アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の「天主の十戒」についてのお説教をご紹介いたします。
第7回目は、第六戒「汝姦淫するなかれ。」についてです。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2016年5月21日 聖霊降臨後の四季の土曜日―大阪 お説教
第六戒「汝姦淫するなかれ」(脱出[出エジプト]20章14節)
親愛なる兄弟の皆さん、
第五戒の説教の最後のポイントです。第五戒は、隣人をつまずかせることも禁じています。つまり、隣人の霊的な命に害を与えることを禁じているのです。私たちの主イエズス・キリストは、人をつまずかせる行いを大変強い言葉で戒められます。「もし私を信じるこの小さな者を一人でもつまずかせたら、その人はろばの挽き臼を首にかけて海の深みに沈められるほうがよい。つまずきを起こすこの世に呪いあれ。つまずきは避けがたいけれども、つまずかせる人に呪いあれ」(マテオ18章6-7節)。
人をつまずかせることとは、誰かほかの人を罪へと導くことです。それはあらゆる徳に反することになり得ますが、それ自体でも、もう一つの罪となっています。悪を行うことは十分悪いことですが、つまずかせることによって悪を行うよう他人を導くことは、さらに悪いことだからです。つまずかせる行いには信仰に反するものがあります。例えば、悪い書物、あるいは信仰箇条を疑う現代主義の神学者たち(の教え)を広めることです。(そのような神学者たちは)カトリックの大学における自分たち地位によって、学生や他の人々をつまずかせるからです。つまずかせる行いには正義に反するものがあります。例えば、社長が従業員に商売で人をだますよう命じるときです。つまずかせる行いには貞潔に反するものがあります。慎みのなさによって、ポルノを見せることによって、不潔な会話をすることによって、などです。そのような行為は、二つの罪を含みます。信仰、正義、貞潔そのものに反する罪に加え、つまずかせる罪です。どちらも、告解で告白する必要があります。
天主は第一戒で、生きておられる方、永遠の命そのものである方、すべての命の最初の源である方である天主を礼拝するよう私たちにお命じになり、その後、第四戒で、私たちがその命を受け継がせてもらった人々に敬意を捧げること、そして第五戒で、人間の命それ自体を尊重することを私たちにお命じになった後、今度は、命の伝達を尊重するよう私たちにお命じになります。これが第六戒の目的です。人間の命の伝達は、創造(creation)のみわざに協力する非常に重要な行いですから、「出産(procreation)」と呼ばれています。それゆえに、非常に高い価値を持っています。ゲームではありません! 結婚は、出産のために天主によって用意された環境なのです。実際、子どもは父親と母親を必要とし、それは数年では済まず、非常に長い期間なのですから、婚姻外で子どもをもうけてはいけません! 結婚は正確に言えば、出産のために一人の男と一人の女の生涯にわたって続く非常に特別な結合です。結婚から命の伝達を断ち切ってしまうことは、第六戒に反する多くの罪を引き起こす第一の原因です。
結婚は人類を継続させるために必要ですから、天主は、人々に子どもを持つよう奨励するために、夫婦行為の中に一定の報い、一定の快楽を置かれました。素直な人々なら、天主が夫婦行為の中にその快楽を置かれなかったなら、子どもの数はずっと少なくなってしまい、人類は恐らく生き残ることはなく、ずっと以前に消滅していただろう、と認めるでしょう! 従って、天主は善良であり賢明であると分かるのです。しかし、ここで重要なのは、結婚における命の伝達への報いとして、その快楽が存在するという、その理由そのものを理解することです。快楽を命の伝達から断ち切ることは、労働せずに給料を欲しがる、実績なしで報酬を欲しがる従業員に似ています! でも、この快楽を命の伝達から断ち切ることは、現代世界に普通に見られることであり、第六戒に反する多くの罪の根っこにあるのです。
それゆえに、夫婦行為は、結婚のうちにおいてのみ、かつ命へと開かれた方法でのみ、行われるべきです。これは、すべての夫婦行為が新たな命(の誕生)へと至らなければならないという訳ではなく、夫婦行為による(新たな命という)自然の実を決して積極的に排除してはならないということです。気を付けていただきたいのは、両親の役割は単に子どもを持つだけでなく、子どもを教育することにまで及ぶことであり、その教育の仕方は、子どもに地上の生活のための準備をさせるだけでなく、それよりさらに重要なのは、子どもが天国に行くための準備をさせることだということです。良きカトリック的教育をすることは両親の重要な義務です。さらに気を付けていただきたいのは、良い両親が得られる最大の報いのひとつは、良い子どもたちであることです。快楽は過ぎ去りますが、良い子どもたちは残ります。快楽はつかの間の報いであり、良い子どもたちは長く続く報いです! 子どもたちが天国へ行けば、良い教育を受けたことを両親に永遠に感謝するでしょう。
