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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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私たちの主イエズス・キリストの御復活おめでとうございます!

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アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様!
私たちの主イエズス・キリストの御復活の慶びを申し上げます!アレルヤ!
大阪では、復活の徹夜祭を行いました。この恵みを天主に、聖母に、深く感謝いたします。






今日は、東京では、三回の復活祭のミサがあります。
天主に感謝いたします!
天の元后慶び給え、アレルヤ!御身に宿り給いし者は、アレルヤ
宣(のたま)える如くよみがえり給えり!アレルヤ
われらのために天主に祈り給え!アレルヤ
童貞マリア喜び、また歓び給え!アレルヤ主まことによみがえり給いたればなり!アレルヤ!

今日の4月12日復活の主日、東京のミサの会場にご注意ください

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!
東京では、今日の4月12日復活の主日のミサの会場が、いつもとは別の場所に変更になりました。ご注意ください!
Special Mass Location-0412.pdf - Google ドライブ

東京都台東区入谷1-27-4 プラーズ入谷 『入谷ホール』の三階です。
お間違えないようにご注意ください!
以下は、一人言です。
叙階以来、27年間、聖ピオ十世会では毎月のように韓国で聖伝のミサを捧げてきました。
しかし、コロナの為にもう2ヶ月それができなくなっています。
昨晩、ソウルの教友が懐かしい写真を送ってくれました。霊魂たちは渇望している、と。
















主よ、憐れみ給え!
では、愛する兄弟姉妹の皆様!
東京の復活祭のミサで、また、夕方の大阪での復活祭のミサで、お会いいたしましょう!
東京でのミサ会場にご注意ください!
天主様の祝福が豊かにありますように!

御復活の主日のミサ聖祭 2020年4月12日 東京

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アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様!
改めて、私たちの主イエズス・キリストの御復活のお慶びを申し上げます!
東京では、三回の聖伝のミサお捧げいたしました。
素晴らしいことに、均等に参加者が分散してミサに与ることができました。
午前9時からのミサは、生中継されました。詳しくは、ここをご覧下さい。Facebook livehttps://www.facebook.com/arata.nunobe

ミサの間にはお説教がありませんが、別途、メッセージを録画しました!😅やはり、こちらをご覧下さいね。Facebook livehttps://www.facebook.com/arata.nunobe

午前11時のミサの写真を御紹介いたします。








おまけ 今朝の新大阪駅です



今朝の富士山










復活の主日には、東京ではミサを三回、大阪では一回捧げることができました

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アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様!
復活の月曜日です!
復活の主日には、東京ではミサを三回捧げることができました!その為に、朝早くから会場作り、ミサの準備、連絡、録画、片付け、プリント、その他多くのお仕事を惜しまずお手伝いしてくださった多くの兄弟姉妹に感謝いたします!
東京では、: 53人(内、子供8人)の兄弟姉妹の方々が復活の主日のミサに与りました。天主に感謝いたします!
大阪では、29名の方々が復活の主日のミサに参加しました!
以下に御紹介いたします報告の通り、み摂理で、兄弟姉妹の皆様はそれぞれのミサに均等に与りました。朝9時のミサは、まだ余裕があるように感じております。
東京では、まだ洗礼は受けておられないけれどもミサに与り熱心にお祈りされている方々が、私の知る限り、五名いらっしゃいました。
また、この機会に、新しいお友達とも知り合いになれて幸福です。
愛する兄弟姉妹のしもべは、マニラの修道院に戻れなくなっておりますので、しばらく日本では復活の主日のような時間と場所(東京と大阪)で、毎主日に聖伝のミサを捧げる予定です。
毎週主日に愛する兄弟姉妹の皆様とミサでお会いできると思い、喜びに溢れております。
全世界で苦しんでいるこの瞬間、愛する兄弟姉妹の牧者として、すぐ近くにいることができ、感謝でいっぱいです。
天主に感謝!
【報告】【東京】Dear Fr Onoda:
今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。
09:00のミサ男: 12人(内、子供0人)女: 7人(内、子供0人)計: 19人(内、子供0人)
11:00のミサ男: 12人(内、子供4人)女: 12人(内、子供4人)計: 24人(内、子供8人)
12:30のミサ男: 5人(内、子供2人)女: 16人(内、子供4人)計: 21人(内、子供6人)
3回のミサの合計(ダブルカウントの11人を除く)男: 24人(内、子供4人)女: 29人(内、子供4人)計: 53人(内、子供8人)
⇓は、大阪の聖母の汚れなき御心聖堂での写真です。










日本では毎週主日に聖伝のミサがあります!東京(午前中三回)大阪(夕方)の予定です

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アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様!
天主様の御憐れみと、聖母マリア様の優しい取り次ぎで、今後しばらくは、コロナウイルスの終息を待ちつつ、東京と大阪では毎週の主日(日曜日)に、復活祭のような時間と場所で、聖伝のミサが捧げられる予定です。
東京住所: 東京都台東区入谷1-27-4 
会場の名前:プラーズ入谷 『入谷ホール』

大阪「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階 〒532-0002 (アクセス)JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分(地図

よろしくお願いいたします!

大阪での聖週間の典礼2020年 報告

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アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様!
こんにちは!
東京のミサに与っておられる方や、大阪で与っておられる方からお便りや、大阪の聖週間の報告をいただきました。愛する兄弟姉妹の皆様に御紹介いたします。
【報告】Regina Caeli laetare, Alleluia !
小野田神父様御復活おめでとうございます。いつも御ミサや沢山のお祈りを、どうも有難うございます。
自粛モードで御ミサに与れず残念ですが、ネットを探しておりましたら今日の御ミサがライブでアップされておりました。感謝です。
https://www.facebook.com/arata.nunobe

YouTube SSPX Japan
【報告】【大阪】アヴェ・マリア・インマクラータ!
聖週間のミサの報告をお送り致します。簡単ですみません。
大阪で初めて聖週間を迎えることが出来、大きなお恵みに感謝しています。
四旬節に入り、特に御受難節を迎えてからはイエズス様の御受難の黙想に集中していました。
枝の主日がら、毎日御受難の聖福音が読まれるごとに私達を罪の奴隷から救うために十字架上でいけにえとなられたイエズス様の愛に、感謝という言葉では言い表せない思いと、自分の罪がイエズス様を鞭打ったり、侮ったりした事への痛悔で、体も心も 何かに締め付けられていました。
しかし、聖土曜日のミサからは自分では意識しないのに霊魂が喜びに満たされるというか、昨日までの思い感覚が一辺し、ご復活の歓びを味わう事ができました。
聖木曜日の典礼ではミサの後、ご聖体が別の祭壇へ運ばれ、聖堂の祭壇の布が全て取り去られて祭壇の白木がむき出しになったのを見て、イエズス様が御衣をはぎとられた事を黙想しました。祭壇布を剥ぐ間に歌われた交誦を読みながら、旧約の予言が成就していく様を見ているようでした。ご聖体が安置されていない聖堂は、殺風景で淋しく、空気が一変しました。
聖金曜日の荘厳典礼の第三部十字架の礼拝ではコロナ対策のため、信徒の十字架への接吻は出来なくて残念でしたが、心の中で愛をこめてマリア様を通して接吻させて頂き、同時にカトリック信者の印が「十字架」であるという事を確認いたしました。
聖土曜日には洗礼の約束の更新が出来たことがとてもよかったです。復活前日の荘厳ミサで、グロリアが始まると同時に鐘とベルが一斉にならされてイエズス様のご復活が感動的に表されました。
ご復活のミサには多くの侍者がいらしたので、ミサが一段と荘厳で、美しく感じられました。受けた沢山のお恵みを使って、イエズス様を益々お愛しし、マリア様の良き忠実な奴隷となる事ができるようになりたいです。
聖週間の典礼は見事に私達をご復活の歓びへと準備させてくださるもので、教会の美しい偉大な財産だと思います。日本中で、世界中で、この遺産が受け継がれていきますように!!

至聖なる イエズスの聖心我らを憐み給え聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え












聖木曜日のイエズス様の燃えるような思いは、御聖体の秘跡を世の終わりまで続けるカトリック司祭職制定だった

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2020年4月9日(木)聖木曜日 最後の晩餐のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教

“Desiderio Desideravi”「私は、この過越を食べる事を、望みに望んだ。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、イエズス様は、この地上での生活の最後の瞬間、御自分がお持ちになっている私たちに対する愛を、お見せになろうとされました。特に、御自分の司祭たちに持つ愛を、お見せになろうとしました。
「私が苦しむ前に、あなたと一緒に、この過越を食べる事を望みに望んだ」と言われます。
何回か弟子たちと過越を食べたはずですけれども、イエズス様が望んだのは、特にこの今晩の過越でした。一体なぜ?
なぜかというと、この夜こそ、「御聖体の秘跡」を制定しようと望まれたからです。御自分を全く完全に、私たち人間に与え尽くそうと思われます。しかも、パンと葡萄酒の外見のもとに、御自分を食べ物として、新約のマンナとして、私たちの霊魂を、御自分の肉体と尊き御血で養おうとする為に、今日この聖なる夜に、御聖体の秘跡を制定されました。
イエズス様の聖心の計り知れない、想像を超えるような、愚かなほどをも私たちを愛する愛。
今日この夜、最後の晩餐のミサで、これを見る事ができます。
しかし、イエズス様の聖心の望みはそれだけでは終わりませんでした。もっと夢がありました。
イエズス様の燃えるような熱い思いは、この御聖体の秘跡を世の終わりまで続ける、「司祭職」を制定する事でした。
自分の弟子たちを、永遠の聖なる新約の司祭職、天と地を繋げる橋として、天使たちの階級よりも更に高いものとして、御自分と全く似たものとする事を御望みになりました。
しかも、あたかもイエズス様が奴隷であるかのように、全くカトリックの司祭たちに依存して、服従して、司祭が望むままに、御自分が取り扱われる事さえも御望みになりました。
御自分を、この儚い人間の手に、司祭の聖別された手に、依存しようと思われました。
イエズス様はこの夜、御自分が、天主性と人間性が一致したこのヒュポスタシスにおける結合、この御恵みを、特別に愛された弟子たちに、カトリックの司祭に、この御恵みを分け与えようとされました。
そうです、今日、カトリックの司祭が、その叙階式が、初めて行なわれました。カトリック司祭職の誕生です。
四旬節の黙想のクライマックスに入ります。イエズス様の私たちに対する永遠の愛、特に選ばれた司祭たちに対する愛が、ここに滲み出ます。イエズス様は言われます、「もう、お前たちをしもべとは言わない。友と呼ぶ」と。
イエズス様のこの聖心の愛、この中に深く入りましょう。
「私はこのパスカを、この過越を、お前たちと食べる事を望みに望んだ。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。





