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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:聖母の黙想と活動との御生活

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二十五日 聖母の黙想と活動との御生活

   マリアはこの総(すべ)ての事を心に納(おさ)め居たりき。  (ルカ 二 。五一 )

 これは聖マリアの信心に就いて云われた言葉である。
総(すべ)て完(かん)徳(とく)の方には黙想の生活と活動の生活、この二方面が必ず備(そな)わっているものである。我等の主イエズス・キリストは云うまでもなく、その御母、聖マリアの御生涯にも矢張りこの二つの事が明らかに見られる。
先ずキリストに就いて申し上げれば、その三十歳の御年齢までは黙想の御生活であり、後の三年間は活動の御生活で、遂に十字架の道を歩(あゆ)まれ、御父天主に命ぜられ給うた事を悉(ことごと)く成し遂(と)げられた。またこれを聖母の御生涯に見れば、御年齢三歳にしてエルザレムの神殿に捧げられ給うてから、十数年間は黙想の御生活ばかり続いたが、一度天主の御母とならせ給うて後は、活動の御生活もそれに加わって来たのであった。
実に御子イエズスを除(のぞ)いたならば、聖母ほどその御生活の中に、この黙想(もくそう)と活動という完徳への二(に)要素(ようそ)を、よく心得(こころえ)、完全に行い、麗(うるわ)しく調和させ給うた御方は、他に見出されぬであろう。それ故(ゆえ)に聖書にも「聖マリアは此の総ての事を心に納め居たりき」と記(しる)されているのである。
 御子イエズスと別れ給うた後の聖母は、再び黙想と祈祷(いのり)の生活に帰られた。日々その思い廻(めぐ)らし給う所は、悉(ことごと)く天国の事、天主の事、イエズスの事であった。いわば御肉身のみ此の世に預(あず)けて、霊魂では早、天国の生活を営(いとな)まれたようなものである。聖パウロが云った「我等の国籍は天に在(あ)り」との言葉は、聖マリアに於いて完全に実現されたと云ってもよいであろう。
 我等も完(かん)徳(とく)や、天国の永(えい)?(ふく)を請(こ)い願うならば、聖母に倣(なら)ってかような黙想の生活と活動の生活とを併(あわ)せ営(いとな)まねばならぬ。黙想は浮世(うきよ)の善悪交々(こもごも)入(い)り交(ま)じれる迷路(めいろ)の中から、天国に至る一筋(ひとすじ)の狭(せま)き道を見出す眼であり、活動はその嶮(けわ)しき道を辿(たど)り行く足である。そしてこの二つを果たす原動力となるものは、篤(あつ)い信仰と、天主及び他人に対する燃(も)える愛の外(ほか)にない。
 聖アウグスチノが「愛せよ,唯(ただ)、愛せよ。さらば他のものは総(すべ)てこれに従わん」と云ったのは道理である。
 我等大多数の者にとっては修道生活は不可能である。然し修道生活も詮(せん)ずる所、黙想と活動、この二つを最も有効に行う為の生活に他ならぬ。
 我等は勿論(もちろん)世間や家庭、職業などから離れる必要はないが、稍(やや)もすれば不足になり勝ちな黙想を怠(おこた)らず、空(むな)しき浮世の事物(じぶつ)に対する執着(しゅうちゃく)や、悪に対する傾向は悉(ことごと)く滅(ほろ)ぼし、各自の心を罪に汚(よご)れぬ聖霊の住み家にするよう勉(つと)めねばならぬ。その為に聖母に従い、その御助けを願って、主イエズス・キリストの御一生を屡々(しばしば)考え愛熱を燃(も)やす必要がある。この点から云えばロザリオの祈祷(いのり)などは最(もっと)も利益になる信心の務(つと)めであろう。黙想と共に、信仰を表(おもて)に現(あらわ)す活動も至って大切である。
「行(おこな)いなき信仰は死したるものなり」と聖ヤコボも云われた。されば我等はよく天主の御恵(おめぐみ)を祈り求め、罪の償(つぐな)いを為(な)し、機会(おり)ある毎(ごと)に善業を行(おこな)い、各自の境遇(きょうぐう)と職業に応じて天主の御光栄(みさかえ)となるように励(はげ)もう。そうすれば必ず天国の永?を報(むく)いられる事は疑(うたが)いないのである。

   祈   願

 ああ聖母よ、御身の善(よ)き模範に倣(なら)い、我等が如何(いか)なる境遇(きょうぐう)にありても常に黙想によって天主と語らい、己を潔(きよ)め、天主を愛する為に活動によりて隣人を助け、主の御光栄(みさかえ)を輝かすよう正しき信心の生活を営(いとな)ましめ給わん事を、恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくし)三度繰(く)り返して願い奉る。


(天使祝詞 三度)


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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:至福なる聖マリアの御臨終

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二十六日 至福なる聖マリアの御臨終

   主よ、我(われ)御身(おんみ)を待ち望(のぞ)めり。     (詩篇 三七。一○)

 思うにこの詩篇(しへん)の一句ほど、最愛の御子に別れ給うて後(あと)の、聖マリアの御心中をよく現している言葉は他(ほか)にあるまい。
 イエズス・キリストの御昇天後、聖母は許されるならば、すぐにも天国の聖子(おんこ)の御許(みもと)に行きたいと、熱く望(のぞ)まれた事であろう。然し天主の思(おぼ)し召しに依(よ)って信者達の亀鑑(かがみ)となり慰(なぐさ)めとなる為に、なお十数年の久しき間、此の世に止(とど)まり給わねばならなかった。
 それはどれほど御母にとってはつらい事であったか知れぬが、それだけに叉、御自分の御死去と再会の日を一日千秋の思いで待(ま)ち侘(わ)び給い、日夜祈り、黙想に従事(じゅうじ)しつつ、殆ど現世(このよ)から天国にある如く、来世(のちのよ)の事のみ考えて過ごし給うたのである。故(ゆえ)にその御臨終(ごりんじゅう)は比(たぐい)もなく麗(うるわ)しいものであった。
 なるほど聖母の御死去も一見した所は、一般の人の死と余り異(こと)なっている所はないように思われる。けれどもその原因は病気でも老衰(ろうすい)でもなく、全く天国に対する憧憬(あこがれ)と、イエズスに対する止(や)みがたい愛慕(あいぼ)とが、火のように燃(も)え熾(さか)って、肉身と霊魂の繋(つな)ぎを断(た)ち切ってしまった為に外(ほか)ならない。
 そして天主との一致を妨(さまた)げる罪の汚れが少しもなかったから、その御臨終には些(いささ)かの憂(うれ)愁(い)も恐怖(おそれ)も苦悩(くるしみ)も見られなかった。苦しみは却(かえ)って此の世にある間、救(きゅう)霊(れい)の犠牲の為に御子と共に充分味わはれた所である。そういう聖母にとって死は寧(むし)ろ救いであり、安息(あんそく)に入る明るい門であった。決して我等に対する如く罪の罰(ばち)でもなく、不安な暗い隧(トン)道(ネル)でもなかったのである。
 我等も、もし人(じん)祖(そ)が罪を犯(おか)さなかったなら、皆かような喜ばしい死に逢(あ)う事が出来たであろう。即ち死はその場合今の如く罪の罰(ばつ)ではなく、唯(ただ)、現世(このよ)から来世(あのよ)へエデンの楽園(らくえん)から天国へ、直ちに移される事に外(ほか)ならなかった筈(はず)である然し実際に於いて罪の穢(けが)れある我等には,勿論(もちろん)聖マリアそのままの申し分なき臨終は望まれぬに相違ない。けれどもその御臨終(ごりんじゅう)から有益(ゆうえき)な教訓を得(え)る事は出来る。聖母は御自分には少しも罪がお有りにならなかったけれど、人々の罪の償(つぐな)いの為に其の御生涯(ごしょうがい)、殊に御子の十字架の下(もと)で、一方(ひとかた)ならず苦しみ給い、叉、最後には天国に対する強い憧憬(あこがれ)の為に、あれほど幸福な御臨終が遂(と)げられたのである。故に我等にも我が罪を痛悔(つうかい)し出来るだけその罪を償(つぐな)う事と、天国への憧憬(あこがれ)を抱(いだ)く事と、この二つのものが善(よ)き終りの因(もと)となるに相違ない。
一生の罪を痛悔(つうかい)してその償(つぐな)いを為(な)す事は,天主と一致(いっち)する為の障害(さまたげ)を悉(ことごと)く取り除き、後顧(こうこ)の憂(うれ)いをなからしめ、天国への強い憧憬(あこがれ)は、我等の心を果敢(はか)ない現世(このよ)のほだしから解(と)き放(はな)し、ひたすら来世(らいせ)の幸福を望(のぞ)ましめる。かようにして人は何の恐怖(おそれ)も心配もなく、明るい希望を抱(いだ)いて天主の御許(みもと)に旅立つ事が出来るのである。
 然し我が罪をよく痛悔(つうかい)し、その償(つぐな)いを果(は)たし、叉、天国に対する強い憧憬(あこがれ)を抱(いだ)く事は、我等の力(ちから)だけでは中々難(むずか)しい。それ故(ゆえ)我等は先ず日頃から善(よ)き臨終の亀鑑(かがみ)なる聖母マリアの御助けを願って、天主の豊(ゆた)かな御聖寵(ごせいちょう)を請(こ)い求め、注意してその導きのままに信心を尽くす事が大切である。
そうして此の世の事物(じぶつ)に捉(とら)われず、目的を常に来世(らいせ)に置くならば、死に臨(のぞ)んで何等(なんら)の悔(く)いなく、明朗(ほがらか)な歓喜(よろこび)に溢(あふ)れる事が出来るであろう。

   祈   願

 ああ聖母よ、御身は只(ただ)、主イエズス・キリストのみ慕いて我等の為に苦しみを忍(しの)び給えり。我等はこの麗(うるわ)しき御鑑(みかがみ)を仰ぎつつも、尚、屡々(しばしば)此の世のはかなきものに心を傾(かたむ)け、却(かえ)って苦しみを厭(いと)う事あるを深く悲(かな)しみ奉る。
 されば何卒(なにとぞ)、御憐(おあわ)れみによりて、我等の霊魂を導き、総(すべ)ての被(ひ)造物(ぞうぶつ)より離れしめ、天国に対する憧(あこが)れの心を抱(いだ)きて常に主と共に生(い)き、遂(つい)に善(よ)き臨終(りんじゅう)をとぐるの恵(めぐみ)を得(え)せしめ給わん事を、恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくし)三度繰(く)り返して願い奉る。


(天使祝詞 三度)



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【質問】 聖ヨゼフへの大天使ガブリエルのお告げについて

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アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
 ご質問をいただきましたので、お答えいたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【質問】
聖マリアの天主に対する信頼 の、聖ヨゼフ様が、イエズス様の天主の聖子にてあられますことを御存知なかった、という事は、考えられないのですが、、、聖ヨゼフ様も、救い主に関する聖書の預言を、熟知なさっておられる、と思いますので、、、

【お返事】
この黙想をよく読むと、次のようにあります。
「聖ヨゼフに救い主の御(おん)やどりを明(あ)かし「汝、其の名をイエズスと名づくべし。そは自(みずか)ら己(おのれ)が民を其の罪より救うべければなり」と告(つ)げしめ給うた此処(ここ)に注意すべきは、聖マリアには大天使ガブリエルを以て、イエズスの神性やその永遠の権威(けんい)までも示されたのに、聖ヨゼフには唯(ただ)その救い主にまします事のみを告(つ)げ、天主の御独子(おんひとりご)なる事は語られなかった点である。」
 ここでは、マリア様とご結婚する前、まだ許嫁であったときに、大天使ガブリエルはマリア様の体内におられる子供が救い主であることをのべ、それ以外の詳しいことは言わなかったと言うことです。
(マリア様の場合には、お告げの時にはっきりと説明がありました。)
 その後、聖ヨゼフ様が、イエズス様の天主の聖子にてあられますことを聖ヨゼフに適したやり方とその時に知るようになったと思いますが、ここでは、大天使ガブリエルのお告げについて考察しています。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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【質問】第二バチカン公会議の言う「信教の自由」とは何ですか?

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アヴェ・マリア!

【質問】
第二バチカン公会議の言う「信教の自由」とは何ですか?

【お返事】
1965年12月7日に公布された第二バチカン公会議の「信教の自由に関する宣言」(2)によると、
「このバチカン教会会議は、人間が信教の自由に対して権利を持つことを宣言する。この自由は、すべての人間が、個人あるいは社会的団体、その他すべての人間的権力の強制を免れ、したがって、宗教問題においても、何人も、自分の確信に反して行動するよう強制されることなく、また私的あるいは公的に、単独にあるいは団体の一員として、正しい範囲内で自分の確信にしたがって行動するのを妨げられないところにある。」

【注:これのラテン語原文は次の通りです。
Haec Vaticana Synodus declarat personam humanam ius habere ad libertatem religiosam. Huiusmodi libertas in eo consistit, quod omnes homines debent immunes esse a coercitione ex parte sive singulorum sive coetuum socialium et cuiusvis potestatis humanae, et ita quidem ut in re religiosa neque aliquis cogatur ad agendum contra suam conscientiam neque impediatur, quominus iuxta suam conscientiam agat privatim et publice, vel solus vel aliis consociatus, intra debitos limites.】

【質問】
「自分の確信に反して行動するよう強制されることがない」ということと、「自分の確信にしたがって行動するのを妨げられない」ということとの違いは何ですか?

