アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
聖ピオ十世会の総長第二補佐であるネリー神父様は、3月11日と12日の二日間を大阪で、そして3月13日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げてくださいました。
その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2016年3月13日 四旬節第4主日
ネリー神父様 御説教
同時通訳:小野田圭志神父
[小野田神父]
日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。今日は2016年3月6日、四旬節第4主日のミサをしております。今日は、聖ピオ十世会の総長様の第2補佐の神父様であるネリー神父様を迎えて、大変喜んでおります。今日は神父様のお話が14時半からこの同じ場所であります。もしよろしかったらいらして下さい。16時から晩課があります。明日は、ネリー神父様が第1のミサを、そして7時から第2のミサがあります。3月には、3月20日、ここで枝の主日のミサがあります。復活祭には、大阪でミサがあります。4月には第1主日と第3主日に2回ここでミサがあります。どうぞいらして下さい。
[ネリー神父様御説教]
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
典礼の重要な目的の1つは、私たちの霊魂を高く上げて、イエズス様の神秘を黙想させる、観想させる事にあります。
教会の中には有名な諺(ことわざ)があって、“Lex Orandi, Lex Credendi”これは、“祈りの法は、信仰の法”「祈る内容を、すなわち私たちは信じている」という事です。祈りは私たちに信仰を与え、信仰は私たちに神学の深みを与えてくれる、という事です。
古代教会では、信教がある前に典礼がありました。そこで、私たちが伝統的な聖伝の、伝統の典礼を守る事の大切さが理解できます。何故かというと、聖伝の典礼を守る事によって、聖伝の信仰、伝統的な信仰を守る事ができるようになるからです。もしも第二バチカン公会議の後に、典礼を変えなければならなかったとしたら、近代主義者が、典礼を変えなければならなかったとしたら、それは信仰が変わっていたからです。
私たちの霊魂をこの霊的な糧で養う為に、母なる公教会は私たちに、典礼暦を与えてくれました。そしてその典礼暦は2つの重要な部分に分かれます。私たちに関係する2つの主要な真理というのは、私たちの主イエズス・キリストの「御托身の玄義」と、私たちの主イエズス・キリストの「贖いの玄義」この2つです。
この神秘は、私たちが全て把握し尽くす事ができない真理ですけれども、しかし私たちは洗礼を受けたそのお恵みによって、この2つの神秘を知る事ができます。ですから私たちは、知的な暗闇の中にいるかのようで、しかしその中にも、暗闇の中にも真理の光を見ています。
私たちの母なる教会は、私たちがこの玄義を年ごとに、もう一度、何度も何度も生きるように求めています。そこで教会は私たちに、太祖の言葉や、使徒たちの言葉や、私たちの主イエズス・キリスト御自身の言葉を与えてくれます。
私たちの主の御托身の玄義を黙想する時には、その御降誕、主がお生まれになった事を黙想しますが、それと同時にこれは御公現でもあります。何故かというと、この幼子イエズス・キリストは、真の天主であり、真の人であり、その事が私たちに現れたからです。
御降誕の前の4週間は、教会は私たちに、旧約の時代の太祖たちが、「主よ、来たり給え、早く来たり給え、救いに来たり給え」という叫びを、私たちに典礼に与えています。
牧場の牧者たちが天使の声に導かれて、天主の招きに応じて、馬小屋に主を探しに行きます。或いは星に導かれて、東の博士たちが主を探しに1歩1歩進んで行きます。この天使たちの声、或いは光、星の光は何でしょうか?つまり、信仰の光を表しています。信仰の光によって、クリスマスの日には、御降誕のその日には、天主様の秣桶(まぐさおけ)に行って跪き、そして信仰告白をします。これは、私たちの五感によって、この生まれた赤子が、「真の人であり、真の天主である」という事を告白する為です。
もっとも偉大な神秘は、主の、私たちの主の贖いの神秘で、私たちの主の「死と御復活の神秘」です。そしてこれは2つの、二重の神秘が重なっています。この神秘を黙想させる為に、教会は私たちに9週間の準備をさせます。3週間の七旬節から始まる主日、そして4週間の四旬節の主日、そして2週間の受難の節です。
四旬節の最初の日から、教会は私たちに固有のミサを与えています。そしてこの固有のミサには、特別な書簡と特別の福音があって、言ってみれば私たちが一歩一歩、主の御受難へと歩みを進める事が出来るようになっています。それは、最も神聖な三日間、聖木曜日、聖金曜日、聖土曜日のこの3日 Triduum に準備させる為です。そしてこれは、この3日は、私たちに復活へと開かしてくれます。
そしてこの第4主日、今日の主日は、四旬節のこの私たちの準備している丁度中間にあって、私たちをして「喜ばせよう」と教会は思っています。それは何故なのでしょうか?説明いたします。
以前教会の掟、決まりによれば、四旬節の間の大小斎は非常に厳しいものでした。しかしそれにおいても今日だけは、私たちが喜ぶように求めています。教会は私たちに、「復活の喜びを既に私たちが味わう事ができるように」望んでいるからです。
