2016年5月4日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話3
「天主の正義と憐れみは完全に調和する」
同時通訳:小野田圭志神父
「天主様の憐れみ」というものが何か、人間の弱い言葉と弱い概念を使って何とか説明しようと努力してみました。
私たちは、天主様の全ての業が、深く、憐れみという事に根付いて、それを原因としている事を確信しなければなりません。この世を創造された事、この世を創造して御摂理によって保ってくれる事、それは憐れみの御業です。
天主様が人となって御託身をされた事、人となられた天主が、十字架の上で命をかけて御血潮を流されて贖われた、贖いの業、これも憐れみによるものです。
私たちを浄め聖化して下さる、これも憐れみの業です。
私たちに永遠の報いを与え、自分の本当の子供として受け取って下さる、養子として下さる、という事も憐れみの御業です。
この「天主の憐れみ」というものは、天主の属性全てを一つにまとめます。
ところで、天主の属性の中には、「憐れみ」という事と対立する属性があるかのように思われます。それは「正義」です。
しかしこの「天主の正義」という事は、よく使われるのですけれども、その深い意味を理解していないかのように使われています。この「天主の正義」という事については、悪い、或いは正確に言えば、十分でない理解の仕方がよくあります。ですからこの悪い間違った理解の仕方によって、「天主は正義である。『しかし』同時に憐れみ深い」などという言い方をします。
では、「天主の正義」とは何でしょうか?
「正義」というのは「義」というのは、「その各自に、それに相応しいものを与える」という事です。ラテン語では「Suum cuique」と言って、「それぞれに、彼のものを」という意味です。
「天主が正義である」という事は、「まず天主が、自分の本性に相応しい、与えなければならないものを与えて、私たちに、それに与えなければならないものを与える」という事です。つまり「善い善人には報いを、悪人には罰を与える」という事です。
何故かというと、「正義」というのは、「天主様が聖である」という事の表現の1つであるからです。「正義」という事だけが、「秩序と調和」を生み出す事ができます。「正義」という事が、「各人が、正しく持つ権利であるもの」を与えます。ですから、「善人」には「報い」を、「悪人」には「罰」が与えられます。
聖ヨハネはこの正義について正しく表現しています、「天主は光である。従って、彼には闇がない。」
「正義」というのは、「真理を守る徳」です。正義は、善を守り光を保護します。善を守り、悪から汚れたものから破壊を防ぎます。誤謬から真理を守ります。悪から善を守ります。汚いものから美を守ります。死から命を守ります。暗闇から光を守ります。天主は光であって、その中に闇はありません。
罪とは何でしょうか?罪とは、「偽り」であって、「悪」であって、「汚れ」であって、「死」です。罪が現れると、光の中に闇が現れます。
しかし正義は、その暗闇を除去します。正義は、負債があればそれを支払う事を要求します。罪、或いは悪がなされれば、それに対して償いがなされなければなりません。審判者には正義の徳が要求されます。
ここで表面的な問題があるように思われます。原罪を犯した後に私たちは、天主を非常に多く屈辱しました。私たちが罪を犯せば犯すほど、無限の負債を天主に負います。しかし負債は必ず支払わなければなりません。私には支払う事ができません。
天主は私の霊魂を、極めて美しい宮殿として創りました。この宮殿は天主に属しています。この天主から与えられた、天主に所属しているこの宮殿を、私は乱用して、まずく使って、それを乱用しようとしました。
きれいな宮殿を、罪を犯す度にハンマーを持ってガツン!ガツン!と壁を壊し、窓ガラスを壊し、柱を壊し、破壊しようとするのが、これが「罪」です。
天主様の前で、廃虚となった宮殿を提示するのです。このような廃虚は天主の前に差し出す事はできません。
もう一つの例をあげます。天主様は非常に美しい「美」を作りました。ところがこの美しい芸術作品に、私は泥を塗り、汚物でそれを汚します。
皆さん考えて下さい、この美しく、このように花で飾られたきれいな祭壇に、誰かがいきなりやって来て、その中に汚いバケツの中に汚い汚物を入れて、もう臭くて臭くてたまらないものをブワーッ!とこの祭壇にみなかけたら、皆さんは「あぁっ!」と驚くではないでしょうか。
この「正義」によって、秩序を保つ為に、調和を保つ為に、全てのこの美を保つ為に、全ての罪をこの汚物を除去しなければなりません。
でも天主は憐れみ深い方です。ではどうやってそれが両立するのでしょうか?