【お返事】
「強制を免れる」ということには、あることをするように肯定的に強制させられることから逃れる場合、とあることをすることができないように否定的に妨害される場合とがあり得ます。それがすなわち、
「自分の確信に反して行動するよう強制されない」"ne cogatur ad agendum"(たとえば強制によってある信条を信じるように強制されない、あるいは脅迫などによって宗教礼拝行為をするように強制させられない、など)ということ、また、
「自分の確信にしたがって行動するのを妨げられない」"ne impediatur"(たとえば、国の法律などによって、イスラム寺院を建てることが制限されない、など)ということです。

 カトリック教会は、前者の「強制から免れる」ことについては、常に認めてきました。たとえば教会法 Can 1351. Ad amplexandam fidem catholicam nemo invitus cogatur. があります。
 ただし、後者の否定的な強制から免れることについては(たとえ特別な限定された状況において、国家がそのような状況を黙認する・寛容することを認めたことがあったとしても)、それを「自然権」(natural right)としては認めてきたことがありませんでした。「信教の自由」の自然権は、真の天主を礼拝する人々だけに属する、つまり、真の天主に真の礼拝をするカトリック教会に属すると考えてきました。


【質問】
「自然権」とは何ですか?

【お返事】
「自然権」は「自然法」との関係で生じる権利です。
「自然法」とは、人間の本性とその本性に由来する人間の義務とに基礎をおくもので、真の天主への礼拝の義務などがそれに含まれます。
この「自然法」に基づく義務を行使するために、人間には天主に礼拝を捧げる「自然権」が生じます。つまり、人間は、真の天主に対して真の礼拝を捧げる自然権を持ちます。
 自然権の対象は、常に真であり善です。自然と天主とに合致するものです。


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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:聖マリアの復活

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二十七日 聖マリアの復活

   幸いなる哉(かな)、汝を孕(やど)せし胎(たい)よ。      (ルカ 二。 二七)

 これは救い主イエズス・キリストを孕(やど)し給うた聖マリアの御肉身を讃美(さんび)した言葉である。
使徒達の伝説によれば、聖母はその幸福な御臨終の後、間もなく復活せられて霊肉(れいにく)共に天国に挙げられ給うたと云う。
一体総(すべ)ての人々は世の終わりでなければ復活させられず、例(たと)え善人(ぜんにん)の肉身であっても、それまでは地の埃(ほこり)に委(ゆだ)ねられているのが通例であるが、独(ひと)り聖マリアのみは主イエズス・キリストと同じく、直ちに蘇(よみがえ)り給うて、肉身も霊魂と共に天国の光栄(さかえ)に与(あずか)り、天主を見(み)奉るの永?を受けられたのである。されば聖会に於いては、此の聖(とうと)き玄(げん)義(ぎ)を寿(ことほ)ぐ為に、被(ひ)昇天(しょうてん)の大祝日を設(さ)定(だ)めた。
 然し勿論(もちろん)聖マリアは御子イエズスの如く、御自分の力で蘇(よみがえ)り給うたのでは決してない。
叉、主の如く御復活後(ご)弟子達に現れ給うた事もない。
 被(ひ)昇天(しょうてん)とは即ち天使達が聖マリアの御肉身を天国に挙(あ)げ奉った事を指(さ)すのである。数多(あまた)の聖人方の中には、その遺骸(いがい)が今日に至るまでなお腐敗(ふはい)せず、そのままに残っているものも随分(ずいぶん)見受けられるが、まして聖マリアは原罪を免(まぬか)れ、その生涯に罪の些(いささ)かの影もなく、且つ天主の御独子(おんひとりご)の御母という尊(とうと)い御位(みくらい)に選ばれ給い、地上に於いても「幸いなる哉(かな)、主を孕(やど)せし胎(たい)よ」と讃美(さんび)せられ給うたほどの御方であるから、その御肉身が御死去の後、腐敗せずして、直ちに天に挙(あ)げられ給うた事は当然である。
 叉、聖母は此の世に於いて豊(ゆた)かな功績(いさおし)を積み、御子イエズスに最も肖(あやか)り給うた御方であるから、この点から云っても、死後、天国で御子に最も近い御光栄(みさかえ)を受けられるのは道理であろう。
 それでは何故(なぜ)、聖マリアはこれほど勝(すぐ)れた報(むく)いを受け給うたのであろうか? それは勿論天主の御母たる無類の尊(とうと)き御位(みくらい)の為でもある。然し我等は聖母がなおそれ以上善徳(ぜんとく)に於いて、衆人(しゅうじん)に最も立派な模範(もはん)を示し給うた為である事も忘れてはならぬ。
 故に我等も世の終わりに当たって復活し、我が肉身に大いなる光栄を受けようと望(のぞ)むならば、現世(このよ)に於(お)いて専(もっぱ)ら霊魂と肉身とを聖(せい)ならしめる為に努(つと)める必要がある。即ち五官を慎(つつし)み悪慾を抑(おさ)えて、霊肉を清らかに保(たも)てば保つほど、復活せる肉身の光栄は増すのである。そしてその幸福な復活に最(もっと)も与(あずか)って力(ちから)あるものは、聖体の秘蹟(ひせき)であると云わねばならぬ。
何となれば我等の主イエズス・キリストは「我が肉を食し、我が血を飲む人は永遠の生命を有す。而(しこう)して我、終りの日に之を復活せしむべし」と明らかに宣(のたま)うたからである。
 されば我等は今後充分(じゅうぶん)の覚悟と準備とを以て、一層(いっそう)熱心に聖体を拝領(はいりょう)しよう。そして常に主に仕(つか)え奉(たてまつ)る心を以て事をなし、かりそめにも主を悲(かな)しませ参らす如き思い、望み、言葉、行(おこな)い等を慎(つつし)んだならば、終わりの日には必ずその御力(おんちから)により、聖パウロの言葉の如く、不朽(ふきゅう)の身体(からだ)を以て復活(ふっかつ)せしめられるのである。

   祈   願

 ああ聖母よ、我等は今日新(あら)たに我が目、我が耳、我が口、我が意(こころ)、我が総(すべ)てを御身に献げ奉る。
 願わくは我等を御身の所有に属(ぞく)するものとして常に守り、仇のわなを遠ざけ給え。殊に熱心、快活、敬虔(けいけん)の念を以て屡々(しばしば)御聖体を拝領(はいりょう)し得(う)るよう我等を助け、輝かしき復活を以て御身と共に主を永遠に拝礼(はいれい)し讃美(さんび)し奉るの幸福を得(え)せしめ給わん事を、恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくし)三度繰(く)り返して願い奉る。


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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:聖母の被昇天

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二 十 八 日 聖 母 の 被 昇 天

     門、汝の頭をあげよ。永遠の戸よ、あがれ、
栄光の主(しゅ)入(い)り給わん。             (詩篇二三。七)

これは昔ダビド王の時代に、かの貴(とうと)い聖(せい)櫃(ひつ)をエルザレムに運び、町の最(もっと)も立派(りっぱ)な場所に安置(あんち)した時、司祭達が歓喜(よろこび)に溢(あふ)れて歌った讃美歌(さんびか)である。
 さて我等は聖マリアを屡々(しばしば)旧約時代に於けるエルザレム神殿の聖(せい)櫃(ひつ)になぞらえて、新約(しんやく)時代に於ける聖(せい)櫃(ひつ)と申し上げるが、この新約の聖(せい)櫃(ひつ)が天国に挙(あ)げられて、永遠の住み家に安置(あんち)せられた時も、天の於(お)いてどれほどの歓喜(よろこび)があったろうか。
 先ずセラフイムやケルビムなどの大天使は勇みに勇んで天の元后(げんこう)を迎え奉った事であろう。次に人(じん)祖(そ)アダムとエワは、怨(うら)み重(かさ)なる蛇の頭を踏(ふ)み砕(くだ)き給うた聖マリアを始めて見奉って、心から感謝したに相違ない。また旧約(きゅうやく)時代の予言者、太祖(たいそ)を始め、多くの聖人方は彼等の希望を成就(じょうじゅ)し給うた聖母を仰いで、如何(いか)ばかり讃(ほ)め称(たた)え奉ったであろう。更に聖マリアの御両親なる聖ヨアキムと聖アンナ、浄配(じょうはい)聖ヨゼフ、洗者(せんじゃ)聖ヨハネ、罪なき殉教(じゅんきょう)の幼児(おさなご)達も聖マリアを待ちかねて、どれほど歓(よろこ)び迎えたか知れない。実にそういう栄誉かくかくたる聖マリアの被(ひ)昇天(しょうてん)を考える時、地上の我等も聖会と共に「門よ、頭を挙(あ)げよ、永遠の戸よ、あがれ。栄光の元后(げんこう)聖マリア入り給わん」と叫ばずにはいられぬのである。
 かような歓迎の内に天国に凱旋(がいせん)し給い、光輝(こうき)燦爛(さんらん)たる聖(せい)三位(さんみ)の玉座(ぎょくざ)の前に至り、御父、聖霊や懐かしい聖子(おんこ)に見えて親しく御物語りあり、次いで御自分の為に備えられた玉座に着かせ給うた聖母の御歓喜(おんよろこび)や御光栄(おんさかえ)の程に至っては、我等には到底想像も出来ない。何となればそれは全知(ぜんち)全能(ぜんのう)全善(ぜんぜん)なる三位(さんみ)一体(いったい)の、此の上もない御寵愛(おんいつくしみ)の玄(げん)義(ぎ)であるからである。
 我等は今少しくイエズス・キリストとその御母(おんはは)聖マリアとの御臨終(ごりんじゅう)の有様を比(く)較(ら)べて見よう。主イエズスは云うまでもなく、世の罪を贖(あがな)い総(すべ)ての人々を救う為に、潔白(けっぱく)の御身を最も残酷(ざんこく)極(きわ)まる刑罰(けいばつ)の犠牲(ぎせい)として、御死去になった方である。所が聖マリアはそれに反し、世にも恵まれた平和な臨終を遂げ給うた。けれどもこの麗(うるわ)しき御最期(おさいご)は決して偶然(ぐうぜん)に得られたものではない。
 その御生涯の豊(ゆた)かな御功績(ごこうせき)、殊にカルワリオの十字架の下(もと)で耐え忍び給うた云い尽くし難(がた)い御苦悩(おんくるしみ)の報酬(むくい)として、聖(とうと)き御子(みこ)の御功徳(おんくどく)により与えられた特別の御恵(おんめぐみ)であったのである。
 美しい終わりを遂(と)げた聖人、殉教者(じゅんきょうしゃ)達は外(ほか)にも沢山(たくさん)ある。然し聖マリア以外の人は、いずれも原罪の結果を蒙(こうむ)っているので、罪の罰としての死を免(まぬが)れる訳にはゆかぬ。従(したが)ってその最期(さいご)を聖母のそれと比べる事は到底(とうてい)出来ないのである。
 我等も罪に汚(けが)れている者であるから、いつか一度は是非(ぜひ)共(とも)死の大いなる苦痛を忍び、それによって我が罪に対する最も重い償(つぐな)いを果たす必要がある。我等の生涯はその重大な時を迎える為の永い準備期間に他(ほか)ならぬ。されば我等はこの期間を徒(いたづら)に費(つい)やす事なく、却って善業を積み、一生の終わりの償(つぐな)いの負担を、少しでも軽からしめるよう励むべきである。
 なお臨終(りんじゅう)に当たって最も頼もしき扶助者(たすけて)は、古往(こおう)今来(こんらい)例(ためし)なき幸福な死を遂(と)げ給うた聖マリアの外(ほか)にはない。故(ゆえ)に我等は常日頃から聖母に縋(すが)って善(よ)き終わりを遂(と)げる御恵(おんめぐみ)を願い、日毎に「今も臨終の時も祈り給え」の祈祷(いのり)を繰(く)り返してその御助けを求めよう。そうすれば聖母は必ず我等を臨終(りんじゅう)の床に守り、我等の霊魂を御胸にかき抱(いだ)いて、地獄の深淵(ふち)の上を飛び越え、輝く天国に導いて下さる事であろう。

   祈   願

 ああ、天国の元后(げんこう)なる聖マリアよ、我等は御身の御光栄(みさかえ)に輝く被(ひ)昇天(しょうてん)を衷心(ちゅうしん)より歓(よろこ)び、御身が天主より受け給いし比類(たぐい)なき其の御恵(おんめぐみ)を讃称(ほめたた)へ奉る。
 我等は拙(つたな)く繊(かよ)弱(わ)き者にして、過失(あやまち)に陥(おちい)る事も屡々(しばしば)なれど、御身の御慈愛(おんいつくしみ)を恃(たの)みとして、一期(いちご)の大事なる臨終の時に、過(あやま)って滅亡(ほろび)に至らざるよう御助けの程を求め奉る。
 冀(こいねがわ)くは我を死の床より挙(あ)げて天国に導きたまえ。しかして、諸聖人と共に限りなく御名を讃(ほ)め、御恩恵(おんめぐみ)を謝(しゃ)し、共に天主を愛し、且(か)つ仰ぐを得(え)せしめ給わん事を、恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくし)三度繰(く)り返して願い奉る。


(天使祝詞 三度)



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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:諸聖人の元后

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二 十 九 日 諸 聖 人 の 元 后

   天に大いなる徴(しるし)現れたり。日を着たる一人の婦人あり。
其の足許(あしもと)には月ありて、頭(こうべ)には十二の星の冠(かんむり)あり。  (黙示録十二。 一)