聖ピオ十世会 聖伝のミサ 報告 2020年復活祭

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アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様!
ミサの御報告をいただきましたので、御紹介いたします。
【報告】【大阪】ご復活の御ミサに与りました。お疲れのはずの小野田神父様が御ミサ中、白く輝いてみえ、本当にイエズス様がご復活なされて、この地上にたくさんのお恵みを私たちにあたえてくださってるように思いました。神父様のお説教にもありました、天国への最短である素晴らしい御ミサに、聖週間から与ることができ、心から感謝致します。
もっと細かくたくさん心に残ることはあるのですが、今はただただ希望と喜びに満ち溢れた日をお祝いすることができて、天主様の御憐れみに感謝致します!
そして、天主の御母聖マリア様が、ご復活されたイエズス様にお会いしてどれだけ喜こばれたかを黙想しながら、これから時間を過ごそうと思います。
【報告】アヴェ・マリア・インマクラータ!アレルヤ!
こんにちは!
イエズス様の聖心は、どれほどこの司祭を愛されているか、そしてこの司祭からの愛をどれほど求めておられるか、という事が、この聖週間を通して更に実感する事ができたように思います。
やはり、司祭が共に居て下さるお祈り、そしてこの典礼行為というのは、私たち平信徒がするお祈りとはレベルが違いすぎて比較にならないほど、天主様イエズス様の御前では非常に力強いものなのだと感じました。







2020年4月11日(土)復活の徹夜祭のミサ 聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教

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2020年4月11日(土)復活の徹夜祭のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日のこの最も聖なる夜、私たちの主イエズス・キリストは、人となった真の天主は、私たちの為に真に復活されました。
死と、罪と、地獄に勝利し、そして私たちに、その勝利の喜びを分かち与えようとされています。この喜びを共に、イエズス様と共に致しましょう。
イエズス様は、すぐにマリア様に御現れになって、その勝利を分かち合いました。マリア様と共に、この喜びを祝いましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。





イエズスは、真の天主として、御自分の力によって復活された。 何故か?

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2020年4月12日(主日)復活祭のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、主の、私たちの主イエズス・キリストの御復活のお慶びを申し上げます。
本来ならば、コロナ対策で私は御説教を控えなければならないのですけれども、今日は遠くから、特に小さなお友達、私たちの大切な友人たちが来てくれたので、一言、直接、直に言うのを許して下さい。
今日、本当ならば皆さんと一緒に、復活祭のパーティーとかお祝いをしたいのですけれども、それもできませんが、その代わりに、ミサの後の感謝の祈りが終わったら、終課をその代わりに10分ほど歌って、それで解散としたいと思っています。
それからもう1つのお知らせは、私がフィリピンに戻る事が今できなくなっているので、これから毎週主日に、夕方18時からミサが大阪である予定です。いらして下さい。
愛する兄弟の皆さん、私たちの主イエズス・キリストは、本当に、現実に、嘘偽りなく、復活しました。
そしてその事を証明する為に、御自分の復活された体を以って、ユダヤ人たちを恐れて隠れてドアを全く閉め切っていた、3つの密に満ちていた弟子たちに、ブルブル震えていた弟子たちの中にやって来て、「お前たちに平和!」そして御自分が本当に復活された、という事を証明してみせました。
これから40日間、続けて弟子たちに現れます、「本当に復活した」という事を証明します。
イエズス様は私たちの真の天主として、この世の創り主として、御自分の力によって復活されました。
何故でしょうか?
何故かというと、この復活の勝利を、死と、地獄と、悪魔と、罪に打ち勝った、という事を私たちに、この喜びを分かち合う為です。
私たちに、御自分の持っている大勝利の喜びと、平和と、そして栄光を、私たちに「ただ与えたい」と思っているからです。
そしてその為に至る唯一の道が、「十字架の道」です。ですから私たちにとって、十字架というのは、非常に大切なのです。
イエズス様も復活された後に言いました、エンマウスの弟子たちに言いました、「あぁ、何と愚かな者か、心が鈍い者か。キリストは、苦しみを受けて栄光に入るべきではなかったのか」と。
私たちも栄光に入る事に招かれていますが、その唯一の道は、十字架です。
ところで、私たちにとって、最も簡単で、最も優しい近道があります。それは「ミサ聖祭」です。
なぜかというと、ミサにおいては、私たちの主の十字架が、御受難が、そのまま再現されるからです。イエズス様の御体と御血が、聖変化によって全く分離して、「イエズス様が屠られた」という事が、秘跡的に実現するからです。私たちの目の前で起こるからです。
ミサほど大きな、私たちにとって大きな御恵みはありません。このミサに与れば与るほど、私たちは十字架の祝福を、恵みを、たくさん受けるからです。
このミサが、この世界中で挙げられなければなりません。そうすればそうするほど、多くの人が、天国に早く、簡単に、行く事ができるようになるからです。そして、より多くの栄光に導かれるからです。
その為には、私たちには、「聖なるカトリックの司祭」が必要です。多くの、聖伝の信仰を守る聖伝のカトリックの司祭がたくさん、この世界中に溢れるほど必要です。
ですから今日、この復活祭に、ぜひ多くの司祭が与えられますように、聖なる司祭がたくさん与えられますように、そして特にこの日本の地から、殉教の血で満たされたこの地から、多くの聖なるカトリック司祭が生まれますように、イエズス様にお祈りしましょう。
マリア様に、カトリック司祭の母である、イエズス様の大司祭の母であるマリア様にお願いしましょう。どうぞ、私たちに聖なる司祭を、多くの聖なる司祭を送って下さい。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



今日の富士山

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アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様!
こんばんは!今日の富士山を御紹介いたします。






私たちの主イエズス・キリストの聖像を聖骸布による復元像と比較する

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アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様!
私たちの主イエズス・キリストの聖像をいくつか御紹介いたします。聖骸布による復元像と比べてみて下さいね。






以下は、聖骸布に基づく復元像













今日は、ベネディクト十六世の93歳の誕生日です。

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アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様!
今日は、ベネディクト十六世の93歳の誕生日です。
引退教皇様の為にお祈りいたしましょう。
次は二年前の記事です。Pope Emeritus Benedict XVI celebrates his 91st birthday - Vatican NewsApril 16 marks Pope Emeritus Benedict XVI's 91st birthday. He will be spending the day quietly in the 'Mater Ecclesia' Monastery in the Vatican, ...
Pope Emeritus Benedict XVI celebrates his 91st birthday - Vatican News












2020年4月19日(主日)前後の聖伝のミサの予定:Traditional Latin Mass for the weekend of April 19, 2020

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今週末:2020年4月17日(金)18日(土)19日(主日)のミサの予定を再確定します。予定通りです。

【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階 〒532-0002 (アクセス)JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分(地図

 4月17日(金)  復活の金曜日(1級)白 17:30 ロザリオ及び告解  18:00 ミサ聖祭

 4月18日(土)  白衣の土曜日(1級)白 10:00 ロザリオ及び告解  10:30 ミサ聖祭

 4月19日(日)  白衣の主日(1級)白 17:30 ロザリオ及び告解  18:00 ミサ聖祭

 4月20日(月)  平日(4級)白  6:30 ミサ聖祭

【東京】 東京では4月12日(日)から会場をしばらく変更します。

住所: 東京都台東区入谷1-27-4 
会場の名前:プラーズ入谷 『入谷ホール』  Special Mass Location-0412.pdf - Google ドライブ

4月19日(日)白衣の主日(1級)白 ミサが三回捧げられます。

09:00 ミサ聖祭 歌ミサ(ライブ中継をいたします)Facebook live

https://www.facebook.com/arata.nunobe

11:00 ミサ聖祭 読誦ミサ
12:30 ミサ聖祭 読誦ミサ

【お互いに社会的距離を取ることができるように、分散してミサにあずかっていただければ幸いです。9:00のミサには比較的に参加者が少ないことが予想されるので、なるべく9時のミサにいらしてください。】

【お知らせ】

来月に予定されていた 「聖ピオ十世会日本公式秋田巡礼」は、新型コロナウイルスの感染拡大回避のための緊急事態宣言が発令され、巡礼はその対応期間となってしまったために、状況を鑑みて、延期とさせていただきます。楽しみにしておられた愛する兄弟姉妹の皆様におかれては、大変申し訳ございません。ご理解と御譲歩をよろしくお願いいたします。

Ave Maria Immaculata!

