アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
6月23日は、私たちの主イエズスの至聖なる聖心の祝日でした。三位一体の主日の直後に御聖体の大祝日があり、その八日後(オクターブ)の金曜日にイエズスの聖心の祝日を祝うと言うことは、聖心の祝日が御聖体の祝日の延長上にあることを意味します。
御聖体の祝日では、人類の生み出した天才聖トマス・アクイナスの聖務とミサ聖祭を持って御聖体を讃美しました。聖トマス・アクイナスでさえも、コピペして借りてきた一節はサン・ヴィクトル王立修道院のアダムの書いた、主の愛を歌う次の一節でした。
Se nascens dedit socium,
Convescens in edulium,
Se moriens in pretium,
Se regnans dat in praemium.
主は生まれることによって、伴侶・同僚として
われらと共に食することによって、甘美な食糧として
われらのために死去することによって、贖いの代償として、自らを与え給うた。
今、天で統治しながら、われらに永遠の報償として、自らを与え給う。
御聖体の神秘とイエズスの聖心の神秘が延長線上にあるのは、イエズスが私たち罪人である人類に対して抱いておられる燃えるような愛は、御受難と御聖体において特別に表されたからです。御聖体は、秘蹟的に御血が御体と外見上分離しているので、屠られた犠牲の状態を表しています。イエズスの聖心は、槍にて貫かされて開かれた、茨の冠を押しかむらせた、贖いの死を遂げた、愛の火に燃え立つ心臓の状態を表しています。
そこで、イエズスの聖心の祝日は、私たちに私たちの主の愛、御受難、御聖体この三つを提示しています。ミサの集祷文によると聖心は「愛の無限の宝庫」(infinitos dilectionis thesauros) です。
この聖心は、私たちの主の御受難の時、第二のアダムとしての御死去の後に、私たちのために開かれ血と水を出します。死の床について眠る第二のアダムの脇腹から第二のエワである教会が主の「伴侶」として生まれます。エワは水(洗礼)と血(御聖体)とによって出てきます。聖心から流された御血は、御聖体へと流れ出ます。キリストの御受難への参与は、キリストの神秘体の栄光です。槍で貫かれたのは、開かれた聖心から憐れみと聖寵との波がわき出るためです(apertum cor,..., torrentes nobis funderet miserationis et gratiae )【聖心の祝日のミサの叙唱】。それは罪人が回心の恵みと憐れみを受けるためでした。
三位一体と御聖体とイエズスの聖心のイメージは、正にファチマで繰り返されます。
ファチマの天使は、御聖体を持って現れ、次のようにひれ伏して祈ります。
「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、我、御身を深く礼拝し奉る。世界中のすべての御聖櫃のうちにましまし給うイエズス・キリストのいとも尊き御体、御血、御霊魂と御神性を、イエズス・キリスト御自身が受け給う侮辱、冒涜、無関心を償うために、御身に捧げ奉る。イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳によりて、あわれな罪人の回心を御身に願い奉る。」
トゥイでシスター・ルシアは、三位一体と御聖体と聖心のイメージをヴィジョンで見ています。十字架にかかる聖子の右には御聖体とカリストがあり、左には憐れみと聖寵という文字が現れました。イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳によりて、あわれな罪人の回心を御身に願い奉る!