 これは使徒(しと)聖ヨハネの言葉であるが、その中の婦人というのは、我等の母なる聖会の象(かた)徴(どり)であり、その背後(うしろ)に日を着、足下(あしもと)に月を踏んでいるのは、聖会が、永遠の太陽なるイエズス・キリストから不変(ふへん)の真理(しんり)と愛の光を与えられ、それに依(よ)って月の如く変わり易(やす)い世間に打ち勝つという事を意味し、叉、頭(こうべ)に戴いている十二の星の冠(かんむり)は十二使徒(しと)、即ち聖会の聖職者(せいしょくしゃ)の秩序(ちつじょ)を示しているのである。 聖会は洗礼によって新たに霊魂に生命(いのち)を与え、我等を天主の子、イエズス・キリストの兄弟、天国の相続者とし、断(た)えず我等の為に配慮する故(ゆえ)実際母と呼び、婦人を以て象(かたど)るに相応(ふさわ)しい。
しかしイエズスの御母聖マリアも、亦、我等の母であるから、この見方より、先に聖ヨハネの語った婦人を聖母マリアとする解釈(かいしゃく)の仕方もある。それによれば、その日を背負(せお)い月を踏み給うのは、月が自らは輝きを放(はな)たぬけれども、太陽に照らされて美しく反射するように、聖マリアも総(すべ)ての聖寵(せいちょう)を御子(おんこ)イエズスより受け給い、叉、之を聖会にお与えになる御伝達(おとりつぎ)の次第を現したもの、叉、頭(こうべ)の十二の星の冠(かんむり)は聖マリアが天地万物(ばんぶつ)の元后(げんこう)に在(ましま)すその権威(けんい)を示したものである。というのは、一体(いったい)十二という数は古(いにしえ)より、物の全体を意味するので、例えば旧約時代の十二族(ぞく)と云えば選ばれた民の総(すべ)てを指(さ)し、新約時代の十二使徒と云えば結局聖会の全体を現す、という風(ふう)であるされば聖マリアが選ばれた総(すべ)ての民の元后(げんこう)という事を形(かたち)に現す為に十二の星を用(もち)いたのである。
 この聖マリアの御使命は、既に世の初めに於(お)ける「我は蛇と婦人(おんな)の間に怨(うら)みを置かん」という天主の御約束にも見られ、その後も屡々(しばしば)予言や象(かたど)りで現された如く、悪魔の勢力、地獄の勢力を打ち破って、能(あた)う限り多くの人々を救い給う事であるが、その御立場からして御自分の御功徳(おんくどく)を以て我等を助け給う事、即ち聖マリアの御通(ごつ)功(こう)が重大(じゅうだい)なものである事は云うまでもない。
 全聖会の人々は時々勝利の教会、苦痛(くるしみ)の教会、戦闘の教会と区別される事がある。勝利の教会とは既に天国に凱旋(がいせん)された聖人方の事、苦痛(くるしみ)の教会とは煉獄(れんごく)に苦しんでいる霊魂、戦闘の教会とはなお此の世に於いて悪魔の誘惑(ゆうわく)、肉慾(にくよく)、世間と戦いつつある我等の事を云うのであるが、この三つは皆、イエズス・キリストを頭(こうべ)に戴(いただ)ける一つの体(からだ)のようなものであるから互いに功(こう)を通じて助け合う事が出来る。
 勿論(もちろん)他の諸聖人も罪少なく功(こう)多き故(ゆえ)に、その余りの功(こう)を以て我等を助け給う事も多いであろうが、何といっても罪が少しもなく、功(こう)が溢(あふ)れるばかりに満(み)ち給う聖母の御通(ごつう)功(こう)には及ぶものがない。故(ゆえ)に「諸聖人の元后(げんこう)」と申し上げるのは聖母に最も相応(ふさわ)しい称号(しょうごう)であると云わねばならぬ。且(か)つ聖マリアは御自分の功(こう)を以て人をお助けになる他(ほか)に、「ロザリオの元后(げんこう)」と呼ばれ給うて、ロザリオの祈りにより、我等がこの世の信者や煉獄(れんごく)の霊魂(れいこん)を助ける時にも、御子(おんこ)の御前(みまえ)に取り次(つ)がれて我等の通(つう)功(こう)を手伝い給うのである。
 かように聖マリアは我等の救(きゅう)霊(れい)に大いなる関係を有し給う。故(ゆえ)に我等は聖母の御助けを願ってその御徳に倣(なら)い、善(ぜん)を行(おこな)い悪を避(さ)け、誘惑(ゆうわく)と闘(たたか)い艱難(かんなん)を忍び、その功(こう)を悉(ことごと)く聖マリアの御手(みて)に委(ゆだ)ねて、煉獄(れんごく)の霊魂(れいこん)の為に祈るならば、聖母は我等の愛を嘉(よみ)されて、いつか我等を御許(みもと)に導き、諸天使諸聖人と共にその慈愛(いつくしみ)深き御顔(みかお)を仰ぎ見る幸福を与えて下さるに相違(そうい)ない。

   祈   願

 ああ、至(いと)聖(きよき)き童貞(どうてい)、光栄ある天の元后(げんこう)よ、御身(おんみ)は御憐(おんあわ)れみ深く、力強き者にて在(ましま)せば、御手(みて)に縋(すが)り奉る我等を助け、今より後、潔白(けっぱく)にして咎(とが)なき月日を送り、遂(つい)に天国にて御許(みもと)に集(つど)うの喜びを得(え)せしめ給え。
 叉、我等が祈る煉獄(れんごく)の霊魂(れいこん)をも早く救い取り給いて、諸聖人の列に加え、我等も共々三(さん)位(み)一体(いったい)の天主を讃美(さんび)し奉るの幸福を与え給わん事を、恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくし)三度繰(く)り返して願い奉る。


(天使祝詞 三度)



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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:聖母マリアの道

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三 十 日 聖 マ リ ア の 道

 されば子供等よ、今(いま)我に聞け、我(われ)道を守る者は幸(さいわ)いなり (箴言一八。三二)

 我等はこの聖母月を迎えてから、先(ま)ず聖マリアが救い主の御母として、永遠の昔より天主に選(えら)まれ給うた事、次には悪魔の勢力が聖母の御力に打ち砕(くだ)かれるという天主の人(じん)祖(そ)に対する御約束など、順次(じゅんじ)黙想を続けて来たが、聖マリアの御生涯(ごしょうがい)は実に始めから仕舞(しま)いまで、一つとして我等の救いと永遠の幸福に関係せぬ所はない。
 しかして聖母は常に我等が一人残らず救われて、天国の住民となる事を切(せつ)に望(のぞ)ませ給い、今、聖母月の終わりに当たり、この冒頭(はじめ)に掲(かか)げた通り「されば子供等よ、今,我に聞け。我が道を守る者は幸いなり」と仰せになるのである。
 それでは聖マリアの道とは如何なる道であろうか。聖マリアは全く御子(おんこ)イエズスと行(こう)を共にされたのであるから、聖マリアの道は取りも直さずイエズスの歩(あゆ)まれた道である。それは天主と人とに対する愛の道に他(ほか)ならぬ。イエズスが聖(とうと)い天主の御身を以て此の世に降(くだ)り、卑(いや)しき肉の体(からだ)を受けて多くの苦しみを嘗(な)め、最後に冤(むじつ)の罪を担(にな)うて十字架上の露(つゆ)と消え給うたのも、聖マリアが天主の御母たる重大な責任を受けて、或る時はシメオンの予言に心を痛め、或る時は遠いエジプトに流浪(さすら)い、十字架の道に、御子の御死去に、云い尽くせぬ悲(かな)しみを味わい給うたのも、皆これ天主御父(おんちち)を愛し、我等を愛し、救いの事業を完成される為ではなかったか。
 しかもその愛は浅(あさ)はかなものであってはならぬ。一切の艱難(かんなん)に災禍(さいか)に遭(あ)い、あらゆる苦しみ悲しみに試(ため)されても確乎(かっこ)として揺(ゆ)るぎなき真(まこと)の愛でなければならぬ、云い換(か)えればこの愛の道はカルワリオの十字架の下(もと)に至っていなければならぬ。ここに於いてか、イエズス・マリアの愛の道は叉、犠牲の道、十字架の道と云ってもよいのである。
 聖パウロはこの真の超自然的愛と犠牲その他の諸徳(しょとく)との関係を実に美しく説明して「愛は堪忍(かんにん)し、情(なさ)けあり、嫉(ねた)まず、自慢(じまん)せず、怒(おこ)らず、不義(ふぎ)を喜ばず、何事をも信じ、何事をも希望し、何事をも怺(こら)うるなり」と云っている。
 聖母は我等に向かって「今我に聞け!」と仰せられた。故に我等はその御言葉に従(したが)って、イエズス・マリアの通られた愛の道、犠牲の道を進もう。勿論(もちろん)それは中々生(なま)やさしい覚悟くらいで歩(あゆ)める道ではない。その茨(いばら)の道に踏(ふ)み出す時には、先ず大先(だいせん)達(だつ)なるイエズス・キリストの御精神、聖マリアの御精神をわが心に確固(かっこ)と植え付け、超自然の世界に霊の眼(まなこ)を睜(みひら)かねばならぬ。そして如何に坦々(たんたん)として歩(あゆ)み易(やす)そうな大道が右(みぎ)左(ひだり)に見えても、それには一(いっ)切(さい)目もくれず、唯 わが前に印(いん)せられたイエズスと聖母の御足跡(おんあしあと)だけを見つめて、一歩一歩進むべきである。キリストが「滅亡(ほろび)に至る道は広し」と警(いま)戒(し)められ、叉、「十字架をとりて我が跡に従え」と命ぜられたのも、此処(ここ)の事である。
 かようにして「我に聞け!」と仰せられた聖マリアの御跡(みあと)を慕(した)い、一切の思い、言葉、望み,行為等に於いて及ぶ限り聖母に肖(あや)からしめるように努(つと)めるならば、「我が道を守る者は幸いなり」というその次の御言葉(みことば)も必ず実現される事は疑(うたが)いない。
何となれば、イエズス・マリアの愛の道、犠牲の道は険(けわ)しく茨(いばら)に満ちて居る上に、最後はカルワリオの十字架で終っているように見えるけれども、その先は主の御昇天(ごしょうてん)、聖母の被(ひ)昇天(しょうてん)によって直ちに天国に連(つら)なっているからである。
それは現世(このよ)の快楽(かいらく)の道、名誉(めいよ)の道、利(り)慾(よく)の道などが麗(うるわ)しい花に飾(かざ)られているようで、しかもその下に滅亡(ほろび)の底なしの淵(ふち)を隠(かく)しているのとは、雲泥(うんでい)の差もただならぬ。故に我等は聖母月の記念として「されば子供等よ、今我に聞け、我が道を守る者は幸いなり」との御母の御言葉を肝(きも)に銘(めい)じ、我等の行く手を照らす炬(たい)火(まつ)としよう。

   祈   願

 ああ慈愛(いつくしみ)の御(おん)母(はは)、天国への案内者よ、我等は一切(いっさい)を御身の御手(みて)に委(ゆだ)ね奉(まつ)り、今より後、真(まこと)の愛を以て、人々の心に歓喜(よろこび)と平和の種子(たね)を蒔(ま)きつつ御身(おんみ)の示し給える道を進まんとす。
 何卒(なにとぞ)、繊(か)弱(よわ)き我等を助けて恙(つつが)なく最後の目的地に達せしめ給わん事を、恭(うやうや)しく天使祝(しゅく)詞(し)三度繰(く)り返して願い奉る。


(天使祝詞 三度)


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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:聖マリアに対する尊敬

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三十一日 聖マリアに対する尊敬

       蓋(けだ)し看(み)よ、今より萬代(よろずよ)までも人皆我を
      福(さいわい)なる者と称(とな)へん。          (ルカ 一。 四八)

