アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
聖アルフォンソ・リゴリ著「殉教者たちの勝利」より、一部を抜粋して紹介します。。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
長崎の二十六聖人
聖アルフォンソ・リゴリ著「殉教者たちの勝利」より、(一部を抜粋)
1627年、ウルバノ8世によって列福された26人の殉教者(聖パウロ三木及びその伴侶たち)は、1862年6月8日、聖霊降臨の祝日に、世界各地から集まった約300名の司教たちの臨席のもと、ピオ9世によって列聖されました。彼らの祝日は、その犠牲をまっとうした2月5日と定められています。
1582年、権力の座に登った太閤秀吉は、初め宣教師たちに対して好意的であったものの、4、5年後には彼らに対して非常な不信感と憎悪を抱くようになり、日本全体にキリスト教を禁止する発令を出した。だがそれ以上過激になることはなかった。数年の間、秀吉はあらゆる宗教的表明を禁じたことで満足しており、信仰はひそかに宣伝され続けていた。
1596年12月9日、まことの天主のしもべたちへの反感をふたたび掻き立てられた秀吉は、フランシスコ会士たちが活動していた京都や大阪の奉行たちに、司祭たちを捕縛すること、教会に足しげく出入りしている信者たちの名簿を作るすることを命じた。フランシスコ会の長上、ペトロ・バプチスタ神父は、当時、会の修道者たちに次のような手紙をしたためている。「教会の扉の前に捕り手たちが置かれた最初の日、信者たちは一晩中、告解と祈りをして過ごしました。私たちは翌日処刑されるだろうと知らされていたからです。私は愛するすべての兄弟たちに、あたかも臨終の時であるかのように聖体を授けました。それから、刑場に連れて行かれるまでの間、一人一人に身につけるための十字架を与えました。イエズス・キリストのために死ぬのだという彼らが示してみせた大いなる熱情のために、私の心は慰めで満たされました。死刑に処せられるという知らせが広まると、大勢の人々が各地から加わって来ました。『私どもはいつかは死ななければならないのです』と、彼らは言いました。『天主様の栄光のために死ぬことこそが私どもの願いのすべてであり、そのようなお恵みを賜るよう祈っています。善き天主よりこのお恵みを得られるようお助けくださいませ』」
人々に目撃されたこの素晴らしい模範の数々の中から、いくつかの例を引用する。
太閤の天下統一のために尽力した名高い大名、高山右近は、信仰を捨てることを拒否したために、六年間流浪の日々を送った。大名としての身分を捨て、領地を失い、右近の老いた父、妻、家臣を含む家族らも同じ憂き目を見た。だが、イエズス・キリストのために苦しむことができるのは幸せなことだ彼らは考えていた。キリシタン迫害の知らせを聞くと、右近はそのすぐれた人徳と友情のために彼を庇護してくれていた加賀の領主に別れを告げた。加賀の領主は、奉行は右近を処罰の対象として考えてはいないと断言したが、気高い右近は「恐れながら、この世において私が喜びとする最大の幸福は、私が告白する信仰のために死ぬことです」と答えた。彼はただちに都へと出発した。
玄以法印(前田玄以)の二人の息子も熱意に溢れていた。玄以は異教徒で秀吉の側近であり、二人の息子が洗礼を受けた事実を知らずにいた。ユスト高山右近よりも身分は低かった。
20才になる上の息子の名はパウロ左近(前田秀以)といった。彼は秀吉に取り立てられ、都から離れた場所にある砦の司令官であった。司教たちと同じく司祭たちが捕縛されたこと、全信者たちが死刑に処せられることを聞いて、彼はすぐに二人の使者を、一人は都へ、一人は大阪へと遣わした。自らも真理をあかしするためにであった。その間、殉教を耐えるもっとも優れた手段について考えていた。彼は初め、都で公に自分の姿を見せることを考えていたが、いつもの身なりをしていたのでは誰もあえて自分を捕まえようとはしないだろうと心配した。彼は髪を切り、修道者の格好をして、8人の忠実な信者のしもべたちとともに都に行こうと決心した。8人のうちの一人は、気持ちが定まらない様子を見せた。彼はつい最近洗礼を受けたばかりだったからである。
