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聖アルフォンソ・デ・リグオリによる【善人の死について】の黙想

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

「死者の月」の黙想のご提案をいたします。

聖アルフォンソ・デ・リグオリによる【善人の死について】の黙想をどうぞ。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

「主よ、私は数々の罪を犯して主に背き奉った罪人で、幸いな死を遂げる柄ではない。しかし主は私の為に十字架上で御死去あそばしたのであるから、私は主の御傷と御死去とに深く縋り奉る。願わくは御憐れみを垂れて私の罪を赦し給え。主を心より愛さしめ給え。」

【善人の死について】の黙想
 その1

 「聖者の死は主の御前に貴い」(詩篇25-15)。

 聖ベルナルドは「聖者の死の貴い理由は、彼の苦労の終わりにして、命の門口だからである。苦しみも、悲しみも、誘惑も、戦いも、主を失い奉る心配さえも、全て終わりを告げ、楽しい幸福の世界がここに開かれるのである。」と言っている。

 悪人にとっては胸をえぐられる「この世を去れ」という命令も、決して善人を苦しめる事はない。彼らは一生涯、主を唯一の宝としていたのであるから、世の宝を離れるのは少しも苦痛ではない。今まで名誉も軽視してきたので、これを棄てることになっても格別辛い思いをすることはない。妻子であろうと、親兄弟であろうと、主に対してこそ愛していたのだ。彼らと別れるといっても、そうまで悲しく思う筈が無い。彼等は常に主をもって自分の全ての宝、全ての楽しみとし、「ああ我が天主よ!ああ我が全てよ!」と言いながら一生を送ってきたのである。いよいよこの世を発つという段になっては、尚更喜んでこの語を繰り返すのみである。

 臨終の苦悶すらも、彼等はそうまで耐え難いものであるとは思わない。かえって、己の命の最後の一息までも捧げつくして主を愛し奉ることができることを幸いとするのである。彼等はイエズスが自分を愛して、自分の為にお捧げ下さったその貴い御命の生贄に自分の命を合わせて捧げ奉るのを、何よりも満足に思うのである。

 主よ、私は数々の罪を犯して主に背き奉った罪人で、かかる幸いな死を遂げる柄ではない。しかし主は私の為に十字架上で御死去あそばしたのであるから、私は主の御傷と御死去とに深く縋り奉る。願わくは御憐れみを垂れて私の罪を赦し給え。主を心より愛さしめ給え。

その2

 死ぬとその日から罪に誘われる気遣いも、主を失い奉る危険も全くなくなるのを見て、善人はどんなにか嬉しく思うだろうか。しっかりと十字架を握り締めて今こそ「安全に眠り、かつ休まん」(詩篇4-9)と叫ぶ時の喜びは、ああいかばかりであろうか!

 なるほど悪魔は私の罪を目の前に並べ立てて心に懸念を起こさせ、失望の淵に突き落とそうとするであろう。しかし、今のうちにその罪を悔い悲しみ、真心から主を愛し奉るなら、慈しみ深き主の事であるし、決して私を見棄て給うまい。私を救いたいという主の御望みは、私を滅ぼしたいという悪魔のそれよりも幾倍も激しいのだから、必ず私を慰め、心を安め、気を励まし、力づけてくださるに違いないのである。

 死は生の門である。主は真実にして約束を違えられることはない。されば彼の危うい最後の場合に臨んで、かねてより主を愛する霊魂をどうして慰め給わぬ筈があろうか。容易ならぬ臨終の苦悶の中にも、言い知れぬ天国の歓楽を幾分なりとも心に感じさせて下さらぬ筈があろうか。深く信頼する心、偽りなき愛情、主を目の当りに仰ぎ見たい望みを起こす毎に、どうして永遠に楽しむべき天国の平和の幾分かを現世にありながら味あわせて下さらない筈があろうか。殊にネリの聖フィリッポの如く、聖体を仰ぎ見て、「ああ私の愛する御方よ!ああ私の愛する御方よ!」と叫び出す程の人であれば、臨終の聖体を拝領するに際して如何なる喜びに躍り立つことであろうか。

 最愛のイエズスよ、主は私の裁判官にてましますが、また救い主でもあらせられる。私を救わんが為に、御血も御命も擲ち給うた。なにとぞ私を憐れみ給え。御手を伸ばして私を罪悪の中より救い上げ、主を一心に愛せしめ給え。

その3

 考えてみると、死は決して恐るべきものではない。恐るべきは死を禍となす罪のみである。福者コロンビエールは言った。「一生涯忠実に主に仕え奉る人が、憐れな死を遂げることはあり得ない」と。

 されば真心から主を愛する人は、むしろ死を希うものである。死ねばその愛する主の御前に行くのである。永遠に主と結ばれるのである。自分の愛する御方と一つになることを希わない者があろうか。早く主の御前に行きたい、早く主を仰ぎ見たいと希わない者は厚く主を愛していないのではあるまいか?

 私はもう一切の被造物から心を引き離して、死を甘んじ受ける準備をせねばならぬ。今被造物を離れるのは少なからぬ功徳になる。しかし後に余儀なく離れては何の功徳にもならないばかりか、大いに霊魂の為に危険である。これからは毎日毎日が今日限りと思って生きて行かねばならぬ。死を目の前に眺めつつある人はその行いがどんなに正しくなるであろうか。

 ああ、私が主を目の当りに仰ぎ見て一心に愛し奉る時はいつ到来するであろうか。私はもとよりそのような幸を受けるに価しない。しかし主の御傷は私の唯一の希望である。私はこの希望に励まされて、聖アウグスチヌスと共に「いざ主よ、いざ早く死して御顔を仰ぎ見たらしめ給え」と申し上げたい。然り、愛すべきイエズスよ、私は早く死んで主の御顔を仰ぎ、主の御腕に縋って、いつまでも主を離れ奉る気遣いもなく、心安んじて終わり無く楽しみたいものである。

 ああ聖母よ、私は御子の御血と、御身のお取次ぎとに深く頼り奉る。何とぞ私に救霊の恵みを得させ、天の御国において永遠に主を賛美し、感謝し、愛慕する幸いを得さしめ給え。アーメン。


愛の聖心を見よ。イエズスの聖心へ愛は、自分だけに留まってならない。

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、こんにちは!

 フランシスコさん、すごいですね!
 モーゼについての質問に正しくお答えくださいました。
 モイゼの父親の名前はアムラム、母親の名前はヨケベトです!

 次の質問は、死者の月に因んで、モーゼはどこで亡くなり、何歳だったでしょうか。また、モーゼはどこで葬られたのでしょうか。どうぞコメント欄に書き込んでくださいね。

 来年のゴールデンウイークには、聖ピオ十世会日本では秋田巡礼を行います。来年は、巡礼10周年記念で、長崎と秋田とに行くことを計画しております。

 詳しくは次をクリックして下さいね。

 聖ピオ十世会日本 2016年 長崎・秋田巡礼 10周年記念 天主の憐れみを感謝して

 SSPX Japan Nagasaki Akita Pilgrimage in 2016


 さて、11月6日初金曜日、大阪で聖伝のミサを捧げました。その時の説教をご紹介いたします。

2015年11月6日 初金曜日 至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ


小野田神父 説教



聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は2015年11月6日、11月の初金曜日です。今日から、来年毎月レネー神父様の御訪問を含めると3回ミサが増えて、いつものパターンの金・土・日・月のパターンが2回に増える、という事に感謝を込めて、御聖体降福式をミサの直後、初金から始める事に致します。今日から始めます、どうぞ、ミサの直後、御聖体の前でロザリオを1環唱えるように、聖体降福式に与って下さい。

特に今回から、感謝のみならず、日本から聖なる召命がたくさん出ますように、司祭が常駐しますように、教会がたくさん建ちますように、多くのミサが日本中で捧げられますように、毎日捧げられますように、そのお恵みを乞い求めて、御聖体降福式を御捧げいたしましょう。

来年は、特別の御恵みで、毎月2回のミサのみならず、ネリ神父様の御訪問や、ティシェ・ド・マルレ司教様の御訪問、堅振式、聖母黙想会、長崎と秋田の巡礼、その他、まだ私たちの知らない特別の御恵みがたくさん待っていますので、それに感謝を込めて、御聖体降福式を捧げましょう。


聖父と聖子と聖霊との聖名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日はイエズス様の聖心の初金曜日ですから、イエズス様の聖心に燃える愛の火を、私たちも受け取る事に致しましょう。このイエズス様の燃える愛は、マルガリタ・マリア・アラコックに対する色々なメッセージも私たちに知らされています、「この人類の為に燃える、愛の聖心を見よ。」と。この私たちは、その聖心の愛のあまりにも大きなものを見て、私たちの心も愛に燃え始めています、イエズス様に賛美と感謝を捧げようとしています。

聖人たちによると、イエズス様の聖心に対する愛は、自分の心だけに留まってはいけません。

ちょうど小さなタバコの火から、森の大火事になる事があるように、私たちの心にあるイエズス様に対する愛の火は、これはメラメラと燃えて、多くの人々に伝わっていかなければなりません。ピオ11世教皇様は、「そのように、他の人たちに愛徳が伝わらなければ、私たちが『キリスト者』というには、まだ半分の弧を書いただけだ、まだ円ではない。まだ半分で円にはなっていない。弧にしか過ぎない。」と、言っています。

ですから今日は、その事を少し黙想して、それに引き換え私たちは一体どうであるかを振り返って、遷善の決心を立てる事に致しましょう。

イエズス様の聖心に燃える火は、私たちの救霊と、多くの人々の救霊を望んだ愛の火でした。イエズス様は、私たちと、私たちの兄弟姉妹たちを、全人類を愛するが為に、御自分の命さえも惜しまず、血潮を全て流されて、苦痛と屈辱と嘲りを耐え忍び、御自分を全て与え尽くして、私たちの救霊を望まれたその愛でした。

そのような極みの無い愛を目前にして、もしもその愛が、多くの人々から軽んじられ、イエズス様の聖名がバカにされ、或いは、イエズス様の御血が無益に流されている、というのを見て、もしもそれを見つつも、あたかも、「関係ないよ、知ったこっちゃない。」といった、そのような態度を取るとしたら、それは、私たちがイエズス様に対する完全な愛だ、と言う事ができるでしょうか?或いは、私たちがイエズス様に対する、激しい燃えるような、愛に燃えている、と言う事ができるでしょうか?

イエズス様が隣人の為に命を捧げて、「友の為に命を捧げるほどよりも大きな愛は無い。」と、言いながら全生涯をかけた救霊の事業、それを全く知らずに、無知のまま、イエズス様の事を知らずに、イエズス様の事を誤解して、罪を重ねて、残念ながら洗礼の恵みも受けずに、誰からも教えられずに、或いはもう地獄に落ちつつあるような人々を見て、私たちは、「あぁ、俺の知った事じゃないよ。」というような態度を取るとしたら、それは、私たちがイエズス様に教えられた隣人愛を、これを完成、全うする事になるでしょうか。

イエズス様は私たちに、「私はお前たちに新しい掟を与える。私がお前たちを愛したように、お前たちも互いに愛し合いなさい。」と、イエズス様が愛したように隣人を愛せ、という掟に、私たちは適っている、と言う事ができるでしょうか。隣人を本当に愛している、と言う事ができるでしょうか。それとも、そのようなイエズス様に対するあまりにも無知がある、或いはイエズス様の事をこの隣人は知らないでいる、何とかしてあげたい、何とか救ってあげたい、何とか、何とかできないか。その地獄に落ちないように、苦しまないように、何か間違いを犯さないように、何とかしたい、と、私たちが苦しみ悩むという事こそ、隣人愛に適う態度ではないでしょうか。

そうすると、私たちに於いて、「自分の救霊だけを考えれば良いんだ。」「自分のお祈りだけをすれば良いんだ。」のではなく、「あぁ、私たちは、私の救霊はもちろん、隣人の救霊をも、隣人の聖化の為にも、奮発して愛徳を行わなければならない。」と、私たちはますます愛の火がメラメラと高まらなければなりません。

先月、10月に黙想した幼きイエズスの聖テレジアは、まさにこの事を実践していました。毎日毎日、小さな幼い時から、自己放棄、自己犠牲をいつも捧げてきました。自分の霊魂の救霊のみならず、隣人の救霊の為に。13歳の頃、主日の、日付は私たちに教えられていないのですけれども、「ある主日のミサの後に、使っていたミサ典書の所から、いつも見慣れていた、十字架に磔られたイエズス様の御影がちょっとだけ出ていたのです。ちらっと見ると、イエズス様の御手が釘付けにされて、血が滴り落ちている御手が見えたのです。ミサの後にハッと見ると、いつも見慣れた変哲もないその御手、イエズス様の十字架の御血ですが、このタラリタラリと、私たちの救霊の為に流されている御血が、多くの人々にとって無駄に流されている、誰もこれを利用しようとしない、イエズス様の苦しみは全く無となっている。何故かというと、多くの人が、イエズス様の事を全く無視している。救霊など、自分の救霊など関係ないと考えている。イエズス様などと関係ない生活をしている。イエズス様の御血があたかも地面に無駄に流されているように、その時に感じた、理解できた。その時から、イエズス様の御血が無駄にならないように、それをかき集めて、それを聖父に捧げる事にした。」と、自分の伝記に書いています。

「イエズス様が、『私は渇く。』と、十字架の上で言ったその言葉が、『霊魂が欲しい、霊魂の救霊を望んでいる。霊魂が私の元に来るように。渇いている。でも霊魂たちは私から遠ざかっている。』というイエズス様の渇くような愛の声を聞いた。」と、伝記に書いています。

そこで、イエズスの聖テレジアは、「そのような霊魂の救霊に渇望する、渇いているイエズス様を何とか癒してあげたい。何とかその霊魂を、そのイエズス様の方に救うように、イエズス様に差し上げたい。」と思う、救霊に対する熱烈な渇きが、聖テレジアにも伝わってきました。イエズスの聖テレジアはこう言います、「この世でする事はたった1つしかない。イエズス様を愛する事と、イエズス様の為に霊魂を救って差し上げる事だ。」と。

聖テレジアは、聖書の詩編、『主の目にとって、1000年は1日のよう。』という言葉をとって、「私たちの人生は1日のようだ。あっという間に過ぎてしまう1日のようだ。この1日にできる事は、しなければならない事はたった1つしかない。イエズス様を愛する事と、救霊の為に尽くす事、隣人の救霊の為に尽くす事だ。イエズス様が愛されるように、霊魂を救う、霊魂が永遠にイエズス様をお愛しする事ができるように、助けてあげる事だ。そのまま放ったらかしておかない事だ。」と、言っています。

幼きイエズスの聖テレジアによれば、「私たちの救霊、隣人愛もやはり、イエズス様に対する愛から発して、イエズス様の愛にと導かれるように、イエズス様を愛する事ができるようにと、愛へと向かっています。」

有名な、プリュス神父様というイエズス会の神父様の本をつい最近読んでいたら、「『キリスト教信者』という事と、『隣人の救霊に無関心である』という事は全く、矛盾している。」とありました。「『キリスト教信者』という事は、『キリスト者』という事は、イエズス・キリストの神秘体の一部となって、イエズス・キリストの命を生きる者であるから、イエズス様がなさったように私たちも救霊の事業に、霊魂の救いの事業に参与しなければならない、祈りと、犠牲と、また私たちの生活を以って、救霊事業に参加するように、イエズス様と一致している者だ。だから『キリスト者』という事はつまり、『隣人の救いの為に働く者』である。小さな救世主となる事だ。共同共贖者となる事だ。マリア様の道具となる事だ。」と。

では、これに引き換え、「私たちは今まで、何と隣人の救霊に、」いえ、私は皆さんの中に時々、「神父様、私はいつも、このこれを、この不思議のメダイを配っているのです。」或いは、聖伝のミサに、いつもお友達を連れてくるような方々、或いは、いつもこう誘ってやっているような方々を見ているので、「私たち」というか、「私は、何と今まで、イエズス様の救霊の願いをその渇きを癒して差し上げるにほど遠かった事でしょうか。イエズス様の御恵みを受け、イエズス様の御子となる、天主の子供となる恵みを受けて、イエズス様の弟子となる特別の恵みを受けて、イエズス様の御体を私たちが拝領する様なほどの御恵みを受けていながら、イエズス様と同じ望みを分かつ事ができなかった。隣人の救霊を望む為に力を尽くす、という事に神経を使わなかった。どれほど何と、イエズス様の聖心から遠かった事でしょうか。」「私は、『イエズス様を王として頂いている』と言いながら、本当に私の生活はイエズス様を王としたでしょうか。イエズス様が望んでいる事だけを、王の望んでいる事だけをしようとしたでしょうか。それとも自分のやりたい事を、王の望みよりも優先した事はなかったでしょうか。」

マリア様は、イエズス様の望みだけを、完璧に100%、汚れ無く、生きておられました。それにもかかわらず、私の生活は、天主様の100%の生活だったでしょうか。イエズス様は私たちに全てを与えて、救霊の為に全てをしてくださったにもかかわらず、私たちは自分の救霊と、隣人の救霊の為に、どれほど100%の事をしたでしょうか。或いはせっかく頂いた御恵みを、頂きながらも知りながらも、イエズス様に対して罪を犯したり、或いは逆らったり、御旨の通りに、「御旨はこうだ」と分かりながらも、それにすぐに、「はい。」と、言わなかった事が、どれほど多かった事でしょうか。

では今日は、遷善の決心に何を立てたら良いでしょうか。4つ、最初の2つは非常に有名な、幼きイエズスの聖テレジアの言葉からいきます。

1つはお祈りです。私たちは、私たちの救霊と、隣人の救霊の為に、イエズス様の聖心に従ってお祈りを致しましょう、多くのお祈りを致しましょう。どうぞ、御聖体拝領をこの意向の為になさって下さい。ミサに与って下さい。御聖体降福式に与って下さい。来年はミサが増えます、ですからそのミサにできるだけ与って下さい。ロザリオもたくさん唱えて下さい、お祈りをいつも唱えて下さい。いつもイエズス様の現存の中で、祈りの中で生活するように致しましょう。もしも、イエズス様の聖心を悲しませるような言葉や、或いは街を通る時に、この前被昇天でシュテーリン神父様が仰って下さったように、マリア様にお祈りをして、どうぞ、「このバスに乗っているこの霊魂たちが、」或いは「この街で通っているこの霊魂たちが回心しますように。」と、射祷を唱える事に致しましょう。

第2は、生贄、犠牲です。幼きイエズスの聖テレジアによれば、「祈りと犠牲こそが、教会にとって一番、愛の込められた祈りと犠牲ほど、教会にとって役に立つものはない。これこそが役に立つものである。」と言います。十字架なしに、血を流す事なしに、私たちの罪の贖いは有り得ませんでした。犠牲なしに、苦しみなしに、お恵みは有り得ないのです。ですから私たちも、日々、毎日送られる十字架を、犠牲を、わたしたちの日常の義務を、イエズス様への愛を込めて御捧げいたしましょう。ファチマで天使はこう言いました、子供達に、「いつも犠牲と祈を捧げなさい。犠牲を捧げる時にはこう言いながら、射祷を唱えながら犠牲を捧げなさい、『イエズスよ、これは御身を愛する為、罪人の回心の為、公教会の為、教皇様の為に、これを御捧げします。』と。」ですから、私たちもすすんで、イエズス様を愛する為に、霊魂の救いの為に、隣人の為に、罪人の回心の為にお捧げいたしましょう。

第3は、私たちの良き生活を通して。確かに私たちは、みそぼらしい、弱い、不完全なしもべで、役に立たないしもべですけれども、私たちの努力と、私たちのできる限りの力を込めて、できる限りを尽くして、なるべくイエズス様の聖心に適う、より少なく、聖心を悲しませる事のない生活を送る事によって、良き模範となる事によって、イエズス様の聖心と、隣人の救霊の為にする事に致しましょう。どうぞ、食事の時に十字架の印を切るとか、或いは何か友達から、「あぁ、あなたはカトリックの信者さんですか?」と言われた時に、どうぞ恥ずかしがらず、「はい、そうです。」と仰って下さい、「聖ピオ十世会の聖伝のミサに与っています。」或いは、友達に悪い場所に誘われた時に、「あぁ、すみません。私はこういう所には行きません。」と仰って下さい。そういういかがわしい所や、或いは罪の機会となるような場所には近寄らない、誘われたとしても、近寄らないようになさって下さい。良い模範を示す事によって、救霊の為にお祈り致しましょう。

最後に、良い言葉を以って、イエズス様は仰いました、「全世界に行って、私の教えた事を教えよ。」と。「もしも信じて洗礼を受けるならば救われ、そうでないならば滅びてしまう。」イエズス様は、「全世界に行って、私の教えた事を教えよ。」とだけ言われました。「全世界に行って、全てをカトリック信者に回心させて、」とは仰らずに、とにかく、イエズス様の事を伝えるように、「地の果てまで、私の証人となるように。」と求められました。

ですから私たちも、もちろん、私たちはこの看板をかけて、「SSPX」とか書いてあるTシャツを着て、或いは口を開ける毎に「ラテン語のミサを」と、もちろん言う必要はありません。

しかし、もしかしたら私たちは、お祈りをしつつ、良い機会に、或いはイエズス様の事、或いはマリア様の事について、ポロリと微笑みながら、少し確信を込めて、「あぁ、マリア様はきっと助けて下さいます。マリア様はお祈りして下さっているのですよ。」とか、私たちの確信を伝える事ができるのではないでしょうか。或いは、皆さんの中のもう数名はなさっているように、不思議のメダイを悲しんでいる人に差し上げたり、或いはお友達に差し上げたりなさる事はできないではないでしょうか。もちろん、ただ配るだけでは効果がありません、その前にマリア様に、「あぁ、これを今から何とかさんに上げるので、マリア様、どうぞ、何とかさんがちゃんとこれを受けて下さいますように、マリア様、この何とかさんの為にお祈り下さい。」めでたしを唱えて、そのきれいな優しい言葉で差し上げた後に、その何とかさんの為にまたお祈りをして、「マリア様、この何とかさんを守って下さい。この某さんの為に(?)下さい。」と、言ったらきっと、奇跡が起こると思います。

私たちの祈りと、犠牲と、良い生活と、ふさわしい優しいイエズス様を伝えるマリア様を伝える言葉を以って、私たちはイエズス様の聖心をますますお慰めし、お愛しし、イエズス様を愛する霊魂をますます広めて、この小さなタバコの燃えカスのような私たちの貧しい愛も、燃やすような山火事になるまで広がる事をお祈り致しましょう。その事ができるように、マリア様に、特に私たちを助けて下さいますようにお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との聖名によりて、アーメン。

聖母はイエズスを私たちに与え、私たちをイエズスへと導こうと願い、私たちを愛する。

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 10月には、アジア管区に新たな司祭が任命され、そのおかげで10月25日の主日にはマニラにいることができました。王たるキリストの祝日に行われた聖体行列のようすです。

Procession of the Most Blessed Sacrament - FSSPX



 さらに、アジア管区では、これからロザリオの時に「主よ、われらに司祭を与え給え 云々」の最後に、次の呼祷を付け加えることになりました。
「主よ、我らに多くの聖なる家族を与え給え。」
"O Lord, grant us many holy families".
 宜しくお願い致します。

 来年の長崎・秋田巡礼についてです。

 聖ピオ十世会日本 2016年 長崎・秋田巡礼 10周年記念 天主の憐れみを感謝して

 SSPX Japan Nagasaki Akita Pilgrimage in 2016


 さて、11月7日の説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2015年11月7日 初土曜日 聖母の汚れ無き御心の随意ミサ


小野田神父 説教

聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は11月7日、2015年11月7日初土曜日のミサをしています、聖母の汚れ無き御心の随意ミサをしています。このミサの直後に、いつものように公教要理の勉強会があります、どうぞいらして下さい。次のミサは、来週の次の、明日ではなく次の一週間後の主日の18時30分から、レネー神父様がミサをして下さいます。12月は、12月の最初の初金、初土、クリスマスにミサがあります。どうぞいらして下さい。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は、マリア様の汚れ無き御心の愛の炎の中に深く入っていく事に致しましょう。マリア様の汚れ無き御心は、私たちに何を求めておられるのか、それを黙想して、私たちは、マリア様のお母様としての役割を、私たちの霊的な母としての役割を、深く理解し、そのお母様としての役割を、子供としてどうして愛し返していったら良いか、どのような事ができるのか、良き遷善の決心を立てる事に致しましょう。

「愛」というのは、単なるフィーリングや感傷的なものではありません。「愛」というのは、意志から生じるもので、行動に移されなければなりません。行動によって証明されなければなりません。マリア様はお告げを受けた時に、「はい。」と答えて、天主様がご自分からお生まれになる、なりたい、という事を知り、そのご自分から生まれる方が救い主であって、『イエズス様』と呼ばれる事を知り、それに、「はい。」と答えました。

マリア様は、この救い主がイエズス・キリストが、贖いの事業をご自分と共にされたい、という事を理解しました、「我、主の婢女なり。仰せの如く我になれかし。」マリア様は、全くの同意を伝えました。この瞬間から、天主の第2のペルソナ御子は、マリア様の御胎内に宿り、つまりキリストの神秘体のかしらが宿り、マリア様はイエズス・キリストの母、天主の御母となると同時に、イエズス・キリストの神秘体の母となりました。

マリア様のご生涯は、イエズス様の祈りと、イエズス様の苦しみと共に一致したご生涯でした。マリア様の知性は、イエズス様の知性と一致し、マリア様のご意志は、イエズス様の意志と全く1つでした。マリア様の汚れ無き御心は、イエズス様の至聖なる聖心と全く一体でした。

十字架の下で、イエズス様は御自分を聖父に、マリア様と共に、御捧げになりました。マリア様は、イエズス様を御子を、イエズス様と共に御捧げになりました。

イエズス様はカルワリオで、最高の究極の生贄を屠りを捧げました。天主様の御恵みは決してキャンセルされる事はありません。天主様は、自分の与えたものを決して取り返す事はありません。何故ならば、天主様は変わる事がないからです。天主様はそのまま、永久に、永遠に、不変に、変わらずに、留まります。天主様の与えた贈り物も、御恵みも、そのまま残ります。

マリア様がもしも、「天主の御母となる」という事を天主が望むのならば、もしもマリア様が天主の母として、人類の贖いに協力する事をお望みならば、これは世の終わりまでそれをお望みになるはずです、世の終わりまでお望みになります。

