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聖伝の典礼暦による2017年のカレンダー日本語版 :【付録】 1917年

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【付録】1917年

100年前の、1917年、世界は第一次世界大戦の真っ最中でした。連合国(イギリス・フランス・ロシア帝国・セルビア・モンテネグロ・イタリア・ルーマニアなど)が、中央同盟国(ドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国・オスマン帝国・ブルガリア)と戦っていました。ヨーロッパでは、戦車、毒ガス、潜水艦、飛行機、機関銃などの新兵器が投入され、毎日、数千名の人々が戦場で命を失っていました。

ヴェルダンの戦い(フランスのロレーヌ県北部ベルギー国境の近く)だけでも、1916年2月から10月までの間に、百万名の死傷者を出しましたが、戦いが終わったときにはフランス軍もドイツ軍も始めた場所と全く同じ位置を動きませんでした。

北フランスのソンムの戦いでは、13Km程の戦線を守るために、イギリス軍50万人、フランス軍20万人、ドイツ軍42万人の死傷者を出しました。例えば、1916年7月1日の一日の数時間だけで、イギリス軍は戦死19,240人、戦傷57,470人ほかの損失を出しました。イギリス軍の千年の歴史で最大の損失でした。そこにあるのは、終わりのない機関銃戦と鉄条線と、無惨な殺戮と破壊だけでした。

第一次世界大戦は、1914年にサラエボから始まりましたが、どこで終わるのか誰にも分かりませんでした。「平和」という言葉は、忘れられ、禁止されていました。「平和」とはイコール敗北であり裏切りでした。既に1915年の終わりには、本当なら1914年の終わりにでさえ、国家指導者や軍人たちはだれもこの戦争に勝つことは出来ないと理解していなければなりませんでした。このままでは西洋文明が共倒れとなって崩壊するだけでした。この戦争を続けることは、人類の歴史にかつてなかったッ狂気でした。しかし、政治家と将軍たちは自分たちの勝利を常に語っていました。地上で平和の訴えをしていたのは、ローマのベネディクト十五世だけでした。しかし教皇の声は人々からは無視されつづけました。王も臣民もカトリック信仰に生きた時代を「暗黒時代」と呼ぶ現代こそが、戦争を「人類の恒常的な装置」としている「暗黒時代」(ベネディクト十五世)となってしまいました。

1917年には、ローマでさえも、フリーメーソンがそのロンドンにおける最初のロッジ創立200周年を祝っていました。ローマのどこもかしこにもルチフェルによって踏みにじみられ打ち負かされている大天使聖ミカエルの旗やポスターが貼られていました。戦争はこの地上だけのことではなく天と地獄とが共に戦っている見えない世界の大戦でした。聖ペトロ大聖堂に向かって、悪魔的な行列が練り歩き「サタンがバチカンを統治し、教皇はサタンのしもべとなる」という冒涜のスローガンさえ人々は叫んでいました。人類は、狂気の淵に深く落ち込んでいました。

その兆候はかすかにありました。1902年5月8日、私たちの主イエズス・キリストの御昇天の祝日、カリブ海に浮かぶマルティニークの活火山であるプレー山(Mont Pelée)が大噴火を起こし、県庁所在地だったサン・ピエールの住民の約3万名ほぼ全員(脱出したのは3名のみ)が生き埋めとなる事件がありました。その年、噴火の40日前だった聖金曜日に、フリーメーソンたちがプレー山に私たちの主イエズス・キリストの十字架を嘲弄して町中を引き回してついにはその火山口に捨てた後のことでした。これは、イエズス・キリストをうち捨てた後の世界に迫る来る何かが起こることを暗示していたかのようでした。
ロシアのアンドレイ・ベールイは、1902年のマルティニーク諸島の火山爆発のうちに、新しい悲劇の新時代の物理的な証拠を見て取っていました。大気中に漂う火山灰のために、二、三年の間は大気がバラ色をしてして、ロシアにでさえ信じがたい美しさの日没や夜明けの現象があったのです。

