アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
2017年6月16日(金)に大阪で捧げた御聖体の祝日の随意ミサでの説教をご紹介いたします。
2017年6月16日(金)御聖体の祝日の随意ミサ
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2017年6月16日。昨日は御聖体の大祝日でしたので、今日は平日ですが、私たちは御聖体の祝日の随意ミサを行っております。今日この御ミサの後に、皆さんと一緒に終課を唱える事に致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は私たちは御聖体について黙想する事に致しましょう。
一体なぜ昨日、御聖体の祝日があったのでしょうか?聖霊降臨の主日があった後に三位一体の主日があって、そしてその直後の木曜日に御聖体の祝日があります。そして来週の金曜日はイエズス様の聖心の祝日です。教会は何でこの3つの祝日をこうやって立て続けに御祝いをしようと考えたのでしょうか?教会の意向は一体何だったのでしょうか?一体何をそんなにお祝いをするのでしょうか?
第2に、ではそのようなお祝いをしている教会の精神に従って、私たちは一体何をしなければならないのでしょうか?
この2つを黙想する事を提案します。
何で、私たちは聖霊降臨の主日の直後に、三位一体、御聖体の祝日、次にそれからイエズス様の聖心、という重要な大祝日を立て続けにするのでしょうか?
何故かというと、これはイエズス様の私たちの贖いの御業の最後の締め括りを讃美する為に、そして感謝する為に、その贖いの御業のその贈り物を、私たちがどれほど高くありがたく評価しているか、感謝しているかという事を表す為に、特別の機会を設けようとして思っているからです。
イエズス様の御降臨を準備する待降節、それから御降誕節クリスマス、御公現、そしてイエズス様の御受難を記念する四旬節、聖週間、それから復活の主日、その次に御昇天の祝日、その次に聖霊降臨、これらの一連の典礼のサイクルは、私たちの主がどのように長年の何千年もかけて、私たちの救いの為に準備して、私たちにどのような救い、贖いの業をなさって下さったかという事を、時期に合わせて、お恵みを与えながら黙想させて下さいます。
そして最後に、聖霊降臨でその贖いの御業が完成したその暁で、その御業を成し遂げて下さった聖父と聖子と聖霊の唯一の天主に深い礼拝を捧げよう、と教会は思っています。
そればかりではありません。その私たちのその贖いをして下さったその贖いの御業、究極の贈り物を、この御聖体の祝日でお祝いをしようとしています。
確かに御聖体の祝日は聖木曜日でした。しかし聖木曜日では「イエズス様の御受難」という事があまりにも強烈に私たちの脳裏にこびり付いてるので、聖金曜日が間近に迫っているので、御聖体のそのものすごい贈り物を喜ぶ、深く喜んでそれを祝い、感謝するその為に、特別の祝日をもう一度制定しようと望まれました。ウルバノ4世が1264年に、聖トマス・アクィナスに命じて、この祝日のミサや聖務日課を作らせました、「どうしてもこの御聖体の祝日を荘厳に祝わって喜ばなければならない、感謝しなければならない。」
その後には、このイエズス様の御聖体のその意味する、イエズス様の愛をもっと目に見える形で、イエズス様の聖心の祝日が制定されます。
教会の意向はですから、イエズス様のなさった大きな贈り物を記念して、感謝して、そしてそのそれを心から喜んで讃美しよう、という意向があります。その為に特別にこの祝日が作られました。
では、どれほどの大きな賜物だったかという事をざっと見て黙想してみましょう。そしてその大きな贈り物に対して私たちはどういう態度を、何をしなければならないかを黙想しましょう。
イエズス様は私たちの為に生まれようと、そして私たちの友と、伴侶となろうとする事を永遠の昔から考えておられました。イエズス様は私たちと共に、弟子たちと共に食事をして、私たちの為に食糧と、伴侶となるのみか食糧となる事を、甘美な食べ物となる事をお望みになりました。