イエズスの聖心は、失われた羊を探して歩く良き牧者です。100匹のうちの迷子になった一匹のために探す良き牧者。この羊は人類です。罪によって天主を離れ、天国と聖寵を失った人類です。イエズスはこの失われた人類を探すためにこの世に送られ、人間となりました。聖ペトロは言います。「あなたたちはかつて迷った羊のようであった。しかし、牧者のもとに、あなたたちの霊魂の監督のもとに、戻ってきた。」
羊の命を守ろうと自分の命さえも投げ出す良き牧者イエズス・キリストの聖心。それと対照的なのは、羊を食い殺そうとして餌を狙ってうなり声を上げながら獅子のようにうろつき回る悪魔。しかし、良き牧者は悪魔に勝ちます。
良き牧者であるイエズスの聖心は、失われた羊を見いだして、自分の肩に載せます。こんなに緊密に親しく羊を抱き上げます。「私の愛にとどまれ!Manete in dilectione mea!」このキリストとの愛による一致を失ってはならない!洗礼は私たちにキリストの命を与えます。御聖体は私たちにおいてキリストの命を維持させ保存させ発展させます。イエズスは約束します。
「私の肉を食べ、私の血を飲むものは、私にとどまり、私も彼のうちにとどまる」と。良き牧者は、羊を連れてもとの群れのもとに戻します。私たちを天国に連れて行きます。古代のローマのカタコンベは、墓地でしたが、私たちを天国に連れて行く良き牧者としてイエズスの壁画が残っています。キリスト者は古代から、イエズスへの愛と、聖なる希望に生きていました。ああ、イエズスよ、われらの罪を赦し給え、われらを地獄の火より守り給え。また全ての霊魂、ことに主の御憐れみを最も必要とする霊魂を天国に導き給え!
罪人の回心を求めて心を砕く良き牧者なるイエズス・キリスト、イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳によりて、あわれな罪人の回心を御身に願い奉る!
10のドラクマ貨のうち一つを失った女は、教会です。私たちはここでは聖母の汚れなき御心だと解釈します。世の光であるキリストを灯して、御聖体におけるキリストを光らせて家中を探し回ります。この地上の暗闇と私たちの心の暗闇をキリストの福音の光で照らします。婦人はついに無くしたドラクマ貨を見つけます。ドラクマ貨は永遠の命を持つ私たちの霊魂で、罪によって汚い泥とほこりまみれのところに堕ちてしまいました。ドラクマ貨には王の肖像が彫られています。霊魂にも天の王の似姿が刻み込まれています。霊魂は天主の似姿に似せて創られているからです。
聖母は公教会と、罪によって天主から離れた霊魂たちを探しているのです。イエズスの聖心は私たちの霊魂を探す聖母の汚れなき御心を下さいました。願わくは、われらが天国の宝庫に帰ることができますように!
イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳によりて、あわれな罪人の回心を御身に願い奉る!
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
愛する兄弟姉妹の皆様、
6月23日は、私たちの主イエズスの至聖なる聖心の祝日でした。三位一体の主日の直後に御聖体の大祝日があり、その八日後(オクターブ)の金曜日にイエズスの聖心の祝日を祝うと言うことは、聖心の祝日が御聖体の祝日の延長上にあることを意味します。
御聖体の祝日では、人類の生み出した天才聖トマス・アクイナスの聖務とミサ聖祭を持って御聖体を讃美しました。聖トマス・アクイナスでさえも、コピペして借りてきた一節はサン・ヴィクトル王立修道院のアダムの書いた、主の愛を歌う次の一節でした。
Se nascens dedit socium,
Convescens in edulium,
Se moriens in pretium,
Se regnans dat in praemium.
主は生まれることによって、伴侶・同僚として
われらと共に食することによって、甘美な食糧として
われらのために死去することによって、贖いの代償として、自らを与え給うた。
今、天で統治しながら、われらに永遠の報償として、自らを与え給う。
御聖体の神秘とイエズスの聖心の神秘が延長線上にあるのは、イエズスが私たち罪人である人類に対して抱いておられる燃えるような愛は、御受難と御聖体において特別に表されたからです。御聖体は、秘蹟的に御血が御体と外見上分離しているので、屠られた犠牲の状態を表しています。イエズスの聖心は、槍にて貫かされて開かれた、茨の冠を押しかむらせた、贖いの死を遂げた、愛の火に燃え立つ心臓の状態を表しています。
そこで、イエズスの聖心の祝日は、私たちに私たちの主の愛、御受難、御聖体この三つを提示しています。ミサの集祷文によると聖心は「愛の無限の宝庫」(infinitos dilectionis thesauros) です。
この聖心は、私たちの主の御受難の時、第二のアダムとしての御死去の後に、私たちのために開かれ血と水を出します。死の床について眠る第二のアダムの脇腹から第二のエワである教会が主の「伴侶」として生まれます。エワは水(洗礼)と血(御聖体)とによって出てきます。聖心から流された御血は、御聖体へと流れ出ます。キリストの御受難への参与は、キリストの神秘体の栄光です。槍で貫かれたのは、開かれた聖心から憐れみと聖寵との波がわき出るためです(apertum cor,..., torrentes nobis funderet miserationis et gratiae )【聖心の祝日のミサの叙唱】。それは罪人が回心の恵みと憐れみを受けるためでした。
三位一体と御聖体とイエズスの聖心のイメージは、正にファチマで繰り返されます。
ファチマの天使は、御聖体を持って現れ、次のようにひれ伏して祈ります。
「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、我、御身を深く礼拝し奉る。世界中のすべての御聖櫃のうちにましまし給うイエズス・キリストのいとも尊き御体、御血、御霊魂と御神性を、イエズス・キリスト御自身が受け給う侮辱、冒涜、無関心を償うために、御身に捧げ奉る。イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳によりて、あわれな罪人の回心を御身に願い奉る。」
トゥイでシスター・ルシアは、三位一体と御聖体と聖心のイメージをヴィジョンで見ています。十字架にかかる聖子の右には御聖体とカリストがあり、左には憐れみと聖寵という文字が現れました。イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳によりて、あわれな罪人の回心を御身に願い奉る!