両立するのは難しいかのように思われますが、その解決の仕方が間違うと異端になります。異端の特徴は、正義と憐れみを「対立させる」事です。あたかもそれが互いに矛盾しているかのように。
ある異端は従って、「憐れみを生かす為に、天主の正義をほっぽらかしてしまう」という異端で、或いは正義を、「天主の正義を生かす為に、天主の憐れみを打ち捨ててしまう」、これも異端です。
これは、天主の正しい理解が欠如していた、という事の結果です。また私たち自身、私たちの救霊の業を理解していなかった事によるものです。
ではプロテスタントは何を教えているでしょうか?
ルターはこう言います、ルターによれば、「天主は罰を与えない。」ルターによれば、「天主は憐れみだから、その何かカバーで罪をかぶせて見えないようにして、美しいマントをかけてカバーをかぶせて、それで覆ってしまって見えないようにするだけだ。本当は罪人なのだけれども、あたかも罪人ではないかのように、美しいかのように取り扱ってくれる」と言います。「天主様が、この崩壊して汚い汚物だらけの宮殿の、霊魂の宮殿にきれいなマントをかけて、『ああ何と美しい宮殿でしょうか。』と言ってくれる」というのがルターの解決策です。
ルターによれば、「罪人とは従って永久に罪人で、罪はそのまま残る」と言います。「しかし天主は聖人であるかのように取り扱ってくれる」と言います。「この多くの汚物はマントにかぶせられて、そのまま天国に受け入れられる」と言います。
ですから「その罪と汚物をそのまま持ち続けつつ、天国にいる」という事になります。「天主は正義の要求を無視して、『私は憐れみ深いからいらっしゃい』と言う。」「天主様はこうやって私たちを、そういう私たちを受け入れてくれるので、私たちは自分を浄める必要はない。だから苦行よ、さようなら。告解よ、さようなら。罪の償いよ、さようなら。」ルターによれば、「罪を力強く犯せ、しかし更に力強く信じよ。」
この間違った考えは、「天主が一体どのような方であるか」という事を誤解させ、「私たちが人生において、罪の償いを果たさなければならない」という事を忘れさせます。
ところで私はルター派の牧師たちに黙想会の指導をしました。このルター派の牧師たち自身が私に言った事ですけれども、「この役立たずのルターは、私たちの仕事を全く、人生を役に立たなくしてくれる。何故かというと、私たちが何をしても、全く役に立たないからだ。」
ルター派、プロテスタント自身が言うのですけれども、「プロテスタントには聖人がいない。聖人にはなれない。誰も聖人ではない、聖とはなれない。聖とする事ができない。何故かというと、私たちは汚いまま、罪人のまま残るからだ。ただカバーがかけられただけだ。」
「天主様だけが聖で、いくらイエズス様が、『回心せよ』とか、『罪の償いをせよ』と言っても、全くそれは無駄な言葉だ」という事になります。
皆さん、これはカトリック教会に対する何という大きな一撃だったでしょうか。「新しいミサは、1969年に、ルター派の牧師たちとの合意のもとで作られた」という事です。新しいミサによると、もうそのミサの中の祈りの中には、私たちが「罪の償いをする」、「苦行をして罪を償う」、或いは「地獄の罰が待っている」という事はもう語られません。そのようなものは「無い」のです。これが現代の新しいミサの霊性であって、近代主義の霊性です。罪に対する戦いは必要ないのです、新しい考えによると。良い人であればよいのです。
その結果は何かというと、天に復讐を叫ぶものすごい罪を犯しても、例えば同性愛、或いはその他多くの罪を犯しても、「あぁ、OK。何でも良いのです。天主様は皆さんを愛していますよ。」
