Quantcast
Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
Viewing all 4258 articles
Browse latest View live

聖パウロのコリント人への手紙(前・後)オーディオ・ブック : ステイ・アット・ホームを利用して新約聖書の録音を聞いてみよう!

$
0
0
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ステイ・アット・ホーム(不要不急の外出自粛)を利用して、ご自宅での滞在が有意義なものとなるように、新約聖書の録音を聞いてみることを提案します。

聖パウロのコリント人への手紙(前・後)オーディオ・ブックです。目の悪い方でも、車の中でも、電車の中ででも「読む」ことができる、いわば「聴く新約聖書」です。

では、どうぞ!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

コリント人への第一の手紙の朗読

コリント人への第一の手紙 第一章
コリント人への第一の手紙 第二章
コリント人への第一の手紙 第三章
コリント人への第一の手紙 第四章
コリント人への第一の手紙 第五章
コリント人への第一の手紙 第六章
コリント人への第一の手紙 第七章
コリント人への第一の手紙 第八章
コリント人への第一の手紙 第九章
コリント人への第一の手紙 第一〇章
コリント人への第一の手紙 第一一章
コリント人への第一の手紙 第一二章
コリント人への第一の手紙 第一三章
コリント人への第一の手紙 第一四章
コリント人への第一の手紙 第一五章
コリント人への第一の手紙 第一六章


コリント人への第二の手紙の朗読

コリント人への第二の手紙 第一章
コリント人への第二の手紙 第二章
コリント人への第二の手紙 第三章
コリント人への第二の手紙 第四章
コリント人への第二の手紙 第五章
コリント人への第二の手紙 第六章
コリント人への第二の手紙 第七章
コリント人への第二の手紙 第八章
コリント人への第二の手紙 第九章
コリント人への第二の手紙 第十章
コリント人への第二の手紙 第十一章
コリント人への第二の手紙 第十二章
コリント人への第二の手紙 第十三章


聖パウロの書簡のオーディオ・ブックです。ステイ・アット・ホームを利用して新約聖書の朗読を聞いてみよう!

$
0
0
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ステイ・アット・ホーム(不要不急の外出自粛)を利用して、ご自宅での滞在が有意義なものとなるように、新約聖書の録音を聞いてみることを提案します。

福音書と使徒行録

聖パウロのローマ人への手紙オーディオ・ブック

聖パウロのコリント人への手紙オーディオ・ブック

ガラチア人への手紙の朗読

ガラチア人への手紙 第一章
ガラチア人への手紙 第二章
ガラチア人への手紙 第三章
ガラチア人への手紙 第四章
ガラチア人への手紙 第五章
ガラチア人への手紙 第六章


エフェゾ人への手紙の朗読

エフェゾ人への手紙 第一章
エフェゾ人への手紙 第二章
エフェゾ人への手紙 第三章
エフェゾ人への手紙 第四章
エフェゾ人への手紙 第五章
エフェゾ人への手紙 第六章



フィリッピ人への手紙の朗読

フィリッピ人への手紙 第一章
フィリッピ人への手紙 第二章
フィリッピ人への手紙 第三章
フィリッピ人への手紙 第四章


コロサイ人への手紙の朗読

コロサイ人への手紙 第一章
コロサイ人への手紙 第二章
コロサイ人への手紙 第三章
コロサイ人への手紙 第四章


テサロニケ人への第一の手紙の朗読

テサロニケ人への第一の手紙 第一章
テサロニケ人への第一の手紙 第二章
テサロニケ人への第一の手紙 第三章
テサロニケ人への第一の手紙 第四章
テサロニケ人への第一の手紙 第五章

テサロニケ人への第二の手紙の朗読

テサロニケ人への第二の手紙 第一章
テサロニケ人への第二の手紙 第二章
テサロニケ人への第二の手紙 第三章


ティモテオへの第一の手紙の朗読

ティモテオへの第一の手紙 第一章
ティモテオへの第一の手紙 第二章
ティモテオへの第一の手紙 第三章
ティモテオへの第一の手紙 第四章
ティモテオへの第一の手紙 第五章
ティモテオへの第一の手紙 第六章



ティモテオへの第二の手紙の朗読

ティモテオへの第二の手紙 第一章
ティモテオへの第二の手紙 第二章
ティモテオへの第二の手紙 第三章


ティトへの手紙の朗読

ティトへの手紙 第一章
ティトへの手紙 第二章
ティトへの手紙 第三章


フィレモンへの手紙の朗読

フィレモンへの手紙



ヘブレオ人への手紙の朗読

ヘブレオ人への手紙 第一章
ヘブレオ人への手紙 第二章
ヘブレオ人への手紙 第三章
ヘブレオ人への手紙 第四章
ヘブレオ人への手紙 第五章
ヘブレオ人への手紙 第六章
ヘブレオ人への手紙 第七章
ヘブレオ人への手紙 第八章
ヘブレオ人への手紙 第九章
ヘブレオ人への手紙 第一〇章
ヘブレオ人への手紙 第一一章
ヘブレオ人への手紙 第一二章
ヘブレオ人への手紙 第一三章



良き牧者:イエズス様は私たちの為に苦しまれた。私たちがイエズス様に真似て従う事ができる為に模範を残された。

$
0
0

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2020年4月26日(主日)御復活後第2主日(良き牧者の主日)に、東京でのミサ後、メッセージをライブでお送りいたしました。

御紹介いたします。

2020年4月26日(主日)御復活後第2主日(良き牧者の主日)

聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父メッセージ

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


愛する兄弟の皆さん、今日この世界中のパンデミックにもかかわらず、東京で皆さんの為に、皆さんの参加する事のできる公のミサを捧げる事ができて、本当に感謝しています。


この霊魂の医者を必要としているこの時代に、秘跡を与える事ができて、告解の秘跡、御聖体の秘跡、そして祝福を、皆さんの傍に居る事ができ、そして与える事ができて、本当に感謝しています。これはもう奇跡だと思っています。

この色々外出も制限されていて、そして自由にできないようなこの時代に、日本ではまだこのミサが捧げられているというのは、本当に感謝しきれません。

必要としている羊の為に、命を捧げた良き牧者であるイエズス様に倣う事ができているような感じがします。非常に不肖であって、とても遠くいる者ですけども、そしてふさわしくない者ですけれども、それでも御恵みによって、イエズス様に倣う者となる為に、今このような機会が与えられている事を感謝しています。


今日良き牧者の主日で、イエズス様が、「羊の為に自分は命を与える。そして雇人とは違うところは、敵が来ても、困難な事が来ても、決して逃げずに、羊を見捨てずに、羊の近くに居て、羊たちを守る、その為に命をかける、体を張って守る」というイエズス様の福音を読みました。


聖ペトロ、初代教皇様も、イエズス様の代理者、イエズス様の「後継者」ではなく、初代の「代理者」である、聖ペトロも言っています、「イエズス様は、私たちの為に苦しまれた。そして私たちに模範を残された。それはなぜかというと、私たちがイエズス様に真似る事ができる為に、イエズス様に従う事ができる為、その為にイエズス様は、模範を残された。」


もしもイエズス様が人間となった、天主の御言葉が人となったのは、それは大地と一致する為ではなく、私たちに模範を見せる為です。そして司祭たちに、良き牧者である模範を見せています。


