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「霊的戦い(霊戦)について」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様のお説教 「霊的戦い(霊戦)について」(日本語訳)をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2017年9月10日 聖霊降臨後第十四の主日 大阪の説教
霊的戦い(霊戦)について

親愛なる兄弟の皆さん、

「人は二人の主人に仕えるわけにはいかぬ」(マテオ6章24節)。私たちの霊魂の所有権を懸命に求めている二人の相いれない主人がいます。キリストと、お金を通じた悪魔です。キリストは、ご自分の復活を通じて、この戦いにおける最終決定権をお持ちになるでしょう。カルワリオにおいて、悪魔は自分が勝利したと思いましたが、私たちの主イエズス・キリストを欺くことはできず、実際は罪との戦いで敗北したのです。キリストの罪に対する勝利は、復活の日の死に対する勝利の原因となり、この復活が私たちの主イエズス・キリストの悪魔に対する完全な勝利を示しているのです。

さて、私たちはこの戦いを避けることができません。ですから、しばしば私たち自身の霊魂が戦場なのです。私たちは自分自身の中にこれら二つの傾きがあるのを感じることができます。それについて聖パウロは本日こう言っています。「実に肉の望むことは霊に反し、霊の望むことは肉に反する。あなたたちが望みのままに行わぬように、それらは相反している」(ガラツィア5章17節)。この戦いは啓示された真理であるだけでなく、日々の経験から得られる事実です。私たちはどちらかの側につかねばならず、無関心のままでいることはできません。私たちは上に上がらなければ、下へ落ちてしまいます。霊の側につかなければ、肉の側に落ちてしまいます。意志と愛をもってキリストに仕えるのでないならば、悪魔に仕えることになってしまい、お金や地上のものへの愛着の奴隷となるでしょう。私たちは選ばなければならないのです!

教会は、私たちには三つの敵がいると教えています。それは、肉、この世、そして悪魔です。

第一の敵は内なる敵です。私たち自身の肉体が霊に反逆しているのです。これは、天主がアダムを創造されたときにはそうではなかったのですが、原罪と自分の過去の罪の結果です。聖トマス・アクィナスは、それを罪による「傷」と呼んでいます。すべての罪は三つの結果をもたらします。それは霊魂の闇、当然受けるべき罰、そして私たちの霊魂の傷です。罪による第一の結果は霊魂の闇です。これは、光を奪われるように、成聖の恩寵を奪われることです。これは天主から離れる悪しき意志であって、創造主よりも被造物に愛着を持つのです。これは、罪そのものの状態です。第二の結果は、罪によって私たちが負債をこうむるということです。罰は罪びとが当然受けるべきものであり、それは天主が悪に最終決定権を持たせて勝利させられることはあり得ないからです。そのため、最終決定権は常に天主に属しています。もし被造物の意志が悪を選ぶならば、その被造物は当然受けるべき罰によって償われなければならず、それは償いとして自分で受けるか、天主ご自身によって負わされるかのどちらかです。

そして罪による第三の結果は、罪による傷です。これは、再び罪に落ちようとする悪しき傾きです。ですから、例えば、お酒をたくさん飲み過ぎて酔っぱらった人は、またたくさんお酒を飲みたくなる傾きをもっています。うそをついた人は第二のうそをつくのが簡単になり、第三のうそはもっと簡単になり、こうしてその人にはうそをつくという悪しき人格的特性が出来上がるのです。原罪は私たちの本性に傷を負わせたので、そのため私たちは自分自身の人間の本性の中に自己中心の傾き、過度に楽しみを求める傾き、手に負えない怒りへの傾きや、他の多くの悪しき傾きを見いだすのであり、私たちはこれらと戦わなければなりません。