四旬節の間には、「指定巡礼教会」という教会が1つ1つその日によって決まっているのですけども、今日の指定巡礼教会は、「エルサレムの聖十字架教会」なのです。その、この指定巡礼教会がエルサレムの聖十字架教会であるのは、2つの理由があります。
まず第1に、聖エレナ、コンスタンティノ大帝の母が、エルサレムから主の御受難の聖遺物を、たくさんローマに持ち運びました。そのうちの1つが、私たちの主の聖なる十字架の木で、罪の書かれた札と、そして釘などもあります。そしてそれを私たちが今日礼拝し、そして私たちが罪から解放されたという、その自由を味わう事が出来るようにする為です。
第2に「エルサレム」というのはつまり、「天国」の象徴であって、私たちの「復活」を意味します。私たちは主の神秘体ですから、将来私たちがどのようになるか、どのような復活を受けるか、という事を、私たちの主御自身の復活によって証拠を持っています。
これが、今日聖パウロが書簡で言う意味だったのです。書簡の中では2人の女性が出てきます。1人は自由の女性で、もう1人は奴隷の女です。自由の女性には子供がいて、つまりこれは私たちの事で、カトリック教会は私たちを命に産みました、天主の命に産みました。私たちは罪から解放された自由の子供たちであり、天主の子であり、復活の子であります。
今日の福音で、私たちの主がパンを増やします、奇跡的に増加させますが、これは、私たちに将来与えるべき御聖体の前兆でした。復活祭は以前から、太古から洗礼を受ける日であって、洗礼志願者たちはこの日に罪から解放されて洗礼を受けます。そしてそれと同時に、初聖体を受ける日でもありました。
今日の集祷文もまさにこれです。私たちが今日どのように、どのような事を考えなければいけないか、という事の要点が書かれています。私たちが「罪人である」という事を認め、そして「天主様からの助けを必要としている」という事を認め、私たちが謙遜になるという事です。
こうして教会は注意深く、私たちが、「御受難と復活の神秘を黙想する事ができるように」と導いているのです。このようにして教会は私たちを養い、この神秘に与る事が出来るようにしてくれるのです。
マリア様の霊魂は、とても観想的な、観想をいつも望んでいた霊魂でした。聖ルカの福音書によれば、マリア様は、「全ての事をこの御心に留めておいた」と書かれています。ですからマリア様、つまり教会の母であり、神秘体の母であるマリア様に、私たちにも、マリア様のこの観想を味わう気持ちを、味わう心を下さるようにお祈り致しましょう。
では今から、クレドを大きな声で歌いましょう。何故かというと、クレドこそ、私たちのカトリック信仰の表現であるからです。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
聖ピオ十世会の総長第二補佐であるネリー神父様は、3月11日と12日の二日間を大阪で、そして3月13日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げてくださいました。
その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2016年3月13日 四旬節第4主日
ネリー神父様 御説教
同時通訳:小野田圭志神父
[小野田神父]
日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。今日は2016年3月6日、四旬節第4主日のミサをしております。今日は、聖ピオ十世会の総長様の第2補佐の神父様であるネリー神父様を迎えて、大変喜んでおります。今日は神父様のお話が14時半からこの同じ場所であります。もしよろしかったらいらして下さい。16時から晩課があります。明日は、ネリー神父様が第1のミサを、そして7時から第2のミサがあります。3月には、3月20日、ここで枝の主日のミサがあります。復活祭には、大阪でミサがあります。4月には第1主日と第3主日に2回ここでミサがあります。どうぞいらして下さい。
[ネリー神父様御説教]
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
典礼の重要な目的の1つは、私たちの霊魂を高く上げて、イエズス様の神秘を黙想させる、観想させる事にあります。
教会の中には有名な諺(ことわざ)があって、“Lex Orandi, Lex Credendi”これは、“祈りの法は、信仰の法”「祈る内容を、すなわち私たちは信じている」という事です。祈りは私たちに信仰を与え、信仰は私たちに神学の深みを与えてくれる、という事です。
古代教会では、信教がある前に典礼がありました。そこで、私たちが伝統的な聖伝の、伝統の典礼を守る事の大切さが理解できます。何故かというと、聖伝の典礼を守る事によって、聖伝の信仰、伝統的な信仰を守る事ができるようになるからです。もしも第二バチカン公会議の後に、典礼を変えなければならなかったとしたら、近代主義者が、典礼を変えなければならなかったとしたら、それは信仰が変わっていたからです。
私たちの霊魂をこの霊的な糧で養う為に、母なる公教会は私たちに、典礼暦を与えてくれました。そしてその典礼暦は2つの重要な部分に分かれます。私たちに関係する2つの主要な真理というのは、私たちの主イエズス・キリストの「御托身の玄義」と、私たちの主イエズス・キリストの「贖いの玄義」この2つです。