マリア様は、私たち罪人にイエズス様をお与えになりました。ナザレトで、「はい。」と言いながら、イエズス様を私たちに与える事に同意し、ベトレヘムで、私たちの為にお産みになり、十字架の上で、私たちの為に捧げ、マリア様は私たちに与え尽くしました。

マリア様は、この「イエズス様を私たちに与える」というこの事業を、世の終わりまで続けられます。

幼きイエズスの聖テレジアは、病に就いて死の直前の時に、シスター達から、「あぁシスター、シスター天国に行ったら、私たちの事を天からご覧になって下さいね。」と言われると、幼きイエズスの聖テレジアは、「いえ、私は天の上から皆さんを眺めるのではなく、地上に降りて来ます。皆さんを助ける為に、愛徳をする為に地上に降りて来ます。」と言われましたが、マリア様は、更に母の心で、天から地上に、私たちの一人一人の為に、私たちが、私たちに於いてイエズス様が生み出されるように、特別の繊細な気遣いを使って下さいます。全歴史にわたって、私たちに於いてイエズス様が生み出されるように、私たちがイエズス様の似姿となるように、マリア様は手伝って下さっています。

マリア様は、「見よ、主の婢女はここにおります、仰せの如く我になれかし。」と仰った時に、これを世の終わりまで仰り続けます。この効果は、世の終わりまで続かなければなりません。これこそが、マリア様が頂いた、天主様から頂いた、母としての、霊的な母としての使命です。私たちを霊的に、超自然の命に於いて生み出す、イエズス・キリストの神秘体の母として、神秘体を完璧に生み出す、という事です。私たちの母、イエズス・キリストの兄弟、姉妹である私たちの母となる、という事です。

マリア様が、イエズス様の御降誕40日後に、イエズス様を神殿に奉献されました。その時、福音書によれば、「マリアは、その初子を捧げた。」と、あります。この「初子」というのは、モーゼの律法の用語であって、つまり「最初に生まれた男の子」がそうであって、第2、第3子が無くても、子供がその後無くても、最初に生まれた子は初子として、第1の子供として捧げられるのです。

ところで、専攻する、マリア様の神秘を研究する神学者が、幼きイエズスの聖テレジアも、「この『初子』という言葉に、実は確かに立法上、歴史上、イエズス様は唯一の子であるけれども、しかし、霊的に於いては、『霊的に』というのは、嘘という事ではなくて、超自然の意味に於いて、しかし現実の意味に於いて、イエズス様の兄弟姉妹である私たちを、マリア様は生み出す、という事を想定した用語である。」という事を指摘しています。「イエズス様を奉献された時に、その世の終わりまで、超自然の命に於いて生まれるべき私たちをも、マリア様は奉献される使命を持っている、という事を予告する言葉である。」と指摘しています。

これが、マリア様の超自然の使徒職の、世の終わりまで続く母としての使命です。この使命は、マリア様の受けている使命は、謂わば戦いです、戦争でもあります。何故かというと、私たちの霊魂を、悪魔の手から奪い取らなければならないからです。マリア様は、悪魔の手から奪い取るのみならず、それをイエズス様の方へと導かれなければなりません。マリア様は、蛇の、古(いにしえ)の蛇の頭を踏み砕き続けなければなりません。

マリア様は、無原罪の御孕りの時にそれをなさいました。世の終わりまでそれをなさり続けます。何故かというと、マリア様は、軍隊を整えた、整列を整えた軍隊よりも更に恐るべき御方であるからです。

マリア様のこの地上での使命が続く為に、どうしても手伝いが、どうしても協力が必要です。ちょうどイエズス様が、御自分の使命を使徒たちに、使徒の後継者に委ねたように、マリア様の、母として多くの子供たちを持つ為に、私たちの協力をも必要としています。

マリア様の為に、霊魂を悪魔の手から引き取って、イエズス様へと導く、良きマリア様の子供たちが必要です。マリア様は特にこの戦いを、多くの霊魂たちをイエズス様の方に導く、というこの使命を、ここにいらっしゃる愛する兄弟の皆さんたちに、特にお願いしています。皆さんは特に、インマクラータの騎士となり、マリア様の子供として、奴隷として、騎士として兵士として、「マリア様の為に何かをしたい」と思われました。

マリア様が何故、私たちをこのように使いたいのか、というと、それは何か私たちが何か特別に能力があったり、或いは何かマリア様の為に、このするだけの価値がある、と思われたからではありません。

そうではなくて、そうでないにもかかわらず、私たちの役に立たない者であるにもかかわらず、マリア様が私たちに、ご自分の勝利と、ご自分の喜びと幸せを私たちに与えたい、と思った、ただマリア様の善きご親切と、そのあわれみと寛大さによって、私たちは特別に、その御恵みを頂く事になりました。

マリア様の母としての悲しみ、苦しみ、私たちをイエズス様へと導こうとするその努力、その願い、その燃える愛を知りつつも、「知らないよ。」と言うのは、私たちが子供として、或いはマリア様の愛を知る者して、取る事ができる態度でしょうか。

「何とかして、このように良い母であるマリア様を、何とかしてお喜ばせしたい、何とかして役に立ちたい。」と思わないでしょうか。あぁ、もちろん、私たちはあまりにも力がないのですけれども、しかし、マリア様が特に私たちの為に取り次いで下さいます。全てのお恵みは、マリア様を通して来ます。これが天主様の御聖旨です。

「あぁ、神父様、私はマリア様の為にお祈りをします、犠牲をします。」はい、非常にそれは良い事で、是非私たちは、その多くのお祈りと、多くの犠牲を捧げ続けなければなりません。しかしマリア様は、それだけではなく、更にもっと協力を求めています。何故かというと、例え聖フランシスコ・ザヴェリオが、スペインに残ったままお祈りと犠牲を捧げていただけでは、日本にはイエズス様の福音が届きませんでした。聖フランシスコ・ザヴェリオが舟に乗って、苦労をして、私たちの為に何か活動をして下さったからこそ、私たちにもその恵みが与えられるようになりました。

確かに司祭は、お祈りと犠牲を教会で捧げれば良いのですけれども、でもその司祭も、秘跡を必要とする人の為に、病者の訪問、告解の秘跡、或いは何か努力をしなければなりません、秘跡を授けなければなりません。それと同じように、私たちもマリア様の子供として、行動に表さなければなりません。何故かというと、愛というのは、感情やフィーリングではなくて、意志の問題であって、この意志は、行動へと表われるものであるからです。

では、私たちは、一体どのようにすれば良いでしょうか?私の今日提案したいのは、マリア様の良き子供として、良い、良き生活を、ますますマリア様に似た、マリア様の御心に適う生活をする、そうする事によって、私たちの周囲の方々に愛徳の影響を与える、という事を提案したいと思います。例えば、マリア様が私たちにお望みになっているように、私たちが徳を積み、正直であって、誠実であって、この自分の事しか考えないような人がたとえ周りにたくさんいたとしても、私たちはいつも誠実に、正直に、真面目に行動する事が、マリア様のお喜びであります。また、自分のやるべき事をサボる人が例え周りにたくさんいたとしても、マリア様のように、自分の義務を天主様から与えられた使命として果たす、良心的に果たす事を、マリア様はお望みです。

私たちはもちろん、見せびらかすのではなく、しかしそれといって、世間体を気にして隠すわけでもなく、普通に、しかし確信を持って、カトリック信者である、マリア様の子供である、という事を、私たちはそれを行動を以って表さなければなりません。

私たちが一体自慢するのは、どのような事でしょうか?この世の人たちは、罪や、或いは下品な事を言ったりして笑ったりして、自慢しているかも知れません、「俺はこんな事をやったんだ。」しかし私たちは、むしろイエズス様の弟子であるという事を、マリア様の子供であるという事を、自慢できるようにしなければならないのではないでしょうか。私たちの謙遜と愛徳によって、願わくは、私たちの周囲の方が、イエズス様を愛する事ができますように。イエズス様の掟を愛する事ができますように。強制されたとか、何か嫌がらせを言われたから、何か恐ろしいから、ではなく、願わくは、マリア様の特別のお恵みによって、霊魂たちがイエズス様へと引き寄せられて、イエズス様をお愛しし、イエズス様の事をますます好きになって、イエズス様の事に従いたい、と思うように導かれますように。その為に私たちが何か、もしも必要としているのであれば、お手伝いや、或いは何か良い業をする事ができますように。

天主様が私たちをこのように愛して下さるのであれば、私たちもその愛に倣って、愛徳の実践をする事ができますように。忍耐する事ができますように。

幼きイエズスの聖テレジアは、修道院の中に、ある有名な何か性格の悪いシスターが、カルメル会のシスターがいたそうです。そのシスターがあまりにも性格が悪いので、皆嫌っていたんだそうです。でも、その幼きイエズスの聖テレジアは、そのシスターに、いつも親切に、いつも忍耐をもって、特に優しくして、特に愛情深く接していました。お姉さんであるシスターが、「何で妹のテレジアは、私よりもあのシスターの事が好きなのか。」と言って嫉妬したほどです。で、死ぬ前に、「何故、あなたはあのようなシスターの事をそんなにも好きなのか。」と聞いたそうです。そのシスターも、性格の悪いちょっと意地悪なシスターも、ついに聖テレジアに、「シスター、何であなたは他の人と違って、私の事がそんなに好きなの?」と聞いたのだそうです。

願わくは、私たちも愛徳を実践する事ができますように。私たちの隣人に於いて、その隣人の、「あぁ、この方はとても親切な方だから好きだ。あぁ、この人は不親切だから嫌いだ。」「あぁ、この人は善徳のある方だ。あぁ、この方は悪徳の人だから。」或いは、「この人は頭が良いから。あぁ、この人は…」と、その自然的な事だけではなく、イエズス様とマリア様が、そのこの霊魂の為に、霊魂の救霊の為に、どれほどの高い御血潮の値を払って贖って下さったのか、或いはマリア様はこの霊魂を、どれほどの愛を込めて母として愛されておられるのか、その事だけを考えて、この霊魂がますます、マリア様を通してイエズス様をお愛しする事ができるように。それをマリア様が私たちに求めておられます。

これは私たちにとっては、とても高い理想ですけれども、マリア様の御助けによって、御あわれみによって、これが実践できるようにお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

ベネディクト十六世引退教皇:ひざまづくことができないことは、悪魔的であることの本質として見られている

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様

砂漠の隠遁士であった大修道院長アポロによると、悪魔にはひざがありません。イエズス・キリストの聖名の前でひざをかがめることができないことは、悪魔の本質です。

「ひざまづくことができないことは、悪魔的であることの本質として見られている」
“inability to kneel is seen as the very essence of the diabolical” (ベネディクト十六世『典礼の精神』)

「ひざまづくことをもはやしなくなった信仰や典礼は、その中核が病んでいることになる。ひざまづきが失われたところではそれが再発見されなければならない。それは私たちの祈りにおいて、私たちが、使徒たちと殉教者らと繋がるため、全宇宙(コスモス)とイエズス・キリストご自身との一致において繋がるためである。」
"a faith or a liturgy no longer familiar with kneeling would be sick at the core. Where it has been lost, kneeling must be rediscovered, so that, in our prayer, we remain in fellowship with the apostles and martyrs, in fellowship with the whole cosmos, indeed in union with Jesus Christ Himself." (ベネディクト十六世『典礼の精神』)

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖アルフォンソ・デ・リグオリによる【私審判について】の黙想

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

「死者の月」の黙想のご提案をいたします。

聖アルフォンソ・デ・リグオリによる【私審判について】の黙想をどうぞ。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

「私は実に罪人、それも大いなる罪人である。しかし主は私の為に御死去あそばした。胸を打って痛悔したら決してお見捨てになる筈がない。永遠の御父よ、私は主に背いて犯した罪を悉く痛悔し奉る。願わくは私の罪を見ずして善く聖意に適い給える御子の御顔を顧み給え。」

【私審判について】の黙想
 その1
 私は今臨終の苦しみに悩んでいる。私の死はもはや一時間、二時間の後に迫ってきた。私はやがて主の法廷に立って一生涯の善悪を裁かれなければならぬ、と想像してみよ。果たしていかなる感じがするだろうか? その時にあたって私の為に何より怖ろしく感じられるのは、罪に汚れた心であろう。しからばその裁きの来ない前に、心の穢れを洗い落としておかねばならぬ。

 その日こそ永遠の世界に入る日である。犯した罪に対して良心が怒鳴りだす。悪魔は失望の念を掻き起こそうとする。どんな判決が下されるだろうか? それすらわからないので心の中は煮えくり返る思いがする。その混乱・恐れ・騒ぎといったらないであろう。されば今からイエズスとマリアに堅く愛着して、私の運命が定まるべきその最後の日に見棄てられないだけの用意をしておかねばならぬ。

 ニ・三分の後には主の厳しい裁きを受けなければならぬと思う時の恐ろしさを思え。パッジの聖マリア・マグダレナがかつて病の床に臥し、わなわなと震えているので、司祭が怪しんでその訳を尋ねると、「主の法廷に出頭するのは怖ろしい事ではございませんか!」と答えられたという。幼い頃から熱心に主に仕え、ひたすら善を修め、徳を積んで、天晴れな聖女よと仰がれていたこの罪無き童貞ですらそんなに怖れたというならば、数限りない罪を重ねて幾たびも地獄に突き落とされるべき私がどうして恐れないでおられようか。

 愛すべきイエズスよ、私も主の貴き御血をもって購われた者たることを記憶し給え。願わくは審判の日の来ない前に私を憐れみ、私の罪を赦し給え。

 その2
 神学者の説によると、息の根の絶えるや、すぐにその場で審判が開かれ、宣告が下り、賞罰が執行されるとのことである・・・

 ああ、その時こそ私の運命が定まる。私が永遠に幸いなるも、不幸なるも、その時に定まるのである。

 尊者ルイ・デュポン師はその時の事を思い廻らして、自室が揺れる程の震えに襲われた。誰にしても己の一生涯の罪を数え、主の裁きの厳しさを思い、賞罰の終りのない事を考えれば震え慄かずにはいられるものではない。

 主よ、今私をお裁きになったら私の運命はどうなってしまうのでしょうか? 善人ですら怖れずにいられないというならば、私の如き悪人はいかに震え恐れてしかるべきであろうか? 私は主の御受難の他には何も頼りとするべきものを持たない。私は実に罪人、それも大いなる罪人である。しかし主は私の為に御死去あそばした。胸を打って痛悔したら決してお見捨てになる筈がない。永遠の御父よ、私は主に背いて犯した罪を悉く痛悔し奉る。願わくは私の罪を見ずして善く聖意に適い給える御子の御顔を顧み給え。永遠の聖父よ、御身のキリストの御顔を見給え。Respice in faciem Christi tui. (Ps. Lxxxiii.10) その貴い御血をご覧になり、その痛々しき御傷を数えて私を憐れみ給え。

 その3
 いよいよ最後の目を閉じるや霊魂は永遠の世界に入っていくのだ。よって司祭は遺体に聖水をふり注ぎ、「天主の聖人は来たりて彼を助け、天使は出でて彼を迎え、彼の霊魂を受け取りて天主の御前に捧げ給え」 Subvenite, Sancti Dei; occurrite, Angeli Domini. と祈る。しかし万一救霊を失っていたならば、聖人といえども天使といえども今更如何ともし難いであろう。

 私審判の法廷における裁判官は天主で、人性を受け給うたキリストではないということである。それにしても罪のいまいましい姿を見せるが為に、キリストが御受難の際に蒙り給うた傷跡をお示しにならないだろうか。その傷跡こそ真の痛悔をもって己の罪を泣き悲しんだ罪人にとっては大いなる慰めを与えるであろう。しかし罪悪に溺れたまま現世を立ち去った悪人には如何なる恐れの種となるであろうか。

 主の法廷に始めて立ち、主の厳しき御顔を仰ぎ見た霊魂の恐れを思え。そればかりでも地獄に幾倍も勝る苦罰ではないか! その時こそ彼は無上至尊の御稜威(みいつ)を仰ぎ見るのである。その時こそ天主の御子が自分を愛してお忍び下さった様々な御苦しみ、自分に賜った数限りなき御憐れみ、自分の為に備え置かれた何千もの救霊の方法も全て理解するのである。現世の宝は空しいもので永遠の宝は優れたものである事も、その時になると明らかに悟るのである。要するに全ての真理をありのままに見るのであるが、もう余りにも遅すぎるのである。過ちを改めるべき時は過ぎ去った。今や如何ともすべき様は無いのである。

 最愛の主よ、私が始めて御前に立ち現れる時には、打ち解けた御顔を仰がしめ給え。私は今より志を立て直し、行いを改める決心である。その為に要する御光と御助けとを恵み給え。私はいつも、いつも、主を愛し奉る。例え今までは主の聖寵を軽んじ奉ったにせよ、以後は全世界の宝よりもこれを重んじ奉る。私の決心はこうである。ただ主よ、聖寵を垂れてこの決心を堅くしてください。

 ああ聖母よ、審判の日に私を助け給え。私の為に主の御怒りを宥め給え。アーメン。

死後の霊魂に何が起こるかについてのカトリック教会の教え:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 いかがお過ごしでしょうか。昨日の主日には大阪でレネー神父様が聖伝のミサを捧げてくださいました。次のような報告をいただきました。ご報告いたします。レネー神父様を日本に送ってくださる天主様に感謝します。

 モーゼの死については、ぐりこさんの言われた通り、「モアブの地」のネボ山頂(super montem Nebo, in verticem Phasga)イェリコを眺め渡すパスガの頂きで亡くなり、モーゼが死んだのは、モーゼが120歳の時でした。
 モーゼの葬られた場所は、聖母マリアの騎士さんの書かれた通り、「モアブの地の谷」で(in valle terrae Moab contra Phogor)、誰もモーゼを偶像化しないように秘密の場所に葬られました。
 ぐりこさん、聖母マリアの騎士さん、回答をありがとうございます。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

11月の主日の御ミサの報告をお送り致します。
いつものようにハードなスケジュールの中、日本にお越し下さっているレネー神父様に感謝申し上げます。
11月15日 聖霊降臨後第二十五主日の御ミサには16名の方々が、
  16日 聖ジェルトルードの御ミサには13名の方々が、
御ミサに与り御聖体拝領するお恵みを頂きました。デオグラチアス!

16日の御ミサの御説教では、煉獄の霊魂について黙想致しました。私達が煉獄の霊魂達から学ぶべき事、彼らのためにできる事などをよく理解出来ました。
御ミサの後の公教要理では、アヴィラの聖テレジアの天にましますの祈りの解釈を元に、祈りについて勉強致しました。時が時ならレネー神父様は間違いなく教会博士だなぁと思いました。(◎-◎)☆

この度は、レネー神父様はいつもより少しお元気そうでした。里帰りされるのを楽しみにされていたのかもしれません。(^○^)


【お説教】
2015年11月15日の説教―大阪 煉獄の霊魂について

親愛なる兄弟の皆さん、

11月に教会は、特別に煉獄の霊魂のために祈ります。死後の霊魂に何が起こるかについての教会の教えを考察し、そこから教訓をいくつか引き出すのはよいことです。

第一の真理は、霊魂不滅の真理です。死は霊魂と体が分離することです。体は腐敗していきますが、霊魂は破壊されません。体から離れるのです。この真理は、霊魂にある知性の面から、私たちに備わった理性の力によってさえ知ることができます。人間の本質は「理性をもった動物」という本質です。私たちの命は実際、成長し、栄養を摂取し、繁殖するといった植物と共通に見られる力をいくつか持っています。これらは「植物の力」と呼ばれます。私たちの命はまた、植物の力を超えた力も持っており、それは視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚といった動物と共通のもので、さらに記憶力、想像力といった内的な感覚もあり、欲望、喜び、悲しみ、怒りといった感情もあります。これらは動物にも共通に見られ、犬がしっぽを立てているのは喜びを示し、しっぽを足の間に挟んでいるなら恥じていることを示していることなどです。しかし、人間はすべての動物の能力を超えた理性の能力を持っています。これが知性と自由意志です。人間は数学を研究することができ、また「正義を愛し、悪を憎む」(詩篇44章8節)のです。同じことをする動物を誰も見たことがありません。動物の中には人間より視力が鋭かったり、聴力や嗅覚が鋭かったり(犬はにおいで人を識別します)、人間より速く走ったりうまく泳いだり、さらには空を飛んだりするものがいます。しかし、人間は知性によって、どんな動物よりも遠くが見える望遠鏡や、どんな動物よりも小さなものが見える電子顕微鏡をつくることができ、どんな動物の認識力をも超えた電波を認識するレーダーをつくることができ、どんなレイヨウ(羚羊)よりも早く走る列車や、どんな魚よりも深く潜る潜水艦、どんな鳥よりも高く遠くまで飛ぶ飛行機をつくることができます。ですから、人間の本性には知性があり、これによって人間が他のいかなる動物にもまさっているのは明らかです。

感覚は体の器官の働きである一方、知性は非物質的な働きを持っています。抽象化したり、判断したり、推論したりすることです。このうち最初の抽象化とは、まさに事柄を抽象化するのです。そして、これらの抽象的概念によって、私たちの知性は判断を下し、その判断を論理的な証明に従って順序立て、結論に到達します。私たちの感覚によって得られる知識は個別的です。一方、私たちの知性によって得られる知識は一般的であり、私たちの概念も一般的です。さて、すべての物質的なものは個別的です。ゆえに、私たちの概念は物質的ではなく、非物質的ですから、体の死によって影響は受けないのです。

私たちの主イエズス・キリストは、聖福音の中でサドカイ派に反対して議論し、彼らに向かって、霊魂の不死という事実から世の終わりに体の復活があることを証明されました。実際、主は言われます。「死者の中からの復活については、モーゼも、茨の篇に、主を『アブラハムの天主、イサクの天主、ヤコブの天主』と呼んでそれを示している。天主は死者の天主ではなく生者の天主である。天主にとっては、すべてが生きている」(ルカ20章37-38節)。その結論は、アブラハム、イサク、ヤコブは生きているということです。さて、アブラハム、イサク、ヤコブの体は、彼らが造った墓にあるのは明らかです。ですから、彼らの霊魂は生きており、そのため未だに存在しており、死によって破壊されはしませんでした。これが「霊魂の不死」の意味です。人間の霊魂は死によって破壊されないのです。死は私たちの自我の終わりではありません。私たちの「考える自我」は、死ののちも存在し続けるのです。霊魂の不死性は信仰の教義です。

第二の真理は裁きです。聖パウロがヘブライ人へ書いているように、死ののちには裁きがあります。「人間は一度だけ死んでその後審判を受けると定められている」(ヘブライ9章27節)。霊魂は、「各自の行いによって報いを与える」(マテオ16章27節)キリストによって裁かれます。大罪の状態で死ぬなら、人は直接地獄へ行きます。反対に、成聖の恩寵の状態で死んで、罪の償いをすべて果たし、小罪への執着がないならば、人は直接天国へ行きます。しかし、成聖の恩寵の状態で死んでも、良心に小罪が残っていたり、罪に対する罰の償いを果たさないでいたりしたならば、人は煉獄へ行きます。死と裁きの両方を常に目の前に置いていたならば、私たちは罪を犯さないでしょう。「天主はすべての行為を裁く」(コヘレット12章14節)。「人が話した無駄ごとは、すべて裁きの日に裁かれるであろう」(マテオ12章36節)。

煉獄の霊魂にはもはや自分の体はありません。そのため、この世の物に気を引かれることがありません。彼らは信仰、希望、愛を持っていますが、それはこれらの徳は霊魂という霊的な部分にあるからです。彼らはもうまったく罪を犯しません。この意味で煉獄は、ささいな小罪や欠点のように、義人でも一日に七回罪を犯す(格言[箴言]24章16節)という、ここ地上よりもよいところです。煉獄の霊魂は永遠の救いの保証を持っていますが、ここ地上で私たちは天主の十戒を守るならば自分が正しい道にいるという「確信」を持っているにすぎず、「終わりまで耐え忍ぶ者は」(マテオ10章22節)、私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって救いへ到達するであろうと信頼しているにすぎません。これらの二つの面においても、煉獄はここ地上の生活よりもよいところなのです。

しかしながら、煉獄には苦しみがあります。この苦しみを理解することは、ここ地上での霊的な生活へのまことに大きな助けとなります。第一に、小罪との闘いにおいてです。小罪の多くは小さなことを無視したり、地上で合法的なことに愛着し過ぎたりすることから来ます(例えば、食べ物や休息、心地よさなどです)。人々はいったい何回言うのでしょう。これは大罪ではないから、してもいいのだ、と。でも、彼らはそれが本当は正しくないと分かっています。怠惰や短気などです。さて、彼らが煉獄に着いたとき、その霊魂は小罪の重さを理解します。小罪のために彼らは今、そんな苦しみによる痛みの中で償いをしているのですから。これは天主の愛から切り離しはしませんが、まだ天主の愛が要求するものになっておらず、愛を遅らせているのです。さて、私たちがここ地上で天主に奉仕するのが遅いなら、その報いも遅くなるのが正当です。彼らが非常に愛着を持っていた地上のものをすべて失ったいま、彼らは、その報いを受けるのが遅くなっているために今、大変苦しんでいるのです。彼らの愛は、彼らが天主によって十分に引き寄せられるようにし、彼らが天主を熱望するようにさせるのですが、彼らはずっと待って待って待ち続けなければならないのです。彼らが小罪によって発生させてしまったこの遅れは、最も激しい空腹と飢えのように、まことに苦しいものです。

小罪によってどれほど苦しむかを理解し、小罪を嫌っている煉獄の霊魂が、私たちにそのことを分からせてくれるよう願いましょう。小罪は、本当に天主をお喜びさせはしません。罪を犯すことで天主を攻撃することは、小さなことであっても、単に正しくないのです。それは「単なる」小罪に過ぎない、とは誰も決して言ってはなりません。故意に小罪を犯すことは、生きている上で決してあってはなりません。もちろん、まず大罪を犯さないようにすべきですが、それだけでは十分ではありません。大罪へと滑り落ちやすい道である小罪を避けないなら、大罪を効果的に避けることはできないでしょう。罪との闘いは、あらゆる罪に対して絶対的に「いいえ」と言い、キリストが私たちにお望みになるすべてのことに対して、私たちの主イエズス・キリストへ、天主へ自分を完全に奉献することに対して、絶対的に「はい」と言うことです。