別の兆候は、1912年4月14日に起こりました。イギリスの最大の客船タイタニック号は、高価なカーペットとクリスタルのシャンデリアで最高に飾られ、技術の粋を集めて作られた船で(ホワイト・スター・ライン社の従業員が1911年5月31日タイタニックの進水式で「天主でさえもこの船を沈没できない」と自慢していた程)沈むことがないと考えられた世界最大の豪華船でした。しかし、1912年4月14日、サウサンプトンからニューヨーク行きの処女航海でその4日目に、目に見えない氷山に脇を傷つけられて沈没します。海面下にある氷山の下部が船の右舷を7秒ほどこすり、6個の狭い穴(合わせて1.2m²ほど)が船体に開いたのです。

ちょうどタイタニック号のように、人類は自分の富と技術とにうぬぼれて、天主とイエズス・キリストのいない世界を作ろうとし、それを自慢していました。カトリックを国教とする王国とカトリックを信じる帝国を崩壊させ、カトリック教会の世界における影響力を弱める、これがためにも戦争は続けられなければなりませんでした。例えばトマーシュ・マサリク(後にチェコスロヴァキア共和国の初代大統領となる)の Světová revoluce(『世界革命』1925年、英訳 The Making of a State)によると、彼は1915年にロンドンで「ハプスブルク帝国の解体が戦争の第一の目的のようだ」と知ります。

しかしその結果は、世界戦争を通して天主の無い希望の無い深い墓の中に人類を投げ込むことでした。人・モノ・カネは際限なく、躊躇なく、遠慮なく、底なしの戦争の淵に投げ込まれました。誰にも戦争を止めることが出来ず、西洋世界は自己破滅の泥沼にずぶずぶと潜り込んでいきました。しかし公式報告はあくまで「西部戦線、異常なし」でした。

天主は、2000年前、ゴルゴタ(しゃれこうべ)の場所で十字架に付けられて人間のために御血を流しました。1916年の春に人間たちが数百万名以上の死傷者を出して血を流しつつ戦っているとき、平和の天使はポルトガルのファチマのカベソ(頭)という場所に送られました。ファチマの子供たちにこう祈るように教えてくれました。
「天主よ、我は信じ、礼拝し、希望し、御身を愛し奉る!御身を信じない人々、礼拝しない人々、希望しない人々、御身を愛さない人々のために、赦しを乞い求め奉る。」
これを跪き額づきながら3回繰り返した後「このように祈りなさい。イエズスとマリアの御心はあなたがたの祈りの声に注意を払っておられます」と言いました。

1916年7月30日

1916年7月30日、ローマではベネディクト十五世が、御聖体拝領をする5000名の子供たちに次の歴史的な説教をしました。「あなたたちは、天主が隠されたそして無限の計画をもって、罪深き社会の腕を使って行いになった、最も恐るべき罪の償いに参与しています。・・・私は、あなたたちの罪のなさという全能の手段をもって天主の助けを呼び求めることを決心しました。assistere voi alla più terrificante espiazione, che Iddio, con arcano ed infinito consiglio, abbia mai operata colle braccia stesse della peccatrice società... Noi abbiamo risoluto di ricorrere alla invocazione del divino soccorso coll’onnipotente mezzo della vostra innocenza.」
1916年の秋に、やはり頭(カベソ)の場所で、ポルトガルの守護の天使は三人の牧童に罪によって極めてひどく犯されているイエズス・キリストに、罪の償いをするように教えています。「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、御身を深く礼拝し奉る。世界のすべての祭壇に現存されているイエズス・キリストのいとも尊い御体、御血、御霊魂と神性を、イエズス・キリスト御自身が受けている侮辱、冒涜、無関心を償うために、私は御身に捧げ奉る。イエズス・キリストの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳によりて、あわれな罪人の回心を御身に願い奉る。」
天使は、この祈りを教えた後「恩知らずの人々によって恐ろしく冒涜されたイエズス・キリストの御身体と御血を受け、飲みなさい。彼らの罪を償い、あなたたちの天主を慰めなさい」と言って、ルチアに御聖体拝領を、フランシスコとジャシンタに御血の拝領をさせました。