「これが、」現代の人によると、「これが、天主の憐れみだ」と言います。「天主様は本当に優しいパパだから、盗んでも良いし、殺しても良いし。憐れみに、憐れみに、憐れみに満ちているから、地獄に追いやる事は決してありませんよ。何でも罪を犯して良いのですよ。」そこで多くの人が、残念ながら教会の指導者たちもよく、「あぁ、地獄はあっても空っぽだ」とか、「誰も地獄に行かない」などと言います。
という事は、「天主の正義というのは無い」という事になってしまいます。でもその結果として、「秩序」、或いは「美」、或いは「聖性」「聖なる事」という事さえも破壊されてしまいます。
それが現代起こっている教会の混乱です。
ニュースによると、昨日か一昨日、カテドラルの中で司教様が自転車に乗ってやって来てぐるぐる廻ったのだそうです。何故かというと、その青年の為のミサでその青年はスポーツをする人たちだったそうで、その青年たちの気に入る為に。これが、どうやって、教会の中にある典礼の聖なるものであるという事が壊されているか、という事の見本です。この教会の中の美しい歌、 聖歌、或いは侍者の美しい動きなども、こういうダンスで壊されてしまっています。
その反対もあります。それがジャンセニストです。ジャンセニストは、天主の正義を守ろうとしました。天主を厳しい方である、正義の方である、と高く上げて、その為に憐れみを地に落しました。
このジャンセニストの影響は、20世紀の個人的なそういう祈りの中にも少し残っていました。年配の方々からまた昔の年配の方々が、「天主様は厳しい御方であって、厳しい会計士であって、その最後の1銭1毛まで払うのを要求する厳しい取り立て人だ。キリスト教の信者の生活とは、それが最後には借金を全て返すか返さないか、それをちゃんと払ったか払わないかを、ちゃんと払う事がキリスト教の使命だ」と。
「憐れみ、或いは優しさ、これは天主の属性ではない。何故かというと、天主が弱いという事を意味するからだ。」
時々カトリックの人も誤解して、「私に害を与えた人に対して優しかったり、その人を許してあげたりする事は、弱さのしるしだ」と誤解する人がいます。
これに対する近代主義の反応があります。それは、「天主があまりにも良い方なので、イエズス様は悪の前に目を閉じる」と。
でもこのような異端と誤謬を排して、カトリックの教えはその中庸に立っています。
この今から話す事は、非常に大切です。
この天主様の中に、「善」と「美」と「正義」が「調和」していなければなりません。
悪と汚物と罪は、闇が消え去らなければならないように、無くならなければなりません。負債は払わなければなりません。私は自分では悪を除去する事もできなければ、負債を支払う事もできなければ、闇を取り払う事もできないので、私を取り払わなければなりません。本来ならば、天主の正義は私を打ち砕き、私は永遠の罰を受けなければなりません。私は、罪の為に1000の地獄を受けて当然です。もしも正義の審判官が私に正義の宣告をするならば、そうして当然です。
皆さん、皆さんの愛する家族の、その家族がある男によって残酷に殺され、その残酷に殺したのみならず、それを強盗で、その皆さんの持っていたお金を全部奪い、捕まったとします。裁判が行われますが、裁判で審判官が、「あぁ、この被告は俺の友達だ。自由、釈放。」と言えば、皆さんどういう態度を取るでしょうか?「これは公平ではない!不正だ!不正義だ!」
もしも皆さん、政府がこのような事をしたらどういう事を言うでしょうか?「全世界の不正!腐敗!なぜ善人は罰せられ、悪人は誉められているのか!」と。
私は罪を犯す事によって、殺人犯であり、盗人であり、本当に悪人となりました。しかしその罰せずにそのまま解放される事ができるでしょうか?私たちは皆全て、このような罪人ですから、地獄に行かなければなりません。
ところが天主の無限の憐れみによって奇跡が起こります。1つのチャンスがあります。もしも無限の負債があって、支払いきれない時にどうしたら良いでしょうか?
