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【速報】聖ピオ十世会のシスター会 フランスのリュフェックにある修練院で

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アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様!
ニュースがあります。フランスのリュフェックにある聖ピオ十世会のシスター会の修練院では、今日の白衣の主日に、予定通り全ての儀式が執り行われました。
只今、連絡を受け取りました。
本日、日本の姉妹も一人、着衣式を受け、修道名として、マリ・エスペランスという名を頂いた、とのことです。
このシスターの為に、また世界中の聖ピオ十世会のシスターの方々の為に、愛する兄弟姉妹の皆様のお祈りをお願いいたします。
トマス小野田神父

下の写真は去年のアメリカでのものです。

下の写真は植物です。



【写真】聖ピオ十世会のシスター会の着衣式 フランスにて

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アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様!
日本から最初の聖ピオ十世会のシスター会への召命として、フランス時間の昨日、着衣式が執り行われました。
世界中で、同時に着衣式を受けたのは五名です。この日は七名が終生誓願を立て、二名が初誓願を立てた、とのことです。
日本からの姉妹の隣にいるのは、オーストラリアの女性です。
主よ、多くの聖なる修道士、修道女を与え給え!主よ、多くの聖なる修道士、修道女を溢れるばかり与え給え!主よ、日本からの多くの聖なる修道士、修道女を溢れるばかり与え給え!












2020年4月19日の白衣の主日 聖伝のミサの報告 YouTubeの動画

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

昨日(2020年4月19日)の白衣の主日の説教は「テレワーク」方式で、YouTubeでの録画でした。

もうご覧になった方々もおられると思いますが、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

こんな報告をいただきました。感謝いたします。

【報告】【大阪】
4月19日白衣の主日の御ミサには、19人の方々がごミサに与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!
You Tubeにお説教をアップしてくださり、ありがとうございます。お説教をミサの前に聴いてから御ミサに預かりました。
ペトロの否みに、5つの段階があると云う黙想は、初めて聞いたお話しでした。まず最初の段階の、祈りを欠くと、次の罪へ容易く誘われよるという事がよくわかりました。お祈りは、やっぱり大切ですね。頑張ります。
イエズス様のおん脇腹の傷に手を入れる意味の黙想は、目からウロコでした。
ミサの奉献では、その事を黙想しました。

イエズス様は、沈黙のうちに天主に讃美と礼拝ができる「砂漠」聖母マリアのもとに留まる。聖母はイエズスの十字架のもとに留まる

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2020年4月10日(金)聖金曜日のメッセージ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父様

“Stabat Mater Dolorosa.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は聖金曜日です。四旬節の最高潮、クライマックスに到達しました。

まず第1です。
四旬節の最初、私たちはイエズス様に付いて、砂漠に、荒野に行きました。この世を離れて、この世の喧騒、この世の楽しみから離脱して、友達と一緒に飲みに行くのも、友達と一緒に会食をするのも、避けた年でした。

そしてこの世から距離を置いて、あたかも離れ離れになったかのように生活しました。私たちは特に、離れ離れになったと言っても、それは隣人を嫌いになったわけではなくて、私たちは天主様を求めて、天主様と一緒にいる事を求めて、四旬節の中に入りました。

砂漠に、荒野に行きました。イエズス様と一緒に砂漠に行きました。

第2の点は、イエズス様にとって最も好きな、最も大切な砂漠の場所、沈黙と、この世の喧騒を離れて、天主に讃美と礼拝ができる場所とは一体、どこだったでしょうか?

それは「マリア様のいらっしゃる所」でした。

イエズス様は、この世に来られるその最初から、マリア様の御胎内におられました。御胎内において、礼拝と、沈黙と、天主の現存において、生活を始められました。

なぜかというと、マリア様こそ、最も神聖な、聖寵に満ち溢れた、聖なる神殿であったからです。生ける天主の神殿であったからです。そこにおいては、ただ天主の栄光を求める愛のみがありました。イエズス様とマリア様は、決して離れる事ができないものでした。

イエズス様がこの世に来られた時、こう言いました。イザヤの預言にこう書いてあります、聖パウロがそう言っています。“Ecce, Venio.”「見よ、私は来る。」

マリア様も、聖ガブリエルの言葉を聞いた時に、同じ事を仰います、“Ecce”“Fiat”「主の婢女、ここに在り。」「仰せの如く、我になれかし。」

この二人は、天主の栄光のみを追求していました。天主を愛する事だけを考えていました。讃美し、そして感謝し、そして祈りをする事だけを考えていました。
これほど素晴らしい砂漠、荒野が、他にどこにあるでしょうか?

第3の点は、イエズス様がマリア様の元に留まったように、マリア様はイエズス様の元に留まります。十字架の下に立ち留まります。イエズス様の元に、イエズス・キリストへの愛を込めて、苦しみに満ちて、留まりました。

なぜかというと、マリア様は聖寵に満たされた者であり、十字架に満ちた御方であるからです。

十字架の道行きの最初から、その極めてその初期から、マリア様はイエズス様の御跡を慕って歩きました。

マリア様は見ると、キレネのシモンが、強制的に十字架を担わされたではないですか。するとこのシモンは、嫌々ながら、ローマ人たちを恐れて、十字架を担います。

しかし、マリア様はおそらく、それよりももっと先に、もっと母の心に打たれて、「あぁ、この子ではなく、私が代わって十字架を担いたい。この子の代わりに、イエズスの代わりに、私が命を捧げたい」と、どれほど思った事でしょうか。

マリア様はでも、それができませんでした。なぜかというと、マリア様が今マリア様であるのは、この十字架のおかげであるからです。人となった天主が、罪の償いの為に、御血を流し、十字架を担ぎ、そして命を捧げられ、いけにえとなられる、それが為に、マリア様はマリア様としてある、この世の救いがなされる、と知っていたからです。

マリア様にとって、イエズス様を助ける事ができない、そして沈黙の内に、祈りの内に、礼拝の内に、ただ十字架に従う、という事は、どれほど大きな苦しみだったでしょうか。

イエズス様はベロニカからタオルを受けました。そして顔を拭く事ができました。マリア様はそれを見て、どれほどベロニカに感謝した事でしょうか。

しかし、もっとそれよりも前から、マリア様は何とか、イエズス様のその御体を拭きたい、きれいにさせてあげたい、と思われた事でしょうか。

イエズス様は、エルサレムの婦人を慰めます。しかし、御自分の御母は慰められませんでした。マリア様はその苦しみを深く、天主聖父に、イエズス様と共に御捧げしなければならなかったからです。

愛に満たされて、苦しみに満たされて、イエズス様の十字架の下に佇みます。

それは、愛する兄弟の皆さんと、私の罪の償いの為、この世の罪の償いの為、イエズス様と共に、共同贖い者(Corredemptrix)となる為でした。

マリア様の苦しみに思いを馳せつつ、マリア様と共に、イエズス様の十字架に佇む事ができる御恵みを乞い求めましょう。

“Stabat Mater Dolorosa.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

フランシスコ教皇に対する理解を深めるために:教皇フランシスコの新しさと第二バチカン公会議の展開

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ステイ・アット・ホーム(不要不急の外出自粛)の機会を利用して、フランシスコ教皇の思想(在位2013 - 現在)をよく理解するように努めましょう。

昨年は、教皇の訪日以外にも、アマゾン・シノドスやパチャママ、ドイツのシノドスの道、などの報道が大きくなされました。では、私たちの現教皇であるフランシスコは、これからカトリック教会をどのようにしようとするのでしょうか?

教皇フランシスコは、ヨハネ・パウロ二世とは違った道を行こうとするのでしょうか?それとも、同じ方向に動いているのでしょうか?

私たちは、教皇フランシスコは、第二バチカン公会議の路線を忠実に歩んでいる、と主張します。ただし、その進み方が加速度的に早まり、第二バチカン公会議の中に種子として小さく潜んでいたものが、花を咲かせ、実を付けつつあるという意味で「新しさ」も生じています。

これまでの7年にわたる在位期間での活動や発言を振り返り、フランシスコ教皇に対する理解を深めたいと思います。

第二バチカン公会議以後の教皇たちの行動の指針となる原理は、人間中心主義です。第二バチカン公会議が訴えた新しいヒューマニズムです。

「近代」の特徴は、世界が天主から離れること、この世を聖なるものと切り離すこと、世界の世俗化です。市民社会から教会とキリストと天主とを引き離すことです。聖なるもの(宗教)が、世俗の市民社会(政治)を指導することがないように、それ以前は両者のうちにあった調和を否定して、分離させることです。これは革命によってなされました。

新しいヒューマニズムは、革命によって引き起こされてしまった教会と国家の分裂を乗り越えようと、世俗のことがら(環境問題、移民政策、など)に言及し、それを聖なるものとしようとするかのようです。世俗と宗教の混同です。

もはや教会は、天主から啓示された超自然の真理を、世界や世俗の政治指導者たちに教えようとはしません。そうではなく、教会は世俗と対話し、世俗に聴従します。

人間中心主義の原理がどのように適応されるかについては教皇によって違いがあるとはいえ、しかし、公会議後の教皇たちは皆、同じ原理に従って動いています。

ここでは、図式的に第二バチカン公会議の思想の流れを見てみましょう。

【第二バチカン公会議:現代世界憲章 Gaudium et spes, 22】
「事実、天主の子は受肉によって、ある意味で自分自身をすべての人間と一致させた。」
Ipse enim, Filius Dei, incarnatione sua cum omni homine quodammodo Se univit.
スペイン語訳:El Hijo de Dios con su encarnación se ha unido, en cierto modo, con todo hombre.)

それが👇こうなる

【教皇ヨハネ・パウロ二世の回勅『人間の贖い主』 REDEMPTOR HOMINIS, 8 & 13】
「キリストは自分自身をすべての人間と一致させた。」

【カトリック教会の公教要理 432】
「キリストは、御托身を通して、自分自身をすべての人間と一致させた。」

それが👇こうなる

【教皇フランシスコの回勅『ラウダート・シ』LAUDATO SI, mi Signore, 245】
「天主は自分自身を私たちの大地と決定的に一致させた。」
「主はご自身をわたしたちの地球と決定的に結ばれた」(カトリック中央協議会訳)
245. ((Dios) se ha unido definitivamente a nuestra tierra.

お気づきになられたでしょうか?

