アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の霊的講話 「無原罪の御宿りと結婚について」の日本語訳をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
12月10日 大阪の説教
無原罪の御宿りと結婚について
親愛なる兄弟の皆さん、
「汚れのない」という言葉は、旧約聖書では六十回以上使われていますが、新約聖書では九回だけしかありません。旧約聖書ではしばしば、犠牲のいけにえの動物の必要条件の一つとして使われています。小羊は汚れのない状態でなければならず、天主に捧げられる動物は汚れのない状態でなければなりません。新約聖書では、この同じ意味で二回使われています。聖パウロはこう言います。「聖霊によって、汚れのないご自分を天主に捧げられたキリストの御血が、私たちの良心を死のわざから清めて、生きる天主に奉仕させ得ないであろうか」(ヘブライ9章14節)。また、聖ペトロはこう言います。「あなたたちが祖先から受け継いだむなしい生活から贖われたのは、金銀などの朽ちる物によるのではなく、汚れもなくしみもない小羊のような、キリストの尊い御血によることをあなたたちは知っている」(ペトロ前書1章18-19節)。
しかしながら、汚れのないという言葉は、新約聖書では結婚に関しても二回使われています。まさに結婚のミサで使われるエフェゾ人への書簡の中で、聖パウロはこう言います。「夫よ、キリストが教会を愛し、そのためにいのちを与えられたように、あなたたちも妻を愛せよ。キリストがいのちを捨てられたのは、いのちの言葉を伴った水を注ぐことによって教会を清め聖とするためであり、また汚れもしわもすべてそのようなもののない、輝かしく清く汚れのない教会をご自分に差し出させるためであった」(エフェゾ5章25-27節)。キリストと教会との結婚において、私たちの主イエズス・キリストは「汚れのない小羊」であるだけでなく、主の花嫁である教会もまた完全に清められて汚れのない状態になるように、主は御自らをお捧げになりました。
聖母は「汚れのない」状態という賜物を、無原罪の御宿りにおいて、そのいのちの最初からお受けになりました。教会は、終わりにはこの賜物を完全に持つことになるのです。「いのちの言葉を伴った水を注ぐこと」である洗礼によって、信者たちはすでに罪の状態から清められていますが、彼らはまだ完全な状態ではなく、不幸にもしばしば多くの人々が再び罪に落ちてしまい、悔悛の秘蹟によってもう一度清められなければなりません。大罪に陥ることは決してなかった幼きイエズスの聖テレジアのような最も素晴らしい人でさえも、依然として小罪がいくつかあるのです。しかし、終わりには、私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって、この清めが完全なものになります。聖人たちは、地上での艱難という清めのかまどを通っていき、あるいはその後に煉獄を通っていき、火で精錬された輝く黄金のようになるのです。
二回目は、聖パウロのヘブライ人への言葉です。「みな婚姻を尊び、寝床を汚れのないものとせよ。私通者と姦通者は天主に裁かれる」(ヘブライ13章4節)のであり、ここで「裁かれる」とは、聖書にある多くの表現のように、地獄行きの有罪宣告をされるということです。ですから、結婚において、清さ、貞潔が必要なのは明らかです。
実際、結婚による善の一つは貞潔の徳、清さの徳の実践です。私たちの現代世界は、結婚の行為の目的自体を見失ってしまっています。それはいのちの伝達です。いのちを伝達することによって、両親は非常に深遠な方法で天主とともに働きます。実際、子どもが二つの目を持ち、二つの手を持ち、二つの足を持つといったことを決めるのは両親でないことは明らかです。そう設計なさったのは天主です。天主はいのちの作者です。両親はいのちをつくるのではなく、自分たちが受けたものを伝達するだけです。両親は、自分たち自身の両親を通じていのちを受けたのですが、その両親たち自身もまた経路に過ぎなかったのであって、本源であったのではありません。究極的には、彼らはいのちを天主から受けたのであり、天主だけがいのちの作者です。
結婚の行為そのものにおいて親は天主とともに働くのですから、その行為は天主が設計なさったようにあるべきです。そして、天主はそれを子どもの善のために設計なさいました。すべての子どもは父親と母親を必要としますが、それは短い間ではなく、その後も長年にわたって両親を必要とします! それゆえに、天主は、いのちが一人の男と一人の女の生涯にわたる忠実な結合の中で伝達されるように設計されました。この結合が結婚です。結婚において、結婚の行為は善であり神聖であり、聖であるのです。
