アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の霊的講話 「終油について」(日本語訳)をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2017年3月12日 四旬節第2主日―大阪
「終油について」
親愛なる兄弟の皆さん、
七つの秘蹟の勉強を続けましょう。今回は終油の秘蹟です。私たちの主イエズス・キリストがこの秘蹟を制定なさったということは信仰の教義です。トレント公会議は実際、終油を含めて新しい律法(新約)には七つの秘蹟があること、またこれらの秘蹟はすべて私たちの主イエズス・キリスト御自らによって制定されたことを定義しました。私たちは実際、福音書において、主が、説教するためだけでなく、病人に油を塗るためにも使徒たちを派遣なさったのを見ます。「弟子たちは悔い改めを宣べに行き、多くの悪魔を追い出し、油を塗っておびただしい数の病人を治させた」(マルコ6章12-13節)。
プロテスタントは終油が秘蹟であることを否定しています。しかし、聖ヤコボは、その書簡の中で次のように非常にはっきりとさせています。「病気の人がいるのなら、その人は教会の司祭たちを呼べ。彼らは主の御名によって油を塗ってから祈りをとなえる。そして信仰による祈りは病気の人を救う。主は彼を立たせ、もし罪を犯しているなら、それを赦されるであろう」(ヤコボ5章14-15節)。その油を塗ることが、罪を赦し人を救うことのできる恩寵の超自然的な効力を持つということは非常にはっきりしています。ですから、それは秘蹟なのです。聖ヤコボが「病気」と言うとき、それは軽い病気、気分のすぐれないことではなく、むしろ死に至るかもしれない病気のことです。それゆえに、この秘蹟は、必ず最期の瞬間になされるものではなくても、「終油」と呼ばれているのです。
この秘蹟の制定によって、私たちの主イエズス・キリストは私たちの人生で最も重要な瞬間、私たちの永遠を決定する死の瞬間の準備をさせてくださいました。私たちの全生涯は、この最も重要な瞬間への準備であるべきです。聖なる人生は聖なる死を準備させますが、罪に満ちた人生は罪の中での恐るべき死を準備させます。そんな重要な瞬間ですから、悪魔がこの最期の瞬間に霊魂を奪おうと最大の努力をするのは驚くに当たりません。それゆえに、その特別な瞬間のために非常に特別な助けを得る必要があるのです。終油の秘蹟は、私たちの主イエズス・キリストが、私たちの人生の最期というこの最も重要な瞬間のために与えてくださる助けなのです。
この秘蹟の質料は、体の弱った人に、聖木曜日の聖香油のミサで司教によって祝別された油を塗ることです。この塗油は、霊魂を強め霊魂を癒やす聖霊の恩寵をはっきりと表しています。この秘蹟は五官に授けられます。司祭は、砂漠での四十年ののち約束の地に入る瞬間にヨルダン川を渡ったように、この最後の「渡り」のために、目、耳、鼻、口、手に加えて足に油を塗ります。実際、紅海を渡ったのちのこの砂漠での四十年は、御聖体によって養われ、この世という霊的な砂漠の中でキリストに従い、私たちの父祖の地、すなわち天国への途上にあるという、私たちの地上での人生を表しています。
この秘蹟の形相は、司祭の次の言葉から成っています。「この聖なる塗油およびいと厚き御慈悲によりて、主が汝の見、聞き、嗅ぎ、飲食および語り、触れることによりてなしたるすべての罪を赦し給わんことを」。これは、聖ヤコボが言うように「信仰による祈り」です。五官は霊魂の扉です。それゆえに、すべての罪はこの感覚のうちの一つまたは他のものに関係しています。
終油は生きている人の秘蹟です。その意味は、この秘蹟を受けるためには成聖の恩寵の状態になければならないということです。そのため実際には、司祭はまずその病人の告解を聞き、そののちに終油を授けます。しかし、病人がもう罪を告白できない場合、例えば昏睡状態にある場合、その人がその昏睡状態に陥る前に、正しい「不完全な痛悔」、正しい「罪に対する嘆き」を持っていれば、この秘蹟は大罪さえも赦す力を持っているのです。