ですから、第六戒は結婚における忠実、つまり結婚以外で夫婦の関係を持ってはならないことを命じています。したがって、第六戒は結婚におけるまことの人間の愛を守ることなのです。忠実な愛、自己を与える愛、生涯の愛であり、天主の愛にまことに倣うことです。聖パウロは言います。「実に愛される子らとして、天主に倣う者であれ。私たちを愛し、私たちのために芳しい香りのいけにえとして天主のご自分を渡されたキリストの模範に従って、愛のうちに歩め」(エフェゾ5章1-2節)。
それゆえに、第六戒が禁じているのは、第一に姦淫です。姦淫は、それによる結合で生まれ得る子どもの善に反します。その子どもは父親と母親二人と一緒にいることができないからです。子どもの父親が誰であるかに疑いが生じる場合は、さらに悪くなります。しかし、姦淫はまた、結婚生活での排他的権利を持つ相手を裏切ることですから、配偶者の善にも反します。姦淫は貞潔の徳と、配偶者に対する正義の徳の両方に反します。そのような行為の影響は生涯にわたって続くことになり得ますから、非常に重大な罪です。初代教会においては、人がその罪に陥った場合は、長きにわたる公の償いの行いが要求されました。聖パウロはこの罪の悪について強く言っています。「淫行の者、好色な者、情欲の者はみな―これは偶像崇拝者と同じである―、キリストと天主の国を継げない。人のむなしい言葉にだまされるな。不従順な者の上に天主の怒りを呼ぶのはそれらの事柄である。だから彼らと交わるな」(エフェゾ5章5-7節)。
第六戒はまた、私通も禁じています。私通とは、結婚していない人々が夫婦の関係を持つことです。結婚前の貞潔は、結婚した後の貞潔を準備するのですから、結婚前に貞潔でなければ、多くの場合、結婚してからの不貞へとつながります。ですから、良きかつ聖なる結婚のための準備として、純潔のままでいて、貞潔と童貞性を養うことは、若者たちにとって大変重要です。そうすれば、さらに幸せな結婚になるのですから。教会は、結婚は良いものであり、童貞であることを奉献することはさらに良いものだと教えています。若者に童貞を守ることが必要とされているのは奉献生活のためだけであると考えるべきではありません。それは、良きかつ聖なる結婚の準備としても必要とされているのです。結婚する日が来るまでは、人々は童貞のままでいるのが天主のご意志です。現代の世界はそれを軽んじていますが、良きカトリック信者はこの徳に高い価値を持ち続け、自分の子どもたちを罪の機会から遠ざけることによって、彼らにそれを守らせるようにしなければなりません。特にルフェーブル大司教は、テレビを避けるよう強く勧めておられたものです。大司教は、テレビをまったく持たないようにさえ勧めておられました! 良き修道者と良き司祭の模範によって、若者たちは励まされ、私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって、この徳(を守ること)が可能であるのを知るのです!
第六戒に反する罪には他にも、天主の秩序に反する倒錯行為を増やすようなものがあります。レイプのような暴力による罪があり、これは被害者を深く傷つけます。同性愛のような自然に反する罪があり、これは天主が「いまわしい限りのこと」(レビ18章22節)と呼ばれるもので、また獣姦のようにさらに悪いものもあります。近親相姦のような家族に対する罪があり、これは聖パウロが破門によって罰しました!(コリント前書5章1-5節)。小児性愛の罪があり、例えば子どもへの虐待ですが、これは大変深刻です。現代世界の不道徳さが増していくことで、これらの罪は増加してきており、今日の社会にひどい堕落をもたらしてきています。
これまで私たちは、避妊、不妊化(手術)、妊娠中絶という第五戒に反する罪を見てきましたが、それは、これらの罪の中に損傷や殺人があるからです。しかし、これらの罪はまた、第六戒にも反しています。それは、命の伝達を究極的に拒否することだからです。これらの罪はすでに古代に見られましたが、現代世界では計り知れないほど増えてきていることに注意してください。旧約聖書には、天主ご自身がユダの子オナンを、「地に流す」という結婚における不正行為のため死に処せられたことが言及されています(創世記38章9-10節)。ですから、この重大な罪は、教会によって「オナニズム」と呼ばれています。二十世紀の教皇たちが近代的な避妊法を非難したとき、目新しいことは何もしませんでした。その避妊法は新しかったのですが、教義は古くからのもので、旧約聖書で天主ご自身によってオナニズムが非難されて以来あったものでした。この非難は教会の教父たちによって頻繁に繰り返されました。