誰かとても金持ちの友人がやって来て、皆さんの代わりに支払って下さる方がいます。「友よ、君は僕の友達だ。僕が代わって支払ってあげよう。」
或いはコルベ神父様のように、「フランシス、お前結婚して子供がいるよね。もしもお前が今死んじゃうと家族が食っていけない。だから僕が代わりに、身代わりになろう。」と言うのです。
コルベ神父様はこのフランシスの代わりに、男の代わりに自分で飢餓室に入って、死んでいくのです。コルベ神父様はフランシスの罰を自分の肩に背負って、身代わりになりました。
天主御父は、御自分の御子をやはり私たちの身代わりに送ります。天主様の御子は私たちのうちの一人となって、私たちの負債を背負う為に人となります。これは天主御子が私たちに近寄って、「お前の負債をみんなおくれ。私がそれを支払ってあげよう」と言う事ができる為です。
有名な映画の絵があります。誰かが死刑を受けて、この死刑の判決の執行その直前の事です。その時に親友が突然やって来て、彼の前にバッと立ちふさがって、その弾丸が自分に当たって友を助けるのです。
「友人の為に命を与えるほど大きな愛はない。」これこそが最高の「憐れみ」です。
私が罪を犯して、イエズス様が支払ってくれました。天主様の罰の剣が私の目の前にグワッと下りるところを、イエズス様はその前にバッと立って、それを受けてくれました。
この天主の正義の剣の効果はどのようなものだったかという事は、イエズス様の御受難と御死去によって現れます。天主の正義はきわめて満足され、、「これで良し」とされました。天主の正義と、天主の美と、秩序は、こうして復興されました。これこそが、この「正義」が確立した時こそ、天主の最も、被造物が見た事のない「憐れみ」が現れたのです。
これがカトリックです。これが聖伝のミサです。
聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。
「天主の正義と憐れみは完全に調和する」
同時通訳:小野田圭志神父
「天主様の憐れみ」というものが何か、人間の弱い言葉と弱い概念を使って何とか説明しようと努力してみました。
私たちは、天主様の全ての業が、深く、憐れみという事に根付いて、それを原因としている事を確信しなければなりません。この世を創造された事、この世を創造して御摂理によって保ってくれる事、それは憐れみの御業です。
天主様が人となって御託身をされた事、人となられた天主が、十字架の上で命をかけて御血潮を流されて贖われた、贖いの業、これも憐れみによるものです。
私たちを浄め聖化して下さる、これも憐れみの業です。
私たちに永遠の報いを与え、自分の本当の子供として受け取って下さる、養子として下さる、という事も憐れみの御業です。
この「天主の憐れみ」というものは、天主の属性全てを一つにまとめます。
ところで、天主の属性の中には、「憐れみ」という事と対立する属性があるかのように思われます。それは「正義」です。
しかしこの「天主の正義」という事は、よく使われるのですけれども、その深い意味を理解していないかのように使われています。この「天主の正義」という事については、悪い、或いは正確に言えば、十分でない理解の仕方がよくあります。ですからこの悪い間違った理解の仕方によって、「天主は正義である。『しかし』同時に憐れみ深い」などという言い方をします。
では、「天主の正義」とは何でしょうか?