第二に、煉獄の霊魂は苦しみますが、その状況は地獄とは大変異なっています。地獄に落ちた者は、それでもその罪に愛着し、苦しみを憎み、天主の正義を憎みます。煉獄の聖なる霊魂は、天主の正義を愛し、罪を憎みます。彼らは自分の苦しみを非常に喜んで受け入れ、キリストの御苦しみと一致し、天主の正義に従って罪の償いをするのです。ですから、地獄とは正反対です。この点において、彼らは私たちの素晴らしい模範なのです。しばしば私たちは苦しみを拒絶し、不快に思い、理解しようとしません。事実、苦しみは私たち自身にとって有益であると、私たちは理解する必要があります。そして苦しみを拒絶せずに、私たちの罪と多くの霊魂の救いのための償いとして、私たちの主イエズス・キリストと一致して苦しみを捧げるべきです。私たちは罪を憎み、私たちの主イエズス・キリストの十字架を愛するべきです。これが、煉獄の霊魂から得られる最も重要で価値のある教訓なのです。

でも、これらの霊魂は自分で功徳を積むことができません。功徳を積む時間は過ぎ去っているのです。(私たちにとって)今こそ、あわれみと功徳の時であり、死んだあとは正義の時なのです。私たちは彼らを助けることができます。彼らは、その罰を自ら減らすことができないのです。私たちは、このあわれみの時にいるという利点を十分に使いましょう。犠牲の生活、熱意のある生活、天主にいちはやくお仕えする生活によって、煉獄の多くの霊魂のために償いをしましょう。

最後に、煉獄の霊魂は、何人かの聖人が「霊魂の暗い闇」と書いた状況と似た苦しみを味わっています。体から離れた状態にあるため、真理のためにつくられ信仰を持っている彼らの知性でも、まだまだ天主を見ることはありません。「光」に飢えている霊魂にとって、天主を見ることができない状態にいることは非常につらい苦しみです。彼らは、火のような、天主を熱望してやまない、天主の至福直観を熱望してやまない火のような愛の徳を持っています。しかし、至福直観には至らないままであり、そのことが彼らを本当に拷問にかけているのです。至福直観をなかなか得ることができないのは彼らの過去の罪のせいであり、彼らが不完全であったせいです。しかし、この苦しみは、金(ゴールド)を火に通すように、彼らの霊魂を浄めるのです。さて、アヴィラの聖テレジアのような多くの聖人たち、また他の多くの信心深い人々は、ここ地上ですでに、これらの苦しみを経験し、煉獄よりずっと多くの功徳を得ていました。なぜなら、彼らにとって、そのような苦しみは霊魂を非常に浄めただけでなく、多くの功徳を得て、そのために他の多くの人々の贖いに参与していたからです。私たちへの素晴らしい教訓は、天国へのより大きな望み、天主へのより大きな望み、顔と顔を合わせて天主を見たいという望みのために祈ることです。実際、私たちが天主に渇き、天主を熱望し、天主において永遠に憩うことを熱望し、私たちが顔と顔を合わせて天主を見ることができるよう変容して天主と結合することを熱望していないのなら、私たちはどうして、すべてに超えて本当に天主を愛していると言うことができるでしょうか?できるはずがありません。聖ヨハネは美しく言っています。「考えよ、天主の子と称されるほど、御父から計りがたい愛を受けたことを。私たちは天主の子である。この世が私たちを認めないのは御父を認めないからである。愛する者よ、私たちはいま天主の子である。後にどうなるかはまだ示されていないが、それが示されるとき、私たちは天主に似た者になることを知っている。私たちは天主をそのまま見るであろうから。主が清いお方であるように、主に対するこの希望をもつ者は清くなる」(ヨハネ第一3章1-3節)。その希望には、天主へのこのような大きな望みが含まれており、そしてその望み自体が私たちを聖化し、すなわち、私たちをあらゆる罪から浄めます。聖パウロが言うように、「汝の天主なる主は焼き尽くす火である」(第二法4章24節―ヘブライ12章29節)のです。

これらの素晴らしい真理を黙想することは有益です。特に大変悪しき声明を発表して終わった今回の司教シノドスのあとでは。この声明は非常にあいまいな表現であるため、多くの恥ずべき決定に対して扉を開くようになるでしょう。「識別」を口実にして、いくつかの教区では離婚して再婚した人々―客観的な姦淫の状態で生きている人々―に対して、実際に聖体拝領を許可しようとしています。これらは汚聖の聖体拝領となるでしょう。このような状況が起きるのは、人々が天国と地獄について、死と裁きについて完全に忘れているからです。天主の聖性と罪の重さを知らないのです。罪を捨てる積もりがなく、「自分を捨て、自分の十字架を担って、私たちの主イエズス・キリストに従う」(マテオ16節24章)という本当の努力を少しもすることなく、「自分たちがあるがままで受け入れられる」よう切望するのです。

その反対に、聖ベネディクトが自分の修道院に入れてもらおうとして扉をたたく人々に要求するように、「私たちが天主を本当に求めるならば」、天主がすべての地上のもの、すべての楽しみを無限に超えておられることを簡単に知ることができ、天主を得ることは、そのために地上のあらゆることを捨てるに値する偉大なる善であることも簡単に知ることができます。またそうすれば、天主の法に従った貞潔な生活を送るのに必要な犠牲を行うことがたやすくなります。罪深い本性のせいで行うのが不可能だと思われるような、貞潔のための犠牲は、永遠の光に照らされれば、無限の天主の光に照らされれば、大変小さなものにすぎないことがわかるのです。この世の人々は貞潔を守ることは不可能だと思っていますが、福音書の中でキリストに従おうとした人々を見れば、彼らにとってはそれが本当にたやすくなったことがわかります。「ご覧のとおり、私たちはすべてを捨ててあなたに従いました」(マテオ19章27節)。さらに、この「すべてを捨てて」ということのなかには、「[キリストの]名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、妻、子、田畑」(マテオ19章29節)を捨てることが含まれていました。本当にすべてを捨てたのです。ですから、初期の教会では、完全な貞潔を非常に尊んでいたので、結婚していても、合意のもと、完全な貞潔の誓いを立てていた人たちがいたのです。(ノラの司教)聖パウリノとテラシアのように。

煉獄の聖なる霊魂が、私たちの心と霊魂が常に天国へ、天主へ集中するようにし、世の欺きに決してとらわれることのないように助けてくださいますように。その御心が私たちの主イエズス・キリストにいつもまったく完全に結びついていた童貞聖マリアが、ご自身がそうあられたように、私たちがあらゆる小罪を避けるよう、いつも助けてくださいますように。そして、私たちが自分の十字架を担い、私たちの主イエズス・キリストと一致して、それを忠実に捧げ、煉獄の聖なる霊魂を助けて天国へ行けるようにするために、聖母が助けてくださいますように。アーメン。

アヴィラの聖テレジア著「完徳の道」による、主祷文(天にまします)の解説

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 レネー神父様が先日の主日にミサののちにしてくださった祈りについての講話をご紹介いたします。アヴィラの聖テレジア著「完徳の道」による、主祷文(天にまします)の解説です。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2015年11月15日―大阪 勉強用説教

親愛なる兄弟の皆さん、

前回に引き続き、祈りについてお話ししようと思いますが、今回は仏教徒の黙想と比較するのではなく、良き祈りができるようアヴィラの聖テレジアの教えをいくつかご紹介しようと思います。カトリックの祈りは、何も考えない「涅槃」を追い求めることではなく、天主によって霊魂を満たすことであることを、たいへんよく分かっていただけるでしょう。

あらゆる祈りの模範となるものは、私たちの主イエズス・キリストが教えてくださった祈り、「天にまします」です。アヴィラの聖テレジアは、その美しい著作「完徳の道」の中で、この祈りについて驚くべき解説を書いています。この祈りは「われらの父よ」で始まりますが、実際、私たちは祈りを始めるに当たって、いつも話しかける相手のことを考えるべきです。相手が子どもの場合と王の場合、同じように話しかける人はいません。王に話すとき、日本語では特別な形式と言葉があるでしょう。さて、祈りにおいては、人間の王や皇帝に対して話すのではなく、王の中の王にして全宇宙の最高の皇帝であり、すべてのものが従うお方、全宇宙の最大の銀河から最小の素粒子に至るすべての物質的なものが従うお方、また最高位の天使に至るまですべての天使の軍団を含めたすべての霊的なものが従うお方に対して話すのです。私たちはどれほど大きな敬意、崇拝をもって天主ご自身に話しかけないことがあるでしょうか?! しかし、まさに天主の御子ご自身が、「われらの父よ」と天主に話しかけるよう教えてくださいました! 天主の超越性は「天にまします」という言葉で表現されます。でも、まことの天主について、フリーメーソンや異教の哲学者たちの考え、すなわち人類から遠く離れ私たちのことを気にかけることがない、という考えは正しくありません。まことの天主は私たちのことを気にかけてくださる天主であり、私たち一人一人を個人的に知り、私たち一人一人を気にかけてくださる最高の父親なのです! ああ、天主の愛の素晴らしさよ! ああ、私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって「天主の子」(ヨハネ1章12節)となったキリスト教徒の尊厳よ!

「天主は御独り子を与え給うほどこの世を愛された」(ヨハネ3章16節)。しかし、実は「天主の御子は私たちの父となるよう御父を与え給うた」と言うこともできるのです! 私たちは「御子において」天主の子、 つまり、私たちが私たちの主イエズス・キリストの生きた肢体であることによって、 天主の子なのです。父なる天主は、私たちのうちに御子の似姿をご覧になるとき、御父が御子、私たちの主イエズス・キリストを愛するまさにその愛で私たちを愛してくださいます。実際、聖パウロは、天主の御旨は私たちを「御子の姿にかたどらせよう」とされ、「それは御子を多くの兄弟の長子とするためである」(ローマ8章29節)と言います。この変容は祈りの実りの一つです。「私たちはみな覆いを顔に垂れず、鏡に映すように主の光栄を映し、霊なる主によってますます光栄を増すその同じ姿に変わる」(コリント後3章18節)。「多くの兄弟」がいるにもかかわらず、「一人の子」がいるのは、多くの兄弟すべてが共に一つとなって、キリストの神秘体、唯一のまことの教会、カトリック教会になっているからなのです。これが、「われらの父よ」の中の「われら」の意味なのです。私たちは一人ではなく、各人がそれぞれ自分のために自己中心な祈りをするのではありません。そうではなく、教会が必要とすることすべて、教会の今の生きた肢体である人々だけでなく、将来教会に入る人々や、救われるために教会に入るべき人々、すなわち全人類が必要とすることすべてのためを思って祈るのです。

父親は子どもたちを気にかけ、子どもたちを養いますが、父親は子どもたちの教育もし、子どもたちが道を踏み外すときには懲らしめます。これについて、聖パウロがヘブライ人へ書き送っています。「あなたたちが試練を受けるのは懲らしめのためであって、天主はあなたたちを子のように扱われる。父から懲らしめられない子があろうか。誰にも与えられる懲らしめを受けなかったなら、あなたたちは私生児であって、真実の子ではない。また、私たちを懲らしめる肉体の父親を敬っているのなら、霊の父であれば命を受けるためになおさら服従せねばならぬ。肉体の父はしばらくの間思いのままに私たちを懲らしめたが、霊の父は私たちの利益のためにご自分の聖性にあずからせようとされる。どんな懲らしめでも、受ける時には喜びではなく悲しみのもとのように見えるが、後にはそれによって練られた者に平和の実すなわち正義をもたらす」(ヘブライ12章7節)。現代の世界は、私たちを懲らしめてくれる父親としての天主をもはや望んでいません。ですから、そのように懲らしめを拒否することによって、人々は非常に反抗的な子どもになっているのです。これは大変危険なことです。それは、聖パウロが同じ手紙で「生きる天主の御手に落ちるのは恐ろしいことである」(ヘブライ10章31節)と言っているからです。彼らの回心を得るにはどうすべきでしょうか? 私たちの主イエズス・キリストは何をなさったでしょうか? 主はご自身を霊魂の救いのためにいけにえとして捧げられました。私たちも、彼らが最後に自分の悪しき道を変更することを受け入れて、真の子どもとして「懲らしめを受けるために」最高の父親のもとに戻るという、まことのあわれみが与えられるように、主と共に自分を捧げるべきです。

「願わくは御名の尊まれんことを! 御国の来らんことを!」。天主の御名は聖です。ですから、私たちは御名が聖であるように願うのではなく、御名が聖であることが人々に認められるように、天主の完璧な能力が、私たちとすべての人に知られるようにと願うのです。さて、天主の完璧な能力を完全に知るのは、天国に行ったときになるでしょう。ここ地上においては、「私たちは体のある間は、主を離れて生きている」(コリント後5章6節)のですから、私たちはまだ、いずれ光を見るための光を持っていません。聖書にはこう書かれています。「実に、あなたには命の泉があり、その光において、われらは光を見る」(詩篇35章10節)。天主の御名が聖であることは天国において完全に認められるので、次の祈願で私たちは心を挙げて天国を求めるのです。ですから、「天にまします」の最初の二つの祈願の中で、私たちの主イエズス・キリストが教えられるのは、私たちの望みに順番をつけること、そして主が私たちを創られた所以、私たちの命の目的つまり、天国で永遠に天主の讃美を歌うことをまず望むことなのです。「だから、まず天主の国とその正義を求めよ。そうすれば、それらのものも加えて与えられる」(マテオ6章33節)。「御名の尊まれんことを」は、天主の光が天国で私たちの知性を完璧に照らすとき、完全に成就するでしょう。「御国の来らんことを」は、天主の愛の火が天国で私たちの意志をすべて支配するとき、完全に成就します。「天にまします」を教えられることによって、私たちの主イエズス・キリストはこのことを常にもっと熱望するように教えられるのです。「主を求める者の心を喜ばせ、主とそのみ力とを探し求め、常にみ顔をたずねよ」(詩篇104章3、4節)。「主よ、私はみ顔を探し求める」(詩篇26章8節)。

また、これら二つの祈願によって、私たちは自分が真の「地の塩」、「世の光」として生きるよう願います。それについて、主はこう言われます。「このようにあなたたちも人の前で光を輝かせよ。そうすれば、人はそのよい行いを見て天にまします父をあがめるであろう」(マテオ5章16節)。「私たちが召されたお召しにかなう」(エフェゾ4章1節)生き方を誠実に行うことによって、「キリストと天主の国」(エフェゾ5章5節)が広がっていくように、私たちは願うのです。

「御旨の天に行わるるごとく地にも行われんことを」。ここに再び出てくる「天に」とは何を意味しているのでしょうか? 天主はどこにでもおられます。「私は天と地を満たすものではないか―主のお告げ」(エレミア23章24節)。天主がどこにでもおられるのなら、なぜ主は「天にまします」と唱えるように教えられるのでしょうか? 「天主は霊であるから、礼拝者も霊と真理をもって礼拝せねばならぬ」(ヨハネ4章24節)。この「天」という言葉を、まるで天主がこの地球上ではない星の世界のどこかにおられるというように、物質的な意味で理解してはなりません! 「天」という言葉は、天主の「超越性」、すなわち至聖なる三位一体のあらゆる被造物を超えた至高の優越性を表すものとして、霊的な意味で理解しなければなりません。われらの父は「天に」おられ、つまり、御父はすべての被造物を無限に超えて完全ですから、そのように認められるべきであり、私たちの心と意志、すべての行いを支配する完全な権利を持っておられます。「天の国」とは、夢で見るように私たちの体が他の惑星や他の星などに行くことではなく、むしろ地上のあらゆる喜びを超えて至福直観の喜びが無限にまさっていること表しているのです。この「天の」喜びを祈りと黙想で前もって味わえば、霊魂は地上のことを味わいたい気持ちをまったくなくしてしまうのです。幼きイエズスの聖テレジアは、子どものときすでに、そんな慰めを味わっていたため、地上のことを味わいたい気持ちを天主が取り去ってくださるようにと祈っていました。また、アヴィラの聖テレジアは、真実の回心ののちに天主は多くの霊魂に似たような慰めを与えられるが、彼らは再び地上のことに心を向けてしまうため、霊的生活においてほとんど進歩しない、と教えています。これが、例えば船が難破するほど悪くないとしても、霊的な停滞が非常に多くある原因です。地上のものへの愛着が原因なのです! さらに、聖ヨハネが力強く警告します。「世と世にあるものを愛するな。世を愛するなら御父の愛はその人の中にはない」(ヨハネ第一2章15節)。恐るべきことです。御父の愛がその人の中にないとは! その人は霊的に死んでおり、これは肉体の死よりもずっと悪いことなのです。ですから兄弟の皆さん、私は皆さんに「世と世にあるものを愛するな」とお願いするのです。

私たちが「御旨の天に行わるるがごとく地にも行われんことを」と願うとき、私たちが願っているのは、非常に重要で、行動を伴わねばならないことなのです。私たちは、私たちが何もすることがないかのように、ただ単に天主の御旨が行われるように願うのではなく、天主の御旨が私たちのうちに、私たちによって行われるようにと願うのです。これはもっと「行動を伴わねばならないこと」です。私たちがそれに関与し、大きな役割を果たすのです。第一に、このような祈願は、罪とは絶対に相いれません。人はこれらの言葉を発する一方で、同時に天主の十戒に従うのを拒否するならば、本当にうそをついていることになります。天主は十戒に従うことをもう要求されることはないと言うならばそれはさらに悪いことで、それは天主ご自身がうそつきであると言い張っていることになります。これは冒涜です! 実際、私たちの主イエズス・キリストは、非常に明確におっしゃいます。「私に向かって『主よ、主よ』と言う人がみな天の国に入るのではない、天にまします父の御旨を果たした人が入る。その日多くの人が私に向かって『主よ、主よ、私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪魔をおい出し、あなたの名によって不思議を行ったではありませんか』と言うだろう。そのとき私ははっきりと言おう、『私はいまだかつてあなたたちを知ったことがない、悪を行う者よ、私を離れ去れ』」(マテオ7章21-23節)。天主の十戒は守ることが不可能ではありません。私たちは、十戒を守る恩寵を与えてくださるよう常に祈ることができます。私たちの主イエズス・キリストの恩寵は、十戒を守る力を私たちに与えてくれます。これが、私たちが「天にまします」のこの祈願で願うことなのです。私たちは十戒に従う恩寵を願い求めます。従うことによって、私たちが報いに到達し、「天にまします父の御旨を果たす」人々に約束された天の国に入ることができるようになるためです。

しかし、私たちはさらに願うのです。実際、皆さんは聖書のほかのところに、似たような言葉があるのを思い出しませんか? 私たちの主イエズス・キリストはここで「FIAT voluntas tua―御旨の行われんことを…」と祈るよう教えられます。私たちは聖母が「FIAT mihi secundum verbum tuum―仰せのごとくわれになれかし」と言われたのと、主ご自身がオリーブの園で「FIAT―私の思いではなく御旨のままに」と言われたのを思い出します。聖母のすべての聖性は一つの言葉「FIAT―天主に『はい』」にあるのです。聖母の全生涯は、全体にわたって完全に、絶対的に「天主に『はい』」なのです。ご托身から十字架の下に至る道のすべてが「はい」であるという、これ以上ない驚くべき従順、謙遜、愛なのです! 罪は天主に対する「いいえ」であり、聖性は天主に対する「はい」です。私たちの主イエズス・キリストは、ご受難において、天主に対する完全な「はい」によって、天主に対する「いいえ」から人類を贖われます。「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた」(フィリッピ2章8節)。

時折、私たちは天主にこのように完全な「はい」を言うことを恐れがちです。私たちは、天主が私たちに多すぎることを要求なさるのではないかと恐れるのです。しかしそう思うのは、天主こそが私たちを強め、天主の十戒を守らせてくださるお方であることを忘れているからです。私たちを強めるために「あふれるばかりの恩寵」(ローマ5章20節)をくださることなくして、天主が私たちに十字架を負わせることは決してありません。絶対にありません。「私を強め給うお方において私にはすべてができる」(フィリッピ4章13節)のです。また、あふれるばかりの報いもあります。「私はどんな試練の中にあっても喜びにあふれている」(コリント後7章4節)。「今の時の苦しみは、私たちにおいて現れるであろう光栄とは比較にならないと思う」(ローマ8章18節)。ですから、「天にまします」を唱えるときはいつでも、その祈願に決して限界を置くのではなく、私たちが天の御父のご意志を完全に実現するための恩寵を 私たちに与えてくださるよう願いましょう。主と聖母を見習って、御父が送られる十字架ならどんなものであっても受け入れ、イエズスと一緒に自分自身をお捧げするようにするのです。そうすれば、「苦しみをともに受けることによって、キリストとともに光栄を受ける」(ローマ8章17節)のです。

「われらの日用の糧を今日われらに与え給え」。聖マテオ福音書では、実際には「日用(毎日)の糧」ではなく「いのちの(super-substantial)糧」となっています。これは明らかに、物質的なパンのことにしては非常におかしな言葉なので、そうではなく、「天から下った生きるパン」(ヨハネ6章51節)、つまりご聖体のことなのです。主は、「私の与えるパンは、世の命のために渡される私の肉である」(ヨハネ6章51節)と言われました。これは、本当に飢えているときに望むべき食べ物です。なぜなら、「私の肉を食べ私の血を飲む者は、永遠の命を有し、終わりの日にその人々を私は復活させる」(ヨハネ6章54節)からです。皆さんは毎日、霊的聖体拝領をすることができます! また、ご聖体を受けるのにふさわしい状態で聖伝のミサに行くことができるなら、そうしてください! 天主の御子が私たちにお与えになったもので、ご自身の「御体、御血、ご霊魂、ご神性」以上に素晴らしい賜物はありません。聖パウロは、「御子とともに他のすべてをくださらないはずがあろうか?」(ローマ8章32節)と言いました。天主は私たちに多くのものをお求めになることができます。それは、天主が私たちにそれよりずっと多くのものを与えてくださったからです! 天主は私たちに聖性をお求めになることができます。それは、天主が私たちをご自身に変容させるために、私たちにご自身を与えてくださったからです。

この最高の賜物とともに、御父はまた、毎日必要なそのほかのものもすべて、私たちの必要に応じて、準備してくださいます。私たちの働きが免除されているのではなく、私たちが植えて水をやると「天主が成長させる」(コリント前3章6節参照)のです。あるいは、「私たちは夜じゅう働いた」あと、天主が大量の魚を与えてくださるのです(ルカ5章5-6節参照)。でも、非常に大切なことは、私たちの求めるこれらの物質的なものが私たちの求める中心となるのではなく、私たちの求める中心となるのは、常に霊的で永遠に続くものであるべきだということです。「あなたたちはまず天主の国とその義を願え。そうすれば、それらのものも加えて与えられるだろう」(ルカ12章31節)。

「われらが人に赦すごとく、われらの罪を赦し給え」。私たちの主イエズス・キリストの特別な恩寵によって原罪とすべての罪から守られていた童貞聖マリアは別にして、私たちには皆、なんらかの罪があります。回心のあとでさえ、いくつかの小罪が残っています。聖書は言います。「正しい人は七たび倒れても立ち上がるが、悪人は災難の中に押し倒される」(格言[箴言]24章16節)。正しい人が倒れるのは小さなころび(小罪)であり、悪人が倒れるころび(大罪)とはまったく違います。でも、最も大切なことは、天主の赦しが必要だと認めることです。「主よ、あなたが罪に目をとめられたら、主よ、誰がそれに耐えられよう」(詩篇129章3節)。ですから、私たちが天主の赦しを受けたいと思うなら、隣人を赦さなければなりません。「天にまします」のすべての祈願のうち、主が強く主張なさった唯一の祈願はこれです。「あなたたちが他人の過失を赦すなら、天の父もあなたたちを赦される。だが他人を赦さなければ父もあなたたちの過失を赦してはくださらぬ」(マテオ6章14-15節)。私たちに対して罪を犯した人を赦すとき、赦しにおいてどのような愛が要求されるのかを私たちは学び、私たちを赦すため天主が私たちをいかに愛しておられるかを私たちは学び、「悪に勝たれるままにせず、善をもって悪に勝て」(ローマ12章21節参照)ということを私たちは学びます。ですから、天主の御摂理によって、天主は人々が私たちに対して罪を犯すのを妨害されませんが、これは私たちに隣人を赦す機会をお与えになるためなのです! そのように見るならば、私たちは天主の知恵についての見識を得ます。天主は悪から善を引き出し、「天主を愛する人々の善にすべてを役立たせ」(ローマ8章28節)るお方なのです。

「われらを試みに引き給わざれ」。「私たちが試みに遭わないようにしてください」と言った方がいいかもしれません。罪は、私たちが本当に恐れるべき唯一の悪です。そのため、私たちはこの一つの大きな悪、ほかのあらゆる悪の源(である罪)から守ってくださるよう天主にこい願うのです。天主に対して罪を犯すことを避けないならば、その人は本当に天主を愛しているのではありません。この祈りの中には、自分の弱さを知っている謙遜があります。私たちは自分の力では「何一つでき」(ヨハネ15章5節)ず、弱く、ただ罪を犯すだけです。「主よ、あわれみ給え、私は力なえている。主よ、治し給え」(詩篇6章3節)。私たちは強い確信をもって、聖パウロが言うように、それを願います。「あなたたちは人の力を超える試みには遭わなかった。天主は忠実であるから力以上の試みには遭わせ給わない。あなたたちが試みに耐えそれに打ち克つ方法をも、ともに備え給うであろう」(コリント前10章13節)。

「われらを悪より救い給え」。赦しによって罪自体から救われるよう、罪の機会(試み)から救われるよう願ったのち、ここで私たちは、罪の結果から救われるよう願うのです。この救いは天国で完成されるのですが、天主はここ地上ですでに、私たちが受けるはずの罰よりも少ない罰にしてくださっています。私たちが受ける罰は天主が軽くしてくださっており、私たちは本来際限なく大きな罰に、そして地獄に値するということを認め、天主に罪の赦しを感謝しつつ、天主からのその軽い罰を受け入れるのです。それでも、さらに御あわれみと罪による罰の赦しを求めることを禁じられているわけでもありません! 私たちは自分自身のために、また煉獄の霊魂のために、煉獄での苦痛の時間が短くかつ小さくなるよう願うのです。これらすべては、いとも聖なる三位一体を讃美することになるのです。