第六戒はまた、結婚していてもしていなくても、マスターベーションすなわち自慰行為を禁じています。これは本当の自己中心主義であり肉の奴隷状態にあることです。ですから、倒錯した愛です。結婚は、人が望むことを何でもしていいという許可ではなく、豚小屋でもなく、むしろ、例えば食欲をほどほどにするといった節制の徳を実践することを要求している、と言わなければなりません。ルフェーブル大司教は、結婚とは「美しい貞潔の学校」であるとよくおっしゃっていました。聖パウロは言います。「みな婚姻を尊び、寝床をけがすな。淫行者と姦通者は天主に裁かれる」(ヘブライ13章4節)。
第六戒に反する最後の罪は、慎みのないことです。これまで挙げた他の罪はすべて、重大な罪です。なぜなら、命の伝達が重要な問題であるからです。慎みのないことは、小さなつまずきにすぎない場合だけは小罪であるかもしれませんが、特に他人を本当につまずかせたり、誘惑する目的ではっきりと行われたりする場合は、大罪になり得ます。反対に、慎み深さは美しい徳であり、慎み深さが貞潔を守ってくれます。慎み深さは体の美しさに勝る霊魂の美しさの輝きです。慎み深い女性はずっと美しく、本当の美しさ、霊魂の美しさがあり、この霊魂の美しさは、体のはかない美しさよりもずっと長く続くのです。
快楽を究極の目的として探し求めるヘドニズム、快楽主義は、現代世界に大変な広がりを見せており、多くの霊魂に数えきれないほどの惨禍をもたらしています。これはまったくキリストの精神ではありません。実際、聖パウロは書いています。「実に肉の望むことは霊に反し、霊の望むことは肉に反する。それらは相反している。キリスト・イエズスにある者は、肉をその欲と望みとともに十字架につけた」(ガラツィア5章17、24節)。また再び書いています。「あなたたちの肢体を罪に与えて不義の道具とせず、かえって死を逃れて生きる者として自分を天主に捧げ、その肢体を天主のための正義の武器とせよ」(ローマ6章13節)。さらに書いています。「私は自分の体を苦しめてこれを奴隷にする。それは他人にのべ伝えながら、自分は除名されることのないためである」(コリント前書9章27節)。
今日では、第六戒を守ることは無理だと思っている人々がいます。これは絶対に誤りです。私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって、あらゆる大罪を避けるような方法で、第六戒そして他の掟を守ることはできるのです。聖母だけが、無原罪の御宿りという特権によって、あらゆる小罪から、どんな罪からも守られていました。聖人たちでさえ、ささいであっても小罪を犯していましたし、すべての人が罪に対する生涯にわたる闘いを行わなければなりません。しかし、私たちの主イエズス・キリストの恩寵があれば、回心ののち大罪を犯さずに生きることはできるのです。
今迎えている復活節があるのは、それを私たちに証明するためです。実際、聖パウロはローマ人たちに言いました。「死者からよみがえられたキリストは、もう死ぬことはなく、キリストに対してもはや死は何の力も持っていない」(ローマ6章9節)。聖トマス・アクィナスは、キリストの復活した命は、私たちが洗礼のとき受ける「新しい命」、また悔悛の秘蹟によって回復する「新しい命」の模範である、と説明しています。従って、復活したキリストはもう死ぬことがないという事実は、私たちが受けた新しい霊的な命は「もう死ぬことがない」ことが可能であるということ、すなわち、私たちはイエズス・キリストの恩寵によってあらゆる大罪を避けることができる、ということの保証なのです。ですから、それは本当に永遠の命の始まりなのです。イエズス・キリストがこう言われるように。「御子を信じる者には永遠の命がある」(ヨハネ3章36節)。「まことにまことに私は言う、私を信じる人は永遠の命を持つ」(ヨハネ6章47節)。「私の肉を食べ私の血を飲む者は、永遠の命を有し、終わりの日にその人々を私は復活させる」(ヨハネ6章54節)。その人々は、ここ地上ですでに霊魂の永遠の命の始まりを持ち、世の終わりには体の永遠の命を持つことになるのです。
第六戒を守ることが可能であるもう一つの証拠は、私たちの主イエズス・キリストの恩寵が、特定の霊魂たちをより高い徳、童貞を奉献する徳にまで上げることさえできるということです。恩寵がこのより高い徳を与えることができるなら、もっと低い徳はもちろん与えることができます。従って、良き司祭、修道士、修道女という模範は、純潔を守る信者に対して、また結婚に忠実である信者に対して、大きな霊感を与えます。子どもたちの中に、童貞を奉献することを高く評価する気持ちを養うことによって、親たちや教育者たちは、貞潔という基本の徳を子どもたちが実践するのを助けるのです。誤った方向に歩み始めないようにし、偶発的な出来事を避けることの方が、悪い習慣を正そうとしたり、罪のダメージを修復したりするよりも、ずっと良いのです。壊れていない花瓶は、壊れてから接着剤で元に戻した花瓶よりも美しいのです! 罪と妥協してはいけません!