もしも世界中で良い司祭たちが、聖なる司祭たちが、霊魂たちを回心させた、世界を改革した、教会を改革したとしたら、それは唯一、イエズス様に倣ったからです。イエズス様の聖徳に倣ったからです。良き牧者に倣ったからです。そしてますます、イエズス様の言葉をこだまさせたからです。何も変える事なく、イエズス様それ自体の生き写しとなったからです。


ですから司祭は、良き牧者に倣おうとする司祭は、イエズス様の教えを一つも動かしてはなりません。一ミリも動かしてはなりません、一つも、iotaも、一点も、一角も、変えてはいけません。イエズス様のその道を、真理を、命を、そのまま伝えなければなりません。

たとえそれが難しい状況に置かれても、天主様の御恵みと、御助けと、特別の聖寵によって、それを成し遂げなければなりません。そして私たちはそれを成し遂げる事ができるように祈っています。

特に、そのような良い牧者に習う、良き牧者たちが今現代必要です。

多くの若い青少年がイエズス様に倣いますように、イエズス様の御跡を慕って良き牧者となりますように、第二のイエズス・キリストになりますように。

もしもアシジの聖フランシスコが全教会に大きな影響を与えて、教会を改革する事ができたとしたら、教会をまた聖なるものとする事ができたとしたら、そして今でもその影響を与え続けているとしたら、それはアシジの聖フランシスコが、「イエズス様の生き写しだ」と言われたからです。イエズス・キリストのその真似をしたからです。






願わくは多くの青少年が、イエズス・キリストを真似る、そしてイエズス・キリストを真似る良き牧者たちとなりますように、聖なる司祭たちが生まれますように、愛する兄弟の皆さん、お祈り致しましょう。

特にマリア様にお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。







2020年5月初旬のミサの予定

$
0
0

2020年5月初旬の聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

◎2020年5月初旬にミサが追加されました
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております。

【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」
EG新御堂4階 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2  〒532-0002
(アクセス)JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分(地図 http://goo.gl/maps/Z2HmnVSh8oA2 )

【大阪】
5月1日(初金)午後5時半ロザリオ及び告解 午後6時ミサ聖祭
5月2日(初土)午前10時ロザリオ及び告解 午前10時半ミサ聖祭
5月3日(日)午後5時半ロザリオ及び告解 午後6時ミサ聖祭
5月4日(月)〜5月6日(水)午前10時ロザリオ及び告解 午前10時半ミサ聖祭

【東京】
東京では会場がしばらく変更になります。
住所: 東京都台東区入谷1-27-4 会場の名前:プラーズ入谷 『入谷ホール』
よろしくお願いいたします。

5月3日(日)午前09時ミサ聖祭   午前11時ミサ聖祭   午前12時半ミサ聖祭

2020年5月3日(主日)前後の聖伝のミサの予定:Traditional Latin Mass for May 3rd, 2020

$
0
0

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今週末:2020年5月1日(金)2日(土)3日(主日)のミサの予定を再確定します。予定通りです。

【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階 〒532-0002 (アクセス)JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分(地図

 5月1日(金)  17:30 ロザリオ及び告解  18:00 ミサ聖祭 勤労者聖ヨゼフ

 5月2日(土) 10:00 ロザリオ及び告解  10:30 ミサ聖祭

 5月3日(日) 17:30 ロザリオ及び告解  18:00 ミサ聖祭

 5月4日(月)  10:30 ミサ聖祭

 5月5日(火)  10:30 ミサ聖祭

 5月6日(水)  10:30 ミサ聖祭

【東京】 東京では4月12日(日)から会場をしばらく変更してミサを捧げております。

住所: 東京都台東区入谷1-27-4 
会場の名前:プラーズ入谷 『入谷ホール』  Special Mass Location-0412.pdf - Google ドライブ

5月3日(日)主日ミサが三回捧げられます。

09:00 ミサ聖祭 歌ミサ(ライブ中継をいたします)Facebook live

https://www.facebook.com/arata.nunobe

11:00 ミサ聖祭 読誦ミサ
12:30 ミサ聖祭 読誦ミサ

【お互いに社会的距離を取ることができるように、分散してミサにあずかっていただければ幸いです。9:00のミサには比較的に参加者が少ないことが予想されるので、なるべく9時或いは12時30分のミサにいらしてください。】

【お知らせ】

来月に予定されていた「聖ピオ十世会日本公式秋田巡礼」は、新型コロナウイルスの感染拡大回避のための緊急事態宣言が発令され、巡礼はその対応期間となってしまったために、状況を鑑みて、延期とさせていただきます

ご理解をよろしくお願いいたします。

Ave Maria Immaculata!

My dearest Brethren!

I want to reconfirm the Mass schedule for the weekend of May 3rd, 2020.

Mass times in Tokyo: 09:00 - Sung mass 11:00 - Low mass 12:30 - Low mass Mass location: Iriya Hall 3F Address: Plars Iriya 3F, 1-27-4, Iriya, Taito-ku, Tokyo (near Metro Iriya, JR Uguisudani and JR Ueno stations) Map and directions: Please see the pdf file. Special Mass Location-0412.pdf

Mass schedule in OSAKA:

Fri, May 1st : Holy Sacrifice of the Mass at 18:00

Sat, May 2nd : Holy Sacrifice of the Mass at 10:30

Sun, May 3rd : Holy Sacrifice of the Mass at 18:00

Mon, May 4 : Holy Sacrifice of the Mass at 10:30

Tue, May 5 : Holy Sacrifice of the Mass at 10:30

Wed, May 6 : Holy Sacrifice of the Mass at 10:30

何故教皇は「フランシスコ」という名前をとったのか?回勅『ラウダート・シ』はどこに向かっているのか?教皇フランシスコにとって何が最も大切なのか?

$
0
0
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ステイ・アット・ホーム(不要不急の外出自粛)を利用して、教皇フランシスコの考えをよく理解するようにしましょう。

ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿が、第266代ローマ教皇として選ばれた時(2013年3月13日)、なぜ、彼がフランシスコという名前をとったのか、時がたつにつれてますますよく理解できるようになってきました。これは単なる思い付きではなく、深い意味がありました。

かつてアシジの聖フランシスコが教会を霊的に高めて改革したように、カトリック教会を「改革」しようとする、改革者としての「フランシスコ」、ただしアシジの聖フランシスコの一部だけを取り上げたやり方での「改革」をしようと、この名前が取られたかのようです。

教皇フランシスコの最初の回勅『ラウダート・シ』(2015年5月24日)の最初の言葉は、アシジの聖フランシスコの「賛美の詩歌」から取られています。

アマゾン・シノドスは、2019年のアシジの聖フランシスコの祝日(10月4日)に始まりました。

アシジの聖フランシスコは、主から教会を立て直す使命をうけました。教会を改革する使命です。そのやり方は、イエズス・キリストを通して、イエズス・キリストをまねることによってでした。
聖フランシスコは、福音を生きました。ですからこそ全キリスト教世界を改革することができました。霊魂らを高めることができました。聖フランシスコは、被造物から、天主へと心を挙げましたが、それと同時に被造物の虚しさ・はかなさをも理解していました。全被造物は、イエズス・キリストを賛美するためにあったのです。
天主は、人間となったのは、私たちが真似ることができるためです。十字架によってイエズス・キリストと似たものとなる。聖フランシスコが、そうでした。

【ヨハネ・パウロ二世】
ヨハネ・パウロ二世の名前は、第二バチカン公会議の実現を意味するものでした。つまり、第二バチカン公会議を開催したヨハネ二十三世と、それを閉会するまで続けたパウロ六世との植えた種を実らせる、という意味で「ヨハネ・パウロ」という名前が取られました。