「主よ、私たちに祈りを教えてください!」(ルカ11章1節)。主は私たちに祈りを教えてくださいました。いつもよく祈れるよう、特にこの最も聖なる祈りである「天にまします」を祈れるよう、主が私たちに恩寵を与えてくださいますように! 聖母が祈る方法を教えてくださいますように! 聖ヨゼフが祈りを教えてくださいますように! ナザレトにおいては、主の家はもっとも確実に「祈りの家」(マテオ21章13節)でした。私たちの霊魂も「祈りの家」であるべきです。実際、聖パウロは言います。「あなたたちが天主の神殿であり、天主の霊はその中に住み給うことを知らないのか」(コリント前3章16節)。聖霊と離れることのない御父と御子もまた、私たちの内に住み給うのです。主ご自身が言われます。「私を愛する者は私の言葉を守る。また父もその者を愛される。そして私たちはその人のところへ行ってそこに住む」(ヨハネ14章23節)。私たちが聖霊の神殿であるならば、そして御父と御子が私たちの内におられるならば、私たちの霊魂はまことの「祈りの家」でなければならず、「天にまします」が私たちの祈りの模範でなければならないのです。アーメン。

この世はますます毒麦の勢力を広げている。良い麦がもっと広がらなければならない

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2015年11月8日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2015年11月8日 聖霊降臨後第24主日
小野田神父 説教

聖なる殉教者巡回教会へようこそ。今日は2015年11月8日、聖霊降臨後第24主日のミサをしております。

今日のミサの後いつもの通り、14時30分から公教要理、16時には主日の第2晩課もあります。
明日のミサは、朝7時からです。いらして下さい。それから、喜ばしいニュースです。私たちの兄弟の姉妹の、ヨゼフさんとマリアさんの最初の赤ちゃんがお生まれになりました。11月3日に生まれて、お母さんと赤ちゃんは今休んでいるようで、来月すぐに洗礼を受ける、という事です。どうぞ赤ちゃんの為に、お母さんの為にお祈り下さい、たくさんの子供たちに恵まれますように。


「天の国は、良い種を畑に蒔いた人のようである。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日イエズス様は、福音で例え話を仰ってくださいました。この例え話は非常に有名です。そこで私たちも、この例え話の意味を少し復習して、そしてそれを現代私たちに適用して、その後に、私たちは一体何をしなければならないか、良い遷善の決心を立てる事に致しましょう。

イエズス様は例え話をして後に、福音書によると、今日のミサ典書の部分には載っていないのですけれども、後の後の方で、色々な例え話が載った後で、イエズス様が例え話を話して、それから家に帰って来ると弟子たちがやって来て、「あの毒麦の例え話の説明をして下さい。」と、聞きに来ました。するとイエズス様が直接に、他の例え話の説明はしないのですけれども、毒麦の例えだけは、説明は載っています。それによると、「良い種を蒔くのは、人の子である。畑は世界だ。良い種は御国の子らだ。毒麦は悪者の子らだ、子供たちだ。蒔いた敵というのは悪魔の事である。収穫の時というのは世の終わりの事だ。刈る人たちは天使たちである。そして毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそうなるだろう。そして義人たちは父の国で太陽のように輝くだろう。」と、説明して下さいます。

教父たちは、これをこの説明を聞いて、「この世の終わりまで、決定的な最後の日まで、この世には善と悪との戦いが残って、善人と悪人が混じり合って生活して、善と悪との戦いが続かなければならない。その究極的な決定は、世の終わりまで延ばされる。」と、説明しています。

確かに、この私たちの今、この世の中は、悪と善が混じっています。毒麦は、良い麦の場所を奪ってしまうように、勢力範囲を広げようとしますし、そして良い麦を弱らせよう、成長を奪ってしまおう、栄養を奪ってしまおうとします。そして迫害したり、或いは世間体で、或いは嘲笑ったり、もの笑いにしたりして良い人々を押しやって、悪がのさばろうと、勢力範囲を広めようとしています。

イエズス様の蒔いた福音の種は、イエズス様は別の所では、「私はこの世に火を点けに来た。」つまり、「イエズス・キリストに対する、天主に対する愛の火を点けに来た。そしてこの地上からこの火で燃えるようになるのを見るのを望む。」

イエズス様は、私たちの救霊の為に、私たちの永遠の為に、霊魂の救いの為に、私たちを御国の子らとして下さいました。ただ単にイエズス様は、種を蒔いた、というだけではありません。イエズス様が、私たちを御国の子らとして、種を蒔く、という事の為には、これは、十字架の上に於ける流血、苦しみ、受難を経て、種を蒔かなければなりませんでした。

それだけではありません、イエズス様は、マリア様と共に、この救霊の事業を、種を蒔く、という事業をなさって下さいました。マリア様を通してのみ、イエズス様が来る事を天主が望まれたからです。もしも私たちが、良い種を受けるとしたらば、これはマリア様を通してのみ、受けなければなりません。

マリア様が、「我は主の婢女なり。仰せの如く我になれかし。」と言って、イエズス様を身ごもり、そしてイエズス様に命を、イエズス様を生み出すようになさったように、マリア様こそが、イエズス様の神秘体の一部である私たちを、超自然の命に生み出し続けなければなりません。マリア様の、イエズス様と共にの苦しみがなければ、その種は蒔かれませんでした。マリア様は、イエズス様の十字架の下に立って、イエズス様を共に、御父に御捧げしました。

そうやって蒔かれた種ですが、マリア様はただ単に、イエズス様とマリア様はただ単に、蒔いてそのまま、ではありません。この善が、勢力範囲が広がるように、一生懸命に力を尽くして下さっています。確かに天主様は、この地上から悪を根絶させてしまうように、毒麦を全て残らず取ってしまう、という事はなさいません。毒麦がそのまま生えるのを残していますけれども、しかし、良い麦が勢力範囲を広めるように、できれば毒麦から良い麦になるように、戦いを続けています。

マリア様が、サタンの手から私たちを奪い取るように、そして私たちをその悪魔の手からイエズス様の方に、毒麦から良い麦になるように、となさって下さっています、イエズス様の方に導いて下さっています。良い麦が多く広がって、健康ですくすくと育てば育つほど、毒麦の、悪の勢力範囲が、サタンの悪魔の勢力の範囲が狭まっていく、という事になるからです。

ですから、良い麦が健康ですくすくと育つ為に、麦はますます良い麦であり続けなければなりません。「キリストの弟子」「キリスト信者」というのはつまり、「第2のキリスト」となって、イエズス・キリストと共に、世の贖いに、世の救いに協力しなければなりません。毒麦がたくさん増えているのを見て、「俺は知らないよ。」ではなくて、何とか、その毒麦がはびこらないように、良い麦がもっと広がっていくようにしなければなりません。

聖ヨハネ・クリゾストモは、こういう事を言っています、それは、フランク・ダフFrank Duff という方が引用している事ですが、「キリスト者よ、審判の時にあなたたちは、自分の霊魂の事だけでなく、全ての人々の霊魂の救いについて報告しなければならない、という事を覚えよ。」自分の霊魂の救いだけではなく、全ての人の霊魂の救いについて報告しなければならない、というのは、どれほど大きな責任が負わされている事でしょうか。

イエズス様は、「毒麦は遂にこの世の終わりには刈り取られて、そして火に焼かれてしまうだろう、そこには歯ぎしりと嘆きとがあるだろう。」つまり、毒麦はもしも良い麦にならないならば、毒麦のままであるならば、悪の勢力に残っているならば、そのまま永遠に滅びてしまう。イエズス様がこれほど愛した霊魂たちが、主を愛する事を知らずに、主を知らずに、それに従順である事を知らずに、永遠に愛する主を憎み、御血を無駄にして、そして滅びてしまう、焼かれてしまう、という事なのです。

もしも良い麦たちが、イエズス様の御国の為に、イエズス様の利益の為に、イエズス様の聖名が尊まれるように、イエズス様の御旨が果たされるように、イエズス様の栄誉の為に、聖名の尊まれん事を、と、その為に勢力範囲を広げているとすれば、毒麦は、自分の事だけ、自分の楽しみの事だけ、自分の中に閉じこもって、自分の快楽の事だけを考えている麦たちです、霊魂たちです。

それに引き換え良い麦は、例えばファチマの幼い牧童たちがそうでした。ファチマの子供たちはファチマのマリア様をご覧になって、そして天主様を見て、「天主様が非常に悲しそうだ。天主が霊魂の永遠の滅びの為に、とても悲しそうに見えた。」天主の痛みの問題を感じていました。「マリア様がとても悲しく思われて、悲しそうに見えた。だから、その天主様を慰める為に、多くの霊魂を救う為に。」と言って、祈りと犠牲に励んでいました。

幼きイエズスの聖テレジアも同じでした、「私はイエズス様を愛したい。そして多くの人々が、イエズス様を愛するようにしたい。その為には、できれば全世界を駆け巡って、人々にイエズス様を述べ伝えて宣教師になりたい、世の終わりまで宣教師でいたい。世の終わりまで殉教者でありたい。司祭にもなりたい、イエズス様の事を皆に教えたい、知らせたい、マリア様の事の話をしたい。」と、思っていました。「多くの霊魂がイエズス様の事を愛するように、愛させたい。イエズス様がますます愛されますように。イエズス様の教えが愛されますように。世の終わりまで善を為したい。」と、渇望していました。

まさに、まさにここに、良き麦の特徴があります。良き麦は、イエズス様の愛を、この心に受けて、イエズス様を愛する事に渇望して、イエズス様を愛するがあまり、イエズス様の聖名が尊まれていない事、或いは無視されている事、或いは軽蔑されている事を見て、非常に悲しく思います。「何とかしてイエズス様が愛されるように、イエズス様が崇められるように。」と、願います。或いはイエズス様がこれほど愛している霊魂たちが、そのままイエズス様の事も知らずに、イエズス様の掟も無視して、そのまま滅んでしまうのも見て、非常に悲しく思います、「何とかして愛したい、霊魂を救いたい。」と。

イエズス様は最後の晩餐の時にこう、私たちに新しい命令を下さりました、「私がお前たちを愛したように、お前たちも互いに愛し合え。」

イエズス様は私たちの霊魂の救いの為に、命さえも、御血を全て流してさえも、私たちの為に愛を下さいました。それと同じように私たちが隣人を愛する、というのは、何と、何と大きな命令でしょうか。それをみると、私たちは本当に恥ずかしくなります。私はちょうど毒麦の影響をあまりにも受けて、自分の事だけ、この世の世界の事だけでいっぱいになっていたようです。

この世はますます毒麦の勢力を広げています。イエズス様を色々な所から追い出してしまって、イエズス様の無い世界を作ろうとしています。お金を原理に、或いは被造物とその快楽を原理に、或いは自分の利益だけを原理に、新しい世界を、毒麦の世界を作ろうとしています、毒麦だらけのようです。

私はどうも、毒麦の影響を多く受けて、イエズス様がこれほど愛しているにもかかわらず、イエズス様に愛を返さない時がありました、罪を犯した時がありました。「イエズス様の掟がこうである」と、「御旨がこうである」と分かりながらも、それを素直にしませんでした。イエズス様が、「こうだ。」と言うのに、「はい。」と言わずに、「ちょっと待って。あぁ、またもう少し後で。」イエズス様がこれを望んでいると分かっていながらも、100%ではなく50%、或いは、「イエズス様が悲しむであろう。」或いは、と思いながらも、「あぁ、でもまぁ今回だけは。」と、御旨に逆らっていました。毒麦の影響を受けていました。

ですから今からは、「イエズス様の為に、良き麦として留まりたい。毒麦の影響を遠ざけたい。」と、私たちは自然と願うようになります。

では、遷善の決心に何を立てたら良いでしょうか?私は3つ提案します。

1つは、祈りと犠牲を以って、イエズス様の良き麦の勢力が広まるように、霊魂が救われるように、私たちが悪魔の勢力から霊魂を引き出す事ができるように、祈りと犠牲を以って、私たちの日々を捧げる事に致しましょう。

幼きイエズスの聖テレジアは、有名な盗賊で、強盗であったブランジニ、死刑囚で、回心のしるしを全く見せなかった、この極悪人の為に、祈りと犠牲をたくさん捧げて、特にマリア様を通して捧げて、そして遂に、この回心の恵みを得ました。聖テレジアは、「私たちは、祈りと犠牲を以って以外、教会に利益をする事ができない。」と、言っています。

第2に、私の提案するのは、イエズス様をこの愛するあまり、イエズス様を愛するように、霊魂を導く為に、霊魂の利益になる為に、毒麦からの影響を多くの人々が避ける事ができるように、私たちは祈りと犠牲のみならず、行動と言葉を以って、できるだけ、その霊魂たちに、愛と善を施す決心を立てる事に致しましょう。

私たちは確かに、非常に弱い、力の無いものですけれども、イエズス様の御あわれみとマリア様の御助けを以って、私たちがイエズス様の道具となりますように、マリア様の生き写しとなりますように。そしてイエズス様が、私たちの言葉や行いを以って、より少なく嫌われますように。できればイエズス様の事がますます知られ、イエズス様の事を私たちが確信を持って、「イエズス様は私たちの事を愛している天主様ですよ。」と言う事や、或いは、「マリア様は私たちの為の霊的なお母様です。」と、確信を持って言う事によって、多くの霊魂に光が照らされますように。

最後には、私たちはあまりにも弱いものですから、是非、イエズス様に、イエズス様の心を私たちに下さいますようにお祈り致しましょう。イエズス様の心を以って、私たちがマリア様のように、霊魂を愛する事ができるように。そしてマリア様にお願いして、マリア様の御取り次ぎにより、私たちにもイエズス様の心を下さるように、イエズス様の心を以って、私たちが天主と隣人を愛する事ができるように、お祈り致しましょう。祈りと犠牲を以って、行動と言葉を以って、そしてイエズス様とマリア様の御心を頂く事によって、良き麦として残り、そして遂には、多くの毒麦たちが良い麦となり、できればより多くの麦たちと共に、霊魂が太陽のように、永遠の喜びに入れますように、太陽のように輝きますように。そのお恵みをお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


【注:フランク・ダフ Frank Duff は、レジオ・マリエの創立者。】

聖アルフォンソ・デ・リグオリによる【私審判の宣告について】の黙想

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

11月は死者の月ですから、死について黙想しましょう。

今日は聖アルフォンソによる「私審判の宣告について」の黙想を提案します。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

「私は赦しを頂くにも値しない者である。しかし御憐れみを疑うのは主の禁じ給うところであれば、主よ、私を憐れみ給え。この汚らわしい罪の中より救い出し給え。私は断然行いを改める決心である。ただ聖寵を垂れて私を助け給え。」

【私審判の宣告について】の黙想
 その1
 平素から主を愛して、心は世間の物に執着せず、苦しみを恐れず、辱めを喜び、身を責めこらし、ただ一心に主の御旨を果たしていた人は、審判の際、如何なる慰めを覚えるであろうか。

 「来たれ、善にして忠実なる僕よ、汝の御主の喜びに入れ」(マテオ25-21)という有難い御言葉を賜る時の喜びを思え。「ああ私は救われた! いくら喜んでも躍り上がっても足りない! もうこれからは救霊を失う気遣いは無い!」と思うときの嬉しさは、ああ、誠にいかばかりであろう!

 これに反して大罪を抱きながら現世を立ち去った霊魂は、まだ主の御口より何の宣告も下らない前に、早や我と我が身に地獄の罰を言い渡すであろう。

 主よ、私は主に背いて大罪を犯す毎に、そんな不幸の身となったのである。憐れみの天主よ、主はかの恐るべき審判の暁に、私の裁判官となられるのであるが、しかし、今は私の救い主、私の父君であります。真心から罪を悔い改めさえすれば、いつでも御赦し下さる。私は胸を打ち、熱い涙を流して、犯した罪を悔い悲しみ、ひとえに御赦しを願い奉る。私の罪を悲しむのは地獄の罰を恐れる故ではない。ただ限りも無く愛すべき主に背き、御旨を痛め奉ったからである。

 最も力ある代願者にまします聖母よ、私の為に御子に祈り給え。審判の暁に至らば、御母の御力をもってしても私の滅びを得、救い給わざるべければ、何とぞ今のうちに私を救い助け給え。教え給え。導き給え。

 その2

 「人はその蒔きし所を刈り取らん」 Quae seminaverit homo, haec et metet. (ガラテア6-8)、しかり、一生の間に蒔いた所を審判の暁に刈り取るのだ。私は今まで何を蒔いた? 善を蒔いただろうか? 悪を蒔いていたのではあるまいか? 徳を蒔いただろうか? 罪を蒔いていたのではあるまいか? これはよくよく糾明して見なければならぬ。審判の直前になってあれをああしていたら、これもこうしていたらよかった!と思う所を、今のうちにサッサとしておかねばならぬ。

 もし今日、一時間の後に、主の審判を受けねばならぬというならば、何千という金を投げ出してでも、せめて一年の猶予を求めて十分に用意したいものだとは思わぬだろうか? しからば残りの歳月をなぜその為に用いないのだろうか?

 アガトン修道院長は、多年厳しい苦行に身をこらしながら、その思いが一たび審判に及ぶや、「ああ私はどんな裁きを受けるだろう!」と嘆息するのであった。旧約のヨブも「主の立ち上がり給わん時、如何にせんや。主の臨み給わん時、何と答えまつらん」(ヨブ記31-14)と言っている。私もそうだ。主が立ち上がって、私の一生の間に頂いた聖寵を調べ、その聖寵をおざなりにした点をいちいちお尋ねになる時、何とお答えすることができるであろうか?

 主よ、「主を讃える霊魂を猛獣に渡し給うことなかれ」(詩篇73-9)、私は赦しを頂くにも値しない者である。しかし御憐れみを疑うのは主の禁じ給うところであれば、主よ、私を憐れみ給え。この汚らわしい罪の中より救い出し給え。私は断然行いを改める決心である。ただ聖寵を垂れて私を助け給え。

 その3

 人が死ぬ時に起る事件は実に由々しき大問題で、その結果の如何によって、永遠の救いか、終わりなき滅びかが定まるのだ。誰しも十二分の精力を絞って好結果を挙げるべく努める決心にならなければならぬ。とくと右の事情を考えて見たら、誰だって「実際そうだ」と頷かずにはいられない。「実際そうだ」とすれば、なぜ万事を擲って、一身を主に捧げ、安全に永遠の救いが得られるだけの用意をして置かないのだろう?

 「汝等遭う事を得る間に、天主を尋ねよ」(イザヤ55-6)と預言者は警告している。主を見失ったままその法廷に召喚されては、とてものことではないがお会いすることはできまい。息の根の通っている間に捜してこそ、見い出しうるのではないか。

 愛すべきイエズスよ、私は今まで主の愛を軽んじて大いに御旨を痛め奉った。しかし今は一心に主を愛し、また主に愛されたいと思っている。主よ、私に主を見い出さしめ給え。見い出してひしと抱きつくを得さしめ給え。ああ聖母よ、私が御子イエズスに離れ奉るを許し給うことなかれ。アーメン。

イエズス様、私の胸に来て下さい。感謝致します。心から礼拝いたします。御身を愛します。

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 この前の東京でのミッションでは、月曜日にお年を召した方の「家庭訪問」をしました。ご聖体拝領の準備のためにしたお話を、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2015年11月9日 小野田神父 説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日はラテラノ大聖堂の献堂の祝日です。
今日のミサの福音では、ザケオという人についての記事が読まれました。

この人は税吏で、他の人からお金をたくさん余分に取っていたり、ちょっと不正な事をして脅して、賄賂やポケットマネーをつくったりしていました。

ところが、「イエズス様が来る」というのを聞いて、背が低いチビの人だったのですけれども、「是非イエズス様を見てみたい。」と思い、木の上に登って、イエズス様が来るのを見ていました。するとイエズス様は、近くの道を通って、ザケオが木の上に乗っているのを見て、「おーい、ザケオ、降りて来なさい。今日お前の家に遊びに行く、お前の家に泊りに行く。」と言いました。

すると皆は、周りにいた人は皆不平を言って、「何だ、イエズス様は、罪人の家に遊びに行くのか、罪人の家に泊りに行くのか。」と言うと、ザケオは、「主よ、もしも私が悪い事をしたならば、それを皆返します。もしも盗んでいたならば、それを4倍にして返します。だから、イエズス様、私の家に来て下さい。」

イエズス様は、『主、共にまします。“エンマヌエル” 』という意味の方で、イエズス様は私たちと共にいる事をお望みです。

この全世界を創った、天主様であるイエズス様は、私たちと共に住む為に人となって、私たち罪人と共に生活して下さいました。そればかりではありません。「罪人と共に世の終わりまでいよう」と思って、御聖体を作って、そして教会の中に、御聖櫃の中に、日夜、朝、昼、晩、夜、私たちを愛する為に、いつも留まり給うのです。

ですから教会は、イエズス様の為に素晴らしい教会を建てて、イエズス様に相応しい場所を造ろう、と、そして献堂式を立てます。献堂式の時には、司教様が12の柱に聖香油を付けて、特別に祝別します。何故かというと、もう「教会」というのは、他の世俗の為に使われる物ではなくて、「イエズス様の為だけ」「天主様の賛美と感謝と礼拝のためだけ」に使われる、特別に聖別された場所となるからです。

そして、イエズス様は、このお部屋にもいらっしゃいました。「御聖体として拝領されたい」と思って、一つになることをお望みになっています。ですから、イエズス様を愛を込めてお迎えして下さい。イエズス様は私たちの事をとても愛しておられます。

2000年前、イエズス様がこの世に来られて、「私たちを愛そう」と、来られたにもかかわらず、ベトレヘムの人は、「シッシッ。」と言って、イエズス様や聖家族を追い払ってしまいました。

でも、今日は私たちは、一緒にイエズス様をお迎え受けて、「イエズス様を愛そう。」と思っております。ですから、「イエズス様、私の胸に来て下さい。イエズス様、感謝致します。イエズス様、心から礼拝いたします。イエズス様、御身を愛します。」と、仰って下さい。そればかりか、イエズス様を愛さない人々、イエズス様を、「シッシッ。」と、追い払ってしまうような人々、或いはイエズス様を知らない人、信じない人の代わりに、イエズス様をお愛しし、イエズス様を信じ、イエズス様を礼拝し、そしてイエズス様を受け入れて下さい。イエズス様は、私たちを極みまで愛する方です。

私たちがそれをする事ができるように、マリア様にお願いしましょう。マリア様は、「主よ、我は主の婢女なり。仰せの如く我になれかし。」と、言って、イエズス様を最初にお受けになった方ですから、マリア様が私たちにその御心を下さって、イエズス様を受け入れる事ができるように助けて下さいますように、お祈りしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖アルフォンソによる「公審判について」の黙想

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

11月は死者の月ですから、死について黙想しましょう。

今日は聖アルフォンソによる「公審判について」の黙想を提案します。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

「ああ、私の救い主にして判事なるイエズスよ、私は主に離れ奉るを欲せず、いつまでも御傍にはべって熱く主を愛し奉らん事を望み奉る。主よ、私は主を愛し奉る。しかり、私は主を愛し奉る。始めて主の法廷に出頭する時も「私は主を愛し奉る」と叫ぶを得しめ給え。主よ、もし罪に応じて私を罰するおつもりであるなら、如何様にも罰し給え。ただ主を愛するを許し給え。いつも主を愛し、またいつも主に愛され奉ることさえできたならば、その他の事は御望みのままに如何様にも取り計らい給え。」

【公審判について】の黙想
 その1
 可哀想なのは罪人だ。主は彼等をヨサファトの谷に待たせ給う。そこで彼等の考えはガラリと変わってしまうであろう。そこでは流石の彼等も自分達が馬鹿であったことを悟って、ハラハラと血の涙を流し、歯噛みして悔しがるであろうが、しかしそのときになってはもう如何ともしがたい。

 今、試しに悩んでいる霊魂は、よく堪忍びさえすれば、ここ暫くの所を良く堪忍びさえすれば、どんなに大きな幸いがヨサファトの谷に待ち受けているであろうか!? そこでは今の苦しみは言い知れぬ喜びに変じ、今の悩みは天の尽きせぬ幸いとなるであろう。Tristitia vestra vertetur in gaudium. Joan. Xvi. 20.

 かの日には、現世で軽んじられた聖人はどんなにか美しく輝きわたり、かえって世にときめき人に持てはやされた悪人は、例え王侯貴族といえどもどんなにか怖しい姿に窶れ果てるであろうか。

 ああ十字架に磔られ、ありとあらゆる侮辱を浴びせられ給いしイエズスよ、私はしかと主の十字架を抱きしめ奉る。世の宝や、誉れや、楽しみや、そんなものが果たして何になるであろう? 私はそれらを潔く投げ棄てて心より主を望み奉る。ただ主御一人を望み奉る。主の他に望むところは無い。

 その2
 「呪われたる者よ、我を離れて永遠の火に入れ」 Discedite a me, maledicti. Matt. Xxv. 41. (マテオ25-41)、この「我を離れて」の一語をもって、公に主の御前を追われ、地獄に投げ込まれる時の悪人の心持は果たして如何ばかりであろうか?