My dearest Brethren!

I want to reconfirm the Mass schedule for the weekend of April 19, 2020.

Mass times in Tokyo:   09:00 - Sung mass 11:00 - Low mass 12:30 - Low mass   Mass location: Iriya Hall 3F Address: Plars Iriya 3F, 1-27-4, Iriya, Taito-ku, Tokyo (near Metro Iriya, JR Uguisudani and JR Ueno stations) Map and directions: Please see the pdf file. Special Mass Location-0412.pdf  

Mass schedule in OSAKA:

Fri, April 17 : Holy Sacrifice of the Mass at 18:00

Sat, April 18 : Holy Sacrifice of the Mass at 10:30

Sun, April 19 : Holy Sacrifice of the Mass at 18:00

Mon, April 20 : Holy Sacrifice of the Mass at 06:30

 

 

 

 

 

2020年4月19日(主日)白衣の主日(一級大祝日)聖伝のミサの羅和対訳テキストをご紹介いたします

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 来る4月19日(主日)は、白衣の主日(一級大祝日 白)です。聖伝のミサの羅和対訳テキストをご紹介いたします。

白衣の主日にも、東京と大阪で聖伝のミサがあります。詳しくは、ここのページをご覧ください

ミサ聖祭 ご復活の祝日八日間の主日である。
 白衣の主日といわれるのは、ある地方で、新受洗者が白衣を本日脱いだからである。
 新信者の受けた信仰をつよめ、慰めるために、ヨハネは〈書簡〉の中で、「成聖の聖寵によって天主の子となった者は、この世に勝った」といっている。すなわち、キリストの神性をみとめ、その教えを守ることにおいて、この世に勝つのである。

【参考資料】 「私たちは赤子である、赤ちゃんである、また、今日は、私たちは使徒聖トマスになる、遅れて来たそのトマスになる」

また、この日は、全てがうまくいけば、フランスでは、聖ピオ十世会のシスター会の修練院で一名の日本人女性の着衣式がある予定です。
また、同じく、アメリカのミネソタ州のイエズスの聖心修練院で、一名のフィリピン人修道女が終生誓願を立てます。愛する兄弟姉妹の皆様のお祈りをお願いいたします。

Dominica in Albis in Octava Paschæ 復活の八日間の白衣の主日 I Classis 一級大祝日 Statio ad S. Pancratium 指定巡礼聖堂 聖パンクラツィオ聖堂 Ant. ad Introitum. 1. Petri 2, 2. 入祭文 ペトロ前 2ノ2 Quasi modo géniti infántes, allelúia : rationabiles, sine dolo lac concupíscite, allelúia, allelúia allelúia. 新たに生まれたみどりごのように、アレルヤ :まじりなき霊的な乳をのぞめ、アレルヤ、アレルヤ、アレルヤ。 Ps. 80, 2. 詩篇80ノ2 Exsultáte Deo, adiutóri nostro : iubiláte Deo Iacob. よろこびをもって、われらの救いなる天主を賛美せよ、ヤコブの天主をたたえよ。 V/.Glória Patri. 願わくは、聖父と……。(栄誦) Quasi modo géniti infántes, allelúia : rationabiles, sine dolo lac concupíscite, allelúia, allelúia allelúia. 新たに生まれたみどりごのように、アレルヤ :まじりなき霊的な乳をのぞめ、アレルヤ、アレルヤ、アレルヤ。 ¶ Dicitur Glória in excélsis in hac et sequéntibus Dominicis post Pascha, etiam quando infra hebdomadam adhibetur Missa Dominicæ præcedentis. ¶復活祭の後のこの主日とそれに続く主日では、平日に先行する主日のミサを執行する時も、グロリアを唱える。 Oratio. 集禱文 Præsta, quǽsumus, omnípotens Deus : ut, qui paschália festa perégimus, hæc, te largiénte, móribus et vita teneámus. Per Dóminum. 全能の天主よ、願わくは、復活の祝日らを行い尽くした我らが、御身が聖寵を与え給い、これら[=復活の祝日ら]を行いと生活とによって保たんことを。天主として、(…)。 Léctio Epístolæ beáti Ioannis Apóstoli. 使徒聖ヨハネの、書簡の朗読 1. Ioann. 5, 4-10. ヨハネ第1書、5ノ4-10 Caríssimi : Omne, quod natum est ex Deo, vincit mundum : et hæc est victoria, quæ vincit mundum, fides nostra. Quis est, qui vincit mundum, nisi qui credit, quóniam Iesus est Fílius Dei ? Hic est, qui venit per aquam et sánguinem, Iesus Christus : non in aqua solum, sed in aqua et sánguine. Et Spíritus est, qui testificátur, quóniam Christus est véritas. Quóniam tres sunt, qui testimónium dant in cælo : Pater, Verbum, et Spíritus Sanctus : et hi tres unum sunt. Et tres sunt, qui testimónium dant in terra : Spíritus, et aqua, et sanguis : et hi tres unum sunt. Si testimónium hóminum accípimus, testimónium Dei maius est : quóniam hoc est testimónium Dei, quod maius est : quóniam testificátus est de Fílio suo. Qui credit in Fílium Dei, habet testimónium Dei in se. 愛する者よ、天主から生まれたものは、世に勝つ。世に勝つ勝利は、すなわち私たちの信仰である。イエズスが天主の子であると信じる者以外に、だれが世に勝てるであろうか。水と血とによってこられたのは、イエズス・キリストである。ただに水だけではなく、水と血によってである。それを証明するのは、霊である。霊は真理だからである。果して、証明するものは三つある。天においては、おん父とみことばと聖霊、この三つは一致する。地において証明するのは三つ、霊と水と血である。この三つは一致する。もし私たちが人間の証明をうけいれるなら、天主の証明はそれにまさっている。天主の証明とは、そのみ子について証明されたことである。天主の子を信じる者は、自分の内に天主の証明をもつのである。 Allelúia, allelúia. V/. Matth. 28, 7. In die resurrectiónis meæ, dicit Dóminus, præcédam vos in Galilǽam. アレルヤ、アレルヤ、V/.(マテオ、28ノ7)主は言い給う。私の復活の日に、私はおまえたちに先立ってガリレアに行く。 Allelúia. V/. Ioann. 20, 26. Post dies octo, iánuis clausis, stetit Iesus in médio discipulórum suórum, et dixit : Pax vobis. Allelúia. アレルヤ。V/.(ヨハネ、20ノ26)八日ののち、門が閉じられていたのに、イエズスは御自分の弟子らの真中に立ち、「あなたたちに平安」といい給うた。アレルヤ。 + Sequéntia sancti Evangélii secúndum Ioánnem. ヨハネによる聖福音の続誦 Ioann. 20, 19-31 ヨハネ 20ノ19-31 In illo témpore : Cum sero esset die illo, una sabbatórum, et fores essent clausæ, ubi erant discípuli congregáti propter metum Iudæórum : venit Iesus, et stetit in médio, et dixit eis : Pax vobis. Et cum hoc dixísset, osténdit eis manus et latus. Gavísi sunt ergo discípuli, viso Dómino. Dixit ergo eis íterum : Pax vobis. Sicut misit me Pater, et ego mitto vos. Hæc cum dixísset, insufflávit, et dixit eis : Accípite Spíritum Sanctum : quorum remiseritis peccáta, remittúntur eis ; et quorum retinuéritis, reténta sunt. Thomas autem unus ex duódecim, qui dícitur Dídymus, non erat cum eis, quando venit Iesus. Dixérunt ergo ei alii discípuli : Vídimus Dóminum. Ille autem dixit eis : Nisi vídero in mánibus eius fixúram clavórum, et mittam dígitum meum in locum clavórum, et mittam manum meam in latus eius, non credam. Et post dies octo, íterum erant discípuli eius intus, et Thomas cum eis. Venit Iesus, iánuis clausis, et stetit in médio, et dixit : Pax vobis. Deinde dicit Thomæ : Infer dígitum tuum huc et vide manus meas, et affer manum tuam et mitte in latus meum : et noli esse incrédulus, sed fidélis. Respóndit Thomas et dixit ei : Dóminus meus et Deus meus. Dixit ei Iesus : Quia vidísti me, Thoma, credidísti : beáti, qui non vidérunt, et credidérunt. Multa quidem et alia signa fecit Iesus in conspéctu discipulórum suórum, quæ non sunt scripta in libro hoc. Hæc autem scripta sunt, ut credátis, quia Iesus est Christus, Fílius Dei : et ut credéntes vitam habeátis in nómine eius. そのころ、すなわち一週のはじめの日の夜おそく、弟子たちが集まった。そのところの戸は、ユダヤ人たちをおそれて閉じられていたのに、イエズスがおいでになった。そして彼らの中に立って「あなたたちに平安!」とおおせられた。こういって、そのおん手とおん脇とをお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。イエズスはまたおおせられた。「あなたたちに平安!父が私をお送りになったように、私もあなたたちをおくる」。そういいながら、かれらに息を吹きかけて、「聖霊を受けよ。あなたたちが罪をゆるす人にはその罪がゆるされ、あなたたちが罪をゆるさない人はゆるされない」とおおせられた。イエズスがおいでになったとき、十二人の一人で、ディディモと呼ばれるトマは、皆といっしょにいなかった。他の弟子たちが、「主を見ました!」と彼にいったが、しかし彼は、「私はその手に釘のあとを見、私の指をその釘のあとに入れ、私の手をその脇に入れるまで、信じられません!」といった。八日の後、弟子たちはまた家にいて、トマもいっしょにいたとき、戸は閉じてあったのに、イエズスがおいでになり、かれらの真中に立ち、「あなたたちに平安!」とおおせられた。また、トマに向かって、「あなたの指をここに出し、私の手を見なさい。あなたの手を出して、私の脇におきなさい。信じない者でなく、信じる者になるように!」とおおせられた。トマは、「私の主よ、私の天主よ」と答えた。そのときイエズスは、「あなたは私を見たから信じたが、私を見ずに信じる人は幸いである」とおおせられた。イエズスは弟子たちの前で、この本にはしるさなかった他の多くのしるしをおこなわれた。これらのことをしるしたのは、イエズスが天主の子キリストであることを、あなたたちに信じさせるため、そして信じて、そのみ名によって生命を得させるためである。 Credo 信教 Ant. ad Offertorium. Matth. 28, 2, 5 et 6. 奉献文 マテオ、28ノ2,5,6 Angelus Dómini descéndit de cælo, et dixit muliéribus : Quem quǽritis, surréxit, sicut dixit, allelúia. 主の天使は天より下り、女たちにいった、「汝らのさがしている御者は、おおせられたように復活し給うた」と、アレルヤ。 Secreta. 密誦 Suscipe múnera, Dómine, quǽsumus, exsultántis Ecclésiæ : et, cui causam tanti gáudii præstitísti, perpétuæ fructum concéde lætítiæ. Per Dóminum. 主よ、願わくは、喜びにはずむ教会のささげものを受け給え、また、御身はかくも大なる喜びの原因を教会に与え給うた、絶えざる喜びの実を与え給え。天主として、(…)。 Præfatio paschalis, in qua dicitur : in hoc potíssimum. 御復活の序誦 Ant. ad Communionem. Ioann. 20, 27. 聖体拝領誦  ヨハネ、20ノ27 Mitte manum tuam, et cognósce loca clavórum, allelúia : et noli esse incrédulus, sed fidélis, allelúia, allelúia. 汝の手をのばし、釘の所を認めよ、アレルヤ。不信仰者でなく信仰者であれ、アレルヤ、アレルヤ。 Postcommunio. 聖体拝領後の祈 Quǽsumus, Dómine, Deus noster : ut sacrosáncta mystéria, quæ pro reparatiónis nostræ munímine contulísti ; et præsens nobis remédium esse fácias et futúrum. Per Dóminum. われらの天主なる主よ、願わくは、われらの償いの捧げ物として御身が捧げた神聖にして犯すべからざる玄義をして、われらにとって現在の、そして未来の薬であらしめ給え。天主として、(…)。