パウロ左近は彼に他の者たちと一緒に行かないよう助言したが、彼は寛大にもこう答えた。「殿、私はアニマの永遠の救いに価値があるとよく知っています。殉教はそのための最短の道なのですから、私はそれを選びます。もはや私は足の下に踏む塵よりも自分の命を重んじることはありますまい」この答えに満足した若き領主は自分の部屋に入ると、ひざまずいて、天主の愛のために死ぬにふさわしい者にしてくださるようにと熱烈に祈った。それから、両親に手紙を書き、自分が信者であることを伝え、信仰のために死ぬ決意を固めた。彼はこの意向で総告解をし、死の備えをした。
彼の弟の名前はコンスタンティノといった。彼はいとこの一人ミゲル(ミカエル)とともに都に到着し、そこで重大な知らせを耳にした。彼は「おお、我らはまさしく殉教者になるためにここに来たのだ」と叫んだ。すぐに両親のいる伏見に行き、自分は信者であると宣言した。息子を寵愛していた前田玄以は驚愕した。彼をそばに呼び寄せ「だが息子よ、太閤殿下がすべてのキリシタンを殺せと私に命じたら、私はお前もともに殺さなければならないのだぞ」と言った。コンスタンティノは「父上、私は信者であるとあなたに宣言しました。それは死から逃れるためではなく、父上のなすべき義務を正しく実行できるためにです。私は天主に不従順であるよりも処刑人の手にかかる覚悟ができています。たとえそれが父上であってもです。父上は、ただ太閤殿下のお気に召すためだけに私が地獄に落ちることをお望みにはならないでしょう」と答えた。玄以法印は心痛の種となったこのことを妻に話すと、二人は深い悲しみに沈んだ。ミゲルは悲しんでいるおばに偶然鉢合わせした。彼女は甥に、息子が死に急ぐのをなんとかしてやめさせてくれるよう、あらゆる手を尽くしてくれることを頼み込んだ。にも関わらず、二人は殉教者たちの名簿に自分たちの名前が書き込まれる機会を得るため、都へと舞い戻った。
その頃、別の二人の男たちが信仰のために命を犠牲にするため都にやって来た。彼らは望むものが得られなかったので、友人たちに、来るべき時が来たら知らせてくれるよう懇願していた。
豊後の人、アンドレア小笠原のことにも触れておこう。彼は、前章で語った聖なるジョラン(大友義統)が殉教したのち、彼が身につけていた十字架を夜中に外して自分の首にかけた人だった。それ以来、彼は年老いた父と妻、子とともに大阪に隠れ住んだ。この勇敢な人は、死刑の宣告を受けたキリシタンたちの名簿が作られていると知ると、雄々しくも自らの死の準備をするだけでなく、6ヶ月前に洗礼を受けたばかりの80歳になる父親にも死の覚悟をさせた。アンドレアの父は生涯を通じて恐るべき武士であり、頑健であった。アンドレアは父に、殉教の棕櫚の枝は武器によるのではなく、謙遜と忍耐によって得られるのだと教えて励ました。
「だが、武士の名誉にかけて、おめおめと殺されることなどできようか?」と老いた侍は叫んだ。アンドレアは、父のこの誇り高さはキリシタンの教えについて熟知していないことから来ていると知って、こう言った。「愛する父上、父上の武勇すぐれていることには多くの証があります。父上がご自分の命を守らずにイエズス・キリストのために与えるならば、誰も父上を臆病者と非難する者はいないでしょう。しかし、父上がこのような振る舞いを好まないなら、少なくともしばらくの間、国許に帰られて下さい。そこでなら父上の命と名誉を保てるでしょう」だが、老いた侍はさらに激昂して、自分にはそんな卑怯なことはできない、それは最初の申し出である死よりも悪いことだ、そんなことをしたら、命惜しさに逃げたのだと思われるだろうと答えた。しかしながら、自分の目的は別の方法で保てたのだとアンドレアは理解した。この老いた善人は、感情を昂らせて、アンドレアの妻の部屋に入っていったからである。彼は、息子の嫁が晴れ着を着て立ち働いているのを見た。家臣たちがロザリオや十字架、聖遺物箱を自分たちが殉教する日のために用意していることも見てとった。これはなんのためかと問うと、彼らは喜びにあふれて、イエズス・キリストのために死ぬ準備をしているところだと教えた。この短い言葉と態度が、彼の心に感動を呼び起こした。彼は世間の理(ことわり)を放棄して、ロザリオを取り上げ、皆とともに死にたいと言った。