この神秘は、私たちが全て把握し尽くす事ができない真理ですけれども、しかし私たちは洗礼を受けたそのお恵みによって、この2つの神秘を知る事ができます。ですから私たちは、知的な暗闇の中にいるかのようで、しかしその中にも、暗闇の中にも真理の光を見ています。
私たちの母なる教会は、私たちがこの玄義を年ごとに、もう一度、何度も何度も生きるように求めています。そこで教会は私たちに、太祖の言葉や、使徒たちの言葉や、私たちの主イエズス・キリスト御自身の言葉を与えてくれます。
私たちの主の御托身の玄義を黙想する時には、その御降誕、主がお生まれになった事を黙想しますが、それと同時にこれは御公現でもあります。何故かというと、この幼子イエズス・キリストは、真の天主であり、真の人であり、その事が私たちに現れたからです。
御降誕の前の4週間は、教会は私たちに、旧約の時代の太祖たちが、「主よ、来たり給え、早く来たり給え、救いに来たり給え」という叫びを、私たちに典礼に与えています。
牧場の牧者たちが天使の声に導かれて、天主の招きに応じて、馬小屋に主を探しに行きます。或いは星に導かれて、東の博士たちが主を探しに1歩1歩進んで行きます。この天使たちの声、或いは光、星の光は何でしょうか?つまり、信仰の光を表しています。信仰の光によって、クリスマスの日には、御降誕のその日には、天主様の秣桶(まぐさおけ)に行って跪き、そして信仰告白をします。これは、私たちの五感によって、この生まれた赤子が、「真の人であり、真の天主である」という事を告白する為です。
もっとも偉大な神秘は、主の、私たちの主の贖いの神秘で、私たちの主の「死と御復活の神秘」です。そしてこれは2つの、二重の神秘が重なっています。この神秘を黙想させる為に、教会は私たちに9週間の準備をさせます。3週間の七旬節から始まる主日、そして4週間の四旬節の主日、そして2週間の受難の節です。
四旬節の最初の日から、教会は私たちに固有のミサを与えています。そしてこの固有のミサには、特別な書簡と特別の福音があって、言ってみれば私たちが一歩一歩、主の御受難へと歩みを進める事が出来るようになっています。それは、最も神聖な三日間、聖木曜日、聖金曜日、聖土曜日のこの3日 Triduum に準備させる為です。そしてこれは、この3日は、私たちに復活へと開かしてくれます。
そしてこの第4主日、今日の主日は、四旬節のこの私たちの準備している丁度中間にあって、私たちをして「喜ばせよう」と教会は思っています。それは何故なのでしょうか?説明いたします。
以前教会の掟、決まりによれば、四旬節の間の大小斎は非常に厳しいものでした。しかしそれにおいても今日だけは、私たちが喜ぶように求めています。教会は私たちに、「復活の喜びを既に私たちが味わう事ができるように」望んでいるからです。
四旬節の間には、「指定巡礼教会」という教会が1つ1つその日によって決まっているのですけども、今日の指定巡礼教会は、「エルサレムの聖十字架教会」なのです。その、この指定巡礼教会がエルサレムの聖十字架教会であるのは、2つの理由があります。
まず第1に、聖エレナ、コンスタンティノ大帝の母が、エルサレムから主の御受難の聖遺物を、たくさんローマに持ち運びました。そのうちの1つが、私たちの主の聖なる十字架の木で、罪の書かれた札と、そして釘などもあります。そしてそれを私たちが今日礼拝し、そして私たちが罪から解放されたという、その自由を味わう事が出来るようにする為です。
第2に「エルサレム」というのはつまり、「天国」の象徴であって、私たちの「復活」を意味します。私たちは主の神秘体ですから、将来私たちがどのようになるか、どのような復活を受けるか、という事を、私たちの主御自身の復活によって証拠を持っています。
これが、今日聖パウロが書簡で言う意味だったのです。書簡の中では2人の女性が出てきます。1人は自由の女性で、もう1人は奴隷の女です。自由の女性には子供がいて、つまりこれは私たちの事で、カトリック教会は私たちを命に産みました、天主の命に産みました。私たちは罪から解放された自由の子供たちであり、天主の子であり、復活の子であります。
今日の福音で、私たちの主がパンを増やします、奇跡的に増加させますが、これは、私たちに将来与えるべき御聖体の前兆でした。復活祭は以前から、太古から洗礼を受ける日であって、洗礼志願者たちはこの日に罪から解放されて洗礼を受けます。そしてそれと同時に、初聖体を受ける日でもありました。
今日の集祷文もまさにこれです。私たちが今日どのように、どのような事を考えなければいけないか、という事の要点が書かれています。私たちが「罪人である」という事を認め、そして「天主様からの助けを必要としている」という事を認め、私たちが謙遜になるという事です。
こうして教会は注意深く、私たちが、「御受難と復活の神秘を黙想する事ができるように」と導いているのです。このようにして教会は私たちを養い、この神秘に与る事が出来るようにしてくれるのです。
マリア様の霊魂は、とても観想的な、観想をいつも望んでいた霊魂でした。聖ルカの福音書によれば、マリア様は、「全ての事をこの御心に留めておいた」と書かれています。ですからマリア様、つまり教会の母であり、神秘体の母であるマリア様に、私たちにも、マリア様のこの観想を味わう気持ちを、味わう心を下さるようにお祈り致しましょう。
では今から、クレドを大きな声で歌いましょう。何故かというと、クレドこそ、私たちのカトリック信仰の表現であるからです。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。