 

 


「キリストの御魂、我を聖ならしめ」で始まる有名な「キリストに向かう祈り」

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アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様!
「キリストの御魂、我を聖ならしめ」で始まる有名な「キリストに向かう祈り」は、よく聖イグナチオに帰されています。
しかし、聖イグナチオの時代には、すでに皆が良く知っていた祈りだったということが分かっています。
すでに14世紀の祈祷書の写本にもこの祈りがあり、スペインのセビリアにあるスペイン王室のアルカサル宮殿(14世紀)の門の一つにも書かれています。
この祈りは、次の通りです。
Anima Christi, sanctifica me.
Corpus Christi, salva me.Sanguis Christi, inebria me.Aqua lateris Christi, lava me.Passio Christi, conforta me.
O bone Jesu, exaudi me.Intra tua vulnera absconde me.Ne permittas me separari a te.Ab hoste maligno defende me.
In hora mortis meae voca me:Et Jube me venire ad te,Ut cum Sanctis tuis laudem te,In saecula saeculorum. Amen.
キリストに向う祈
(聖なる救い主に向かう祈り)
願わくはキリストの御魂、我を聖ならしめ、【贖いの御業を通して】キリストの御体、我を救い、キリストの御血、我を酔わしめ、キリストの御脇腹より滴りし水、我を清め、キリストの御受難、我を強めん事を。 【愛による一致を通して】慈愛深きキリスト、我が願いを聞き入れ、御傷の内に我を隠し給え。主を離るるを許し給わず、悪魔の罠より我を守り給え。【栄光における一致を通して】臨終の時に我を招き、主の御許に至らしめ、諸聖人と共に、主を讃美する事を得しめ給え、世々、とこしえに。アーメン。






主イエズス・キリストの御復活のお慶びを申し上げます 小野田神父メッセージ SSPXJAPAN 聖ピオ十世会

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

御復活の喜びのメッセージを申し上げます。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父

復活の徹夜祭で歌われる有名なEsultet 復活の讃歌をラテン語と日本語の対訳でご紹介いたします

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

復活の徹夜祭で歌われる有名なEsultet 復活の讃歌をラテン語と日本語の対訳でご紹介いたします。

「私たちが生まて来たことは、キリストによって贖われなかったなら、いかなる利益もなかった!」

おお!かくも偉大でかのような贖い主をいただけるとは、何と幸せな罪であったか!