私たちはどこへいっても、全生涯にわたって、この内なる敵、霊に対する自分の肉の反逆を見いだします。しばしば、私たちは、自分が行う悪について、それが実際に自分自身の中から来るときでも、他人を非難する傾向があります。聖パウロは本日、これらの「肉の行い」について述べています。それらは、「私通、不潔、猥褻、邪淫、偶像崇拝、魔術、恨み、紛争、妬み、憤怒、喧嘩、騒乱、異説、嫉(そね)み、殺人、酩酊、倒食、そしてそれらに似たこと」(ガラツィア5章19-21節)です。また、聖パウロは私たちに非常に明確に警告しています。「私は前に言ったように、またあらかじめ注意する。以上のようなことを行う者は天主の国を継がない」(ガラツィア5章21節)。この最後の言葉は、私たちが自分の肉に対して、これらの悪しき傾き、罪による傷に対して戦わなければならないことを非常に明確にしています。

どのようにして戦うのでしょうか? 主が私たちにこう教えられた通りにです。「私のあとに従おうと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って従え」(ルカ9章23節)。自己否定、苦行は、まことのキリスト教徒の生涯のうちで本質的部分の一つです。全ての聖人の模範が、私たちにこの偉大な真理を教えてくれます。苦行をしなかった聖人の例があれば教えてください。そうすれば、私はあなたが苦行なしに天国に行けると言うことでしょう! 聖人たちの伝記を読むとき、私たちは彼らの苦行の奥深さにいささか恐れをいだきます。しかし一方、彼らの肉体に対する勝利を、世に対する勝利を、悪魔に対する勝利を考えてみましょう! 彼らは十字架に付けられた私たちの主イエズス・キリストと一致していたのであり、その結果として彼らは罪と死に対する主の勝利において主と一致していたのです。

第二の敵はこの世です。すべての外的なものの誘惑、特にお金と富、世の外的な魅力と虚栄、流行、成功、権力、名声といったものです。どれだけ多くの人々が、これらのものを、まるでまことの幸せがそこにあるかのように熱心に追い求めることでしょうか! また、嫉妬、妬み、詐欺、盗み、高利貸し、慎みのなさ、つまずきなどから、どれだけ多くの罪が出てくることでしょうか。そのような人々には、そんな外的なものがいかに虚しいものであるのかが見えません。それらのものは単なる手段であるべきであって、人生の目的とするべきではありません。それらは過ぎゆくものであって、永遠に続くものではありません。それらのものは持っている人を善くするのではありません。なぜなら、それらはその人の外にあるからです。

ここで再び、人はそのような外的なものに対する無秩序な渇望と、この世の精神と、戦わなければなりません。聖ヨハネは強い警告を与えています。「世と世にあるものを愛するな。世を愛するなら御父の愛はその人の中にはない」(ヨハネ第一2章15節)。また、聖ヤコボが同じことを言います。「姦通者よ、あなたたちが世の友となるのは、天主を敵にすることだと知らないのか。世の友となる者は、天主の敵となる」(ヤコボ4章4節)。

それどころか、私たちの主イエズス・キリストは聖福音でこう言われました。「あなたたちがこの世のものなら、この世はあなたたちを自分のものとして愛するだろう。しかしあなたたちはこの世のものではない。私があなたたちを選んでこの世から取り去った。だからこの世はあなたたちを憎む」(ヨハネ15章19節)。ですから聖ヨハネは言います。「兄弟たちよ、世があなたたちを憎んでも驚くな」(ヨハネ第一3章13節)。でも心配しないでください。「人があなたたちを憎み、破門し、侮辱し、そして、人の子のためにあなたたちの名を不敬のものとして排斥するとき、あなたたちは幸せである。その日には喜びおどれ。あなたたちは天において偉大な報いを受けるであろう。彼らの先祖は預言者たちをそのようにあしらった」(ルカ6章22-23節)。