ヨハネ・パウロ二世の行動原理は、その最初の回勅『人間の贖い主』(1979年3月4日)の中にある一節:「キリストは、御托身により、自分自身をすべての人間と一致させた」です。

ヨハネ・パウロ二世は、第二バチカン公会議:現代世界憲章 Gaudium et spes, 22】「事実、天主の子は受肉によって、ある意味で自分自身をすべての人間と一致させた。」(Ipse enim, Filius Dei, incarnatione sua cum omni homine quodammodo Se univit. )の中にあった、「ある意味で」を取り除いて、これを理解していました。

この文章の「すべての人間」を、すでに死んで地獄に堕ちてしまった人々を除いたすべての人間であると理解すると、「ある意味で」は「可能態として」あるいは「現実態として」と理解できます。すべての人は、もしも信仰と愛徳を持つならキリストと一致する「可能性」を持つことになったので、可能態にあるという意味で一致する、ということができますし、もうすでに信仰と愛徳を持っている人の場合であれば、現実に一致しているといえます。

ヨハネ・パウロ二世は、絶対的な意味で、「キリストは、御托身により、自分自身をすべての人間と一致させた」と理解していました。その理解を目に見える形で実現したのが、全ての宗教の代表者を招いて行ったアシジの祈祷集会(1986年10月27日)でした。

【教皇フランシスコ】

『ラウダート・シ』の中核の原理は、第二バチカン公会議の展開である「天主は自分自身を私たちの大地と決定的に一致させた」です。

『ラウダート・シ』をどう理解すべきかを目に見える形で実現したのが、2019年10月のアマゾン・シノドスでした。

アマゾン・シノドスの光によって『ラウダート・シ』を見直してみましょう。

教皇フランシスコは、キリストの代理者として聖ペトロの座から権威をもって全カトリック信者たちに教える、兄弟たちの信仰を固める、ということをしているのでしょうか? いいえ。

教皇の教皇としての第一の義務は、カトリック信者たちに教義と倫理について権威をもって教えることですが、しかし、教皇フランシスコは、権威をもって信徒たちを教えているのではいません。

そうではなく「この惑星に住むすべての人々に語りかけたいと思う」(I wish to address every person living on this planet.)と言い、「この回勅で、私はすべての人々と私たちの共通の家について対話をしたいと思う」(In this Encyclical, I would like to enter into dialogue with all people about our common home.)と言っています。

無神論者であろうが、異教徒であろうが、キリスト教徒であろうが、ユダヤ教徒であろうが、この地上にいる全ての人々と対話をしたい、と言うのです。そこで、教皇は「教える」という責務を放棄して、対話に入ろうとするのです。

ですから、この回勅には不可謬性は帯びておらず、私たちはこの内容に賛同するのも、これを批判するのも、自由にすることができます。「信じなさい」ではなく、「対話に入りたい」というだけだからです。

アマゾン・シノドスのInstrumentum Laboris にはっきり書かれています。
Pan-Amazon Synod. The Working Document for the Synod of Bishops

ここでも、教会がこの世に聴従し、「弟子」として「姉妹」としてこの世に従うものに変容することが述べられています。

「人々と自然との相互に聞くことによって、教会は、地理的にも構造的にも出ていく一つの教会に変容し、またシノドス性を通して姉妹であり弟子である教会に変わる。」(92. Through mutual listening to peoples and nature, the Church transforms into a Church that goes out in both geographical and structural ways, and a Church that is sister and disciple through synodality.)

私たちのこの記事での考察は、教皇フランシスコを深く理解したいという望みから出ていますが、教皇様には、教皇として権威をもって教えるという聖なる務めに立ち戻っていただきたいと、心から願います。
教皇職を聖なるものとして愛し守っていただきたい、とカトリック教会と教皇とに対する愛に燃えて、心から願います。




では、教皇フランシスコにとっての最大の関心事は何でしょうか? 何が最も大切で、私たちに何を訴えているのでしょうか?

天主に対して犯される罪、贖いの業、霊魂の救いでしょうか?
大罪一つでも、霊魂が永遠に失われてしまうこと、地獄の恐ろしさ、でしょうか?
天主の御稜威、聖寵の状態を保つ必要性、秘蹟の大切さ、でしょうか?
罪を犯して、天主を捨て去ることでしょうか?

そうではありません。

彼にとってもっとも重大な問題の一つは、廃棄物です。「私たちの家である地球は、ますます巨大なごみ溜めのように見え始めている。この惑星の多くの多くの部分では、高齢者たちはかつては美しかった風景が今ではごみに覆われていると嘆いている。」(21. The earth, our home, is beginning to look more and more like an immense pile of filth. In many parts of the planet, the elderly lament that once beautiful landscapes are now covered with rubbish.)

もっとも重大な問題は、使い捨て文化です。例えば、リサイクルをせずに紙を捨てることです。(22. These problems are closely linked to a throwaway culture which affects the excluded just as it quickly reduces things to rubbish. To cite one example, most of the paper we produce is thrown away and not recycled.)

この回勅においては、霊魂が毎日のように失われていることも、毎日のように超自然の信仰を失い教会を離れていく霊魂たちについては、関心がないようです。ファチマで天使が訴えた、罪の償い、についても、ファチマの聖母がお願いした罪びとたちの回心のための祈りと犠牲もありません。
「罪人たちのために犠牲をしなさい。たくさんこう言いなさい。特に何か犠牲をするときにこう言いなさい。”イエズスよ、これは御身を愛するため、罪人たちの回心のため、そしてマリアの汚れ無き御心に対して犯される罪を償うためです”、と。」

1917年10月13日、ファチマの聖母はますます悲しそうな様子になられて、こう言われました。「もうこれ以上天主なる私たちの主に罪を犯してはなりません。すでに主はあまりにも多く犯されています。」
教皇フランシスコが、全世界にいる全ての人に訴えているのは、永遠に不死の霊魂を救うことでしょうか? そのために天主が人となって十字架の上で贖いを業を成し遂げた霊魂の救いでしょうか? 私たちの主の贖いの御業の無限の価値でしょうか?

そうではありません。

回勅で訴えられているのは、絶滅危惧種の動植物、森林を守ること、生物多様性を保護することです。(32. The loss of forests and woodlands entails the loss of species which may constitute extremely important resources in the future...)

教皇フランシスコが訴えるのは、動植物が失われることの重大さであって、霊魂が永遠に失われることではありません。

何故なら、回勅によると「それぞれの種は、それ自体で価値を持っている」から(ママ)です。(33. It is not enough, however, to think of different species merely as potential “resources” to be exploited, while overlooking the fact that they have value in themselves.)

しかし、カトリック信仰によれば、被造物は天主のより大いなる栄光のために創造されたのですから、どれほど崇高な被造物であったとしても、知性と意志とを備えた人間であったとしても、どれほど高貴な天使であったとしても、それ自体では価値はありません。

回勅は、私たちが直面している悪に対して、全人類にどのような解決策を提案しているのでしょうか?

天主に向かって回心することでしょうか?天主の聖寵の助けを願うこと、秘蹟による恵みを乞うことでしょうか?洗礼の恵みを受けることでしょうか?個人的な聖化に努めることでしょうか?祈りと犠牲とをキリストの十字架に合わせて捧げることでしょうか?すべてを天主の栄光のために秩序付けて、被造物を天主のために、霊魂の救いのためにのみ使うことでしょうか?諸民族が王たるキリストに回心することによるのでしょうか?