ヨハネ・パウロ二世の「キリストは自分自身をすべての人間と一致させた」ということを乗り越えて、
フランシスコは「天主は自分自身を私たちの大地と決定的に一致させた」と主張しています。

これが教皇フランシスコの新しさであり、それと同時に、第二バチカン公会議の中にあった種子が成長した部分です。

これについて、さらに考察を続けましょう。

(続く)





私たちもイエズス様の脇の傷口に、私たちの手を入れてミサの黙想をしよう。

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2020年4月19日(主日)白衣の主日 聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教   聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。   愛する兄弟の皆さん、今日は白衣の主日、疑い深いトマスが、信仰を失って、イエズス様を信じなくなった、復活を信じなかったトマスが、「イエズス様の脇腹に手を入れるように」と招かれた福音が読まれた主日です。   私たちも一緒に、イエズス様の脇にイエズス様の傷口に、私たちの手を入れて、今日このミサの黙想する事に致しましょう。   「イエズス様の傷」というのは、一体何でしょうか? これは、イエズス様が私たちに対して持っている、憐れみ深い、「愛の証拠」です。   その昔、旧約時代には、イスラエルの民を救う為に天主は、モーゼを使って、紅海、紅い海を開かせて、そしてイスラエルの民を救い、そしてファラオとそのエジプトの大群を海の中に沈めました。   新約の今、イエズス様は私たちを救う為に、御自分の脇腹と、そして手と足の傷口を大きく開き、そして私たちを御自分の御血と御水で、そこから流れた血と水で救い、そして悪魔と罪を埋めてしまおうと、滅ぼしてしまおうと思われました。   この傷は、イエズス様の体に付いている傷は、3時間の十字架の上で付けられた、苦しい、その肉体的な、精神的な苦悩、私たちの為に受けた苦悩の証拠です。   かと言ってイエズス様は、その苦しみの間、不平不満を言ったわけではなく、苦々しかった大洋を通ったわけではなく、イエズス様の御父、天主、その御旨を果たしたい、というその従順の心、離脱の心、平和の心、そして甘美な心でそれを受け止めていました。   奉献、そして御捧げ、従順、「我になれかし。御旨の通りに、私のではなく、御父の御旨がなされますように」という愛に満ちた捧げ物でした。   イエズス様はですから、この世間の人たちの、あるいはイスラエルの旧約の大司祭たちの嘲りや、告発、あるいは嘘の挑発など、黙って、沈黙の内に捧げていました。   イエズス様が受けたその辱め、屈辱、全て御捧げになりました。イエズス様が体に持っているその傷は、それら全てを、その苦しみ全てを、私たちに証拠として出しています。   では私たちが、「その傷に私たちの手を入れる、トマスと一緒に手を入れる」という事はどういう事でしょうか?   それは、「私たちも、イエズス様が私たちに対して持っている、そのとてつもない大きい無限の憐れみ深い愛を認めて、そしてそれを信じる」という事です。「それに信頼する」という事です。「それから逃げるというのではなくて、それに近寄って、私たちをそれに合わせる、それに触れる」という事です。   聖ペトロが今日言います、「私たちは幼子のように、清らかな乳を飲み、そして古い人間を捨てて、新しい人を着るように」と。   聖ペトロもやはり同じ事をしました。ペトロの場合には、どうやってイエズス様を否んだかというと、色々な段階がありました。   まず第1は、「お祈りをしろ」と言われたにも関わらず、お祈りの時に眠りこけていました。   第2に、イエズス様は、お祈りをする事を大切にしていたのに、霊的な手段を大切にしていたのにも関わらず、ペトロは人間的な手段に頼ろうとしました。敵が来たらすぐに剣を取って、それで敵を打ち倒そうとしました。イエズス様はそのようなペトロを叱ります、「剣を鞘に収めよ。」主からこのように叱られてしまって、どうしようもなくなったと思った彼は、私たちの主を打ち捨てて逃げてしまいます。   第3には、それでもイエズス様の跡を追おうとしますけれども、どうなったのかと知ろうとしますけれども、しかし遠くから離れて従います。つまり冷淡だったという事です。もう熱心はありませんでした。イエズス様の近くに居たいという熱心はありませんでした。   第4には、そのような熱心がなくなって冷淡になったペトロは、今度は主の愛の暖かさの代わりに、物理的な温かさを求めました。焚き火にあたって、そして「あぁ、疲れた」と言って座って、その時でした。   最後に、ある召使いの女性が、「あぁ、あなたは、この人と一緒にいたではないか」と言うと、「違う!」と、イエズス様を否みました、世間体の為でした。   しかし、ペトロは回心します。   ちょうど聖トマスに、疑ったトマスにイエズス様が現れて、イエズス様がそのトマスを愛深い眼差しをかけて、そして、「さぁ、私の傷に、傷跡に手を入れよ」と仰ったように、ペトロも目が覚めます。   それは鶏が鳴いた時でした。その時に目が覚めました。   イエズス様を見ると、イエズス様はペトロの方を愛深く、憐れみ深く御覧になっていました。この愛の眼差しを見て、ペトロの心は動揺しました。そしてその場所を、罪の場所をすぐに逃げて、そして涙を、熱い涙を流して、そして悔悛しました。   後で、復活の後にイエズス様から尋ねられて、3つの愛の告白をします、「主よ、私は御身を愛しています。」   今日同じくマグダラのマリアも、弟子たちにペトロとヨハネに、「主がもう墓にいない」と言ってきたマグダラのマリアも、同じように悔悛した女性でした。   「罪の女」と言われた、罪の町に住んでいた有名な女性でしたが、彼女は「イエズス様の元に行く」、その事しか考えませんでした。   ある日、イエズス様がシモンの家にいた時に、世間体など顧みず、ただ一つの事しか願っていませんでした、それは、「イエズス様の足の元に居たい」と、そして「痛悔の涙でその足を洗いたい」と、「イエズス様に自分の悔悛の心を捧げたい」と、それだけでした。   このマグダラのマリアは、十字架の下でも同じ事をします。イエズス様の足元に留まって、そして自分の為にどれほどイエズス様が苦しまれた、というかを見て、そして悔悛の涙を流します。罪の痛悔の涙を流します。そして自分の小さないけにえを、イエズス様の傷口に添えたに違いありません。   今日私たちも聖トマスと同じように、私たちの手をイエズス様の傷口にそっと入れる事に致しましょう。   痛悔の心で、そしてイエズス様を愛する心で、私たちの罪の償いを添えて、イエズス様にお捧げ致しましょう。一言もおしゃべりなどせず、熱い涙を流して、そして十字架の下に留まりましょう。イエズス様の傷の元に留まりましょう。   イエズス様の苦しまれた、その御苦難を黙想して、そのすぐそばを触れる事に致しましょう。そして願わくは、決してそれから離れる事がないように。   聖パウロは言います、「キリストは『私』を愛して、『私』の為に御自分を御捧げになった」と。   聖トマスも、聖ペトロも、聖マグダラのマリアも、同じ事を考えていたに違いありません、「イエズス様は、私をここまで愛して、私の為にこれほど苦しまれた。だから私も、この自分の苦しみを、イエズス様に御捧げしたい。黙って捧げたい」と。「イエズス様に愛を捧げたい」と。   愛は私たちに、更にイエズス様に対する同情と、イエズス様と同じく、私もイエズス様のように苦しみたい、という感情を起こすようにさせてくれます。   では私たちも聖ペトロのように、またマグダラのマリアのように、そして疑い深いトマスのように、私たちの手を、イエズス様の脇腹に、イエズス様の傷口に乗せる事に致しましょう。   「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」   イエズス様の愛と、憐れみと、その無限の優しい、私たちを赦したい、というその心を信じる事ができますように、そしてそれと同時に、ペトロと、そしてマグダラのマリアがしたように、熱い痛悔の涙を流す事ができますように、そしてイエズス様の御跡に従って、イエズス様の足元にいつも、十字架の足下にいつも留まり続ける事ができますように、お祈り致しましょう。   「私たちがイエズス様の傷口に手を入れる、手を触れる」というのはまさに、「イエズス様の御傷に、私たちの痛悔、私たちの悔悛、私たちのいけにえを一緒に、それと添えて捧げる」という事に他ならないからです。「イエズス様の捧げる十字架に、ミサ聖祭に与る」という事に他ならないからです。   そして私たちがそれをする事ができますように、マリア様にお祈り致しましょう。   マリア様は決して、十字架の足下を離れませんでした。私たちもいつもこの傷口を離れる事がありませんように、イエズス様の無限の憐れみ深い愛を信じる事ができますように。   聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。




 


教皇フランシスコの考えを理解する:「天主は自分自身を私たちの大地と決定的に一致させた」(回勅「ラウダート・シ」)の意味

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ステイ・アット・ホーム(不要不急の外出自粛)を利用して、教皇フランシスコの考えをよく理解するようにしましょう。

前回は、教皇フランシスコの新しさであると同時に、第二バチカン公会議の展開を指摘しました。

教皇フランシスコの、教皇職を動かす原理・設計図はこれです。彼の実質的な最初の回勅『ラウダート・シ』の最後の一節(245)です。
「天主は自分自身を私たちの大地と決定的に一致させた。」

カトリック中央協議会訳では「主はご自身をわたしたちの地球と決定的に結ばれた」となっています。
この意味を探りつつ、考察しましょう。

【教皇ヨハネ・パウロ二世】

ヨハネ・パウロ二世は、その最初の回勅『人間の贖い主』で、自分の教皇職の原理・設計図・基本方針を発表しました。

それは「キリストは、御托身により、自分自身をすべての人間と一致させた」です。

これを土台・原理として、新しい教会の使命が説かれました。

「キリストはすべての人間と一致している」のだから、全ての人はすでに救われている。
しかし「キリストはすべての人間と一致している」ことは目に見えないので、教会は天主を目に見える形で現存させることがふさわしい、ただし、教師として人類に教えるのではなく、超越的な現実を証しするというやり方でそれをなす、とされます。

従って、教会の使命とは、証(あかし)となること、証人となることだとされます。これが教会の預言者としての役割とされます。

聖伝によれば、教会は教導教会(Ecclesia docens)と聴従教会(Ecclesia discens)の二つに区分されます。しかし第二バチカン公会議の新しい神学によれば預言者の役割は、全教会の役割とされます。

第二バチカン公会議の『教会憲章』 Lumen Gentium によれば、教会は人類の一致の「秘蹟」(秘義)であり、教会全体で目に見えない現実を証(あか)しする印(しるし)となる、とされます。世俗の世界で生活しながら、生活において、キリストを現存化させる、これが「新しい福音化」であり、模範によってどうしたら真の人間となるかを証しすることである、とされます。