第三の敵は悪魔です。聖ペトロははっきりとこう言います。「節制して警戒せよ。敵の悪魔は吠えるししのように、食い荒らすものを探して、あなたたちのまわりを回っている」(ペトロ前書5章8節)。「サタン」という名前それ自体が、ヘブライ語で「敵」を意味します。ここで、よくある誤りが一つあります。まるで自分たちの罪の言い訳をするかのように、悪魔にすべての悪の責任があると告発する人々がいるのです。悪魔は確かにいくつかの悪の原因、特に大きな悪の原因ですが、唯一の原因ではありません。完全に私たち自身に責任のある罪があります。特に肉の罪です。私たちの怠惰などで悪魔を告発するのはばかげたことです。悪魔は時折、肉の罪に落ちるよう私たちをそそのかすというのは本当ですが、悪魔自身はこの種の罪を軽蔑しています。なぜなら、悪魔は純粋な霊であって肉体を持たないからです。

悪魔によってそそのかされる典型的な罪は破壊のための破壊に関わる罪、たとえば、革命や、また自分にまったく何の個人的な利益をももたらさない性転換を自分の体に行なうような、肉体の損傷行為もそうです。悪魔はしばしば、麻薬や現代音楽、迷信、占い師、ニューエイジなどと関わっています。また、フリーメーソンとも大いに関わっています。フリーメーソンは「私は仕えない」(エレミア2章20節)という悪魔の反乱に従っているのですから。フリーメーソンは、人間の上にはいかなる法の存在をも拒否し、自然法を含めて天主のすべての法の存在を拒否しており、そこには天主に対する悪魔の反乱の叫びがおおきくこだましています。私たちの主イエズス・キリストの社会的王権に対する現代の諸国家の全面的な反乱は、フリーメーソンを通じた悪魔のこの影響力のせいで起きているのです。

ですから、私たちはこれら三つの敵に対して激しい戦いを戦わなければなりません。「この世にいることは人にとって兵役である」(ヨブ7章1節)。では、どのようにして戦わなければならないのでしょうか? 聖ペトロは私たちに、私たちは、「世にいる兄弟も同じ苦しみに耐えていることを思い、信仰を固めて」(ペトロ前書5章9節)悪魔に抵抗するように教えています。実際、聖ヨハネはこう言います。「世に勝つ勝利はすなわち私たちの信仰である」(ヨハネ第一5章4節)。

では、私たちの信仰が、どのようにして私たちに勝利を与えるのでしょうか? 第一に、忠実であることの報いとして私たちに約束された霊的かつ永遠のものに目を開かせることによって、信仰は私たちの心を低級なものから離し、私たちを天のものに引きつけます。これは、イエズスの聖心の祝日の聖体拝領後の祈りの中で私たちが求めるものです。「主よ、この聖なる秘蹟によって、われらにあつい信心を起こさせ、いとも優しい聖心の甘美さを味わわせ、地上のことを軽んじ、天を愛することを教え給え!」。この聖体拝領後の祈りは、新しいミサでは削除されていることに注意してください。聖ペトロはこう言います。「彼らの心を信仰によって清める」(使徒行録15章9節)。信仰は、私たちの心を霊的なもの、天の純粋なものへと上げるのですから、私たちの心を清めるのです。「心の清い人は幸せである、彼らは天主を見るであろう」(マテオ5章8節)。

また、信仰は、罪による永遠の罰を私たちに示し、そのため私たちが罪を犯すのを強力に抑えるのですから、私たちの心を清めるのです。私たちの主イエズス・キリストのみ言葉は非常に力強く、誘惑に対して私たちを助けてくれます。「その手があなたに罪を犯させるなら手を切り捨てよ。不具で命に入るのは両手があってゲヘナの不滅の業火に入るよりもよい。そこではうじが失せず、その火は消えぬ。その足があなたに罪を犯させるならそれを切り捨てよ。片足で命に入るのは、両足があってゲヘナに投げ込まれるよりよい。そこではうじが失せず、その火は消えぬ。またもしその目があなたに罪を犯させるならそれを抜き取れ、片目で天主の国に入るのは、両眼があってゲヘナに投げ込まれるよりよい。そこではうじが失せず、その火は消えぬ」(マルコ9章43-48節)。信仰は、この世のものがいかに虚しいものであるかを明らかにします。ですから、主はこう言われます。「よし全世界をもうけても、命を失えば何の役に立つだろう」(マテオ16章26節)。これらや他の聖福音の節を暗記することは有用です。それが、肉、この世と悪魔に対する戦いにおける誘惑の時、私たちを強めてくれるからです。