不純な行いは腐敗した愛ですから、第六戒を守ることはまことの愛を保護することを保証し、また霊魂を開いて天主の愛を黙想させます。「心の清い人は幸せである、彼らは天主を見るであろう」(マテオ5章8節)。「申し分のない道を歩み、主の法を守る人は幸せである」(詩篇118章1節)。イエズスは純潔を愛され、イエズスは童貞であることを愛されます。「イエズスが愛された弟子」は童貞である弟子、聖ヨハネでした!
第六戒を守るための素晴らしい手段は、祈り、苦行、頻繁な告解の秘蹟と聖体拝領、そして聖母への強い信心です。祈りは救いのために必要です。祈る人は自分の霊魂を救いますが、祈らない人は自分の霊魂を滅ぼします! 一般的に祈りは必要ですが、純潔の徳を守る闘いにおいては特に必要です。実際、原罪の傷があるために、その傷によって、私たちは感覚を自動的に制御する力を失ってしまっており、私たちには自分の感情を、自分の想像力を制御するために天主の助けが必要なのです。そして、祈るときにその助けを獲得するのです。誘惑を受けたときには祈ってください。そうすれば、皆さんは罪に陥らないでしょう! 私は、あえて言います。皆さんが本当に祈る限り、皆さんは罪に陥ることはありえません。誘惑が続く場合は、祈り続けてください! 完全な勝利を得て誘惑が消えるまで、祈りをやめないでください。そして誘惑が消えたあとは、天主に感謝するのを忘れないでください。
第二の手段は苦行(償いの行い)です。祈りと一緒にすれば、あらゆる種類の誘惑、特に肉欲の誘惑に対する勝利を得るための非常に強力な手段です。私が強くお薦めするのは、指の上にひざまずき、誘惑が消えるまで「めでたし」を何回か祈ることです。勝利に至る非常に強力な手段です! 苦行はまた、罪を償うためにも必要とされます。人々が告解に行くことを奨励するため、教会は、告解で課される苦行を、教会の初期にあったものと比べれば減らしてきています! しかし、祈りをいくつかすることで、罪を償うためにふさわしく十分であると考えてはいけません。私たちは本当の苦行を行う必要があり、それを主の十字架上の犠牲と一致させる必要があります! そうしないと、私たちは、煉獄で返すべき大きな負債を抱えてしまうでしょう! キリストの犠牲と一致した苦行を行うことは、過去の罪を償い、将来の罪を防ぐという二つの効果があるのです!
第三の手段は、頻繁に秘蹟を受けることです。大罪に陥るのを待ってから告解に行こうとしないでください。大罪に陥る前に、正確には大罪に陥らないために、告解に行ってください! 小罪は告解をするのに十分な問題です。シャワーを浴びるために泥の中に落ちるのを待つ人はいません。毎日かく汗は、定期的にシャワーを浴びるのに十分な理由です。ですから、毎日犯す小罪は、頻繁に告解に行くのに十分な理由なのです。この頻繁な告解は、闘いの一部なのです。告解の秘蹟による恩寵は、まさに将来の罪を避けるのを助けるためなのです! また、ご聖体の秘蹟は非常に重要です。霊魂を強め、心を天国の喜びにまで上げ、また犠牲の実であるがゆえに、十字架の愛を与えます。十字架は罪の反対なのです。十字架の愛は快楽の愛の反対です! そして、ご聖体への憧れは、霊魂を罪から解き放っておくのを助けてくれます。そして、聖体拝領のあと、その恩寵の思い出は、私たちの主イエズス・キリストにふさわしく生きるべきだということを思い起こさせてくれるのです!