 主イエズスよ、私もかつてこの恐るべき宣告を受けるべき身の上であった。しかし只今では御赦しを頂いたものと安心している。二度と主を離れるを許し給うな。私は主を愛し奉る。またいつまでも愛し奉るであろう。

 悪人の反対に、善人の幸福を思ってみよ。「来たれ、我が父に祝せられたる者よ」(マテオ25-41)と、主の優しい御声をもって天国に案内されるとき、彼等の心中に漲り渡る喜びといったら、果たして何ものに例えられよう。

 思えば私ほど愚か者があろうか。世の儚い誉、楽しみに惹かれて、例えようも無いかの大いなる喜びを一文の値打ちも無い土くれみたいに投げ棄てた事が幾たびあったであろうか。しかし主は今なお私を見限り給わず、御憐れみを垂れて、私の迷いの夢を醒まし、暗んだ目を開けてくださった。そこで今からは万事を擲って主を一心に愛し、かの恐るべき日にあたって、光栄の冠を押し頂き、凱歌を歌って、天国に登れる様に努めなければならぬ。

 主よ私は罪に罪を重ねた悪人である。しかし主の高価な御血の功徳によって願い奉る。何とぞ私にもかの福者達の群れに加わって、熱く主を愛し、主の御足をかき抱きつつ千代に八千代に楽しむを得しめ給え。

 その3
 今信徳の眼をカッと開いてヨザファトの谷を眺め、一度は彼処に集まって善人と共に右のほうに並ぶか、或いは悪人と共に左のほうに並ぶかせねばならぬのだと考えてみるがよい。そしてこれを考えながら十字架の下に平伏して、おもむろに霊魂の上に眼を注ぎ、主の法廷に立つことが出来るだけの用意ができているのかどうかを調べてみなければならぬ。まだ出来ていないとすれば手遅れにならない内に、早く用意に取り掛かる事が急務であろう。

 主以外の物より全く心を離して、毎朝ちょっとの間なりとも黙想をし、しばしば聖体を拝領し、五感の欲を抑え、殊に熱心な祈りをもって及ぶ限り密接な関係を主と結んでおかなければならぬ。救霊の方法はこれに尽きる。真心からこの方法を実行するのは、それこそ天国に昇る選びを受けた兆候なのである。

 ああ、私の救い主にして判事なるイエズスよ、私は主に離れ奉るを欲せず、いつまでも御傍にはべって熱く主を愛し奉らん事を望み奉る。主よ、私は主を愛し奉る。しかり、私は主を愛し奉る。始めて主の法廷に出頭する時も「私は主を愛し奉る」と叫ぶを得しめ給え。主よ、もし罪に応じて私を罰するおつもりであるなら、如何様にも罰し給え。ただ主を愛するを許し給え。いつも主を愛し、またいつも主に愛され奉ることさえできたならば、その他の事は御望みのままに如何様にも取り計らい給え。

 ああ聖母よ、いつも私のために祈り給え。

イエズス・キリストの「御前でひざまづくのが正しく、本質的に必要な態度である」(ベネディクト十六世)

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 ベネディクト十六世引退教皇様の言葉をよく聞いて黙想してください。

「現代文化 -- 現代文化が、文化である限りにおいて -- にとって、ひざまづきは異質でありうるかもしれない。何故ならこの文化は、信仰から遠ざかってしまったからであり、またこの文化は、その方の御前でひざまづくのが正しく、更に、本質的に必要な態度であるその御方をもはや知っていないからである。信じることを学ぶ者は、ひざまづくことも学ぶ。そして、ひざまづくことをもはやしなくなった信仰や典礼は、その中核が病んでいることになる。ひざまづきが失われたところでは、それが再発見されなければならない。それは私たちの祈りにおいて、私たちが、使徒たちや殉教者たちと繋がるため、全宇宙(コスモス)とイエズス・キリストご自身との一致において繋がるためである。」

It may well be that kneeling is alien to modern culture -- insofar as it is a culture, for this culture has turned away from the faith and no longer knows the one before whom kneeling is the right, indeed the intrinsically necessary gesture. The man who learns to believe learns also to kneel, and a faith or a liturgy no longer familiar with kneeling would be sick at the core. Where it has been lost, kneeling must be rediscovered, so that, in our prayer, we remain in fellowship with the apostles and martyrs, in fellowship with the whole cosmos, indeed in union with Jesus Christ Himself."
https://books.google.co.jp/books?id=cW_MBQAAQBAJ&lpg=PA171&hl=ja&pg=PA171#v=onepage&q&f=false

(ベネディクト十六世『典礼の精神』)

その方の御前でひざまづくのが正しく、本質的に必要な態度であるその御方を、知らないから、ひざまづくことをやめてしまうのです。

「信じることを学ぶ者は、ひざまづくことも学ぶ。」(ベネディクト十六世)

信じないものは、ひざまづくことを知りません。イエズス・キリストを知らない現代文明は、その御前ではひざまづくことが正しく、本来的に必要な態度であるイエズス・キリストを知りません。天主がどなたかを知りません。

「ひざまづきは、キリスト教文化の表現です。・・・ひざまづきとは、どこかの文化から由来したものではありません。これは聖書と、聖書が教える天主を認識することから由来するものです。」(ベネディクト十六世)。

「天主はかれを称揚し、すべての名にまさる名をお与えになった。それは、イエズスのみ名のまえに、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものもみな膝をかがめ、すべての舌が、父なる天主の光栄をあがめ、「イエズス・キリストは主である」と言いあらわすためである。」(フィリッピ人への手紙2:10)

ひざまづくことによって、私たちは使徒たちや、殉教者たち、イエズス・キリストと一致のうちに繋がることができます。

「人々との一致」のために、使徒たちや殉教者たちイエズス・キリストとの一致を断ち切らないでください。

かつて日本の殉教者たちは、御聖体に対する熱い信心を持っていました。たとえば、パウロ内堀作右衛門をはじめとする殉教者たちは、全員が宣教師の協力者や宿主であり、宣教師なき後は、代わって地元の教会を世話し、その教会のために命を捧げました。1627年2月21日、松倉豊後守の命により、キリシタンに対する拷問が始まった時、パウロ内堀たち16人は熱心に宣教を続けたため、雲仙に送られ、数時間の拷問のすえ雲仙の熱湯に投げ落とされて殉教しました。最後の言葉は「いと尊きご聖体は賛美されますように!」でした。

ベネディクト十六世教皇様の教えは、はっきりしています。ひざまづくことを知らないのは、イエズス・キリストが誰かを知らないからです。ご聖体が何かを知らないからです。信仰が病んでいるからです。聖書と、聖書が教える天主を認識していないからです。ひざまづかないのは、悪魔的だからです。イエズス・キリストを天主であると認めようとしないからです。信仰の本当の一致から離れているからです。(参照:ベネディクト十六世『典礼の精神』)


2000年間のカトリック教会の諸聖人たちと一致するために、天国の諸天使と一致してご聖体を礼拝するために、天地の創造主であり私たちの主であるイエズス・キリストを礼拝し賛美し感謝するために、また、罪の償いをするために、聖変化の時には必ずひざまづいてください。

聖伝のミサに与って、私たちの主イエズス・キリストをひざまづいて礼拝してください。永遠のローマに一致して、主に対してなされる冒涜を償ってください。

イエズス・キリストの聖名の前でひざをかがめることができないことは、悪魔の本質です。(参照:ベネディクト十六世『典礼の精神』)

願わくは、愛する兄弟姉妹の皆様が典礼において心を込めてひざまづき、「祈りにおいて、使徒たちや殉教者たちと繋がるため、全宇宙(コスモス)とイエズス・キリストご自身との一致において繋がる」ことができますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖ピオ十世会 2015年12月聖伝のミサの報告 SSPX Japan Traditional Latin Mass

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 昨日は聖母の無原罪の御宿りの祝日でした。マリア様の罪の汚れの無いこと、のみならず、天主のみ旨を果たすための愛を込めた完全な協力を黙想しました。

 さて、2015年12月の聖伝のミサの報告です。12月は、大阪では初金、初土のミサを行い、初金曜日のミサののちには御聖体降福式を行いました。

 東京では、生まれたばかりの赤ちゃんが洗礼を受け、天主の娘となりました。東京では、50名の愛する兄弟姉妹の皆様が聖伝のミサに与ることができ、大変うれしく思います。私たちがますますイエズス・キリストを賛美し、礼拝し、感謝し、愛することができますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

大阪での御ミサの報告をお送りいたします。

12月4日(初金) 至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ には14名、
12月5日(初土) 聖マリアの汚れなき御心の随意ミサ 16名が御ミサに与る御恵みを頂きました。 デオグラチアス!!

金曜日には御ミサ後聖体降福式ではイエズス様を知らない多くの人々、知っていてもその愛に応えようとしない人々、天主に逆らう人々のために御聖体にましますイエズス様に償いの祈りとロザリオをお捧げいたしました。ずべての人々がイエズス様の愛の深さを知り、その聖心に喜びと慰めを見出すことができるようになりますように、マリア様と一緒にお祈りを捧げることが出来ました。天主様の御憐みと愛の深さに感謝いたします。

金曜日、土曜日のお説教をとおして、待降節にあたってイエズス様を良くお迎えする準備をするためにマリア様を良く知り、私達のもとへ来られることを私達以上に待ち望んで下さっているイエズス様の聖心をより深く愛することが出来るようにマリア様に倣う決心を致しました。

土曜日の御ミサ後の公教要理は旧約のイスラエルの民についてでした。


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

昨日一昨日と、初金と初土の御ミサと、御聖体降福式等ありがとうございました!!(*^▽^*)♪幸せな時間はあっという間に過ぎてしまいますね☆彡

日本のカトリックの方々が、マリア様の御心を受けて、マリア様の御心を以って、イエズス様の聖心を、御神性に、天主であるイエズス様に相応しいやり方で、相応しい礼拝と、天主イエズス様になすべき心と態度と愛を以って礼拝する事ができますように、感謝する事ができますように、讃美する事ができますように!

日本の全ての方々が、イエズス様の聖心の愛の深さを知り、イエズス様の聖心に慰めと救いと平和と喜びを、唯一の救い主であるイエズス様を見出す事ができますように!!

日本の為にお祈り致しますm(__)m
私の為にもお祈りをお願い致しますm(__)m

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

大阪でのミッション、ありがとうございました。
昨日、今日と神父様のお説教を拝聴しながら本当にマリア様を通してイエズス様のために救霊の事業に少しでもお手伝いしたいと思いました。
小野田神父様のマリア様に対する愛と、信頼と、いろんな思いが聞いている私達にどんどん伝染してきたかのように感じました。

どうぞお体に気を付けてください。

では、クリスマスに御会いするのを楽しみにしております。

聖母の汚れなき御心よ小野田神父様の為に祈りたまえ。
聖母の汚れなき御心よ日本のために祈りたまえ。

【報告】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 24人(内、子供1人)
女: 26人(内、子供2人)
計: 50人(内、子供3人)

マチアス・ガオドロン神父(聖ピオ十世会)「シノドゥスは、教会の深い分裂の印象を与えている」

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会司祭 マチアス・ガオドロン神父様のシノドゥスの分析 「シノドゥスは、教会の深い分裂の印象を与えている」を英語でご紹介ます。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

The Synod gives the impression of a deeply divided Church

6_hostie-communion-eucharistie

Father Matthias Gaudron, of the Society of Saint Pius X, was ordained a priest by Bp. Tissier de Mallerais in 1990. For twelve years he was rector of Sacred Heart International Seminary in Zaitzkofen (Bavaria). Currently he is a professor at the Institut Sainte-Marie in the canton of Saint-Gall (Switzerland). Author of the Catechism of the Crisis in the Church (Angelus Press), he analyzes the Final Report of the Synod on the Family in this article, which first appeared in the monthly bulletin of the District of Germany, Mitteilungsblatt (December 2015), and on his website.

English translations.

The Synod of Bishops in Rome, which inspired hope and fear in equal measure, concluded on October 25, 2015. The Synod neither recommended administering the sacraments to divorced-and-remarried persons nor called for a more favorable attitude toward homosexuality, as many progressive Catholics and bishops would have wished. Nevertheless the Synod did not defend Catholic truth in clear terms either. It is unfortunately true, as Cardinal Kurt Koch of the Roman Curia said: there are “no doors that are shut”. Finally, the question of whether, despite everything, a new sacramental practice will be introduced still remains open.

As far as homosexuality is concerned, the Synod found terms that are still clear enough when it declared, in no. 76, that homosexual unions are incompatible with God’s plan for marriage. The document also states that it is absolutely unacceptable for international associations to exert pressure on poor countries by conditioning financial aid to them on the official legalization of “marriage” between persons of the same sex.

Further on, however, on the subject of the divorced-and-remarried, no. 84 includes statements that are unacceptable. Is it actually true that “the Holy Spirit pours out His gifts and charisms upon them for the good of all”? Although strictly speaking one can still accept this sentence, inasmuch as “gifts and charisms” do not necessarily presuppose the state of grace, this is no longer the case in the following sentence: “They should not feel that they are excommunicated. On the contrary, it is necessary for them to be able to develop as living members of the Church.” It is true that divorced-and-remarried persons are not excommunicated, as long as they do not separate themselves from the Church or deny the faith. They remain members of the Church, therefore; nevertheless they are no longer “living” members thereof but “dead” members. A living member, in theological language, is a Catholic who is in the state of grace. With every serious sin, a member is lost; consequently the sinner indeed remains bound to Christ and to His Church but as a dead member in which the divine life has ceased to flow. Divorced-and-remarried persons live in a permanent state of serious sin. As long as they are unwilling to put an end to their marital life, which is against God’s will, they cannot receive forgiveness either through the sacrament of Penance as other people who are just as guilty of mortal sin do, for the simple reason that absolution is given validly only if there is contrition and a firm purpose of amendment. In this state, they cannot really “progress” but at most ask, by participating in the life of the Church, for the grace and strength that they need to leave their sinful situation behind.

We find ambiguities in no. 86 too. There we read that the dialogue of divorced-and-remarried persons with a priest, “in the internal forum, contributes to the formation of a correct judgment on what hinders the possibility of a fuller participation in the life of the Church and the steps that can foster it and make it grow”; what does that mean? It seems that a little door is left open so as to allow these Catholics—after having reflected maturely, decided in conscience, etc.—to approach the sacraments. Divorced-and-remarried Catholics per se pose no major theological problems. As soon as they abandon their life of sin, they can once again go to confession and then receive Holy Communion. But as long as they do not do this, no priest who respects the teaching of Christ and of the Church can give them permission to receive communion. This paragraph was the most controversial of the Synod and received the necessary two-thirds majority, with 178 votes, only with great difficulty.

Elsewhere Pope Francis already opened up another way that might resolve these “problems”. Acting on his own authority and bypassing all the institutions established to modify the laws of the Church, Pope Francis simplified the procedure for causes of nullity of marriage: there are serious reasons to fear that in the future there will be a plethora of dubious declarations of nullity, and that many civilly remarried couples will be able to have their marriage regularized in the Church. Thus in the realm of teaching, marriage remains indissoluble, but in practice a sort of “Catholic divorce” could see the light of day.

The Synod of Bishops gives the impression of a deeply divided Church. On the one hand, a majority of bishops could not be found who were willing to break openly with the traditional teaching of the Gospel, while on the other hand, no majority could be found either to set forth this doctrine clearly and unambiguously. After two questionnaires circulated within the Universal Church and two synods of bishops, there has been no result but a compromise document that recognizes divorced-and-remarried persons as “living members of the Church”, which of course does not permit them to receive communion but does not clearly forbid it, either. Thus the Synod could scarcely have ended in a worse way: the conservative bishops, who would have rejected an open break with doctrine, are reassured because the indissolubility of marriage was not affected. The progressive bishops, although they did not obtain all that they would have liked, can nevertheless continue along their path toward the relaxation of doctrine and discipline.

Father Matthias Gaudron

 

Letter to Friends and Benefactors #85 聖ピオ十世会

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、フェレー司教様の「友人と恩人の皆様への手紙」85号を英語でご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

Letter to Friends and Benefactors #85

Mgr-fellay-LAB-85

Dear Friends and Benefactors,

With the multiplication of murderous attacks in Europe and Africa, and with the bloody persecution of many Christians in the Middle East, these recent months show us how profoundly troubled the situation of the world is. In the Church, the recent Synod on the Family and the upcoming start of the Holy Year do not fail to cause legitimate worries. Given this confusion, it seemed helpful to us to inform you of our reflections by responding to your queries. We think that this presentation will make it possible to highlight more clearly how we who are devoted to Tradition should react to the problems facing us today.

On September 1st, Pope Francis, on his own initiative, decided to allow all the faithful to make confessions to priests of the Society of St. Pius X during the Holy Year. How do you interpret this gesture? What does it mean for the Society?

We were in fact surprised by this action of the Holy Father on the occasion of the Holy Year because we, like everyone else, learned about it through the press. How do we understand this gesture? Allow me to make use of an image. When a fire is raging, everyone understands that those who have the means to do so must endeavor to put it out, especially if there is a shortage of firefighters. So it is that through all fifty years of this terrible crisis that has shaken the Church, particularly the tragic lack of confessors, our priests have devoted themselves to the souls of penitents, invoking the case of emergency foreseen by the Code of Canon Law.

As a result of the Pope’s act, during the Holy Year, we will have ordinary jurisdiction. In the image I mentioned, this has the effect of giving us the official insignia of firefighters, whereas such a status was denied us for decades. In itself, it adds nothing new for the Society, its members, or its faithful. Yet this ordinary jurisdiction will perhaps reassure people who are uneasy or others who until now did not dare to approach us. For, as we said in the communiqué thanking the Pope, the priests of the Society wish for one thing only: “To perform with renewed generosity their ministry in the confessional, following the example of untiring devotion that the saintly Curé of Ars gave to all priests.”

On the occasion of the Synod on the Family, you sent a petition to the Holy Father, then a declaration. Why?

The purpose of our petition was to point out as clearly as possible to the Supreme Pontiff the seriousness of the present hour and the decisive impact of his ruling in moral matters of such importance. Pope Francis learned of our sentiments on September 18th, before his departure for Cuba and the United States, and he informed us that he would change nothing of the Catholic doctrine concerning marriage, particularly its indissolubility. But we feared that, in practice, the indissoluble character of the matrimonial bond would be disregarded. And this is in fact what happened, on the one hand with the motu proprio reforming the procedure for declaring the nullity of marriages, and on the other hand with the final document of this Synod. Hence my declaration intending to recall to mind the constant teaching of the Church on a multitude of points that were discussed and sometimes called into question during the month of October. I will not conceal from you the fact that to me the sorry spectacle that the Synod presented seems particularly shameful and scandalous on more than one count.

Shameful and scandalous how?

Well, for example this dichotomy between doctrine and morality, between teaching the truth and tolerating sin and the most immoral situations. We understand that one should be patient and merciful with sinners, but how will they convert if their sinful situation is not denounced, if they no longer hear anyone talking about the state of grace and its opposite: the state of mortal sin, which inflicts death on souls and consigns them to the torments of hell? If someone were to measure the infinite offense caused by the slightest mortal sin against God’s honor and sanctity, he would die of astonishment. The Church must firmly condemn all the sins, vices, and errors that corrupt the truth of the Gospel. She must not compromise with scandalous behaviors or acknowledge a culpable acceptance of them or the public sinners who attack the sanctity of marriage. Why does the Church no longer have the courage to speak this way?

Yet there were some positive initiatives on the occasion of this Synod, such as the book by eleven cardinals (following one by five cardinals last year); and also the volume by the African prelates; one by Catholic lawyers; the handbook by three bishops, etc.

These fortunate initiatives that appeared recently promoting the defense of marriage and the Christian family give us a glimmer of hope. This represents a salutary reaction, even if certain responses leave something to be desired. Let us hope that this may be the beginning of an awakening throughout the Church that will lead to a rectification and real conversion.

Last spring, in a sermon given at the church of Saint-Nicolas-du-Chardonnet in Paris, Bishop de Galarreta said that the Church seemed to be in the process of producing “antibodies” to fight the aberrant proposals being made by progressives on the subject of marriage, who align themselves with current customs instead of seeking to amend them according to Gospel teaching. This reaction on the moral level is beneficial. And since morality is closely connected to doctrine, this could be the start of a return of the Church to her Tradition. We pray for this every day!

In the name of mercy, some prelates, like Cardinal Kasper, are trying, if not to change the doctrine of the Church about the indissolubility of marriage, at least to relax the discipline on communion for divorced-and-remarried persons, or to modify its judgment on unnatural unions. What should we think about all these so-called pastoral exceptions?

The Church can legislate, that is, establish its own laws, which are simply clarifications of the divine law. But in the area of marriage being debated today, Our Lord has already settled the question quite clearly: “What God hath joined together, let no man put asunder” (Matt. 19:6), and immediately afterward: “Whosoever shall put away his wife…committeth adultery” (Matt. 19:9). Therefore the Church has only one thing to do: tell the faithful of the divine law and enshrine it in ecclesiastical laws. In no case can the Church diverge in any way from it; that would be to fail in its mission, which is to hand on the revealed deposit of faith. In plain language, in the matter under consideration, the Church can only declare that there was no marriage to begin with, but in no case can it annul or dissolve a marriage that is valid in itself.

Of course ecclesiastical laws can add conditions necessary for the validity of a marriage, but always in keeping with the divine law. The Church thus can declare a marriage invalid due to lack of canonical form, but it will never be above the divine law to which it is subject. What is more, it is necessary to state that unlike human and ecclesiastical law, divine law allows for no exceptions, because it is not made by human beings who cannot foresee all possible cases and are obliged to allow room for exceptions. The infinitely wise God has foreseen all possible situations, as I wrote in the petition to the Pope: “the law of God, expression of his eternal love for mankind, is in itself the supreme mercy for all periods of history, all persons, and all situations.”

Is not the September 8 motu proprio that simplifies the procedure for declarations of nullity of marriage a way of recalling the principle of the indissolubility of marriage, while offering easy canonical terms for evading it?

The new motu proprio regulating canonical arrangements dealing with annulment processes claims, of course, to be an answer to a serious contemporary problem: that of numerous broken families. If you want to examine these cases in order to propose a swifter solution, insofar as it corresponds to the divine law on marriage, very good! But in the present context, that of modern secularized and hedonistic society, and of ecclesiastical tribunals already doing what is forbidden, this motu proprio runs the risk of becoming a legal ratification of the disorder. The result could be much worse than the recommended remedy. I very much fear that one of the key points of the Synod may have been resolved by creating a “back door” that opens the way to a supposed “Catholic divorce,” because concretely the Church is exposing itself to many abuses, especially in countries where the bishops, won over to progressivism and subjectivism, exercise precious little supervision…

In the Holy Year to begin on December 8th, is not a mercy without repentance or conversion being touted?

It is true that, in the current climate, an appeal to mercy too easily neglects the indispensable act of conversion, which requires contrition for one’s sins and a horror of sin as an offense against God. Thus I deplored in the last Letter to Friends and Benefactors (#84) the Honduran Cardinal Maradiaga’s complacent support of a new spirituality whose notion of mercy does not require repentance.

Nevertheless, if you read carefully the various documents published on the subject of the Holy Year, particularly the Bull of Indiction of the Jubilee, you see that the fundamental idea of conversion and contrition for sins in order to obtain forgiveness is present. Despite the reference to an ambiguous mercy that is said to consist of restoring to a human being his “incomparable dignity” rather than the state of grace, the Pope means to promote the return of those who have left the Church, and he multiplies the concrete initiatives to facilitate recourse to the sacrament of penance. Unfortunately, he does not ask himself why so many people have left the Church and stopped practicing their faith, and whether there might be some connection to a certain Council, its “cult of man”, and its catastrophic reforms: unbridled ecumenism; a desacralized and protestantized liturgy; a relaxation of morals, etc.

Then can the faithful devoted to Tradition participate without risk of confusion in the Extraordinary Jubilee Year decreed by the Pope? Especially since this Year of Mercy intends to celebrate the fiftieth anniversary of Vatican II, which is supposed to have knocked down the “walls” in which the Church was enclosed…

Quite obviously there arises the question of our participation in this Holy Year. In order to resolve it, a distinction is necessary between: the circumstances that bring about a Holy Year or Jubilee and its very essence.

The circumstances are historical, connected with the major anniversaries of the life of Jesus, in particular of his redemptive death. Every fifty years, or even every twenty-five years, the Church institutes a Holy Year. This time around, the point of reference for the opening of the Jubilee Year is not just the Redemption — December 8th is necessarily connected to the redemptive work begun with the Immaculate Mother of God — but also the Second Vatican Council. This is most unsettling, and we reject it forcefully, because we cannot rejoice in, but rather must weep over, the ruins caused by this Council: the precipitous drop in vocations, the dramatic decline of religious practice, and above all the loss of faith described by John Paul II himself as a “silent apostasy”.

Nevertheless the essential components of a Holy Year remain: it is a special year in which the Church, upon the decision of the Supreme Pontiff, who holds the power of the keys, opens wide her treasures of graces so as to bring the faithful closer to God, especially by the forgiveness of sins and the remittance of the punishments due to sin. This the Church does in the sacrament of penance and by indulgences. Such graces do not change; they are always the same, and only the Church, the Mystical Body of Christ, has power over them. We might also note that the conditions for obtaining the indulgences of the Holy Year are still the same: confession, communion, prayer for the intentions of the Pope — which are objective and traditional, not personal. Nowhere in the reminder of these habitual conditions is there any question of adhering to the conciliar novelties.

When Archbishop Lefebvre, with the whole seminary of Écône, went to Rome during the Holy Year of 1975, it was not to celebrate Council’s tenth anniversary, although Paul VI had mentioned that anniversary in the Bull of Indiction. Rather it was an opportunity to profess our Romanitas, our attachment to the Holy See, to the Pope who, as the successor of Peter, has the power of the keys. Following in the footsteps of our venerable founder, during this Holy Year we will concentrate on the essential components of it: repentance so as to obtain divine mercy through the intermediary of His one Church, despite the circumstances that some have thought necessary to invoke as requirements for celebrating this year, as was the case already in 1975 and again in 2000.

We could compare these two elements, the essential and the circumstances, to the contents and the packaging that surrounds them. It would be detrimental to reject the graces belonging to a Holy Year just because it is being presented in defective packaging, without considering the fact that this packaging does not alter the contents, unless the circumstances were to absorb the essentials, and unless, in the present case, the Church no longer had at her disposal the graces proper to the Holy Year because of the damage done by Vatican II. But the Church was not born fifty years ago! And, through the grace of Christ who is “the same yesterday, today and for ever,” (Heb. 13:8) it remains and will remain the same, despite a Council open to a world of perpetual change…

In several recent statements you seem to want to anticipate the one hundredth anniversary of Fatima by inviting the faithful to start preparing now. Why?

Le sanctuaire de Fatima.

Fatima.

From the perspective mentioned in this letter and in order to insist on the urgency of conversion, we thought of connecting these corporal and spiritual works of mercy that we are invited to perform this year with the centenary of the apparitions in Fatima, in which Our Lady insisted so much on the necessity of conversion, of oneself and of the world, on the necessity for works of penance and on prayer, especially the Rosary. Imploring divine mercy is closely connected with the Fatima apparitions: the Blessed Virgin invited us to pray and do penance, and this is how we will obtain mercy, not otherwise. It seems to me quite beneficial to tie these two future anniversaries together this way by making them two years of efforts to draw closer both to the Most Blessed Virgin Mary and to Our Lord, both to the Immaculate Heart of Mary and to the merciful Sacred Heart.

The Society of St. Pius X will organize an international pilgrimage to Fatima from August 19th to 20th, 2017. But already we can and even must prepare ourselves, especially when Catholic morality is seriously being challenged.