また、信仰は、私たちを祈りへと導きます。すぐに私たちは善き主に助けてくださるようこいもとめ、助けを求めて叫び、たゆまずに助けを求めてこの叫びをあげます。すると善き主は、ただ主に忠実に留まることだけを願う人々をお助けになるでしょう。私たちは聖母と諸聖人に、私たちのために取り成してくださるよう願います。それは、この世の利益を求めてではなく、肉とこの世と悪魔に対する彼らの勝利において彼らに倣うためにです。すると彼らは私たちを助けてくださいます。なぜなら、私たちの主イエズス・キリストは、私たちの救いを私たちが望む以上に望んでおられるからです。私たちは「罪と戦ったが、まだ血を流すほどの抵抗はしていない」(ヘブライ12章4節)のですが、主は私たちの救いのために十字架上で亡くなられました。主はそれほどまでに私たちの救いを望んでおられるのです。私たちの主イエズス・キリストは、私たちに「われらを試みに引き給わざれ」(マテオ6章13節)と祈るよう教えてくださいました。これはもっとうまく訳すとすれば、「私たちが試みに陥らないようにしてください。私たちを試みから遠ざけてください」となるでしょう。ここでは「試みに引き給わざれ」というのは「試みから」という意味です。

私たちは、信仰を公に告白することによっても、「信仰を固めて」戦います。聖トマス・アクィナスは、信仰には二つの行いがあると教えています。第一は、信ずるという内的な行い、わたしたちの知性を、天主によって教会を通じて教えられた啓示された真理に忠実であろうとする内的な行いです。第二は、その信仰を公に告白するという外的な行いです。聖霊降臨の日の使徒たちを見てください。使徒たちは聖霊に満たされて、その後は恐れることなく信仰を告白し、生ける天主の御子、世の救い主である私たちの主イエズス・キリストのことを公に教え始めました。信仰を公に告白するこの勇気が必要です。特にこの世に対して戦うとき、私たちの主イエズス・キリストの社会的王権のために戦うときは。カトリック信者が恐れのあまり信仰を告白できず、友人や隣人、さらには敵にさえ信仰を説明できずにいる場合が何と多いことでしょうか。しかし、堅振の秘蹟によって、私たちはキリストの兵士となったのであり、まさに恐れることなく私たちの信仰を告白することによって、キリストの国を推し進めていくのです。

ここに教会の危機に関する重要な点があります。多くのカトリック信者はこんにち、表面上だけの合意をするために、異端者たちが否定する信仰の箇条について沈黙することを好みます。ルターの宗教改革500周年は、私たちの時代における、非常に数多くのその種の妥協や沈黙の機会となったので、これらはまさにつまずきです。なぜなら、私たちの主イエズス・キリストの真理に栄光を与えず、またこれらのあわれな人々にまことの信仰の光を与える代わりに、彼らを誤謬の闇にいるがままにさせてしまっているからです。

また、ここにはもう一つのきわめて重大なポイントがあります。私たちは隣人を非難するために信仰を告白するのではありません。まったく違います! むしろ彼らを救うために告白するのです。主はこの目的のために、私たちを罪から救うために(マテオ1章21節)来られたのです。私たちは無償で受けたのですから、無償で与えなければなりません(マテオ10章8節)。それゆえに、今度は私たちが、イエズスと同じ親切心をもって、隣人の救いのために働く番です。ですから、聖パウロは「愛によって働く信仰」(ガラツィア5章6節)と言います。信仰告白は精神に光を与えますが、愛が心を勝ち取ります。愛がなければ信仰は死んでおり、「無に等しい」(コリント前書13章2節)のです。しかし、愛があれば、信仰は山をも動かすことができます。ですから本日、聖パウロは、聖霊の最初の実として愛を置いています。「霊の実は、愛、喜び、平和、忍耐、寛容、善良、我慢、柔和、信仰、節度、節制、貞潔であって、これらのことに反対する律法はない」(ガラツィア5章22-23節)。