ところで「キリストはすべての人間と一致している」ので、そしてこの一致はどのようなことがあっても失われないので、全ての人格(ペルソナ)は崇高なものとされます。

そこでヨハネ・パウロ二世においては、人間の人格の崇高さ(尊厳)を倫理道徳の基礎に置きます。キリストが自分を人間に与えたように、人間の人格は、自らを他者に与えることによって完成させられる、とされます。そこで、倫理基準は、その要求度がまだ高く、自分を他者に与えるために、自由が必要であるとされます。

【教皇フランシスコ】

しかし、フランシスコは、ヨハネ・パウロ二世を乗り越えます。ヨハネ・パウロ二世のさらに上を行きます。
「天主は自分自身を大地と決定的に一致させた。」

この原理から帰結される倫理基準は「大自然と調和している」ことです。

人間も環境(大自然・森林・大地・大洋・ジャングル・空気などなど)も、同じ被造物であり、人類は大自然に含まれているその一部に過ぎないのだから、人間は大地や大自然を大切にすべきである、これが道徳と倫理の基準になります。

大地は神聖にして犯すべからず。

従って、たとえば次のように結果に至ります。「アマゾン地域は、教会にとって、そして世界にとって、『全体のための一部 pars pro toto として、一つのパラダイムとして、全世界のための希望として』奉仕するべきである。」(アマゾン・シノドス討議要綱 37) 

「天主は自分自身を大地と決定的に一致させた」のであるから、例えば、アマゾン地域が、または別の先住民地域あるいは共有地域が、"信仰にとって意味を持つ場所" または "歴史の中での天主についての経験"であり、「天主の啓示の特定の源泉」であり、神学の基礎的原理や源泉についての「神学的場所」 loci theologici であるとされます。

アマゾン地域だけでなく「青年たち」も同じく一つの「神学的場所」(羅 locus theologicus, 西 un lugar teológico, 仏 un lieu théologique, 伊 luogo teologico, 英 a theological topic) とされます。

アマゾン・シノドスの最終文書(33)には次のようにあります。
Quiere ser compañera a la escucha reconociendo a los jóvenes como un lugar teológico, como "profetas de esperanza", comprometidos con el diálogo, ecológicamente sensibles y atentos a la "casa común".
「(…)アマゾン地域の教会は、青年たちの伴侶でありたく、また彼らの言うことをよく聞きたいと望む。青年を神学的場所として認め、また、対話に専心しエコロジーに敏感で「共通の家」に注意深い青年らを "希望の預言者" として認める。」

教会は、もはや能動的に人類に対して証人であろうとさえしません。

教皇フランシスコによれば、教会は受け身の立場であり、この世の言うことを弟子のように聞く(a la escucha)だけです。

教会は、聖伝によって伝わる役割、つまり「天主の垂れた啓示を人類に教える、超自然の真理で人類を教導するという権能・役割・カリスマ」を放棄します。そうではなく、聞くだけです。そうすることで「エコロジカルな市民性」(ラウダート・シ 211)を目指します。

もはや教会が言うことは、あまりにも平凡でありきたりのことに成り下がってしまいました!教皇フランシスコが私たちに回勅で訴えることを聞いてください。
「もっと経済的な余裕があっても、暖房をより少なく使い、温かい服を着る、…プラスチックや紙を使うことを避ける、水の消費を削減する、ごみを区別して出す、食べることができるだけ料理する、他の生き物に気をかける、公共の交通手段を使う、木を植える、無駄な電気を消す、… すぐに捨ててしまうのではなく再利用をする、これが正しい理由のために行われたとき、私たちの尊厳を表明する愛の行為となりうる。」(ラウダート・シ 211)

教会の最高の権威が、ごみのリサイクルについて話しています。霊魂の永遠の救いについて、ではなく。超自然の天主を信じ、礼拝し、希望し、天主を愛することではなく。天主の十戒についてではなく。
この地球をきれいに保つ、それはそれでよいことですが、天主の掟を守るというさらに良いことは忘れられています。「よし、全世界をもうけても、自分の命を失ったら、それが何の役にたつだろう。」たとえ環境汚染を終わらせて全宇宙を保全したとしても、永遠に霊魂を失うのなら何の益があるでしょうか?

現在の教会は、世俗のことがらを聖なるものとしようとするかのようです。

それと同時に、教会それ自身は、自らを非神聖化していきます。教皇フランシスコは教皇としての権威を自ら破壊しようとしてます。

カトリック教会が今まで大切にしてきたもの、愛してきたものにたいして、フランシスコは「非神聖化」を行います。

例えば、最近では、2019年12月12日グァダルーペの聖母の祝日では、教皇フランシスコは自分の司祭叙階50周年を祝いつつ(1969年12月13日叙階)、聖母について次の称号のみ本質的として認めました。つまり「女」「母」「婦人」「弟子」です。グァダルーペの聖母については「混血」としました。カトリック教会の聖伝の教えを「ばかげた話」だと反対して、とてもショッキングな発言もします。

「聖母は、自分の師(キリスト)つまり自分の御子である唯一の贖い主に忠実であり、自分のために御子から何かを取ろうとは望まなかった。聖母は自分を決して共同の贖い者(共贖者)として提示しなかった。そうではない。弟子だった。」
Virgen de Guadalupe: María “se mestizó para ser Madre de todos”Homilía del Santo Padre
"Fiel a su Maestro, que es su Hijo, el único Redentor, jamás quiso para sí tomar algo de su Hijo. Jamás se presentó como co-redentora. No, discípula."

この説教の終わりには、教皇フランシスコはこうも付け加えています。
「人々が私たちのところにやってきて、これこれを宣言すべきだとか、あれこれを教義にすべきだという話を持ってくるとき、私たちはそのようなばかげた話に道を迷わないようにしましょう。マリアは女性であり、私たちの婦人であり、御子の母であり、位階制の母なる教会の母であり、混血、私たちの民々の婦人、また、何と天主と「混ざった」方か。」

"Cuando nos vengan con historias de que había que declararla esto, o hacer este otro dogma o esto, no nos perdamos en tonteras: María es mujer, es Nuestra Señora, María es Madre de su Hijo y de la Santa Madre Iglesia jerárquica y María es mestiza, mujer de nuestros pueblos, pero que mestizó a Dios."


あるいは、「教皇庁年鑑」の最新版において、教皇の称号として「キリストの代理者」が取り除かれ、単なる「歴史的称号」(昔はそうだったが今はそうではない)として取り扱われています。教皇庁年鑑では、いまでは「ローマ司教、フランシスコ」だけが保存されて残りました。教理省元長官ミュラー枢機卿は「これは神学的野蛮行為だ」と表現しています。

つまり、教皇フランシスコは、教皇としての権威や名誉や品格をあえて破壊しようとするかのようです。何故なら教会の教導職とはもはや必要がないからです。教会は、天主から受けた啓示を人類に教えるのではなく、教会は人類の言うことを、大自然が言うことを聞くことが使命だ、とされるからです。

何故なら「天主は自分自身を私たちの大地と決定的に一致させた」からです。

続く

修道女というのは何か?その人たちは一体なぜ、人生をかけてそうするのか?

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「聖なる修道者の召命について」 2020年4月19日(主日)白衣の主日 聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。 愛する兄弟の皆さん、今日は白衣の主日で、フランスのルフェックという修練院で、またアメリカのブラワーヴィルという所にある聖ピオ十世会の修練院で、ある女性は着衣式を、そしてまた同時にある修道女は初誓願を立てます。またある修道女は終生誓願を今日立てます。 皆さんどうぞ、この修道女たちの為にお祈り下さい。コロナウィルスで色々混乱がありますけれども、もしも何もなければ全てがうまくいくならば、彼女たちはそのような儀式をするはずです。 ところで、今年の白衣の主日は、とても日本にとっては歴史的な日です。 なぜかというと、岩手県出身の私たちの姉妹の一人が、今日フランスのルフェックという所で着衣式をするからです。 着衣式というのは、修道女になる為に、誓願を立てる為に、その準備として、修練女として、ベールをかぶり、そして修道女としての服を、黒い、「この世に死んだ」という黒い服を着て、そしてスカプラリオをかぶり、また修道女としての特別な衣装を服を着ます。 でも一体、修道女というのは何でしょうか? 修道女というのは、天主様に身を捧げられた特別な方です。どうやって身を捧げるかというと、三つの誓願を立てます。この三つの誓願を立てる事によって、正式な修道女になります。 一つは「清貧」の誓願。第二は「貞潔」の誓願。第三は「従順」の誓願です。 「清貧」というのは、お金や、この地上の物事が与える快楽から離脱して、それを放棄する事です。 「貞潔」の誓願というのは、この肉体の喜び、あるいは快楽、あるいは家庭を築く、というものを放棄して、それをイエズス様の為に捧げる、という事です。 「従順」の誓願というのは、私たちの自由意志を、私たちの思いも捧げて、イエズス様の代理者である長上に従順に従う、という事です。 この三つの誓願を以って初めて、修道女となります。 一体、でもこの「修道女になる」というのは、あぁこれもダメ、あれもダメ、あれもダメ、という否定的なものだけなのでしょうか? この世が嫌いで、この世から逃げるのでしょうか?違います。全く違います。全くそういうものではありません。 そうではなくて、「修道女になる」というのは、「イエズス様の愛に惹かれて、イエズス様の近くに行きたい」と思って、「イエズス様が私たちの為に、私たちの救いの為に、御自分の尊い命を与えて下さって、御自分の尊き御血を全て流されて、十字架の下で苦しまれて、そして私たちを天国に導いて下さった、その愛を、愛で応えよう」と思っている方々です。 この世で、私たちにたった1つの名前しか与えられていません。私たちが救いを得る為には、この1つの名前しか、天上天下与えられていません。それは、『イエズス・キリスト』です。私たちの主イエズス・キリスト。 このイエズス・キリストにこそ、天と地の全ての権力が与えられています。この「イエズス・キリストに、愛で従いたい、愛で仕えたい」と思っている方々が、修道女です。修道士です。そして司祭です。 そして歴史上、どれほど多くの童貞女たちが、自分の身分は高貴であったにも関わらず、皇帝の娘であったにも関わらず、王様の娘でもあったにも関わらず、高貴な貴人から求婚されたにも関わらず、どれほど多くの方々が、それを拒否して、イエズス・キリスト様の為に、自分の一生を捧げた方がいるでしょうか。 どれほど多くの殉教者たちが、自分の命を全くイエズス・キリストに捧げて、そして全てを捧げて、その信仰によって信じ、死を以って、命を捧げた事でしょうか。 そればかりでありません。歴史上多くの、数多くの若い命たちが、若い方々が、イエズス様の愛に応えようと、イエズス様に奉仕しようと、自分の一生を捧げていきました。 このような方々は、病院で一生懸命、貧しい人に、あるいは病気の人、あるいは癩病の人、あるいは苦しんでいる人の為に奉仕して、あるいは一生をかけて公教要理を教えたり、イエズス・キリストの愛を教えたりした方々、あるいは宣教師のように自分の故郷を離れて、そしてイエズス・キリストの教えを、福音を教えようと、はるばる海を越えて、危険を冒して、命がけで宣教した方、数万、数え切れられないほどの霊魂たちがいます。 その人たちは一体なぜ、人生をかけてそうしたのでしょうか?ただその隣人を助けたい、という社会福祉の為だけだったのでしょうか? いえ、唯一その方々が持っていたのは、「イエズス・キリストを愛する為」です。イエズス・キリストに従う為でした。イエズス・キリストだけを求めて、彼らは命を捧げました。 なぜかというと、イエズス・キリストだけが、私たちが全てを捧げる価値があるからです。 そして今日、シスターたちが、聖ピオ十世会のシスターたちが、そのイエズス様の愛に、愛で応えようと、着衣式をして、誓願を立てて、一生を捧げようとされます。 もしもイエズス様への愛がなければ、もしもイエズス・キリストの為でなければ、どれほど美しいベールも、どれほど美しいシスターの修道服も、あるいは指輪も、あるいはその他も、全く意味をなしません。 願わくは、今日着衣式を受けるシスターたち、そして誓願を立てる、あるいは終生誓願を立てるシスターたちが、ますますイエズス様の愛に燃え立ちますように、イエズス様に終わりまで付き従いますように、忠実に従いますように、そして日本からも、世界中からも、このような霊魂たちがたくさん生み出されますように、お祈り致しましょう。 なぜかというと、このような霊魂がたくさんいればいるほど、生まれれば生まれるほど、イエズス様の栄光はますます輝きますし、そして公教会はますます発展するからです。 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