1916年11月

ウィーンでは、戦争が始まって2年後の1916年11月、戦争で帝国の容態が悪化しつつあったその時、肺を患っていた皇帝フランツ・ヨーゼフの容態は、悪化していました。かわいそうな皇帝!皇帝フランツ・ヨーゼフの実弟のマキシミリアンはメキシコ皇帝となったが処刑され(1867年)、皇太子ルードルフを自死で失い(1889年)、最愛の皇后エリーザベトは外遊先のスイスで暗殺され(1898年)、そして甥の皇位継承者フランツ・フェルディナント夫妻も暗殺(1914年)されていたのでした。皇帝の病気悪化の知らせを受けたカールは、11月12日、戦場からウィーンへと駆けつけます。「だが驚いたことに、86歳の老帝は苦しそうに身体を曲げて咳き込みながらも執務室で平常取りに働いていた。・・・ひたすら国家のためを思い仕事に励む皇帝は、肺炎が悪化して高熱があるにもかかわらず、机上に山と積まれた書類に目を通し、署名していた。このころ彼は早朝の3時半に起きて仕事を始めていたのだが、さしもの皇帝も、日に日に衰弱しているのは致し方なかった。」(小野秋良・板井大治『カール一世』35ページ)

1916年11月21日夜9時、オーストリア皇帝、ハンガリーの使徒的王、神聖ローマ皇帝の子孫、ハプスブルク家のフランツ・ヨーゼフは、68年の統治の後、帝都ウィーンで86歳で崩御し、それと共に、オーストリア・ハンガリー帝国も崩壊するかのようでした。帝位はカールに引き継がれ、この厳粛な瞬間、カールはロザリオを握って聖母マリアの絵の前に跪きます(前掲書36ページ)。

オーストリア・ハンガリー帝国は、20の国家と言語が、ハプスブルク家による一致の古い遺産を通して一つになった帝国でした。帝国内にはかなりの地方自治が認められていましたが、しかし、近代の民族主義の扇動によって、ますます分裂を煽られていました。カトリックの皇帝こそが一致の象徴でした。カトリック教会によれば、教会と国家とは、調和して進むけれども、同じではありません。教会は道徳について国家を指導するけれども、国家に世俗の統治は委ねています。また国家は教会を支配していません。皇帝において、ハプスブルク家においてのみ、オーストリア・ハンガリー帝国が継続するという希望が残っていました。若きカールはこの希望をもたらしていました。

ロシア帝国においては、皇帝(ツァーリ)は、諸民族と広大な土地の一致の象徴でしたが、それ以上でした。若きカールとは異なり、ツァーリが国家でした。ロシアには地方自治や自律がありませんでした。ツァーリこそがロシアの唯一の主権者でした。ロシアの伝統とは、暴発と鎮圧、非寛容、非妥協、極限主義、絶対主義と偉大な専制君主ツァーリでした。ジンギス・カン以来の二五〇年に亘るモンゴル・タタールの軛の遺産、イヴァン大帝以来のロシアがそうであったようにツァーリだけが国家でした。残念なことにジンギス・カンはキリスト者ではなく、イヴァン大帝は悪しきキリスト者でした。もう一つの違いは、ローマ・カトリック教会との離教状態でした。ロシアの奉じた正教は、国家と教会とが結びつき、一つになっていました。ツァーリがロシアの教会の上に立ち、「正教」は、まずツァーリの思うがままに動かされますます不健全となり、最後にはラスプーチンを生み出すほど迷信的なものになっていきました。