今度はまた、都の寛大なキリシタン女性たちのことも見てみよう。迫害が公に始まったことを知ったため、彼女たちは殉教の時に常に備えていようと、マリアという女性の家に集っていた。各自、婚礼の時の衣装を用意していて、それはつまり、死に臨んで身につけるためのものだった。ある非常に身分の高い女性は、法によってこの一件に関して死を免れさせられてしまうかもしれないと恐れ、皆とともに死ぬためにひそかにマリアの家に赴いた。マリアは養女として引き取ったガラシャという十歳の娘と暮らしていた。マリアは、十字架刑に処せられるのを避けるため、ガラシャに父の家に戻るよう説き伏せようとした。だが娘は断固として言った。「いいえ、私は母上さまとともに死にます。私はキリシタンでございます。何も怖がりはしません。母上さまがともにいてくださる限り、私は死を恐れません」マリアは、愛しい娘の口から出た、天主の恩寵から来るこのような言葉を聞いておおいに慰められた。集まった中の一人の女性が、端然と同胞たちに言った。「私は死の覚悟ができております。しかし、もしも死ぬ時のさまを見て私が怖気づくのを見たならば、どうぞ処刑人たちの前に私をむりやりにでも引き据えてくださいませ。私が皆さまとともに殉教の冠を分かち合えないことがないようにでございます」
すべてのキリシタンは十字架にはりつけにされるだろうと信じられていた時の彼らの心情はこのようなものであった。だが天主は、彼らのほとんどに関してはその善意のみで満足した。都の奉行(石田三成)は異教徒であったが、太閤が彼に下した残忍な命令を軽くしようと力を尽くし、ようやく死刑囚の数を24人にまで減らすことができた。太閤は彼らの鼻と耳を削ぐよう命じたが、代官はただ左の耳を切り落とすだけでよいとした。これは1597年1月3日、都の大通り(一条戻り橋)で行われた。捕らえられた24人は8つの牛車に乗せられた。列の先頭には役人が札を掲げており、そこには禁制のキリシタンの教えを説いたからという理由で彼らは死刑を宣告されたのだと書かれていた。都じゅうの人々は、この犯罪者に仕立て上げられた人々の慎ましさ、美しさ、そして喜んですらいる様子を見て感動の涙を流した。彼らの謙遜は勝利へと変わったのだ。キリシタンたちの多くは、彼らとともに死ねるよう、仲間の一人に加えてもらえるよう役人に願うことすらしたが、この願いは聞き入れられなかった。殉教者たちは牢に戻った時、幸いな死が自分たちを待ち受けていることを喜び、天にも昇る心地で互いに抱擁しあった。この様子は番人たちを仰天させ、思わずこう言った。「こんな侮辱の数々と拷問のまっただ中にいるというのに大喜びするとは、どんな類の連中だろうか?」
翌1月4日、彼らは処刑地の長崎に送られるために荷馬車用の馬に乗せられた。そこに到着するまで一ヶ月かかった。大坂と堺を通り抜ける間、彼らは都で群衆の前で晒し者にされた。だが彼らの敵が期待したものとはまったく逆の効果をもたらした。この長い旅の中で、寒さという季節の厳しさが聖なる殉教者たちの苦しみをさらに増した。彼らに付き従う信者たちの群は瞬く間に膨れ上がっていき、至るところで同情と尊敬のしるしを与えていった。ペトロ助四郎とフランシスコ吉という二人の熱心なキリシタンは24人についていくのをやめず、彼らの必要なものを援助するための不屈の勇気を持っていた。二人の信仰と愛徳は寛大に報いられた。護衛人たちは二人が何も無礼なことをしないのを見て、囚人たちの一人に加えることに決め、名簿に名前を書き入れたからである。こうして殉教者たちの数は26人に増えた。
2月4日、26人は長崎に到着した。翌日、町の近くにある丘に連れて行かれた。そこには処刑道具が準備されていた。彼らのカルワリオとなるべき十字架を見た時、この勇気ある信仰の精鋭たちは喜びのために躍り上がった。おのおの、自分がはりつけにされる場所へと急ぎ近づいた。彼らの手足と胴体は縄で十字架に縛りつけられ、この国の慣習にのっとって、首には鉄の首輪がはめられた。それから十字架はいっせいに持ち上げられ、大地に突き立てられた。全員は横に順々に並ばされ、彼らの顔は長崎の町の方向、南へと向けられた。ペトロ・バプチスタ神父はベネディクトゥスの賛歌を静かに歌い、仲間たちはその歌声に声を合わせた。ほどなくして、めいめいは二本の槍で両脇から突き刺され、槍は彼らの胸と肩を貫いて交差した。この瞬間、丘を取り囲んでいたおびただしい信者たちは「イエズス、マリア」と口々に叫び、監視人たちを押しのけて、殉教者たちの血潮を布に集めるため、また彼らの衣服をもらい受けようと処刑地になだれ込んだ。殉教者たちの体を天からの光が照らし出し、たくさんの星が西阪の丘から見えて、それは長いこと続いたそうである。