 これは聖マリアがその親戚(しんせき)聖エリザベトを訪問された時、相手の祝辞(しゅくじ)に答えて天主の御(おん)恵(めぐみ)を感謝した後、御自分に就(つ)いて仰せられた御言葉(おんことば)であるが、この予言は悉(ことごと)く成就(じょうじゅ)した。
実際聖母はすべての時代のあらゆる人々から断(た)えず讃美(さんび)せられ給うたのである。
 またかように万国(ばんこく)万代(まんだい)の人々に讃美(さんび)せられ給うのも無理はない。聖母は造られたる物の内(うち)最(もっと)も完全なる御者(おんもの)で、云わば聖三位(さんみ)一体(いったい)の御名作とも申し上ぐべき御方(おかた)である。
 謙遜(けんそん)な聖マリアは御自身でも此の事を認められて「全能にて在(ましま)す者、我に大事をなし給えり」と、天主の御力(おちから)を賞讃(ほめたた)えられたが、その通り天主は聖マリアの完成にあらゆる努力をおしまれず、先(ま)ず永遠の昔より御独子(おんひとりご)の母とする計画を立てられ、その御孕(おんやど)りには原罪を除(のぞ)き去り、その御一生には溢(あふ)れんばかりの聖寵(せいちょう)を注(そそ)ぎ、あらん限りの光栄(こうえい)を与え、実に至れり尽くせりの丹精(たんせい)を加えられた。さればその御霊魂(ごれいこん)の美麗(びれい)な事は空前(くうぜん)絶後(ぜつご)で、かの大天使ガブリエルが「慶(めでた)し、聖寵(せいちょう)充(み)ち満(み)てるマリア!」と叫んだのも、恐らくは驚嘆(きょうたん)の余りに出た言葉であったろう。しかもその麗(うるわ)しさは、神の御子(おんこ)の御托(ごたく)身(しん)、私生活の三十年間と、時を経(へ)るに従って磨(みが)きぬかれ、いよいよ燦然(さんぜん)と光輝(かがやき)を放(はな)つに至(いた)ったのである。
 故にかように優(すぐ)れた天主の作品を尊敬(そんけい)讃美(さんび)する事は、天主の御栄光(みさかえ)になりその思(おぼ)し召しに適(かな)い、叉,厚く望み給う所でもある。我等は今日聖母月を終るに当たり、聖母への尊敬が如何に広く行き渡(わた)っているかを考えて見よう。
 先ずイエズスの公生活中、主の御母なる聖マリアが、如何(いか)に一般の人々から尊敬されておいでになったかわ、聖書に録(かきしる)してある「福(さいわい)なる哉(かな)、汝を孕(やど)せし胎(たい)よ!」という或る婦人の言葉によっても充分に察せられる。
 叉、聖マリアには、聖子イエズスがまだ天主の御独子(おんひとりご)であると人々に認められ給わぬ時分から、既(すで)に讃美(さんび)する者が多くあり、かのカルワリオ山に於いて、罪なき主を嘲(あざけ)り、罵(ののし)り、打ち叩(たた)き、十字架に釘つけ参らせたフアリザイ人や悪党輩(やから)さえも、聖母マリアに対しては尊敬(そんけい)の態度をとり、十字架の下(もと)にたたずみ給うに委(まか)せて何事も云わなかった。
 敵でさえ然(しか)りとすれば、イエズスの御弟子達がどれほど主の御母を敬愛し参らせたかに就(つ)いては、語る必要があるまい。
 或る伝説によれば、その時代既(すで)に聖母を尊敬する為の修道会が出来ていたとの事である。その他、各時代を通じて聖母尊敬の様々な例を数えたら、恐らく枚挙(まいきょ)に遑(いとま)ない事であろう。
 我が聖会に於いてもピオ九世教皇(きょうこう)聖下(せいか)は、聖マリアの無原罪の御孕(おんやど)りを信仰箇条(かじょう)の一(いち)として普(あまね)く天下に宣言し、十二月八日をその祝日と定め給いレオ十三世教皇聖下(せいか)はロザリオの祈祷(いのり)によって聖母の御伝達(おとりつぎ)を願う事を衷心(こころ)からすすめられた。共に聖マリアに対する熱烈な尊敬(そんけい)の表現(あらわれ)に他(ほか)ならぬ。
 我が日本に於いての何を挙げれば、徳川三百年のキリシタン禁制時代、激(はげ)しい迫害(はくがい)を蒙(こうむ)りながらも信者等は決して聖母に対する尊敬、熱愛、信頼を捨てなかった。
 厳(きび)しい役人の目を盗む為に、マリア観音(かんのん)、即ち観音(かんのん)に似(に)せて聖母の御像(ごぞう)を作り、秘(ひそ)かに之を尊敬(そんけい)していた者もあった位(ぐらい)である。
 さればこそ、或は残酷(ざんこく)な、のこぎり引き、火あぶり、熱湯(ねっとう)責(せ)めなどの残酷(ざんこく)な刑罰(けいばつ)も勇ましく耐(た)え忍(しの)び、天晴(あっぱ)れ殉教(じゅんきょう)の栄冠(えいかん)を頂き、或は牧者(ぼくしゃ)なき小羊(こひつじ)の群(む)れとなりながら、親から子へ、子から孫へ、御教(みおし)えを伝えて共に信仰を全(まっと)うし得たのも偶然(ぐうぜん)でない。
 しかも布教(ふきょう)解禁後(ご)、昔のキリシタン信者の子孫が発見されたのも彼等が浦上天主堂の聖母像に尊敬(そんけい)を献(ささ)げて、司祭の目に留(と)まったのであった。
 我等も壮烈(そうれつ)な彼等殉教者(じゅんきょうしゃ)と血を同じうせる日本人である。彼等の如く日頃聖母に厚き尊敬と愛と信頼とを献(ささ)げ、その御助(おんたす)けによって艱難(かんなん)の時にも信仰を全(まっと)うする事が出来なければ、何の面目(めんぼく)あって彼等に見(まみ)ゆる事が出来よう。

   祈   願

 ああ聖母よ、我等は今(いま)御身を尊敬し奉る事の、如何に麗(うるわ)しき業(わざ)なるかを思いて歓喜(よろこび)に耐えず。
わが日本の聖(とうと)き殉教者(じゅんきょうしゃ)が御身を敬愛(けいあい)して其の栄冠を受けられたるに倣(なら)い、我等も拙き(つたな)心、繊(か)弱(よわき)き此の身を顧(かえり)みず、わが一切(いっさい)を御手(みて)に托(まか)せ奉る。
 何卒、我等を御身の所属物(もの)として守り、迷える時に導き、危うき時に助け、しかして此の世を去るに臨(のぞ)みては、御身の聖名(みな)を呼び奉り、死しての後に於いては、御身の聖(み)顔(かお)を仰がしめ給わん事を、恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくし)三度繰(く)り返して願い奉る。


(天使祝詞 三度)

聖母聖月信心の終りの祈祷

聖マリアよ、我等、御身に捧げたる此の月を終らんとするに当たり、御前(みまえ)に跪(ひざまず)き、我等が御身の子としての讃美(さんび)、感謝、祈祷(いのり)を捧げ奉る。
 我等は御身があらゆる聖寵(せいちょう)と美点(びてん)とを与えられ給いしことを、三位(さんみ)一体(いったい)なる天主に感謝し奉り、また御身が我等の為に代願(だいがん)し、我等の願いを叶(かな)わしめ、我等に慰めを与え我等に天主の聖寵(せいちょう)を求め給いしことを御身に感謝し奉る。
 愛すべき御母よ、この月の日の如く、何時(いつ)にても、何処(いづこ)にでも、御身の貧しき子なる我等をみそなわし給え。危険に臨みては御保護を、戦いに於いては御助力を、苦難に際しては忍耐を与え給え。
 罪人(つみびと)の為には改悛(かいしゅん)と赦(ゆる)し、義人(ぎじん)の為には聖徳(せいとく)の進歩を求め給え。遂に我等、総(すべ)てに最終まで耐え忍ぶ力と、善(よ)き臨終(りんじゅう)、?(かん)仁(じん)なる審判(しんぱん)を求め給え、御伝達(おんとりつぎ)によりて総(すべ)ての危難(きなん)より救われ、今、御身の子として愛を以て、御身にまかせ奉りし我等総(すべ)てを、天国に於いて再び御身の御前(みまえ)に集(つど)わしめ給わん事を願い奉る。
 ここに誠心(まごころ)より「天主の御母聖マリア、罪人(つみびと)なる我等の為に今も臨終(りんじゅう)の時も祈り給え。」とさけぶ我等の中一人も滅(ほろ)びに至らざらんことを願い奉る。 
アメン。

尊(とうと)き天主の御母マリアよ           ▲ 更に祝せられ給えかし。
我等の救い主イエズス・キリストの御母よ      同じ
憐(あわ)れみの御母よ                  同じ
罪人と貧しき者の依托(よりどころ)               同じ
総(すべ)ての聖徳(せいとく)の亀鑑(かがみ)                 同じ

我が最愛の御母、支配者、代願者(だいがんしゃ),    ▲ 更に祝せられ給えかし。
 
生涯(しょうがい)殊に今月我等に賜(たまわ)りたる恩恵(おんめぐみ)の為に ▲ 我等、誠心より汝に感謝し奉る
 
我が罪悪(ざいあく)の為に受くべき地獄と、肉(にく)身(しん)、霊魂(れいこん)の
悪より、御伝達(おんとりつぎ)をもって救い給いしことを           同じ
この聖(せい)月(げつ)に祈り得たる恩恵(おんめぐみ)の為に             同じ
この聖月の中に我等に授け給いし聖寵(せいちょう)及び光明(ひかり)の為       同じ
我等に賜(たまわ)りし歓喜(よろこび)、慰(なぐ)籍(さめ)の為に              同じ
この月の中に御身の模範(もはん)が我等の心に起こしたるよき決心の為に 同じ
今月の中に我等に賜(たまわ)りたる総(すべ)てと我等の受けたる知らざる恵(めぐみ)の為に 同じ
     祈 願 せ ん

慈悲深き聖母マリアよ、我等今この聖(せい)月(げつ)を終らんとするに当たり、省(かえり)みればわれらが信心の勤行(つとめ)には足らざることのみ多く、また卑(いや)しきわれらが祈りには、聴き入れらるるに堪えざるものありき。されど御身は哀憐(あわれみ)の御母なれば、そを見そなはし給うことなく、御身の栄光(さかえ)の為に、この聖月の信心を行いたる我等の意志(こころざし)を顧(かえり)み給え。
 我等の足らざるを許し、却って慈悲深き御身に信(より)頼(たの)み御身にさけびし者の捨てられしこと、古(いにしえ)より今に至るまで世に聞こえざるを思い給え。
 願わくは我等を御身の子として、我等の意志(こころざし)、我等のうやうやしき祈りを御父に捧げ、その聴き入れられんことを請(こ)い求め給え。 アメン。

我等に深き痛悔(つうかい)と罪のゆるしを天主より請い求め給わんことを▲更に願い奉る。
生ける信仰、天主の憐(あわ)れみのかたき信頼、天主に対する燃ゆる
愛を求め給わんことを                       同じ
真実の謙遜(けんそん)、柔和(にゅうわ)、忍耐及び艱難(かんなん)に臨(のぞ)み,御身の子として主に
依(よ)り頼みを得んことを                       同じ
我等今より忠実に主に奉仕へこれを最終まで持続せんことを      同じ
御身の識(しろ)し召す我等の為に、最も益(えき)にして且つ最も必要なる
御恵を求め給わんことを                       同じ
我が両親、朋友(ほうゆう)、親族恩人等を御身の御保護の中に入れ給わんことを  同じ  
すべての罪人(つみびと)と、煉獄(れんごく)の霊魂(れいこん)を憐(あわ)れみ給わんことを          同じ

     祈 願 せ ん

ああマリアよ今も、また特に臨終(りんじゅう)の時に我を捨て給わざれ。愛すべき御母よ、わが臨終に於いては我が今月屡々(しばしば)御前に跪(ひざまず)きて、「天主の御母聖マリア、罪人なる我等のために今も臨終の時も祈り給え。」とさけびしことを記憶(おぼ)へ給え。
 ああマリアよ。願わくはここに集(つど)える我等すべてを御身の伝達(とりつぎ)によ地獄より救い、天国に於いて再び御前に会(かい)し、御身の愛と御慈悲(おじひ)とを、永遠に讃美(さんび)するを得(え)せしめ給え。アメン。

注意  なおこの終りにおいて聖母マリアの讃美歌(マグニフイカト)或は他の感謝の聖歌を歌うことが習慣となっている。



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天主に感謝します

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アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様

天主に感謝します!8月の日本のミッションの報告を頂きました。日本に行って下さったレネー神父様に感謝します!

月曜日の朝は東京で、9名の方々がミサに与りました。

御報告を紹介します。天主様の祝福が豊かにありますように!!

トマス小野田圭志神父

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アベマリア!

今月の御ミサは、9日金曜日9人、10日土曜日は、15人が御ミサに預かるおめぐみを頂きました!デオグラチアス!
今月は、レネ−神父様がお越し下さり、お説教は哲学的な話しを交えて、私達の本来の目的、天国を、聖人方や聖母の祝日を通して再確認して、十字架の元に続けば、永遠の幸福にたどり着くというものでした。(うまくまとめる事ができません(>_

8月のミサ聖祭を天主様に感謝!