この秘蹟の恩寵を教えているのは、次の聖ヤコボの言葉です。「信仰による祈りは病気の人を救う。主は彼を立たせ、もし罪を犯しているなら、それを赦されるであろう」(ヤコボ5章15節)。この秘蹟は小罪を赦し、必要ならば(告白できない場合には)大罪さえも赦します。この秘蹟は罪に対して当然あるべき罰を赦し、霊魂を癒やします。この秘蹟は病人を慰めて強め、天主の御あわれみに対する大きな確信を与えます。この秘蹟は、人生の最期の痛みを受け入れてそれに耐えるのを大きく助け、その痛みを十字架に付けられたキリストの苦しみと一致させ、キリストによって悪魔に対する最終的な勝利を得させるのです。時には、霊魂のために有益ならば、天主は体の癒やしをお与えになることさえあります。
病人が回復して、その後再び病気になる場合、その人はこの秘蹟をもう一度受けることが許されます。その回復が部分的であって、のちにその患者が病気を再発する場合は、新たな死の危険と考えられるため、この秘蹟をもう一度受けることができます。しかし、一つの病気だけであるならば、この秘蹟の恩寵は秘蹟によって継続します。ですから、最期の瞬間を待たずに、むしろ病気がその人の命を危うくするやいなや、この秘蹟から利益を受ける方が良いのです。
この秘蹟の執行者は、正式に叙階された司祭(または司教)です。これは、聖ヤコボの言葉で非常に明確です。プロテスタントの中には、ギリシャ語の「プレスビテル」という言葉を「長老(elder)」と誤訳することによって、この使徒の述べた明確な意味から逃れようとする人々がいます。これは世俗的な翻訳であって、宗教的な翻訳ではありません。「司祭(priest)」という言葉の語源自体が、まさにギリシャ語の「プレスビテル(presbyter)」から来ていることを完全に無視しているのです。このギリシャ語の「プレスビテル」という言葉は、教会によってまずラテン語に導入され、のちに[また教会によって]現代の(ヨーロッパの)言語に入りました。なぜなら、この言葉は使徒たちによって宗教的意味をもって持ち込まれ、初代教会がこの言葉を世俗的言葉である「長老」よりも多くの意味を表すものとして保持しようと望んだ意味を持っていたからです。
新約聖書には他にも、ラテン語を通して現代のヨーロッパの言語に入った宗教的意味を持つかなりの数のギリシャ語の言葉があり、その元々の世俗的な意味に戻ろうとするならば、それらの言葉からこの宗教的意味を取り去ってしまうでしょう。それが、「司教(bishop)」という言葉の元である「エピスコポス(episcopos)」という言葉のケースです(「p」と「b」の文字は唇音であり、そのため一方から他方へ移行可能です)。そして、この言葉は「監督(overseer)」と翻訳されるべきではありません。この場合は、その言葉から使徒たちによって与えられた宗教的意味を取り去ってしまうのです。
では、使徒たちはなぜ、彼らの宗教的意味とはかけ離れたように思われる世俗的な意味を持つこれらの言葉を選んだのでしょうか? なぜなら使徒たちは、旧約の礼拝および異邦人の礼拝から完全に切り離されていることが明白に分かるようにするように望んだからです。そのため使徒たちは、司祭を表すために[ギリシャの宗教に関係する]「ヒエロス(hieros)=聖なる」という言葉を使いませんでした。しかし使徒たちは、異邦人の宗教とはまったく関係のない言葉で、キリスト教徒の共同体で司教や司祭をはっきりと指し示す言葉を選びました。
終油の秘蹟を恐れるのではなく、むしろそれを求めることが重要です。病気には大きな助けになるのですから。終油のことを聞くのを恐れる人々がいますが、それは彼らに死を思い起こさせるからです。しかし、死という問題について目を閉ざしていては、病気の人の助けにはなりません。まったく反対です。私たちはみな、自分がいつかは死ぬということを知っています。教会は私たちにこう祈らせます。「不測の急死より、主われらを救い給え!」。この素晴らしい秘蹟を無視していたとき、死は不意にやって来ます。司祭に対して、病気になった皆さんの友人や親戚を訪ねて来てもらい、病気がその人たちの命に危険を及ぼす場合は油を塗ってくれるよう求めることは重要です。これは病人に対する素晴らしい愛徳の行いです。