この栄光あるキリストのつわものたちの一人一人について多くの興味深い話を語ることができるが、ここでは省略せねばならない。だが、もっとも年若い3人に関することを伝えずおくことはできない。つまり、およそ14歳のトマス小崎、13最の長崎のアントニオ、そして11歳のルドビコ茨木である。彼らはフランシスコ会が司牧する教会で常に侍者として仕えており、囚人たちの名簿が公に出る前に逃げることもできた。だが彼らは殉教の棕櫚の枝だけを熱烈に望んでいた。3人は耳を削ぎ落とされて都大路を引き回された時、同じ牛車に乗せられていた。後ろ手に縛り上げられたこの3人の信仰の証人たちは、明るく落ち着いた表情で、染み透るような声で、パーテル・ノステルとアヴェ・マリアを歌い始めた。この光景はあらゆる人々の心を打った。
トマス小崎は26人の殉教者の一人、ミゲル小崎の息子である。父親は殉教の決心を固めたので、自分の財産をすべて息子に譲ると手紙をしたためた。だが聖なる少年はすぐに父親に会いに来て、父が天国で得ようとしている宝から自分を取り除けて、地上の財を残していくなどということは正しくないと自分の意思を表明した。そして自分は父とともに死ぬ決心だと宣言した。トマス小崎もまた父とともに天国に行くという幸福を得、その頭を同じ殉教の冠が取り囲んだ。
長崎生まれのアントニオは、両親の激しい諌めと説得をこうむった。両親はキリシタンで、愛する息子がはりつけにされることがわかった時、自然的愛情に打ち負かされて、涙ながらに息子を引きとめようとした。若きつわものは言った。「では、あなた方は、わずか一瞬しか続かない生命を保つために、私が永遠の生命を失ったほうがよいというのですか? おお! そのような話と不平を述べて私を誘惑しないで下さい。私はイエズス・キリストのために死ぬ覚悟ができています」こう語ってから、彼は両親のもとを去り、この出来事に深く感動した役人の助命の申し出も拒否して、処刑人たちに身を委ねた。十字架が突き立てられると、彼は自分の横にペトロ・バプチスタ神父がいるのに気づいた。ベネディクトゥスを歌った後、アントニオはバプチスタ神父に詩編の「すべての民よ、主をほめ讃えよ Laudate Pueri Dominum」を歌ってくれるよう願った。だが聖なる司祭は深い瞑想のうちに心を奪われて返事をしなかったので、アントニオは一人で歌い出し、彼が天国で永遠に歌い続けるであろうグローリア・パトリの部分まで続けた。この瞬間、彼の心臓は槍で貫かれた。
小さなルドビコ茨木は、わずか数日前に洗礼を受けたばかりで、少しも挫けた様子を見せなかった。役人たちは初め、彼の名前を名簿に書き入れるのを拒んだ。だが泣きながら懇願したので、名簿に名前を書き入れてもらえることができた。彼の顔は喜びに光輝き、都の大通りにいるすべての人々を惹きつけ、群衆たちを感動させた。長崎奉行の代理人である、この死刑執行の責任者は、ルドビコがキリスト教の教えを棄てさえすれば、彼を解放してやろうとした。ルドビコは答えた。「そのような条件で、生き延びたいとは思いません。なぜならこの短い惨めな命のために永遠の幸福と命を失ってしまうからです」彼は、自分の十字架を見つけるやいなや、まるで自分にとってもっとも大切なものを見つけたかのように駆け寄って抱擁したと言われる。彼は天使のような雰囲気を漂わせて、アントニオの隣で死んだ。この先、子どもたちが勝ち得た、他の素晴らしい勝利の数々を見ることになるだろう。
26名の名前と身分を記しておく。
6人のフランシスコ会修道者、すなわち、3名の司祭。
ペトロ・バプチスタ神父、52歳。マルチノ・デ・アギレあるいはアセンシオン、30歳。フランシスコ・ブランコ、30歳──3人ともスペイン人である。
修道士、フェリペ・デ・ヘススあるいはラス・カサス、23歳、メキシコ生まれ。二人の平修士、フランシスコ・デ・サン・ミゲル、54歳、スペイン人。ゴンザロ・ガルシア、25歳、ポルトガル人の両親よりインドで生まれた。
処刑に向かう前、在俗フランシスコ会に入会した17人の日本人は次の通り。
ミゲル小崎とその息子トマス小崎、14歳。
長崎のアントニオ、13歳。
パウロ茨木とその弟、レオ烏丸。二人の甥、ルドビコ茨木、11歳。
パウロ鈴木。
京都の医師フランシスコ、46歳。
コスメ竹屋。
トマス談義者。
ボナベントゥラ。
ガブリエル、 19歳。
絹屋のヨハネ。
ヨアキム榊原、40歳。
マチアス、同じ洗礼名の者の身代わりになった。
フランシスコ吉。
ペトロ助四郎。
日本人のイエズス会士3名、すなわち、パウロ三木神父、33歳。二人の修練者、五島のヨハネ、19歳。ディエゴ喜斎、64歳。二人は殉教の当日に誓願を立てた。
3名のイエズス会士たちは、死刑の対象には含まれていなかったが、秀吉は彼らが都にいたので捕縛させ、迫害を命じた石田三成の反対を押し切って、フランシスコ会士たちの仲間に加えた。
※参考書籍
日本二十六聖人殉教記 ルイス・フロイス著・結城了悟訳