イエズス様は自分が十字架の上において死ぬ事によって、私たちの罪の贖い、私たちの罪の代償となる事をお望みになられました。そして天国では、私たちの為に報奨となる事を、報いとなる事をお望みで、そしてそれを私たちに、ご自分の持てる全ての善を与えようと望んでおられます。
イエズス様は私たちにご自分を与えたい、与え尽くしたい、そして永遠の命を与えて、私たちとの愛による一致を求めて私たちを創り、私たちの為に生まれ、私たちの為に食べ物となり、私たちの為に罪の償いとなり、愛に愛を重ねて、御聖体を制定されました。
イエズス様はこの御聖体を制定するのを永遠の昔から望んでいたので、この来たるべき御聖体を、旧約の時代から影として、前表として、旧約の時代に表していました。
色々な前表があります。例えば過ぎ越しの子羊、屠られる過ぎ越しの子羊とか、或いはモーゼによって与えられる天からのマンナ、或いはアブラハムの時代にサレムの王メルキセデクが捧げたパンとブドウ酒のいけにえ、或いはエリアに与えられた灰の中で焼かれたパン、イエズス様はこれらの前表を旧約聖書の前表を、新約でまさに御聖体として実現させられました。
今日入祭誦でちょうどその旧約聖書の詩篇が歌われました、「小麦の豊かさから、天主は私たちに食糧を与え給うた。岩から蜜が出て、そしてそれを私たちが味わった。」
「岩から蜜が出る」というのは一体何の事だろうか?「岩であるイエズス・キリスト様から、蜜のような恵み豊かな御聖体が与えられた」という事が実現して初めて、この旧約の予言が理解できます。
イエズス様が私たちに与えて下さったのは、人類が想像を絶するような贈り物でした。
人生の初めに公生活の初めに、イエズス様はマリア様の特別の計らいで介入で、水をブドウ酒に変えました。しかし人生の夕方には、そのブドウ酒を御自分の御血に変えようと思われました。第2のアダムは十字架の寝台で寝ている時に、脇から水と血を流しました。ちょうど私たちの母親として、私たちを養う為に、御聖体のミルクと御血で私たちを養おうとされたかのようでした。
天主は私たちにそれほどまでも寛大に、計り知れないほどの善を施して下さいました。御自分を全て与え尽くそうとされました。そして私たちを、罪を持った私たちがただその罪を赦されるのみならず、御自分の御血で、御自分の御体で養おうとさえもされました。
昔のギリシャ時代、あまりこの動植物の行動の近くに行って、望遠鏡もそんなになかったでしょうし、近くに行ってよく観察する事ができなかった時代には、その鳥が魚を取って来て子供に与えるとか、或いは虫を取って来て子供に与えるとか、或いはこのお母さんの口を開けてその子供が、小さな小鳥が口の中からお母さんの消化したような物を食べているのを見たりとかしましたけれども、ペリカンは昔の観察によると、どうもその振る舞いが、自分の体を傷付けて、メスのペリカンがその自分の心臓から流れる血を、子供のペリカンに与えているように観察されたのです。本当は違うのですけれども、「どうもそのようだ」と見ていて、それで「ちょうどそのペリカンのようだ。イエズス様はペリカンのようだ。他の食べ物を探して来て与えるのではなくて、自分の体で私たちを養おうとしているから」と。ですから時々、御聖体のシンボルとしてペリカンが描かれる時がありますけれども、実はそのような観察からなのです。
ですがたとえ動物が、この世界中の動物が自分の血を流して子供の為に養うという事がなかったとしても、天主はイエズス・キリスト様は、自分の御体と御血を以って、天主の体を以って私たちを養おうとされました。私たちといつもそのように近くにいて、いつも親密に生活したい、いつも私たちと日夜留まりたい、私たちの元に留まりたい、一緒にいたい、という願いの元に、何とパンとブドウ酒の形のもとに、その外見のもとに、私たちの元に本当に留まって下さっています。
色々な宗教という名前の付いているものがありますけれども、日本の山に登ると、恐ろしい形相をした鬼とか、そのような恐怖をおどろおどろしいものはありますけれども、イエズス様は私たちにそのようにかよわく、優しく、もっと近くに、近くに、そして私たちに愛と、私たちを愛する事を、どれほど愛しているかという事をお見せになさろうとされています。
一体そんなに私たちの事を愛して何の利益があったのでしょうか?イエズス様にとってどれほどの良い事があるのでしょうか?