病人を訪問すること、病人のために奉仕することは、素晴らしい愛徳の行いで、驚くべき報いがあります。「父に祝された者よ、来て、世の始めからあなたたちに備えられていた国を受けよ。あなたたちは、私が…病気だったときに見舞ってくれた」(マテオ25章34,36節)。病人にただ物質的および肉体的な慰めを与えるだけでよいと考えるべきではなく、とりわけ本当のキリスト教的方法で、私たちの主イエズス・キリストと一致して、病人が自分の十字架を担うのを助けるのだと考えるべきです。これを成し遂げる最も良い道は、聖ヤコボが言ったように油を塗ってもらうために、病人を説得して司祭の訪問を受け入れさせることです。病人のために祈るだけでなく、病人とともに祈るべきです。
童貞聖マリアは常に、病人とともに祈っておられます。すべての母のうちで最良の母が、子どもたちが苦しんでいるときそばにいるように、私たちの苦しむその瞬間に、聖母はさらに私たちのそばに近づいてさえ来られます。聖母は、イエズスの十字架の下、苦しみを受けておられたイエズスのそばにおられました。そして、聖母は、すべての病人のベッドの下におられて、病人のために祈り、病人が私たちの主イエズス・キリストと自分を一致させるのを助けておられます。苦しみは大きな神秘であり、受け入れるのは困難です。私たちには、病人を受け入れて苦しみをイエズスとともに捧げるために聖母の御助けが必要です。
私たちが進んで断食と苦行をするこの四旬節の時期はまた、私たちが病人に対する愛徳を倍増させ、病人の苦しみを私たちができる限り和らげ、病人が天主の栄光と霊魂たちの救いのためにいとも聖なる三位一体にすべてを捧げるよう助けるべき時期でもあるのです。
アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の霊的講話 「終油について」(日本語訳)をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2017年3月12日 四旬節第2主日―大阪
「終油について」
親愛なる兄弟の皆さん、
七つの秘蹟の勉強を続けましょう。今回は終油の秘蹟です。私たちの主イエズス・キリストがこの秘蹟を制定なさったということは信仰の教義です。トレント公会議は実際、終油を含めて新しい律法(新約)には七つの秘蹟があること、またこれらの秘蹟はすべて私たちの主イエズス・キリスト御自らによって制定されたことを定義しました。私たちは実際、福音書において、主が、説教するためだけでなく、病人に油を塗るためにも使徒たちを派遣なさったのを見ます。「弟子たちは悔い改めを宣べに行き、多くの悪魔を追い出し、油を塗っておびただしい数の病人を治させた」(マルコ6章12-13節)。
プロテスタントは終油が秘蹟であることを否定しています。しかし、聖ヤコボは、その書簡の中で次のように非常にはっきりとさせています。「病気の人がいるのなら、その人は教会の司祭たちを呼べ。彼らは主の御名によって油を塗ってから祈りをとなえる。そして信仰による祈りは病気の人を救う。主は彼を立たせ、もし罪を犯しているなら、それを赦されるであろう」(ヤコボ5章14-15節)。その油を塗ることが、罪を赦し人を救うことのできる恩寵の超自然的な効力を持つということは非常にはっきりしています。ですから、それは秘蹟なのです。聖ヤコボが「病気」と言うとき、それは軽い病気、気分のすぐれないことではなく、むしろ死に至るかもしれない病気のことです。それゆえに、この秘蹟は、必ず最期の瞬間になされるものではなくても、「終油」と呼ばれているのです。