二十六聖人と長崎物語 結城了悟著
愛する兄弟姉妹の皆様、
聖アルフォンソ・リゴリ著「殉教者たちの勝利」より、一部を抜粋して紹介します。。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
長崎の二十六聖人
聖アルフォンソ・リゴリ著「殉教者たちの勝利」より、(一部を抜粋)
1627年、ウルバノ8世によって列福された26人の殉教者(聖パウロ三木及びその伴侶たち)は、1862年6月8日、聖霊降臨の祝日に、世界各地から集まった約300名の司教たちの臨席のもと、ピオ9世によって列聖されました。彼らの祝日は、その犠牲をまっとうした2月5日と定められています。
1582年、権力の座に登った太閤秀吉は、初め宣教師たちに対して好意的であったものの、4、5年後には彼らに対して非常な不信感と憎悪を抱くようになり、日本全体にキリスト教を禁止する発令を出した。だがそれ以上過激になることはなかった。数年の間、秀吉はあらゆる宗教的表明を禁じたことで満足しており、信仰はひそかに宣伝され続けていた。
1596年12月9日、まことの天主のしもべたちへの反感をふたたび掻き立てられた秀吉は、フランシスコ会士たちが活動していた京都や大阪の奉行たちに、司祭たちを捕縛すること、教会に足しげく出入りしている信者たちの名簿を作るすることを命じた。フランシスコ会の長上、ペトロ・バプチスタ神父は、当時、会の修道者たちに次のような手紙をしたためている。「教会の扉の前に捕り手たちが置かれた最初の日、信者たちは一晩中、告解と祈りをして過ごしました。私たちは翌日処刑されるだろうと知らされていたからです。私は愛するすべての兄弟たちに、あたかも臨終の時であるかのように聖体を授けました。それから、刑場に連れて行かれるまでの間、一人一人に身につけるための十字架を与えました。イエズス・キリストのために死ぬのだという彼らが示してみせた大いなる熱情のために、私の心は慰めで満たされました。死刑に処せられるという知らせが広まると、大勢の人々が各地から加わって来ました。『私どもはいつかは死ななければならないのです』と、彼らは言いました。『天主様の栄光のために死ぬことこそが私どもの願いのすべてであり、そのようなお恵みを賜るよう祈っています。善き天主よりこのお恵みを得られるようお助けくださいませ』」
人々に目撃されたこの素晴らしい模範の数々の中から、いくつかの例を引用する。
太閤の天下統一のために尽力した名高い大名、高山右近は、信仰を捨てることを拒否したために、六年間流浪の日々を送った。大名としての身分を捨て、領地を失い、右近の老いた父、妻、家臣を含む家族らも同じ憂き目を見た。だが、イエズス・キリストのために苦しむことができるのは幸せなことだ彼らは考えていた。キリシタン迫害の知らせを聞くと、右近はそのすぐれた人徳と友情のために彼を庇護してくれていた加賀の領主に別れを告げた。加賀の領主は、奉行は右近を処罰の対象として考えてはいないと断言したが、気高い右近は「恐れながら、この世において私が喜びとする最大の幸福は、私が告白する信仰のために死ぬことです」と答えた。彼はただちに都へと出発した。
玄以法印(前田玄以)の二人の息子も熱意に溢れていた。玄以は異教徒で秀吉の側近であり、二人の息子が洗礼を受けた事実を知らずにいた。ユスト高山右近よりも身分は低かった。
20才になる上の息子の名はパウロ左近(前田秀以)といった。彼は秀吉に取り立てられ、都から離れた場所にある砦の司令官であった。司教たちと同じく司祭たちが捕縛されたこと、全信者たちが死刑に処せられることを聞いて、彼はすぐに二人の使者を、一人は都へ、一人は大阪へと遣わした。自らも真理をあかしするためにであった。その間、殉教を耐えるもっとも優れた手段について考えていた。彼は初め、都で公に自分の姿を見せることを考えていたが、いつもの身なりをしていたのでは誰もあえて自分を捕まえようとはしないだろうと心配した。彼は髪を切り、修道者の格好をして、8人の忠実な信者のしもべたちとともに都に行こうと決心した。8人のうちの一人は、気持ちが定まらない様子を見せた。彼はつい最近洗礼を受けたばかりだったからである。
パウロ左近は彼に他の者たちと一緒に行かないよう助言したが、彼は寛大にもこう答えた。「殿、私はアニマの永遠の救いに価値があるとよく知っています。殉教はそのための最短の道なのですから、私はそれを選びます。もはや私は足の下に踏む塵よりも自分の命を重んじることはありますまい」この答えに満足した若き領主は自分の部屋に入ると、ひざまずいて、天主の愛のために死ぬにふさわしい者にしてくださるようにと熱烈に祈った。それから、両親に手紙を書き、自分が信者であることを伝え、信仰のために死ぬ決意を固めた。彼はこの意向で総告解をし、死の備えをした。