イエズス様は無限の善ですから、更に何か良くなるとか、利益を得るという事はありません。ただひたすらに、御自分が良い御方であって、私たちに善を施したい、私たちに善を分け与えたい、ただそれだけの理由でそうされました。
もしも私たちの人間の本性を取ったのならば、それは私たちに天主の本性を与えようと、私たちを天主の如くしようと思われたからです。私たちが天主の命を生きる事ができるように、天主のように終わりなく幸せである事ができるように、三位一体のまどいに入る事ができるように、人間となりました。
もしも私たちの肉体をお取りになったとしたらば、その私たちと同じこの肉体を以って、祭壇の上で、この十字架の祭壇の上で、私たちの罪の償いとして、いけにえとして屠られる為でした。
もしも私たちと同じ血潮を御自分の体の中に流される事を望んだのならば、私たちの罪の償いとして、この天主の血潮を全て流す為でした。そして私たちの罪を全く洗い浄める為でした。私たちの罪の値として、悪魔の下にあった私たちを買い戻す為でした。
「このようなとてつもない天主様からの贈り物を感謝し、記念し、そしてその贈り物を受けた喜びを示したい」と教会が思ったのが、この御聖体の大祝日です。イエズス様は私たちと共に在し“エンマヌエル”、本当の真の天主、私たちを愛して、私たちの善だけを考えている真の天主、私たちの最大の恩人、私たちに全ての善を与え尽くす大恩人、このイエズス様から受けたそのとてつもない御聖体の恵みを、この世の終わりまで私たちと留まって下さるイエズス様のこの愛の恵みを、愛の秘蹟を感謝して、讃美して、そのそれを褒め讃える祝日が、御聖体の大祝日です。
この御聖体の制定によって、全被造物が天主様の憐れみを、私たちに対する憐れみを讃美しています。本当に蜜よりも甘い、巌なるイエズス様から流れ出る御聖体の血潮、蜜のような、子供に対する養う母の愛がますます伝わってきます。この御聖体を私たちに与える事によって、私たちがイエズス様の為に生き、イエズス様が聖父の為に生きているように、私たちもイエズス様の為に生きるように、そして私たちが永遠に生きる為の保証となるように、御聖体を下さいました。
このようなとてつもない大恩人に対して、もう自分を奴隷のように、自分を全てを与え尽くす王の王、主の主、全能の天主のその寛大な前に、私たちは何と畏れ多くお礼を申し上げて良い事でしょうか。
ところが見て下さい。そのような天主様の御聖体の愛の秘跡は、その巨大な贈り物は、感謝されるどころか却って無視されて、イエズス様が御自分を全く私たちに委ねたのを人々はいい事に、それを全く虐待し、踏み付けにし、唾し、イエズス様の愛を冒瀆と無関心と屈辱で返しています。イエズス様のこの愛は却って忘れられ、冷淡とそして瀆聖で返答されています、応えられています。
イエズス様のこの愛は信じられずに、イエズス様の御聖体の秘跡は信じられずに、無視されて、あたかも単なるパンであるかのように取り扱われています。御聖体がどれほど罪の状態で拝領されていたり、或いは無関心であったり、或いは冒瀆されている事でしょうか。
御聖体は、私たちを愛するが為に世界中の御聖櫃の中に真に留まり給うにもかかわらず、イエズス様の事を顧みる人はいません。人々は、残念ですけれども、携帯の前や、テレビの前や、映画館での行列やコンサートにはいっぱいになりますけれども、御聖体の前では冷たく、空っぽに、イエズス様を愛そうとする霊魂はますます数少なくなっております。イエズス様に一生を捧げようという霊魂もますます少なくなっております。それよりももっと面白おかしく、イエズス様の無い世界を、イエズス様の愛を全く無視して楽しみを追求しています。
その時に私たちはどうしたら良いのでしょうか?