しかしながら、結婚以外では、この行為は不適切であり、重大な悪です。なぜなら、それは子どもから正当な両親を奪ってしまうことだからです。そして、これは事態をさらに悪化させ、最初は避妊によって、また多くの場合妊娠中絶に訴えることによって、しばしば完全に子どもを拒否することにつながるのです。男と女が天主とともに働くのを拒否するのです。非常に密接にいのちと結び付いたそのような問題で天主に逆らうことは、重い罪です。
結婚においてさえ、「貞潔」と呼ばれる一定の「節度」が必要です。両親が節制を実践すべき場合があります。それは病気の場合や出産前後などです。両親は、結婚がどんなことでも何をしてもいいという許可を受けたことと考えるべきではありません。結婚の行為を自然に逆らうものにするような不自然な行為がありますが、それは結婚においてさえも常に禁じられているのです。もっと普通にある避妊行為(そして明らかに妊娠中絶)は、天主が結婚の行為を設計なさった目的そのものに反する重い罪です。
清さに反するこれらの罪の根本には、多くの人々が結婚の行為に自己満足と快楽を求めているだけであるという事実があります。結婚の行為を天主が制定なさったその目的から切り離すがゆえに、非常に多くの無秩序と悪につながるのです。また、現代世界は、インターネットによるポルノの拡散によって状況をさらに悪くしてきています。
いったい、どうしたらいいでしょうか? 聖パウロの言葉を思い出しましょう。「みな婚姻を尊び、寝床を汚れのないものとせよ。私通者と姦通者は天主に裁かれる」(ヘブライ13章4節)。結婚の寝床は、結婚が清さと童貞を守って準備され、婚姻の儀式ののちには完全な忠実を続けるとき、汚れのないものとなります。ですから、ここにおいては、汚れのない生活の模範である聖母以上に大いなる助けとなる方はあり得ません。
そのような汚れのない生活は、非常に単純に要約できます。罪は問題外です! 決して罪とともに生活を始めてなりません! 決して罪の道で生活を始めてはなりません。罪に至るのを避けるだけでなく、罪を始めることさえ避けるのです。洗礼において、私たちはサタンを捨て、そのわざ(罪)を捨て、その誘惑(罪の機会)を捨てました。毎日、私たちは、このサタンを捨てること、すべての罪と罪の機会を捨てることを更新しなければなりません。毎日、私たちは、天主を選ぶことを、「仰せのごとくわれになれかし」(ルカ1章38節)と言われたマリア様とともに私たちの「fiat(なれかし)」を更新しなければなりません。
多くの人々が、罰せられることなく天主に対して罪を犯すことができると考えているように見えます。これは絶対に間違っています。すべての罪は、私たち自身の中に害をもたらし、私たちはそのために、結局苦しむことになるのです! そしてその害は、私たちが引き起こしたのです。私たちは、それについて天主に文句を言うことはできません。告解に行くことができさえすれば、すべての決着がつくと考えている人々がいますが、そうではありません。まだ、その害に対する償いをする必要があります! そしてそれは簡単ではありません! 聖母がなさったように、完全に罪を避ける方がずっと良いのです。聖母は完全に罪のないお方です。聖母の霊魂には、そんな害の一かけらさえもありません! それゆえに、聖母の生活は、天主の光と愛によって完全に満たされており、何の障害もありませんでした。聖母は、十字架のいけにえになることを選ばれた主のように、十字架の下で苦しまれなければなりませんでしたが、その苦しみは天主の愛に満ちていたため、宝石となるのです!
結婚生活においては、完全な忠実によって完全に罪を避けなければなりません。結婚前であっても、童貞を守ることによって罪を避けなければなりません。忠実な結婚への準備として童貞を守ることは、美しいことです。しかし、さらに美しい童貞性もあります。聖トマス・アクィナスは、貞潔には三つの段階がある、と教えています。第一の段階は、結婚した人々の結婚の貞潔であって、これは結婚における忠実そのものにあります。第二の段階は、配偶者を亡くした人々の貞潔であり、そして第三は童貞を奉献した人々の貞潔です。この第三の段階の人々は、「小羊の行くところにどこにでもついていく」(黙示録14章4節)のです。彼らは、より高い段階にある愛を、キリストと彼の教会との結婚という段階にある愛を探し求めるのです。彼らは「キリストの花嫁」なのです。
親愛なる兄弟の皆さん、結婚しているすべての夫婦のために、汚れなき童貞に祈りましょう。彼らが結婚を汚れのないように保ち、聖母に倣って、すなわち罪と妥協することなくこの貞潔の第一の段階を実践することができますように。若者たちのために祈りましょう。彼らが清さと童貞を守ってそのような良き忠実な結婚の準備をすることができますように。そして、さらに高い段階の愛、またさらに高い段階の天国での終わりなきキリストとの結婚を求める召命のために祈りましょう!
アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の霊的講話 「無原罪の御宿りと結婚について」の日本語訳をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
12月10日 大阪の説教
無原罪の御宿りと結婚について
親愛なる兄弟の皆さん、
「汚れのない」という言葉は、旧約聖書では六十回以上使われていますが、新約聖書では九回だけしかありません。旧約聖書ではしばしば、犠牲のいけにえの動物の必要条件の一つとして使われています。小羊は汚れのない状態でなければならず、天主に捧げられる動物は汚れのない状態でなければなりません。新約聖書では、この同じ意味で二回使われています。聖パウロはこう言います。「聖霊によって、汚れのないご自分を天主に捧げられたキリストの御血が、私たちの良心を死のわざから清めて、生きる天主に奉仕させ得ないであろうか」(ヘブライ9章14節)。また、聖ペトロはこう言います。「あなたたちが祖先から受け継いだむなしい生活から贖われたのは、金銀などの朽ちる物によるのではなく、汚れもなくしみもない小羊のような、キリストの尊い御血によることをあなたたちは知っている」(ペトロ前書1章18-19節)。
しかしながら、汚れのないという言葉は、新約聖書では結婚に関しても二回使われています。まさに結婚のミサで使われるエフェゾ人への書簡の中で、聖パウロはこう言います。「夫よ、キリストが教会を愛し、そのためにいのちを与えられたように、あなたたちも妻を愛せよ。キリストがいのちを捨てられたのは、いのちの言葉を伴った水を注ぐことによって教会を清め聖とするためであり、また汚れもしわもすべてそのようなもののない、輝かしく清く汚れのない教会をご自分に差し出させるためであった」(エフェゾ5章25-27節)。キリストと教会との結婚において、私たちの主イエズス・キリストは「汚れのない小羊」であるだけでなく、主の花嫁である教会もまた完全に清められて汚れのない状態になるように、主は御自らをお捧げになりました。
聖母は「汚れのない」状態という賜物を、無原罪の御宿りにおいて、そのいのちの最初からお受けになりました。教会は、終わりにはこの賜物を完全に持つことになるのです。「いのちの言葉を伴った水を注ぐこと」である洗礼によって、信者たちはすでに罪の状態から清められていますが、彼らはまだ完全な状態ではなく、不幸にもしばしば多くの人々が再び罪に落ちてしまい、悔悛の秘蹟によってもう一度清められなければなりません。大罪に陥ることは決してなかった幼きイエズスの聖テレジアのような最も素晴らしい人でさえも、依然として小罪がいくつかあるのです。しかし、終わりには、私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって、この清めが完全なものになります。聖人たちは、地上での艱難という清めのかまどを通っていき、あるいはその後に煉獄を通っていき、火で精錬された輝く黄金のようになるのです。
二回目は、聖パウロのヘブライ人への言葉です。「みな婚姻を尊び、寝床を汚れのないものとせよ。私通者と姦通者は天主に裁かれる」(ヘブライ13章4節)のであり、ここで「裁かれる」とは、聖書にある多くの表現のように、地獄行きの有罪宣告をされるということです。ですから、結婚において、清さ、貞潔が必要なのは明らかです。
実際、結婚による善の一つは貞潔の徳、清さの徳の実践です。私たちの現代世界は、結婚の行為の目的自体を見失ってしまっています。それはいのちの伝達です。いのちを伝達することによって、両親は非常に深遠な方法で天主とともに働きます。実際、子どもが二つの目を持ち、二つの手を持ち、二つの足を持つといったことを決めるのは両親でないことは明らかです。そう設計なさったのは天主です。天主はいのちの作者です。両親はいのちをつくるのではなく、自分たちが受けたものを伝達するだけです。両親は、自分たち自身の両親を通じていのちを受けたのですが、その両親たち自身もまた経路に過ぎなかったのであって、本源であったのではありません。究極的には、彼らはいのちを天主から受けたのであり、天主だけがいのちの作者です。
結婚の行為そのものにおいて親は天主とともに働くのですから、その行為は天主が設計なさったようにあるべきです。そして、天主はそれを子どもの善のために設計なさいました。すべての子どもは父親と母親を必要としますが、それは短い間ではなく、その後も長年にわたって両親を必要とします! それゆえに、天主は、いのちが一人の男と一人の女の生涯にわたる忠実な結合の中で伝達されるように設計されました。この結合が結婚です。結婚において、結婚の行為は善であり神聖であり、聖であるのです。