この霊的な戦いは、私たちを恐れさせるかもしれませんが、私たちはひとりぼっちではありません。私たちだけなら勝つことはできないでしょうが、私たちの主イエズス・キリストがともにいてくださるので勝つことができます。「私がこう言うのは、私によってあなたたちに平和を与えるためである。あなたたちはこの世で苦しむだろう。だが勇気を出せ、私はこの世に勝ったのだ」(ヨハネ16章33節)。ですから、聖パウロはこう言います。「すべてのこれらのことに遭っても、私たちを愛されたお方によって、私たちは勝つ」(ローマ8章37節)。「われらの主イエズス・キリストによって私たちに勝利を与え給う天主に感謝しよう」(コリント前書15章57節)。「彼らが勝ったのは、小羊の御血と自分たちの殉教の証明によってである。彼らは死に至るまで自分の命を惜しまなかった」(黙示録12章11節)。

私たちは、この霊的戦いにおいて、聖人たちの模範と祈りによって非常に勇気づけられます。それについて聖パウロは言います。「私たちもこれほど多くの証人に雲のように取り巻かれているのであるから、すべての障害物と包まれている罪を除き、忍耐をもって、私たちに差し出された競走を競うようにしよう」(ヘブライ12章1節)。彼らの信仰と愛によって、聖人たちは非常に多くの霊魂を回心させ、非常に多くの障害物、内からの誘惑に打ち勝ちました。肉の誘惑に打ち勝つために、自分から棘の木に飛び込む聖フランシスコを見てください。聖人たちはこの世からの驚くほどの圧力に打ち勝ちました。まことの信仰を裏切るよりは斬首されて死ぬ方を選んだイングランドの大法官、聖トマス・モアを見てください。聖人たちは悪魔に打ち勝ちました。彼が悪魔から自由にしたすべての霊魂のために、悪魔に苦しめられ、しかしいつも悪魔に打ち勝ち、何千もの霊魂を悪魔の手から救いの道へと連れ戻したアルスの聖なる司祭、聖ヴィアンネーを見てください。

この霊的戦いにおいて、最高の模範にして最高に力強い助けは、童貞聖マリアの模範と助けです。私たちの主イエズス・キリストの非常に特別な特権によって、聖母は受胎のときから無原罪です。しかしその後、聖母は聖霊の恩寵に完全に協力し、もっとも小さな小罪の一つさえも決して犯さなかったほどであったので、全生涯を通じて完全に無原罪のままでした。これが聖母の汚れなき(無原罪の)御心なのです。聖母は天に上げられて、こうして、私たち皆を助けて聖霊の恩寵に忠実で、私たちの主イエズス・キリストに忠実で、聖霊が私たちの霊魂に注いでくださる愛(ローマ5章5節)で満たされた状態を保たせる、という大きな権能を受けられました。ホロフェルネの頭を切り落としたユディトのように、聖母はいにしえのへびの頭を踏み砕き、戦列を整えた軍勢のように強いのです。実際、雅歌(賛歌)はこう歌います。「暁のごとく立ち現れ、月のごとく美しく、太陽のごとく輝き、戦列を整えし軍勢のごとく恐るべき婦人は誰か?」(雅歌6章10節)。人は「太陽に包まれ、足の下に月があり、頭に十二の星の冠をいただいていた婦人」(黙示録12章1節)を救い主の母と認めます。なぜなら、その御子はメシアだと告知されたお方(詩篇2章。詩篇2章9節と黙示録12章5節を比較)だからです。

ですから親愛なる兄弟の皆さん、勇気を持ち、妥協せずに罪と戦い、忍耐をもって聖人たちの聖徳、特に愛徳を実践し、聖人たちの模範に倣い、彼らの保護を求めましょう。その結果、私たちが聖パウロのように良い戦いを正しく戦った(ティモテオ前書6章12節)あと、天の栄光の冠を受けることができますように。アーメン。


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