この秘蹟の制定によって、私たちの主イエズス・キリストは私たちの人生で最も重要な瞬間、私たちの永遠を決定する死の瞬間の準備をさせてくださいました。私たちの全生涯は、この最も重要な瞬間への準備であるべきです。聖なる人生は聖なる死を準備させますが、罪に満ちた人生は罪の中での恐るべき死を準備させます。そんな重要な瞬間ですから、悪魔がこの最期の瞬間に霊魂を奪おうと最大の努力をするのは驚くに当たりません。それゆえに、その特別な瞬間のために非常に特別な助けを得る必要があるのです。終油の秘蹟は、私たちの主イエズス・キリストが、私たちの人生の最期というこの最も重要な瞬間のために与えてくださる助けなのです。
この秘蹟の質料は、体の弱った人に、聖木曜日の聖香油のミサで司教によって祝別された油を塗ることです。この塗油は、霊魂を強め霊魂を癒やす聖霊の恩寵をはっきりと表しています。この秘蹟は五官に授けられます。司祭は、砂漠での四十年ののち約束の地に入る瞬間にヨルダン川を渡ったように、この最後の「渡り」のために、目、耳、鼻、口、手に加えて足に油を塗ります。実際、紅海を渡ったのちのこの砂漠での四十年は、御聖体によって養われ、この世という霊的な砂漠の中でキリストに従い、私たちの父祖の地、すなわち天国への途上にあるという、私たちの地上での人生を表しています。
この秘蹟の形相は、司祭の次の言葉から成っています。「この聖なる塗油およびいと厚き御慈悲によりて、主が汝の見、聞き、嗅ぎ、飲食および語り、触れることによりてなしたるすべての罪を赦し給わんことを」。これは、聖ヤコボが言うように「信仰による祈り」です。五官は霊魂の扉です。それゆえに、すべての罪はこの感覚のうちの一つまたは他のものに関係しています。
終油は生きている人の秘蹟です。その意味は、この秘蹟を受けるためには成聖の恩寵の状態になければならないということです。そのため実際には、司祭はまずその病人の告解を聞き、そののちに終油を授けます。しかし、病人がもう罪を告白できない場合、例えば昏睡状態にある場合、その人がその昏睡状態に陥る前に、正しい「不完全な痛悔」、正しい「罪に対する嘆き」を持っていれば、この秘蹟は大罪さえも赦す力を持っているのです。
この秘蹟の恩寵を教えているのは、次の聖ヤコボの言葉です。「信仰による祈りは病気の人を救う。主は彼を立たせ、もし罪を犯しているなら、それを赦されるであろう」(ヤコボ5章15節)。この秘蹟は小罪を赦し、必要ならば(告白できない場合には)大罪さえも赦します。この秘蹟は罪に対して当然あるべき罰を赦し、霊魂を癒やします。この秘蹟は病人を慰めて強め、天主の御あわれみに対する大きな確信を与えます。この秘蹟は、人生の最期の痛みを受け入れてそれに耐えるのを大きく助け、その痛みを十字架に付けられたキリストの苦しみと一致させ、キリストによって悪魔に対する最終的な勝利を得させるのです。時には、霊魂のために有益ならば、天主は体の癒やしをお与えになることさえあります。
病人が回復して、その後再び病気になる場合、その人はこの秘蹟をもう一度受けることが許されます。その回復が部分的であって、のちにその患者が病気を再発する場合は、新たな死の危険と考えられるため、この秘蹟をもう一度受けることができます。しかし、一つの病気だけであるならば、この秘蹟の恩寵は秘蹟によって継続します。ですから、最期の瞬間を待たずに、むしろ病気がその人の命を危うくするやいなや、この秘蹟から利益を受ける方が良いのです。
この秘蹟の執行者は、正式に叙階された司祭(または司教)です。これは、聖ヤコボの言葉で非常に明確です。プロテスタントの中には、ギリシャ語の「プレスビテル」という言葉を「長老(elder)」と誤訳することによって、この使徒の述べた明確な意味から逃れようとする人々がいます。これは世俗的な翻訳であって、宗教的な翻訳ではありません。「司祭(priest)」という言葉の語源自体が、まさにギリシャ語の「プレスビテル(presbyter)」から来ていることを完全に無視しているのです。このギリシャ語の「プレスビテル」という言葉は、教会によってまずラテン語に導入され、のちに[また教会によって]現代の(ヨーロッパの)言語に入りました。なぜなら、この言葉は使徒たちによって宗教的意味をもって持ち込まれ、初代教会がこの言葉を世俗的言葉である「長老」よりも多くの意味を表すものとして保持しようと望んだ意味を持っていたからです。