しかしながら、結婚以外では、この行為は不適切であり、重大な悪です。なぜなら、それは子どもから正当な両親を奪ってしまうことだからです。そして、これは事態をさらに悪化させ、最初は避妊によって、また多くの場合妊娠中絶に訴えることによって、しばしば完全に子どもを拒否することにつながるのです。男と女が天主とともに働くのを拒否するのです。非常に密接にいのちと結び付いたそのような問題で天主に逆らうことは、重い罪です。
結婚においてさえ、「貞潔」と呼ばれる一定の「節度」が必要です。両親が節制を実践すべき場合があります。それは病気の場合や出産前後などです。両親は、結婚がどんなことでも何をしてもいいという許可を受けたことと考えるべきではありません。結婚の行為を自然に逆らうものにするような不自然な行為がありますが、それは結婚においてさえも常に禁じられているのです。もっと普通にある避妊行為(そして明らかに妊娠中絶)は、天主が結婚の行為を設計なさった目的そのものに反する重い罪です。
清さに反するこれらの罪の根本には、多くの人々が結婚の行為に自己満足と快楽を求めているだけであるという事実があります。結婚の行為を天主が制定なさったその目的から切り離すがゆえに、非常に多くの無秩序と悪につながるのです。また、現代世界は、インターネットによるポルノの拡散によって状況をさらに悪くしてきています。
いったい、どうしたらいいでしょうか? 聖パウロの言葉を思い出しましょう。「みな婚姻を尊び、寝床を汚れのないものとせよ。私通者と姦通者は天主に裁かれる」(ヘブライ13章4節)。結婚の寝床は、結婚が清さと童貞を守って準備され、婚姻の儀式ののちには完全な忠実を続けるとき、汚れのないものとなります。ですから、ここにおいては、汚れのない生活の模範である聖母以上に大いなる助けとなる方はあり得ません。
そのような汚れのない生活は、非常に単純に要約できます。罪は問題外です! 決して罪とともに生活を始めてなりません! 決して罪の道で生活を始めてはなりません。罪に至るのを避けるだけでなく、罪を始めることさえ避けるのです。洗礼において、私たちはサタンを捨て、そのわざ(罪)を捨て、その誘惑(罪の機会)を捨てました。毎日、私たちは、このサタンを捨てること、すべての罪と罪の機会を捨てることを更新しなければなりません。毎日、私たちは、天主を選ぶことを、「仰せのごとくわれになれかし」(ルカ1章38節)と言われたマリア様とともに私たちの「fiat(なれかし)」を更新しなければなりません。
多くの人々が、罰せられることなく天主に対して罪を犯すことができると考えているように見えます。これは絶対に間違っています。すべての罪は、私たち自身の中に害をもたらし、私たちはそのために、結局苦しむことになるのです! そしてその害は、私たちが引き起こしたのです。私たちは、それについて天主に文句を言うことはできません。告解に行くことができさえすれば、すべての決着がつくと考えている人々がいますが、そうではありません。まだ、その害に対する償いをする必要があります! そしてそれは簡単ではありません! 聖母がなさったように、完全に罪を避ける方がずっと良いのです。聖母は完全に罪のないお方です。聖母の霊魂には、そんな害の一かけらさえもありません! それゆえに、聖母の生活は、天主の光と愛によって完全に満たされており、何の障害もありませんでした。聖母は、十字架のいけにえになることを選ばれた主のように、十字架の下で苦しまれなければなりませんでしたが、その苦しみは天主の愛に満ちていたため、宝石となるのです!
結婚生活においては、完全な忠実によって完全に罪を避けなければなりません。結婚前であっても、童貞を守ることによって罪を避けなければなりません。忠実な結婚への準備として童貞を守ることは、美しいことです。しかし、さらに美しい童貞性もあります。聖トマス・アクィナスは、貞潔には三つの段階がある、と教えています。第一の段階は、結婚した人々の結婚の貞潔であって、これは結婚における忠実そのものにあります。第二の段階は、配偶者を亡くした人々の貞潔であり、そして第三は童貞を奉献した人々の貞潔です。この第三の段階の人々は、「小羊の行くところにどこにでもついていく」(黙示録14章4節)のです。彼らは、より高い段階にある愛を、キリストと彼の教会との結婚という段階にある愛を探し求めるのです。彼らは「キリストの花嫁」なのです。
親愛なる兄弟の皆さん、結婚しているすべての夫婦のために、汚れなき童貞に祈りましょう。彼らが結婚を汚れのないように保ち、聖母に倣って、すなわち罪と妥協することなくこの貞潔の第一の段階を実践することができますように。若者たちのために祈りましょう。彼らが清さと童貞を守ってそのような良き忠実な結婚の準備をすることができますように。そして、さらに高い段階の愛、またさらに高い段階の天国での終わりなきキリストとの結婚を求める召命のために祈りましょう!
アーメン。