三位一体の聖父と聖霊と聖子が、私たちの贖いの為に聖子イエズス・キリスト様を下さって、そして聖子は十字架の上に付けられながら御血を流す、そのビジョンを88年前にシスタールチアは見ました。御血は、脇から流れる御血はちょうどその御聖体の上に流れて、そしてその御聖体にかかった御血はポタポタとカリスの中に流れていました。まさにこれこそ、私たちの為に三位一体がどれほど愛の贈り物をしようとしているか、という事のビジョンでした。
私たちはちょうど、天使が教えてくれたお祈りを見ると、教会の精神と全く同じだという事が分かります。教会はこのイエズス様の贖いのその王冠として、三位一体の祝日と、御聖体の祝日と、イエズス様の聖心の祝日を祝おうと、連続して祝おうと望みましたけれども、ファチマの天使も、三位一体への礼拝、そして御聖体を私たちが、御体、御血、御霊魂、御神性を奉献する事、そしてイエズス様の聖心の無限の功徳をお捧げする、という事を私たちに教えてくれました。教会の教えと全く一致しています。
ですからこの特に今日この御ミサで、御聖体に対してなされている侮辱、冒瀆、無関心を償う為に、イエズス様のいけにえを天主聖父にお捧げする事に致しましょう。御聖体は御体と御血の2つにあります。これは奇跡的にいけにえの状態となって、イエズス様の御受難を永久に記念する状態となっています。ですからこの御聖体を捧げる事によって、私たちは無限の価値を、天主に罪の償いとして捧げる事ができるようになっているからです。
最後にマリア様にお祈り致しましょう。マリア様、特にファチマのマリア様に、汚れなき御心に、このマリア様の汚れなき御心の御取り次ぎによって、特に汚れなき御心に捧げられたこの教会においては、イエズス様のこの御聖体がいつも讃美せられて、感謝されて、そして礼拝されて、信じられ、愛され、そして大切に扱われますように。そしてこの私たちのこの拙い祈りによって、全世界中に在すイエズス様が、御聖体が、昔の通り愛され、信じられ、礼拝されて、讃美されて、多くの霊魂たちが天国に導かれますように、マリア様の特別のお祈りを乞い求めましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
2017年6月16日(金)に大阪で捧げた御聖体の祝日の随意ミサでの説教をご紹介いたします。
2017年6月16日(金)御聖体の祝日の随意ミサ
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2017年6月16日。昨日は御聖体の大祝日でしたので、今日は平日ですが、私たちは御聖体の祝日の随意ミサを行っております。今日この御ミサの後に、皆さんと一緒に終課を唱える事に致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は私たちは御聖体について黙想する事に致しましょう。
一体なぜ昨日、御聖体の祝日があったのでしょうか?聖霊降臨の主日があった後に三位一体の主日があって、そしてその直後の木曜日に御聖体の祝日があります。そして来週の金曜日はイエズス様の聖心の祝日です。教会は何でこの3つの祝日をこうやって立て続けに御祝いをしようと考えたのでしょうか?教会の意向は一体何だったのでしょうか?一体何をそんなにお祝いをするのでしょうか?
第2に、ではそのようなお祝いをしている教会の精神に従って、私たちは一体何をしなければならないのでしょうか?
この2つを黙想する事を提案します。
何で、私たちは聖霊降臨の主日の直後に、三位一体、御聖体の祝日、次にそれからイエズス様の聖心、という重要な大祝日を立て続けにするのでしょうか?