教皇フランシスコの考えを理解する:カトリックの信仰生活はどう変わるか?

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ステイ・アット・ホーム(不要不急の外出自粛)を利用して、教皇フランシスコの考えをよく理解するようにしましょう。

私たち、すでに教皇フランシスコの新しさであると同時に、第二バチカン公会議の展開を見て、

さらに、教皇フランシスコの、教皇職を動かす原理・設計図「天主は自分自身を私たちの大地と決定的に一致させた」について考察しました。

「天主は自分自身を大地と決定的に一致させた」という原理から帰結される究極の倫理基準は「大自然と調和している」ことです。この世と「対話」するとは「聞く」ということであり、この世に聴従し、「弟子」として「姉妹」としてこの世に従うということです。

天主に対する信・望・愛、礼拝と救霊について語らず、むしろリサイクルとか森林保全とかについて語るのが、人類の最高権威である教皇の役割なのでしょうか? これは何を意味するのでしょうか?

まず「司祭職」が、この世の「まつりごと」に飲み込まれてしまいます。言い換えると政治的になります。何故なら、超自然の方向性・要素がなくなるからです。天ではなく、大地に向かうからです。全道徳と倫理すべては、大自然と調和していることにあるとされるからです。だから「エコロジカルな回心」が求められています。

ですから、天主が大地と決定的に一致しており、私たちもその大地の一部であるから、資源の再利用をして自然を保全することが、「私たち人間の尊厳を表明する愛の行為」となりうるといわれるのです。

しかし、その時、人間が大自然と全被造物においておかれている特別の場所・地位は忘れられてしまいます。知性と意志の自由決定能力とをもつ特別な理性的存在、ということが忘れ去られます。

また、始原もなく終わりもない天主の超越性も忘れ去られます。いかなる意味でも被造物とは混同されることのなく、被造物をいま、ここに有らしめている天主については、語られません。

人間は、理性を使って、この全自然を超越する天主であるいと高き主を認識し信じ、創造主のみに捧げるべき礼拝を捧げるために、特別に創造されました。自然保護よりももっと更に崇高な理性的存在である人間のみができる行為、これが天主を礼拝することです。

人間だけが、理性を使って、自然を超越する天主を礼拝することができます。理性的存在だけが、天主と人間との間の無限の隔たりを認識するがゆえに、天主が有りて在るものであり、人間が有らしめられて在る無に等しいものであると理解するがゆえに、天主に礼拝を捧げることができます。

天主の御言葉は人となりましたが、それは大地と一致するためではありませんでした。天主御父の御旨(みむね)を果たすためです。「キリストは世にはいるときいわれた。"…そこで私は、"私について巻物に書きしるされてあるとおり、天主よ、私はあなたのみ旨をおこなうために来る"といった。"」(ヘブレオ10章)

人となった天主の御言葉は、私たちに天主に対する絶対従順の模範を示されました。イエズス・キリストの御人性(人間としての本性)は、私たちに礼拝を教える道具となりました。天主に死に至るまで従順であること、しかも十字架の死に至るまで従うことを教えてくれました。イエズス・キリストの存在はその最初の瞬間から十字架の死に至るまで、絶えざる天主御父に対する従順であり、礼拝でした。

人間にとっての最大の悪は、環境汚染でも地球温暖化でもありません。人間にとって最大の悪であり不幸は、罪を犯して天主を侮辱すること、その結果永遠の地獄に堕ちることです。

しかし、エコロジカルな回心はこれの全く反対を私たちに説きます。何故なら、自然を超えるものについて目をそらさせるからです。

目に見えない天主の超越性、自然を超える超越性を認めることができないとき、絶対の超越する天主に対する礼拝は、捧げることができなくなります。

これが道徳基準に適応されると、環境保護と自然保全こそが、天主に対する礼拝や天主の掟の遵守よりも重大なことになってしまいます。エコロジカルである限り、その他のことは何でも許されて当然と考えられる危険があります。

例えば、絶滅危惧種を守るために闘争することが善とする一方で、母の胎内にいる胎児を堕胎したり老人を安楽死させたりするのは問題としなかったり、自然を守ると言いながら自然に反する同性の結合には賛成したり、殺虫剤や化学薬品の使用に絶対反対と言いつつ避妊薬には賛成したり、二酸化炭素の削減のために、子供たちが多い大家族に反対したりすることでしょう。

アマゾン・シノドスの最終文書でも言われたように「青年を神学的場所として認め、また、対話に専心しエコロジーに敏感で「共通の家」に注意深い青年らを "希望の預言者" として認める」とき、教会は、新しい「預言者」たち、新しい「宣教師」たちをすでに認めているのかもしれません。例えば、その中にはまだ16歳にしかならないけれども、全ての国家元首に働きかける使命を天から受けたと信じている人もいるのかもしれません。

その時、天主がモーゼにシナイ山の上で与えた「天主の十戒」とは似て非なる新しい「エコロジカルな十戒」が作り上げられるかもしれません。たとえば、以下は、まったくの想像で書いてみます。

第一 大自然はなんじの主なり。大自然を保全すべし。
第二 なんじ、水も食べ物も電気もプラスチックも紙もみだりに使うなかれ。
第三 なんじ、絶滅危惧種を保護すべきことをおぼゆべし。
第四 なんじ、再生エネルギーの開発を敬うべし。
第五 なんじ、地を汚すなかれ。
第六 なんじ、海・川を汚すなかれ。
第七 なんじ、リサイクルをせずに捨てるなかれ。
第八 なんじ、公共交通機関を使わずに移動するなかれ。
第九 なんじ、ごみの分類をせずに捨てるなかれ。
第十 なんじ、電気・石油の使用をみだりに望むなかれ。

回勅『ラウダート・シ』の「天主は自分自身を私たちの大地と決定的に一致させた」ので「エコロジカルな回心」をしようと、これをそのまま受け入れるところでは、天主への礼拝が、カトリックの信仰生活を送ることが、不可能になってしまいます。

カトリックの信仰生活の道というよりか、新しい道です。「天主の愛は私たちを常にいくつもの新しい道を見出させてくれる。」(回勅『ラウダート・シ』245)

主よ、我らを憐れみ給え!

聖母よ、我らをして、この地が「追放」「逐謫」の場所であると理解させ給え!
聖母よ、我らをして、この地が、つかの間の儚い「涙の谷」であると理解させ給え!

元后あわれみ深き御母、われらの命、慰め、望みなるマリア、
われら逐謫の身なるエワの子なれば、御身にむかいて呼ばわり、この涙の谷に泣き叫びてひたすら仰ぎ望み奉る!

(続く)

アシジの聖フランシスコの「被造物たちの賛歌」別名「兄弟なる太陽の賛歌」Il Cantico del Frate Sole

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

アシジの聖フランシスコ(1181 – 1226)の「被造物たちの賛歌」別名「兄弟なる太陽の賛歌」をご紹介いたします。

原文はウンブリア地方の訛りのあるイタリア語で書かれており、病気の快復をした死の前の1224年ごろにアシジの近くのサン・ダミアノで書かれたと言われています。また聖フランシスコの死の直前に、彼の死の床で、最後の「姉妹なる肉体の死」の節も付け加えられて歌われたと伝えられています。

聖フランシスコ自身は、その時すでに盲目で光を失っていたけれども、心の目で被造物をよりはっきり「見る」ことができた、と言われています。

これを読むと、聖フランシスコが、被造物から、天主へと心を挙げていることがわかります。
それと同時に被造物の虚しさ・はかなさをも理解し、全ては、天主の賛美のための道具になっています。

聖フランシスコは、天主の御旨を愛し、天主を愛するがために全てを赦し、平和のうちに、天主への愛のために病を耐え忍び、悪を甘受し、十字架を担ったことがわかります。

聖フランシスコは、自分の十字架を耐え忍ぶことによってイエズス・キリストともっともよく似たものとなったと言われています。天主は人間となりました。私たちが真似ることができるため。イエズス・キリストが人となったのは、私たちに天主への礼拝を教えるためでした。