「正義」というのは「義」というのは、「その各自に、それに相応しいものを与える」という事です。ラテン語では「Suum cuique」と言って、「それぞれに、彼のものを」という意味です。
「天主が正義である」という事は、「まず天主が、自分の本性に相応しい、与えなければならないものを与えて、私たちに、それに与えなければならないものを与える」という事です。つまり「善い善人には報いを、悪人には罰を与える」という事です。
何故かというと、「正義」というのは、「天主様が聖である」という事の表現の1つであるからです。「正義」という事だけが、「秩序と調和」を生み出す事ができます。「正義」という事が、「各人が、正しく持つ権利であるもの」を与えます。ですから、「善人」には「報い」を、「悪人」には「罰」が与えられます。
聖ヨハネはこの正義について正しく表現しています、「天主は光である。従って、彼には闇がない。」
「正義」というのは、「真理を守る徳」です。正義は、善を守り光を保護します。善を守り、悪から汚れたものから破壊を防ぎます。誤謬から真理を守ります。悪から善を守ります。汚いものから美を守ります。死から命を守ります。暗闇から光を守ります。天主は光であって、その中に闇はありません。
罪とは何でしょうか?罪とは、「偽り」であって、「悪」であって、「汚れ」であって、「死」です。罪が現れると、光の中に闇が現れます。
しかし正義は、その暗闇を除去します。正義は、負債があればそれを支払う事を要求します。罪、或いは悪がなされれば、それに対して償いがなされなければなりません。審判者には正義の徳が要求されます。
ここで表面的な問題があるように思われます。原罪を犯した後に私たちは、天主を非常に多く屈辱しました。私たちが罪を犯せば犯すほど、無限の負債を天主に負います。しかし負債は必ず支払わなければなりません。私には支払う事ができません。
天主は私の霊魂を、極めて美しい宮殿として創りました。この宮殿は天主に属しています。この天主から与えられた、天主に所属しているこの宮殿を、私は乱用して、まずく使って、それを乱用しようとしました。
きれいな宮殿を、罪を犯す度にハンマーを持ってガツン!ガツン!と壁を壊し、窓ガラスを壊し、柱を壊し、破壊しようとするのが、これが「罪」です。
天主様の前で、廃虚となった宮殿を提示するのです。このような廃虚は天主の前に差し出す事はできません。
もう一つの例をあげます。天主様は非常に美しい「美」を作りました。ところがこの美しい芸術作品に、私は泥を塗り、汚物でそれを汚します。
皆さん考えて下さい、この美しく、このように花で飾られたきれいな祭壇に、誰かがいきなりやって来て、その中に汚いバケツの中に汚い汚物を入れて、もう臭くて臭くてたまらないものをブワーッ!とこの祭壇にみなかけたら、皆さんは「あぁっ!」と驚くではないでしょうか。
この「正義」によって、秩序を保つ為に、調和を保つ為に、全てのこの美を保つ為に、全ての罪をこの汚物を除去しなければなりません。
でも天主は憐れみ深い方です。ではどうやってそれが両立するのでしょうか?
両立するのは難しいかのように思われますが、その解決の仕方が間違うと異端になります。異端の特徴は、正義と憐れみを「対立させる」事です。あたかもそれが互いに矛盾しているかのように。
ある異端は従って、「憐れみを生かす為に、天主の正義をほっぽらかしてしまう」という異端で、或いは正義を、「天主の正義を生かす為に、天主の憐れみを打ち捨ててしまう」、これも異端です。
これは、天主の正しい理解が欠如していた、という事の結果です。また私たち自身、私たちの救霊の業を理解していなかった事によるものです。
ではプロテスタントは何を教えているでしょうか?