何故かというと、これはイエズス様の私たちの贖いの御業の最後の締め括りを讃美する為に、そして感謝する為に、その贖いの御業のその贈り物を、私たちがどれほど高くありがたく評価しているか、感謝しているかという事を表す為に、特別の機会を設けようとして思っているからです。
イエズス様の御降臨を準備する待降節、それから御降誕節クリスマス、御公現、そしてイエズス様の御受難を記念する四旬節、聖週間、それから復活の主日、その次に御昇天の祝日、その次に聖霊降臨、これらの一連の典礼のサイクルは、私たちの主がどのように長年の何千年もかけて、私たちの救いの為に準備して、私たちにどのような救い、贖いの業をなさって下さったかという事を、時期に合わせて、お恵みを与えながら黙想させて下さいます。
そして最後に、聖霊降臨でその贖いの御業が完成したその暁で、その御業を成し遂げて下さった聖父と聖子と聖霊の唯一の天主に深い礼拝を捧げよう、と教会は思っています。
そればかりではありません。その私たちのその贖いをして下さったその贖いの御業、究極の贈り物を、この御聖体の祝日でお祝いをしようとしています。
確かに御聖体の祝日は聖木曜日でした。しかし聖木曜日では「イエズス様の御受難」という事があまりにも強烈に私たちの脳裏にこびり付いてるので、聖金曜日が間近に迫っているので、御聖体のそのものすごい贈り物を喜ぶ、深く喜んでそれを祝い、感謝するその為に、特別の祝日をもう一度制定しようと望まれました。ウルバノ4世が1264年に、聖トマス・アクィナスに命じて、この祝日のミサや聖務日課を作らせました、「どうしてもこの御聖体の祝日を荘厳に祝わって喜ばなければならない、感謝しなければならない。」
その後には、このイエズス様の御聖体のその意味する、イエズス様の愛をもっと目に見える形で、イエズス様の聖心の祝日が制定されます。
教会の意向はですから、イエズス様のなさった大きな贈り物を記念して、感謝して、そしてそのそれを心から喜んで讃美しよう、という意向があります。その為に特別にこの祝日が作られました。
では、どれほどの大きな賜物だったかという事をざっと見て黙想してみましょう。そしてその大きな贈り物に対して私たちはどういう態度を、何をしなければならないかを黙想しましょう。
イエズス様は私たちの為に生まれようと、そして私たちの友と、伴侶となろうとする事を永遠の昔から考えておられました。イエズス様は私たちと共に、弟子たちと共に食事をして、私たちの為に食糧と、伴侶となるのみか食糧となる事を、甘美な食べ物となる事をお望みになりました。
イエズス様は自分が十字架の上において死ぬ事によって、私たちの罪の贖い、私たちの罪の代償となる事をお望みになられました。そして天国では、私たちの為に報奨となる事を、報いとなる事をお望みで、そしてそれを私たちに、ご自分の持てる全ての善を与えようと望んでおられます。
イエズス様は私たちにご自分を与えたい、与え尽くしたい、そして永遠の命を与えて、私たちとの愛による一致を求めて私たちを創り、私たちの為に生まれ、私たちの為に食べ物となり、私たちの為に罪の償いとなり、愛に愛を重ねて、御聖体を制定されました。
イエズス様はこの御聖体を制定するのを永遠の昔から望んでいたので、この来たるべき御聖体を、旧約の時代から影として、前表として、旧約の時代に表していました。
色々な前表があります。例えば過ぎ越しの子羊、屠られる過ぎ越しの子羊とか、或いはモーゼによって与えられる天からのマンナ、或いはアブラハムの時代にサレムの王メルキセデクが捧げたパンとブドウ酒のいけにえ、或いはエリアに与えられた灰の中で焼かれたパン、イエズス様はこれらの前表を旧約聖書の前表を、新約でまさに御聖体として実現させられました。
今日入祭誦でちょうどその旧約聖書の詩篇が歌われました、「小麦の豊かさから、天主は私たちに食糧を与え給うた。岩から蜜が出て、そしてそれを私たちが味わった。」
「岩から蜜が出る」というのは一体何の事だろうか?「岩であるイエズス・キリスト様から、蜜のような恵み豊かな御聖体が与えられた」という事が実現して初めて、この旧約の予言が理解できます。
イエズス様が私たちに与えて下さったのは、人類が想像を絶するような贈り物でした。