聖フランシスコの歌は、多くの人がこれを朗読しています。

Il Cantico del Frate Sole (Cantico della Creature) 兄弟太陽の賛歌、あるいは、被造物たちの賛歌 Altissimu, onnipotente bon Signore, いと高き全能の善き主よ、 Tue so' le laude, la gloria e l'honore et onne benedictione. 御身に賛美と栄光と誉れとすべての祝福あれ。 Ad Te solo, Altissimo, se konfano, いと高き御者よ、それらは御身のみにふさわしく、 et nullu homo ène dignu te mentovare. いかなる人間も、御身の名を呼ぶに値しない。 Laudato sie, mi' Signore cum tucte le Tue creature, 我が主よ、御身は賛美せられさせ給え、御身の全ての被造物とともに。 spetialmente messor lo frate Sole, 特に兄弟なる太陽さんとともに。 lo qual è iorno, et allumini noi per lui. 彼は昼であり、彼によって我らを照らし給い、 Et ellu è bellu e radiante cum grande splendore: 彼は美しく、偉大な輝きをもって光を放ち、 de Te, Altissimo, porta significatione. いと高き御者よ、彼は御身のしるしとなっている。 Laudato si', mi Signore, per sora Luna e le stelle: 我が主よ、御身は賛美せられさせ給え、姉妹なる月と星々のために。 in celu l'ài formate clarite et pretiose et belle. 天に明るく、貴く、美しく、御身は形作られた。 Laudato si', mi' Signore, per frate Vento 我が主よ、御身は賛美せられさせ給え、兄弟なる風のために。 et per aere et nubilo et sereno et onne tempo, また大気と雲と晴天と全ての天気のために、 per lo quale, a le Tue creature dài sustentamento. 彼らを通して、御身の被造物を維持し給う。 Laudato si', mi Signore, per sor'Acqua. 我が主よ、御身は賛美せられさせ給え、姉妹なる水のために。 la quale è multo utile et humile et pretiosa et casta. 彼女はとても有用で、謙遜で、貴く、貞潔なり。 Laudato si', mi Signore, per frate Focu, 我が主よ、御身は賛美せられさせ給え、兄弟なる火のために。 per lo quale ennallumini la nocte: 御身は彼で夜を照らし給う。 ed ello è bello et iocundo et robustoso et forte. また彼は、美しく、楽しく、たくましく、力強い。 Laudato si', mi Signore, per sora nostra matre Terra, 我が主よ、御身は賛美せられさせ給え、姉妹なる母なる大地のために。 la quale ne sustenta et governa, 彼女は、我らを維持し治め、 et produce diversi fructi con coloriti fior et herba. 色とりどりの花と草とともに様々な果実を生み出す。 Laudato si', mi Signore, per quelli che perdonano per lo Tuo amore 我が主よ、御身は賛美せられさせ給え、御身への愛のために赦す人々のために。 et sostengono infrmitate et tribulatione. また病いと艱難を苦しむ人々のために。 Beati quelli ke 'l sosterranno in pace, 平和のうちに耐え忍ぶ人々は幸いなるかな、 ka da Te, Altissimo, sirano incoronati. いと高き御者よ、彼らは御身により栄冠を受けるだろうから。 Laudato s' mi Signore, per sora nostra Morte corporale, 我が主よ、御身は賛美せられさせ給え、我らの姉妹なる肉体の死のために。 da la quale nullu homo vivente pò skappare: いかなる生ける人間は誰も、彼女から逃げることができない。 guai a quelli ke morrano ne le peccata mortali; 大罪のうちに死ぬ人々は、わざわいなるかな。 beati quelli ke trovarà ne le Tue sanctissime voluntati, 御身のいとも聖なる御旨のうちにある人々は、幸いなるかな。 ka la morte secunda no 'l farrà male. 第二の死が、彼らを害することはないだろうから。 Laudate et benedicete mi Signore et rengratiate 我が主を、賛美し、祝福し、感謝せよ、 e serviateli cum grande humilitate. 大きな謙遜もて主に仕えよ。

幼きイエズスの聖テレジアの詩「愛に生きる」 Vivre d'Amour をご紹介いたします

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

幼きイエズスの聖テレジア(1873 - 1897)の詩「愛に生きる」 Vivre d'Amour をご紹介いたします。
幼きイエズスの聖テレジアは、ほとんどの詩を従順によって書きましたが、この詩については1895年2月26日自発的に心からわき起こったものです。三日間これを暗記していましたが、灰の水曜日になる前日の火曜日にこれを書き留めました。

これを読むと、リジューの聖テレジアの模範は、全てイエズスへの愛に基づいていることがわかります。「インテグラル・エコロジー」などではなく、ただイエズス・キリストだけ、それだけを熱烈に愛し求めていることがひしひしと伝わってきます。

Vivre d’amour 愛に生きる Au soir d’Amour, parlant sans parabole 愛[なる主の人生]の夕べ、たとえを使わずに話されて、 Jésus disait : "Si quelqu’un veut m’aimer イエズスは言われた。「もしも誰かが私を愛したいのなら、 Toute sa vie qu’il garde ma Parole 一生の間、私の御言葉を、守ること。 Mon Père et moi viendrons le visiter. 私の御父も私も彼を訪れに来るだろう。 Et de son cœur faisant notre demeure その心を私たちの住処とし、 Venant à lui, nous l’aimerons toujours !… 彼のところに来て、私たちは彼をいつまでも愛するだろう! Rempli de paix, nous voulons qu’il demeure 平和で満たし、私たちは彼に留まる、 En notre Amour !…" 私たちの愛のうちに! Vivre d’Amour, c’est te garder Toi-Même 愛に生きる、それは御身を守ること Verbe incréé, Parole de mon Dieu, 創られない御言葉、我が天主の言葉を。 Ah ! tu le sais, Divin Jésus, je t’aime ああ、天主なるイエズス、御身は知り給う、私が御身を愛することを。 L’Esprit d’Amour m’embrase de son feu 愛の霊は、ご自分の火で私を包む C’est en t’aimant que j’attire le Père 御身を愛しつつ、私は御父を引き寄せる。 Mon faible cœur le garde sans retour. 私の弱い心は、後戻りせずに、これを守る。 O Trinité ! vous êtes Prisonnière ああ、三位一体よ!御身は囚われの身、 De mon Amour !… 私の愛の囚人! Vivre d’Amour, c’est vivre de ta vie, 愛に生きる、それは御身の命を生きること、 Roi glorieux, délice des élus. 栄光の王よ、選ばれた者たちの喜びよ。 Tu vis pour moi, caché dans une hostie 御身は私のために、ホスチアに隠れて生きておられる。 Je veux pour toi me cacher,ô Jésus ! おお、イエズスよ、私は御身のために身を隠したい! A des amants, il faut la solitude 愛する二人には、孤独が必要、 Un cœur à cœur qui dure nuit et jour 心と心で、昼も夜も、 Ton seul regard fait ma béatitude 御身の眼差しだけで、私は至福になる、 Je vis d’Amour !… 私は愛に生きる! Vivre d’Amour, ce n’est pas sur la terre 愛に生きる、それはこの地上で Fixer sa tente au sommet du Thabor. タボル山の頂に自分の幕屋を作ることではない。 Avec Jésus, c’est gravir le Calvaire, むしろイエズスとともにカルワリヲを登ること、 C’est regarder la Croix comme un trésor !… 十字架を宝のように眺めること! Au Ciel je dois vivre de jouissance 天国では、私は喜びを生きるに違いない、 Alors l’épreuve aura fui pour toujours その時は、試練は永遠に逃げ去ってしまうことだろう。 Mais exilée je veux dans la souffrance でも、逐謫(ちくたく)の身なる私は苦しみのうちに Vivre d’Amour. 愛に生きたい! Vivre d’Amour, c’est donner sans mesure 愛に生きる、それは程度なく与えること Sans réclamer de salaire ici-bas この世での報いを求めず、 Ah ! sans compter je donne étant bien sûre ああ、計算せずに私は与える、もちろん Que lorsqu’on aime, on ne calcule pas !… 愛するときには計算などしないから! Au Cœur Divin, débordant de tendresse 優しさのあふれ出る天主の聖心に、 J’ai tout donné… légèrement je cours 私はすべてを与えた… 身軽になって私は走る。 Je n’ai plus rien que ma seule richesse 私にはもう何も残っていない、ただ私の唯一の宝は Vivre d’Amour. 愛に生きることだけ。 Vivre d’Amour, c’est bannir toute crainte 愛に生きる、それは全ての恐れを追い払うこと、 Tout souvenir des fautes du passé. 過去の過ちの数々の全ての記憶も。 De mes péchés je ne vois nulle empreinte, 私の罪は、何の跡形も私は見ない。 En un instant l’amour a tout brûlé….. 瞬間に、愛はすべてを焼き尽くした…、 Flamme divine, ô très douce Fournaise ! 天主の炎よ、おお、いとも甘美なかまどよ! En ton foyer je fixe mon séjour 御身の家に、私は住処を定める、 C’est en tes feux que je chante à mon aise : 御身の火において、私は安心して歌う、 « Je vis d’Amour !… » 「私は愛に生きる!」と。 Vivre d’Amour, c’est garder en soi-même 愛に生きる、それは自分において Un grand trésor en un vase mortel 死すべき器において、偉大な宝を守ること、 Mon Bien-Aimé, ma faiblesse est extrême 私の愛する方よ、私の弱さはあまりにもひどく、 Ah je suis loin d’être un ange du ciel !… ああ、私は天の天使からは程遠くにいる! Mais si je tombe à chaque heure qui passe しかし、毎時間、私が倒れても、 Me relevant tu viens à mon secours, 御身は私を助けに、私を起こしに来てくださる。 A chaque instant tu me donnes ta grâce 各瞬間、御身は私に恵みを下さり、 Je vis d’Amour. 私は愛に生きる。 Vivre d’Amour, c’est naviguer sans cesse 愛に生きる、それは航海すること、絶えず Semant la paix, la joie dans tous les cœurs 平和、喜びを全ての心に種まきながら、 Pilote Aimé, la Charité me presse 愛する水先案内人よ、愛徳は私を急がせる Car je te vois dans les âmes mes soeurs 私の姉妹たちの霊魂に御身を見るから。 La Charité voilà ma seule étoile 愛徳、それが私の唯一の星 A sa clarté je vogue sans détour その光で私は後戻りせずに旅する。 J’ai ma devise écrite sur ma voile : 私の帆の上には私のモットーが書かれている、 « Vivre d’Amour. » 「愛に生きる」と。 Vivre d’Amour, lorsque Jésus sommeille 愛に生きる、イエズスが眠られているとき。 C’est le repos sur les flots orageux それは、嵐の波の上でのお休み Oh ! ne crains pas, Seigneur, que je t’éveille ああ、主よ、心配し給うな、私は御身を起こしません。 J’attends en paix le rivage des cieux… 私は平和のうちに天国の岸を待つ…。 La Foi bientôt déchirera son voile 信仰は、もうすぐそのベールを破るだろう、 Mon Espérance est de te voir un jour 私の希望は、ある日、御身を見奉ること、 La Charité enfle et pousse ma voile 愛徳は膨らみ、私のベールを取る Je vis d’Amour !… 私は愛に生きる! Vivre d’Amour, c’est, ô mon Divin Maître 愛に生きる、おお、天主なる師よ、それは Te supplier de répandre tes Feux 御身の火を広げてくださるように懇願すること、 En l’âme sainte et sacrée de ton Prêtre 御身の司祭の聖なる神聖な霊魂において、 Qu’il soit plus pur qu’un séraphin des cieux !… 願わくは、司祭が天国のセラフィムよりももっと純潔であるように! Ah ! glorifie ton Eglise Immortelle ああ、不死の公教会に栄光を与え給え! A mes soupirs, Jésus ne sois pas sourd 私の懇願に、イエズスは聾者ではない、 Moi son enfant, je m’immole pour elle 私はその子供、教会のために自分を屠る、 Je vis d’Amour. 私は愛に生きる。 Vivre d’Amour, c’est essuyer ta Face 愛に生きる、それは御身の御顔(みかお)を拭(ぬぐ)うこと、 C’est obtenir des pécheurs le pardon それは罪びとたちに赦しを得ること O Dieu d’Amour ! qu’ils rentrent dans ta grâce 愛の天主よ!願わくは彼らが聖寵に入り、 Et qu’à jamais ils bénissent ton Nom…. とこしえに御身の聖名を祝せんことを…。 Jusqu’à mon cœur retentit le blasphème 私の心にまで、冒涜が響く Pour l’effacer, je veux chanter toujours : それを消し去るために、私は永久に歌いたい、 Ton Nom Sacré, je l’adore et je l’Aime

