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ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」の第一 その三、内的生活とは何か?(続き)L'Ame de tout apostolat

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」の第一 その三、内的生活とは何か? の続きをご紹介いたします。


第七の真理 私はまじめに、恐れおののかねばならぬ。イエズスが私から、強く要求しておいでになる内的生活の度合いに、自分がまだ達していないのを思って。

 (一)――もし私が、イエズスのご生命に生きたいとの渇望を、ますます増大させることをやめるなら、――万事において、天主のみ心にかなうことを望ませ、どんなに小さな事がらにおいても、天主を悲しませることを怖れさせるこの渇望を、心から捨て去るならば、そのとき、私の内的進歩のあゆみは、とまってしまうだろう。
 さて、もし私が、この渇望を増大させるための手段を用いないなら、すなわち、朝の黙想、ミサ聖祭、秘跡および聖務日課、特別糺明および一般糺明、信心読書などを怠るなら、もしくは自分の過失によって、これらを十分に利用しないなら、そのとき私は、イエズスのご生命に生きたい、というこの渇望を、わざと枯らしてしまうのである。

 (二)―― もしも私が最少限の潜心 (recueillement) を持たず、そのために自分の用務にたずさわっている間でも清さのうちに私の心を保ってイエズスの御声を塞いでしまわないほどのかなり大きな寛大さを守らないなら、現れてくる死の要素を私に示し、これらの要素に対して戦うように私を招くイエズスの声を聴くことができなくなってしまう。

 さて、これを確保するための手段である典礼生活、射禱(とりわけ嘆願を含んだ)、霊的聖体拝領、天主の現存を考える修業、などを怠るなら、私はこの最少限の潜心さえ持つことができない。

 潜心がなければ、私の霊的生活に、小罪が、次から次へと、ふえてくる。そして、不幸にも、私はそれに気づかない。このなげかわしい状態を、ひたかくしにかくそうと、霊魂は、自分がその中におちこんでいる妄想さえ利用することを忘れない。信心は、実のいった実行的なものよりも、漠然とした理論的なものになってしまう。事業熱には取りつかれる。……これは、あきらかに、心の盲目である。そして、罪の責任と罰は、当然、私がこうむらねばならぬ。絶対に持っていなければならぬ潜心の不足によって、私はこの罪の原因を、自分で作りだし、それを養い、ながくたくわえていたからである。

第八の真理 私の内的生活は、せんじつめれば、“心の取り締まり”に帰着するだろう。「油断することなく、あなたの心を守れ。いのちの泉は、これから流れでるからである」(格言の書4・23)

 “心の取り締まり”とはほかでもない、私のすべての行動を監視して、それが起きるとすぐ、動機において、成就の過程において、これを毒することのできる不純なものが、いっさいはいりこまないように警戒する、ふだんの、また少なくともひんぱんの、こころづかいをいうのである。このこころづかいは、静かで、そわそわしない。たやすく実行でき、心の平安をみださないものではあるが、天主にたいする子供ごころの信頼にもとづいているから、いたって強固である。

 心の取り締まりは、精神の働きというよりむしろ、心と意志の働きである。おのれの義務をはたすために、心と意志を、いっさいのそくばくから解放し、自由にしてくれるものは、心の取り締まりである。

 心の取り締まりは、私の行動をそくばくしないばかりか、かえってこれを自由にし、完成する。なぜなら、それは、私の行動を、天主の霊にしたがって調整し、これを正しく導いて、身分上の義務に合致させてくれるからである。

 心の取り締まりは、いついかなるときも、実行できる修業である。それは私に、心の目をもって、現在の行動を監視させる。一つの行動でも、そのあらゆる部分を、それが生起するとたんに、しずかに、注意ぶかく眺めさせる。それは“Age quod agis” 「あなたが現在、なしつつあることをなせ」(他のことに気を取られてはならぬ、あなたの現在の仕事に専心せよ)という格言を、きちょうめんに守ることなのである。霊魂は、ちょうど歩哨(ほしょう)のように、自分の心のあらゆる動きに、心奥に生起するすべての現象に――感受する印象、意向、欲情、感情、心の傾きに――一言でいえば、内的、外的のすべての仕業、すべての思い、望み、言葉、行ないに、警戒の目を光らせている。
 心の取り締まりは、ある程度の潜心を要求する。
 注意の散漫な霊魂には、心の取り締まりはない。
 心の取り締まりの修業を、しばしば実行しているうちに、すこしずつ、その習慣が身につぃてくる。
 “Quo vadam et ad quid ? “ 「私はいったいどこへ行くのか? そして何のために?」
 イエズスは、このさい、何をなされるだろうか。イエズスが、私の代わりに、これをなされるとしたら、いったいどんなふうになされるだろうか。どんなお忠告を、私にしてくださるだろうか。ただいま、この瞬間、イエズスは何を、私に求めていらっしゃるのだろうか。――内的生活に飢えている霊魂は、自発的に、このような質問を、心にいだくのである。
 マリアをへてイエズスに行く――ということを知っている霊魂にとって、心の取り締まりは、いっそう容易であり、そのうえ、愛情のこもった修業となる。聖母によりすがることは、かれの心にとって、たえまない必要とさえなってくるからである。

