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天主の十戒「第七戒」ー汝盗むなかれー命を守る外的な手段を尊重せよ:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

レネー神父様の「天主の十戒」についてのお説教をご紹介いたします。

第8回目は、第七戒「汝盗むなかれ。」についてです。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年5月21日 聖霊降臨後の四季の土曜日―大阪 霊的講話「第七戒」
親愛なる兄弟の皆さん、
十戒は命の掟であって、第一戒で命そのものでありかつすべての命の作者である天主を礼拝するよう私たちに命じており、また第四戒では私たちが両親を通して命を受けたためその両親を敬うよう命じており、第五戒と第六戒では命そのものと命の伝達を尊重するよう私たちに命じています。さて、今回お話しする第七戒によって私たちは、隣人の財産という命を守る外的な手段を尊重するよう義務付けられています。「汝盗むなかれ」(脱出[出エジプト]20章15節)。

第一に、教会が、財産についての自然権が存在する、と教えていることを私たちは知っておく必要があります。「地上と地上を満たすもの、世とそこに住む者、すべて主のもの」(詩篇23章1節―コリント前書10章26節)。被造物はすべて、すべてのものに対する至高の所有権をお持ちである天主のものです。地上が天主のものであるだけでなく、私たち自身も天主のものです! 天主が私たちと全世界をおつくりになったのですから、その作品は作者のものです。被造物全体への天主の支配は人間の財産を例外とせず、むしろその土台です。実際、天主はすべてのものの第一の原因でありながら、二次的な原因を除外されるどころか、むしろ被造物、特に天使や人間のような霊的な存在に対して、二次的な原因になる力をお与えになります。そのため、作品はその作者のものですから、人間の作品の実は、第一に天主のものですが、また二次的にはそのために働いた人間のものでもあるのです。人間は天主の下で、そのものの二次的ではあるが本当の原因であり、それゆえに、そのものに対する財産権を持つのです。

教皇レオ十三世は書いています。「ある人が他の人に、自分の持つ力または技術で雇われる場合、その人は自分のニーズを満たすのに必要な対価[それに応じた正当な給料]を受け取る目的で雇われる。それゆえに、その人は、報酬そのものだけでなく、その報酬を自分の望み通りに使えることについても、完全かつ実際の権利を獲得する明確な意思を示している。であるから、その人が質素に生活し、お金を節約して貯蓄し、さらに安心のために貯蓄を土地に投資するならば、そういう場合のその土地は、その人の賃金が別の形になっただけのものである。その結果、こうして購入された労働者の小さな不動産は、その人が労働の対価として受け取る賃金と同じように、自分で完全に自由に使えるべきである。しかし、正確に言えば、所有権というものは、その財産が土地であろうと動産であろうと、財産をこのように自由に使える力を含んでいる。それゆえに、社会主義者[共産主義者]は、個人の所有物を共同体全体に移そうと努めることによって、すべての賃金労働者の利益に打撃を与える。なぜなら、彼らは、賃金労働者から自分の賃金を自分で使う自由を奪い、それによって、賃金労働者から自分の資産を増やして自分の生活の条件を良くするという希望と可能性をすべて奪うからである」(レールム・ノヴァルム、第5パラグラフ)。

財産権を守るべきもう一つの理由があります。誰もが自分の所有物をより大切にします。共有財産は、修道院においてのみよく管理されています。そこでは、非常に高潔な修道士が共有財産の管理を適切に行っているからです。しかし、このように適切に管理されるのは、他のところではまれです。共産主義経済が失敗そのものだったため、疑いなくこの点が証明されました。天主は被造物の最高管理者でいらっしゃいますが、天主の下で人間のような知的な生き物は被造物の一部について天主の代理としての管理権を持つことがあり得ます。財産権によって、被造物の一部は人間が天主の代理として管理するように委託されています。私有財産は家族に対して、将来についてある程度の安心を与えます。また、その財産を使うことについても、ある程度の自由が与えられています。