人生の初めに公生活の初めに、イエズス様はマリア様の特別の計らいで介入で、水をブドウ酒に変えました。しかし人生の夕方には、そのブドウ酒を御自分の御血に変えようと思われました。第2のアダムは十字架の寝台で寝ている時に、脇から水と血を流しました。ちょうど私たちの母親として、私たちを養う為に、御聖体のミルクと御血で私たちを養おうとされたかのようでした。
天主は私たちにそれほどまでも寛大に、計り知れないほどの善を施して下さいました。御自分を全て与え尽くそうとされました。そして私たちを、罪を持った私たちがただその罪を赦されるのみならず、御自分の御血で、御自分の御体で養おうとさえもされました。
昔のギリシャ時代、あまりこの動植物の行動の近くに行って、望遠鏡もそんなになかったでしょうし、近くに行ってよく観察する事ができなかった時代には、その鳥が魚を取って来て子供に与えるとか、或いは虫を取って来て子供に与えるとか、或いはこのお母さんの口を開けてその子供が、小さな小鳥が口の中からお母さんの消化したような物を食べているのを見たりとかしましたけれども、ペリカンは昔の観察によると、どうもその振る舞いが、自分の体を傷付けて、メスのペリカンがその自分の心臓から流れる血を、子供のペリカンに与えているように観察されたのです。本当は違うのですけれども、「どうもそのようだ」と見ていて、それで「ちょうどそのペリカンのようだ。イエズス様はペリカンのようだ。他の食べ物を探して来て与えるのではなくて、自分の体で私たちを養おうとしているから」と。ですから時々、御聖体のシンボルとしてペリカンが描かれる時がありますけれども、実はそのような観察からなのです。
ですがたとえ動物が、この世界中の動物が自分の血を流して子供の為に養うという事がなかったとしても、天主はイエズス・キリスト様は、自分の御体と御血を以って、天主の体を以って私たちを養おうとされました。私たちといつもそのように近くにいて、いつも親密に生活したい、いつも私たちと日夜留まりたい、私たちの元に留まりたい、一緒にいたい、という願いの元に、何とパンとブドウ酒の形のもとに、その外見のもとに、私たちの元に本当に留まって下さっています。
色々な宗教という名前の付いているものがありますけれども、日本の山に登ると、恐ろしい形相をした鬼とか、そのような恐怖をおどろおどろしいものはありますけれども、イエズス様は私たちにそのようにかよわく、優しく、もっと近くに、近くに、そして私たちに愛と、私たちを愛する事を、どれほど愛しているかという事をお見せになさろうとされています。
一体そんなに私たちの事を愛して何の利益があったのでしょうか?イエズス様にとってどれほどの良い事があるのでしょうか?
イエズス様は無限の善ですから、更に何か良くなるとか、利益を得るという事はありません。ただひたすらに、御自分が良い御方であって、私たちに善を施したい、私たちに善を分け与えたい、ただそれだけの理由でそうされました。
もしも私たちの人間の本性を取ったのならば、それは私たちに天主の本性を与えようと、私たちを天主の如くしようと思われたからです。私たちが天主の命を生きる事ができるように、天主のように終わりなく幸せである事ができるように、三位一体のまどいに入る事ができるように、人間となりました。
もしも私たちの肉体をお取りになったとしたらば、その私たちと同じこの肉体を以って、祭壇の上で、この十字架の祭壇の上で、私たちの罪の償いとして、いけにえとして屠られる為でした。
もしも私たちと同じ血潮を御自分の体の中に流される事を望んだのならば、私たちの罪の償いとして、この天主の血潮を全て流す為でした。そして私たちの罪を全く洗い浄める為でした。私たちの罪の値として、悪魔の下にあった私たちを買い戻す為でした。
「このようなとてつもない天主様からの贈り物を感謝し、記念し、そしてその贈り物を受けた喜びを示したい」と教会が思ったのが、この御聖体の大祝日です。イエズス様は私たちと共に在し“エンマヌエル”、本当の真の天主、私たちを愛して、私たちの善だけを考えている真の天主、私たちの最大の恩人、私たちに全ての善を与え尽くす大恩人、このイエズス様から受けたそのとてつもない御聖体の恵みを、この世の終わりまで私たちと留まって下さるイエズス様のこの愛の恵みを、愛の秘蹟を感謝して、讃美して、そのそれを褒め讃える祝日が、御聖体の大祝日です。