そうではありません。

問題の解決は、人間が、動植物や大自然に従うこと、とされます。エコロジーのイデオロギーを信じ、実践すること、とされています。

あたかも原罪が存在していないかのように、罪が存在していないかのように、全ての悪の根源は、社会の構造から、搾取から由来する、とされます。

では、回勅『ラウダート・シ』をもって教皇フランシスコはどこへ教会を連れて行こうとする、教会をどのように「改革」しようとするのでしょうか?

聖ヨゼフ、我らのために祈り給え!

(続く)


5月1日、5月2日の大阪「聖母の汚れなき御心聖堂」でのミサの写真

$
0
0
アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様!
天主のお恵みと憐れみと、マリア様の執り成しで、初金、初土には、ミサを捧げるお恵みを頂きました。深く感謝します。
5月1日には、勤労者聖ヨゼフのミサを捧げ、初金の「聖時間」をお捧げいたしました。








5月2日には、聖母の汚れなき御心の随意ミサを捧げ、初土の信心を行いました。
ただ、ただ、感謝です。











幼きイエズスの聖テレジアの詩「愛に生く」 Vivre d'Amour の日本語音声動画をご紹介いたします

$
0
0

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、幼きイエズスの聖テレジアの詩「愛に生く」の日本語音声動画をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

以下は、私の自由な日本語訳です。

愛の主は、秘密を明かす。「愛すとは、主のみことばを、守る者なり。」
「愛ゆえに、また聖父も聖子と共に来て、愛し給いて、慈しむなり。」
「相(あい)共に住処を定め、聖父と聖子は、平和をのこし、恵みを与ゆ。」

愛に生く、主の御言葉を守る時、三位は我に留まり給う。
愛に生く、我を愛してホスチアに隠れ留まる御身のために。
愛に生く、御身と共に、十字架を宝の如く担い苦しむ。

愛に生く、この世に生きるその間、御身のために愛に生きたい。
愛に生く、報い求めず惜しみなく、主の聖心に全て与える。
愛に生く、過ぎし過ち、罪、とがは、主の愛の火に焼き尽くされて。

愛に生く、無限の宝、胸に秘め、いつも恵みに助けられつつ。
愛に生く、慶び平和まき散らし、隣り人らに、主を見いだして。
「愛に生く」、帆に書かれたる合い言葉、愛の星へと航路一途に。

愛に生く、嵐の海に休む主よ、眠り続けよ!主に信頼す。
愛に生く、御身をまみゆその日には、信仰は失せ、希望は消える。

愛に生く、天使らよりも司祭らが愛に燃ゆるを祈り求める。
愛に生く、主の教会が栄ゆため、いけにえとして我を捧げる。

愛に生く、御顔をぬぐい、罪人の罪の赦しを、ただこいねがう。
愛に生く、主のあざけりを思いつつ、我、主の聖名をとわに愛さん。

愛に生く、香油を捧ぐマグダラをまねて御足に口づけをせん。
愛に生く、御顔に捧ぐ、わが香油、それはわが愛、主にのみ捧ぐ。

愛に生く、この世は叫ぶ、さげすみて「愚かなことよ、時間の無駄だ」と。
愛に生く、なんと豊かな損失か!ついに歌わん「我、愛に死す!」

愛に死す、焼き尽くしませ、愛の火よ、わが夢に見るは愛に死すこと。
愛に死す、主こそ報いよ、わが希望、主を見る日まで、我、愛に生く。


2020年5月13日、フィリピン全国で全ての司教が同時にフィリピンを聖母の汚れなき御心に奉献

$
0
0
アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様!
フィリピンの司教評議会は、2020年5月13日、フィリピン全国で、全ての司教、大司教らが同時にフィリピンを、聖母の汚れなき御心に奉献する決議をしました。
多く国々の司教らがすでに行っていること、
コロナウイルスの緊急事態であること、
聖母にお恵みと憐れみを主に懇願することを祈ることこそ、今苦しんでいる人々や医療従事者たち、国民に対する最大の保護であること、
全国が一つとなって、聖母に祈ること、
5月13日、まず、ロザリオを祈り、次に、聖母の汚れなき御心にフィリピンを奉献する祈りを唱え、最後にミサを捧げる。
願わくは、日本の司教様たちも、フィリピンの兄弟の司教たちの素晴らしい聖母信心を真似して、日本を聖母の汚れなき御心に奉献してくださいますように!







CBCP CIRCULAR: May 13 National Consecration to the Immaculate Heart of Mary
CBCP CIRCULAR: May 13 National Consecration to the Immaculate Heart of Mary -Circular No. 20-26 1 May 2020 Your Eminences, Excellencies and Reverend Administrators: RE: May 13 National Consecration to the Immaculate …
CBCP CIRCULAR: May 13 National Consecration to the Immaculate Heart of Mary -

POSTED MAY 2, 2020 VERITAS TEAM
Circular No. 20-26 1May 2020
Your Eminences, Excellencies and Reverend Administrators:RE: May 13 National Consecration to the Immaculate Heart of Mary
In 2013, the Catholic Bishops’ Conference of the Philippines approved the yearly National Consecration of our country to the Immaculate Heart of Mary, in preparation for and leading to the celebration of the 5th Centenary of the Christianization of the Philippines, held during its Memorial every June.
But we are now in extraordinary times, and even the bishops of our fellow nations are doing the Act of Consecration to the Immaculate Heart of Mary because of the sense of urgency, just like the Message of Fatima which St. John Paul II reiterated as “ever more relevant and more urgent now than in 1917”.
As we approach 13 May 2020 and celebrate the 103rd Anniversary of the Apparition of Our Lady of Fatima, it is an opportune time to reflect on the current situation that the world is experiencing right now. The simultaneous National Consecration to the Immaculate Heart of Mary on this Feast of Our Lady of Fatima must be accomplished. This is our country’s way to implore the grace and mercy of the Lord to end the pandemic of corona virus and to seek the intercession of the Blessed Virgin Mary for the healing and recovery of all those who are infected, and for strength and protection of the front-liners and our fellow citizens.
As one nation, our celebration on that day will have three parts: first, the praying of the Holy Rosary; second, the Act of Consecration of the Philippines to the Immaculate Heart of Mary; and third, the celebration of the Holy Eucharist.
All the archbishops and bishops of the country are requested to participate in this event together with the clergy, religious, and families at their homes with the National Shrine of Our Lady of Fatima in Valenzuela City (Diocese of Malolos) as the center of the activity.
The celebration will start at 8:30 in the morning with the praying of the Holy Rosary.
Attached are three important materials:
1) the guide for the Holy Rosary,2) the Act of Consecration of the Philippines to the Immaculate Heart of Mary,3) the text for the Holy Mass.
These were prepared by the National Shrine of Our Lady of Fatima with the guidance and approval of Bp. Dennis Villarojo, Bishop of Malolos and Bp. Guillermo Afable, Bishop of Digos and National Chaplain of World Apostolate of Fatima (WAF). The celebration shall be broadcasted via TV Maria Philippines and cross-posted in various Catholic Social Media platforms all over the country.
For further guidance and information regarding this celebration, you may contact Fr. Gener Garcia at cell phone number 09285006482 and email address jigs3171@yahoo.com.
We pray as one. We heal as one. We renew the world as one through this Act of Consecration.Thank you very much for your kind attention, and we are hoping for your participation in this activity.
Sincerely yours in Christ,+ ROMULO G. VALLES, D.D.Archbishop of Davao CBCP President

https://www.rcam.org/index.php/component/k2/item/792-pastoral-statement-consecration-of-the-archdiocese-to-the-blessed-virgin-mary