私有財産の権利から、明らかに他人の財産を尊重する義務があることが導かれます。「汝盗むなかれ」(脱出20章15節)。盗みは、それ自体で大罪です。盗んだ物がごくわずかであれば、まだ「重大な問題」ではありませんから、そのため小罪に過ぎないでしょう。しかし、わずかな盗みに他のわずかな盗みが重なるなら、盗んだ物も足されねばなりませんから、たちまち重大な問題に到達し得るでしょう。重大な問題かどうかは、労働者の一日の給料の額で判断することができます。聖書は言います。「日雇いの賃金を、翌日まで延ばすな」(レビ19章13節)。「兄弟の一人でも、あるいはおまえの土地か町にいる他国人でも、卑しい者や貧しい者の賃金を不当に扱ってはならぬ。賃金の支払いを日暮れまで延ばしてはならぬ。毎日賃金を払え。彼は貧しくて賃金を待ち望んでいる。そうすれば彼は主に叫んでおまえを訴えることもなく、おまえは罪を背負うこともない」(第二法[申命記]24章14-15節)。

盗みには多くの方法があります。詐欺や高利貸、もっと悪いものは強盗のように暴力を伴うもの、あるいは、自らの有利な立場を利用して法外な値段を吹っかける恐喝です。不十分な賃金しか支払わないことは恐喝に似ています。これもまた、雇用者が、生きていくために働く必要のある貧しい被雇用者の困った状況に対して、自らの有利な立場を乱用しているのです。社長が賃金の支払いをできる限り少なくするならば、社長は自らの有利な立場を乱用しており、それは罪です。雇用者側のそのような罪は大罪であり、それは雇用者が被雇用者の数と同じだけの罪を犯しているからです。しかし、盗んだものを返すのを拒否するとき、たとえそれを知らずに手に入れていたとしても、第七戒に反する罪を犯しているのです。

第七戒に反する罪で一般によくあるものは、職場での不正行為です。例えば、いつも職場に遅れて到着し、労働契約で合意した長さの時間通り働かない場合、あるいは、個人的な用事をするために労働時間を使うときです。このような事柄では、例えば緊急の個人的な問題で一回だけ短時間、(職場の)電話を使うことならまったく罪ではないでしょうが、それが何度も繰り返されたり、長時間の国際電話になったりといった場合には、上司や社長の許可を得る必要があるでしょう。その許可を得ていないのなら、電話代だけでなく、私用で使った時間(分の給料)まで返す必要があるでしょう。

勉強でのカンニング、特に学生の試験のときのカンニングもまた、一種の盗みです。自分がそれに値しない得点を盗むからです。学生が最終試験のときカンニングする場合、これも一種の盗みです。卒業証書を盗み、医学のことを実際には知らない医者に、誰が自分の健康を委ねたいと思いますか? それほど昔ではない時期に、インドでスキャンダルがありました。パイロットの資格が、必要な飛行時間に達していない学生に与えられたのです。言い換えれば、飛行機の乗客全員に対する責任が、それによって不適格者に与えられたのです! これは実際、正義に反する罪です。

盗みは、まったく割に合わないものです。実際、「よし全世界をもうけても、命を失えば何の役に立つだろう。また、人は命の代わりに何を与えられよう」(マテオ16章26節)。消え去っていくもののせいで、永遠を失うとは、なんと割に合わないことでしょうか! 人が常に死と審判を自覚し、さらに義人への報いとしての永遠の命を自覚しているのなら、決してそんな不正を行うことはないでしょう。裏切り者ユダは「盗人であり、預かっている財布の中身を盗んでいた」(ヨハネ12章6節)のです。ユダの自殺と滅びは、盗人たちへの大きな警告です。彼らは地獄の火にさらされる危険の中にいるのですから!私たちの主ご自身が、ユダについて言われました。「その者はむしろ生まれぬ方がよかった」(マテオ26章24節)。