Exsúltet iam angélica turba cælórum: exsúltent divína mystéria: et pro tanti Regis victória tuba ínsonet salutáris. 天の天使たちの群れよ、すでに喜び踊らんことを、天主の神秘らよ、喜び踊らんことを、かくも偉大な王の勝利のために救いのラッパを響かせんことを! Gáudeat et tellus, tantis irradiáta fulgóribus: et ætérni Regis splendóre illustráta, tótius orbis se séntiat amisísse calíginem. 地も喜ばんことを、かくも大いなる閃光を放ち、永遠の王の輝きに照らし出され、全地球は邪悪を失ったと感じるが良い。 Lætétur et mater Ecclésia, tanti lúminis adornáta fulgóribus: et magnis populórum vócibus hæc aula resúltet. かくも大いなる光の輝きに飾られた母なる教会も喜ばんことを、諸民族の大きな声でこの部屋は喜ぶが良い。 Quaprópter astántes vos, fratres caríssimi, ad tam miram huius sancti lúminis claritátem, una mecum, quæso, Dei omnipoténtis misericórdiam invocáte. 従って、臨席のあなたたち、いとも愛する兄弟たちよ、この聖なる光のいとも驚くべき輝きへと、全能の天主の憐れみを私たちとともに、請い求めよ、と私はお願い申し上げる。 Ut, qui me non meis méritis intra Levitárum númerum dignátus est aggregáre, lúminis sui claritátem infúndens, cérei huius laudem implére perfíciat. それは、私の功徳によるのではないがこの私を聖職者の数の中にかたじけなくも入れ給うた方が、御自分の光の輝きを注入し給い、この蝋の賛美を満たすことを完成し給うためである。 V/ Dóminus vobíscum. V/ 主は、あなたたちと共に R/ Et cum spíritu tuo. R/ またあなたの霊と共に V/ Sursum corda. V/ 心を上に挙げよ R/ Habémus ad Dóminum. R/ 我らは主へ挙げ奉る V/ Grátias agámus Dómino Deo nostro. V/ 我らは主なる我らの天主に感謝しよう R/ Dignum et iustum est. R/ それはふさわしく正しいことなり。 Vere dignum et iustum est, invisíbilem Deum Patrem omnipoténtem Filiúmque eius unigénitum, Dóminum nostrum Iesum Christum, toto cordis ac mentis afféctu et vocis ministério personáre. 目に見えない聖父なる全能の天主とその御一人子私たちの主イエズス・キリストを心をこめて愛情を尽くして声の役務により賛美を響かせることは、実にふさわしく正しいことなり。 Qui pro nobis ætérno Patri Adæ débitum solvit, et véteris piáculi cautiónem pio cruóre detérsit. イエズス・キリストは、私たちのために永遠の聖父にアダムの罪の負債を支払い、いにしえの負債帳を尊き血潮で破り引きちぎった。 Hæc sunt enim festa paschália, in quibus verus ille Agnus occíditur, cuius sánguine postes fidélium consecrántur. これこそ実に過ぎ越しの祭りである。この祭りにおいて本当のあの子羊は屠殺され、その血によって信者たちの家の入り口は聖別される。 Hæc nox est, in qua primum patres nostros, fílios Israel edúctos de Ægypto, Mare Rubrum sicco vestígio transíre fecísti. この夜こそ、御身が、エジプトから導き出された私たちの祖先であるイスラエルの子らが、紅海を乾いた足跡をのこして渡るようになし給うた夜である。 Hæc ígitur nox est, quæ peccatórum ténebras colúmnæ illuminatióne purgávit. 故に、この夜こそが、罪人たちの暗闇を光る雲の柱で輝かせて清めた夜である。 Hæc nox est, quæ hódie per univérsum mundum in Christo credéntes, a vítiis sæculi et calígine peccatórum segregátos, reddit grátiæ, sóciat sanctitáti. この夜こそが、今日、全世界で、この世の悪習と罪の邪悪とから区別されたキリストを信じる者たちを、聖徳と結びつけ、聖寵を再び与える夜である。 Hæc nox est, in qua, destrúctis vínculis mortis, Christus ab ínferis victor ascéndit. この夜こそが、死の鎖を打ち壊し、キリストが勝利者として地獄から上った夜である。 Nihil enim nobis nasci prófuit, nisi rédimi profuísset. 私たちが生まて来たことは、キリストによって贖われなかったなら、いかなる利益もなかった。 O mira circa nos tuæ pietátis dignátio! おお!御身の私たちに対する何と驚くべきかたじけなき優しさよ! O inæstimábilis diléctio caritátis: ut servum redímeres, Fílium tradidísti! おお!評価を絶する愛徳の深さよ!御身が奴隷を買い戻すために、御身は御自分の子を渡し給うた! O certe necessárium Adæ peccátum, quod Christi morte delétum est! おお!キリストの死によってそれが破壊されるために、確かに、アダムの罪は必要であった。 O felix culpa, quæ talem ac tantum méruit habére Redemptórem! おお!かくも偉大でかのような贖い主をいただけるとは、何と幸せな罪であったか! O vere beáta nox, quæ sola méruit scire tempus et horam, in qua Christus ab ínferis resurréxit! おお!じつに幸せな夜である、この夜だけがキリストが地獄からよみがえり給うたその時と時間を知ることが出来たのだから! Hæc nox est, de qua scriptum est: Et nox sicut dies illuminábitur: et nox illuminátio mea in delíciis meis. この夜こそ、聖書に記されている夜であり、「夜が真昼のように照らし出されるであろう、私の甘美さにおける私の照らし出しの夜」と。 Huius ígitur sanctificátio noctis fugat scélera, culpas lavat: et reddit innocéntiam lapsis et mæstis lætítiam. Fugat ódia, concórdiam parat et curvat impéria. 故に、この夜の聖化は、極悪を逃げ去らせ、罪を浄め洗う、また失った者たちに無罪を返し、悲しむ者たちには喜びを戻す。憎しみを追放し、心の一致をもたらし、おごり高ぶる者を低める。 In huius ígitur noctis grátia, súscipe, sancte Pater, laudis huius sacrifícium vespertínum, quod tibi in hac cérei oblatióne solémni, per ministrórum manus de opéribus apum, sacrosáncta reddit Ecclésia. Sed iam colúmnæ huius præcónia nóvimus, quam in honórem Dei rútilans ignis accéndit. 故に、この夜の恩寵において、聖なる父よ、この荘厳な蝋の奉献において、蜜蜂の働きから役務者の手を通して、神聖にして犯すべからず教会が御身に捧げるこの夕の賛美のいけにえを受け入れ給え。 Qui, lícet sit divísus in partes, mutuáti tamen lúminis detrimenta non novit. Alitur enim liquántibus ceris, quas in substántiam pretiósæ huius lámpadis apis mater edúxit. しかし、既に天主への誉れのために火が付けられたこの蝋の柱の予告を私たちは知っている。これは、部分には分けられるかもしれないが、光に変わった部分の損失はない。火は、母なる蜂がこの貴重な明かりの材料を運んだ融けた蝋によって養われる。 O vere beáta nox, quae exspoliavit Aegyptios, ditavit Hebraeos! Nox, in qua terrénis cæléstia, humánis divína iungúntur! おお、実に幸せな夜よ、エジプト人たちから奪い取り、ヘブライ人たちを豊かにした夜!この夜において地上のものは天上のものに、人間的ものは天主的ものに結びつく! Orámus ergo te, Dómine, ut céreus iste in honórem tui nóminis consecrátus, ad noctis huius calíginem destruéndam, indefíciens persevéret. Et in odórem suavitátis accéptus, supérnis lumináribus misceátur. Flammas eius lúcifer matutínus invéniat. Ille, inquam, Lúcifer, qui nescit occásum. Ille, qui regréssus ab ínferis, humáno géneri serénus illúxit 従って、主よ、私たちは御身に祈る。御身の御名の名誉のために聖別されたこの蝋が、この夜の邪悪を破壊するために、壊されずに守られるように。そして甘美な香りを受け入れ給い、天上の光に混ざり合わされるように。明けの明星がその炎を見いだすように。私は言う、つまり、かの沈むことを知らない明けの明星、キリストのことである。地獄から再び戻ってきた、平和の内に人類を照らしだしたかのキリストである。 Precamur ergo te, Domine: ut nos famulos tuos, omnemque clerum, et devotissimum populum: una cum beatissimo Papa nostro Benedicto et Antistite nostro N. quiete temporum concessa, in his paschalibus gaudiis, assidua protectione regere, gubernare, et conservare digneris. 従って、主よ、私たちは御身に祈願する。私たち御身のしもべたちと全ての聖職者、いとも敬虔な民を、至福な私たちの教皇フランシスコおよび私たちの司教 N. と一つに、平和な時が与えられて、この復活祭の喜びにおいて、御身が堅い守りにおいてかたじけなくも君臨し、統治し、保存し給わんことを。 Respice etiam ad eos, qui nos in potestate regunt, et, ineffabili pietatis et misericordiae tuae munere, dirige cogitationes eorum ad iustitiam et pacem, ut de terrena operositate ad caelestem patriam perveniant cum omni populo tuo. さらに、私たちを権力をもって統治する人々をご覧になり、御身のえもいわれぬ優しさと憐れみとの賜で、彼らの考えを正義と平和へと導き給え。それは地上の業から天上の祖国へと御身の民と共に彼らが到達することが出来るためである。 Per eumdem Dominum nostrum Jesum Christum Fílium tuum : qui tecum vivit et regnat in unitate Spiritus Sancti Deus : 御身と共に聖霊との一致において生きかつしろしめし給う御身の御子、私たちの同じ主イエズス・キリストによりて、 Per omnia sæcula sæculórum. 代々に至るまで R/ Amen. R/ アメン

『選ばれた人々に』 シスター・ジョゼファ・メネンデス“愛の招き”の抜き書き

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アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様!
こんにちは!
ミサに与りたいけれども、どうしてもコロナウイルスの為に与ることができず、辛い思いをしている方が、次の小冊子を書き写して下さいました。
愛する兄弟姉妹にも御紹介いたします。


『選ばれた人々に』シスター・ジョゼファ・メネンデス“愛の招き”の抜き書き
「人々がわたしの仁慈に信頼し、わたしの愛隣にすべてを期待しわたしがゆるしたいと待っていることを、決して疑わないように」(シスター・ヨゼファへのみ主のみことば)
この小書にあるみことばは、聖心会のシスター・ヨゼファ・メネンデスに、み主が託せられたメッセージから、抜粋したものである。
み主の「愛の使徒」として選まれたこのシスターは、スペイン人であるが、故国を去って、フランスのポアチエにあったファインの聖心会修道院で、沈黙のうちに隠れた生活をおくった。イエズスは、愛に燃ゆるみ心をシスターに啓示され、その秘密を語られた。贖罪事業にあずからせるため、お望みのままにシスターをあしらわれた。またその念願を、シスターに打ち明けられて、世に伝えるよう頼まれた。
この小書の目的はそのお望みに応じて、み主から特に、選ばれ、身を奉献した多くの人々にそのメッセージを伝え広めるためである。
その人々がこのメッセージを受けて読み、日々の光と力を見いだし、み主の愛のご事業の協力者となり、全世界を燃やさんと来たりたもうたみ主の愛の炎を、燃やすまきとならんことを! そのお望みに従って、心の愛の連鎖を、つまり、愛の火に燃え、み主に信頼し、すべてを、み心に期待して、全世界を愛の火に燃やさんことを!