第六戒を守るための第四にして、なくてはならない手段は、聖母への忠実で深い信心です。聖母は、純潔と貞潔の最も美しい模範です。聖母は、ご自分の子どもたちを清めるのを助けることを好まれる御母です。聖母の模範、聖母のご保護、聖母の御助けは非常に強力な手段です。誘惑を受けたらすぐ、聖母の御助けを求めましょう。そうすれば、不浄な悪魔は逃げうせるでしょう。聖母は、悔い改める罪びとを受け入れる用意を、まだ悔い改めていない罪びとが本当の悔悛にやって来るのを助けることさえなさる用意を常にお持ちである「あわれみの御母」でいらっしゃるのです。
不浄な者は誰も天国に入ることはできません。「誰が主の山に登れよう。誰がその聖所に立てよう。それは手の清く、心の純な者、魂が悪にひかれなかった者、偽って誓わなかった者である」(詩篇23章3-4節)。「主よ、誰があなたの幕屋に入り、尊い山に住むのか。申し分なく歩み、正義を行う人」(詩篇14章1-2節)。ですから、私たちの主ご自身がこう言われます。「心の清い人は幸せである、彼らは天主を見るであろう」(マテオ5章8節)。
私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって、私たちがこの第六戒(と他の掟)をよく守ることができますように。そうすることで、聖母と諸聖人とともに、永遠の喜びである天主の至福直観にまで到達することができますように! アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の「天主の十戒」についてのお説教をご紹介いたします。
第7回目は、第六戒「汝姦淫するなかれ。」についてです。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2016年5月21日 聖霊降臨後の四季の土曜日―大阪 お説教
第六戒「汝姦淫するなかれ」(脱出[出エジプト]20章14節)
親愛なる兄弟の皆さん、
第五戒の説教の最後のポイントです。第五戒は、隣人をつまずかせることも禁じています。つまり、隣人の霊的な命に害を与えることを禁じているのです。私たちの主イエズス・キリストは、人をつまずかせる行いを大変強い言葉で戒められます。「もし私を信じるこの小さな者を一人でもつまずかせたら、その人はろばの挽き臼を首にかけて海の深みに沈められるほうがよい。つまずきを起こすこの世に呪いあれ。つまずきは避けがたいけれども、つまずかせる人に呪いあれ」(マテオ18章6-7節)。
人をつまずかせることとは、誰かほかの人を罪へと導くことです。それはあらゆる徳に反することになり得ますが、それ自体でも、もう一つの罪となっています。悪を行うことは十分悪いことですが、つまずかせることによって悪を行うよう他人を導くことは、さらに悪いことだからです。つまずかせる行いには信仰に反するものがあります。例えば、悪い書物、あるいは信仰箇条を疑う現代主義の神学者たち(の教え)を広めることです。(そのような神学者たちは)カトリックの大学における自分たち地位によって、学生や他の人々をつまずかせるからです。つまずかせる行いには正義に反するものがあります。例えば、社長が従業員に商売で人をだますよう命じるときです。つまずかせる行いには貞潔に反するものがあります。慎みのなさによって、ポルノを見せることによって、不潔な会話をすることによって、などです。そのような行為は、二つの罪を含みます。信仰、正義、貞潔そのものに反する罪に加え、つまずかせる罪です。どちらも、告解で告白する必要があります。
天主は第一戒で、生きておられる方、永遠の命そのものである方、すべての命の最初の源である方である天主を礼拝するよう私たちにお命じになり、その後、第四戒で、私たちがその命を受け継がせてもらった人々に敬意を捧げること、そして第五戒で、人間の命それ自体を尊重することを私たちにお命じになった後、今度は、命の伝達を尊重するよう私たちにお命じになります。これが第六戒の目的です。人間の命の伝達は、創造(creation)のみわざに協力する非常に重要な行いですから、「出産(procreation)」と呼ばれています。それゆえに、非常に高い価値を持っています。ゲームではありません! 結婚は、出産のために天主によって用意された環境なのです。実際、子どもは父親と母親を必要とし、それは数年では済まず、非常に長い期間なのですから、婚姻外で子どもをもうけてはいけません! 結婚は正確に言えば、出産のために一人の男と一人の女の生涯にわたって続く非常に特別な結合です。結婚から命の伝達を断ち切ってしまうことは、第六戒に反する多くの罪を引き起こす第一の原因です。
結婚は人類を継続させるために必要ですから、天主は、人々に子どもを持つよう奨励するために、夫婦行為の中に一定の報い、一定の快楽を置かれました。素直な人々なら、天主が夫婦行為の中にその快楽を置かれなかったなら、子どもの数はずっと少なくなってしまい、人類は恐らく生き残ることはなく、ずっと以前に消滅していただろう、と認めるでしょう! 従って、天主は善良であり賢明であると分かるのです。しかし、ここで重要なのは、結婚における命の伝達への報いとして、その快楽が存在するという、その理由そのものを理解することです。快楽を命の伝達から断ち切ることは、労働せずに給料を欲しがる、実績なしで報酬を欲しがる従業員に似ています! でも、この快楽を命の伝達から断ち切ることは、現代世界に普通に見られることであり、第六戒に反する多くの罪の根っこにあるのです。