Roman Catholic Archdiocese of Manila
Tuesday, 28 April 2020 06:32
Pastoral Statement: Consecration of the Archdiocese to the Blessed Virgin Mary
My dear people of God in the Archdiocese of Manila,
We have started the Enhanced Community Quarantine (ECQ) last March 15.
Now the month of May is upon us. We never thought then, that the quarantinewould be so long. We have accepted the lockdown for the sake of the commongood, though by now it is taking its toll on us. There is restlessness, and even fear, mostly because of its economic effects. Many people are unsure of their future. It is in this situation that we need to be strong with the strength that comes from above. St. Paul wrote: “When I am weak, then I am strong” (2 Cor. 12:10). This strength no longer comes from him.
As we enter the month of May, what comes to our mind is the Blessed Virgin Mary. May is the month of Mama Mary. We have many fiestas of our Lady on this month. We have the Flores de Mayo celebrations. We will all miss these this year. Nevertheless, let us keep the month of May as a Marian month. During this month let us intensify the devotion to our Blessed Mother in our homes. We candecorate the altar of Mama Mary. We can daily pray the Holy Rosary as a family.We may not be able to offer flowers but we can daily offer some small good deedto Our Mother.
As we try to do these individually in our homes, let us also do something together as an Archdiocese. The main patron of our Archdiocese is the Immaculate Conception. We are a Marian local church. On May 13, which is the 103rd anniversary of the apparition of Our Lady at Fatima, at 12 noon, we will have a Holy Mass in the Manila Cathedral during which we will consecrate the whole Archdiocese of Manila to the Blessed Virgin. The prayer of consecration will be done by all of the faithful of the Archdiocese to be led by the mayors of the five cities that comprise the Archdiocese: Manila, Mandaluyong, Pasay,Makati, and San Juan. It will be beautiful when all the people God, led by theircivil and religious leaders, put themselves under the protection of the Blessed Virgin.
In order that this act of consecration be meaningful, from the first week of May,there will be a series of catechetical instructions online explaining the meaningand implication of such consecration.
Then from May 10, we will start a triduum(three days) of daily penance and rosary which will culminate on the common Act of Consecration on the 13th. We do this to implore the protection of the powerful intercession of our Blessed Mother in this difficult time, especially as we move to the transition to a new way of life after the quarantine. We need strength from above, and we have a powerful intercessor in Mama Mary to get that heavenly help.
Already I thank the honorable mayors of our cities, Mayor Francisco ‘Isko’ Domagoso, Mayor Carmelita Abalos, Mayor Abigail Binay, Mayor Imelda Calixto-Rubiano, and Mayor Francisco Zamora, for showing their willingness to join us in the Holy Eucharist to pray together in filial devotion to the Blessed Mother. We thank them for their gigantic effort to serve their constituents in this difficult time.
Yours sincerely in Christ,+ BRODERICK PABILLOApostolic Administrator of Manila
April 28, 2020


主は「まもなく」と言わた。束の間のこの世ではなく復活されたイエズス・キリストをしっかり見据えなければならない 御復活後第3主日の説教 Sermon for 3rd Sunday

$
0
0

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

御復活後第3主日です。

今日の福音では「まもなくあなたたちは私を見ない、また、あなたたちは私を見るであろう。」と読まれます。

束の間のこの世ではなく、復活されたイエズス・キリストをしっかり見据えておけとおっしゃっておられます。

束の間の後の永遠のためにイエズス様は何をしてくださったでしょうか?

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeでの録画の説教の動画をご紹介いたします。

今日の主日を聖として良くお過ごしください。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

2020年5月3日 聖伝のミサの報告 Traditional Latin Mass in Japan on May 3rd, 2020

$
0
0
アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様!
復活後第三主日のミサを捧げることができました。天主様に、マリア様に、深く感謝します。
東京では、朝早くからミサ会場の準備、祭壇設営から、最後の片付けまで、愛する兄弟姉妹に深く御礼申し上げます。
日本では毎主日に連続で九主日に、ミサがあったことを感謝します。
ミサに与りたくても、様々な理由で与れない方々がいらっしゃいます。そのような方々が、心を合わせて一緒に祈られていることを考え、ミサを捧げております。
これを機会に新しく聖伝のミサに与るようになられた兄弟姉妹の皆様全てを歓迎いたします!
本来なら、ミサの後の祈りのあと、ミサに来られた兄弟姉妹の方々にひと言挨拶の言葉をかけたいのですが、コロナの為にそれさえもできず、残念です!
東京では、三回のミサの総計で58名が、大阪では、17名がミサに与ることができました。天主様に感謝!












【報告】【東京】Dear Fr Onoda:
今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。
09:00のミサ男: 17人(内、子供1人)女: 10人(内、子供2人)計: 27人(内、子供3人)
11:00のミサ男: 11人(内、子供3人)女: 10人(内、子供4人)計: 21人(内、子供7人)
12:30のミサ男: 5人(内、子供0人)女: 8人(内、子供0人)計: 13人(内、子供0人)
3回のミサの合計(ダブルカウントの3人を除く)男: 31人(内、子供4人)女: 27人(内、子供6人)計: 58人(内、子供10人)




愛に生く 聖母を見つめつつ

$
0
0
アヴェ・マリア・インマクラータ!
聖テレジアの歌にこだまして
聖母を見つめつつ
愛に生く、司祭の聖母(はは)はカルワリオ、司祭のように、立ち留まりし
愛に生く、痛ましき主の肉体よ、聖母(はは)の御心(こころ)に剣(つるぎ)貫く





霊的秋田巡礼_「天主は荒れ野に隠れてまします」霊的講話①

$
0
0

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

霊的に秋田巡礼に参加することをご提案します。霊的にマリア様のみもとに参りましょう。
テレ巡礼をするにあたって、テレ霊的講話を配信いたします。
この講話を目にされた方は偶然ではなく、天主様から愛の招きを受けていることをどうぞ知ってください。

私たちは主とともに荒れ野に砂漠に参りましょう。天主は私たちを愛するがために荒れ野にいざなわれます。
荒れ野、砂漠とは地上の雑音、喧噪から離れ、人から離れ、この世から離れているところです。
私たちも霊的な砂漠を求めて、心にわく情念、心配、憂鬱、被造物の声を沈黙させ、天主のみを求め愛することにいたしましょう。

今日の時間を最後の巡礼であるかのように、最後の講話であるかのように過ごしましょう。
このゴールデンウイークを聖として過ごしましょう。私たちの心に天主の御国が来ますように!

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

 

 

 

 

霊的秋田巡礼_「イエズス様の沈黙:なぜ私たちは沈黙の中に入らなければならないか」霊的講話2

$
0
0

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

霊的に秋田巡礼に参加することをご提案します。霊的にマリア様のみもとに参りましょう。
テレ巡礼をするにあたって、テレ霊的講話を配信いたします。

ご聖体の沈黙、ご受難の沈黙に深く入りましょう。

ホレブ山でエリアが天主を探したときに、天主はどこにおられたでしょうか? 私たちは、なぜ沈黙に招かれているのでしょうか?