彼の弟の名前はコンスタンティノといった。彼はいとこの一人ミゲル(ミカエル)とともに都に到着し、そこで重大な知らせを耳にした。彼は「おお、我らはまさしく殉教者になるためにここに来たのだ」と叫んだ。すぐに両親のいる伏見に行き、自分は信者であると宣言した。息子を寵愛していた前田玄以は驚愕した。彼をそばに呼び寄せ「だが息子よ、太閤殿下がすべてのキリシタンを殺せと私に命じたら、私はお前もともに殺さなければならないのだぞ」と言った。コンスタンティノは「父上、私は信者であるとあなたに宣言しました。それは死から逃れるためではなく、父上のなすべき義務を正しく実行できるためにです。私は天主に不従順であるよりも処刑人の手にかかる覚悟ができています。たとえそれが父上であってもです。父上は、ただ太閤殿下のお気に召すためだけに私が地獄に落ちることをお望みにはならないでしょう」と答えた。玄以法印は心痛の種となったこのことを妻に話すと、二人は深い悲しみに沈んだ。ミゲルは悲しんでいるおばに偶然鉢合わせした。彼女は甥に、息子が死に急ぐのをなんとかしてやめさせてくれるよう、あらゆる手を尽くしてくれることを頼み込んだ。にも関わらず、二人は殉教者たちの名簿に自分たちの名前が書き込まれる機会を得るため、都へと舞い戻った。
その頃、別の二人の男たちが信仰のために命を犠牲にするため都にやって来た。彼らは望むものが得られなかったので、友人たちに、来るべき時が来たら知らせてくれるよう懇願していた。
豊後の人、アンドレア小笠原のことにも触れておこう。彼は、前章で語った聖なるジョラン(大友義統)が殉教したのち、彼が身につけていた十字架を夜中に外して自分の首にかけた人だった。それ以来、彼は年老いた父と妻、子とともに大阪に隠れ住んだ。この勇敢な人は、死刑の宣告を受けたキリシタンたちの名簿が作られていると知ると、雄々しくも自らの死の準備をするだけでなく、6ヶ月前に洗礼を受けたばかりの80歳になる父親にも死の覚悟をさせた。アンドレアの父は生涯を通じて恐るべき武士であり、頑健であった。アンドレアは父に、殉教の棕櫚の枝は武器によるのではなく、謙遜と忍耐によって得られるのだと教えて励ました。
「だが、武士の名誉にかけて、おめおめと殺されることなどできようか?」と老いた侍は叫んだ。アンドレアは、父のこの誇り高さはキリシタンの教えについて熟知していないことから来ていると知って、こう言った。「愛する父上、父上の武勇すぐれていることには多くの証があります。父上がご自分の命を守らずにイエズス・キリストのために与えるならば、誰も父上を臆病者と非難する者はいないでしょう。しかし、父上がこのような振る舞いを好まないなら、少なくともしばらくの間、国許に帰られて下さい。そこでなら父上の命と名誉を保てるでしょう」だが、老いた侍はさらに激昂して、自分にはそんな卑怯なことはできない、それは最初の申し出である死よりも悪いことだ、そんなことをしたら、命惜しさに逃げたのだと思われるだろうと答えた。しかしながら、自分の目的は別の方法で保てたのだとアンドレアは理解した。この老いた善人は、感情を昂らせて、アンドレアの妻の部屋に入っていったからである。彼は、息子の嫁が晴れ着を着て立ち働いているのを見た。家臣たちがロザリオや十字架、聖遺物箱を自分たちが殉教する日のために用意していることも見てとった。これはなんのためかと問うと、彼らは喜びにあふれて、イエズス・キリストのために死ぬ準備をしているところだと教えた。この短い言葉と態度が、彼の心に感動を呼び起こした。彼は世間の理(ことわり)を放棄して、ロザリオを取り上げ、皆とともに死にたいと言った。