More than ever, on this feast day of November 21st, which for us is a major anniversary of the Declaration by Archbishop Lefebvre in 1974—a veritable charter for our battle for the Church of all ages—let us maintain a Catholic attitude in all circumstances, whatever the difficulties and trials may be. Let us have the mind of the Church, let us be faithful to Our Lord, let us remain devoted to his Holy Sacrifice, to his teachings, to his examples. Yesterday I read that Cardinal Müller, Prefect of the Congregation for the Doctrine of the Faith, feared a “protestantization of the Church”. He is right. But what is the new Mass, if not a protestantization of the Mass of all time? And what are we to think about the Pope who, like his predecessors, goes to a Lutheran church? When we see how the five hundredth anniversary of the Protestant Reformation in 2017 is being prepared, how the figure of Luther is now saluted, although he was one of the major heresiarchs and schismatics in history, ferociously opposed to the Roman Catholic Church, it is enough to make you lose heart! Truly, Archbishop Lefebvre saw correctly when he said that “the only attitude of fidelity to the Church and to Catholic doctrine, for our salvation, is the categorical refusal to accept the Reformation,” because between Luther’s reform and the one undertaken by Vatican II there is more than one point in common. And with him, we say again that, “without any rebellion, bitterness, or resentment, we pursue our work of priestly formation under the guidance of the never-changing Magisterium, convinced as we are that we cannot possibly render a greater service to the Holy Catholic Church, to the Sovereign Pontiff, and to posterity.”

You understand this very well, dear friends and benefactors of the Society of St. Pius X. Your fervent prayers, your admirable generosity, and your constant devotion are for us an invaluable support. Thanks to you, the work of Archbishop Lefebvre is developing everywhere. With all my heart I thank you for this.

We pray to Our Lady to obtain for you all the graces that you need. We ask the Good Lord to grant you His blessings for you and your families, so that you may prepare for the great feast of Christmas by a holy Advent, and that you may entrust the coming year, with its joys and crosses, to our Mother in Heaven.

On the Feast of the Presentation of the Blessed Virgin, November 21, 2015
+ Bernard Fellay

Lettre aux Amis et Bienfaiteurs n°85
Carta a los Amigos y Bienhechores n° 85
Brief an die Freunde und Wohltäter Nr. 85
Lettera agli Amici e Benefattori n° 85


イエズス・キリストが私たちを愛するあまり、私たちを救うために人となられたその愛の激しさ

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 12月の初金曜日に大坂で行った聖伝のミサのお説教をご紹介いたします。

 イエズス・キリストが私たちのもとに来たいという熱望の強さを、愛の炎を一緒に黙想することを提案します。

天主様の祝福が豊かにありますように!

2015年12月4日 初金曜日 至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
小野田神父 説教




聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は2015年12月4日、12月の初金のミサです。イエズスの聖心の随意ミサをしています。今日のこの御ミサの直後に聖時間があります、御聖体を顕示して、その前でロザリオを5連、それからイエズスの聖心の連祷、イエズスの聖心に人類の罪を償う祈りを、イエズス様の聖心の御要求に従って、お捧げする事に致しましょう。これを感謝の為に、お恵みを感謝する為にお捧げいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は待降節の初金ですから、イエズス様の御降臨を、人類がどのように待っていたのか、或いはイエズス様の代理者を、日本の人たちがどのように待っていたか、という事に思いを馳せて、そのイエズス様を待ち望む心を、私たちの心に多く引き起こす事にしましょう。実はそれよりも更に、イエズス様は私たちの方に来たかった、私たちの方に来たい、というその愛は、私たちが待ち望むよりも更に多かった、という事を第2点にみて、でも現代の人たちはそれにもかかわらず、まさに、イエズス様を待ち望む人々、イエズス様の熱烈の愛にもかかわらず、冷淡を以って報いている。ですから、最後に私たちは遷善の決心、イエズス様をお愛しする為に、初金の決心を新たに立てる事に致しましょう。

では、イエズス様の御降臨を、太祖の人たちはどれほどの熱意をもって待っていたでしょうか。シメオンは、「主のキリストを見るまで死なない。」と言われていて、毎日、祈りと断食をして、神殿に登って、いつも「救世主が来られるか、来られないか」というのを待っていました。

日本でも、最後の司祭が殉教して、バスチアンの予言があり、「7代の後には、パーパの船がやって来て、パードレたちがまたやって来る。その時には、信仰を自由に表明する事ができる日がやって来る。」その潜伏キリシタンたちの、司祭を待つ7代の間、250年の間、待ちに待って、待ちに待ったその望みはどれほどだったでしょうか。フランス寺が出た、できた、といった時に、潜伏キリシタンたちは、「まさかこれがその待ちに待ったパードレではないか。」と言って探しに行った、隠れながら探しに行ったその人たちの、パードレたちを待つその望みは、どれほど大きかったでしょうか。

それを応える様に、イエズス様の聖心は、私たちに、私たちの元に来たい、というのは更に大きかったのです。イエズス様は、天主の御子は、既にアダムとエヴァが罪を犯したその時、「救世主を送る」という約束をしました。「必ず救世主を送る。」その救世主を送って、天主がいつも私たちの保護をして下さる、というその目に見えるしるしとして、私たちの太祖に、アダムとエヴァに服をくれました。その後、多くの預言者たちを送って、「救世主が来る」という約束を、何度も、詳しく、詳しく、教えてきました。

天主は、もちろん救世主を送る必要はありませんでした。御自分が救世主となって来る必要はありませんでした。しかし、それが天主様の愛の望みだったのです。この世の創造のその前からの愛の計画でした。「私たちの元に、人となってやって来る。」と。イエズス様のその御望みは、私たちと共にいて、私たちからの愛を受けたい。私たちを愛する、私たちを天主がどれほど愛するか、という事を見せて、その答えとして、愛を受けたい、と思っていました。

ですから、イエズス様が人となられて来られた時には、大きな立派な王宮、豪華な神殿、天変地異がなって、山の上で雷が轟いて、もうこれで世の終わりか、と思われたような天主の十戒を与えた時と同じように、恐ろ恐ろしい、大異変を起こしながら、この世に神々として現れる事もできました。皆が、「あぁ、まさに、これこそ天主の御子が人となった!」と震えおののいて、平伏して、礼拝する、という事もできましたけれども、そうではなくて、私たちからの愛をますます得る為に、密かに隠れて、幼子としてお生まれになる事をお望みになりました。私たちが簡単に恐れずに近寄る事ができるように、乳飲み子として、幼き赤子として生まれる事をお望みになりました。どんな貧しい人でも、どんな弱い人でも近付く事ができるように、貧しい馬小屋で、住む家と無く、生まれる宿屋と無く、動物の飼い葉桶で、凍える冬の中で生まれる事をお望みになりました。

そればかりではありません。私たちがそのイエズス様にますます近寄って、イエズス様のその御姿を倣う事ができるように、イエズス様は、30年間、私たちと全く同じ生活をする事を望まれました。私たちと全く同じく、子供として、お父さんお母さんに従順に従い、子供として成長し、労働し、肉体労働し、労働者として生活しました。しかもその受ける賃金は本当に、働けども働けども、手に何も残らないような貧しい生活でした。私たちに、どれほどこの私たちも同じ生活をする事をお望みになるかを知らせようとしました。

そればかりではありません。イエズス様は、罪人である私たちが受けるべき全ての苦しみを、全て自分の身に引き受けて、罪の償いを果たし、どれほど私たちを愛するかを示す為に、十字架の上で、極悪人として死刑を受ける事を望まれました。天主の御旨の従順のまま、それを受け入れられました。

私たちをどれほど愛しているか、という事を示す為に、十字架の上に付けられて、両手を大きく開けて、私たちをあたかも抱擁するかのように、待ち望んでいるかのように、「さあ、私だ、恐れるな。さあ、労苦する者よ、私の元に来て休め。私が回復させよう。私のくびきは軽く、優しい。私は柔和で謙遜な者であるから、私に倣え。さあ、私の元にやって来い。私が地上から上げられた時に、私は多くの人々、全ての人を私の元に引き寄せよう。」私たちの主は、御自分の聖心が、私たち罪人の為に開かれた、救いの箱舟となる様に、その脇腹を開かせて、聖心を私たちの為に開いて下さいました。

イエズス様の聖心の御影は、聖マルガルタ・マリア・アラコックに言って、「この聖心を、皆の前で飾るのを望む。」そうすれば、心の固い人でも、その私の心臓を見て、それに心を打たれて、それに感動して、天主が人となって、私たちと同じ肉体を持って、私たちと同じ心を持って心臓を持って、愛に燃える、燃え盛る火を、愛の炎で燃えていて、この、その愛に燃えるあまりに、苦しみの茨の冠、十字架の苦しみを受けた、という事が分かるように、この御影を、開かれた、私たちの為に槍で貫かされた、開いた聖心を描く事をお望みになりました。

キリシタンたちが7代ずっと待っていた日本に、イエズス様の聖心の為にいつもお祈りをしていた、日本の潜伏キリシタンたちの為に、最初に横浜で造られた教会は、イエズス様の聖心に捧げられた教会でした。第2番目はマリア様の教会で、長崎に建てられました。

イエズス様が私たちを愛して、私たちのためにこれほど、私たちの元にいたい、と思うのはこればかりではありません。更にイエズス様は、私たちの元に御聖体として残りたい、私たちと一緒に留まりたい、日夜私たちの元にいたい、真の天主、天地の創造主、全能の天主の御父、御父の輝ける栄光の御一人子が人となって、更に私たちの為に御聖体となって、パンの姿をとって、私たちと共に昼夜留まりたい。そればかりではありません、私たちの霊的な糧となって、私たちの元に、私たちと一つになりたい、と思っています。

聖パウロは、イエズス様のこの愛、天主に対する従順とその御謙遜を見て、「天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものも、皆膝をかがめて、『イエズス・キリストは主である』と崇める。」と言っています。

この私たちの愛の王であるイエズス・キリストの聖心をみると、私たちはどうしても、愛を、愛を以って応えざるをえません。イエズス様は、多くの全ての人がイエズス様を愛するように、この人となる事を望まれました。聖心の姿で描かれる事を望まれました。

しかし残念な事に、多くの人はイエズス様の事を知りません。イエズス様がどれほど私たちの事を愛しているか、という事を知っていません。或いは無関心です。或いは知っていても冷淡です。或いは知って、「イエズス様の事を礼拝したい」と思っても、ちょうどヘロデの元に居たエルサレムのように、「イエズス様を礼拝してはいけない」と言われていたり、「イエズス様の前に跪いてはいけない」と言われたり、多くの人は、イエズス様に対して為すべき、イエズス様が望んでいる、愛と、礼拝と、感謝と、讃美と、罪の償いをする事ができないでいます。或いは、しないでいます。

イエズス様は、そのような私たちの事を、おそらくゲッセマニの園にてよく御覧になっていた事でしょう。ゲッセマニの園にて、そのような冷淡な私たちの態度を見て、辛く思っていた事でしょう。イエズス様に捧げられた霊魂たちが、特に司祭や修道者たちが、イエズス様の聖心に対して冷淡であればあるほど、どれほどイエズス様の聖心を傷付けた事でしょうか。

残念な事に私たちも、イエズス様の聖心にどれほど冷淡であったでしょうか。「イエズス様がこれほど愛している」という事を知りつつも、イエズス様に、その愛に、私たちはどれほどの愛を以って応えてきたでしょうか。「イエズス様がお望みの事はこれだ」と、分かっていながらも、「イエズス様の聖心に逆らう事だ」と、知りつつも、自分の都合で、自分の好みで、自分の好奇心で、自分の欲望で、自分の望みで、自分のやりたい事をやってきてしまったのではないでしょうか。私たちは、イエズス様の愛に愛で応えるべきであるにもかかわらず、自分の為にその愛をとっていたかのようです。イエズス様は私たちに、「心を尽くして、力を尽くして、全てを尽くして愛するように。」と、「真心を尽くして愛するように。」とお命じになるのですけれども、私たちは、それをできないでいました。

イエズス様は今日、私たちにもう一度、御自分の愛の火に燃える聖心を示して、「少なくとも、お前は私を愛するように。」「この世の人たちは、私に対して冷淡と、無関心と、冒辱で応えている。少なくともお前は私を愛せ。」私たちも拙いながら、イエズス様の愛に、愛を以って応える事に致しましょう。

では、どのような決心をしたら良いでしょうか?私たちも、太祖の、或いは日本の私たちの先祖、先輩たちを学んで、イエズス様をお愛しするが為に殉教していった何十万という多くの日本のキリシタンの方々を見て、イエズス様を待ち望みつつ、イエズス様を愛するお恵みを乞い求めましょう。

イエズス様は私たちの元に、この聖心の姿で人となって、私たちと同じ肉を持って来られる事を望みましたから、御聖体に於いて留まる事を望まれましたから、イエズス様の聖心の信心と、御聖体の信心は全く一つですから、イエズス様はマルガリタ・マリア・アラコックを通して、イエズス様の聖心の信心を、イエズス様の聖心を愛する為に、イエズス様の聖心を愛を以って、愛を愛で返す為に、御ミサに与るように、初金の御ミサに与るように、初金で御聖体拝領するように、御聖体礼拝をするように、聖時間を作るように持つように、とお望みになりました。ですから、今日私たちは、イエズス様の聖心を愛するが為に、聖時間を一緒に共に過ごす事に致しましょう。イエズス様の聖心を愛する事に致しましょう。

イエズス様の聖心に、日本の多くのカトリックの方々が、イエズス様の聖心を、イエズス様の御神性に、天主であるイエズス様に相応しいやり方で、相応しい礼拝と、天主イエズス様に為すべき心と、態度と、愛と、礼拝を以って、礼拝する事ができますように、讃美する事ができますように、感謝する事ができますように、お祈り致しましょう。

日本のカトリック信者さんの方々のみならず、日本の全ての方々が、イエズス様の聖心の愛の深さを知り、イエズス様の聖心の元にいらっしゃるように、イエズス様の聖心に、慰めと、平和と、喜びと、救いを見出す事ができますように、唯一の救い主であるイエズス様を、この見出す事ができますように、このクリスマスの時に見出す事ができますように、お祈り致しましょう。今日聖時間の時にお祈り致しましょう。

最後に、マリア様にお祈り致しましょう。マリア様の汚れ無き御心が唯一、イエズス様の聖心を全き完璧なやり方でお慰めし、礼拝し、感謝した方です。マリア様の御心を私たちも受ける事ができますように、マリア様の御心を以って、イエズス様をお愛しする事ができますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

2016年の聖伝典礼カレンダーのお知らせ

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 アヴェ・マリア・インマクラータ!

 愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日はグァダルーペの聖母の祝日ですね。

 今年も、日本語版の2016年の聖伝典礼カレンダーをご用意いたしました。お待たせいたしました。
 テーマは、2017年のファティマ100周年の準備の年として、日本の誇る尊き殉教者について黙想するために、「日本の尊き殉教者」記念版です。
 この日本には、聖母の子供として、聖母の道具・下僕(しもべ)として、聖母の騎士として、天主の御心をお喜ばせしようと尽くし、天に駆け上っていった百万の殉教したキリシタンたちがいます。この殉教者の心を私たちが2016年、日々、私たちのものとすることができるように、聖母にお祈りすることにいたしましょう。
 今年も大阪の信徒会長のご協力をいただきました。心より感謝いたします。

 大阪は明日13日(主)の御ミサから、東京は27(主)の御ミサからご提供できます。
 この日本語版は、今年は限定70部だけの印刷となります。制作費で一冊800円となります。よろしくご理解をお願いいたします。

 よき待降節をお過ごしください。
 天主様の祝福が豊かにありますように!
 トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年のカレンダーに寄せて
アヴェ・マリア・インマクラータ!

 愛する兄弟姉妹の皆様、
 2016年のカレンダーを大きな喜びを持って愛する兄弟姉妹の皆様のお手元にお届けいたします。この地上での歳月は、瞬く間に過ぎ去って、もはやファチマ100周年の一年前となりました。
 このことは、この地上の生活がごく短いもので、私たちが天国に行くためにこの世を巡礼している身に過ぎないということを思い出してくれます。私たちは天国への旅路を歩く旅人で、最終の故郷は天の至福の命です。一度は罪によって失われた、この永遠の命を受けることができるように、天主は私たちに御一人子を救い主としてくださいました。私たちが地獄の火に永久に焼かれないように、天主は人となって十字架の苦しみを受けました。私たちは、イエズス・キリストの贖いの業に協力して、自分の霊魂と、多くの霊魂たちとを天国に導くように招かれています。ファチマの聖母はこの祈りを教えてくれました。「ああ、イエズスよ、我らの罪を赦し給え。我らを地獄の火より守り給え。またすべての霊魂、ことに主の御憐れみをもっとも必要とする霊魂を天国に導き給え。」ファチマの聖母のことを考えると、聖母が私たちの救霊を熱烈に心配し配慮し祈る愛の母であることがわかります。

 天主御父は、救い主イエズス・キリストを、聖母を通してのみ私たちにくださいました。天主御子は、聖母の胎内を通してのみ、私たちのもとに来ることをお望みになり、聖母のもとに30年間従順に暮らすことが、御父に対する最高の賛美であることをよくご存じで、それを実践しました。天主聖霊は、聖母においてのみ御子の御人性を形成することを望みました。聖母が聖寵に満たされ、聖霊のみ旨のみを忠実に果たしたからです。天主三位一体は、私たちにイエズス・キリストとそのすべてのお恵みを聖母を通してのみ、お与えになる永遠の御計画をお持ちです。

 私たちの先祖のキリシタンたちは、上の二つの点をよく知っていました。聖フランシスコ・ザビエルが聖母の被昇天に日本に到着してカトリック信仰を宣教したその日から、日本では聖母に対する信心が特にさかんで、聖母の御影や、ロザリオ、聖母像などがたくさん発掘されています。天国への旅人であることを自覚していたキリシタンたちは、カトリック信仰のために殉教することさえ厭いませんでした。

 そこで、ファチマ100周年への準備として、日本の誇る尊き殉教者について黙想することを提案します。
 ファチマの聖母は、私たちに罪びとの回心のために祈りと償いを捧げるように要求されています。私たちが聖母に倣って、日々、利己主義や自己中心に死に、罪に死に、天主に生きることができるように。私たちのやりたいことではなく、天主のみ旨を果たすことができるように。「我は主の使い女なり、仰せのごとく我になれかし」と。罪の汚れのない聖母、インマクラータなる聖母の御生涯は、ただ純粋な天主に対する愛の生活でした。

 この日本には、聖母の子供として、聖母の道具・下僕(しもべ)として、聖母の騎士として、天主の御心をお喜ばせしようと尽くし、天に駆け上っていった百万の殉教したキリシタンたちがいます。この殉教者の心を私たちが2016年、日々、私たちのものとすることができるように、聖母に祈りましょう。

 ファチマ100周年の準備として、また、聖ピオ十世会秋田巡礼10周年記念として、2016年は特別に、秋田の外にも殉教の地である長崎の地に詣でることを計画しております。このカレンダーが巡礼の準備と、巡礼後の決心とに役立つものとなることを祈ります。私たちが地上にしばらくの間だけいるちっぽけな巡礼者であることをいつも私たちが自覚しますように。

 聖伝のミサに与る私たちの数も、取るに足らないものですが、2015年前のクリスマスに私たちのために生まれたイエズス・キリストを礼拝しに来た人々の数も取るに足りませんでした。天主の御一人子が救い主として生まれたのは、ベトレヘムの馬小屋でした。世間の人々は、教会の建物もない私たちをあざ笑うかもしれません。数の少なさを軽蔑するかもしれません。かつて日本のキリシタンたちも、バテレンの蔑称であざ笑いを受けていました。私たちは、私たちの霊魂を救うために捧げてくださったイエズス・キリストと聖母とに合わせて、私たちの受ける嘲りを多くの人々の回心と救霊とのためにお捧げいたしましょう。

 2016年は、さらに、1716年4月28日に フランス サン=ローラン=シュル=セーヴルで霊魂を天主に返した聖ルイ・マリ・グリニョン・ド・モンフォールの帰天300年周年でもあります。私たちに聖母の真の信心を説明してくださった偉大な聖母の奴隷です。

 聖ピオ十世会アジア管区では、2016年8月13日から9ヶ月に亘ってファチマ100周年のノベナが開始されます。
《原罪の汚れなく宿り給いし聖マリアよ、御身に寄り頼み奉る我らのために祈り給え。また、御身に寄り頼まぬ全ての人々のため、ことに、フリーメーソンのため、また、御身に依頼された人々のために、祈り給え。》

 2015年12月12日、グァダルーペの聖母の祝日にて トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

マリア様による、マリア様が為すべき、待降節における役割とは

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 12月の初土曜日に大阪で行った聖伝のミサのお説教をご紹介いたします。

 待降節に、私たちはイエズス様を待ち望む準備をする事に致しましょう。
 そしてこの準備をする為に、マリア様の御心、マリア様の事をまず考え、黙想することを提案します。

天主様の祝福が豊かにありますように!

2015年12月5日 初土曜日 聖マリアの汚れ無き御心の随意ミサ
小野田神父 説教



 聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は12月5日、12月の初土曜のミサをしております。今日のこの御ミサの後に、土曜日ですので、公教要理の復習があります、公教要理があります、どうぞいらして下さい。
12月はたくさんのミサがあります。12月13日の主日の夕方18時30分からは、レネー神父様が御ミサをして下さいます。

 それから12月24日のクリスマス・イヴには、夕方から18時30分から。そして25日には、真夜中と、それから暁の朝ミサがあります。それから26日にもミサがあります。25日の朝は、9時と10時30分、2回。そして26日の土曜日にもミサがあって、10時30分から。
そして12月の大晦日には、感謝のミサが、夕方の18時30分からあります。どうぞいらして下さい。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 愛する兄弟の皆さん、今日は待降節における初土曜日ですので、私たちはイエズス様を待ち望む準備をする事に致しましょう。そしてこの準備をする為に、マリア様の御心、マリア様の事をまず考えます。マリア様による、マリア様が為すべき、待降節における役割とは何なのか。そして私たちが、どれほどマリア様の助けを必要としているか。そして3番目に、マリア様は特に21世紀の現代、どれほど必要としているか。終末の私たちにとって、どれほどマリア様が必要なのか。この待降節を過ごす為にどれほど必要なのか。最後に、何か良い遷善の決心をいくつか立てる事に致しましょう。

 昨日、初金曜日のミサでは、イエズス様を待ち望む、救い主を待ち望む太祖、そして旧約の義人たちの思いを少し黙想しました。それはパードレたちを待つ、潜伏キリシタンたちとの思いにも繋がるような、熱烈な思いだった、という事。またイエズス様は、それらの太祖や義人たちの思いを集めても、それを更に超えるような熱い望みを持って、私たちの元に来たい、私たちの元に来て、私たちを招きたい、私たちの近くに来たい、私たちが近くに行く事を望んでいる、という熱烈な愛とあわれみの望みを黙想しました。

 では、私たちはそのイエズス様の望みをどうやって果たしたらよいでしょうか?イエズス様は、「この地上に来たい。」と、熱烈な思いで人と私たちの間に住んで、私たちを愛し、私たちから愛されたい、と熱烈な思いを持っていましたが、それにはただ1つ条件がありました。イエズス様は、「第2のアダムとして来たい。」と思ったので、「第2のエヴァが必要だ。」と、これが条件でした。そして、「第2のエヴァは、第2のアダムと共にいるに相応しい、純潔なものでなければならない」という条件でした。

 既に、イエズス様がこの地上に、天主の御子が地上に救い主となって来られる、という時に、予言がされてました、「私は、お前と女の間に敵対を置く。お前の末と女の末の間に敵対を置く。お前は彼女を苦しめるが、彼女はかかとでお前の頭を踏み砕くだろう。」と。

 この第2のアダムが来るべき、置かれるべき、第2のエヴァというのは、この地上における第2の楽園の事でした。天主御子が、相応しくここに宿る事ができるべき、地上の楽園でした。閉ざされた秘密の楽園でした。

 ちょうど第1のアダムから第1のエヴァが生まれたように、出てきたように、第2のエヴァから第2のアダムが生まれてくる事を望まれました。そして第2のエヴァを通してのみ、イエズス様は私たちの元に来る事を望まれました。

 天主御父は、永遠の昔から、自分のいと愛するべき御子を、第2のペルソナ、天主御子を、「この地上に送ろう」と熱烈に望んでいました、が、たった1つの条件は、「第2のエヴァであるマリア様を通してのみ、それを為そう」と。もしもマリア様を通してのでなければ、それを望まないほど、「マリア様を通してのみ、御子を与えよう。」と望まれました。

 御子イエズス様も全く同じでした。イエズス様も、この地上に来る事を非常に熱く熱く、昔から望んでいましたけれども、ただこの地上に来るには、「マリア様を通してでなければ来たくない」と思っていました。「マリア様を通してのみ、来る事」を望んでいました。

 天主聖霊も同じです。イエズス・キリスト、天主の御子を人間として形作る為には、もちろんやろうと思えば、どのような方法でもできたのですけれども、天主聖霊は、永遠の昔から、「マリア様を通してのみ、マリア様の体内においてのみ、このマリア様という閉ざされた楽園においてのみ、御子を形作ろう。」と望みました。

 天主三位一体は、この地上に、私たちに救い主を送る為の唯一の道として、そこを通るべき道として、たった1つ、マリア様だけを選ばれて、マリア様を通してのみ、それを望まれました。

 そればかりではありません、天主三位一体はもちろん、自分の思い通りにしようとする事もできましたが、そうはされずに、マリア様の、第2のエヴァの同意を求めました。もしもマリア様が、「はい。」と言えば、この救いの業はできるし、しかし、第2のエヴァが、「私はそれに協力しない。」と言えば、いくら第2のアダムが一人でやろうとしても、それはやりたくない、三位一体は、人類の救いを為す事はない、と決めていました。

 全被造物、全天使たちは、天主三位一体は、マリア様が永遠から予定された、蛇の頭を踏み砕くべきこの女性が、この救いの業に協力するかしないか、私たちの為に救い主の母となるかならないか、そして同時に、贖われた人類の、第2の新しい人類の母と、永遠の命の、全ての永遠の命に生きる者の母となるかならないか、の承諾を待っていたのでした。

 マリア様は、大天使聖ガブリエルに答えました、「私は主の婢女なり。仰せの如く我になれかし。」この瞬間に天主三位一体は、非常な喜びと嬉しさで、御父は御子を送り、御子はマリア様の御胎内に宿り、そして天主聖霊はそのマリア様の浄き御胎内に、御子を人間として形作る事を始めました。ここに於いて、時に於いて、天主御子は人間として宿られ給うたのでした。