1896年5月18日、モスクワでのニコライ二世と皇后アレクサンドラ・フョードロブナの戴冠式を祝賀する市民の祭典が行われていたホドゥインカの原では早朝6時直後、12分から15分ほどの間に、早朝に地方からまたモスクワから集まった70万人のうちの一人がつまずくと、一瞬のうちに、20人が転び、数百名が転び、多くが埋め立てていなかった浅い溝に落ち込み、数千名が死傷した事件が起こりました。少なからぬ人々がこれに新体制への前兆を見て取りました。ロシア屈指の冷徹な政治家であったセルゲイ・ウィッテによれば、ツァーリは全祝典を当然中止すべきでしたが、祝典パーティーはそのまま続けられました。ツァーリの大蔵大臣、シベリア鉄道の建設者でかつ出資者で、帝国随一の有能で現実的な男であったウィッテは、ロシアの問題を明白に見抜きツァーリに進言していました。ウィッテの建設した世界最長のシベリア鉄道の遺産がなければ、ロシアは戦争の重さに堪えられなかったことでしょう。ウィッテはロシア史上最初となる国会(ドゥーマ)にツァーリの権限を委ねることをツァーリに同意させますが、しかしツァーリのウィッテに対する報償は免職でした。

ウィッテの次に来たのはピョートル・ストルイピンでした。首相ストルイピンの施策のもとで比較的成功した農民たちつまり富農(クラーク)が裕福になり、経済的にロシアは巨歩を進めていました。(このクラークさえも後に共産主義者は何百万人をも略奪してしまいます。)しかし、1911年、ストルイピンは警察のスパイに撃たれて死亡します。

ロシアでは心霊術と降神術、神秘(オカルト)主義と迷信礼拝がますます人々の心を捉えつつありました。皇帝一家だけがそれに夢中になっていたのではなく、インテリゲンチャと普通の市民がそれに新しい基礎を探し求めていました。皇后アレクサンドラの先祖のうちにはハンガリーの聖エリザベトがいましたが、彼女の母はオカルト主義に傾倒しており、彼女にとってオカルト主義と宗教とはほとんど同義でした。彼女がプロテスタントから正教に帰依したとき、彼女が受け入れたのは迷信に満たされた16世紀のロシア正教でした。彼女の信仰は、モスクワの生活の中でももっとも遅れた層の無知で迷妄の世界に通ずるものがあり、占い師や預言者に対する迷信にしがみついていました。ツァーリの信仰はツァーリーツァの信仰に全く似通っていました。(ハリソン・ソールズベリー『黒い夜白い雪』上238ページ)

皇帝の皇太子(ツァーレビチ)であるアレクセイ・ニコラーエビチは当時不治の病であった血友病を遺伝的に煩い、それを直してくれる者をわらにもすがる気持ちで望んでいました。奇跡的な治癒を祈り求めていましたが、何も起こりませんでした。起こったのはラスプーチン到来でした。シベリアの未開の森林地帯の馬泥棒で放蕩者グリゴーリー、一日中鯨飲馬食と肉欲に耽る粗野な通名ラスプーチン(放蕩・自堕落者)は、1905年から皇帝夫妻に影響を及ぼし始めます。ツァーリは、ラスプーチンに対する迷信と、妻アレクサンドラへの献身とによって、自分の思い通りには動きませんでした。妻が家庭を取り仕切り、帝国は他の者たちがツァーリの名前によって統治していました。1911年、暗殺の数ヶ月前、ストルイピンはツァーリにラスプーチンをシベリアに送り返すように説得しようとしています。皇帝の答は「ピョートル・アルカージェビッチ、私は君が心底から私に献身していることを知ってもいるし、信じてもいる。おそらく君が私に話したことは全て真実だろう。しかしお願いだから、もう私にラスプーチンの話はしないで欲しい。私にはもはやどうしようもないのだ。」(上掲書247ページ)その後、ストルイピンは暗殺されますが、ツァーリは争議に出席せず、皇后はストルイピンのために祈ることさえ断ります。

1916年2月、ラスプーチンはツァーリーツァへの影響力を行使して、年寄りで無能でしたが誠実なゴレムイキンに代わって、自分の子分である無能なステュルメルを首相にします。ラスプーチンの庇護を受けていた国会議員で正気ではないアレクサンドル・プロトポーポフも1916年に内相に任命されます。「ラスプーチンはありとあらゆる気まぐれに任せてツァーリの閣僚たちの首をすげ替えている。1915年秋から16年秋にかけて、内相が五人、陸相三人、農相四人という有様だった。」(上掲書337ページ)

