は天主の御名の聖性という感覚に満ちておられ、こう歌われました。「けだし全能にてまします御者、われに大事をなし給いたればなり。聖なるかな、その御名」(ルカ1章49節)。
天主の聖なる御名が、イエズスの聖なる御名が永遠に祝されますように! アーメン!
愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様が3月13日(主日)の御ミサの後にしてくださった、「天主の十戒」についての霊的講話をご紹介いたします。
第4回目は、「第一戒(の最後)」と「第二戒」についてです。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2016年3月13日―大阪 霊的講話「第一戒(の最後)」と「第二戒」
親愛なる兄弟の皆さん、
前回私が説明しなかった礼拝の行為がもう一つあります。聖なるもの、特に秘蹟を正しく用いることです。まことの天主にしてまことの人間である私たちの主イエズス・キリストは、私たちの救いのために七つの秘蹟を制定されました。これら最も聖なる恩寵豊かな手段を敬虔に用いることは、まさしく私たちの主に、天主に確実に敬意を捧げることです。しかし、これらの手段を無視することは主の名誉をけがすことです。そのため教会は、秘蹟は救いに必要であると教えています。私たちの主イエズス・キリストご自身が、洗礼の必要性とご聖体の必要性を教えられました。「まことにまことに私は言う。水と霊とによって生まれぬ者は天の国に入れぬ」(ヨハネ3章5節)。「まことにまことに私は言う。人の子の肉を食べず、その血を飲まなければ、あなたたちの中には命がない」(ヨハネ6章53節)。秘蹟を正しく用いること、特に告解と聖体拝領を頻繁に用いることは、天主に大きな敬意を捧げることであり、また私たちが大変豊かな恩寵をいただく源なのです。
しかし、秘蹟を乱用することは大変重い罪です。第一戒に反する汚聖の罪です。告解において、まだ告白していない大罪を隠すとき、汚聖が起こります。不幸なことに、汚聖が悪しき聖体拝領において今日頻繁に起こりますが、それは人々が良心に大罪を抱えたままご聖体を受けるときです。ほとんど告解に行かないまま、どのミサでも聖体拝領に行くことによって多くの人々が告解を無視することは、多くの汚聖へと扉を開くのです。手による聖体拝領も、大変多くの汚聖へと扉を開いてきています。手による聖体拝領では、私たちの主にふさわしい敬意を、私たちが主に負い目として持っている敬意を、主はお受けになりません。不幸なことに、この現代に起きている汚聖のもう一つの例は、聖職者や奉献された人による不純の罪です。これは、叙階の秘蹟の乱用、「奉献された人」のけがれです。
聖パウロは言います。「人は心で信じて義とせられ、言葉で宣言して救いを受ける」(ローマ10章10節)。内的な信仰は天主に敬意を捧げますが、外的な信仰の告白もまたそうです。殉教者たちは信仰を告白し、裁判官の前でさえ、その「信仰の告白」で堪え抜き、このために処刑されました。彼らは「信仰の証人」であり、信仰のために喜んで血を流すことによって、信仰の真理を証言しました。これがまさに、殉教者という言葉の意味です。これが第二戒の目的、つまり信仰を告白することによって天主に敬意を捧げることです。初期の教会においては、カトリック信仰のために逮捕され、裁判官のところに連れて行かれたカトリック信者がいました。彼らはキリストを告白し、キリストのために死ぬ覚悟をしました。でも投獄され(しばしば拷問を受け)ましたが、そこでは死なず、のちに釈放されました。これらの人々は「証聖者」と呼ばれました。なぜなら、公に信仰の告白をしたからです。のちに教会は、聖なる生活によってカトリック信仰を公に告白しても、殉教者として死ななかった聖人たちにも「証聖者」という称号を与えるようになりました。天主は真理です。「私は道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14章6節)。ですから、私たちは喜んで真理のために立ち上がり、私たちの主イエズス・キリストの真理を証言しなければなりません。これが天主に敬意を捧げることです。「人々の前で私の味方だと宣言する者を、私もまた天にいます父の前で味方だと宣言しよう。人々の前で私を否む者を、私もまた天にいます父の前で否む」(マテオ10章32-33節)。注意していただきたいのは、まことの殉教者は自殺をするのではなく、ましてや(イスラム教徒がするように)他の人々を殺すことはありません。彼らは、キリストのために迫害者によって処刑されるのです。