第九の真理 霊魂が、イエズス・キリストを模倣しよう――まじめに、全面的に、そして愛情こめて、模倣しようと、心から烈しく望むとき、そのときイエズス・キリストは、霊魂の内部で、絶対の統治をお行いになる。だが、イエズス・キリストを模倣する過程には、いろいろの段階がある。

 (一)――霊魂は、いっさいの被造物にたいして、無関心となる。その被造物が、自分の気に入ろうと、入るまいと。……霊魂は、イエズスのお手本にならって、万事において、ただ天主のみ旨だけを、自分の行動の唯一の基準にする。「わたしが天からくだってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみ旨を行うためである」(ヨハネ(6・38)

 (二)――「キリストは、ご自身をよろこばせることは、なさらなかった」(ローマ15・3)
 霊魂は、おのれの自然の感情にとって、気に入らないもの、いやなものに、いっそう喜んで近づく。イエズス会の創設者・聖イグナチオが、その有名な『霊操』の一章「キリストのみ国」の中でいっている、“Agendo contra” 「万事において、おのれ自身に逆らって行動せよ」という境地が、このとき実現する。

 これはおのれの自我、おのれの自然的傾向に逆らう行為であって、そのめざすところは、キリストの清貧、その苦しみへの愛、その屈辱への愛を、なにものにもまさって模倣することにある。聖パウロの表現をかりるなら、霊魂は、このとき、「ほんとうにキリストを知る」(エフェゾ4・20)のである。

第十の真理 私が、どんなにみじめな罪びとだろうと、私が祈りたいと望み、また天主の恩寵に忠実でありたいと望みさえすれば、イエズスは私に、内的生活に立ちもどるためのいっさいの手段を、よろこんでお与えになる。そして、この内的生活のおかげで、私はイエズス・キリストの親友となり、私の霊魂のなかにあるかれのご生命を、ますます成長発展させることができる。そうだったら、この苦しい、困難な霊的試練の途上においてさえ、私はたえまなく、内心の喜悦を味わうことができる。かくて、イザヤ預言者の言葉が、私において、みごとに実現するのである。

  そうすれば、あなたの光りが暁のようにあらわれ出て、
  あなたは、すみやかにいやされ、
  あなたの義は、あなたの前に行き、
  主の栄光は、あなたのしんがりとなる。
  また、あなたが呼ぶとき、主は答えられ、
  あなたが叫ぶとき、
  「わたしは、ここにおる」と言われる。
  主は常に、あなたをみちびき、
  よき物をもって、あなたの願いを満ち足らせ、
  あなたの骨を強くされる。
  あなたは、うるおった園のように、
  水の絶えない泉のようになる。(イザヤ58・8~11)