Je vis d’Amour !… 「御身の聖名を私は礼拝し、愛し奉る Je vis d’Amour !…" 私は愛に生きる!」と。 Vivre d’Amour, c’est imiter Marie, 愛に生きる、それはマリアをまねること、 Baignant de pleurs, de parfums précieux, 涙にずぶ濡れとなり、貴重な香水で、 Tes pieds divins, qu’elle baise ravie 恍惚と接吻した天主の御足を Les essuyant avec ses longs cheveux… その長い髪で拭く… Puis se levant, elle brise le vase 次に立ち上がって器を壊す Ton Doux Visage elle embaume à son tour. 御身の甘美な御顔に、香油を塗る。 Moi, le parfum dont j’embaume ta Face 私が、御身の御顔に塗る香水は、 C’est mon Amour !… 私の愛! « Vivre d’Amour, quelle étrange folie ! » 「愛に生きるなんて、何と逸脱した愚かなこと!」 Me dit le monde, " Ah ! cessez de chanter, この世は私にこう言う、「さあ、歌うのをやめなさい、 Ne perdez pas vos parfums, votre vie, あなたの香水を、あなたの一生を無駄にしなさるな、 Utilement sachez les employer !…" もっと有益にお使いなさい!」と。 T’aimer, Jésus, quelle perte féconde !… イエズスよ、御身を愛するとは、何と実りの豊かな損失か! Tous mes parfums sont à toi sans retour, 私の香水は、お返しなく、みんな御身のもの、 Je veux chanter en sortant de ce monde : 私はこの世を出るとき、こう歌いたい、 « Je meurs d’Amour ! » 「私は愛に死ぬ!」と。 Mourir d’Amour, c’est un bien doux martyre 愛に死ぬ、それは本当に甘美な殉教 Et c’est celui que je voudrais souffrir. それこそ私が苦しみたいこと。 O Chérubins ! accordez votre lyre, おお、ケルビムよ、あなたたちの竪琴をください、 Car je le sens, mon exil va finir !… 何故なら、私の逐謫(ちくたく)がもう終わりそうだから! Flamme d’Amour, consume-moi sans trêve 愛の炎よ、手加減することなく私を燃やし尽くし給え、 Vie d’un instant, ton fardeau m’est bien lourd ! 一瞬の命、御身のくび木は私にはとても重い! Divin Jésus, réalise mon rêve : 天主なるイエズスよ、私の夢を実現させ給え Mourir d’Amour !… 愛に死ぬ夢を! Mourir d’Amour, voilà mon espérance 愛に死ぬ、それが私の希望 Quand je verrai se briser mes liens 私が鎖を断ち切るのを見るだろう時、 Mon Dieu sera ma Grande Récompense 私の天主は、偉大な報いとなるだろう、 Je ne veux point posséder d’autres biens. 私はその他のものを所有したいと全く思わない De son Amour je veux être embrasée 私は、天主の愛に燃え上がりたい、 Je veux Le voir, m’unir à Lui toujours 私は天主を見たい、とこしえに天主に私を一致させたい Voilà mon Ciel… voilà ma destinée : これが私の天国… 私の運命 Vivre d’Amour !!!… 愛に生きる!!!

以下は、私の自由な日本語訳です。

愛の主は、秘密を明かす。「愛すとは、主のみことばを、守る者なり。」
「愛ゆえに、また聖父も聖子と共に来て、愛し給いて、慈しむなり。」
「合い共に住処を定め、聖父と聖子は、平和をのこし、恵みを与ゆ。」

愛に生く、主の御言葉を守る時、三位は我に留まり給う。
愛に生く、我を愛してホスチアに隠れ留まる御身のために。
愛に生く、御身と共に、十字架を宝の如く担い苦しむ。

愛に生く、この世に生きるその間、御身のために愛に生きたい。
愛に生く、報い求めず惜しみなく、主の聖心に全て与える。
愛に生く、過ぎし過ち、罪、とがは、主の愛の火に焼き尽くされて。

愛に生く、無限の宝、胸に秘め、いつも恵みに助けられつつ。
愛に生く、慶び平和まき散らし、隣り人らに、主を見いだして。
「愛に生く」、帆に書かれたる合い言葉、愛の星へと航路一途に。

愛に生く、嵐の海に休む主よ、眠り続けよ!主に信頼す。
愛に生く、御身をまみゆその日には、信仰は失せ、希望は消える。

愛に生く、天使らよりも司祭らが愛に燃ゆるを祈り求める。
愛に生く、主の教会が栄ゆため、いけにえとして我を捧げる。

愛に生く、御顔をぬぐい、罪人の罪の赦しを、ただこいねがう。
愛に生く、主のあざけりを思いつつ、我、主の聖名をとわに愛さん。

愛に生く、香油を捧ぐマグダラをまねて御足に口づけをせん。
愛に生く、御顔に捧ぐ、わが香油、それはわが愛、主にのみ捧ぐ。

愛に生く、この世は叫ぶ、さげすみて「愚かなことよ、時間の無駄だ」と。
愛に生く、なんと豊かな損失か!ついに歌わん「我、愛に死す!」

愛に死す、焼き尽くしませ、愛の火よ、わが夢に見るは愛に死すこと。
愛に死す、主こそ報いよ、わが希望、主を見る日まで、我、愛に生く。

2020年4月26日(主日)前後の聖伝のミサの予定:Traditional Latin Mass for April 26, 2020

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今週末:2020年4月24日(金)25日(土)26日(主日)のミサの予定を再確定します。予定通りです。

【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階 〒532-0002 (アクセス)JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分(地図

 4月24日(金)  17:30 ロザリオ及び告解  18:00 ミサ聖祭

 4月25日(土) 10:00 ロザリオ及び告解  10:30 ミサ聖祭

 4月26日(日) 17:30 ロザリオ及び告解  18:00 ミサ聖祭

 4月27日(月)  平日(4級)白  6:30 ミサ聖祭

【東京】 東京では4月12日(日)から会場をしばらく変更します。

住所: 東京都台東区入谷1-27-4 
会場の名前:プラーズ入谷 『入谷ホール』  Special Mass Location-0412.pdf - Google ドライブ

4月26日(日)主日ミサが三回捧げられます。

09:00 ミサ聖祭 歌ミサ(ライブ中継をいたします)Facebook live

https://www.facebook.com/arata.nunobe

11:00 ミサ聖祭 読誦ミサ
12:30 ミサ聖祭 読誦ミサ

【お互いに社会的距離を取ることができるように、分散してミサにあずかっていただければ幸いです。9:00のミサには比較的に参加者が少ないことが予想されるので、なるべく9時のミサにいらしてください。】

【お知らせ】

来月に予定されていた「聖ピオ十世会日本公式秋田巡礼」は、新型コロナウイルスの感染拡大回避のための緊急事態宣言が発令され、巡礼はその対応期間となってしまったために、状況を鑑みて、延期とさせていただきます

ご理解と御譲歩をよろしくお願いいたします。

Ave Maria Immaculata!

My dearest Brethren!

I want to reconfirm the Mass schedule for the weekend of April 26, 2020.

Mass times in Tokyo: 09:00 - Sung mass 11:00 - Low mass 12:30 - Low mass Mass location: Iriya Hall 3F Address: Plars Iriya 3F, 1-27-4, Iriya, Taito-ku, Tokyo (near Metro Iriya, JR Uguisudani and JR Ueno stations) Map and directions: Please see the pdf file. Special Mass Location-0412.pdf

Mass schedule in OSAKA:

Fri, April 24 : Holy Sacrifice of the Mass at 18:00

Sat, April 25 : Holy Sacrifice of the Mass at 10:30

Sun, April 26 : Holy Sacrifice of the Mass at 18:00

Mon, April 27 : Holy Sacrifice of the Mass at 06:30

90年前の4月24日、聖マクシミリアノ・コルベは日本に

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アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様!
今から90年前のことです。
1930年4月24日に聖マクシミリアノ・コルベ神父は、ゼノ修道士、ヒラリオ修道士ら3人で長崎に到着しました。
無原罪の聖母(インマクラータ)の騎士、しもべ、奴隷、子供であるコルベ神父様を日本に送り下さった三位一体に感謝いたします。





イエズス・キリストこそ真の良き牧者 御復活後第2主日の説教 Sermon for Good Shepherd Sunday

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

御復活後第2主日は「良き牧者の主日」と呼ばれています。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeでの録画の説教の動画をご紹介いたします。

今日の主日を聖として良くお過ごしください。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

2020年4月26日 復活後第二主日のミサ報告 SSPX Japan Traditional Latin Mass on April 26

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アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様!
天主に感謝!マリア様に感謝!
日本では、3月と4月の2ヶ月にわたって、毎週主日に東京と大阪で聖伝のミサを捧げることができました!八主日連続です!
コロナウイルス感染による疫病が一刻も早く終息しますように、ミサで祈り続けています。
良き牧者の主日には、東京で総計51名が、大阪では16名の方々が、聖伝のミサに与ることができました!
東京では、より換気の良い場所でミサを捧げておりますが、会場の準備やミサの祭壇設営その他の様々な仕事の為に、多く兄弟姉妹の方々の寛大で献身的なご協力を頂いております。深く深く感謝いたします。
今のところ、このまま五月も同じように主日のミサを捧げる予定です。
【報告】【東京】Dear Fr Onoda:
今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。
09:00のミサ男: 12人(内、子供1人)女: 11人(内、子供2人)計: 23人(内、子供3人)
11:00のミサ男: 10人(内、子供3人)女: 8人(内、子供4人)計: 18人(内、子供7人)
12:30のミサ男: 4人(内、子供0人)女: 8人(内、子供0人)計: 12人(内、子供0人)
3回のミサの合計(ダブルカウントの2人を除く)男: 24人(内、子供4人)女: 27人(内、子供6人)計: 51人(内、子供10人)










「良き牧者」とは一体何か?