それゆえに、夫婦行為は、結婚のうちにおいてのみ、かつ命へと開かれた方法でのみ、行われるべきです。これは、すべての夫婦行為が新たな命(の誕生)へと至らなければならないという訳ではなく、夫婦行為による(新たな命という)自然の実を決して積極的に排除してはならないということです。気を付けていただきたいのは、両親の役割は単に子どもを持つだけでなく、子どもを教育することにまで及ぶことであり、その教育の仕方は、子どもに地上の生活のための準備をさせるだけでなく、それよりさらに重要なのは、子どもが天国に行くための準備をさせることだということです。良きカトリック的教育をすることは両親の重要な義務です。さらに気を付けていただきたいのは、良い両親が得られる最大の報いのひとつは、良い子どもたちであることです。快楽は過ぎ去りますが、良い子どもたちは残ります。快楽はつかの間の報いであり、良い子どもたちは長く続く報いです! 子どもたちが天国へ行けば、良い教育を受けたことを両親に永遠に感謝するでしょう。
ですから、第六戒は結婚における忠実、つまり結婚以外で夫婦の関係を持ってはならないことを命じています。したがって、第六戒は結婚におけるまことの人間の愛を守ることなのです。忠実な愛、自己を与える愛、生涯の愛であり、天主の愛にまことに倣うことです。聖パウロは言います。「実に愛される子らとして、天主に倣う者であれ。私たちを愛し、私たちのために芳しい香りのいけにえとして天主のご自分を渡されたキリストの模範に従って、愛のうちに歩め」(エフェゾ5章1-2節)。
それゆえに、第六戒が禁じているのは、第一に姦淫です。姦淫は、それによる結合で生まれ得る子どもの善に反します。その子どもは父親と母親二人と一緒にいることができないからです。子どもの父親が誰であるかに疑いが生じる場合は、さらに悪くなります。しかし、姦淫はまた、結婚生活での排他的権利を持つ相手を裏切ることですから、配偶者の善にも反します。姦淫は貞潔の徳と、配偶者に対する正義の徳の両方に反します。そのような行為の影響は生涯にわたって続くことになり得ますから、非常に重大な罪です。初代教会においては、人がその罪に陥った場合は、長きにわたる公の償いの行いが要求されました。聖パウロはこの罪の悪について強く言っています。「淫行の者、好色な者、情欲の者はみな―これは偶像崇拝者と同じである―、キリストと天主の国を継げない。人のむなしい言葉にだまされるな。不従順な者の上に天主の怒りを呼ぶのはそれらの事柄である。だから彼らと交わるな」(エフェゾ5章5-7節)。
第六戒はまた、私通も禁じています。私通とは、結婚していない人々が夫婦の関係を持つことです。結婚前の貞潔は、結婚した後の貞潔を準備するのですから、結婚前に貞潔でなければ、多くの場合、結婚してからの不貞へとつながります。ですから、良きかつ聖なる結婚のための準備として、純潔のままでいて、貞潔と童貞性を養うことは、若者たちにとって大変重要です。そうすれば、さらに幸せな結婚になるのですから。教会は、結婚は良いものであり、童貞であることを奉献することはさらに良いものだと教えています。若者に童貞を守ることが必要とされているのは奉献生活のためだけであると考えるべきではありません。それは、良きかつ聖なる結婚の準備としても必要とされているのです。結婚する日が来るまでは、人々は童貞のままでいるのが天主のご意志です。現代の世界はそれを軽んじていますが、良きカトリック信者はこの徳に高い価値を持ち続け、自分の子どもたちを罪の機会から遠ざけることによって、彼らにそれを守らせるようにしなければなりません。特にルフェーブル大司教は、テレビを避けるよう強く勧めておられたものです。大司教は、テレビをまったく持たないようにさえ勧めておられました! 良き修道者と良き司祭の模範によって、若者たちは励まされ、私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって、この徳(を守ること)が可能であるのを知るのです!
第六戒に反する罪には他にも、天主の秩序に反する倒錯行為を増やすようなものがあります。レイプのような暴力による罪があり、これは被害者を深く傷つけます。同性愛のような自然に反する罪があり、これは天主が「いまわしい限りのこと」(レビ18章22節)と呼ばれるもので、また獣姦のようにさらに悪いものもあります。近親相姦のような家族に対する罪があり、これは聖パウロが破門によって罰しました!(コリント前書5章1-5節)。小児性愛の罪があり、例えば子どもへの虐待ですが、これは大変深刻です。現代世界の不道徳さが増していくことで、これらの罪は増加してきており、今日の社会にひどい堕落をもたらしてきています。
これまで私たちは、避妊、不妊化(手術)、妊娠中絶という第五戒に反する罪を見てきましたが、それは、これらの罪の中に損傷や殺人があるからです。しかし、これらの罪はまた、第六戒にも反しています。それは、命の伝達を究極的に拒否することだからです。これらの罪はすでに古代に見られましたが、現代世界では計り知れないほど増えてきていることに注意してください。旧約聖書には、天主ご自身がユダの子オナンを、「地に流す」という結婚における不正行為のため死に処せられたことが言及されています(創世記38章9-10節)。ですから、この重大な罪は、教会によって「オナニズム」と呼ばれています。二十世紀の教皇たちが近代的な避妊法を非難したとき、目新しいことは何もしませんでした。その避妊法は新しかったのですが、教義は古くからのもので、旧約聖書で天主ご自身によってオナニズムが非難されて以来あったものでした。この非難は教会の教父たちによって頻繁に繰り返されました。