 マリア様が唯一の、私たちが救世主を受けるべき唯一の道であるだけではありません。第2のポイントは、天主御父は、私たちの救いの為に、この第2のエヴァといつも、贖いの道を、贖いの業を果たす事によって、最高の栄光を得ていた、という事を黙想しましょう。

 天主御子は、貧しき馬小屋で、マリア様によって生まれる事によって、マリア様から生まれる事によって、天主御父に最大の栄光を帰しました。マリア様の御手によって御父に捧げられる事によって、神殿に捧げられる事によって、天主御父に、えも言えない程の、この上もない栄光を帰しました。

 イエズス様はもちろん、そのありとあらゆる方法で、天主御父の栄光を、天主御父の栄光を高める事ができたはずですが、永遠の知恵であるイエズス・キリストは、無限に選ばれた、無限の選択肢から、最高度の栄光を帰す方法を選びました。

 それは、30年間、マリア様、及び聖ヨゼフ様の御許で、従順に私生活を送る、従順にマリア様の元で生活する、マリア様の恰も奴隷であるかのように、マリア様の命令に1つ1つ従う事によって、マリア様のものとして生活する事によって、天主御父に最高の喜びと、栄光を帰しました。

 そればかりではありません。イエズス様は、天主御父の栄光をより多くする為に、十字架と共に、マリア様と共に担がれました。十字架の足下には、マリア様がいらっしゃる事をお望みになりました。そして、マリア様を通して聖霊が下る事をお望みになりました。

 第2のアダムは、第2のエヴァと分かち難く結び付いています。第2のエヴァなしに、第2のアダムは有り得ませんでした。第2のアダムがいる所には必ず第2のエヴァがいなければなりません。全ての贖いの業は、この第2のアダムとエヴァが、第2のアダムが第2のエヴァの協力を以って、初めて達成されました。そうすることによって、御父に最高の栄光と、人類の贖いの最高の業を達成する事ができたのです。

 最初の奇跡を見て下さい。霊的な最初の奇跡は、洗者聖ヨハネの原罪を赦す事でした。マリア様は、聖エリザベトに挨拶の言葉を言う事によって、そのマリア様のお言葉によって、洗者聖ヨハネの原罪を赦す事ができるように、イエズス様の力を伝えました。

 そればかりではありません。最初の物体的な肉体的な物理的な奇跡も、カナの婚宴の席で、マリア様がイエズス様にお願いするから、イエズス様も時を早めて、その奇跡を行いました。「あの人たちにブドウ酒がありません。」「婦人よ、それがあなたと私の間に何の関係があるのか。」「さあ、この方の言う事を何でも従いなさい。」

 マリア様を通して、最初の霊的な、物体的な奇跡を行われたイエズス様は、終末まで、世界の終末の夕べまで、マリア様を通して奇跡を行い続けます。マリア様を通してこの世に来られたイエズス様は、マリア様を通して私たちの心に宿ろうと思っています。マリア様と共に贖いの業を成し遂げられたイエズス様は、マリア様と共に私たちにその贖いの功徳を、恵みを分配しようと思っています。

 マリア様は、教父たちによると、「イエズス様の聖心に立てられた、果てしない大きな貯水池の、恵みの貯水池からの、恵みの通る運河であり、水道である。」と、言われています。

 イエズス様を最初に受けた人たちを見て下さい。牧者や羊飼いや、或いは3人の博士たち。これはマリア様をまず見て、幼子がマリア様と共に居られるのを見て、救い主をマリア様から受け取ったではありませんか。シメオンも同じです。シメオンもマリア様を見て、「あぁ、お母さん、この、この子こそが、逆らいのしるしとなる子供です、救い主です。どうぞ私に抱かせて下さい。」マリア様を見てこそ、イエズス様を受ける事ができたではないでしょうか。

 私たちにとって、もしイエズス様を受け取ろうとするのであれば、シメオンのように、マリア様を探して行かなければなりません。マリア様から、イエズス様を受け取らなければなりません。どうしてもマリア様を通さなければ、私たちはイエズス様を受ける事ができないからです。これが天主様の御望みであって、永遠の御計画であるからです。

 追放された、地上の楽園からエデンの楽園から追放されたエヴァの子供である私たちが行かなければならない新しい楽園は、マリア様という楽園です。

 第3の点に、これはいつの時代でも、今までの話しは、いつの時代でも適用する事ですけれども、天主の御ご計画によって、終末の時代には、更にマリア様の栄光が表れなければなりません。何故かというと、天主様はその御計画によって、マリア様が生きておられる間は、たとえマリア様が世界をアッと言わせるような奇跡を起こす事ができたにもかかわらず、させようと思えばする事ができたにもかかわらず、マリア様はいかなる奇跡も行いませんでした。私たちと全く同じ生活、奇跡も、脱魂も、恍惚もない生活を行い、そして信仰にのみ生きた生活でした。そのマリア様のそのご謙遜の為に、終末には、マリア様の力が、マリア様がどのような方か、という事を、私たちによく分かるようにする、というのが天主の御計画であるからです。

 天主様は、マリア様の事を今まで秘密にされておられました。しかし時の終わりにつれて、マリア様がどのような御方であるか、或いはマリア様を通して、どのようにイエズス様が来られる事をお望みになられるか、という事をますます示そうとしています。

 例えば、ヨーロッパでプロテスタントがマリア様を否定して、「マリア様いらない」と、「イエズス・キリストだけで大丈夫、必要だ。」という新しい宗教が起きた時に、マリア様は時を同じく、メキシコで、グァダルーペという所でお現れになりました。

 その当時、メキシコでは悪魔が支配していました。何故悪魔が支配していたかというと、大帝国があって、蛇を崇拝する宗教が国の宗教で、王様はその蛇を礼拝して、その蛇に人身御供を捧げていました。人間の、生きた人間の心臓を生きたまま開いて、そしてその心臓を取って、それをそれが蛇に捧げていました。その蛇に捧げられた神殿の献堂式には、何万人という人の心臓が捧げられました。日々そのような心臓が捧げられていて、そしてそのような心臓の血を飲む事によって、太陽がまた陽を昇って、もしもそれが止まっていれば、太陽は陽を昇らなくなる、と恐れていました。何百万人もいたこの国では、多くの人々が悪魔に命を奪われていました。

 そのような元にやって来たスペインの宣教師たちは、カトリックの司祭たちは、一生懸命働きました。公教要理を教え、色々親切をし、愛徳の業をして、何とかしてその宗教を、新しい、イエズス・キリストの真の救い主の道を教えたのですけれども、回心する人は、ほぼゼロに等しかったのです。

 ところがマリア様が、ようやく回心したようなその一人、ホワン・ディエゴにお現れになったその10年の後には、メキシコの何百万人という人々は回心して、今でも、メキシコは共産主義の迫害にもかかわらず、法律的にはキリスト教が廃止されて禁止されているにもかかわらず、今でもメキシコでは、カトリック信者が大多数です。マリア様への信心が生き生きとしています。そしてマリア様は、そのご自分が母である、というそのお姿を、そのメキシコの人たちに見せて、そして自分こそが、本当の天主の御母である、という事を示しています。

 そればかりではありません。天主の立てた秩序を破壊し尽くそう、という共産主義がこの地上に出て、天主を憎み、天主という概念をこの地上から滅び尽くしてしまおう、そして共産主義者という、革命家というプロフェッショナルな職業ができて、その共産主義、革命家という人たちは、革命の為に全てを犠牲にして、全ての時間と、命と、家族も、全てを犠牲にして、革命の為に自分を費やす、という人たちが出た時に、そしてそのような人たちが、パリで革命を起こした時がありました、「パリ・コミューン」と言われています。1830年のことでした。

 その時には、やはり同じく1830年、11月27日、マリア様は同じパリで、カタリナ・ラブレに現れて、「メダイを作りなさい。そしてこの姿を使ってメダイを作りなさい。『原罪無く孕り給いし聖マリアよ、御身により頼み奉る我らのために祈り給え』この射祷を唱えなさい。」と言って、そのメダイを私たちに下さいました。

 人類がもう、天主を拒否して、マリア様を拒否して、「もう天主の方に行かない。もう行かない。」となったら、今度はマリア様の方から私たちの方にやって来て、「さあ、私はあなたたちと共にいますよ。グァダルーペでは1枚の絵ですけれども、今度は、私の姿を、あなたがた1人が身に付けなさい。危険な時には、そのメダイに手を当てて、私が居る、という事を確認しなさい。私にお祈りしなさい。これは、私がいつもあなたと母として居るシンボルですよ。」と、私たちに不思議のメダイを与えて下さいました。そして不思議のメダイによって、多くの奇跡が起こりました。

 皆さんもよく知っている通り、カトリックの敵であったユダヤ人、ラティスボンが回心しました。ラティスボンは有名なラビの子供で、カトリック教会に対して敵対していました。カトリックをもう見るのも話すのも嫌いで、何とかしてカトリック教会を破壊してしまおう、と思っていた、憎しみに満ちていた敵でした、悪魔的な男でした。

 ある日、友達から、「これ、メダイ、つい最近有名な話だ。」という事でくれて、「私、これ信じないから。」「でも信じなくても、持っていたら良い。」という事で、「君が言うから、じゃあ良いよ。持ってる。」このユダヤ人は、カトリックに回心しました。ある時教会に行くと、教会の中のマリア様を見て、その不思議のメダイのマリア様と同じマリア様を見て、「これだ。」そして、回心のお恵みを受けました。そして遂には司祭となって、ユダヤ人の回心の為に修道会を創るほどの、熱烈なマリア様のしもべとなりました。

 そればかりではありません、そのような話はたくさんあります。例えば、ある時牢獄に、極悪人死刑囚の様な人たちが集まって、牢獄があって、その内の一人がどうも、不思議のメダイを付けていたのです。それで、一緒にこの監獄にいる仲間からからかわれ、「何だそれは。何を付けているの、お前カトリックなのか。」と言ったら、その男はおそらくカトリックだったと思うのですけれども、それを見て、「あぁ、バレてしまった。」という事で、これを引きちぎって、床に捨ててしまいました。それで、それを見ていたクロード・ニューマンという男が、その捨てられたのを見て、「あれ?何だろう?あぁ、ここに女の人の姿が写っている、このきれいな女の人だ。」という事で、「あぁ、こんなにきれいな女の人を捨てたら」という事で、自分が貰ってしまいました。

 すると、夢の中でこのきれいな女の人が現れて、そしてそのクロード・ニューマンは、今までの罪を悔い改めて、回心する恵みを受けました。そして、今までカトリックの事もよく知らずに、マリア様の事も聞いた事がなくて、神父様に、その監獄の、刑務所の所属の神父様の所に行ってその話をすると、「それは、不思議なメダイというんだ。そのお前が見たのは、マリア様だ。マリア様は、カタリナ・ラブレに現れた。」という話をして、そして「あぁ、マリア様の話を聞かせて下さい!」そしてこのクロード・ニューマンは、マリア様の事を知って、そしてイエズス・キリストの事を初めて知る様になりました。

 この男はもう死刑囚だったので、その死刑の日が決まっていました。そこで、司祭から言われた通りに、死刑のその日まで数日あったので、それをその日を、罪の償いとしてマリア様にお祈りして、マリア様にお祈りして、お祈りして、この準備していました。さあ、その死刑のその当日になると、通知が来て、大臣から、法務大臣からの恩謝が出て、「死刑が延長になった。だからあと2週間、まだ死刑があと2週間後に延ばされた。」という事を知らされました。

 するとクロ―ドは、非常にがっかりして、「せっかくマリア様の元に行けて、マリア様に会えると思っていたのに、こんなにきれいな人は、あんな夢で見たこのきれいな人に会いたかったのに!」という事で、非常にがっかりして神父様に言うと、「がっかりだ、がっかりだ、」と言うと、「もうマリア様の所に行きたい、御許に行きたい、」と言うのですが、神父様が、「いや、そう思わずに、これもマリア様の御旨だから、この更に2週間を、罪の償いと、祈りと犠牲の為に捧げなさい。特に罪人の回心の為に、お前と同じような死刑囚の回心の為に、祈りなさい。」と言うと、「はい。」と言って、そして彼は聖人の様な生活と、償いの生活をして、そして死刑されていきました。

 実はその同じ刑務所に、非常に罪に凝り固まった、頑固で回心しない極悪人が1人いました。彼はその死刑のその時に、色々回心するように、と司祭から言われても全く無視して、唾を吐くわ、汚い言葉を吐くわで、全く回心のしるしを見せませんでした。死刑のその前日、この男は夢を見ました。すると夢の中で、この自分が行かなければならない、この死刑を受けた後に行かなければならない地獄を見ました。燃え盛って、轟々と燃え盛る恐ろしい恐ろしい場所で、そこで自分が永遠に苦しまなければならない、という事をよく分かる事ができました。そして、「えぇ!?こんな事が待っているのか!」という事に恐れおののいて空を見ると、そこにマリア様の姿があったそうです。そしてマリア様の右にクロード・ニューマンがいて、「何とかや、今お前が地獄の火を見る事ができたのは、ここにいる彼が、お前の為にお祈りをしてくれたからだ。この彼のお祈りのおかげで、今そのお恵みが、お祈りのおかげでお恵みがある。さあ、回心しなさい。」そして彼は回心して、死刑を受けたそうです。

 マリア様は、私たちにイエズス様を与える為に、イエズス様のお恵みを与える為に、自分の元に引き寄せるのではなく、イエズス様へと引き寄せる為に、私たちの母となろうとしておられます。マリア様は何故そうするかとういうと、イエズス様から命令されたからです。十字架の下で。今日聖福音で読みました、「見よ、汝の母ここにあり。」そしてマリア様に向かって、「見よ、汝の子ここにあり。」と。

 マリア様は、イエズス様から、これからは私たち人類を、私たちを、自分の、自分を愛したと同じ様に愛して欲しい。子供として愛して欲しい、という願いを、御子イエズス様から受けたのです。もちろんマリア様は、「はい。」と答えました。それはもう、最初のフィアットの中に含まれていた契約で、約束で、もう全て、「はい。」です。

 考えてもみて下さい。私たちに愛する、皆さんがお母さんとなって、お母さんとなって子供が、一人っ子の男の子がいて、玉のようにきれいで、頭が良くて、スポーツができて、勉強ができて、皆から愛されて、そして30年間お母さんに、「はい、お母様。」「はい、お母様。」「はい。」「はい。」素直に従順に、こうすくすく成長して、そして仕事をやって、そしていつもお母さんの心の楽しみであり、本当にもう悪い事1つした事のない、良い、誠実な、立派な子供で、その子供が、全く罪無く、全く不正に、嘘と、讒言と、不正義によって、死刑にされて、そしてその自分の愛する子供を殺したその極悪人がここにいて、悪い事、罵る事をさんざんやって、叩き、傷めつける事をやった、そのこの人たちがいて、そのような、そのような人たちを、この自分の子供は愛するのだけれども、その愛のお返しに悪さをして、意地悪をして、そして遂には殺害までしてしまう。

 そしてその、この今死なんとする子供が、「お母さん、この僕を今殺そうとしている、このような極悪人の、このような人たちをも、私を愛するように、僕を愛するように、愛してあげて下さい。これからはあなたの子供です、お母さんの子供です。」と、言うのを見て、「どうして、この、このような子供を愛する事ができるだろうか。」と思ってしまうかもしれません。しかしマリア様は、「はい。」イエズス様のその言葉の通り、「さあ、分かりました。」と、このイエズス様を死に至らした、罪によって至らした私たちを、マリア様は極みなく愛し、愛し、愛し、そして私たちの為に全ての善を尽くして、自分がどんなに犠牲になっても、私たちの善を、私たちの為にしようとされています。

 ですからこそ、マリア様は天から地上に来られてまで、何とかして私たちを救おうと、私たちにイエズス様を与えよう、とされています。

 ですから、特に現代、イエズス様を否定し、イエズス様を亡き者にし、イエズス様を、イエズス様を「いらない。」と言うようなこの現代において、私たちがイエズス様を受ける為に、ますますマリア様が必要です。マリア様は、そうする事によって私たちを助けようとしています。

 では一体何故このような、このようにますますイエズス様を否定するような世界がはびこっているのでしょうか?何故かというと、天主御父は、この「時」の終わりに、この夕べに、マリア様の御力がどれほどであるかという事を、全世界に、「アッ」という仕方で示す為に、そのコントラストをもたらす為に、暗闇が暗ければ暗いほど、明るさがますます眩しく輝く様に、今その暗闇を、少しの間許しておられます。それは、マリア様の御力によって、イエズス・キリストが燦然と輝く為です。マリア様の御力が輝く為です。第2のエヴァが輝く為です。知られる様になる為です。

 ですから、愛する兄弟の皆さん、この待降節には良い、良き遷善の決心をとって、マリア様の元に馳せる事に致しましょう。この待降節中は、いつもマリア様の事を思い出して下さい。マリア様と共に、全ての事をなさって下さい。「マリア様、これを御身の手を通してお捧げします。」「マリア様、このイエズス様が私たちの元に来るように助けて下さい。」「マリア様、私たちのみならず、イエズス様を知らない人、マリア様を知らない人に、御身が知られますように、イエズス様が知られる様に、お恵みをお祈り下さい。」と、たくさんお祈りして下さい。このクリスマスは、私たちだけにイエズス様は来るのではなく、日本の方のより多くの人に、イエズス様が生まれなければなりません。その御恵みを、マリア様を通して、お祈り下さい。

 第2に、是非、マリア様にお祈りをしつつ、この私たちの友達や知っている人に、少しでも、マリア様やイエズス様のお話をなさって下さい。マリア様は、私たちを道具として知られようとしておられます。どうぞ、マリア様が愛され知られる様に、私たちの周りの人も助けてあげて下さい。

 では、マリア様に、良き待降節を過ごす事ができるようにお祈りしつつ、このミサを捧げていきましょう。

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 
【クロ―ド・ニューマンについては、次のサイトをご覧ください。】
http://www.mysticsofthechurch.com/2011/12/miraculous-story-of-claude-newman-his.html

天主に感謝!


すべての預言者よりも偉大な先駆者、洗者聖ヨハネを準備された女性、マリア様について

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

 愛する兄弟姉妹の皆様、

 2015年12月6日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

 天主様の祝福が豊かにありますように!
 トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2015年12月6日 待降節第2主日
小野田神父 説教

 聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。今日は2015年12月6日、待降節第2主日のミサを捧げています。

 今日のこの御ミサの前にニュースがあります。このミサの前に1人、ヨゼフさんとマリアさんの最初の赤ちゃんが、天主様の娘となる洗礼の御恵みを受けました。どうぞ、赤ちゃんマリアちゃんが、天国に行く道を、清く、真っ直ぐに歩む事ができますように、聖なる姉妹となりますように、マリア様にも、娘として生き抜く事ができますように、皆さんのお祈りをお願いします。

 また私たちの中には、洗礼の志願者の方が2人、今準備をしているので、どうぞその方々の為にもお祈り下さい。そして私たちの信徒の方々の中に、たくさんの子宝の恵みが与えられますように、お祈り下さい。
14時半から公教要理の勉強があります。16時からは、主日の第2晩課があります。明日は、朝7時からこの御ミサがあります。
 次のミサは、12月27日の主日、それから1月は、1月3日と17日です。


 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 愛する兄弟の皆さん、今日イエズス様の元に、洗者聖ヨハネから2人の使者が送られて、公式に、「イエズス様、あなたは一体誰ですか?」という話を、質問をされました。それは、聖ヨハネが殉教する直前の事でした。こうやって公式に弟子たちを、2人の証人を送って、「イエズス様が誰であるかはっきり宣言して、そして私の弟子たちを全てイエズス様に与えよう。さあ、救い主はこの方だ。」との意図の元に、弟子たちを送りました。もちろん洗者聖ヨハネは、イエズス・キリスト様がどなたかをよく知っていました。イエズス・キリストこそ、天主の子羊、私たちを救うべき世の贖い主です。

 私たちの主は、そのような質問を受けて、非常に御謙遜に、「俺がそうだ。」とは言わずに、「周りをよく見てほしい。」と答えます。
「一体何が起こっているだろうか。聖書の予言が全て成就しているではないか。さあ、結論はお前たちが取れば良い。」と、非常にご謙遜に、答えながらも、御自分がまさに約束されたメシアである、救い主である、キリストである、という事をはっきりと言われました。「そのこれらの奇跡を見てほしい。予言された通りではないか、キリストに関する御言葉が全て成就している。」

 そこで弟子たちは、ヨハネの元に帰って、それを報告するのです。イエズス様は、やはりヨハネについても、「この男こそ、聖書に書かれたその男である。預言者以上の預言者であって、女の腹より生まれた者でこれ以上の者はない。」という、ヨハネでも、「洗者ヨハネも、予言を成就した者である。」という事を宣言されます。

 そこで今日、待降節、イエズス様の御降誕を準備する為に、この「聖書の言葉の、聖書の予言の成就」という事と、そして「洗者聖ヨハネ」というこの2つのキーワードを黙想しつつ、この2つに共通するものは何かを探って、そして良き待降節を過ごす為の、送る為の決心を立てる事に致しましょう。

 聖ヨハネは、予言された、「主の道を整えるべき為に送られた者。再び来ると言われたエリアである。」と、言われています。ではこの洗者聖ヨハネは、どうやって準備されたのでしょうか?

 洗者聖ヨハネは、マリア様によって準備されました。まだ聖エリザベトの胎内に居た時に、その6ヶ月後、懐妊して6ヶ月後、マリア様の訪問を受けるのです。マリア様は、大天使聖ガブリエルから、「エリザベトが子供を身ごもった。」という事を知らされて、すぐに駆けつけたからです。そしてマリア様の挨拶を以って、そのマリア様の言葉を以って、ご胎内に居たイエズス様が、奇跡を起こしました。その奇跡の為に、洗者聖ヨハネの原罪は赦されました。

 そしてそれ以後、罪というものは全く知らずに、厳しい生活をして、そして荒れ野に行って、祈りと苦行の生活をして、多くの人々を、「罪の回心の為に、罪の悔悛の為に、罪の償いの為に、痛悔するように」と招きかけて、悔い改めの洗礼を施していました。「私たちは罪を犯した、救世主が必要だ。だから、私たちは罪を悔い改めて、その為に祈りを捧げなければならない。」と呼びかけていました。その罪の償いの為に、どれほど厳しい生活をしなければならないか、という事を、身を以って実践していたのでした。断食と祈りの生活です。これは全て、マリア様によって準備された、マリア様によって準備されたからこそ、すべての預言者よりも偉大な先駆者となりました。

 実は聖書には今日、聖パウロが言うには、書簡の中に言うには、「全ての事は、聖書に書かれている全ての事は、私たちの教えの為に書かれている。」と、あります。この洗者聖ヨハネを準備するべきこの女性については、アダムとエヴァが罪を犯したその最初の瞬間、「救い主を送る」と言った、その最初の瞬間から予言されていました。「私は、お前(蛇)と女の間に敵対を置く。この女性は、このお前の末と、女の末とに敵対を置く。この彼女は、お前の頭をかかとで踏み砕くだろう。お前に徹底的な勝利を収めるだろう。お前はこの彼女に何もする事ができない。攻撃するだろうが、お前は踏み砕かれる。」

 そこで聖書の中には、この洗者聖ヨハネを準備した女性、第2のエヴァ、マリア様について、色々な予言があります。そこで今日是非、この洗者聖ヨハネを準備したマリア様について、少し見る事にします。

 今回、特に待降節ですから、私たちがどうやって、マリア様に近付く者とマリア様に近付かない者との区別があるか、という事を見てみたいと思います。一体そんな話が聖書にあるのでしょうか?

