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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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「私は、父の元に行こう。」

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2017年3月18日(土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2017年3月18日(土) 四旬節の平日のミサ
小野田神父 説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は2017年3月18日、四旬節第2主日の後の土曜日のミサをしております。今日この御ミサの後にはこの前の公教要理の続きで、今日は聖ルカについて、その生涯とその聖福音について黙想する事を提案します。

明後日の月曜日にも、聖ヨゼフの大祝日ですけれども、大阪で午後の16時からミサができるようになりました、どうぞいらして下さい。火曜日の朝には、朝の6時にミサがあるようになりました、どうぞいらして下さい。

ですから、残念ながら主日のミサは捧げる事ができませんが、しかし御聖体はそのまま火曜の朝まで残しておきますので、主日には10時30分からここでいつもの通り、お祈りの時には御聖体が在すという事で、どうぞ皆さんいらして下さい。

秋田の巡礼が5月の3・4・5日とあります。3日の朝のミサから始まります。どうぞ皆さんいらっしゃる事を招待致します。特に秋田のマリア様とファチマのマリア様は密接な関係がありますから、ファチマ100周年を祝う為にも是非、巡礼にいらっしゃる事を強くご招待致します。申し込みをされる方はどうぞいらして下さい。



「私は、父の元に行こう。」


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は四旬節の第2主日の後の土曜日で、兄弟の話が私たちの目の前に映りました。

そこで第1の点には、「指定巡礼教会」と、そして今日の「書簡」、そして「福音」の話を見て、

では私たちは一体、2017年の今私たちに一体何が、何のメッセージが伝えられているのか、その兄弟とは私たちにとって何なのか、という事を黙想して、

次に最後に、私たちが四旬節に取るべき遷善の決心を取る事に致しましょう。

会長がタイプを打って下さったこのミサのこの中には、解説に「兄弟の話が載っている」という事でうまくまとめられています。そこで、最初の兄弟の話をさせて下さい。

最初の兄弟は、指定巡礼教会の聖マルチェリーノと聖ぺトロです。この二人は本当に血の繋がった兄弟であったのかどうかはよく分からないのですけれども、しかし兄弟のようにこの二人は同じく、兄弟であるかのように同じく回心してキリスト教徒となって、そして同じく二人共揃って殉教しました。ちょうどその時代はディオクレチアノローマ皇帝の時代で、マルチェリーノは祓魔師でした。そして聖ぺトロは司祭になりました。しかし二人共同じく投獄されて、同じく拷問を受けて、同じく首を切られて、そして同じく殉教していきました。

その二人の殉教はとてもローマでは有名で、ローマの典文の中に二人の名前が載っています。これは死者の記念の時で、マルチェリーノとぺトロについて名前が載っています。今日この霊的に教会が私たちを、この二人の殉教者の聖人に私たちを運んで招いているというのは、私たちも「この兄弟に倣うように」との意向があるからです。この二人は特別に選ばれて、そしてカトリックの信仰の恵みを受けました。そして多くの中から特別に選ばれて、殉教の恵みも受けました。

そういうわけで今日書簡書の中では、二人の兄弟の中の選びを受けたヤコブの話が出ます。ヤコブとエザウの話は皆さんもよくご存知なのでここでは繰り返しませんが、弟のヤコブは長子権を持っていたエザウの代わりに父親から祝福を奪ってしまいます。お母さんの入れ知恵でこれを奪ってしまいますが、しかしこれは聖書によれば、天主様の特別の選びによってなされた事です、「天主は、エザウではなくヤコブを選んだ」と。

そしてその特別の愛を、選みを受けたのは、ヤコブだったという事です。若い弟の方が、権利としてはあまりないはずの弟が選ばれて、そして特別の祝福を受ける、天の祝福を受けるという事です。お兄さんに残ったのは地上の祝福でしかありませんでした。地は豊かであったり、この地上で豊かな生活ができる、それだけでした。しかしヤコブが受けたものは超自然の特別の御恵みでした。

聖福音でも今度は二人の兄弟の話が出ます。今度は弟とやはり兄さんですけれども、弟はお父さんの財産を半分貰って、それを罪の生活で使い果たしてしまいます。放蕩をして飲んだり食ったり、そして或いは女と遊んだりなどとしてすっからかんになって、そして豚の餌さえも食べたいが食べる事ができない、誰も与えてくれる者がいないという事で、お父さんの元に帰ろうとします。

この描写は非常に憐れみに富んだ描写です。罪の生活をして、せっかく豊かな父親に生まれたにもかかわらず、その全てを浪費して、罪で使い果たして、そしてすってんてんになってお父さんの元に帰って、「もう子供として呼ばれるにはふさわしくない。だから召し使いとして使ってもらいたい。でも父の元に居たい」と戻って来るのですけれども、このトボトボお父さんの元に「帰ろう」と、お父さんの元に「何と言おう」と、お父さんの元に「本当に悪い事をした」と思いながら帰って来ると、お父さんは遠くから見て、その息子の元に走って行って駆け寄って、抱きついて、接吻をして、「あぁ、息子よ!」とお父さんの方から声をかけたのでした。