過去に盗みをしたことがある場合、その人は盗んだものを返さなければなりません。誰から盗んだのか覚えていない場合、その人は貧しい人々にその額を与えなければなりません。どのくらい盗んだのか覚えていない場合、その人は机に座って紙を一枚取り、何とか頑張って思い出すべきです。返すのは、少なすぎるより多すぎる方がよいのです。聖パウロは言います。「盗人はもう盗むな。むしろ、貧しい人々に施すために、自分の手で何かよい仕事をして働け」(エフェゾ4章28節)。また、聖パウロは再びテサロニケ人に言います。「私たちが先に命じたように、落ち着いてそれぞれの仕事につき、手ずから働くように努めよ。そうすれば、外の人[非キリスト教徒]に対しては名誉ある生活が営める」(テサロニケ前書4章11、12節)。そして、聖パウロは使徒行録の中で言います。「[聖パウロのように懸命に]働いて弱い人を支え、主イエズス自ら言われた『受けるよりも与えることに幸せがある』という言葉を思い出さねばならぬことを、常にあなたたちに示しました」(使徒行録20章35節)。

実際、第七戒は、私たちが他人に負っているものを他人に与えるよう私たちに要求するという、正義の徳を実践するよう明確に義務づけています。私たちは、他人の労働から恩恵を受けています。私たちは、口にする食べ物を農民に負っており、着る服を衣料品製造業者に負っており、家やアパートを建設業者に負っており、履物を靴製造業者に負っている、といったことです。それゆえに、私たちもまた、彼らに対して貢献する義務を負っています。私たち自身も共通善に貢献しなければならず、私たちは働かなければなりません! さらに一家の父親には、もう一つの理由からも働く義務があります。それは、家族を養う義務であり、今だけでなく、将来にわたって養う義務です。将来にわたって家族を養うことができるように、父親は資産、土地、家などを取得するかもしれません。

しかし、所有には責任が伴ってきます。そしてより多くを持つ者は、より多くの責任も持つのです。実際、私たちは地上で唯一の存在ではありません。私たちは自分のことだけでなく、隣人のことも考えねばなりません。また、不平等があるのは自然なことです。強い者がいれば弱い者もいます。他人より勤勉な者がいますし、他人より健康な者がいるといったことです。そのような自然の違いはすべて、自然の不平等につながります。しかし、天主の御摂理がそのような不平等があるよう意図されたのは、より多く持つ者が少ししか持たない者に与えるようにするためです。強い者は弱い者を守るべきです。健康な者は病人の世話をすべきです。勤勉な者は、その受けた賜物を、他人のために雇用を提供するなど、他人の利益になるように使わなければなりません。私たちの主イエズス・キリストは言われます。「恵みを多く受けた人は多く要求され、多くを任せられた人は多くを要求される」(ルカ12章48節)。また、聖パウロは言います。「この世の金持ちたちに命じよ。おごることなく、定めのない富に望みを置かず、われわれに用いさせるためにすべてを豊かに与え給う天主に依り頼み、善を行い、善業に富み、施しに備え、分け与え、未来のために良い基を蓄え、真の命をとらえよ」(ティモテオ前書6章17-19節)。

実際、盗みの反対は施しです。施しをすることによって、私たちは「自分のために天に宝を積む。そこではしみも虫もつかず、盗人が穴を開けて盗み出すこともない」(マテオ6章20節)のです。教会の教父たちは、施しをすることは天主にお金を貸していることであり、天主は無限の利子、永遠の命を返してくださる、と言っていたものです。「持ち物を売って施せ。自分のために古くならぬ財布をつくり、尽きぬ宝を天に積め。そこでは盗人も近寄らず、誰にも食い荒らされぬ」(ルカ12章33節)。聖ヨハネは、その手紙の中で私たちに警告しています。「世の宝を持ちながら兄弟の乏しさを見てあわれみの心を閉じる人の中に、どうして天主の愛が住もうか」(ヨハネ第一3章17節)。

諸聖人に、特に聖母と、一生懸命働いて正直に生きられた聖ヨゼフに祈りましょう。私たちが常に正義に忠実であり、盗みをせず、むしろ義務を果たすよう、特に施しの義務を果たすよう、助けてくださいますように。アーメン。

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