ルターはこう言います、ルターによれば、「天主は罰を与えない。」ルターによれば、「天主は憐れみだから、その何かカバーで罪をかぶせて見えないようにして、美しいマントをかけてカバーをかぶせて、それで覆ってしまって見えないようにするだけだ。本当は罪人なのだけれども、あたかも罪人ではないかのように、美しいかのように取り扱ってくれる」と言います。「天主様が、この崩壊して汚い汚物だらけの宮殿の、霊魂の宮殿にきれいなマントをかけて、『ああ何と美しい宮殿でしょうか。』と言ってくれる」というのがルターの解決策です。
ルターによれば、「罪人とは従って永久に罪人で、罪はそのまま残る」と言います。「しかし天主は聖人であるかのように取り扱ってくれる」と言います。「この多くの汚物はマントにかぶせられて、そのまま天国に受け入れられる」と言います。
ですから「その罪と汚物をそのまま持ち続けつつ、天国にいる」という事になります。「天主は正義の要求を無視して、『私は憐れみ深いからいらっしゃい』と言う。」「天主様はこうやって私たちを、そういう私たちを受け入れてくれるので、私たちは自分を浄める必要はない。だから苦行よ、さようなら。告解よ、さようなら。罪の償いよ、さようなら。」ルターによれば、「罪を力強く犯せ、しかし更に力強く信じよ。」
この間違った考えは、「天主が一体どのような方であるか」という事を誤解させ、「私たちが人生において、罪の償いを果たさなければならない」という事を忘れさせます。
ところで私はルター派の牧師たちに黙想会の指導をしました。このルター派の牧師たち自身が私に言った事ですけれども、「この役立たずのルターは、私たちの仕事を全く、人生を役に立たなくしてくれる。何故かというと、私たちが何をしても、全く役に立たないからだ。」
ルター派、プロテスタント自身が言うのですけれども、「プロテスタントには聖人がいない。聖人にはなれない。誰も聖人ではない、聖とはなれない。聖とする事ができない。何故かというと、私たちは汚いまま、罪人のまま残るからだ。ただカバーがかけられただけだ。」
「天主様だけが聖で、いくらイエズス様が、『回心せよ』とか、『罪の償いをせよ』と言っても、全くそれは無駄な言葉だ」という事になります。
皆さん、これはカトリック教会に対する何という大きな一撃だったでしょうか。「新しいミサは、1969年に、ルター派の牧師たちとの合意のもとで作られた」という事です。新しいミサによると、もうそのミサの中の祈りの中には、私たちが「罪の償いをする」、「苦行をして罪を償う」、或いは「地獄の罰が待っている」という事はもう語られません。そのようなものは「無い」のです。これが現代の新しいミサの霊性であって、近代主義の霊性です。罪に対する戦いは必要ないのです、新しい考えによると。良い人であればよいのです。
その結果は何かというと、天に復讐を叫ぶものすごい罪を犯しても、例えば同性愛、或いはその他多くの罪を犯しても、「あぁ、OK。何でも良いのです。天主様は皆さんを愛していますよ。」
「これが、」現代の人によると、「これが、天主の憐れみだ」と言います。「天主様は本当に優しいパパだから、盗んでも良いし、殺しても良いし。憐れみに、憐れみに、憐れみに満ちているから、地獄に追いやる事は決してありませんよ。何でも罪を犯して良いのですよ。」そこで多くの人が、残念ながら教会の指導者たちもよく、「あぁ、地獄はあっても空っぽだ」とか、「誰も地獄に行かない」などと言います。
という事は、「天主の正義というのは無い」という事になってしまいます。でもその結果として、「秩序」、或いは「美」、或いは「聖性」「聖なる事」という事さえも破壊されてしまいます。
それが現代起こっている教会の混乱です。
ニュースによると、昨日か一昨日、カテドラルの中で司教様が自転車に乗ってやって来てぐるぐる廻ったのだそうです。何故かというと、その青年の為のミサでその青年はスポーツをする人たちだったそうで、その青年たちの気に入る為に。これが、どうやって、教会の中にある典礼の聖なるものであるという事が壊されているか、という事の見本です。この教会の中の美しい歌、 聖歌、或いは侍者の美しい動きなども、こういうダンスで壊されてしまっています。
その反対もあります。それがジャンセニストです。ジャンセニストは、天主の正義を守ろうとしました。天主を厳しい方である、正義の方である、と高く上げて、その為に憐れみを地に落しました。