イエズスの聖心は、失われた羊を探して歩く良き牧者です。100匹のうちの迷子になった一匹のために探す良き牧者。この羊は人類です。罪によって天主を離れ、天国と聖寵を失った人類です。イエズスはこの失われた人類を探すためにこの世に送られ、人間となりました。聖ペトロは言います。「あなたたちはかつて迷った羊のようであった。しかし、牧者のもとに、あなたたちの霊魂の監督のもとに、戻ってきた。」
羊の命を守ろうと自分の命さえも投げ出す良き牧者イエズス・キリストの聖心。それと対照的なのは、羊を食い殺そうとして餌を狙ってうなり声を上げながら獅子のようにうろつき回る悪魔。しかし、良き牧者は悪魔に勝ちます。
良き牧者であるイエズスの聖心は、失われた羊を見いだして、自分の肩に載せます。こんなに緊密に親しく羊を抱き上げます。「私の愛にとどまれ!Manete in dilectione mea!」このキリストとの愛による一致を失ってはならない!洗礼は私たちにキリストの命を与えます。御聖体は私たちにおいてキリストの命を維持させ保存させ発展させます。イエズスは約束します。
「私の肉を食べ、私の血を飲むものは、私にとどまり、私も彼のうちにとどまる」と。良き牧者は、羊を連れてもとの群れのもとに戻します。私たちを天国に連れて行きます。古代のローマのカタコンベは、墓地でしたが、私たちを天国に連れて行く良き牧者としてイエズスの壁画が残っています。キリスト者は古代から、イエズスへの愛と、聖なる希望に生きていました。ああ、イエズスよ、われらの罪を赦し給え、われらを地獄の火より守り給え。また全ての霊魂、ことに主の御憐れみを最も必要とする霊魂を天国に導き給え!
罪人の回心を求めて心を砕く良き牧者なるイエズス・キリスト、イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳によりて、あわれな罪人の回心を御身に願い奉る!
10のドラクマ貨のうち一つを失った女は、教会です。私たちはここでは聖母の汚れなき御心だと解釈します。世の光であるキリストを灯して、御聖体におけるキリストを光らせて家中を探し回ります。この地上の暗闇と私たちの心の暗闇をキリストの福音の光で照らします。婦人はついに無くしたドラクマ貨を見つけます。ドラクマ貨は永遠の命を持つ私たちの霊魂で、罪によって汚い泥とほこりまみれのところに堕ちてしまいました。ドラクマ貨には王の肖像が彫られています。霊魂にも天の王の似姿が刻み込まれています。霊魂は天主の似姿に似せて創られているからです。
聖母は公教会と、罪によって天主から離れた霊魂たちを探しているのです。イエズスの聖心は私たちの霊魂を探す聖母の汚れなき御心を下さいました。願わくは、われらが天国の宝庫に帰ることができますように!
イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳によりて、あわれな罪人の回心を御身に願い奉る!
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)