新約聖書には他にも、ラテン語を通して現代のヨーロッパの言語に入った宗教的意味を持つかなりの数のギリシャ語の言葉があり、その元々の世俗的な意味に戻ろうとするならば、それらの言葉からこの宗教的意味を取り去ってしまうでしょう。それが、「司教(bishop)」という言葉の元である「エピスコポス(episcopos)」という言葉のケースです(「p」と「b」の文字は唇音であり、そのため一方から他方へ移行可能です)。そして、この言葉は「監督(overseer)」と翻訳されるべきではありません。この場合は、その言葉から使徒たちによって与えられた宗教的意味を取り去ってしまうのです。
では、使徒たちはなぜ、彼らの宗教的意味とはかけ離れたように思われる世俗的な意味を持つこれらの言葉を選んだのでしょうか? なぜなら使徒たちは、旧約の礼拝および異邦人の礼拝から完全に切り離されていることが明白に分かるようにするように望んだからです。そのため使徒たちは、司祭を表すために[ギリシャの宗教に関係する]「ヒエロス(hieros)=聖なる」という言葉を使いませんでした。しかし使徒たちは、異邦人の宗教とはまったく関係のない言葉で、キリスト教徒の共同体で司教や司祭をはっきりと指し示す言葉を選びました。
終油の秘蹟を恐れるのではなく、むしろそれを求めることが重要です。病気には大きな助けになるのですから。終油のことを聞くのを恐れる人々がいますが、それは彼らに死を思い起こさせるからです。しかし、死という問題について目を閉ざしていては、病気の人の助けにはなりません。まったく反対です。私たちはみな、自分がいつかは死ぬということを知っています。教会は私たちにこう祈らせます。「不測の急死より、主われらを救い給え!」。この素晴らしい秘蹟を無視していたとき、死は不意にやって来ます。司祭に対して、病気になった皆さんの友人や親戚を訪ねて来てもらい、病気がその人たちの命に危険を及ぼす場合は油を塗ってくれるよう求めることは重要です。これは病人に対する素晴らしい愛徳の行いです。
病人を訪問すること、病人のために奉仕することは、素晴らしい愛徳の行いで、驚くべき報いがあります。「父に祝された者よ、来て、世の始めからあなたたちに備えられていた国を受けよ。あなたたちは、私が…病気だったときに見舞ってくれた」(マテオ25章34,36節)。病人にただ物質的および肉体的な慰めを与えるだけでよいと考えるべきではなく、とりわけ本当のキリスト教的方法で、私たちの主イエズス・キリストと一致して、病人が自分の十字架を担うのを助けるのだと考えるべきです。これを成し遂げる最も良い道は、聖ヤコボが言ったように油を塗ってもらうために、病人を説得して司祭の訪問を受け入れさせることです。病人のために祈るだけでなく、病人とともに祈るべきです。
童貞聖マリアは常に、病人とともに祈っておられます。すべての母のうちで最良の母が、子どもたちが苦しんでいるときそばにいるように、私たちの苦しむその瞬間に、聖母はさらに私たちのそばに近づいてさえ来られます。聖母は、イエズスの十字架の下、苦しみを受けておられたイエズスのそばにおられました。そして、聖母は、すべての病人のベッドの下におられて、病人のために祈り、病人が私たちの主イエズス・キリストと自分を一致させるのを助けておられます。苦しみは大きな神秘であり、受け入れるのは困難です。私たちには、病人を受け入れて苦しみをイエズスとともに捧げるために聖母の御助けが必要です。
私たちが進んで断食と苦行をするこの四旬節の時期はまた、私たちが病人に対する愛徳を倍増させ、病人の苦しみを私たちができる限り和らげ、病人が天主の栄光と霊魂たちの救いのためにいとも聖なる三位一体にすべてを捧げるよう助けるべき時期でもあるのです。
アーメン。