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アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 8月11日の主日には、レネー神父様が東京で聖伝のミサを捧げられ、26名の方々がミサ聖祭にあずかるお恵みをいただきました。午後には、聖母の無原罪の御宿りと被昇天の間には密接な関連があることについてお話しくださいました。

 8月18日の主日には、大阪で28名の方々が聖伝のミサにあずかるお恵みをいただきました。午後には、愛する兄弟姉妹の皆様のしもべの司祭叙階20周年を皆様で祝っていただき、感謝でいっぱいです。

 今年の8月は、アジア管区長のクチュール神父様の特別のお計らいと許可で私はポーランドのチェンストホーバに巡礼に参りました。ポーランドの聖ピオ十世会の巡礼団は8月4日からワルシャワを発って歩き始めたのですが、私は10日にこれと合流し、チェンストホーバまで野宿をしながら歩きました。私たち巡礼団は、たとえ時間が掛かっても森の中や畑の中を通って歩き、自然に恵まれとてもすばらしい巡礼でした。空の百万の美しい星の下でずっとテントで寝起きした巡礼者には感服します。私の場合、田舎の農家の方が家のソファの上に寝泊まりすることを許され、その点ではだいぶ助かりました。この巡礼に呼んでくださった聖母マリア様に感謝します。明るい山、ヤスナ・グラの聖母マリア様の元に行き、そのお姿を見たときにはあたかも天国にいるかのようでした。170余名の方々が参加しました。ポーランドの良き多くの友人と知り合うことができて感謝します。また、ポーランド以外のチェコ、ベルギー、フランスなどの巡礼者とも巡り会えて感謝します。
 シュテーリン神父様のお計らいで、予想もしていなかった、コルベ神父様の創立したニエポカラヌフを訪問するお恵みをいただき汚れなき聖母マリア様、インマクラータに感謝します。
 今回の巡礼で、ポーランドのすばらしさについて垣間見ることが出来、天主様に感謝します。

 さて、8月の通常のミッションついて、次のようなご報告をいただきましたので、ご紹介します。

【8月11日の主日の報告】
レネー神父は今日のお説教で、昨日の聖ラウレンツィオの祝日と数日後の聖母
の被昇天の祝日は、カトリック信者にとっての死は勝利への道であることを教
えているというお話をしてくださいました。これに関連して、私たちの死が勝
利への道であるということは個人的経験や感情ではなく客観的な真実であるこ
と、私たちの人生の目的は天国に行くことであること、私たちの霊魂が不死で
あること、私たちを救ってくださる方は主イエズス・キリストのみであるこ
と、そして私たちはキリストとともに苦しみを受けない限り天国には行けない
こと、等を説明してくださいました。

昼食の後の霊的講話では、聖母の無原罪の御宿りと被昇天の間には密接な関連
があることについて様々な面からの説明をしてくださいました。例えば聖母に
は罪がなかったためにその罰としての肉体の亡びがなくその故に被昇天があっ
たこと、無原罪の御宿りは聖母の体が御言葉である主を受け入れるのにふさわ
しくあるためであったばかりではなく、カルワリオでの御受難に聖母が主とと
もに生け贄として参加されるために罪のないものであるべきであったこと、聖
母が生まれながらにして罪がなかったことと同じことは、教会についてはこの
世の終わりに実現されること、など詳しい解説をしていただきました。その
後、晩課を歌ってお別れしました。

ミサの参列者数
男: 9人(内、子供0人)
女: 17人(内、子供0人)
計: 26人(内、子供0人)

霊的講話の参列者数
男: 6人
女: 7人
計: 13人

晩課の参加者数
男: 6人
女: 2人
計: 8人

【報告終わり】

レネー神父様のお説教は次の通りでした。

2013年8月11日 レネー神父説教

親愛なる兄弟の皆さん

 母なる教会は、昨日、殉教者聖ラウレンツィオの祝日を、また木曜日には聖母の被昇天を記念します。
この二つの祝日が私たちに教えてくれることは、真のキリスト教徒、真のカトリック教徒の死は、この世が考えているような敗北ではなく、むしろ勝利への道だということです!お告げの祈りの最後の祈りでは"per passionem et crucem ad gloriam resurrectionis perducamur"、すなわち、「願わくは[キリスト]の御苦難と十字架とによりて、ついに御復活の栄えに達するを得んため」とお祈りするのです。

 私が強調しておきたい第一の点はこれです。これはただ、いい感じがする、苦難を前にした時に慰めになるいい考え方だというだけではありません。これは客観的な真実だということです。先日私はインドのカトリック神学校の神学生が世界、特にインド国内におけるプロテスタント教会の広がりについて書いた論文を読んでいました。そこではこの神学生が、インドの人々を引きつけているのは「神の経験」とされるようなものであると指摘していました。そこでこの神学生が解決策として同級生に提案していたのは、カトリック教会でも似たような経験を促進してみよう、ということでした。しかし、信仰は個人的経験に基づくと主張する行為は近代主義である、として聖ピオ十世教皇がこれを排斥したという事実を、この神学生は完全に無視してしまっているようです。同様の経験を育んでみるということによって、この神学生は人々を近代主義者にしてしまうことになるのです。

 真のカトリックの立場によれば、信仰は真理に基づいており、知性によって理解されるものであって、通常、感情や情緒のレベルで語られる「個人的経験」に基づいているのではありません。カトリックの信仰は真理に基づいていますから、「個人的=自分に限られた」ものではありません。カトリックの信仰は、一方では、私は信じるから私のものですが、他方、私のものではないとも言えます。それは、信仰の真理は私によっているのではありませんし、真理は天から来るものですし、客観的な方法で確認できるものですし、全ての人の知性に合わされたもの、奇蹟や預言によって保証されたものであるからです。カトリックの信仰は天主の客観的な啓示に対する私たちの答えである、ということは既に何度もお話しいたしました。天主が奇蹟や預言というしるしによってこの啓示に謂わば署名されたことによって、私たちはこれが真に天主の啓示されたことであるということを知っています。この保証は「個人的経験」ではなく、客観的なものです。ルルドでは多くの奇蹟が起こり、ファチマでは1917年6月13日に予言された奇蹟が4ヵ月後の1917年10月13日に起こったことを知っています。私がその場にいる必要はありません。これらの出来事は十分に文書として記録されています。これらの奇蹟は、旧約聖書の預言、キリストの数多くの奇蹟、教会の歴史上の全ての聖人達の数多くの奇蹟とともに、私の知性のためだけにではなく、正直な考えを持った全ての人の知性に対して、カトリックの宗教が真実であることの十分な証明となっています。そして、私がそれについて何かを「感じる」か否か、には関わりありません。時には、人は反対の感情を持つことがあるかもしれません。例えば、教会に来ることがおそろしい、「好んでいる罪」を捨てることがおそろしい、正しくない関係や慣習をやめることがおそろしい、などです。しかし、真実は存在します。もし私が真実に対して知的に正直になりたいなら、私は真実を認めなくてはなりません。

 現在多くの近代主義者達は、誰もが自分独自の信仰を持ってよい、と考えています。その人が自分独自の信仰についていい感じがする限り、その人にとってはそれが良いものであり、私たちの主イエズス・キリストに改宗する必要はないとするのです。このような考え方によるならば、感情が支配的なものとなり、知性は完全に忘れ去られてしまいます。たとえば、カトリックの教理は唯一の真なる天主には三つのペルソナがあるとしており、イスラム教がこれを否定していることを見れば、全ての宗教が同時に正しいということは全くあり得ないことです。天主は至高の知性であって、純粋に霊であり、「礼拝者も、霊と真理とをもって礼拝しなければならない」(ヨハネ4章24節)。天主は私たちに知性、天主を知ることを可能とする知性をくださったのですから、私たちが真理において天主を知るか、あるいは天主に関する誤りにだまされるかについて無関心でおられる筈はありません。天主は至高の真理であり、天主は真理を愛しておられますから、「すべての人が救われて、真理を深く知ることをのぞまれる。」(ティモテオへの前の手紙2章4節)言い換えると、人は救われる為には、真理を知ることが必要なのです。

 そうすると、真の信仰には「神の経験」のようなものは存在しないのでしょうか?実際、教会は伝統的には「神の経験」ではなく、「霊的な慰め」と呼んでいます。真に天主は、とりわけ霊的な生活の初めに、私たちを正しい方向に導くために、霊的な慰めを与えてくださることがあります。私たちの主イエズス・キリストを見いだしたとき、しばしば大きな喜びがありますが、これは天主から来るものです。しかし、このような自分自身の感情に頼ることは大きく間違っています。このような感情は、悪魔が人々を騙すために真似たものであることがあります。(これは自分自身を過信したことへの罰であるかもしれません。)またしばしば、喜びの本当の原因を見極めることは簡単ではありません。プロテスタントの教会では、人々は真理と一緒に誤りをも受け入れてしまいます。カトリック教会の聖人達は、私たちが自分自身の判断や感情を信じることなく、カトリックの教えという客観的真理に従うことを勧めています。これが、聖人達のほとんどが霊的指導者を持っていた理由です。多くの聖人は宗教生活を選びましたが、それは上長の指導の下にいるためであり、その訳は自分自身の判断力を信じなかったからです。これに対してプロテスタント主義の根源は私的判断にあります。このため、あらゆる種類の誤りに陥ってしまいます。

 元の目的である聖人の祝日に戻りましょう。聖ラウレンツィオ、そしてだれよりも聖母は、私たちの人生の目的を教えてくださいます。それは天国です。この偉大なる真実には見える側、すなわち自然的な側面があり、それは(カトリックではない人々を含め)全ての人が見ることのできるものです。それは、私たちのこの地上における人生は死によって終わるということです!この第一の真実は、過ぎ去る事物に執着する全ての人々への警告であるとともに、地上の物事、権力、富、快楽が空虚と虚栄であることを私たち全員に教えてくれるものです。全ての物事は過ぎ去ってしまい、私たちもこの世から過ぎ去ってしまうのです!私たちがこのように過ぎ去る物事に執着するならば、私たちの喜びもそれらの物事と一緒に過ぎ去ってしまいます。私たちが永遠の善に執着するならば、私たちの喜びも永遠のものです。

 私たちの人生の目的に関する真理には、自然のレベルですが、見えない、もう一つの側面があります。私たちの霊魂は不死であることです。その意味は、私たちの霊魂は、それが霊的なものであるが故に、私たちの肉体の死によっては破壊されることなく存在し続け、永遠に存在してゆくということです。霊魂が霊的であるということは自然的な真実、すなわち私たちの理性という自然の光によって証明することのできる真実です。

 私たちが思考するとき、私たちはイメージと考えの両方を使っています。イメージは特定のもので、考えは一般的なものです。例えば、あらゆる三角形の内角の和が180度ということを証明するとき、紙(またはホワイトボード)に一つのイメージを書いて証明を行ないます。最後にこれは全ての三角形に当てはまる、と結論づけます。もし自分の書いた一つのイメージについてのみ論じたのであれば、どうしてそのような一般的な結論を出せるのでしょうか?それは、その特定のイメージについてではなく、三角形という一般的な考えについて論じたからです。ですからその結論は正しいのです。人は知性という光によって、特定のイメージから一般的な考えを引き出し、与えられた特定の感覚によって、特定のイメージの中に一般的な考えを見るのです。人間の考えは一般的なものです。ところで、全ての物質的なものは特定のものであって、一般的なものではありません。そのため、人間の考えは物質的なものではなく、霊的なものです。考えは非物質的なものですから、そのような考えを創り出す機能はそれより低いことはなく、この機能も霊的レベルになくてはなりません。この機能こそが知性であって、脳ではありません。脳はイメージを創り出すので、イメージは脳にあります。しかし知性は脳ではありません。脳は物質的なもので、知性は霊的な機能です。したがって、このような機能を持っている霊魂はそれ自体霊的なものであって、その存在を物質や身体に依存していません。よって霊魂は不死なのです。

 私たちの霊魂は不死ですから、その目的は地上の物事に限定されているのではありません。地上の物事は全て過ぎ去ってしまい、私たちの霊的な霊魂の広大な力を満たすことができないからです。これを満たすことができるのは天主のみです。聖アウグスティノの美しい言葉でいえば、「御身は御身の為に我々を造りたもうた、おお主よ。御身に安らぐまで我々の心には安らぎがない!」

 実際これが私たちの人生の目的の第三の側面、すなわち超自然的側面です。私たちは啓示によって次のことを知っています。「神はおん独子をお与えになるほど、この世を愛された。それは、かれを信じる人々がみな亡びることなく、永遠の命をうけるためである。神がみ子を世におくられたのは、世をさばくためではなくて、それによって世を救うためである。」(ヨハネ3章16-17節)永遠に生きることを望まない人がいるでしょうか?私たちは永遠の命を私たちの主イエズス・キリストに、そしてイエズス・キリストにのみ、見いだすことができます。イエズス・キリストは私たちの救い主であり、私たちを罪と、罪から流れ出る全ての悪から最終的に救ってくださる方であって、イエズス・キリスト以外に救い主はいないのです。

 私たちは啓示によって次のことも知っています。「かんがえよ、私たちは神の子と称されるほど、おん父から、はかりがたい愛を与えられた。私たちは神の子である。この世が私たちを認めないのは、おん父を認めないからである。愛するものたちよ、私たちはいま、神の子である。のちにどうなるかは、まだあらわれていないが、それがあらわれるとき、私たちは神に似たものになることを知っている。私たちはかれをそのまま見るであろうから。主が清いお方であるように、主にたいするこの希望をもつ者は清くなる。」(ヨハネの第一の手紙3章1-3節)

 聖人達の祝日を祝うために、聖ラウレンツィオ、そしてとりわけ聖母は私たちの目を挙げ、私たちの霊魂の目である知性を、天主における永遠の生活を黙想するよう仕向けてくださいます。そこでは、聖人達は崇高の善、無限の善、不変の善、善そのものである父と子と聖霊との交わりの内に永遠に喜んでいるのです。「そこで私たちはみなおおいを顔に垂れず、鏡にうつすように、主の光栄をうつし、霊なる主によってますます光栄を増すその同じすがたに変わる。」(コリント人への後の手紙3章18節)徳には報いがあるのです!信徳には報いがあるのです!「自分をすて、自分の十字架をになって、[キリスト]に従」(マテオ16章24節)うことを忠実に行なう人には報いがあるのです。

 親愛なる兄弟の皆さん、聖人達の栄光を黙想するとき、聖人達の後に続く決心をしなければなりません、それも中途半端な態度ではなく熱心さをもって、躊躇するのではなく、この道こそが永遠の命、永遠の喜びにつながる道であって、私たちのなし得る全ての努力が報われるという、唯一の正しい信仰に基づいた確信をもって従う決心です!「主が清いお方であるように、主にたいするこの希望をもつ者は清くなる。」(ヨハネの第一の手紙3章3節)しかしこの努力自体も私たちをいつも助けてくださる天主の贈り物なのです。この助けをもってすれば、私たちが失敗することはあり得ません。ですから、私たちは信頼して進みましょう。