このジャンセニストの影響は、20世紀の個人的なそういう祈りの中にも少し残っていました。年配の方々からまた昔の年配の方々が、「天主様は厳しい御方であって、厳しい会計士であって、その最後の1銭1毛まで払うのを要求する厳しい取り立て人だ。キリスト教の信者の生活とは、それが最後には借金を全て返すか返さないか、それをちゃんと払ったか払わないかを、ちゃんと払う事がキリスト教の使命だ」と。
「憐れみ、或いは優しさ、これは天主の属性ではない。何故かというと、天主が弱いという事を意味するからだ。」
時々カトリックの人も誤解して、「私に害を与えた人に対して優しかったり、その人を許してあげたりする事は、弱さのしるしだ」と誤解する人がいます。
これに対する近代主義の反応があります。それは、「天主があまりにも良い方なので、イエズス様は悪の前に目を閉じる」と。
でもこのような異端と誤謬を排して、カトリックの教えはその中庸に立っています。
この今から話す事は、非常に大切です。
この天主様の中に、「善」と「美」と「正義」が「調和」していなければなりません。
悪と汚物と罪は、闇が消え去らなければならないように、無くならなければなりません。負債は払わなければなりません。私は自分では悪を除去する事もできなければ、負債を支払う事もできなければ、闇を取り払う事もできないので、私を取り払わなければなりません。本来ならば、天主の正義は私を打ち砕き、私は永遠の罰を受けなければなりません。私は、罪の為に1000の地獄を受けて当然です。もしも正義の審判官が私に正義の宣告をするならば、そうして当然です。
皆さん、皆さんの愛する家族の、その家族がある男によって残酷に殺され、その残酷に殺したのみならず、それを強盗で、その皆さんの持っていたお金を全部奪い、捕まったとします。裁判が行われますが、裁判で審判官が、「あぁ、この被告は俺の友達だ。自由、釈放。」と言えば、皆さんどういう態度を取るでしょうか?「これは公平ではない!不正だ!不正義だ!」
もしも皆さん、政府がこのような事をしたらどういう事を言うでしょうか?「全世界の不正!腐敗!なぜ善人は罰せられ、悪人は誉められているのか!」と。
私は罪を犯す事によって、殺人犯であり、盗人であり、本当に悪人となりました。しかしその罰せずにそのまま解放される事ができるでしょうか?私たちは皆全て、このような罪人ですから、地獄に行かなければなりません。
ところが天主の無限の憐れみによって奇跡が起こります。1つのチャンスがあります。もしも無限の負債があって、支払いきれない時にどうしたら良いでしょうか?
誰かとても金持ちの友人がやって来て、皆さんの代わりに支払って下さる方がいます。「友よ、君は僕の友達だ。僕が代わって支払ってあげよう。」
或いはコルベ神父様のように、「フランシス、お前結婚して子供がいるよね。もしもお前が今死んじゃうと家族が食っていけない。だから僕が代わりに、身代わりになろう。」と言うのです。
コルベ神父様はこのフランシスの代わりに、男の代わりに自分で飢餓室に入って、死んでいくのです。コルベ神父様はフランシスの罰を自分の肩に背負って、身代わりになりました。
天主御父は、御自分の御子をやはり私たちの身代わりに送ります。天主様の御子は私たちのうちの一人となって、私たちの負債を背負う為に人となります。これは天主御子が私たちに近寄って、「お前の負債をみんなおくれ。私がそれを支払ってあげよう」と言う事ができる為です。
有名な映画の絵があります。誰かが死刑を受けて、この死刑の判決の執行その直前の事です。その時に親友が突然やって来て、彼の前にバッと立ちふさがって、その弾丸が自分に当たって友を助けるのです。
「友人の為に命を与えるほど大きな愛はない。」これこそが最高の「憐れみ」です。
私が罪を犯して、イエズス様が支払ってくれました。天主様の罰の剣が私の目の前にグワッと下りるところを、イエズス様はその前にバッと立って、それを受けてくれました。
この天主の正義の剣の効果はどのようなものだったかという事は、イエズス様の御受難と御死去によって現れます。天主の正義はきわめて満足され、、「これで良し」とされました。天主の正義と、天主の美と、秩序は、こうして復興されました。これこそが、この「正義」が確立した時こそ、天主の最も、被造物が見た事のない「憐れみ」が現れたのです。
これがカトリックです。これが聖伝のミサです。
聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。