1916年11月19日、君主制支持者のウラジミール・プリシュケービチは、国会で、王冠に対する限りない愛とツァーリに対する加工たる献身の念と共に「あらゆる悪は、あの暗黒の力、あの勢力に起因する。その親玉がグリーシュカ・ラスプーチンなのだ」と声を上げます。彼は、アレクサンドル・プロトポーポフなどの閣僚たちの名前を挙げ「ツァーリが恐るべき現実に目を開かれるようにするために、諸君は辞職を願い出るのだ」と。(上掲書345ページ)

1916年11月、レーニンと妻のクルプスカヤは、スイスのチューリヒにある靴屋の狭くて不便な部屋に仮住まいをしていました。レーニンは、図書館で夕方の6時まで勉強し、貧乏のどん底にありました。レーニンは「悪魔のような惨めな生活費ーーこれ以上生き続けることはとても困難になった」と書いています。また11月に愛人のイネッサ・アルマンには手紙で「今日、ここで、左翼の集会がありました。姿を見せたのはほんの少しで、スイス人二人、ドイツ人二人、ロシア・ユダヤ・ポーランド人三人。報告なし。ただのおしゃべり。」誰からも忘れられ、貧しさと孤独とのうちにいたレーニンは、翌年1月にはチューリヒの公民館での集会で「われわれは来たるべき革命の決戦をこの目で見届けることは出来ないかもしれない」と、革命への希望を失っていることを告白さえします(ロバート・ペイン『人間レーニン』上244ページ)。これからちょうど1年後の11月7日、この男がツァーリに代わる「国家」となり、ロシアの唯一の絶対の主権者となり、暴発と鎮圧、非寛容、非妥協、極限主義、絶対主義と偉大な専制君主になろうとは誰が思ったことでしょうか。
100年後の2016年11月8日の日本で、万全を期していた地下鉄工事の最中、博多駅前の大通りに突然、道路が陥没し、巨大な穴が出現し下水で池のように変わったように、ロシアはいきなり帝政ロシアが崩れ落ちることになります。

1916年12月30日

1916年12月25日は、王の王である天主の聖子が人となって降誕されたことを祝うクリスマスでした。その数日後の12月30日、ハンガリー帝国の首都ブダペストでハンガリーの新しい王と女王が生まれました。1000年の降誕祭に初代キリスト王であるハンガリー王ステファノ一世は、教皇シルベステル二世から送られた王冠を持って戴冠し即位しましたが、オーストリア皇帝カール一世は、ハンガリー王カーロイ四世として使徒的王として即位しました。「エリエン・ア・キラリ!Elien a Kiraly! 王様万歳!」国民は歓喜の歌を奏でました。「来たれ友よ すべての友 喜びつどえ ベトレヘムに み使いの 王なるみ子を 来たれ拝まん 来たれ拝まん 来たれよ拝まん わが主を」ブダペストの喜びの鐘は、新しく生まれた使徒的王と天の王の誕生を同時に祝っているようでした。

ベトレヘムで生まれた王は、私たち人間の救いのために、三年間の公生活の後、パンをご自分の体に変え、ワインをご自分の御血に変え、私たちに御体と御血を与え尽くして、ゴルゴタの十字架の上で亡くなります。

ブダペストで即位した王は、約3年の統治の後、国民のために全てを与え尽くして、国外追放となりポルトガル領マデイラ島でその王としての霊魂を、王の王イエズス・キリストに帰すことになるでしょう。