第六戒はまた、結婚していてもしていなくても、マスターベーションすなわち自慰行為を禁じています。これは本当の自己中心主義であり肉の奴隷状態にあることです。ですから、倒錯した愛です。結婚は、人が望むことを何でもしていいという許可ではなく、豚小屋でもなく、むしろ、例えば食欲をほどほどにするといった節制の徳を実践することを要求している、と言わなければなりません。ルフェーブル大司教は、結婚とは「美しい貞潔の学校」であるとよくおっしゃっていました。聖パウロは言います。「みな婚姻を尊び、寝床をけがすな。淫行者と姦通者は天主に裁かれる」(ヘブライ13章4節)。
第六戒に反する最後の罪は、慎みのないことです。これまで挙げた他の罪はすべて、重大な罪です。なぜなら、命の伝達が重要な問題であるからです。慎みのないことは、小さなつまずきにすぎない場合だけは小罪であるかもしれませんが、特に他人を本当につまずかせたり、誘惑する目的ではっきりと行われたりする場合は、大罪になり得ます。反対に、慎み深さは美しい徳であり、慎み深さが貞潔を守ってくれます。慎み深さは体の美しさに勝る霊魂の美しさの輝きです。慎み深い女性はずっと美しく、本当の美しさ、霊魂の美しさがあり、この霊魂の美しさは、体のはかない美しさよりもずっと長く続くのです。
快楽を究極の目的として探し求めるヘドニズム、快楽主義は、現代世界に大変な広がりを見せており、多くの霊魂に数えきれないほどの惨禍をもたらしています。これはまったくキリストの精神ではありません。実際、聖パウロは書いています。「実に肉の望むことは霊に反し、霊の望むことは肉に反する。それらは相反している。キリスト・イエズスにある者は、肉をその欲と望みとともに十字架につけた」(ガラツィア5章17、24節)。また再び書いています。「あなたたちの肢体を罪に与えて不義の道具とせず、かえって死を逃れて生きる者として自分を天主に捧げ、その肢体を天主のための正義の武器とせよ」(ローマ6章13節)。さらに書いています。「私は自分の体を苦しめてこれを奴隷にする。それは他人にのべ伝えながら、自分は除名されることのないためである」(コリント前書9章27節)。
今日では、第六戒を守ることは無理だと思っている人々がいます。これは絶対に誤りです。私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって、あらゆる大罪を避けるような方法で、第六戒そして他の掟を守ることはできるのです。聖母だけが、無原罪の御宿りという特権によって、あらゆる小罪から、どんな罪からも守られていました。聖人たちでさえ、ささいであっても小罪を犯していましたし、すべての人が罪に対する生涯にわたる闘いを行わなければなりません。しかし、私たちの主イエズス・キリストの恩寵があれば、回心ののち大罪を犯さずに生きることはできるのです。
今迎えている復活節があるのは、それを私たちに証明するためです。実際、聖パウロはローマ人たちに言いました。「死者からよみがえられたキリストは、もう死ぬことはなく、キリストに対してもはや死は何の力も持っていない」(ローマ6章9節)。聖トマス・アクィナスは、キリストの復活した命は、私たちが洗礼のとき受ける「新しい命」、また悔悛の秘蹟によって回復する「新しい命」の模範である、と説明しています。従って、復活したキリストはもう死ぬことがないという事実は、私たちが受けた新しい霊的な命は「もう死ぬことがない」ことが可能であるということ、すなわち、私たちはイエズス・キリストの恩寵によってあらゆる大罪を避けることができる、ということの保証なのです。ですから、それは本当に永遠の命の始まりなのです。イエズス・キリストがこう言われるように。「御子を信じる者には永遠の命がある」(ヨハネ3章36節)。「まことにまことに私は言う、私を信じる人は永遠の命を持つ」(ヨハネ6章47節)。「私の肉を食べ私の血を飲む者は、永遠の命を有し、終わりの日にその人々を私は復活させる」(ヨハネ6章54節)。その人々は、ここ地上ですでに霊魂の永遠の命の始まりを持ち、世の終わりには体の永遠の命を持つことになるのです。
第六戒を守ることが可能であるもう一つの証拠は、私たちの主イエズス・キリストの恩寵が、特定の霊魂たちをより高い徳、童貞を奉献する徳にまで上げることさえできるということです。恩寵がこのより高い徳を与えることができるなら、もっと低い徳はもちろん与えることができます。従って、良き司祭、修道士、修道女という模範は、純潔を守る信者に対して、また結婚に忠実である信者に対して、大きな霊感を与えます。子どもたちの中に、童貞を奉献することを高く評価する気持ちを養うことによって、親たちや教育者たちは、貞潔という基本の徳を子どもたちが実践するのを助けるのです。誤った方向に歩み始めないようにし、偶発的な出来事を避けることの方が、悪い習慣を正そうとしたり、罪のダメージを修復したりするよりも、ずっと良いのです。壊れていない花瓶は、壊れてから接着剤で元に戻した花瓶よりも美しいのです! 罪と妥協してはいけません!