 最後に指摘しておきたいのは、私たち自身を聖化する行いは御聖体と密接な結びつきがあるということです。聖ラウレンツィオの例をご覧ください。聖ラウレンツィオは聖シクスト二世教皇の助祭でした。聖シクスト二世教皇が殉教の場所に引かれてゆくとき、聖ラウレンツィオは言いました。どちらにいらっしゃるのですか、おお大司祭よ、あなたの助祭を置いて?ミサの犠牲を捧げるときは、いつもあなたの助祭と一緒であったことを思い出してください、と。8月6日に殉教した聖シクスト二世教皇は、聖ラウレンツィオに対して、彼も数日後にもっと輝かしい殉教をもって続くであろうと言いましたが、実際その通りとなりました。この聖人達が自らの命をキリストのために捧げる力を得たのは御聖体からです。キリストは彼らの為に死に、彼らは天主の子羊、十字架の生け贄の肉を何度も食べたのです。今度は彼らが天主の子羊と共に子羊となり、キリストと共に一つの生け贄となる時であったのです。聖人達にはその準備ができていました。また更に、聖母マリアは天に挙げられましたが、聖母がキリストに従って天国にまで行ったのは、聖母がまずキリストに従ってカルワリオの山に行ったからです。キリストは、「『私は地上からあげられて、すべての人を、私のもとに引きよせる』とおおせられた。(それから、ご自分が、どんな死に方をするかを、お示しになった。)」(ヨハネ12章32-33節)キリストに従って天国に行きたい人は沢山いますが、キリストに従ってカルワリオに行きたい人は少ないのです。けれども、私たちがキリストの御受難に加わらない限り、キリストの栄光には加われません。聖パウロは明確に言っています。「私たちが神の子である…。私たちが神の子であるのなら、世つぎでもある。キリストとともに光栄をうけるために、その苦しみをともに受けるなら、私たちは、神の世つぎであって、キリストとともに世つぎである。今の時の苦しみは、私たちにおいてあらわれるであろう光栄とは比較にならないと思う。」(ローマ人への手紙8章16-18節)

 全てのミサにおいて天主の生け贄とともに私たち自身をお捧げすることを習慣としましょう。そうすることによって、いつの日かキリストの為に私たちの命をお捧げする準備ができていますように、そして聖母と全ての聖人達とともに天主の御国に永遠に住まわせて頂けますように。アーメン。


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聖母の汚れなき御心に日本を捧ぐる祈り

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アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 8月22日は、日本の最上位の守護者である聖母の汚れなき御心の祝日です。聖母の汚れなき御心への奉献を更新いたしましょう。
 聖母の汚れなき御心については、「マニラの eそよ風」第398号に掲載されている、元仙台司教の浦川和三郎司教様の『祝祭日の説教集』の中の「聖母のいと潔き聖心」のお説教をご覧ください。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖母の汚れなき御心に日本を捧ぐる祈

 いと潔きあわれみの御母、平和の元后なる聖マリアよ、われらは聖なる教会の導きに従い、今日、日本および日本国民を御身の汚れなき御心に奉献し、そのすべてを御身の保護に委ね奉らんと欲す。
 願わくは聖母、慈しみの御まなざしもてわれらの心をみそなわし給え。
 ああ、人々真理にうとく、その心くらみ、罪の汚れに染み、諸国はまた互いに分かれて相争い、天主の霊威を傷つけ、御身の御心を悲しませ参らするなり。
 されどわれら日本国民は、ひたすらに光をしたい、平和をこいねがうものなれば、願わくは聖母、御あわれみの御心をひらきて、われらの願いを聞き給え。われら今、この世のすべての苦しみ、悩みを雄々しく堪え忍び、そを世の罪の償いとして、天主に捧げ、その御怒りをなだめ奉り、わけても御身の汚れなき御心にならいて、主の御旨を重んじ、身を清く持して、聖なる一生を送らんと決心す。
 願わくは聖母、力ある御手をのべて、われらの弱きを助け給え。
 かくて、われらは同胞、相互にたすけはげまし、諸国は正義と愛のきずなもて結ばれ、もって世界は、とこしなえに平和を楽しむにいたらんことを望む。
 願わくは、御身、慈母の愛もてわれらを護り給え。
 天主の聖母、われらのために祈り給え。
 キリストの御約束にわれらをかなわしめ給え。
 祈願 全能永遠なる天主、主は童貞聖マリアの御心のうちに聖霊のいみじき御宿をしつらえ給いたるにより、願わくは、御あわれみをたれて、かの汚れなき聖母の御心に日本を捧げ奉りたるわれらをして、主の聖心にそいて生くるを得しめ給え。われらの主キリストによりて願い奉る。アーメン


聖母の汚れなき御心に日本を捧ぐる祈
(1844年5月1日(マリア月の初日)キリシタン弾圧後に最初に再布教に来日したフォカード師が聖母の汚れなき御心に日本を捧げた時の祈り。来年2014年5月1日は、日本が聖母の汚れなき御心に奉献されて170周年。)

 ああマリアの至聖なる聖心、諸の心の中にも至って麗しく、清く、気高き聖心、善良柔和、哀憐、情愛のつきぬ泉なる聖心、諸徳の感ずべき奥殿、いと優しき美鑑なる聖心、ただイエズスの神聖なる聖心に遜色あるばかりなる聖心よ、我はきはめて不束なる者なれども初めてこの琉球の島々に福音宣伝の重任を托されたるにより、我力の及ぶ範囲内に於て、この島々をば特に御保護の下に呈し奉り、献納し奉る。その上、いよいよ布教を開始して、その基礎を固め、この島人を幾人にても空しき偶像礼拝よりキリスト教信仰に引き入れ、一宇の小聖堂にても建設するを得るに至らば、直ちにローマ聖座に運動してこの国を残らず、公にまた公式に御保護の下に托すべきことを宣誓し奉る。
ああ慈悲深きマリアの聖心、神聖なるイエズスの聖心の前に於ていとも力ある聖心、何人たりともその祈祷の空しかりしを覚えしことなき聖心よ、卑しき我祈願をも軽んじ給はず我心を一層善に立帰らしめ、数々の暗黒に閉され居るこの心の雲霧を払ひ給へ。我は大なる困難、危険の中に在るものなれば、願くは謙遜、注意、鋭智、剛勇の精神を我が為に請求めさせ給へ。全能、哀憐の神なる聖父と聖子と聖霊とはこの賤しき我を用ひて「強き所を恥かしめ、現に在る所を亡し(コリント前1,28)」幾世紀前より暗黒と死の蔭とに坐せるこの民をば福音の光と永遠の生命とに引き戻し、之に立向はしめ、辿り着かしめ給へ。アメン。
これを、那覇の港、アルクメ−ン号にて、1844年5月1日ミサの後に為した。

O cor Mariae sanctissimum, cor omnium cordium ornatissimum, purissimum, nobilissimum ; cor bonitatis, mansuetudinis, miscricordiae, et amoris fons perennis ; cor omnium virtutum mirandum sanctuarium et suavissimum exemplar ; soli divino cordi Jesu cor inferius ; insulas illas Lieu-Kieu, (Riu-Kiu), primum evangelisandas mihi licet indignissimo commissas. tunc temporis, quantum in me est, et ad me pertinet, sub speciali patrocinio tuo offero, pono, dico, consecro ; insuper vovens me, ubi aliquot tantummodo et earum incolis ab inani idolorum cultu ad christianam fidem transierint ubi sacellum etiam minimum aedificatum fuerit, vere incoeplâ stabilitâque missione, omnia sine ullâ mora acturum esse, ut a Sancta Sede Apostolica, sub eodem speciali patrocinio totum regnum istud aperte et, authentice ponatur.
O cor piissimum, apud divinum cor Jesu cor potentissimum, cor quod nullus inanibus precibus unquam exoravit, humillimas deprecationes meas ne aspernare, miserrimum cor meum ad melius converte, mentis istius tôt tenebris circumfusae caliginem discute, spiritum humilitatis, prudentiae, sapientiae et fortitudinis inter tantas difficultates tantaque pericula mihi obtinere dignare : Teque mediante, omnipotens et misericors Deus, Pater Filius, et Spiritus Sanctus, vili isto instrumenta uti non dedignetur, ut confundat fortia, ut ea quae sunt destruat; populumque istum a tôt saeculis in tenebris et umbra mortis sedentem ad sancti Evangelii lumen aeternamque vitam demum convertat, dirigat, perducat. Amen.

9月のミサ聖祭は当初の予定より日程が変更になりました。

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アヴェ・マリア!

 

愛する兄弟姉妹の皆様、

9月のミサ聖祭は当初の予定よりたびたび日程が変更になりました。どうぞご了承ください。

【大阪】


   9月13日(金)聖霊降臨後第16週の金曜日(4級平日)緑
          午後5時   ロザリオ及び告解
          午後5時半  ミサ聖祭

   9月14日(土)聖十字架の称賛(2級祝日)赤
          午前10時半 ロザリオ及び告解
          午前11時  ミサ聖祭


【東京】


   9月14日(土)午後6時半 グレゴリオ聖歌に親しむ会

   9月15日(主)聖霊降臨後第17主日(2級主日)緑:童貞聖マリアの七つの御悲しみの記念
          午前10時  ロザリオ及び告解
          午前10時半 ミサ聖祭
             〜昼食休憩〜
          午後2時半頃 公教要理
          午後4時頃  主日の第二晩課

   9月16日(月) 殉教者教皇聖コルネリオ、殉教者司教聖チプリアノ(3級祝日)赤:殉教者童貞聖エウフェミアと聖ルチアとジェルミニアノの記念
          午前8時   ミサ聖祭(※開始時刻にご注意ください。)

 

よろしくお願いいたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖ピオ十世会アメリカの神学校のプロジェクト

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アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか?昨日の9月3日は、聖ピオ十世の祝日でした。

 聖ピオ十世会本部が発行している Nouvelles de Chretiente (N. 141, mai/juin 2013) を読むとアメリカの神学校のプロジェクトの記事がありましたので、ご紹介します。



 現在、アメリカのウィノナにある聖ピオ十世会の神学校はあまりも神学生がいっぱいで全員を収容するのに困難になっています。ほかの新しいミサの神学校は第二バチカン公会議以後召命はますます少なくなっているのですが、ウィノナでは召命は毎年増加しています。この傾向はとどまることを知らず、すぐに北米では神学生を受け入れることができなくなってしまうことが予想されます。

 このうれしい叫びの問題を解決するために、いろいろな可能性と方法が研究されました。既存の神学校の建物を増築することをまず考慮しました。教室と神学生たちの部屋の棟を付け加える設計図が検討されました。しかし一番の問題は、聖堂と食堂の収容可能数を増やすことでした。これらを拡大するためには、聖堂と食堂とを全て壊してから建て直さなければなりません。古い建築物に新しい建築物を付け加えるときにいろいろな制限が法によって要求され、膨大な建築費用がかかることが予想されます。

 次に、古い神学生がいなくなった神学校を購入することが検討されました。100近くの神学校などを訪問して見学しました。それらのうちで有力な候補を詳しく検討してみた結果、広さが十分でない問題、建物の強度の問題、維持費があまりにも高価である問題、また聖ピオ十世会であるという理由で売却を拒否されるという問題にぶち当たりました。
 たとえば、或る神学校は訪問している最中に仏教のために売却されてしまいました。その周辺にも売りに出された神学校を見つけたのですが、聖ピオ十世会には売らないと拒否されました。仏教であれば良いが、カトリック聖伝にはダメだということです。そのほかにも、或る修道会に所属するよい建物があり、購入の意向があることを申し出ると、修道会としても良い返事を出したケースがあります。そこで長上に同意を求めると、カストゥリオン・オヨス枢機卿がストップをかけ、契約は成立しませんでした。

 そこで既存の神学校を残しつつ第二の神学校を建設することも検討しました。しかし、神学校の機能を二つに分けることによって、維持費、教授陣、その他全てが二倍になってしまうのです。また神学校と神学生の教育との統一性を維持するために、できる限り神学校を一つにとどめることが望まれます。それによって神学生たちを教授陣がよりよく教育し評価することができるからです。

 七年間の様々な研究の末に、2010年ウィノナの校長であるルルー神父様がフェレー司教様とアメリカのヴァージニアにある農地を視察し、アメリカの東海岸のヴァージニア州にある土地を購入することが決定されました。司祭養成に適した静かな自然に囲まれた場所であること、近辺に空港があること、税金が安いことから、ここが選ばれ、四二〇ヘクタールの土地(ウィノナの神学校の約三倍の面積)に神学校を建設することになりました。神学校に付属する農地は神学校を維持するための収入源にもなりますし、その他の活動のために利用されます。

 この計画が完成した暁には、一三五名の神学生たちと司祭とが生活し、さらに叙階式のために訪問する司祭たちやその他の来客を、四〇名受け入れることができるようになります。神学校の中心は大聖堂で、叙階式をその中で執行することができるものです。主祭壇のほかに副祭壇が三つ作られ、地下聖堂には神学校教授や訪問の司祭たちのための十の祭壇が建てられます。
 複数の教室は、各々約三五名の神学生たちを収容し、その他にも神学生全てを収容できる教室も作られます。
 新しい神学校には、神学生たちだけに限られた禁域が作られ、沈黙と祈りと勉学の雰囲気を保つための特別の区域が予定されています。また、別棟には、神学校とは区別された「黙想の家」があり、神学生のみならず、信徒たちの黙想のためにも利用されます。天主の御助けによって工事は2015年の夏には完成することが期待されています。第一期は、神学校の建設で、地下聖堂、教室、寝室、食堂などの建設が行われます。これによってウィノナからヴァージニアに移転することで、神学生たちの部屋の不足問題を解消します。第二期は、大聖堂の建設で、これは神学校が移転した後に続けて行われます。