この御聖体の制定によって、全被造物が天主様の憐れみを、私たちに対する憐れみを讃美しています。本当に蜜よりも甘い、巌なるイエズス様から流れ出る御聖体の血潮、蜜のような、子供に対する養う母の愛がますます伝わってきます。この御聖体を私たちに与える事によって、私たちがイエズス様の為に生き、イエズス様が聖父の為に生きているように、私たちもイエズス様の為に生きるように、そして私たちが永遠に生きる為の保証となるように、御聖体を下さいました。
このようなとてつもない大恩人に対して、もう自分を奴隷のように、自分を全てを与え尽くす王の王、主の主、全能の天主のその寛大な前に、私たちは何と畏れ多くお礼を申し上げて良い事でしょうか。
ところが見て下さい。そのような天主様の御聖体の愛の秘跡は、その巨大な贈り物は、感謝されるどころか却って無視されて、イエズス様が御自分を全く私たちに委ねたのを人々はいい事に、それを全く虐待し、踏み付けにし、唾し、イエズス様の愛を冒瀆と無関心と屈辱で返しています。イエズス様のこの愛は却って忘れられ、冷淡とそして瀆聖で返答されています、応えられています。
イエズス様のこの愛は信じられずに、イエズス様の御聖体の秘跡は信じられずに、無視されて、あたかも単なるパンであるかのように取り扱われています。御聖体がどれほど罪の状態で拝領されていたり、或いは無関心であったり、或いは冒瀆されている事でしょうか。
御聖体は、私たちを愛するが為に世界中の御聖櫃の中に真に留まり給うにもかかわらず、イエズス様の事を顧みる人はいません。人々は、残念ですけれども、携帯の前や、テレビの前や、映画館での行列やコンサートにはいっぱいになりますけれども、御聖体の前では冷たく、空っぽに、イエズス様を愛そうとする霊魂はますます数少なくなっております。イエズス様に一生を捧げようという霊魂もますます少なくなっております。それよりももっと面白おかしく、イエズス様の無い世界を、イエズス様の愛を全く無視して楽しみを追求しています。
その時に私たちはどうしたら良いのでしょうか?
三位一体の聖父と聖霊と聖子が、私たちの贖いの為に聖子イエズス・キリスト様を下さって、そして聖子は十字架の上に付けられながら御血を流す、そのビジョンを88年前にシスタールチアは見ました。御血は、脇から流れる御血はちょうどその御聖体の上に流れて、そしてその御聖体にかかった御血はポタポタとカリスの中に流れていました。まさにこれこそ、私たちの為に三位一体がどれほど愛の贈り物をしようとしているか、という事のビジョンでした。
私たちはちょうど、天使が教えてくれたお祈りを見ると、教会の精神と全く同じだという事が分かります。教会はこのイエズス様の贖いのその王冠として、三位一体の祝日と、御聖体の祝日と、イエズス様の聖心の祝日を祝おうと、連続して祝おうと望みましたけれども、ファチマの天使も、三位一体への礼拝、そして御聖体を私たちが、御体、御血、御霊魂、御神性を奉献する事、そしてイエズス様の聖心の無限の功徳をお捧げする、という事を私たちに教えてくれました。教会の教えと全く一致しています。
ですからこの特に今日この御ミサで、御聖体に対してなされている侮辱、冒瀆、無関心を償う為に、イエズス様のいけにえを天主聖父にお捧げする事に致しましょう。御聖体は御体と御血の2つにあります。これは奇跡的にいけにえの状態となって、イエズス様の御受難を永久に記念する状態となっています。ですからこの御聖体を捧げる事によって、私たちは無限の価値を、天主に罪の償いとして捧げる事ができるようになっているからです。
最後にマリア様にお祈り致しましょう。マリア様、特にファチマのマリア様に、汚れなき御心に、このマリア様の汚れなき御心の御取り次ぎによって、特に汚れなき御心に捧げられたこの教会においては、イエズス様のこの御聖体がいつも讃美せられて、感謝されて、そして礼拝されて、信じられ、愛され、そして大切に扱われますように。そしてこの私たちのこの拙い祈りによって、全世界中に在すイエズス様が、御聖体が、昔の通り愛され、信じられ、礼拝されて、讃美されて、多くの霊魂たちが天国に導かれますように、マリア様の特別のお祈りを乞い求めましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。