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私は愛である。わたしのみ心はやきつくすばかりの炎を、もはや包み隠しておくことはできない。わたしは人々を愛するあまり命さえも犠牲にした。その愛のために、パンの形式のもとに、小さいオスチアの中に、昼夜かくれて、忘恩も孤独も、あざけりも、冒涜も、はずかしめも、無礼も、愛によって堪え忍びながら、二十世紀にわたって住んでいる。
人々を愛するあまり、告解の秘跡を定めた。一度ならず、二度ならず、幾たびでも恩恵を取りもどしたいと望むたびごとに、ゆるしを与えてあげる。わたしはその人々の罪の汚れを水で洗うのではなく、わたし自身の血で清めたいと待っている。
人類に対する愛をいつの時代にも、いろいろの方法で知らせた。救霊の望みがどれほどわたしのみ心をもやしつくすかを示した。わたしの聖心を現わした。このみ心への信心は全世界を照らす光となって、今日それは人々の心を感激させ、み国の来たらんことのために働く人を助けている。
しかし今わたしが願うことがもう一つある。愛に報ゆるに愛をもってすることを求めるばかりでなく、皆がわたしの慈悲深いことを信じ、わたしの愛隣に全く期待し、罪のゆるしを少しも、疑わないことをせつに望む。
わたしは天主であるが、愛の天主で、また父である。しかもやさしく愛する父で、きびしい者ではない。わたしのみ心は無限にとうといが、またさといから、人間の弱さやみじめさをよく知っていて、罪人には無限の愛隣をたれる。へりくだって、ゆるしを求める罪人を、わたしは愛するばかりでなく、二度目の罪でも、またたとえ同じ罪を千たび、万たび繰り返して犯したとしても、ほんとに泣き悔やむ者を、ゆるし、愛して、最初の時と同じように、わたしの血でぬぐってあげる。
わたしは救霊の仕事にうむことはない。わたしのみ心にのがれてくる者を、よろこんで待っている。それがみじめな者であればあるほどなおさらに! 父はじょうぶな子よりも病気の子のめんどうをみる。病人こそ注意深く看護する必要がある。病める子に対しては心配も多く、やさしくするように、わたしも罪人に対しては義人よりも、あわれみも深く、なおやさしくする。
わたしが皆に語りたいのは次のことである。み心の愛隣は限りないことを罪人によく知らせてほしい。わたしのみ心は無関心な、冷たい心を燃やす火である。そのような人々をもわたしは心から愛している。
信心深い者にとってわたしのみ心は、完徳への道、天国に行くたしかな道である。
最初に、わたしに奉献された、司祭、修道者、その人々はわたしから特別に選まれたので、その人々に、わたしが愛を求め、わたしの愛を疑わず、深い信頼をもって、わたしの仁慈を決して忘れないようにと願う。
わたしのみ心にすべてを期待することは、ごくやさしい! わたしの事業が、無であり、みじめさそのものの上に築かれ、永遠より人々を救うためにとそなえられた愛の鎖の最初の輪となることを知らせよう。
またわたしのみ心がどこまで人々を愛するか、ゆるすかを知らせよう。わたしは霊魂の奥底までもみぬくから、わたしをよろこばせたい、慰めたい、わたしに光栄を帰したいと、望むことをよく知っている。……そのうえ、おのれのあまりにも不忠実なのをみて、心からへり下るようになることこそ、かえってわたしを慰め、わたしの光栄となる。
彼らの弱さなどかまわない。……わたしが足りないところを補おう。失われてゆく多くの霊魂を救うために、わたしのみ心は、その弱ささえも利用する。
罪に倒れた者に対して、わたしの愛と慈悲には限りがない。わたしはゆるしたい。……わたしはゆるしてこそ、心を安んずるのである。わたしに来る者をいつも愛をもって待っている。……勇気を落としてはならない。おいで! わたしの愛のかいなに身をなげよ! なにも恐れることはない。わたしはおまえの父である。
天主を全く知らないで、深いやみの中に沈んでいる霊魂や、真の生命を与えてやりたいと、わたしがどんなに望んでいるかも、全く知らない人々を、わたしのみ心に引きよせるため、たくさんのことをすることができるのを、理解しない者が多い。修道者たちの中にも。だからヨゼファ、わたしはおまえに愛の秘訣を教えてあげよう。そうしておまえ自身が、わたしの愛隣の生きた一例となる。みじめさ、無にすぎないおおまえを、こうもわたしが寵愛するならば、おまえより、はるかに寛大な霊魂を、どうしてわたしが愛さずにいられよう!
わたしのみ心の中におはいり! 無にとって愛のふちに、身を沈めるほどやさしいことはない! そうしてわたしはおまえの、弱さ、欠点をだんだんに焼きつくそう。わたしがおまえの中に働き、おまえを通じて語り、おまえによって、わたしのことを知らせよう。
わたしのことばをきいて、多くの人々が生命を見いださんことを! もしわずかな奮発心、忍耐、清貧の行いなどが、わたしのみ心に多くの霊魂を贖う宝となることを知れば、どれほど多くの人々が勇気を得るだろう。わたしは行為をみないで動機をみる。愛をもってする最小の行為もたくさんの功徳をたて、わたしにたくさんの慰めを与える! わたしのみ心はそのようなごくわずかな行いにも、無限の価値を与える。わたしがほしいのは愛で、愛だけを捜し、愛のほかは求めない。 *******
わたしが要求するすべてを物惜しみなく与えてくれる霊魂は自分のためにも他人のためにもたくさんの功徳をつみ、多くの人々を滅びの道から奪い取る。
わたしのみ心が選んだ人々はその犠牲と愛とでわたしの恵みを世にふりそそぐ役目を持っている。世俗には危険がいっぱいだ。あわれな罪人は絶えず悪にいざなわれるから、見える助け、見えない助けが必要だ。
わたしの選んだ人々が物惜しみをすればどんな宝を失い、また人にも失わせるか、よくわかっているだろうか? わたしはもう一度強調したいのだ。
わたしに選ばれたのだから当然欠点や弱さがなくなるはずだなどと思ってはならない。その人々も一度ならず罪を犯すであろう。しかしへり下って自分のつたなさを認め、その罪を、物惜しみない愛の小さな行いで償おうと努力し、再びわたしのみ心に信頼するならば、わたしのみ心は大いなる光栄を得、罪を犯さなかったよりも、もっと他人を助けることができるのだ。いくじなさや、みじめさはたいした問題ではない。わたしが人々に求めるのは愛だ。
そのみじめさにもかかわらず、わたしは気も狂うほどに愛することができる。しかしここでわたしがいう罪は不注意や弱さからくる過失のことで、あらかじめ知って承諾した罪のことをいうのではない。ほんとうにわたしが人々から愛されるようにと願う心をいつももって、不完全な者ながら身をささげ、選ばれた人々が普通の行ないと日常の努力とによって、どんな美しい使命を果たすことができるかがわかるよう。ほかの人々よりも特に愛されたのは、徳が高いからではなく、みじめな者であるからだということを、決して忘れてはいけない。わたしは愛そのもので、わたしの心にもえるその愛は、すべての欠点を焼いてしまう。またおまえにわたしのみ心の秘密を語ろう……わたしがいつも知らせたいと、あせっているのは、皆がわたしのみ心をもっともっと知るということなのである。
*******
日々の生活をわたしの生活と絶えず一致させることを知る者は、わたしの光栄となり、救霊のために偉大な働きをする。たとえばそれ自身なんの価値もないことをしたとしても、それをわたしの血に浸し、またわたし自身が地上で行ったわざに合わせれば、救霊のためにどれほどのみのりをもたらすかわからない! それは全世界をめぐって説教する以上の収穫となる。学ぶにせよ、話すにせよ、書くにせよ、又は針仕事をしても、掃除をしても、休息するにしても同じ効果がある。それらのわざが命ぜられたことであるとか、義務であるとかであって、ただ気ままにするのでないならば。次にわたしの血に浸して、清い意向をもって、わたしと緊密に一致して行うならば、どんなわざでも偉大な価値あるものとなる。
この事実を多くの者が理解するようにせつに望む。行為それ自身になにか価値があるのではなく、それを行なう動機とわたしとの一致がたいせつなのである。わたしがナザレットの仕事場で掃除をしたり働いたりした時、のちに公生活ちゅうに説教したと同じように天の御父に光栄を帰し奉ったのである。
世間に出てりっぱな仕事をして需要な地位についている人々が、わたしのみ心に大いなる光栄を与えていることも事実であるが、卑しい働きに世の目から隠れた、多くの人々もわたしのぶどう畑にまことに有用な働き手である。彼らこそ愛に動かされて働き、その最小の行為さえもわたしの血を浴びて、超自然的黄金とかえることを知っているからである。
朝まだきよりわたしと深く一致してその一日をわたしが人々の救霊に役立てるようにと懇願し、愛をもって、その義務を一瞬一瞬果たすならば、一日にどれほどの宝を積むことができるであろう!
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わたしの愛をもっともっと彼らに現わそう。わたしの愛は、つきることなく、愛する者にとって、愛に導かれるままにするほど容易なことはない。
わたしのみ心は愛のみで、その愛はすべての人々を抱く、そうして特に選んだ人々をどれほど愛し、また世の危険にさらされている霊魂や、多くの罪人を救うために、どのように手伝ってもらいたいかをわからせることができるであろうか?
そのためにわたしがどんなに、彼らが完徳に進むことであるかを渇望しているかを、またこの完徳とは日常の平凡な行ないをわたしと親しく一致してすることであることを告げたい。もしこれをよく悟るならば、その全行為を聖化することができる。聖化された一日の価値は、いかばかりであろう!
人々が愛したいという望みにかられる時は、なにごとも困難ではない。しかし心がつめたく気力がないとすべてが苦しくつらくなる。……その時こそわたしのみ心へきて、勇気をとりもどすがよい。わたしにその無気力をささげよ! わたしを燃やす愛の熱に心を合わせて安心するがよい。その一日は人々の救霊のため計りがたいとうといものとなる。わたしのみ心は人々のすべてのみじめさを知りいつも深く同情している。わたしは人々がただばく然とわたしと心を合わせるばかりでなく、お互いに相愛しあって、いっしょに暮している人々のような、絶え間ない親しみを望んでいる。そのふたりは絶えず話し合っているわけではないが、少なくとも、お互いにいっしょにいて、愛し合い、こまやかな注意、愛情を傾けつくす。