不純な行いは腐敗した愛ですから、第六戒を守ることはまことの愛を保護することを保証し、また霊魂を開いて天主の愛を黙想させます。「心の清い人は幸せである、彼らは天主を見るであろう」(マテオ5章8節)。「申し分のない道を歩み、主の法を守る人は幸せである」(詩篇118章1節)。イエズスは純潔を愛され、イエズスは童貞であることを愛されます。「イエズスが愛された弟子」は童貞である弟子、聖ヨハネでした!
第六戒を守るための素晴らしい手段は、祈り、苦行、頻繁な告解の秘蹟と聖体拝領、そして聖母への強い信心です。祈りは救いのために必要です。祈る人は自分の霊魂を救いますが、祈らない人は自分の霊魂を滅ぼします! 一般的に祈りは必要ですが、純潔の徳を守る闘いにおいては特に必要です。実際、原罪の傷があるために、その傷によって、私たちは感覚を自動的に制御する力を失ってしまっており、私たちには自分の感情を、自分の想像力を制御するために天主の助けが必要なのです。そして、祈るときにその助けを獲得するのです。誘惑を受けたときには祈ってください。そうすれば、皆さんは罪に陥らないでしょう! 私は、あえて言います。皆さんが本当に祈る限り、皆さんは罪に陥ることはありえません。誘惑が続く場合は、祈り続けてください! 完全な勝利を得て誘惑が消えるまで、祈りをやめないでください。そして誘惑が消えたあとは、天主に感謝するのを忘れないでください。
第二の手段は苦行(償いの行い)です。祈りと一緒にすれば、あらゆる種類の誘惑、特に肉欲の誘惑に対する勝利を得るための非常に強力な手段です。私が強くお薦めするのは、指の上にひざまずき、誘惑が消えるまで「めでたし」を何回か祈ることです。勝利に至る非常に強力な手段です! 苦行はまた、罪を償うためにも必要とされます。人々が告解に行くことを奨励するため、教会は、告解で課される苦行を、教会の初期にあったものと比べれば減らしてきています! しかし、祈りをいくつかすることで、罪を償うためにふさわしく十分であると考えてはいけません。私たちは本当の苦行を行う必要があり、それを主の十字架上の犠牲と一致させる必要があります! そうしないと、私たちは、煉獄で返すべき大きな負債を抱えてしまうでしょう! キリストの犠牲と一致した苦行を行うことは、過去の罪を償い、将来の罪を防ぐという二つの効果があるのです!
第三の手段は、頻繁に秘蹟を受けることです。大罪に陥るのを待ってから告解に行こうとしないでください。大罪に陥る前に、正確には大罪に陥らないために、告解に行ってください! 小罪は告解をするのに十分な問題です。シャワーを浴びるために泥の中に落ちるのを待つ人はいません。毎日かく汗は、定期的にシャワーを浴びるのに十分な理由です。ですから、毎日犯す小罪は、頻繁に告解に行くのに十分な理由なのです。この頻繁な告解は、闘いの一部なのです。告解の秘蹟による恩寵は、まさに将来の罪を避けるのを助けるためなのです! また、ご聖体の秘蹟は非常に重要です。霊魂を強め、心を天国の喜びにまで上げ、また犠牲の実であるがゆえに、十字架の愛を与えます。十字架は罪の反対なのです。十字架の愛は快楽の愛の反対です! そして、ご聖体への憧れは、霊魂を罪から解き放っておくのを助けてくれます。そして、聖体拝領のあと、その恩寵の思い出は、私たちの主イエズス・キリストにふさわしく生きるべきだということを思い起こさせてくれるのです!
第六戒を守るための第四にして、なくてはならない手段は、聖母への忠実で深い信心です。聖母は、純潔と貞潔の最も美しい模範です。聖母は、ご自分の子どもたちを清めるのを助けることを好まれる御母です。聖母の模範、聖母のご保護、聖母の御助けは非常に強力な手段です。誘惑を受けたらすぐ、聖母の御助けを求めましょう。そうすれば、不浄な悪魔は逃げうせるでしょう。聖母は、悔い改める罪びとを受け入れる用意を、まだ悔い改めていない罪びとが本当の悔悛にやって来るのを助けることさえなさる用意を常にお持ちである「あわれみの御母」でいらっしゃるのです。
不浄な者は誰も天国に入ることはできません。「誰が主の山に登れよう。誰がその聖所に立てよう。それは手の清く、心の純な者、魂が悪にひかれなかった者、偽って誓わなかった者である」(詩篇23章3-4節)。「主よ、誰があなたの幕屋に入り、尊い山に住むのか。申し分なく歩み、正義を行う人」(詩篇14章1-2節)。ですから、私たちの主ご自身がこう言われます。「心の清い人は幸せである、彼らは天主を見るであろう」(マテオ5章8節)。
私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって、私たちがこの第六戒(と他の掟)をよく守ることができますように。そうすることで、聖母と諸聖人とともに、永遠の喜びである天主の至福直観にまで到達することができますように! アーメン。