このゴールデンウイークを聖として過ごしましょう。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

キリストが悪魔によって試みられることは適当であったか(聖トマス・アクィナスの神学大全、第三部、第四十一問、第一項)

$
0
0

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

イエズスは霊によって荒れ野に導かれて、四十日四十夜断食し、そののち悪魔によって試みられました。聖トマス・アクィナスの神学大全、第三部、第四十一問、第一項 キリストが悪魔によって試みられることは適当であったかをご紹介いたします。

QUAESTIO 41 PROOEMIUM 第四十一問 (全四項) キリストの試みについて:初めに [48659] IIIª q. 41 pr. Deinde considerandum est de tentatione Christi. Et circa hoc quaeruntur quatuor. Primo, utrum fuerit conveniens Christum tentari. Secundo, de loco tentationis. Tertio, de tempore. Quarto, de modo et ordine tentationum. 次にキリストの試みについて考察しなければならない。このことに関して次の四つが探究される。第一 キリストが試みられることは適当であったか 第二 試みの場所について 第三 試みの時について 第四 試みの仕方と順序について ARTICULUS 1 第一項 キリストが試みられることは適当であったか [48660] IIIª q. 41 a. 1 arg. 1 Ad primum sic proceditur. Videtur quod Christo tentari non conveniebat. Tentare enim est experimentum sumere. Quod quidem non fit nisi de re ignota. Sed virtus Christi erat nota etiam Daemonibus, dicitur enim Luc. IV, quod non sinebat Daemonia loqui, quia sciebant eum esse Christum. Ergo videtur quod non decuerit Christum tentari. 第一については次のように進められる。キリストが試みられることは適当ではなかったと思われる。何故なら(一)「試みる」とは「試験する」ことだからだ。だがこれは知られていないことにしか為されない。しかし、キリストのちからは悪霊らにさえ知られていた。何故なら『ルカ福音書』第四章 (41節)に「イエズスは悪霊らに話すことを許さなかった、何故なら悪霊らは彼がキリストであると知っていたからである」と言われているからだ。従って、キリストは試みられるべきではなかったと思われる。 [48661] IIIª q. 41 a. 1 arg. 2 Praeterea, Christus ad hoc venerat ut opera Diaboli dissolveret, secundum illud I Ioan. III, in hoc apparuit filius Dei, ut dissolvat opera Diaboli. Sed non est eiusdem dissolvere opera alicuius, et ea pati. Et ita videtur inconveniens fuisse quod Christus pateretur se tentari a Diabolo. (二) 『ヨハネの第一書簡』第三章(8節)のかの言葉「天主の子があらわれたのは、悪魔の業を破るためである」によると、キリストは悪魔の業を破るために来り給うた。しかし、或る者の業を破るのと、それを甘受することは同じ者の業ではない。従って、キリストが悪魔によって試みられることを甘受し給うたのはふさわしくなかったと思われる。 [48662] IIIª q. 41 a. 1 arg. 3 Praeterea, triplex est tentatio, scilicet a carne, a mundo, a Diabolo. Sed Christus non fuit tentatus nec a carne nec a mundo. Ergo nec etiam debuit tentari a Diabolo. (三) 試みは三つがある。すなわち肉による試み、この世による試み、悪魔による試みである。しかし、キリストは肉によっても、この世によっても、試みられ給わなかった。従って、悪魔によっても試みられるべきではなかった。 [48663] IIIª q. 41 a. 1 s. c. Sed contra est quod dicitur Matth. IV, ductus est Iesus a spiritu in desertum, ut tentaretur a Diabolo. しかし、反対に、『マテオ福音書』第四章(1節)には「イエズスは悪魔によって試みられるために、霊によって荒れ野に導かれた」と言われている。 [48664] IIIª q. 41 a. 1 co. Respondeo dicendum quod Christus tentari voluit, primo quidem, ut nobis contra tentationes auxilium ferret. Unde Gregorius dicit, in homilia, non erat indignum redemptori nostro quod tentari voluit, qui venerat et occidi, ut sic tentationes nostras suis tentationibus vinceret, sicut mortem nostram sua morte superavit. Secundo, propter nostram cautelam, ut nullus, quantumcumque sanctus, se existimet securum et immunem a tentatione. Unde etiam post Baptismum tentari voluit, quia, sicut Hilarius dicit, super Matth., in sanctificatis maxime Diaboli tentamenta grassantur, quia victoria magis est ei exoptanda de sanctis. Unde et Eccli. II dicitur, fili, accedens ad servitutem Dei, sta in iustitia et timore, et praepara animam tuam ad tentationem. Tertio, propter exemplum, ut scilicet nos instrueret qualiter Diaboli tentationes vincamus. Unde Augustinus dicit, in IV de Trin. quod Christus Diabolo se tentandum praebuit, ut ad superandas tentationes eius mediator esset, non solum per adiutorium, verum etiam per exemplum. Quarto, ut nobis fiduciam de sua misericordia largiretur. Unde dicitur Heb. IV, non habemus pontificem qui non possit compati infirmitatibus nostris, tentatum autem per omnia, pro similitudine, absque peccato. 答えて、こう言うべきである。キリストは試みを受けることを望み給うた。第一に、私たちに試みに対する助けを与えるためだった。ここから、グレゴリオは『福音書講話の説教』で「私たちの贖い主は殺されるためにも来り給い、試みられるのを望んだがそれは不適当ではなかった。それは御自分の死によって私たちの死を克服し給うたように御自分の試みによって私たちの試みに勝利するためだった」と言う。第二に、私たちへの注意のためで、どれほど聖であっても、誰一人も試みから安全に守られていると考えないためである。ここから、主は洗礼後にさえ試みられることを望み給うた。何故ならそれはヒラリウスが『マテオ福音書註解』において言うように、「悪魔の試みらは最高に、聖化された者たちにおいてなされる、何故なら聖なる者たちからの勝利が悪魔にとってより望むべきだから。」ここから『集会書』第二章 (1節)にも、「子よ、天主の奉仕に近づきつつ、義と畏怖において立て、お前の霊魂を試みに対して準備せよ」と言われる。第三に、模範を示すためであり、つまりどのように悪魔の試みに私たちが勝利するかを私たちに教えるためである。ここから、アウグスティヌスは『三位一体論』第四巻で「キリストは悪魔に試みられるべく御自身を与え給うた。それは、たんに助けによるのみならず、さらに模範を通して、悪魔の試みを克服するべき仲介者となるためである」。第四に、私たちに、御自身の憐れみに信頼を与えるためである。ここから『ヘブレオ人への書簡』第四章(15節)には「私たちの大司祭は、弱さに同情してくださらないお方ではなく、罪を除いてすべてを私たち同様に試みられた」と言われる。【それに続いて「したがって、私たちは、あわれみを受けるために、また時に適した助けの恩寵を見い出すために、信頼をもって恩寵の玉座に近づこう」とある。】 [48665] IIIª q. 41 a. 1 ad 1 Ad primum ergo dicendum quod, sicut Augustinus dicit, in IX de Civ. Dei, Christus tantum innotuit Daemonibus quantum voluit, non per id quod est vita aeterna, sed per quaedam temporalia suae virtutis effecta, ex quibus quandam coniecturam habebant Christum esse filium Dei. Sed quia rursus in eo quaedam signa humanae infirmitatis videbant, non pro certo cognoscebant eum esse filium Dei. Et ideo eum tentare voluit. Et hoc significatur Matth. IV, ubi dicitur quod postquam esuriit, accessit tentator ad eum, quia, ut Hilarius dicit, tentare Christum Diabolus non fuisset ausus, nisi in eo, per esuritionis infirmitatem, quae sunt hominis recognosceret. Et hoc etiam patet ex ipso modo tentandi, cum dixit, si filius Dei es. Quod exponens Gregorius dicit, quid sibi vult talis sermonis exorsus, nisi quia cognoverat Dei filium esse venturum, sed venisse per infirmitatem corporis non putabat? (一)については、従って、こう言うべきである。アウグスティヌスが『神の国』第九巻において言うように「キリストは彼が望み給うただけ悪霊たちに自分を知らせたが、永遠の生命であることを通してではなく、ご自分のちからの何らかの時間的な効果を通してであり、この効果から悪霊たちはキリストが天主の御子であると何らかの推測をしていた。」しかし、さらに悪霊たちはキリストに何らかの人間的弱さのしるしを見ていたので、彼が天主の御子であると確実に認識していたわけではなかった。そのために彼を試みようと欲した。これが意味されているのは『マテオ福音書』第四章(2, 3節)で「のちに飢えを感じられた、すると試みる者が近づいた」と言われている。何故なら、ヒラリウスが言うように【『マテオ福音書註解』】「悪魔は、キリストにおいて、飢えの弱さを通して、人間に属すること認めたのでなければ、あえてキリストを試みなかっただろう」からである。このことは「お前がもし天主の子なら」と言った試みの方法自体からも明らかである。グレゴリオは【『ルカ福音書講解』】これを解説してこう言う。「悪魔は天主の御子が来給うだろうとは知っていたが、肉体の弱さを通して来られたとは思っていなかったのでなければ、何故このような言葉で言い始めようとするのか?」 [48666] IIIª q. 41 a. 1 ad 2 Ad secundum dicendum quod Christus venerat dissolvere opera Diaboli, non potestative agendo, sed magis ab eo et eius membris patiendo, ut sic Diabolum vinceret iustitia, non potestate, sicut Augustinus dicit, XIII de Trin., quod Diabolus non potentia Dei, sed iustitia superandus fuit. Et ideo circa tentationem Christi considerandum est quod propria voluntate fecit, et quod a Diabolo passus fuit. Quod enim tentatori se offerret, fuit propriae voluntatis. Unde dicitur Matth. IV, ductus est Iesus in desertum a spiritu, ut tentaretur a Diabolo, quod Gregorius intelligendum dicit de spiritu sancto, ut scilicet illuc eum spiritus suus duceret, ubi eum ad tentandum spiritus malignus inveniret. Sed a Diabolo passus est quod assumeretur vel supra pinnaculum templi, vel etiam in montem excelsum valde. Nec est mirum, ut Gregorius dicit, si se ab illo permisit in montem duci, qui se permisit a membris ipsius crucifigi. Intelligitur autem a Diabolo assumptus, non quasi ex necessitate, sed quia, ut Origenes dicit, super Luc., sequebatur eum ad tentationem quasi athleta sponte procedens. (二)についてはこう言うべきである。キリストは悪魔の業を破るために来られたが、能力を使うことによらず、むしろ悪魔とその使いらによって苦しみを受けることによってである。こうして、能力によらず、義によって悪魔に勝つためであり、アウグスティヌスが『三位一体論』第十三巻で言うように「悪魔は天主の能力によらず、正義によってうちかたれなければならなかった。」従って、キリストの試みに関して、御自分の固有の意志で為し給うことと、悪魔によって受けたこと考察すべきである。キリストが試みる者に御自身を委ね給うたのは、固有の意志に属することであった。ここから『マテオ福音書』第四章(1節)に「イエズスは悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた」と言われる。これをグレゴリオは【『福音書講解』】聖霊についてのことと知解すべきであると言う。すなわち「悪しき霊が試みるためにイエズスを見出したところへ、彼の霊がイエズスを導いた」と。しかし、イエズスが、或いは神殿の頂点の上へ、或いは非常に高い山へさえ連れて行かれたのは悪魔によって受動した。グレゴリオが言うように「ご自分の同胞らによって自分が十字架につけられることを許し給うた方が、もしもかの悪魔によって山に連れられるのを許し給うたとしても、驚くことではない。」ところで、悪魔に連れられたとは、いわば必要性から【=どうしてもそうせざるを得ないから】ではないと理解される。オリゲネスが『ルカ福音書講話』に言うように、「いわば自発的に出発する競技の選手のように、試みられるために悪魔の後について行った」からである。 [48667] IIIª q. 41 a. 1 ad 3 Ad tertium dicendum quod, sicut apostolus dicit, Christus in omnibus tentari voluit, absque peccato. Tentatio autem quae est ab hoste, potest esse sine peccato, quia fit per solam exteriorem suggestionem. Tentatio autem quae est a carne, non potest esse sine peccato, quia haec tentatio fit per delectationem et concupiscentiam; et, sicut Augustinus dicit, nonnullum peccatum est cum caro concupiscit adversus spiritum. Et ideo Christus tentari voluit ab hoste, sed non a carne. (三)についてはこう言うべきである。使徒パウロが『ヘブレオ人への書簡』第四章(15節)で述べているように、「キリストは罪を除いて、すべてにおいて試みられることを望まれた。」ところで敵によるものである試みは、罪なしにありうる、何故ならそれは外的な暗示のみによって為されるからである。ところで肉によるものである試みは罪なしにありえない、何故ならこの試みは快楽と情欲を通して為されるからだ。アウグスティヌスが【『神の国』第十九巻】言うように、「肉が霊に対立して欲情するとき何らかの罪がある。」従って、キリストは敵によって試みられることを望み給うたが、肉によるそれではなかった。