心が平和で、慰めのなかにある時、わたしのことを考えるのは容易である。しかし無味乾燥となり、苦悩におちいる時も、恐れないで、ただわたしを仰ぎみるがよい。わたしはよくわかっている。その一瞥はわたしのみ心のいともやさしい同情をひきつける。
わたしは繰り返して、いかに人々を愛するかを告げよう。わたしは彼らがわたしをよく知りぬいて、わたしが託する霊魂に、わたしのことを教えてほしい。いつでもわたしを仰ぎみて、目をそらさないように。なまぬるい心の人があるのは、わたしの愛について誤った考え方をしているからである。そんな心のないように。わたしのみ心を愛することはむずかしくもつらいことでもなく、かえってやさしい心地よいことである。愛の高い峯に達するには別段特殊なことをする必要はない。ただ行為の大小を問わず、清い志を持ち、わたしのみ心と親しく一致しながらすれば、愛が他のすべてのことを補う。
ほんとにわたしこそ霊魂をやさしく愛するイエズスなのだ。人々を呼び、保護し、世話するこのみ心を見よ。人々から愛されることを、特に私が選んだ者たちから、愛されたいとの念願に燃えるみ心を見よ!
わたしのみ心は単に愛の深淵であるばかりでなくさらに慈悲の深淵である。天主からいとも愛される霊魂さえも、人間のみじめさをもっていることを知って、わたしは彼らがいかほどささいな行為でも世の救済のため、わたしによって無限の価値を帯びるようにと望んでいる。だれもかれもが皆説教をすることができない。また遠く未開地へ福音をのべ伝えることもできないが、皆ほんとにだれでもわたしのみ心を知らせ愛させることができる。……だれでも互いに助けあいながら選ばれる人々の数をふやすことができる。つまり多くの霊魂が失われることを防ぐことができる。そうしてこれはわたしのみ心の愛と仁慈の結果だからである。もし惜しみなく私の求めるすべてを与えるならば、自分と他人のためにばくだいな宝を積み、多くの者を滅びの底からとりもどすことになる。わたしが選んだ人々に、わたしの愛はもっと多く行うことができることを語ろう。
人々は日常生活のわずかな行ないを利用することができるばかりでなく、救霊のために、みじめさ、過失、罪さえも役だてることができる。ほんとに愛はすべてを変化し、聖化し、あわれみはすべてをゆるす。彼らに対するわたしの愛は、もっと深い。いかにささいな行為にも、聖なる価値を与えて日常生活を生かして行くばかりでなく、そのみじめさ、弱さ、過失さえも、世の救いのためにわたしは利用したいと思う。つまり自分がみじめさに満たされていることを知っている霊魂はどんな善をも自分のてがらとしないで、かえってその不完全さを見いだすことによって、いっそう謙虚な気持ちを抱くようになる。
またその使徒的働きや職務についても、おのが無能をはっきり感じ、人々を自分がまだ達しえない道にまで、助けなければならぬことを心苦しく思い、自然とへり下るようになる。そうしてもしこの弱さを、謙そんに自覚して、わたしのもとにかけより、努力の足りないことをわび、力と勇気をわたしの聖心に願うならばどんなに深く愛のまなこをそそぎ、またどんなに、わたしが、その働きを有効なものにするか、計り知れないほどである。ある者は毎日の努力や犠牲を一瞬ごとに、心惜しみなくささげることを知らない。その一生は約束ばかりでなにも実行せずに過ぎてしまうものが多い。しかしここに差別がある。もしこの種の人々が、約束することが一つの習慣となってしまい、実行するために少しの無理も押し通さず、愛を表わすために何もしないなら、わたしは次のことばをいうほかはない。「おまえがその穀物倉に積み重ねた藁(わら)に火がつかないように注意せよ。また風が一瞬にして吹き飛ばしてしまわぬよう警戒せよ」と。しかしわたしがここでいうのは他の種類の人々で、どうかしてその愛を表わそうと善意をもってせつに望みながらその日を始める、そうして「この機会には自分を忘れて、物惜しみなくいたしましょう。こんな場合には」と約束する。しかしその折りがくると、もちまえの性質や、自愛心、また心持ちの悪さとか、何かに負けてしまい、数時間前にあんなに心から約束したことを、実行できなくなる。しかし心をとり直してへり下ってその弱さを認め、ゆるしをこう。そうしてふたたびわたしのみ心に信頼し、より頼んで決心を新たにし。愛や寛大な行ないをもって、償おうと努力する。この霊魂は、あやまちを犯さなかった者より私に光栄を帰するであろう。
註(み主はこれによって、承諾したり、又は直そうと努力しない習慣的となった過失と、人間的弱さからでるもの、また償った過失とを明らかに区別された。心のこもった償いは弱さから起こる過失のないことよりも、み心を慰めることを、説明された。実際償いが含む謙そん、信頼、寛大は、弱さから犯す過失の中にはないほどのはっきりした意志がなければ果たせない。)
わたしはゆるしたい。わたしは人々を治め、王となって、世界のはてまで、平和をひろめたい。わたしは英知であり、幸福そのものである。わたしは愛であり仁慈である。わたしは平和そのもので、世を統治しよう。人々の忘恩をぬぐい去るためのめぐみの雨をふりそそごう。その罪悪を償い、ゆるしを求めるいけにえを選ぼう。ほんとにわたしをよろこばせたいと願う人が世の中にもたくさんいる。また持てるすべてをささげて、わたしの欲するように、望むままに役立ちたいと、願う寛大な心の人がいる。わたしは愛と平和のうちに治めよう。まず皆の上に慈悲をたれることから始めよう。これこそわたしの目標で、これが愛の大事業である。わたしは万民によびかける。身を奉献した者にも、世俗に住む人々にも、義人にも罪人にも、学問のある人にも、無学な人にも、命ずる者にも、従う者にも。めいめいにわたしは告げに来た。……もし富を望むならば、わたしこそ無限の富だ。もし平和を欲するならばわたしのうちにのみ平和を見いだす。もし幸福を追うならば、わたしのうちに見つけることができる。わたしは慈悲であり、愛である! そうしてわたしのみが最上の王である。
わたしがせつに願うことは人々の心を愛の火でもやすことで……全世界の人々を……悲しいことには皆がこの炎に背を向ける、だがわたしは勝って、皆わたしの民となり、わたしは王となる。世の人々がわたしを知り、わたしのもとに来るよう、いっしょに苦しんでおくれ、苦しみによって愛は勝利をうる。真の光が人々の心にさし込むようにと願うわたしを知らずに、霊魂のとうとさに無知無関心のまま成長する無邪気な子供たちの心をかち得たいし、ほんとにわたしの喜びであるこれらの小さい心がわたしを知り、おきてを守り、わたしのみ心の愛を学ぶ園が欲しい。わたしは愛の力で人々の心を征服したい。よき道徳心を目ざまし、人々が地上のためのみでなく、天に心をあげ、そこへ向かって生きて行くようにと望むのである。これは人間社会の進歩を妨げるどころか、かえってわたしは人々がその知恵や、才能や、力を利用することをせつに望むが、人間的知識の上に天主に対する知識を加えて、地上の幸福を求めながらも何が人を真に偉大にし、幸福にするかを悟ってもらいたいのである。わたしはおまえたちをこの愛の事業の助け手として選んだ。わたしの念願はおまえたちが、わたしが全世界に燃えひろめようとする愛の火のまきとなるということである。火をつけても燃やすものなしでは炎も役にたたない……それゆえわたしは次から次へと炎をうつす愛の連鎖をつくりたい。わたしのみ心に信頼しすべてを期待する愛、その炎にもえて全世界の果てまで燃やしつくすため。
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十字架以外のことを語ろうとはしない。十字架をもってわたしは世を救った。今わたしはまた十字架によって世を、信仰と愛の道に連れもどそう。おまえたちにわたしの念願を打ち明けよう。わたしが十字架の上から世を救ったというのは苦しみによってということである。罪は天主に対する無限の侮辱で、無限の償いを要求する。だからわたしはおまえたちが忍ぶ苦しみや働きをわたしのみ心の無限の功徳に合わせてささげるようにと願うのである。わたしのみ心はおまえのものであるからそれを取って償いとし、ささげるがよい。おまえたちに近づく人々に愛と信頼の念をふき込み、わたしの愛のうちに彼らを浸すよう、み心の仁慈、愛隣への信頼に浸すよう。わたしのことを語り知らせる機会があるたびに、いつもわたしは愛の天主で、なにも恐れることはないと告げておくれ。わたしは三つのことをおまえたちに特にすすめる。聖時間の信心。それは御子イエズス・キリストの仲介によって無限の償いを御父にささげることのできる一つの方法である。五つの傷をあがめて五たび主祷文を唱える信心、このおん傷を通じて世は救われた。最後にみ心の功徳への絶えざる一致、こうしてこそすべての行ないに無限の価値が与えられる。わたしの生涯、わたしの血、わたしの聖心を絶えず利用すること……恐れず、うまずわたしのみ心に信頼すること。この秘訣を多くの者が十分に理解しない。お前たちこそこれを知って利用するように。
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わたしの愛が太陽のように人々を照らし、暖めるようにと願う。わたしのことばが皆に知れわたり、わたしは愛の天主で、慈悲深くゆるすことを願っていることを知ってほしい。一番みじめな者も恐れず近づき、わたしがどんなにゆるしたいと望んでいるかを全世界の人々に知ってもらいたい。もっとも罪深い者もわたしから遠ざからないで、皆がわたしに来るように、わたしは父のごとく両手を広げ、生命と真の幸福を与えようと待っている。
世の人々にわたしの仁慈を知らせるため、わたしのみ心を開いて、教える使徒が欲しい。が、まずわたしのことを、よく知らなければ、どうして他人に知らせることができよう。だからここ二、三日の間わたしは司祭、修道者、修道女たちに語ろう。みんながはっきりとわたしが欲することを悟るように。ささげられた霊魂たちが愛に団結して一つとなり世の果てまで、わたしの愛と仁慈をのべ伝えてほしい。世の人々は罪に走ってゆく。ゆえに信者やことに選まれた人々は償いの必要と望みに目ざめて、ますます償うように。ほんとに今世界の国々は天主の正義の御怒りを招いているが、愛のみ国の来たらんことを望みたもう主は、選まれた人々、ことにこの国の人々によびかけたもう。まずゆるしをこい、償いを求め、この民の上に新しいめぐみを降ろしたもうようにと。(この国とはフランスの意)わたしのみ心を知り、その信心を広めたのはまずこのフランスであった。