信仰の告白に反する罪は、冒涜であり、天主についての偽りのことを肯定し(あるいは天主についての真理を否定し)、天主を、特に御摂理を批判することです。私たちは、そのような冒涜を自ら行うことは絶対にしてはなりません! 何か理解していないことがあるなら、謙遜にそれについて祈り、そのことに詳しい誰かに助けを頼むべきです。天主は恩寵を謙遜な者に与えられます。大変多くの教義を否定し、自分だけの方法で天主のみ言葉を「再解釈」し、教義からまことの意味を実質的になくしてしまう異端者たちは、カトリック信仰を否定するとき、たとえ冒涜だと理解していなくても、実際は冒涜しているのです。キリストの神性の否定は、イスラム教徒だけでなくエホバの証人や他のグループによって行われていますが、これは冒涜です。しかしまた、ご聖体を否定することや、ご聖体におけるキリストの現存を否定することも冒涜です。これは、私たちに対する天主の愛の最も偉大なるしるしを否定すること、天主の愛を否定することです! これは冒涜です。同じことが、信仰の他の真理を否定することにも当てはまります。真理へ同意することを拒否するのは異端であり、第一戒に反します。公に否定することによってその拒否を告白することは冒涜であり、第二戒に反します。冒涜の典型的な例は、私たちの主が悪魔であるとファリザイ人が告発したことです。「あなたはサマリア人で悪魔に憑かれている! イエズスは、『私は悪魔に憑かれてはいない。私は私の父を尊んでいるのに、あなたたちは私を軽蔑している。私は自分の光栄を求めていないが、それを求めてそして裁かれる方がある』と言われた」(ヨハネ8章48-50節)。言い換えましょう。気を付けよ、あなたたちは天主の審判で、この冒涜の報告をしなければならなくなる。だから悔い改めよ。
私たちの言葉で天主に敬意を示す方法のひとつは、私たちが言うことの中に明らかになっていない真理がある場合、それが真理であることの証人を天主にお願いすることによってです。これが「誓い」です。例えば「反近代主義の誓い」があります。天主だけが心のうちをご存じであり、人が本当に信じていることをご存じです。この誓いをすることによって、私たちがまことの真理に執着し、近代主義者の誤謬を拒否することについて、天主に証人をお願いするのです。これは、天主の最高の知識とその正義に敬意を捧げることです。「誓い」という言葉の意味はこうです。「天主に私が言うことの証人になっていただくこと」。そのような真剣な言葉は、大変な注意をもって、ふさわしい理由があって、軽々しくない場合だけに使うべきです。反近代主義の誓いのように、正当に使われるなら、それは徳の行いです。しかし誤った方法で使われるなら、それは罪であり、重い罪です。まず第一に、偽りのことを誓うことによって、その罪を犯すことがあります。偽りの誓いをすることは、偽証という大変重い罪です。しかし、軽々しく誓うときも、その罪を犯すことがあります。すなわち、無価値なこと、本当に必要ではないことを誓うときです。これは「天主の名をみだりに呼ぶ」ことにあたります。また同じ罪が起こるのは、誰かが天主やイエズス、聖人たちの聖なる御名を、必要もなく、自分が言っていることに注意を払わず、聖なる御名に当然あるべき敬意を示さずに、会話の中で差し挟む場合です。天主の御名やイエズスの御名、聖人たちの名前を、目的もなく常に口に出す人々がいます。これは悪いこと、非常に悪いことです。たとえば敬虔な祈りにおいて正しく天主の聖なる御名を呼ぶことが天主に大いなる敬意を示すのに対して、ほとんど罵り言葉で天主の聖なる御名を不正に呼ぶことは、罪深いことであり、すべきではありません。これはまた、聖なることと関係のある言葉の使い方にも当てはまります。