すると息子は跪いて、「お父さん、私は天とあなたに対して罪を犯しました。もうあなたの子供などと言われる資格など全くありません。どうぞ使用人の一人として奴隷の一人として、どうぞ私を中に入れて下さい、どうぞ使って下さい。申し訳ありません」と言うと、お父さんはその言葉には何も言わずに召し使いに言って、「さぁ、この子に一番良い服を、最上の服を一番の服を持ってきなさい、そしてこの子に着せなさい。それからこの子に指輪をはめなさい。それから靴を履かせなさい。さぁ、一番肥えた牛を屠って宴会を開こう!」と言うのです。それでもう家をあげて総出で、召し使いも総出で、大宴会を開いて、「あぁ、よかったよかった!子供が帰って来た、弟さんが帰って来た!」と言って音楽を奏でて奏でて、もうそれはそれは喜ばしい大パーティーと大宴会を開いたのです。おいしい料理、おいしいごちそう、そしてきれいに飾ったその息子。

息子はそのお父さんのその憐れみにどれほど感動して感謝した事でしょうか。もうその資格が無いにもかかわらず、奴隷として戻ったつもりが、王の子供として、王子として迎え入れられたのですから。あれだけお父さんに逆らっていたにもかかわらず、お父さんはそれを全く許すのみならず、それをあたかも忘れたかのように、あたかも何もなかったかのように、全てを自分の子供として、王子として迎え入れてくれたのですから。しかもその戻ったのを、これほどまでして最高のごちそうまでして喜んで下さったのですから。何とそのお父さんの憐れみに感謝した事でしょうか。

するとお兄さんが帰って来て、「何だこのチンドン騒ぎは!?何だこの音楽は?何でこんなにワイワイ騒いでいるんだ!?」と言うと、「弟様が帰って来られたのです!ですからお父様は非常に喜んで、今大宴会を開いておられます!」「何だ!俺の為には、俺は父に一度も逆らった事のない、いつも忠実に仕えているにもかかわらず、俺の為には何も、こんな事もしてくれた事はない、こんな事は初めてだ!牛一匹殺した事もないのに、何だこれは!俺はこの家に入らん!」と怒り出すのです。「これは不平等だ!」

ここでもやはり、弟がお兄さんの上になってしまった、お父さんはお兄さんよりも弟を尊重したかのように思われるのです。何も罪を犯さず、いつもお父さんに忠実に仕えてきたお兄さんが、尊重されるべきはずの長子権を持つお兄さんよりも、弟の方が愛されているかのように思えたのです。

「俺は入らん、これは嫌だ、拒否する!」するとお父さんは出て行って、お兄さんを宥めて言うのです、「おまえの弟は死んでいたのに生き返ったのだ。失ったのに今見つかったのだ。だからこうやって喜ぶのは当然じゃないか、さぁ一緒に喜ぼう!」

この後にお兄さんは本当に家に入ったのかどうかよく分かりません。教父によると、「この弟は異邦人、私たち異邦人の象徴であって、お兄さんはユダヤ人の象りである、例えである」と言われています。ユダヤ人がイエズス様を拒否したように、イエズス様の憐れみを拒否してキリスト教を受け入れないように、もしかしたらお兄さんも「嫌だ!」と言って、お父さんの家に逆らって入らなかったかもしれません。

ちょうどエザウがヤコブから長子権を取られて、そしてそのまま後祝福を受ける事ができなかったように、それでもたとえエザウが長子権を受けなかったとしても、そしてこの放蕩息子のお兄さんが宴会に入らなかったとしても、それでも構わず大宴会は続きました。父の憐れみは深いものでした。

一体これは何を意味しているのでしょうか?実は教会は、「四旬節の時には、 3つのグループの人々がいる」という事を意識していました。

1つのグループは、復活の徹夜祭に洗礼を受けようとする、洗礼志願者たちの準備です。

もう1つのグループは、公式の罪を犯してしまった為に聖体を受ける事ができずに、そして教会にも、教会の交わりからあたかも離れてしまったかのように罰を受けている、回心する痛悔者。彼らは断食をして、罪の償いをして、悪い生活を改めて、そして聖木曜日の主の晩餐のそのミサで初めて聖体を拝領する事が許される、そのような人々。

もう第3のグループは、普通の信者でした。

今日この教会で、「この書簡では、特に求道者の為にこのヤコブとエザウの話を読まれた」と言います。つまり「求道者は、多くの人々の中から特別に選ばれて、父の元に、父の子供となる事ができる。主の掟は私たちの心を回心させるものであって、そしてその悔悛の恵みを今受けつつある者として、お前たちはヤコブに似た者だ、特別に選ばれた者だ。後から来たけれども、しかし長子権が与えられる者だ」と彼らに呼びかけているものです。

そして聖福音は、そしてその実は天主の御子供となったにもかかわらず、残念ながらそれを乱用して、お父さんの憐れみを乱用して罪を犯してしまった、そして豚のようにイエズス様から遠く離れて外国で、イエズス様をあたかも知らない者であるかのように遠く離れて生活していた罪人たち。しかし罪の生活に、「自分は何でこんなに豚のような惨めな生活をしなければならないのか。私は本当のパンに、命の糧に飢えている。だから父の元に戻りたい」という回心をする痛悔者、彼らに呼びかけています。