 


霊的秋田巡礼_「マリア様の沈黙:マリア様こそ聖なる荒れ野。私たちが荒れ野に行くための美しい模範。」霊的講話3

$
0
0

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

霊的に秋田巡礼に参加することをご提案します。霊的にマリア様のみもとに参りましょう。
テレ巡礼を続けましょう。

マリア様こそ被造物の喧噪はかなさ虚しさから切り離された、まさに「聖なる荒れ野」でした。

マリア様は、そのすべてがイエズス様に満たされて、溢れておられ、イエズス様とひとつとなっておられました。

マリア様の沈黙について深く黙想いたしましょう。

引き続き、このゴールデンウイークを聖として過ごしてくださることを願っています。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

今日、2020年5月6日は、五月の初水曜日(月の初めての水曜日)です 聖ヨゼフ!我らのために祈り給え

$
0
0

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、2020年5月6日は、五月の初水曜日(月の初めての水曜日)です。
初水曜日に「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。


聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph

聖ヨゼフの御取次ぎにより、聖母の汚れ無き御心とイエズスの至聖なる聖心ヘの愛をますます与えてくださいますように!
聖ヨゼフの御取次ぎにより豊かな祝福がありますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失なわんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔き良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。

参考リンク
サンタフェ~奇跡の階段 コラレス通り1丁目 この記事に昔の階段の様子の写真があります。

聖ヨゼフの階段(アメリカのニューメキシコ、サンタ・フェにあるロレット・チャペル)



英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.