今度はまた、都の寛大なキリシタン女性たちのことも見てみよう。迫害が公に始まったことを知ったため、彼女たちは殉教の時に常に備えていようと、マリアという女性の家に集っていた。各自、婚礼の時の衣装を用意していて、それはつまり、死に臨んで身につけるためのものだった。ある非常に身分の高い女性は、法によってこの一件に関して死を免れさせられてしまうかもしれないと恐れ、皆とともに死ぬためにひそかにマリアの家に赴いた。マリアは養女として引き取ったガラシャという十歳の娘と暮らしていた。マリアは、十字架刑に処せられるのを避けるため、ガラシャに父の家に戻るよう説き伏せようとした。だが娘は断固として言った。「いいえ、私は母上さまとともに死にます。私はキリシタンでございます。何も怖がりはしません。母上さまがともにいてくださる限り、私は死を恐れません」マリアは、愛しい娘の口から出た、天主の恩寵から来るこのような言葉を聞いておおいに慰められた。集まった中の一人の女性が、端然と同胞たちに言った。「私は死の覚悟ができております。しかし、もしも死ぬ時のさまを見て私が怖気づくのを見たならば、どうぞ処刑人たちの前に私をむりやりにでも引き据えてくださいませ。私が皆さまとともに殉教の冠を分かち合えないことがないようにでございます」
すべてのキリシタンは十字架にはりつけにされるだろうと信じられていた時の彼らの心情はこのようなものであった。だが天主は、彼らのほとんどに関してはその善意のみで満足した。都の奉行(石田三成)は異教徒であったが、太閤が彼に下した残忍な命令を軽くしようと力を尽くし、ようやく死刑囚の数を24人にまで減らすことができた。太閤は彼らの鼻と耳を削ぐよう命じたが、代官はただ左の耳を切り落とすだけでよいとした。これは1597年1月3日、都の大通り(一条戻り橋)で行われた。捕らえられた24人は8つの牛車に乗せられた。列の先頭には役人が札を掲げており、そこには禁制のキリシタンの教えを説いたからという理由で彼らは死刑を宣告されたのだと書かれていた。都じゅうの人々は、この犯罪者に仕立て上げられた人々の慎ましさ、美しさ、そして喜んですらいる様子を見て感動の涙を流した。彼らの謙遜は勝利へと変わったのだ。キリシタンたちの多くは、彼らとともに死ねるよう、仲間の一人に加えてもらえるよう役人に願うことすらしたが、この願いは聞き入れられなかった。殉教者たちは牢に戻った時、幸いな死が自分たちを待ち受けていることを喜び、天にも昇る心地で互いに抱擁しあった。この様子は番人たちを仰天させ、思わずこう言った。「こんな侮辱の数々と拷問のまっただ中にいるというのに大喜びするとは、どんな類の連中だろうか?」
翌1月4日、彼らは処刑地の長崎に送られるために荷馬車用の馬に乗せられた。そこに到着するまで一ヶ月かかった。大坂と堺を通り抜ける間、彼らは都で群衆の前で晒し者にされた。だが彼らの敵が期待したものとはまったく逆の効果をもたらした。この長い旅の中で、寒さという季節の厳しさが聖なる殉教者たちの苦しみをさらに増した。彼らに付き従う信者たちの群は瞬く間に膨れ上がっていき、至るところで同情と尊敬のしるしを与えていった。ペトロ助四郎とフランシスコ吉という二人の熱心なキリシタンは24人についていくのをやめず、彼らの必要なものを援助するための不屈の勇気を持っていた。二人の信仰と愛徳は寛大に報いられた。護衛人たちは二人が何も無礼なことをしないのを見て、囚人たちの一人に加えることに決め、名簿に名前を書き入れたからである。こうして殉教者たちの数は26人に増えた。
2月4日、26人は長崎に到着した。翌日、町の近くにある丘に連れて行かれた。そこには処刑道具が準備されていた。彼らのカルワリオとなるべき十字架を見た時、この勇気ある信仰の精鋭たちは喜びのために躍り上がった。おのおの、自分がはりつけにされる場所へと急ぎ近づいた。彼らの手足と胴体は縄で十字架に縛りつけられ、この国の慣習にのっとって、首には鉄の首輪がはめられた。それから十字架はいっせいに持ち上げられ、大地に突き立てられた。全員は横に順々に並ばされ、彼らの顔は長崎の町の方向、南へと向けられた。ペトロ・バプチスタ神父はベネディクトゥスの賛歌を静かに歌い、仲間たちはその歌声に声を合わせた。ほどなくして、めいめいは二本の槍で両脇から突き刺され、槍は彼らの胸と肩を貫いて交差した。この瞬間、丘を取り囲んでいたおびただしい信者たちは「イエズス、マリア」と口々に叫び、監視人たちを押しのけて、殉教者たちの血潮を布に集めるため、また彼らの衣服をもらい受けようと処刑地になだれ込んだ。殉教者たちの体を天からの光が照らし出し、たくさんの星が西阪の丘から見えて、それは長いこと続いたそうである。
この栄光あるキリストのつわものたちの一人一人について多くの興味深い話を語ることができるが、ここでは省略せねばならない。だが、もっとも年若い3人に関することを伝えずおくことはできない。つまり、およそ14歳のトマス小崎、13最の長崎のアントニオ、そして11歳のルドビコ茨木である。彼らはフランシスコ会が司牧する教会で常に侍者として仕えており、囚人たちの名簿が公に出る前に逃げることもできた。だが彼らは殉教の棕櫚の枝だけを熱烈に望んでいた。3人は耳を削ぎ落とされて都大路を引き回された時、同じ牛車に乗せられていた。後ろ手に縛り上げられたこの3人の信仰の証人たちは、明るく落ち着いた表情で、染み透るような声で、パーテル・ノステルとアヴェ・マリアを歌い始めた。この光景はあらゆる人々の心を打った。