「父はいつもお前たちの戻りを待っている。罪を犯した、しかし痛悔して早くお父さんの元に帰って来なさい。そしたらお父さんはお前に全てを戻して下さる。叱ったりする事はない。却って罪を犯さなかった者よりももっと豪華なものが与えられるかもしれない。さぁ早く戻って来なさい」と教会が呼びかけているものです。

この司教様を聖別する特別の儀式があります。この儀式の時には司教様に、司教様の着ける三重の服や、或いは手袋や、指輪や、司教様の服を着せる儀式がありますけれども、叙階式に聖別式に。その荘厳な儀式を思い出させるように、「罪人が回心したら、聖父は王子として、プリンスとして私たちに全てを下さる。そして最も肥えた天主の子羊である聖子イエズス・キリストの御体さえも私たちに下さる」という事を私たちに思い出させようとしています。

では最後に、私たちはどのような遷善の決心を取ったら良いのでしょうか?第3のポイントは一体何なのでしょうか?

私たちも実は、この二人の兄弟であるかのようです。特に日本にいる私たちは、何億の人々の中から特別に選ばれて、ヤコブのように何の価値も無かったにもかかわらず、天主の御子となる長子権の御恵みを頂きました。マリア様が一生懸命私たちの為に取り次いで下さったに違いありません。

そればかりではありません。せっかく頂いた長子権を、私たちは罪を犯す事によって放っぽり投げてしまって、イエズス・キリスト様の国から離れて、遠くの外国の、イエズス様を知らないような生活をして、あたかも王子ではないかのように、イエズス様の子供では兄弟はないかのように、遠く離れて生活していました。

ちょうど私たちは二重の意味で、求道者であり、そして回心者痛悔者、この二人の教会の兄弟を代表しているかのようです。私たちはそこで、天主の御憐れみを思い馳せる事に致しましょう。

天主の特別の御恵み、選みと、憐れみ。天主から召し出しを受けて、天主の命を受けるという召し出しを受けて、更にそれに回心するという恵みを受けた者として、天主の御憐れみを考える事に致しましょう。

私たちはともすると、クリストヴァン・フェレイラ殉教者に、「殉教する代わりに、天主を否んでしまった!キリシタンの目明かしとして幕府に協力した!」或いは、私たちのもしかしたら知っているような人のことを、「あぁ、この人はあんな罪人だ!」「あぁ、あの人はこのような罪を犯して、このような裏切りをして、本当に悪い人だ!だらしがない」と、もしかしたらこの放蕩息子のお兄さんのように「何だ!」と言うかも知れません。「私はいつも、主に忠実だった!」

しかし実はそうではなくて、私たちは程度の差こそあれ、天主に対して必ずしも忠実を尽くす事ができなかったのではなかったかと反省します。主に対して全く忠実だったのは、マリア様しかいませんから。

そして私たちは、たとえ程度の差こそあれ、たとえ私たちがフェレイラのように主を否んでしまったとしても、或いはもう想像を絶するような罪を犯してしまったとしても、父の顔に泥を塗りつけるような多くの罪を犯してしまったとしても、もう誰にも言う事ができないような大罪を犯してしまって、もうどうしていいか分からないというような事をしてしまったとしても、しかしそれにもかかわらず聖父は私たちの帰りを待っておられます。

私たちが「あぁ、もう主に対して罪を犯しました。もう本当に何という裏切りをしてしまった事でしょうか。もう恥ずかしくてもう穴にも入る事ができません。そしてもう奴隷として何としても好きなように扱って下さい」と言った時に、聖父は私たちを、「おぉ、子よ、さぁ一番の服を着なさい。一番のきれいな指輪をはめなさい。さぁ靴を、自由民の靴を履いて、そしてさぁ、宴会を開こう。さぁ、私と一緒に喜ぼう!」と言って下さるに違いありません。

私たちがその父の元に、この痛悔の心を持って帰る事ができるように、マリア様にお祈り致しましょう。

マリア様は、ロドリゴの聞いたキリストのように、「あぁ、罪を犯し続けて良いんだよ、踏み続けて良いんだよ」とは言いません。確かにイエズス様は私たちを赦す為に、十字架を担い、十字架にかけられ、私たちを赦す為にこんなにも私たちの元に近くに来て、こんなにも私たちの為に全てをして下さいます。自分を食べ物として与えようとさえします。しかしだからといって、私たちは罪を犯し続けて良い、という訳ではありません。早く父の元に戻らなければなりません。

そして願わくは、日本の多くの霊魂たちが、この聖父の憐れみの深さに、私たちの弱さをはるかに超える大きな憐れみをもって、赦し、抱擁して下さり、そして罪を犯さないように助けて下さる聖父の元に帰る事ができますように、この四旬節の御恵みが多く伝わりますように。

そして願わくは、この多くの日本の方々が、全世界の方々が、兄弟として父の元に一緒に居る事ができますように、マリア様の元に居る事ができますように、聖母の汚れなき御心の御憐れみを乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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