 このプロジェクトは第一期に二千万ユーロ、第二期に一千二百万ユーロがかかります。最初の計画では、大聖堂は現在のウィノナの聖堂の三倍を予定していましたが、予算の関係で二倍に抑えることになりました。必要なものだけを残しています。

 昔であればこのような建築をする場合百年以上を掛けることができました。私たちは五年で建築をしなければならないので(建築許可の有効期間が五年間)、費用が掛かってしまいます。しかし、霊魂たちの善のために、私たちの主イエズス・キリストのためにカトリック司祭を養成するために、天主の光栄のために、この神学校を建設プロジェクトを立ち上げました。

 この神学校建設のために、ヴァージニア州バッキンガムの様々な方々がサポートしてくれています。ある日、建設許可をバッキンガムの地方行政庁から得る必要があったのですが、行政庁は聖ピオ十世会をよく知るために、二名の視察士をウィノナに派遣し神学校を視察見学しました。視察士は二日神学校に泊まり神学生たちの日常生活を見て大変感動し、私たちの神学校プロジェクトの承認を求めました。

 移転の後には、聖ピオ十世会アメリカ管区は、ウィノナの既存の建物を機能し続け、あるいは学校、あるいは黙想の家、あるいはその他の目的のために利用する予定です。

 私たちは、カトリック聖伝が果たすこの新しい神学校建設を、信仰の証として、聖伝の実りとして、世界中のカトリック教会に大きな影響を与えることができるものとして考えています。神学校は、全カトリックにとって大きな喜びであるはずです。霊魂の救いのために司祭がそこで養成されるのですから。この喜びは、二十一世紀において、この現代社会において、カトリック教会がその聖伝とともにこのような建築をすることができるという喜びであり、私たちの希望をさらに強くするものです。聖ピオ十世会がアメリカにおいて司祭養成の聖務を続けるために、どうしても必要とされるこの神学校は、カトリック聖伝の発展を明らかに示しています。新しいミサの神学校は廃校になる中、聖伝の神学校はより多くの召命を養成し続けていることを示しています。これは、全カトリック教会のための利益です。何故なら、カトリック教会のためにより多くの司祭を養成することこそ、聖伝がカトリック教会のためにすることのできる最大の奉仕であるからです。
 私たちの日本からも、多くの司祭・修道者召命が与えられるように祈りましょう。
聖ピオ十世、我らのために祈り給え!
聖ピオ十世、日本のために祈り給え!
聖ピオ十世、全世界のために祈り給え!


天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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330年前、1683年9月12日ウィーンでの勝利

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アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今から330年前の1683年9月には、第二次ウィーン包囲戦がありました。
神聖ローマ帝国の首都であるウィーン、またオスマン帝国に対峙するキリスト教世界の東の要所としてのウィーンにおける攻防戦でした。以前はキリスト教の中心地の一つであったコンスタンチノープルはイスラムに攻撃され、1453年5月29日イスラムの手に落ちました。コンスタンチノープルはイスタンブールとなりトルコのオスマン帝国の首都となっていました。
 1683年、オスマン帝国はイスタンブールを基地として、西方のキリスト教世界の首都に大攻撃を仕掛けました。
 キリスト教世界を、異教徒らの攻撃から外部から守り、異端者らの攻撃から内部から守るという使命を持っていた神聖ローマ帝国皇帝は、その当時、ハプスブルク家の皇帝レオポルト一世でした。ウィーンは自分の住む居住地でもありました。
 当時のフランス王ルイ十四世は、レオポルトよりも強くローマ皇帝を助けることができたのですが、そして教皇インノチェンテ十一世がルイ十四世に援助を求めていたのも関わらず、それを断ります。ウィーンは、ポーランドの王ヤン・ソビエスキによってきわめて劇的に救われたのでした。そしてウィーン市民たちが聖クララのアブラハム神父(Abraham a Santa Clara)に励まされて守ったのでした。エルンスト・リュディガー・フォン・シュターレンベルク(Ernst Rüdiger von Starhemberg)が、神聖ローマ皇帝レオポルト1世からウィーン防衛司令官に任じられていました。

 オスマン帝国は、1672年6月にポーランドに攻撃をかけたとき、弱いミハウ・ヴィシニョヴィエツキがポーランド王でした。(二年後にヤン三世ソビエスキが王位に就きます。)オスマン帝国の大宰相カラ・ムスタファ(Kara Mustafa)は、ポーランドからウクライナを要求しましていました。軍司令官としてヤン・ソビエスキがウクライナに行きオスマン帝国と戦争し、教皇クレメンテ十世は他のカトリック君主たちにポーランドを助けるように要請しました(答えは無し)。1676年、ミハウの死後、ソビエスキが王に選ばれました。

 1682年5月13日、オスマン帝国の第19代皇帝メフメト四世は、大宰相カラ・ムスタファにウィーンを占領するように命じて聖なる「予言者の旗」を渡しました。もしウィーンを手に入れれば、神聖ローマ帝国に対する勝利であり、その影響は計り知れないものがあります。7月13日にはオスマン帝国の大軍はウィーンに到着します。14日にはトルコの大砲がウィーンの城壁を攻撃し、26日にはウィーン市の道路でフォン・シュターレンベルクが戦いを交えています。8月初めには、ウィーンは完全に包囲されてしまいました。

 神聖ローマ帝国皇帝レオポルトはソビエスキにウィーンを守ってほしいと要請すると、すぐに自分から軍を率いてワルシャワを出発しました。7月22日にウィーンの防衛は首都ワルシャワの安全よりも重大である、と書いています。ウィーンに向かって南に行進し、途中チェンストホーバで立ち寄り祈りを捧げました。8月15日クラクフを発ったソビエスキは、オーストリアやドイツの諸侯と、ドナウ河のトゥルン(Tulln an der Donau)で集合することにしていました。8月23日、ソビエスキは教皇に最期まで戦うと書き送りました。8月末になるとウィーンの城壁内では食べ物が底をついていました。

 8月26日、オスマン・トルコはウィーンの降伏を要求しますが、フォン・シュターレンベルクはこれをあくまでも拒否します。強い雨が降り続け、オスマン帝国の攻撃は鈍っていました。9月の最初、フォン・シュターレンベルクは、ウィーンの城壁はもはや長くは持ちこたえられない、と書いています。9月4日、トルコ軍はウィーン城壁を火薬で爆破し始めます。ソビエスキ率いるポーランド軍は14日間で350キロを行進しました。9月6日、ポーランド軍はトゥルンでオーストリア皇帝軍と合流しています。

 オスマン軍はウィーンの突破口を開きつつありました。守備軍は必死に抵抗し、ウィーンは辛うじて守られていただけでした。オスマントルコ軍は大宰相カラ・ムスタファにウィーンの防御は「絶望的である」と報告します。しかし、フォン・シュターレンベルクもソビエスキも、そうは考えませんでした。ウィーンの城壁内からは聖シュテファン・ドム(聖ステファノ司教座大聖堂)の高い塔から劇的な様子を見守っていました。それと同時にソビエスキはウィーンの郊外カーレンベルク(Kahlenberg)の丘からウィーンの町並みとウィーンを包囲するオスマン軍の様子を見渡していました。

 ヤン3世ソビエスキのポーランド軍と、オイゲン・フォン・ザヴォイエン(Eugen Franz von Savoyen-Carignan、プリンツ・オイゲン(Prinz Eugen))の率いるオーストリア軍らは、偵察によりオスマン軍の情報を得て、オスマン軍は数の上で連合軍を上回っているけれども、オスマン軍の一部のタタール軍などはカラ・ムスタファに対して非協力的なこと、カラ・ムスタファの指揮が不統一であること、士気が弛緩していること、防備体制が弱体であることなどを見抜き、9月12日朝6時5分、総攻撃をかけました。連合軍による攻撃の開始は、9月13日が予定されていたのですが、ソビエスキが9月12日に連合軍に総攻撃を命じたのです。

 総攻撃の前、カーレンベルクの丘でソビエスキと指揮官たちはミサにあずかっていました。このミサ聖祭は教皇特使である、カプチン会司祭マルコ・ダヴィアノ神父によって捧げられました。ソビエスキ自身がこのミサで侍者をしました。攻撃の前、ソビエスキはチェンストホーバの聖母に熱心な祈りを捧げました。

カーレンベルクの教会
この記念として、後にこの場に教会が立てられました。


 聖母の聖誕(9月8日)の八日間内の主日であった9月12日、この決定的な日にトルコ軍には9万の兵士が、キリスト教軍には7万の兵士が戦いました。夕方6時頃にソビエスキの指揮する2万名からなる重装騎兵がウィーンの丘を駆け下り、ポーランドの有名な有翼重装騎兵がオスマン軍を大混乱に陥れました。偵察によってカラ・ムスタファの本営の位置を突き止めていたソビエスキは、オスマン軍に対して中央突破します。オスマントルコ軍司令部は混乱に陥れられ、1時間ほどの戦闘によって、カラ・ムスタファの軍は散り散りになり、戦場に1万5千の兵士を見捨てたまま潰走しました。キリスト教軍は1500名が戦場で失われました。カラ・ムスタファは着の身着のまま馬を一頭もって逃げ、その他の所持品などは陣地に残されたままでした。(戦いの後、ウィーンの市民たちはオスマン軍の残していったコーヒー豆の袋を大量に見つけ、ポーランド王ヤン三世の将校フランチシェク・クルチツキ(Franciszek Jerzy Kulczycki)がウィーンで最初の珈琲のお店を開いたとのことです。彼がそのコーヒーに牛乳を入れてのみ、マルコ・ダヴィアノ神父を記念してカプチーノと名前がつけられたそうです。ウィーンにはフランチシェク・クルチツキにちなんだ"コルシツキー通り"(Kolschitzky gasse)という道路があるそうです。)

ソビエスキ

 ソビエスキは、ユリウス・カエサルの有名な言葉(Veni, vidi, vici)をもじって、この大勝利を教皇にこう報告しています。Venimus, vidimus, Deus vicit. 私たちはやって来た、私たちは見た、天主は勝利した、と。

 夕暮れで暗くなったために追撃は早々に打ち切られたため、カラ・ムスタファは無事に逃げ延びることができたのですが、逃亡したイスラム軍は、10月9日ソビエスキによってハンガリーのパルカニの戦いによって壊滅させられました。

 戦いに負けたカラ・ムスタファは、1683年12月25日、責任を問われてベルグラードで死刑に処されました。

12. September 1683 Johann III Sobietzki, König v. Polen

Von diesen Anhöhen zogen am Morgen des 12. September 1683 Johann III Sobietzki, König v. Polen, der kaiserliche General Lieutenant Herzog Carl v. Lothringen, die Churfürsten Johann Georg III v. Sachsen und Max Emanuel v. Bayern, Fürst Georg Friedrich v. Waldeck, die Markgrafen Hermann und Ludwig Wilhelm v. Baden und andere Heerführer mit den Truppen des Kaisers Leopold I. sowie mit deutschen und polnischen Hilfsvölkern in den Kampf zur Befreiung der von der türkischen Kriegsmacht durch ein und sechzigtagige Belagerung schwer bedrängten Stadt Wien. In dankbarer Erinnerung an den ruhmvollen Sieg des Entsatzheeres die Stadt Wien: 12. September 1883.

 チェンストホーバの聖母マリアに熱心に祈って戦いに臨んだこのソビエスキは、この勝利によりイスラム教オスマン帝国の侵略からキリスト教世界を守ったのです。キリスト教連合軍の総指揮官であるポーランド王ヤン三世ソビエスキは、世界史において最も決定的な戦いに勝利を収めたのでした。これをもってオスマントルコはヨーロッパの侵略を中断します。ヨーロッパ中の王たちは、ソビエスキに祝福の言葉を贈り、ポーランド王とその軍隊は、キリスト教世界の守護者として賞賛を浴びました。(ただ、残念ながら、オーストリアは十八世紀にはポーランドを侵略します。)チェンストホーバの聖母マリア様のおかげで、ソビエスキのおかげで、今でもその昔と同じように、ウィーンには聖ステファノ大聖堂の高い塔が立ち続けています。

聖ステファノ大聖堂

聖ステファノ大聖堂

カーレンベルク

 福者インノチェンテ十一世は、ソビエスキがこの戦いにおける保護をチェンストホーバの聖母マリアに委ねていたので、このウィーンでの勝利を記念して9月12日を聖母マリアの聖名の祝日として制定しました。

Concede, quaesumus, omnipotens Deus:
ut fideles tui, qui sub sanctissimae Virginis Mariae Nomine et protectione laetantur; eius pia intercessione a cunctis malis liberentur in terris, et ad gaudia aeterna pervenire mereantur in coelis. Per Dominum nostrum Jesum Christum, Filium tuum, qui tecum vivat et regnat in unitate Spiritus Sancti, Deus, per omnia saecula saeculorum. Amen.

全能の天主よ、願わくは、至聖なる童貞マリアの名前と保護とのもとにおいて喜ぶ御身の信者らが、聖母マリアの優しき取り次ぎにより、この世においては全ての悪から解放され、天においては永遠の喜びにたどり着くにふさわしい者とならんことを。

チェンストホーバの聖母マリアよ、我らのために祈り給え!
チェンストホーバの聖母マリアよ、我らを守り給え!
チェンストホーバの聖母マリアよ、我らを憐れみ給え!

西方キリスト教世界を救ったチェンストホーバの聖母マリアに感謝!
ソビエスキに感謝!ポーランド軍に感謝!