トマス小崎は26人の殉教者の一人、ミゲル小崎の息子である。父親は殉教の決心を固めたので、自分の財産をすべて息子に譲ると手紙をしたためた。だが聖なる少年はすぐに父親に会いに来て、父が天国で得ようとしている宝から自分を取り除けて、地上の財を残していくなどということは正しくないと自分の意思を表明した。そして自分は父とともに死ぬ決心だと宣言した。トマス小崎もまた父とともに天国に行くという幸福を得、その頭を同じ殉教の冠が取り囲んだ。
長崎生まれのアントニオは、両親の激しい諌めと説得をこうむった。両親はキリシタンで、愛する息子がはりつけにされることがわかった時、自然的愛情に打ち負かされて、涙ながらに息子を引きとめようとした。若きつわものは言った。「では、あなた方は、わずか一瞬しか続かない生命を保つために、私が永遠の生命を失ったほうがよいというのですか? おお! そのような話と不平を述べて私を誘惑しないで下さい。私はイエズス・キリストのために死ぬ覚悟ができています」こう語ってから、彼は両親のもとを去り、この出来事に深く感動した役人の助命の申し出も拒否して、処刑人たちに身を委ねた。十字架が突き立てられると、彼は自分の横にペトロ・バプチスタ神父がいるのに気づいた。ベネディクトゥスを歌った後、アントニオはバプチスタ神父に詩編の「すべての民よ、主をほめ讃えよ Laudate Pueri Dominum」を歌ってくれるよう願った。だが聖なる司祭は深い瞑想のうちに心を奪われて返事をしなかったので、アントニオは一人で歌い出し、彼が天国で永遠に歌い続けるであろうグローリア・パトリの部分まで続けた。この瞬間、彼の心臓は槍で貫かれた。
小さなルドビコ茨木は、わずか数日前に洗礼を受けたばかりで、少しも挫けた様子を見せなかった。役人たちは初め、彼の名前を名簿に書き入れるのを拒んだ。だが泣きながら懇願したので、名簿に名前を書き入れてもらえることができた。彼の顔は喜びに光輝き、都の大通りにいるすべての人々を惹きつけ、群衆たちを感動させた。長崎奉行の代理人である、この死刑執行の責任者は、ルドビコがキリスト教の教えを棄てさえすれば、彼を解放してやろうとした。ルドビコは答えた。「そのような条件で、生き延びたいとは思いません。なぜならこの短い惨めな命のために永遠の幸福と命を失ってしまうからです」彼は、自分の十字架を見つけるやいなや、まるで自分にとってもっとも大切なものを見つけたかのように駆け寄って抱擁したと言われる。彼は天使のような雰囲気を漂わせて、アントニオの隣で死んだ。この先、子どもたちが勝ち得た、他の素晴らしい勝利の数々を見ることになるだろう。
26名の名前と身分を記しておく。
6人のフランシスコ会修道者、すなわち、3名の司祭。
ペトロ・バプチスタ神父、52歳。マルチノ・デ・アギレあるいはアセンシオン、30歳。フランシスコ・ブランコ、30歳──3人ともスペイン人である。
修道士、フェリペ・デ・ヘススあるいはラス・カサス、23歳、メキシコ生まれ。二人の平修士、フランシスコ・デ・サン・ミゲル、54歳、スペイン人。ゴンザロ・ガルシア、25歳、ポルトガル人の両親よりインドで生まれた。
処刑に向かう前、在俗フランシスコ会に入会した17人の日本人は次の通り。
ミゲル小崎とその息子トマス小崎、14歳。
長崎のアントニオ、13歳。
パウロ茨木とその弟、レオ烏丸。二人の甥、ルドビコ茨木、11歳。
パウロ鈴木。
京都の医師フランシスコ、46歳。
コスメ竹屋。
トマス談義者。
ボナベントゥラ。
ガブリエル、 19歳。
絹屋のヨハネ。
ヨアキム榊原、40歳。
マチアス、同じ洗礼名の者の身代わりになった。
フランシスコ吉。
ペトロ助四郎。
日本人のイエズス会士3名、すなわち、パウロ三木神父、33歳。二人の修練者、五島のヨハネ、19歳。ディエゴ喜斎、64歳。二人は殉教の当日に誓願を立てた。
3名のイエズス会士たちは、死刑の対象には含まれていなかったが、秀吉は彼らが都にいたので捕縛させ、迫害を命じた石田三成の反対を押し切って、フランシスコ会士たちの仲間に加えた。
※参考書籍
日本二十六聖人殉教記 ルイス・フロイス著・結城了悟訳
二十六聖人と長崎物語 結城了悟著