霊的秋田巡礼_「イエズス様は沈黙のうちに、何に渇いておられたのか?」 霊的講話4

$
0
0

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

霊的に秋田巡礼に参加することをご提案します。霊的にマリア様のみもとに参りましょう。テレ巡礼を続けましょう。

今回の霊的講話4からは後半に入ります。霊的講話は6までです。

私たちは天主から愛を受けて荒れ野に招かれました。被造物に全く「空」になって天主に満たされるために。

なぜ沈黙するのか?天主の声を聴くために。天主に満たされるために。

イエズス様は十字架上で「渇く」とおっしゃいました。この「渇き」とは何に渇いておられたのでしょうか?

引き続き、このゴールデンウイークを、天主への愛に満ちた黄金の「ゴールデン」ウイークとするために、また、ゴールデンウイークが終わっても、

聖として過ごしてくださることを願っています。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

「2020年聖母聖月、いま私たちがすべきこと」 2020年5月3日、復活後第三主日に東京で録画した小野田神父のメッセージ

$
0
0

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2020年5月3日、復活後第三主日に東京で録画した小野田神父のメッセージをご紹介いたします。

チャンネル登録をなさいますと、新しくアップされた動画の通知が届くので便利です。チャンネル登録は、ここ「SSPX JAPAN 聖ピオ十世会日本」をご覧ください。

イエズス様へと向かう旅人として、この地上のよそ者として生活する事ができますように、マリア様にロザリオをよく唱える事によって

$
0
0
2020年5月3日(主日)御復活後第3主日聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日御復活後第3の主日、イエズス様は福音で私たちにこう言います、「まもなくあなたたちは私を見ない。また、まもなく私を見るだろう。」
この「まもなく」というのはどういう意味でしょうか?
教会はここで、「私たちの人生がまもないものである。まもなく終わるものである。非常に短いものである。しかしこの人生がまもなく終わるけれども、イエズス様をまもなく見るだろう」と、この世の儚さを教えています。
聖ペトロも同じ事を言います、「愛する者よ、私はあなたたちに勧めたい。あなたたちは他国人であり、旅人である。だから霊魂に逆らう肉の欲を避けよ。」
あなたたちは外国人である。旅人である。この地上に本籍を持っていない。この地上ではよそ者だ。ここの地上にはずっと住処を持つ事ができない。いつかはここを発たなければならない。ほんのしばらくの間いる旅人だ。だから愛着するな。私たちの究極の目的である天国を、復活を、いつも目指していよ。この眼をイエズス・キリスト、復活されたイエズス・キリストにしっかり見据えておけ、と勧めています。
第2のポイントは、ではイエズス様は私たちに、この復活を与える為に、この短い人生が終わった後に、永遠の終わる事のない果てしない復活の喜びを与える為に、何をされたでしょうか?
この世が創造されるその前から、私たちを愛し、その創造する前から、この世が私たちが創られる前から、この世界が始まる前から、特別の愛の計画がありました。それは、「私たちの主が、創造されない天主の御言葉が、天主の御一人子が人間となって、私たちの為に、私たちの罪の償いとして、御自分の人生を、命を、私たちに全く与え尽くす」という事です。
33年間、清貧と、貞潔と、従順の御生涯。沈黙の、労働の、祈りの御生涯。
そして人生の夕べには、その愛の限りを尽くして、私たちの為に御教えを教え、権威を以って教えられ、天国の道に行く道術を教えられ、秘跡を制定され、私たちが永遠の命を受ける事ができるように、「何も恐れるな、ただ私たちを地獄に落とし入れる事ができる者、天主を恐れよ。罪を犯す事を恐れよ」と教えます。
そしてその罪の赦しの為に、私たちの罪の贖いとして、御自分の御血潮を全て流し尽され、愛の極みとして、御自身の御体を私たちに与える御聖体を制定され、ミサを、聖なるミサ聖祭を制定され、そして復活されました。
そしてこの復活が本当である事を、何度も何度も、40日の間弟子たちに御自分をお見せになり、「このような復活が私たちに与えられる」という事を約束されました。
この約束は決して破られる事がありません。私たちは永遠の命を受ける為に、主を天主を知り、信じ、愛し、これに奉仕して、霊魂を救う為に、永遠の命を受ける為に、この世に生まれてきました。
この地上での儚い生活はあっという間に終わりますけれども、イエズス様の御血の功徳によって、イエズス様の愛のその贖いの業によって、イエズス様の望む通り制定されたイエズス様の救いの道を信じ、洗礼を受ける事によって、私たちには永遠の命、復活が待っています。
その為にこそ聖父、天主聖父は聖子さえも容赦せず、恐ろしい十字架の受難を受ける事さえもお許しになりました。イエズス様はあたかも聖父から捨てられたかのように苦しまれました、「我が天主よ、我が天主よ、なぜ私を捨て給うのか。」十字架の上で祈られたほどです。
この十字架の贖いの実りこそ、カトリック教会が、イエズス・キリストが立てた唯一の救いの方舟であるカトリック教会がいつも教えてきた事です。永遠の命。
ですから教会は、洗礼を受けようとする人にこう聞きます、「あなたは、天主の教会に何を求めますか?」「信仰を。」「信仰はあなたに何を与えるのですか?」「永遠の命を。」
私たちはこれをこそ、天主の教会に、カトリック教会に求めています。「真の信仰」そして「永遠の命」これです。
第3に、では愛する兄弟の皆さん、この主の復活の喜びに浸ると共に、この私たちの目を、周りに少し見回してみましょう。
私たちの周りでは、この教えが聞かれる事が無くなってしまっています。ますますこの声がか細くなっています、「永遠の命」、「復活」、「罪」、「地獄」、「聖寵」、「天主聖子が成した贖いの業」について、どれほど聞く事ができるでしょうか?
そのような声は、他の雑音にかき消されてしまっているかのようです。そうではなくて、この地上の事、この物理的な物質的な事だけがこだまして、大きく騒がれているかのようです。
あたかもこの私たちがこの地上で永遠に生きるかのように、あたかもこの地上で永遠に住処を備えなければならないかのように聞かれています。
ファチマのシスタールチアは、まだ生きている間こう言っていました、「ローマから、あるいは司教様から、罪の償いをする呼びかけがあるなどと期待しないで下さい。私たち自身でそうしなければなりません。ロザリオを唱えて下さい。マリア様はこの時代に、『ロザリオに特別の力を与えた』と言っています。ロザリオによって解決できない問題はない」と。
愛する兄弟の皆さん、ですからこの最後に、5月聖母聖月、良い遷善の決心を立てましょう。
私たちがこの地上の儚さをよく理解する事ができますように、罪の儚さ、罪の醜さ、罪の邪悪さを、私たちが深く理解する事ができますように、永遠の復活の命が待っているという事が、私たちがこれを深く確信する事ができますように。
今まで、どれほど復活が無いように生きてきた事でしょうか、どれほど息を吸うように罪を犯してきた事でしょうか、どれほどイエズス様が私たちを見ていないかのように、私たちはイエズス様が天主がいないかのように生活してきた事でしょうか。
そうではなくて、イエズス様がいつも私たちの生活を見て喜ばれるように、良き、イエズス様へと向かう旅人として、この地上のよそ者として生活する事ができますように。
マリア様にお祈り致しましょう。ロザリオを唱える事によって、ロザリオの15の玄義を黙想する事によって、ロザリオをよく唱える事によって、聖母の聖月を聖なる日々を送る事によって、特にロザリオをよく唱える事によって、この信仰の御恵みを乞い求めましょう。私たちの愛する兄弟姉妹の皆さん、家族の方々、友人の方々、隣人の方々の為に、お祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


Viewing all 4258 articles
Browse latest View live