 第十一の真理 天主が、もし私に、私の活動を、ただ私一個人の成聖のためばかりでなく、さらに使徒的事業のためにも活用することをお求めになるなら、そのときは、万事に先んじて、心の中に、次のような強い信念をかたち造らねばならぬ。
 「イエズスこそは、私のこの事業の生命でなければならぬ。イエズスはそれをお望みになるのだ!」と。
 私の努力だけでは、ダメである。絶対ダメである。
 「わたしから離れては、あなたがたは何ひとつできないのだ」(ヨハネ15・5)
 私の努力が、りっぱな実を結ぶための、また天主に祝福されるための、唯一の条件は、それが、ほんとうの内的生活によって、イエズス・キリストの万物を生かす天主的ご活動に、たえまなく一致していることである。そうすれば、私のつたない努力でも、じつに全能のちからをおびるのだ。「わたしは、わたしを強くしてくださるかたによって、何ごとでもすることができる」(フィリッピ4・13)
 だから、もし私の努力が、高慢な自負心から生まれているなら、もしそれが、各自身の才能と力量にたいする過度の自信から、または成功だけをこいねがう功名心の一念から出ているなら、それは天主から排せきされるにきまっている。
 天主の栄光から、その幾分かを奪い取り、これをもって、おのれをかざろうとするのは、私にとって、ゆるすべからざる汚聖の罪ではないだろうか。
 「キリストを離れては、自分は何もできないのだ!」この信念が、霊魂の活動を、よわよわしく消極的にすると思ったら、大まちがいだ。かえって、これを強壮にし、男性的にする。
 この信念こそは、私の“力”である。この信念があればこそ、謙遜を修得するためのに、どんなにか、祈りの必要を、痛感することだろう。
 謙遜こそは、霊魂の宝である。天主のお助けの確証である。事業成功への保証である。

 この点、最も大切な根本原理である。このことを、身にしみてさとった上は、心霊修業のあいだに、次の諸事項を、まじめに検討して、自己反省をしなければならぬ。
 私の活動は、単独では超自然的にゼロである。だがしかし、それがイエズス・キリストの天主的ご活動に合流されるときは、全能のちからをおびる――というこの信念が、私のうちに、よわくなってはいないか、どうか。

 はたして、私は、いっさいの自己満足と虚栄を、――わが使徒的活動において、その成功をおのれに帰せようとするいっさいのウヌぼれを、私の心から、なさけ容赦もなく、追放しているか、どうか。

 はたして、私は、自分自身にたいして、絶対の不信用をおいているか、どうか。

 自分の事業を生かしてくださるように、また、天主のお助けにとって第一の、そして根本的障害となる高慢から、自分を救ってくださるようにと、はたして私は、天主に祈っているか、どうか。
 上の事がらを、まじめに反省してみることだ。

 これこそは、内的生活の“信条”なのだ。これが、霊魂にとって、その存在の土台となるとき、霊魂はすでにこの世ながら、天国の幸福にあずかるだろう。

 内的生活こそは、天国の永遠の幸福に予定された人びとの生活である。

 内的生活こそは、天主が人類を創造するにあたっていだいておられた、人間の終局の目的に、ピッタリ即応する生活なのである。
 それはまた、天主の御ひとり子のご托身の目的にも、りっぱにそっている。「天主が、その御ひとり子を、世におつかわしになったのは、わたしたちを、かれによって、生きさせるためである」(ヨハネⅠ 4・9)

 内的生活こそは、人間が心のそこから願いもとめる、最高の幸福の状態なのである。
 「人間の終局の目的は、天主と一致することである。ここにこそ、人間の幸福は存するのだ」
 聖トマス・アクィナスが、こう言っている。
 内的生活のよろこびは、地上の歓楽とはちがって、たとえ外部にはイバラのとげがあっても、内部にはいつも、幸福のバラが咲きみだれている。
 「この世の歓楽をのみ追及する人びとは、あわれである。その姿は痛ましい……」アルスの聖司祭が、こういっている。「かれらは、裏にイバラのとげのあるオーバーを着ている。すこしでも身を動かせば、肩がチクチク痛む。これに反して、まことのキリスト信者は、やわらかい毛皮のついたオーバーを着ている」
 世人は、「十字架だけを見つめて、その背後にかくされている、なぐさめと喜びを見ない」(聖ベルナルド)

 内的生活こそは、天国の生活である。霊魂は、生ける天国となるのだ[1]。
 聖女マルガリタ・マリアのように、かれもまた、こう歌うことができよう――
  
われは、いつでも所有する、われは、いずこにも持ち運ぶ、
わが心の天主を、わが天主の聖心を。

Je possède en tout temps et je porte en tout lieu
Et le Dieu de mon coeur et le Coeur de mon Dieu.

 これこそは、聖トマス・アクィナスが言っているように[2]“永遠の幸福の開始”“Inchoatio quaedam beatitudinis” でなくて、なんであろう。
 まことに、成聖の恩寵こそは、地上における天国の芽ばえなのだ。

[1] Semper memineris Dei, et coelum mens tua evadit (St. Ephrem). Mens animae paradisum est, in qua, dum coelesitia meditatur, quasi in paradiso voluptatis delectatur (Hug. a Sancto Victore).
[2] 2a 2ae, qu. 180. art. 4.

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