わたしは世の救いを求める。平和と一致の御代が来ることを。わたしは世を治めることをせつに望むが、それは選まれた人々の償いとわたしの愛と仁慈を皆が更に悟ってこそ、治めるようになる。
わたしのことばは数知れぬ人々に光と命を与えるであろう。すべて印刷され、読まれ、ひろめられる。わたしは人々の心を照らし聖化する特別の恩寵を与えよう。
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今日はまたわたしに身を奉献した者に語りたい。罪人と世の人々にわたしのことを知らせることができるように。
まだ奉献した人々のうちにさえ、わたしの心情を深く、くむことを知らない者がいる。わたしをあたかも、どこか遠くに住む者、よく知らない人、あまり信頼できない人のように取り扱う。わたしはその人々が信仰をあつくし愛をかきたて、愛し、また愛される御者と、親しく、信頼して暮らすよう、願うのである。
普通家庭では、総領の子が一番よく父の心持ち、秘密などを知っている。父もまた彼に全く信頼する。年下の子は、まだ重大な事柄について、心をくばることもできないし、ものごとの深いことはわからない。もし父親が死ねば、その意志、望みなどを兄弟に伝えるのは、兄の務めである。わたしの教会にも年長者がいる。それはわたしが特に選んだ人々である。司祭職や修道誓願によって奉献された者は、わたしと一番親しく暮らし、特別の恩寵をこうむり、わたしもまた秘密を打ち明ける。彼らの弟、妹であるわたしの子供たちを直接、間接に教え導き、わたしの望みを伝えるのも彼らであり、その義務なのである。
これらの選まれた人々が、まことにわたしを知るならば、他の人々にわたしを知らせることができる。知らなければどうして教えることができよう。ひとつたずねるが,あまりよく知らない人を愛することができるであろうか? 縁遠い者、信頼のおけぬ人のことを真の親しみをもって語ることができるであろうか? わたしはもっと親しくとりなしてもらいたい。霊魂が恩恵に浴していれば聖霊の神殿であることを知って、わたしを心の中に求めてほしい。心の中にほんとにわたしがいることを考えてもらいたい。天主、しかも愛の天主が。愛が恐れに打ち勝ち、ことにわたしが愛していることを決して忘れないように。多くの者は特別愛されて、選ばれたことをよく承知しているが自分のみじめさ、過失に悲しみ沈んで、前のようには愛されないなどという考えに捕われてしまう。この人々はわたしをよく知らないから、そんなことを思うのだ。わたしのみ心がなんであるかを了解しない。そのみじめさ過失こそ、わたしの慈悲をよびくだすのではないか。おのが弱さを認める時にこそ、へり下り、信頼をもって、わたしにくることができる。その時こそ過失を犯した前よりも、もっとわたしに光栄を帰することになる。
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自分のため他人のために祈る時も、きき入れられないかと、疑ったりすれば、同じように、わたしのみ心を尊敬することにならない。百夫長が、わたしのもとにきて、召使いの病気をなおしてくださいと願った時、彼は謙そんしていった。「主よ、われは主がわが家に入りたもうにはふさわしきものにはあらず」と。しかし信仰と信頼にみちたことばをつけ加えた。「されど主よ、ただひと言をだにのたまわば、わがしもべはいえん」と。この人はわたしをよく知っていた。わたしに期待する者の懇願を、拒みがたいことを知っていた。謙そんに加えて、堅い全き信頼があったから、わたしのみ心にたいへん光栄を帰した。ほんとにこの人はわたしのみ心を知りぬいていた。でもわたしは選まれた人々にしたように、彼にわたしを示したわけではなかった。
信頼こそ、つきぬ恩寵を、自分のためにも他人のためにもうるのである。心の底まで、わたしみ心を了解して、わたしをまだ知らないあわれな人々にその仁慈を示しておくれ。
わたしはふたたび繰り返す。今語ることはなにも新しいことではないが、ちょうど火を燃やし続けるためにまきが必要であるように霊魂も進歩し、新たに鼓舞するためには、新しい刺激がいる。わたしに身をささげた人々の中にも真の信頼を持っている者が少ない。それはわたしと緊密に一致して、暮らさないからである。わたしはあるがままの姿で皆を愛していることを知ってもらいたい。弱いから一度ならずつまずくであろう。たびたび約束したことを守らないであろう。でも更によくしようとの善意はわたしの光栄となる。またころんだのちに、へり下りわたしに信頼をおくこともわたしをたたえることとなるので、わたしのみ心は、その人々の上にめぐみの雨をふりそそぐのである。
どれほど、わたしは皆が、この親しい生活を更に新しい気持ちで始めたいと望んでいるかを知ってもらいたい。ただ祭壇のもとにある時ばかり、わたしと語ることに満足しないで、わたしはほんとに聖櫃の中にいるが、また彼らのうちにも生きているから。すべてのことをいっしょにしなければ気がすまない。なにごともわたしに語り、相談し、なんでもわたしに願うように。……わたしは彼らのうちの生命となって生き、力となって住んでいる。その心の中で親しく会合し、談話し、愛し、わたしの愛に答えるのを待っている。
多くの者が毎日黙想をするが、それは愛の密談よりも、一つの形式的なことにすぎないのではなかろうか? ミサにもあずかり聖体も受けるけれども、ひとたび聖堂から出ると、自分の仕事に夢中になって、ひと言もわたしに呼びかけようと思いもしないのではなかろうか? この人々の心の中で、わたしはさばくに住んでいる心地だ。わたしになにもいわず、なにも願わない……慰められたいと思う時、彼らの中にいる間近かの創造主であるわたしをさしおいて、被造物の他人に走ってゆく。これは一致も内的生活もないので、つまり愛のないことではなかろうか。
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再びわたしに身をささげた人々に言おう。どんなに特別にわたしが彼らを選び、わたしと親しく暮らし、わたしの心を痛めるすべての人に代わって、わたしを慰め、償ってもらうためであるか。その人々にわたしは、み心をよく学び、その心情をくみ、その念願をできる限り実現するつとめがあることを思い出させたい。
農夫は自分の畑を耕す時には、まず雑草をぬき、よい畑となるよう、どんな困難辛苦もいとわない。同じように選ばれた人々はわたしの念願を知った以上、熱心にこれをかなえるよう励み、わたしの光栄を増し、世の罪を償うため、どんな努力も苦しみも、いとわないように。ことにわたしと親しく一致して、わたしをひとりぼっちにしないこと、ああわたしをひとりしないこと! ……ある人々はこれを了解しないで、相手となって、わたしを慰めるはずであることを忘れている。……最後にわたしのみ心の中に一つとなって、すべての人が、真理の光に浴し、罪のゆるしをうるために、愛の連盟をつくるようにと願う。
わたしが受ける屈辱を見て、悲しみに貫かれれば、選ばれた者たちは、身をささげて、これを償い、わたしの事業のために働くにちがいない。その時こそ全き信頼を持って願え。わたしはその願いをしりぞけることはできず、すべてかなえてあげる。
ゆえに皆がわたしのみ心を学ぶように努力し、わたしを深く愛し、親しくわたしに語り、相談するように。またその行為をわたしの功徳でおおい、わたしの血に浸し、その一生を人々の救済と、わたしの光栄のためにささげるよう。自分の小さな考えに、ちぢこまってしまわないで、わたしの血、わたしの功徳の力強さを身にまとうことのできる喜びに満ちて、おのが力ではなにも大きいことはできないが、わたしといっしょに、わたしの名によって、わたしの光栄のために働くならば、どんなに力強いことであろう。
奉献された者たちは、償いの望みをいきいきとさせ、信頼をもって聖なる王の御代の来ることを願え。わたしが全世界の王となるよう。なにも恐れず、わたしに信頼し、わたしに期待せよ。罪人の改心の熱愛にもえ、彼らに同情して祈り、やさしさを尽くすよう。いかにわたしが同情深く、愛であり、仁慈であるかを世の人々に語るように。
祈りと苦業に身をかため、ことに信頼をあつくして、おのが力にたよらず、常にともにいるわたしのみ心の力と仁慈にすべてを期待して、使徒的働きに向かうよう。わたしの使徒たちは貧しい。無知な者であったが、天主の富と英知に満たされて賢い者となり、「み主のみ名によりて、働くゆえに、なにごともできるようになるでしょう」と。わたしは身を奉献した者から三つのことを願う。……
償い ― 償いは聖なる贖主と親しく一致して生活することで、彼と共に彼のために、彼の中に、その感情、念願に心をぴったりと合わせて、償いの精神をもって働くことである。愛 ― 愛とは、被造物の愛を求め、その低きにまで下りたもうた御者、全き愛にまします御者と親しく暮らし、愛をささげることである。信頼 ― 信頼とは善にましまし、あわれみ深き御者により頼み、その御者と昼夜生活することで、わたくしをよく知り、わたくしも知り奉る御者……わたくしを愛し、わたくしも愛する御者……選まれた人々を特に招きたもう御者と共に暮らし、そのみ心をよく知りすべてを期待することである。 
昭和37年12月5日初版発行 聖心女子学院編 







2020年4月19日白衣の主日の聖伝のミサの報告

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アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様!
今日は、白衣の主日で、東京では45名の方々(三回のミサの総計)が、大阪では19名の方々が、ミサに与りました!天主に感謝いたします!
【報告】Dear Fr Onoda:
今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。
09:00のミサ男: 13人(内、子供1人)女: 6人(内、子供2人)計: 19人(内、子供3人)
11:00のミサ男: 10人(内、子供1人)女: 4人(内、子供2人)計: 14人(内、子供3人)





12:30のミサ男: 4人(内、子供0人)女: 9人(内、子供0人)計: 13人(内、子供0人)
3回のミサの合計(ダブルカウントの1人を除く)男: 26人(内、子供2人)女: 19人(内、子供4人)計: 45人(内、子供6人)
天主と聖母に深く感謝いたします。


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