 実は、教父たちによると、聖書の中には、「マリア様に近付く者、マリア様に愛を持つ者と、マリア様に愛を持たない者との2人がいて、そしてそれが前兆として、将来来たるべき者たちの影として現れている。」と言うのです。

 それは何の話かというと、イザアクの子供たちの話です。イザアクには子供たちが2人いて、1人はお兄さん、長男で、エザウと言います。その次はヤコブで、以前から、エザウは長男ですから、イザアクからとても愛されていました。何故ならば、予言によれば、救い主は、このイザアクの子孫から来なければならないからです。そしてエザウがその長子権を持っているので、その「この子から、救い主が生まれるべきだ。」と、いつもイザアクは目をかけていました。イザアクはもちろん、有名なアブラハムの子で、この救い主の約束を受けた者です。

 すると、ある日エザウは、とても頭が良く、腕力もあって、そしてスポーツ神経が抜群で、とても賢く、何でもこう狩りをすれば、走るのは得意だし、運動能力は長けているし、狩りをすればどのような動物でも仕留める事ができて、非常に有能な男でした。ところがある日、狩りをしていて、「お腹が空いた。」と言って、この弟の元に来るのですけれども、弟は、その時に大豆の豆のスープを食べているのですが、「スープが欲しい。」と言うと、ケチな事に、「嫌だ。」と言うのです。「お前の長子権をくれたら、これを売ってあげる。」と言うので、「こんな腹が減っているのに、長子権が何だ。さあ、スープをくれ。」と言って、売り飛ばしてしまうのです、スープ1杯に。

 エザウは、確かに能力があったのですけれども、非常に感覚的で、この世の事だけを、この世の快楽だけを追っていて、超自然的な長子権や、メシアの事などは、あまり関心のない男でした。

 そこで、ある時イザアクは、「もうこれで年も取って、もう弱って来た。さあ、私の残る全ての祝福を、愛する子供に与えて、そして救い主の来たるべき準備をしよう。」と言って、エザウに呼びかけて、「エザウや、お前は我が愛する長男だ。だから今から狩りに行って、私の好きな料理を、何か食べる物を作って欲しい。」と言うと、「今そうしたら、それを食べたら、私はお前に祝福を与えるから。最高の祝福を与えよう。」と言うと、エザウは、「そうですかお父さん。では、私が腕によりをかけて、狩りに行って、一番おいしい動物を仕留めて、そしてお父さんに素晴らしいごちそうを作ってあげましょう。さあ、待っていて下さい。私は早い足と、私の強い腕で、一番良い動物を仕留めて来ますから。」という話をしていました。

 それを、レベッカ、お母さんは聞いていると、レベッカは弟のヤコブの事が好きでした。何故かというと、ヤコブはいつも家に居て、お母さんの真似をしていて、お母さんの言う事をよく聞いて、お母さんを非常に愛して、お母さんの為にいつもお世話をしていたからです。もしかしたらヤコブは、外に向かって働くほどの体力がなかったのかもしれません。でも、お母さんのお手伝いだけはよくしていました。お母さんも、そのようなヤコブの事を非常に目をかけていて、「さあ、ヤコブや、お父さんが祝福を与えてくれる、と言うから、さあヤギを、小さなヤギを2頭群れから取って来て、私に持って来なさい。私はお父さんの一番好きな料理を作って、お父さんに食べさせてあげるから。」と言うと、ヤコブはその時に、疑問も持たずに、「あぁ、そうですかお母さん。じゃあ、ヤギを2頭取って来ます。」

 小さなヤギを2匹取って来て、そしてお母さんは料理して、そしてそれをお父さん、イザアクに与えると、お父さんは非常においしいおいしいと言って、涙を流しながら、「こんな美味しいものは、これはない。」と言って、食べるのです。その間に、お母さんのレベッカはヤコブに、エザウの服を着せて、そしてこの取って来たヤギの毛を刈り取って上に付けて、そして首にも巻いて、「お父さん、さあ食べて下さい。」「おぉ、声はヤコブだけれども、この毛がフサフサしているのや、この服の香りは、エザウだ。うんおいしい、料理もおいしい。」と言って、ヤコブが、そのエザウに与えるべきその祝福を全て、天の祝福と地の祝福を全て、受けてしまいます。「ヤコブを呪う者は呪われよ。」とまで言います。

 そしてその後、一生懸命猟をして、自分の力でやってきた、と言って帰って、「こんなすごいのが獲れた。」と言って帰って来て、「あぁ、さあこれから料理をしよう。」と言うと、お父さんがもう満腹でもう食べられない、という事を見て、あぁ、お父さん、どうかしたんですか?」「あっ?エザウや、何を今頃?あっ?さっき来たのはエザウじゃないのか?」「えっ?お父さん、私は今狩りから帰って来たところですよ?」「えっ?さっき来た子に、祝福を全部やってしまった。」「ええ!?私の分はもう何も残ってないのですか?そんな事はない!」と、泣きじゃくって、泣きじゃくって、泣きじゃくると、仕方がないので、この地上での祝福を与えて、「私がやれるのはこれだけだ。」と、少しだけ祝福を受けて、それで終わってしまったのです。

 教父たちによると、「これは、マリア様に信心を持つ者と、持たない者との違いである。」と、言います。

 何故かというと、マリア様、レベッカというのは、マリア様の前兆である。マリア様は、エザウも、子供たちを、エザウもヤコブも子供たちですから、愛しているのです。しかし残念な事に、エザウはマリア様の事を気にかけないのです。マリア様の為には何の奉仕もせずに、してもほんの少し、挨拶位で、口先だけで、そして狩りに行って、外の事に一生懸命なのです。外の事に一生懸命という事は、内的な生活の事は全然おかまいなしで、天主様の事や、救い主の事や、霊魂の事はおかまいなしで、食べたり飲んだり踊ったり遊んだり、おもしろおかしく過ごしたり、という事だけしか関心がない、という事です。そして帰って、マリア様にいつも従順で、マリア様の言う事を聞いているこの選ばれた者に対して、非常に嫉妬と憎しみを抱いています。

 教父たちによると、「レベッカ、マリア様は私たちに、『さあ、天主様の祝福を得る事ができる為に、小さなヤギを2つ取って来なさい。』と言うのです。ヤギは、2頭で、羊ではないのです。ヤギ、これは、私たち自身の事であって、私たちの霊魂と肉体、その2つをマリア様に与えて下さい。という事だ。」と言います。

 すると、マリア様は、私たちがマリア様に与えた霊魂と、ヤギの様な強情な霊魂と強情な体でも、マリア様が非常にうまく料理すると、天主御父の心に非常に適う、おいしい、もう食べて涙が出るほどおいしい、ほっぺたがもう落ちるほどおいしい料理に変わるのです。

 マリア様は、しかも私たちに、このヤギの皮を、毛皮を私たちの腕と首に付けて、そしてエザウの服を着せて、御父の前に行かせるのです。これは何を意味するかというと、「エザウの服」というのは、これは長男なので、教父によればこれは、「イエズス・キリストの聖寵の服だ」と言います。私たちは天主の養子であって、長男ではありません。本来の長男ではありません。しかし、イエズス・キリストの服を、長男の服を着る事を、マリア様によってできる。何故かというとマリア様は、イエズス様の服を、受けた全ての功徳を管理している倉庫であるから。

 マリア様が私たちにイエズス・キリストを着せて下さって、そして私たちのとった、奉献した業を私たちの腕に付けて下さると、天主は、「あぁ、声は罪人だけれども、服と匂いはイエズス・キリストだ。私の御子だ。」として、錯覚して、私たちに祝福を下さる、と言うのです。長子権を持つ者だけが受けるべき祝福を、私たちも受ける事ができるのです。

 そこで、では待降節にどんな決心を立てたら良いでしょうか?私たちがイエズス・キリストを受ける為には、天主様は1つの事を条件にしました。それは天主御父が、「マリア様であるならば、御子を委ねる事ができる。」イエズス・キリストも、天主御子も、「マリア様の元であるならば、自分を委ねて、この世に救い主に来る事ができる。」天主聖霊も、「マリア様のご胎内であれば、救い主を形作る事ができる。」という事です。洗者聖ヨハネも、旧約の教えも、そして天主三位一体も、皆、マリア様を示しています。マリア様に近付けば近付くほど、私たちがイエズス・キリストの祝福を受けて、イエズス・キリストを受ける事ができる、という事です。

 最初の奇跡、洗者聖ヨハネの聖化も、マリア様の御声、挨拶によって起こりました。肉体的な奇跡、カナでの婚宴でも、水がブドウ酒になる時に、「あの人たちにブドウ酒がありません。」と、マリア様が仰ったからこそ、イエズス様は、「婦人よ、それがあなたと私の間に、一体何の関係があるのでしょうか。私の時はまだ来ていません。」と言って、それでもマリア様が、「この方の言う通りになさりなさい。」と言うので、奇跡が起こりました。

 イエズス様は、いつも必ずマリア様を通して私たちの元に来ますし、マリア様を通して奇跡を行いますし、マリア様を通して、私たちに恵みを下さいます。これが聖書の教えです。これが天主様がなさるやり方です。イエズス・キリストがなさったやり方です。洗者聖ヨハネがそうやって教えています。

 そこで今日は、待降節ですから、良きクリスマスになりますように、マリア様に特にこの待降節の間お祈りなさって下さい。マリア様の元にいつも心を上げて、たくさんお祈りをなさって下さい。マリア様と共に犠牲を捧げて下さい。そしてヤコブの様に、マリア様に私たちの心も体もお捧げ下さい。マリア様がそれを、良い料理に、美味しい料理にして、天主に捧げて下さいます。マリア様が私たちにイエズス・キリストを着させて下さいます。そしてそれのみならず、私たちのみならず、私たちの友人や知人方も、イエズス・キリスト様を受ける事ができるように、マリア様にお祈りなさって下さい。多くの方が、イエズス・キリストの御恵みを、このクリスマスに受ける事ができるように、どうぞお祈りをお願いします。

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

「世の罪を取り除く天主の小羊を見よ!」洗者聖ヨハネの使命:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 主の御降誕まであと一週間となりました。
 先週の主日には大阪でレネー神父様が聖伝のミサを捧げてくださいました。レネー神父様を日本に送ってくださる天主様に感謝します。

 まことの天主にしてまことの人、天主の御子、天主の小羊、司祭にしていけにえである私たちの主イエズス・キリストの神性への聖ヨハネの信仰を願い求めることにいたしましょう!

 そして、イエズス様のご誕生前の最後の数週間に聖母は何を考えておられたかを黙想することにいたしましょう。ご胎内に宿しておられた御子に対して、聖母はどれほどの信仰、どれほどの愛を持っておられたかを! どれほど御子をご覧になりたいと思われたかを! 御子を喜ばせ、すべてにおいて御子に忠実に仕えることに、どれほど注意を払っておられたのかを! イエズス様がふさわしく迎えられるために、すべてのことを準備するのにどれほどの熱意を持っておられたかを!

 私たちの霊魂が幼きイエズス様を見る準備を、「民が服従するお方」(創世49章10節)を見る準備を、インマヌエル、私たちと共におられる天主を見る準備をいたしましょう。
 洗者聖ヨハネにの言葉に耳を傾けて、悔い改めの時である待降節を良くお過ごしください。
 
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【お説教】
2015年12月13日待降節第三主日の説教―大阪 洗者聖ヨハネについて



親愛なる兄弟の皆さん、

 私たちの主イエズス・キリストは私たちに対して、「洗者ヨハネよりも偉大な預言者はいない」(ルカ7章28節)、さらにもう一度、洗者ヨハネは「預言者よりもすぐれた人」(マテオ11章9節)と言われました。洗者ヨハネとは何者なのでしょうか? 私たちの主イエズス・キリストは彼についてこう言われます。「『私は使いを先に送る、あなたの道を整えさせるために』と[預言者マラキアによって]書かれているのはその人のことである」(マテオ11章10節)。しかし、聖ヨハネは非常に謙遜な方ですから、自分のことをこう言いました。「私はキリストではない…私はエリアではない…私は預言者ではない」(ヨハネ1章20-21節)。「預言者イザヤの言っている『主の道を正しくせよと荒れ野に叫ぶ者の声』とは私のことである」(ヨハネ1章23節)。聖ヨハネの使命は、民がキリストを受け入れるよう、直接準備をすることでした。ですから彼は、主を指し示し、主に洗礼を授けるという特別な恩寵を持っていたのです。

 救い主の来臨は、四千年以上前、天主が蛇に「私は、おまえと女との間に、おまえのすえと女のすえとの間に、敵意を置く。女のすえは、おまえの頭を踏み砕き、おまえのすえは、女のすえのかかとを狙うであろう」(創世3章15節)と言われたときすでに、告知されていました。蛇の頭は、女とその子孫によって砕かれることになるのです。それ以来、天主は何度も預言者を送られました。それは、人類が罪の中に沈まぬようにするためというよりも、むしろ来るべき救い主への信仰を新たにするためでした。これは、救い主が出ることになっていたヘブライ人の準備において特に当てはまり、特別な方法で偉大な聖人たちを準備なさいました。彼らはアブラハム、イサク、ヤコブ、さらに後には天主が律法をお与えになったモーゼでした。モーゼは、人々に自然の道徳の律法を思い出させ、儀式の律法を通してキリストを告知しました。さて、この民は大変反逆的でしたから、天主はさらに多くの預言者を送られ、民に忠実の道を思い出させ、罪を犯し続けるならば罰を与える、と民に警告されました。これらの罪のため、民はバビロニアへ追放されましたが、のちには追放から帰還させてもらいました。追放から帰還したときにいた最後の預言者たち以降は、もう預言者が出ることはなく、民は四百年近く、幾度となく告知されてきた救い主となるお方の出現を待ちながら生きていました。

 そしてその後、聖ヨハネが生まれました。それは奇跡でした。なぜなら、聖ヨハネの母は子どものできない女であり、両親ともかなり高齢だったからです。人々は言いました。「『この幼子はどうなるだろう?』実に主の御手はその子とともにあったからである」(ルカ1章66節)。まだ非常に若いとき、聖ヨハネは砂漠に隠遁し、そこで聖霊によって教えを受けました。彼は悔い改めの生活を生きました。彼は「らくだの毛の衣をまとい、腰に皮帯を締め、いなごと野蜜を食べて」(マテオ3章4節)、すべての時間を祈りに費やしていました。人々は聖ヨハネのことに気付き、こう言いました。荒れ野に天主の人がいる! 人々が聖ヨハネのところへ来たため、聖ヨハネは大変強い調子で説教しました。「悔い改めよ、天の国は近づいた」(マテオ3章2節)。「まむし族の者よ、近く来る天主の怒りを逃れることを、誰があなたたちに教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。心の中で、『われわれの父にアブラハムがいる』と言おうとするな。私は言うが、天主はこれらの石からもアブラハムの子らを創ることができる。おのはもう木の根に置かれた。よい実を結ばぬ木は、切り取られて火に投げ入れられる」(マテオ3章7-10節)。

 この悔い改めよとの呼びかけは、今日最も必要です。私たちはキリストに戻る必要があります。キリストをまったく知らなかった人々は、本当にキリストのところに来る必要があります。なぜなら、キリストなしでは誰も救われないからです。「救いは主以外の者によっては得られません。この世においてわれわれの救われる名はそのほかにはないからです」(使徒行録4章12節)。悔い改めは、私たちの主イエズス・キリストを受けられるようにするために必要な準備です。地上のもの、罪への愛着があって、頭が砂に埋もれてしまっては、誰も光を見ることはできません。悔い改めなければ、あわれみはありません。天主の御あわれみが、私たちを罪の悔い改めへと導きます。洗者聖ヨハネは、主の道を準備し、私たちの道を真っすぐにするため、悔い改めを説教しました。私たちが聖ヨハネの言うことをよく聞いて、本当に罪の悔い改めをすることができますように。

 多くの人々が聖ヨハネから悔い改めの洗礼を受けましたが、ファリザイ人は彼を拒否しました。しかし、聖ヨハネの使命は、ただ悔い改めを説教するよりもずっと高い価値を持つものでした。その主な使命は、キリストがすでにそこにいること、民の中にいること(イエズスはヨハネよりもちょうど六カ月若かったため)を告知し、そのあとで彼らにキリストを指し示すことでした。「人々は主を期待していたので、みな心の中で、ヨハネはキリストではないのかと考えていたけれども、ヨハネはみなに向かって言った、『私は水で洗礼を授けるが、私よりも力のある方が来られる。私はその方の履物のひもを解く値打ちもない者だ。その方は聖霊と火であなたたちに洗礼を授けられる。また、その方は手に箕(み)を持ち、打ち場を清め、麦を倉に納め、殻は消えることのない火で焼くだろう』」(ルカ3章15-17節)。この偉大な聖人が地獄にについて説教することを恐れなかったのを心に留めてください。

 人々は聖ヨハネを自分たちよりもずっと高貴な存在だと思っていましたが、聖ヨハネ自身は、その靴のひもを解く値打ちもないほどキリストを自分より高貴な存在だと証言しました。それでは、私たちの主イエズス・キリストは何者でしょうか? 「ヨハネは自分の方に来られるイエズスを見て、『世の罪を取り除く天主の小羊を見よ。私がかつて〈私のあとに来るお方は、私よりすぐれた方で、私より前に存在しておられた〉と言ったのはこの方のことである。私はその方を知らなかったが、イスラエルに公に現れるようにと私はその方に水で洗礼を授けに来た』と言った。それからヨハネは証しを立てて言った、『霊が鳩のような形で天から下り、その方の上にとどまるのを私は見た。私はそれを知らなかったが、水によって洗礼を授けるようにと私を遣わされた方が、〈あなたは、その人の上に霊が下り、そしてとどまるのを見る。その方こそ聖霊で洗礼を授ける者である〉と仰せられた。私はそれを見、そして、その方こそ天主の御子であると証明した』」(ヨハネ1章29-34節)。

 これは、洗者聖ヨハネの素晴らしい証言です。自身が洗者聖ヨハネの弟子であった使徒聖ヨハネによって、私たちのために記録されたものなのです。使徒聖ヨハネは、福音書に記録した言葉についての直接の証人です。その言葉が大変深遠であり、大変重要であったため、使徒聖ヨハネは決して忘れることができませんでした。イエズスは「天主の小羊」です。イエズスは「天主の御子」です。まことの人間であり、まことの天主であって、「世の罪を取り除く」お方、世の救い主です! これらの言葉の素晴らしさを認めましょう! まことの天主、全能である天と地の創造主は、驚くほど私たちを気にかけてくださる天主、人間を非常に気にかけ、御独り子を送られるほど人間を愛してくださるお方です。「天主は御独り子を与え給うほどこの世を愛された。それは、彼を信じる人々がみな滅びることなく永遠の命を受けるためである」(ヨハネ3章16節)。「み言葉はご自分の家に来られた」(ヨハネ1章11節)。イエズスはまことの天主であり、天と地の創造主(「万物はみ言葉によって創られた。一つとしてみ言葉によらずに創られたものはない」(ヨハネ1章3節))であり、無限の善そのものでいらっしゃいます! 私たちにはキリストの神性に対するこの信仰が必要です。イエズスは「天主からの天主、光からの光、まことの天主からのまことの天主」(信経)であり、「真理であり命」(ヨハネ14章6節)であり、旧約で言われたように、彼は「永遠の光明の反映であり、天主の行いの、曇りなき鏡であり、天主の崇高さのかたどりである」(知恵7章26節)のです。聖パウロは同じことを言っています。イエズスは「天主の栄光の輝き、天主の本性の型である子は、その勢力あるみ言葉によって宇宙を保」(ヘブライ1章3節)つのです。

 さて、天主の御子が地上に来られたのなら、これは全人類にとって最も重要です! 誰も彼を無視したり、嫌ったりすることは許されません。それどころか、私たちはみな、彼から学び、信仰によって私たちの頭に、愛によって私たちの心に、善き業によって私たちの両手に彼を受け入れるべきです。イエズスは私たちにとってすべてでなければならず、イエズスは私たちの命の理由そのものであり、私たちの命の究極の目的は、天国で顔と顔を合わせて彼を見ることなのです。

 では、天主の御子は、何をするために地上に来られたのでしょうか? 「世の罪を取り除くために」、「民を罪から救うために」と、天使は聖ヨゼフに言いました。御子は救い主です。彼は私たち人間のあらゆる病気、そのうち最も重い病気である罪に対する薬です。彼は私たちの抱えるあらゆる問題の解決法です。彼は私たちの霊魂を癒やす天主の医者です。みな彼のところへ行き、心を開きましょう。そして、自分の罪を非難し、罪を告白し、御あわれみを頂き、私たちの霊魂が罪から癒やされる恩寵を頂きましょう。自己中心と憎しみがあるところに、彼は愛を置かれます。恨みのあるところに、彼は赦しを置かれます。傲慢のあるところに、彼は謙遜を置かれます。欲望があるところに、彼は純潔を置かれます。怒りと暴力があるところに、彼は柔和を置かれます。強欲と盗みがあるところに、彼は施しを置かれます。泥酔のあるところに、彼は平静を置かれます。闇のあるところに、彼はその光をもたらされます。失望のあるところに、彼は希望を置かれます。死のあるところに、彼は永遠の命をもたらされます!

 では、天主の御子は、どのようにしてそのすべてを実現なさったのでしょうか? 十字架の祭壇の上でご自身を、天主の小羊として奉献することによってです! 「これは天主の小羊である」とは、私たちの主イエズス・キリストについての何と素晴らしい定義でしょうか! 主は実際まことの天主であり、天主の御子ですが、「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われ」(フィリッピ2章8節)るために、地上に降りて来られました。主はこのようにして天主の小羊となられましたが、毎年過ぎ越しの祭で奉献されるすべての過ぎ越しの小羊がそれを象徴し、告知するだけでなく、旧約の神殿で奉献される毎日のいけにえがそれを象徴し、告知していたのです。しかし、主の十字架の完全ないけにえの奉献によって、主はこれら象徴的なものをすべて終了させ、今や新しい永遠の契約において、ミサの祭壇上の小羊のいけにえの完全な奉献に置き換えられました。

 「天主の小羊!」。さて、これは最も驚くべきことです。天主の御子は私たちに代わって、私たち罪びとに代わって、十字架上で私たちの罪を償われるのです。無垢そのものであるお方が、私たちを罪から救うために罪のある私たちのために償われるのです! これは、天主がどれほど私たちを愛しておられるかということです。これは、天主がどれほど罪を憎んでおられるかということです。ですから、ためらってはなりません。私たちは、罪と完全に決別しなければなりません。私たちは、永遠に天主に忠実でなければなりません。私たちは、天主の恩寵によって、私たちの主イエズス・キリスト、天主の御子、天主の小羊の恩寵によって、そうすることができるのです。

 洗者聖ヨハネのメッセージは、どれほど全世界にとって最も重要であるかを見てください! しかし、彼はさらに言います。ここには、彼が弟子たちに与えた美しくて深い確信があります。それはまさに、洗者聖ヨハネの本当の心を明らかにします。洗者ヨハネの弟子たちは「ヨハネのもとに来て、『先生、ヨルダン川の向こうで、あなたと一緒にいたあの人、あなたが証明したあの人が洗礼を授けて、人々はみなその方へ行きます』と言った。ヨハネは、『天から与えられぬ限り、人は何物もわがもの顔にはできぬ。私が〈私はキリストではない〉、〈ただ主に先立って送られた者だ〉と言ったことは、あなたたちにも証明できるだろう。花嫁を持つのは花婿で、花婿の友人はそこに立ち、花婿の声を聞いて大いに喜ぶ。これこそ私の満ちあふれる喜びである。彼は栄え、私は引き退(さが)らねばならぬ』と言った。上から来た人はすべてのものの上にあり、地から出た人は地上の者で地上のことを話す。天から来る方はみなの上にある。その方はご自分で見聞きしたことを証明されるが、誰一人その証明を受け入れぬ。だが、その証明を受け入れる人は、天主が真実であることを証明する。天主から遣わされた方は、天主から限りなく霊を与えられていて、天主のみ言葉を語る。御父は御子を愛し、その手に万物を委ねられた。御子を信じる者には永遠の命があり、信じようとしない者は命を知らず、その人の上には天主の怒りがとどまる」(ヨハネ3章26-36節)。

 聖ヨハネのこれらの弟子たちは、聖ヨハネと一緒にいることによって彼に忠実を尽くそうと思っていました。しかし、聖ヨハネは彼らに、彼らがいかに間違っているかを説明しました。弟子たちがみなイエズスの方へ行ってそのお話を聞くならば、聖ヨハネはもっと幸せになるのです。実際、「花嫁を持つのは花婿」なのですから。花嫁は教会、信者の会衆です。花婿はキリスト、救い主です。聖ヨハネはどうかと言えば、彼は「花婿の友人」、イエズスの友人であり、彼は喜びます。なぜなら、救い主が来て、その救いの使命を開始したからです。聖ヨハネの喜びは満たされます。聖ヨハネの謙遜は次の言葉にあります。「彼[イエズス]は栄え、私は引き退(さが)らねばならぬ」。彼らの死自体が、そのことを実現しました。イエズスは十字架上に上げられ、栄え、洗者聖ヨハネは斬首され、引き退(さが)ったのです。そして聖ヨハネは続けて、私たちの主イエズス・キリストと彼の神性について証言しました。「御父は御子を愛し、その手に万物を委ねられた」。御父は御子にすべてを、ご自分の神性をお与えになったのです! そして聖ヨハネは、私たちのために結論を引き出します。私たちは御子を信じなければなりません。「御子を信じる者には永遠の命があり、信じようとしない者は命を知らず、その人の上には天主の怒りがとどまる」(ヨハネ3章36節)。親愛なる兄弟の皆さん、洗者聖ヨハネから、私たちの主イエズス・キリストの神性についてのその偉大な信仰を、私たちの主イエズス・キリストに対するその偉大な愛をいただけるよう願い求めましょう。そうすることで、私たちが完全に主のために生き、聖ヨハネのように主のために自分の命を捧げることができますように。また、イエズスを知らせようとするその熱心さを願い求めましょう。皆さん一人一人がクリスマスにもう一人の人を連れてきてくださるならば、素晴らしいことです。幼きイエズスへの大変すてきな贈り物となるでしょう。

 ミサに出席するときはいつでも、私たちは聖ヨハネの言葉を聞きます。聖体拝領の前に、司祭がその言葉を言います。「天主の小羊を見よ! 世の罪を取り除き給う御者を見よ!」。この偉大な預言者、全預言者の中で最も偉大な方を忘れないようにしましょう。そして、まことの天主にしてまことの人、天主の御子、天主の小羊、司祭にしていけにえである私たちの主イエズス・キリストの神性への聖ヨハネの信仰を願い求めましょう! これは、あの同じイエズス、ガリレアの道を歩まれ、聖ヨハネがヨルダン川で洗礼を授け、十字架上で亡くなられ、再びよみがえり、パンとぶどう酒の外観のもとに、ご聖体にまことにましますあの同じイエズスでいらっしゃるのです。これは、あの同じイエズス、彼に願い求めるすべての人に対して多くの恵みをお与えになるあの同じイエズスでいらっしゃるのです。主はご自分の体で私たちを養ってくださるので、私たちは主によって生きるのです。「私たちに対する天主の愛はここに現れた。すなわち、天主はその御独り子を世に遣わされた。それは私たちを御子によって生かすためである」(ヨハネ第一4章9節)。主が私たちのうちに生きてくださるようにです。「私は生きているが、もう私ではなく、キリストが私のうちに生き給うのである」(ガラツィア2章20節)。主は、私たちの霊魂の花婿として来られます。私たちが、「教会がキリストに従うように花婿に従う」(エフェゾ5章24節)良き花嫁として、まったく主のために、主に従って生きることができますように。

 洗者聖ヨハネは、童貞聖マリアがご訪問で、その母にあいさつなさったとき、母の胎内で聖化されました。聖ヨハネが非常に多くの恩寵を受けたのは、マリア様を通してなのです。私たちがクリスマスの準備をするのも、マリア様を通してなされるべきです。聖母は救い主のご誕生の準備をどのようにしてなさったのでしょうか? イエズスのご誕生前の最後の数週間に聖母は何を考えておいででしたのでしょうか? ご胎内に宿しておられた御子に対して、聖母はどれほどの信仰、どれほどの愛を持っておられたでしょう! どれほど御子をご覧になりたいと思われたでしょう! 御子を喜ばせ、すべてにおいて御子に忠実に仕えることに、どれほど注意を払っておられたでしょう! イエズスがふさわしく迎えられるために、すべてのことを準備するのにどれほどの熱意を持っておられたでしょう! 買い物にすべての注意を向けて、この世的な方法でクリスマスを迎えるのではなく、私たちの霊魂が幼きイエズスを見る準備を、「民が服従するお方」(創世49章10節)を見る準備を、インマヌエル、私たちと共におられる天主を見る準備をしましょう。この待降節は悔い改めの時であり、特に第三週は四季の斎日がありますから、聖ヨハネが説いたように私たちは悔い改めをもって準備をすることができますように。

 洗者聖ヨハネと童貞聖マリアの模範に従って、私たちがすべてにわたって私たちの主イエズス・キリストのために生き、主を受けるのにふさわしい準備を、特にいとも聖なる秘跡であるご聖体を受けるのにふさわしい準備をすることができますように! アーメン。
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