戴冠式があった前日の1916年12月29日(当時ロシアが使っていたユリウス暦では12月16日)、ペトログラードは凍てつく寒さで雪が降っていました。12月29日と30日の長い真っ暗闇の真夜中、ドミートリー・パーブロビチ大公(ツァーリ・ニコライの従兄弟の一人)とウラジミール・プリシュケービチ(国会のなかで最も反動的で、君主制、ロシア独裁制の支持者)、医師ラーザベルト、スウホチーン大尉が、フェリックス・ユスーポフ公爵(ロシアきっての裕福で高貴な家柄で、妻はロマノフ家の公女イリーナ・アレクサンドロヴナ)の邸宅モイカ宮殿に集まるのです。フェリックスが、自称祈祷僧グリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチンを迎えるために準備した半地下には、ラスプーチン(ラスプーチンは「放蕩・自堕落」という意味)の愛用した甘口のポルトやマデイラ・ワインの瓶、薔薇とチョコレートのケーキ、青酸カリが準備されていました。

12月30日午前1時、ユスーポフはラスプーチンを迎えに行き、2時に自宅に連れて来て、直ぐに半地下に招きました。ラスプーチンは毒入りマデイラと毒入りケーキを飲み食いした後も何の変化もありませんでした。毒入りグラスをさらにもう一杯飲みます。何も起こりません。ユスーポフは銃を取りラスプーチンに向けて発射します。二人は向かい合ったままです。ラスプーチンの野獣のような重い体は、雪のように白い北極熊の敷皮の上にどさっと倒れます。死体を敷物から引っ張ってみると、血は見当たりませんでした。一滴もありません。調べてみると銃弾はラスプーチンの心臓のあたりを貫通しています。ラスプーチンはまだ死んではいませんでしたが、その息づかいを見ると断末魔の苦しみにあえいでいるようでした。計画通り、共犯者たちはラスプーチンの偽の帰宅を演じます。スウホチーン大尉がラスプーチンのコートと毛皮帽子を着けラスプーチンのふりをして、ドミートリー大公と医師ラーザベルトとでラスプーチンの来た方角に車で出て行きます。残ったユスーポフとプリシュケービチとはロシアの明るい将来について語りあい、その素早い回復を話していました。ユスーポフは部屋に戻って屍を揺すってみると、突然、ラスプーチンの左目が開き、右目を開き、よろめき立ち上がって、ユスーポフに飛びかかって来ます。ユスーポフは叫びます。「プシュケービチ!撃て!撃て!奴は生きている!やつは逃げだそうとしているぞ!」(ハリソン・ソールズベリー『黒い夜白い雪』上363ページ)ラスプーチンは中庭に出て雪の中を歩いて、ユスーポフの名前を繰り返しながらぶつぶつ言います。「フェリックスめ、フェリックスめ、ツァリーツァに洗いざらいぶちまけてやるからな!」(同所)午前3時と4時の間のことあたりはしーんと静まりかえっていました。ラスプーチンはもう街路に向かう門の寸前まで来ています。プシュケービチは優秀な射手でした。しかし二十歩の距離から最初の二発を打ち損ねます。銃声は静かな夜中に響きます。ラスプーチンは逃げだそうとしています。プリシュケービチは三発目を放ち、また四発目も撃ちます。弾は背中に命中しラスプーチンは雪の中に倒れます。プリシュケービチはこの四発の銃声が聞かれてしまったことを考え、門を開いて街路にいた二人の兵士に行って呼びかけます。「私は、ロシアとツァーリの敵グリーシュカ・ラスプーチンを殺した。」彼がそう言った途端、二人は彼に飛びつき、抱きしめ、接吻して叫びます。「神様万歳、とうとうやったのか!」彼が誰にも言うなと言うと二人は「閣下、私たちはロシアの人民です。信じて下さい」言います(上掲書364ページ)。

1917年を迎えようとするその直前、12月30日午前5時、ロシアの堕天使、エフィムの子グリゴリー「自堕落」は、凍てつくペトログラードのネフカ河に氷を割って開けた穴から、その遺体が捨てられます。この遺体が発見され検死されたとき、肺の中には水がありました。凍る河の中でもまだ生きていた証拠です。しかし、「自堕落」は死に、それと共に帝政ロシアも死を迎えようとします。


この続きは、「聖伝の典礼暦による2017年のカレンダー日本語版」にて、お読みください。

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