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アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様!
2020年4月26日(主日)御復活後第2主日(良き牧者の主日)を御紹介いたします。
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は良き牧者の主日です。福音で、私たちの主イエズス・キリストの「良き牧者である」という事を読みました。
「良き牧者」とは一体何でしょうか?
良き牧者というのは、羊の為に命を与えて、羊の前を行って羊を導き、そして良い牧草の所まで連れて行って、良い草を与えて、そして羊の為に命をかけて守る牧者です。
イエズス様こそ、イエズス・キリスト様こそ、私たちの本当の良き牧者です。なぜかというと、私たちに本当の食べ物、本当に健全な良い食べ物を、「真理」と「愛」と「聖寵・御恵み」、そして私たちに「天国に対するものすごい望み」を与えてくれるからです。
イエズス様は仰いました、「私は門である。私を通してでなければ、聖父の元に行く事はできない。」「私は道である、命である、私は真理である。私は道・真理・命。聖父に向かう唯一の道。これを通らなければ、聖父に行く事ができない」と仰います。
イエズス様は私たちに「真理」を教えてくれます。私たちは何を信じるべきか、何をするべきか、何をどうやって天国に行くべきかを教えてくれる、真理です。
イエズス様は私たちに「命」を与えてくれます、超自然の命を、特に御聖体において、御自身を与えてくれます。このような良き牧者を持つ私たち羊たちは、何と幸せな事でしょうか。
ところで、イエズス様は同じ福音で、私たちにこうも言います、「でも、雇い人がいる。雇い人というのは、少しでも自分の身に危険があると逃げ去ってしまって、そして羊のことは心にかけない。どうなってもいい。そして羊たちは指導者を失って、牧者を失って、散らされてしまう。打ち捨てられてしまう。」
今、何か私たちは、この時代を生きているかのようです。教会は攻撃を受け、危険に晒されて、この世から、「もっと教えを変えた方がいいんじゃないか」と責められています。するとあたかも、私たちにイエズス・キリストへの愛を、イエズス・キリストへの礼拝を、イエズス様への信仰を教えるべき人が、「あぁ、イエズス様じゃなくても、他の宗教でも救われるんじゃないか」とか、「どの宗教でも、どんな道を通ってもいいんじゃないか」「私たちはもっと自由であればいいんじゃないか」「他の人がこういう風にやりたいと思ったら、じゃあそういう事も、結婚として認めてあげたらいいんじゃないか」「もしもこの人がそれを、罪を犯したいならば、それも権利じゃないか」などと。
そして「イエズスを礼拝したい、御聖体を愛したい、敬いたい」という人はむしろ、牧者から排斥されたり、あるいは罵られたり、馬鹿にされたりします。
御聖体のみならず、「マリア様に対してお祈りをしたい。マリア様に対してお祈りをする」と言うと、「そうしてはいけない」と。
「マリア様が共贖者である、イエズス様と共に私たち人類を贖う為に、共に十字架の下で、私たちの救霊の為に贖いをして下さった第二のエヴァだ」と言うような人には、「あぁ、そんな馬鹿げた話は無い」と。
今までカトリック教会が2000年間大切にしてきたものを、そのまま信じようとすると、そのまま実行しようとすると、却って「破門だ」とか、あるいは「異端だ」とか、あるいは「教会の外にいる」とかと言われます。
あたかも天主ではなくて人間が、天主の座に座りつつあるかのようです。
愛する兄弟の皆さん、この教会の今、この暗闇の時代において、牧者が逃げてしまっているかのように見える、そして羊たちが散らされてしまっているかのように見える今この現代、私たちは、イエズス・キリストを良き牧者として、眼をはっきりとそこに留める事に致しましょう。それに固定する事に致しましょう。イエズス様をしっかりと見つめる事に致しましょう。
イエズス様こそ、私たちに本当の超自然の命の源を与えてくれます。「御聖体」です。
イエズス様こそ、この地を聖化してくれました。何故かというと、御血を流されて、そしてこの私たちに恵みを与えて下さったからです。最も大切なのは、「イエズス様の十字架の、イエズス様御自身」であって、この大地ではありません。
イエズス様こそが、唯一の良き牧者、そして唯一の救い主。
イエズス様の捧げるいけにえ、「十字架のいけにえ」こそが、唯一の本当に、天主の心に適ういけにえ。
そしてイエズス様の歩いた「十字架の道」こそ、唯一復活に導く、超自然の命へ導く道。
そしてイエズス様の立てた「聖なるカトリック教会」こそが、唯一の真のキリストの群れ。それ以外にはありません。
この真理を、この世は拒否するかもしれません、「もっと別のイデオロギーとか、もっと別の思想を受け入れるべきだ」と言うかもしれません。
でも私たちは、イエズス・キリストに、良き牧者に従いたい思います。天主様の御恵みによって、特別の御助けによって、真の良き牧者の仰る、本当の声を聞き分けたいと思っています。イエズス・キリストのみを真の救い主として、真の天主として、人となった真の天主として、礼拝したいと思っています。天主様の御恵みによって、イエズス・キリストを信じ、イエズス様の御教えに忠実でありたい、2000年間ずっと忠実であったその教会が、ずっと教え続けてきたその教えに、忠実でありたい、それを信じ続けたい、それと同じ事を信じ、実践し、愛したい、と願います。
聖パウロは言います、「たとえ、天からの天使であろうと、もしも他の福音を伝えるならば、彼は排斥されよ。」
イエズス・キリストの御言葉は決して過ぎ去る事はありません。天と地が過ぎ去っても、イエズス様の御言葉は、真理は、そのまま残ります。
イエズス様は私たちに本当の礼拝を教えてくれました。被造物が私たちの天主に為さなければならない、第一の義務です、「被造物として、創造主を認識して、そして愛を込めて礼拝する」という事です。
知性もそして意志もない動物植物たちは、この大地は、ただ有る、存在しているだけで主を礼拝します。自然の本能に従って、主を讃美します。
しかし知性と意思を持っている私たち人間は、この「理性」を使って、全ての被造物をその手段として、これを通して、主の為にこれを使い、主を創造主として認めなければなりません。これは人間にのみ、理性的な存在にのみ課せられている、特別な義務です。「礼拝」という事です。
私たちはその事を教えて下さった、イエズス・キリストに従いたいと思います。
私たちは今言われているような、全ては、私たちの心も、体も、精神も、全てを込めて、環境を大切にする、そうではなくて、心を尽くして、力を尽くして、全てを尽くして、「真の主なる天主を愛し、そしてその尊き御旨を果たす。イエズス・キリストがいつも教えて下さったその教えを、信じ続けたい、やり続けたい」と思います。
つまり私たちは、integralな、欠ける事のない、そのままのカトリック信仰を信じる事によって、その声を聞き分ける事によって、真の牧者イエズス・キリストに付き従いたいと思います。
過去、私たちにはそのような立派な牧者たちが、イエズス様に倣う聖なる牧者たちがいました。日本に遠くから来て下さった聖フランシスコ・ザビエル、あるいは日本の為に殉教した多くの司祭たち、あるいは司教様等々、私たちもそのような牧者たちの声に従いたいと思います。
過去そのような方々もいましたが、つい最近でもいました。それはルフェーブル大司教様です。ルフェーブル大司教様こそ、私たちに、「イエズス様に従う、今この現代において、従うとはどのような事か」という事を、模範を以て示して下さいました。自分の名誉とか、自分の利益よりも、霊魂の為に、超自然の命の為に、命をかけて、体を張って、私たちに聖伝の教えを、カトリックの教えを伝える事ができるように助けて下さいました。
私たち聖ピオ十世会の司祭も、非常に不肖ながら、そして非常に力は劣るものでありながら、天主様の御助けによって、マリア様の御助けによって、イエズス様の御跡を従いたいと思っています。
そして特に今のこの時代、感染病が流行っている今この時に、皆さんの傍に留まる事ができて、私は本当に天主様に感謝しています。良き牧者としてミサを捧げる事ができて、そしてイエズス・キリストを与える事ができて、イエズス様の教えを何とかして伝える事ができて、本当に感謝しております。
願わくは、イエズス様に従う多くの聖なる司祭が、イエズス様を真似る良き牧者たちが、第2の牧者たちが、日本から、それから世界中から出てきますように、与えられますように、お祈り致しましょう。
マリア様にお祈り致します、聖母の汚れなき御心、大司祭イエズス様の御母であるマリア様、私たちの為にいつもお祈り下さい。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。





マリアの御手をとおして、人となった永遠の叡智イエズス・キリストに、自分自身を奉献する

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は、聖ルイ・マリ・グリニョン・ド・モンフォールの祝日です。
聖グリニョン・ド・モンフォールによるマリアを通したイエズスへの全面的奉献をすることを提案しています。

そこで、この奉献文の日本語訳をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!