例えば、「hell(地獄)」という言葉ですが、「to have a hell of a good time(とても愉快な時を過ごす)」という表現のように、正しい文脈以外で常時それを使う人々がいます。主は福音書の中で、これを断固として非難しておられます。「私は言う、決して誓ってはならぬ。天を指して誓ってはならぬ、そこは天主の玉座である。地を指しても誓ってはならぬ、そこは天主の足台である。エルザレムを指しても誓ってはならぬ、そこは大王の都である。自分の頭を指しても誓ってはならぬ、あなたには一本の髪の毛さえ白くも黒くもできぬ。『はい』なら『はい』、『いいえ』なら『いいえ』とだけ言え。それ以上のことは悪魔から出る」(マテオ5章34-35節)。
旧約においては、敬虔なユダヤ人は、天主がモーゼに啓示なさった聖なる御名を決して口にしませんでした。その御名が聖書に書かれたとき、ユダヤ人は、「ヤーウェ/イェホヴァ」と読む代わりに「アドナイ」と読みました。その結果、紀元前二百年頃に聖書がギリシャ語(七十人訳)に翻訳されたとき、アドナイという言葉は「Kyrie―主」と翻訳されました。新約においては、使徒たちはこの習慣に従って、「すべての名にまさる名」(フィリッピ2章9-11節)を明らかに意図していながら、 イエズスを「主」と呼んでいました。
当然の敬意もなく、会話の中に聖なる御名や他の聖なる言葉を差し挟む悪い習慣のある人は誰であれ、その悪い習慣と強く闘い、そういう誤りをしたのに気付くたび、毎回祈りを唱えてそれを償わなければなりません。こうすることによって、その人は、きちんとした慎重さもなく口を通して「漏れ出る」その言葉の使い方に完全に同意した訳ではないことを保証するのです。しかし、その習慣と闘わないのなら、その人はその誤りに完全に同意したことになり、完全に大罪の状態になるのです。もし誠実にその習慣と闘うならば、そんな言葉が漏れ出たとしても、完全な同意を与えていないので小罪になるでしょう。即座に償いと祈りをすれば、それが聖なる御名への敬意、隣人への啓発になり、その人はこの悪い習慣に対する勝利を得るでしょう。
聖なる御名を呼ぶためのもう一つの良い方法は、天主に対して約束をするときです。これは「誓願」と呼ばれます。聖にして母なる教会は、三つの福音的誓願、いや三つの福音的勧告を守る誓願を、常に高く評価してきました。聖人の生涯には他の誓願もあります。「贖虜(しょくりょ)の聖母修道会(メルセス会)」の会員は、人質となった人を取り戻すために必要ならば、隣人の霊魂を救うのを助けるための聖なる取引をして、自らをイスラム教徒の奴隷として差し出す誓願をするのです。またイエズス会士は、教皇が依頼するどのような布教活動へも行くという、布教活動の誓願を立てます。会の初期には多くの聖なるイエズス会士が非常に困難な布教に行きました。カナダで殉教したブレブフの聖ヨハネのように。これは重要な問題ですから、司祭が前もってはっきりとした許可を与えていなければ、信者は誓願を立ててはならないと、教会は教えています。天主への正式な約束ではなくて、むしろ単なる「良い決心」と考えるべきです。
聖トマス・アクィナスは、誓願の善について、次のように説明します。「木を丸ごと誰かに与えることは、単に毎年その木の果物を与えることにまさる。木を丸ごと与えた者は、その木になる果物についての権利自体を放棄しているのだから、果物は木をもらった人のものである」。このように、三つの福音的誓願をたてた人は、もはや所有の権利を持たず、自分の意志の権利さえ持たないのです。その誓願をたてた男性あるいは女性は、全面的に私たちの主イエズス・キリストのものなのです。誓願はまた、約束したことを果たそうとする私たちの意志を強めてくれます。なぜなら、天主に敬意を捧げようと思うからであり、また私たちが約束を結んだキリストに対して罪を犯すことに聖なる恐れを抱くからです。特に従順の誓願を通じて、三つの功徳を獲得します。良い行いそれ自体(例えば祈りなど)の功徳、従順の功徳、そして誓願の功徳です! しかし、その誓願を守ることができなければ、一度に三重の罪を犯すことになります。義務それ自体が守れなかったこと、従順が守れなかったこと、誓願に反したことです。