マリアの御手をとおして、人となった永遠の叡智イエズス・キリストに、自分自身を奉献する

ああ、人となられた、永遠の叡智よ!ああ、いとも愛すべき、拝むべきイエズス、まことの天主、まことの人、永遠の聖父のひとり子にして終生童貞マリアの子よ!
永遠にわたって聖父のふところにおいてまた聖父の栄光の輝きのうちに、さらにまた、御身の御托身の時間においてましまし、御身のいともふさわしい御母なるマリアの童貞なる胎内のうちにましましたもう御身を、われは深く礼拝し奉る。

われを悪魔の残酷な奴隷状態から解放するため、御身は奴隷の姿を取りご自分を無にし給うたことを、われは御身に感謝し奉る。御身は、聖なる母マリアに万事において服従することをお望みになり給いしが、そは聖母を通してわれを御身の忠実な奴隷となすためなり。われは、御身を褒めたたえ、栄光を帰し奉る。

されど、悲しいかな、何と忘恩にして不忠実なることか、われは洗礼の時のかくも荘厳に御身になした誓いと約束とを守らざりけり。われは、自分の義務を果たさざりき。御身の子とも、御身の奴隷とも、われは呼ばれるに値せぬなり。われには、ゴミ同然で御身の怒りしか値するものが無きがゆえに、われ自身では御身の聖にして偉大なる御稜威に敢えて近づくを得ず。

それゆえわれは御身のいとも聖なる御母の取り次ぎと御憐れみに寄りすがるなり。御身は聖母を御身の御許における仲介者とわれに与え給えたるがゆえなり。御身から痛悔とわが罪の赦し、智恵の獲得と保存とを得ることができるとわれ期待するは、聖母の手段を通してなり。
めでたし、ああ、汚れなき御母聖マリア、天主の生ける聖櫃よ、御身において隠れたる永遠の智恵イエズスは、天使らからも人々からも、礼拝されることを望み給うなり。
めでたし、おお、天と地の元后よ、御身の支配のもとに、天主より下のものはみな全て服従するなり。
めでたし、おお、罪人の安全なよりどころよ、御身のあわれみは全ての人に及ぶなり、天主の智恵についての我れが抱く望みを聞き入れ、わが卑しさが御身に捧げる約束と奉献を受け入れ給え。

われ(名前)、信仰薄き身なれど、今日、御身の御前に、御手のうちに、洗礼の約束を新たにし、確認し奉る。われは、悪魔とその栄華とその業とを永久に捨てんことを誓い奉る。われは人となり給いし天主の叡智なるイエズス・キリストの御跡に従い、死に至るまで人生の全ての日々、おのが十字架を担い、今より後は一層主に忠実ならんがため、われ自身を全て主にささげ奉る。
われ今、天国の全ての諸天使諸聖人の前にて、御身をわが母、わが元后(Maîtresse)として選び仰ぎ、われはみずからを奴隷として御身にささげ尽くし、わが身も霊魂も、わが内的善も外的善も、過去・現在・未来におけるわが善業の功徳をもことごとく御身に捧げ奉る。
われと、われに属する全てを現世においても来世においても余すところなく、天主の最大の御栄のために御身の御旨のままに計らい自由に処理する全権を御身に委ね奉る。

ああ、優しき童貞マリアよ、永遠の叡智なるイエズスが母なる御身になし給うた服従を褒め称え、この服従に一致して、われを奴隷として御身に奉るこのささやかなる捧げ物を受け入れ給え。主と御身とが二人とも、この小さき虫けら、このあわれな罪人の上にもち給う力を褒め称え、聖三位一体が御身に与え給う諸特権に感謝し奉る。
これから後、われは御身の真の奴隷として、御身の誉れを追求し、万事において御身に従順たることを、荘厳に宣言し奉る。

ああ、いとも感ずべき御母よ、われを永遠の奴隷として、御身の愛する御子イエズスにささげ給え。御身を通してわれを贖いし主が、御身を通してわれを受け入れ給うためなり。

ああ、あわれみの御母よ!天主の真の叡智を得るみめぐみを我になし給え。そのために、御身の子かつ奴隷として御身が愛し・教え・導き・養い・保護し給う者たちの数にわれをも加え給え。

ああ、真実なる童貞よ、われをして、全てにおいて、人となった叡智である御子イエズス・キリストのいとも完全なる、御身の御取り次ぎと、模範とによりて、地上にてはイエズスの生涯の充満に、天国においては、主の栄光の充満に到達するほど完全なる、弟子、模倣者、奴隷となし給え。

アーメン。


2020年4月26日、復活後第二主日の「良き牧者の主日」に東京で録画した小野田神父のメッセージ

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2020年4月26日、復活後第二主日の「良き牧者の主日」に東京で録画した小野田神父のメッセージをご紹介いたします。

 チャンネル登録をなさいますと、新しくアップされた動画の通知が届くので便利です。チャンネル登録は、ここ「SSPX JAPAN 聖ピオ十世会日本」をご覧ください。

新約聖書の録音を聞いてみよう!福音書オーディオ・ブック(ナレーター:トマス小野田神父)

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ステイ・アット・ホーム(不要不急の外出自粛)を利用して、ご自宅での滞在が有意義なものとなるように、新約聖書の録音を聞いてみることを提案します。

福音書オーディオ・ブックです。

愛する兄弟姉妹の皆様のしもべであるトマス小野田神父が、ナレーターをつとめて心を込めて朗読してみました。

目の悪い方でも、車の中でも、電車の中ででも「読む」ことができる、いわば「聴く福音書」です。

では、どうぞ!

マテオによる聖福音の朗読

マテオによる聖福音 第一章
マテオによる聖福音 第二章
マテオによる聖福音 第三章
マテオによる聖福音 第四章
マテオによる聖福音 第五章
マテオによる聖福音 第六章
マテオによる聖福音 第七章
マテオによる聖福音 第八章
マテオによる聖福音 第九章
マテオによる聖福音 第一〇章
マテオによる聖福音 第一一章
マテオによる聖福音 第一二章
マテオによる聖福音 第一三章
マテオによる聖福音 第一四章
マテオによる聖福音 第一五章
マテオによる聖福音 第一六章
マテオによる聖福音 第一七章
マテオによる聖福音 第一八章
マテオによる聖福音 第一九章
マテオによる聖福音 第二〇章
マテオによる聖福音 第二一章
マテオによる聖福音 第二二章
マテオによる聖福音 第二三章
マテオによる聖福音 第二四章
マテオによる聖福音 第二五章
マテオによる聖福音 第二六章
マテオによる聖福音 第二七章
マテオによる聖福音 第二八章


ルカによる聖福音の朗読

ルカによる聖福音の朗読 第一章
ルカによる聖福音の朗読 第二章
ルカによる聖福音の朗読 第三章
ルカによる聖福音の朗読 第四章
ルカによる聖福音の朗読 第五章
ルカによる聖福音の朗読 第六章
ルカによる聖福音の朗読 第七章
ルカによる聖福音の朗読 第八章
ルカによる聖福音の朗読 第九章
ルカによる聖福音の朗読 第一〇章
ルカによる聖福音の朗読 第一一章
ルカによる聖福音の朗読 第一二章
ルカによる聖福音の朗読 第一三章
ルカによる聖福音の朗読 第一四章
ルカによる聖福音の朗読 第一五章
ルカによる聖福音の朗読 第一六章
ルカによる聖福音の朗読 第一七章
ルカによる聖福音の朗読 第一八章
ルカによる聖福音の朗読 第一九章
ルカによる聖福音の朗読 第二〇章
ルカによる聖福音の朗読 第二一章
ルカによる聖福音の朗読 第二二章
ルカによる聖福音の朗読 第二三章
ルカによる聖福音の朗読 第二四章



マルコによる聖福音の朗読

マルコによる聖福音の朗読 第一章
マルコによる聖福音の朗読 第二章
マルコによる聖福音の朗読 第三章
マルコによる聖福音の朗読 第四章
マルコによる聖福音の朗読 第五章
マルコによる聖福音の朗読 第六章
マルコによる聖福音の朗読 第七章
マルコによる聖福音の朗読 第八章
マルコによる聖福音の朗読 第九章
マルコによる聖福音の朗読 第一〇章
マルコによる聖福音の朗読 第一一章
マルコによる聖福音の朗読 第一二章
マルコによる聖福音の朗読 第一三章
マルコによる聖福音の朗読 第一四章
マルコによる聖福音の朗読 第一五章
マルコによる聖福音の朗読 第一六章



ヨハネによる聖福音

ヨハネによる聖福音 第一章
ヨハネによる聖福音 第二章
ヨハネによる聖福音 第三章
ヨハネによる聖福音 第四章
ヨハネによる聖福音 第五章
ヨハネによる聖福音 第六章
ヨハネによる聖福音 第七章
ヨハネによる聖福音 第八章
ヨハネによる聖福音 第九章
ヨハネによる聖福音 第一〇章
ヨハネによる聖福音 第一一章
ヨハネによる聖福音 第一二章
ヨハネによる聖福音 第一三章
ヨハネによる聖福音 第一四章
ヨハネによる聖福音 第一五章
ヨハネによる聖福音 第一六章
ヨハネによる聖福音 第一七章
ヨハネによる聖福音 第一八章
ヨハネによる聖福音 第一九章
ヨハネによる聖福音 第二〇章
ヨハネによる聖福音 第二一章



使徒行録の朗読

使徒行録 第一章
使徒行録 第二章
使徒行録 第三章
使徒行録 第四章
使徒行録 第五章
使徒行録 第六章
使徒行録 第七章
使徒行録 第八章
使徒行録 第九章
使徒行録 第一〇章
使徒行録 第一一章
使徒行録 第一二章
使徒行録 第一三章
使徒行録 第一四章
使徒行録 第一五章
使徒行録 第一六章
使徒行録 第一七章
使徒行録 第一八章
使徒行録 第一九章
使徒行録 第二〇章
使徒行録 第二一章
使徒行録 第二二章
使徒行録 第二三章
使徒行録 第二四章
使徒行録 第二五章
使徒行録 第二六章
使徒行録 第二七章
使徒行録 第二八章

(続く)

新約聖書の録音を聞いてみよう!ローマ人への手紙オーディオ・ブック

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ステイ・アット・ホーム(不要不急の外出自粛)を利用して、ご自宅での滞在が有意義なものとなるように、新約聖書の録音を聞いてみることを提案します。

聖パウロのローマ人への手紙オーディオ・ブックです。

目の悪い方でも、車の中でも、電車の中ででも「読む」ことができる、いわば「聴く福音書」です。

では、どうぞ!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

ローマ人への手紙の朗読

ローマ人への手紙 第一章
ローマ人への手紙 第二章
ローマ人への手紙 第三章
ローマ人への手紙 第四章
ローマ人への手紙 第五章
ローマ人への手紙 第六章
ローマ人への手紙 第七章
ローマ人への手紙 第八章
ローマ人への手紙 第九章
ローマ人への手紙 第一〇章
ローマ人への手紙 第一一章
ローマ人への手紙 第一二章
ローマ人への手紙 第一三章
ローマ人への手紙 第一四章
ローマ人への手紙 第一五章
ローマ人への手紙 第一六章



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