私たちの主イエズス・キリストが私たちの中に生きておられるとき、信仰と愛徳によって、主は私たちの考えと愛情を主のそれらに一致させられます。そうすると私たちの言葉は私たちの主イエズス・キリストのみ言葉を繰り返すようになるはずですから、私たちの会話は良いものとなり、啓発的になるはずです。主は言われます。「良い人はその心の良い倉から良いものを出し、悪い人は悪い倉から悪いものを出す。口は心にあふれるものを言葉に出すからである」(ルカ6章45節)。主が私たちの心を、私たちの霊魂を統治なさっているのであれば、私たちの会話、私たちの言葉は聖なるものになるべきであって、品のないものであってはなりません。私たちは、良い、啓発的な話題について話すべきであって、世俗的なものについて話すべきではありません。第二戒は、天主の御名の使い方について私たちに直接義務を負わせますが、またより一般的に、私たちの話すことについても義務を負わせます。真のカトリック信者の会話は世俗的な人々の会話のようであってはなりません。そこには、主に対して罪を犯すようなものは何もあってはなりません。冒涜もなく、みだりにする誓いもなく、呪いもなく、汚い言葉もなく、人を傷つける言葉も、他のそのようなものもあってはなりません。それどころか、聖ヤコボが言うように、聖なるもので、けがれのないものでなければなりません。「あなたたちの中に賢明なそして経験のある人がいるだろうか。その人はよい生活(会話)をし、知識と柔和をもってその業を行っていることを示せ。…上からの知恵はまず清いもの、そして平和な寛容な謙譲なもの、あわれみとよい実に満ち、人を差別せず、偽らないものである」(ヤコボ3章13-17節)。
私たちの主イエズス・キリストは、御父のみ言葉、愛を呼吸する完全なみ言葉、すべてに超えた天主の愛と隣人への愛です。主が地上に来られたとき、主のみ言葉は「恩寵のみ言葉」でした。「人々はみなイエズスをそれと認め、その口から出た優雅なみ言葉に感嘆し」(ルカ4章22節)た。私たちの主イエズス・キリストが私たちの中に生きておられるとき、私たちの会話は主にふさわしいものになります。聖パウロがティトにこう言うように。「あなた自身がよい行いの模範となれ。教えにあたっては廉正と威厳、とがのない健全な言葉を示せ。私たちについて反対者に悪口(あっこう)を言わせず、自ら恥じ入らせるためである」(ティト2章7-8節)。「あなたたちが言葉と行いをもってすることはすべて、キリストによって、父なる天主に感謝しつつ、主イエズスのみ名によって行え」(コロサイ3章17節)。
天主に敬意を捧げるため、私たちの主イエズス・キリストに敬意を捧げるために私たちの口を使いましょう。まことのカトリック信者の口にのぼることがそぐわないような言葉を、私たちは一言も言わないようにしましょう。このことは、子どもたちの教育にも役立ちます。どんな悪い言葉も決して使うことのないよう、敬意のないまま天主の御名を決して使うことのないよう、両親が気を付けていれば、子どもたちは良い友達と悪い友達を会話によって簡単に区別するでしょう。良くない話をする人々を自然に嫌うようになるでしょう。子どもが家庭で覚えなかった言葉を使ったとき、それが家庭で覚えたものでないことが十分にわかっていれば、両親が「どこでその言葉を覚えたの?」と言えば、子どもはすぐに、そのような言葉を使う人々を避けるべきだということが分かるでしょう。
童貞聖マリアが、私たちが常に良きかつ聖なる話をするよう、その模範と祈りによって、お助けくださいますように! 聖福音において、聖母は常に話を非常に控えておられ、言われる言葉は少なかったものの、知恵に満ちていました。聖母が多くお話しになった唯一のときは、マグニフィカトで天主を讃美するためでした。聖母は天主の御名の聖性という感覚に満ちておられ、こう歌われました。「けだし全能にてまします御者、われに大事をなし給いたればなり。聖なるかな、その御名」(ルカ1章49節)。
天主の聖なる御名が、イエズスの聖なる御名が永遠に祝されますように! アーメン!