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


明日9月13日から大阪で聖伝のミサがあります。
9月15日には東京で主日のミサ聖祭があります。


天主様に感謝!

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アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 天主様に感謝! 9月13日、14日と大阪で、9月15日、16日と東京で聖伝のミサが捧げられました。特に、9月16日には、台風で天候が悪かったのですが、5名の方々がミサ聖祭にあずかるお恵みをいただきました。
 今月は、14日にも大阪で新しい未信者の方が、15日には東京でカトリック信徒の方が、さらに16日に東京で別のカトリック信徒の方が与られ、新しい方々が聖伝のミサのお恵みを得たということに天主様に感謝します。

 さて、9月のミッションついて、次のようなご報告をいただきましたので、ご紹介します。

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アヴェ・マリア!

13日金曜日は、10人の方が前日の「聖母の御名の祝日」の隨意ミサに、
14日土曜日は、「聖なる十字架の称賛のミサ」には17人が預かるおめぐみを頂きました。デオグラチアス!
私達人類を救う為に、十字架に付けられて罪をあがなう事を望まれた天主様の深い愛に感謝し、自分に与えられた十字架に、イエズス様を見て、イエズス様をお愛しするように苦しみを愛せるようになりたいと思いました。お忙しい中、大きな犠牲を払って日本で御ミサを挙げて下さる神父様に、感謝致します。小野田神父様の上に天主様の大きな祝福がありますように!!

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15日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 14人(内、子供0人)
女: 15人(内、子供0人)
計: 29人(内、子供0人)

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天主様に感謝!

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

司祭黙想会

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アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖ピオ十世会のアジア管区の司祭たちは、今日から一週間の黙想会に入ります。良い黙想会になるようにお祈りください。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!

トマス小野田圭志神父

10月14日月曜日のミサ

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アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

クチュール神父様からの連絡ですが、10月14日月曜日の朝の東京のミサは、都合により朝7時に始まります。時間の変更申し訳ありません。よろしくお願いいたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!!


トマス小野田圭志神父

ロシアをマリア様の汚れ無き御心に奉献

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アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様

今朝の月曜日のミサの開始が7時になってしまい申し訳ありませんでした。二名の方々がミサが8時のままだと来られました。大変申し訳ありません。今朝は9名の愛する兄弟姉妹の皆様がミサに与ることができました。

兄弟姉妹の皆様のしもべは、昨日の10月13日の主日にはティシエ司教様とソウルで過ごしました。私たちの聖ピオ十世会の教会は、人があまりにいっぱいで入り切れず、立ち見の方々が多くありました。They are outstanding Catholics!

ソウルでは16名が堅振を受けました。

また、ミサの後、ティシエ司教様はロシアをマリア様の汚れ無き御心に奉献する祈りを唱えました。天主に感謝!

また改めて、詳しい報告をいたします。天主様の祝福が豊かにありますように!!

トマス小野田圭志神父

2013年10月の日本の聖伝のミサの報告

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アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2013年10月の日本のミッションは、クチュール神父様がなさってくださいました。以下にあるようなご報告をいただきましたのでご紹介いたします。

 10月15日には、フィリピンのセブやボホルで大きな地震がありました。私たちの信徒たちも被害を受けたようです。(カチョ神父様のご実家も被害を受けたとのことです。しかし、道路が壊れているのでヘリコプターなどでしか物資を輸送することができないとのことです。)今朝、マニラからタグビラランの空港に援助物資を送ります。

 ティシエ・ド・マルレ司教様は、10月13日には、韓国のソウルで22名に、15日にはイロイロで、16日にはセブで堅振の秘蹟を授けました。今日17日にはカガヤン・デ・オロで、明後日19日にはダヴァオで、20日の主日にはマニラで、最後に22日にはレイテで、堅振式を行う予定です。マニラでは47名が堅振を受ける予定です。

 ところで来月の日本のミッションですが、マニラにどうしても月曜日の午後までに戻らなければならないために、残念ながら、恒例の月曜日の朝のミサをお休みさせていただかなければならなくなってしまいました。どうぞご了承ください。

 ソウルでのミッションのご報告も後ほど改めてさせてください。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖母マリアよ、祈り給え
アヴェ・マリア愛する兄弟姉妹の皆様、ローズ・フーさんは、先ほど天主様に霊魂を返したとのことです。永遠の安らぎを彼女の霊魂に与えたまえ。今日は、大阪でミサ聖祭がありまし...>続きを読む

==大阪==

11日(金)は、13名の方が、
12日(土)のローズフーさんの一周忌の死者ミサには、15名の方が与るお恵みを頂きました! デオグラチアス!

土曜日には、名古屋から洗礼志願者の方が来られていました。御ミサの後には、公教要理ではロザリオの月に、ちなんで、ロザリオの起源となぜ教皇様のためにたくさん祈らなければならないことをお話して頂きました!
ご多忙のアジア管区長クチュール神父様のミッションに心から感謝するとともに天主様がたくさんのお恵みを神父様にお与えくださいますように!

==大阪==

クチュール神父様は12日、ローズ・フーさんのレクイエム・ミサをお捧げになりました。1年たつのですね。聖伝のレクイエム・ミサは、皆さん初めてだったと思います。もちろん、私もそうです。

それでは、来月お会いできるのを楽しみにしております。


==東京==

クチュール神父は今日のミサ中の「聖なるロザリオの力と重要性について」と
題したお説教で、まずロザリオの起源と聖母の聖ドミニコに対するお言葉の意
義を詳しく説明してくださいました。またその後の歴史の中でのロザリオの勝
利、そしてファティマの子供達が『また教皇のため』と祈っていた背景につい
ても教えていただきました。その後、現在の教皇のお考えが近代主義に冒され
ていること、しかし私たちは教皇を助けるため、教皇のために毎日ロザリオを
唱えなくてはならない、というお話しをしてくださいました。

昼食後の霊的講話は聖母の御出現の歴史、聖母が常に聖職者を通して信者にお
恵みをわたされること、ファティマの第3の秘密には聖職者の危機に関する記
述が含まれること、そして聖ピオ十世会が聖職者の養成を通じて聖母、教会の
計画の中に入っていること、などをお話しいただきました。その後、晩課を歌
って終了しました。

ミサの参列者数
男: 14人(内、子供0人)
女: 15人(内、子供1人)
計: 29人(内、子供1人)

霊的講話の参列者数
男: 4人
女: 3人
計: 7人

晩課の参加者数
男: 3人
女: 3人
計: 6人

クチュール神父様による、10月13日の東京での説教
Sermon for October 2013 (2013年10月説教)

聖なるロザリオの力と重要性について

親愛なる兄弟のみなさん

今月は、聖なるロザリオの月、聖なるロザリオによる聖母の大勝利の月という大事な月です。ルシア修道女によれば、聖母が聖なるロザリオに更なる力をお与えになったのは、私たちがこれから生きてゆく困難な時代のためということでしたが、その時代こそ今、教会内でのこの恐ろしい危機の時代です。

聖伝のミサに毎週、あるいは月に1・2度でも参列できるのは大きなお恵みです。しかし、その他の日には、みなさんは毎日のロザリオを忠実に唱えていらっしゃるでしょうか?天国に行くためには、聖伝のミサに与るだけでは足りません。みなさんも天主のお恵みを求めるという自分の役割を毎日果たさなくてはなりません。その役割とは基本的には祈り、とりわけ聖なるロザリオの祈りです。「祈る者は救われ、祈らない者は罰を受ける」と聖アルフォンソは言っています。

特にこの十月の間、みなさんが毎日のロザリオを忠実に唱えられることを奨励するため、
まず、聖なるロザリオの起源と歴史について、
次いで第二の点として、なぜ聖なるロザリオが現代においても大変重要であるかについてお話ししたいと思います。

第一点:ロザリオの起源

それは1214年のことでした。聖ドミニコは後にドミニコ会と称される説教者修道会を既に創立していましたが、すぐに、とりわけ聖ドミニコのいたフランス南部で広がっていたアルビジョア派の異端に直面することとなりました。聖ドミニコはこの異端者達と戦う術(すべ)を知るため、真剣に祈り、厳しい苦行を長期間行なっていたところ、聖母が聖ドミニコの前に御出現になりました。聖母は聖ドミニコにこうおっしゃいました。

「ドミニコよ、この世界を改革するために至聖なる三位一体が望まれる武器を知っていますか?」

聖ドミニコは答えました。「我が聖母よ、御身は私よりずっと良くご存知です。それは御身の御子イエズス・キリストに次いで、御身こそがいつも救霊の道具であったからです。」

聖母は続けておっしゃいました。「あなたに知っておいていただきたいのは、この種の戦争における『破城槌(はじょうづち)』はいつも、新約の礎石である天使の詩篇だということです。ですから、このような心の固い霊魂達に訴え、彼らを天主に改心させるためには、私の詩篇を教えなさい!」

ここで聖母のお言葉を説明しなくてはなりません。

まず、聖母は聖ドミニコが異端派に対して行なっている戦いを『ある種の戦争』と呼ばれます。実際、真理と誤謬、善徳と悪徳の間には、いつも恐ろしい戦いがあります。アルビジョア派はとりわけ婚姻を破壊し、人々が罪のうちに生きることを奨励しており、この異端に惑わされた霊魂達を救うためには、真剣な戦い、本当の戦争が必要でした。

次いで、聖母は『破城槌』のことをお話しになりますが、これもまた非常に象徴的なものです。破城槌というのは、大きな門をこじ開けるためや壁に穴を開けるため、多くの人手で使う、あるいは機械的な仕掛けで動かす大型の木片、ときには一本の木そのもの、のことです。これは開けようとする門や壁を繰り返し叩くことによってのみ効果があります。聖母はロザリオを破城槌に例えられます。何度も何度もめでたしを唱えることによって、悪魔の力を打ち倒し、弱めるのです。また、溢れる恵みの門を開くために天主の聖心をたたくのであるということもできるでしょう。「叩け、そうすれば開かれる」とイエズスはおっしゃいました。

第三に、聖母はロザリオを『天使の詩篇』と呼ばれます。みなさんはダヴィド王がその大部分を書いた旧約聖書の詩篇をご存知でしょう。詩篇は150篇あり、修道士はこれを毎週唱えてきましたし、実際現在でも毎週唱えています。そこで詩篇という言葉は150を意味しています。修道院の修道士の中で読み書きができない者は150の詩篇の代わりに、150の主祷文と天使祝詞とを唱えていました。めでたしの祈りは天使祝詞と呼ばれています。そこで、聖母が『天使の詩篇』や『私の詩編』という言葉をお使いになるとき、それはロザリオ全体の150のめでたしの祈りのことをおっしゃっているのです。

最後に、聖母は天使の詩篇は『新約の礎石である』とおっしゃいます。贖罪のための御托身は受胎告知によって開始され、その受胎告知は『めでたし』によって始まったのです。聖母が大天使ガブリエルの言葉に対して「私は主のはしためです」という言葉でお受け入れになったのは、天主の御言葉の御托身への承諾、天主の母となり私たちの母となることへの承諾、そしてまた蛇との間に敵意を置かれ、蛇の頭を踏みくだく女となることへの承諾でありました。

聖母が聖ドミニコにおっしゃった言葉をもう一度みてみましょう。

「あなたに知っておいていただきたいのは、この種の戦争における『破城槌(はじょうづち)』はいつも、新約の礎石である天使の詩篇だということです。ですから、このような心の固い霊魂達に訴え、彼らを天主に改心させるためには、私の詩篇を教えなさい!」

聖ドミニコはこれに従ったのです。そして何千人もの異端者が改心しました。

数百年後、フランス王ルイ13世はプロテスタントとの戦いにおいて同じ言葉に従いました。勝利への感謝として、勝利の聖母の教会という有名な教会をパリに建てました。勝利の聖母の祝日は10月7日です!

更に後、最初のドミニコ会出身の教皇聖ピオ5世は、ヨーロッパの侵略を目前にしていたイスラム教トルコに対する聖戦においてロザリオを用いました。そしてロザリオは再び勝利しました。その日は1571年の10月7日でした。

その後もロザリオの勝利は数多く、今日まで続いています。

したがって、聖母がファティマにおいて、共産主義という病に対してロザリオを唱えることを勧められたことはなんら驚きではありません。アルビジョア派に対しても、プロテスタントに対しても、イスラム教徒に対しても、共産主義者に対しても、『この種の戦争』においては、いつも私たちの『破城槌』、すなわちロザリオを使わなくてはなりません。私たちには聖母の御約束があり、歴史がそれを証明しているのです。


第二の点である現代のお話しをする前に、ファティマの歴史の中でひとつ指摘したいことがあります。汚れなき御心の勝利を得るかそれが遅れてしまうかについて教皇達が非常に大事な役割を持つことになる、ということをファティマの子供達は理解していました。子供達は、これについて大変悲劇的なことが起こると感じ、自分達の犠牲を捧げる際いつも『罪人の改心のため、また教皇のため』という言葉を付け加えていました。

ロシアを汚れなき御心に奉献するという聖母の依頼を7人の教皇が拒否するということを子供達はわかっていたのでしょうか?また結果としてロシアがその誤りを広め、何億人もの死を招くということを?ファティマの第3の秘密を読んだチアッピ枢機卿が言ったように、「離教は教会の頂点から始まる」ということをこの子供達もわかっていたのでしょうか?これによってファティマの子供達の言葉や態度の説明がつき、1944年1月ルシア修道女が第3の秘密を書き記す際に身体麻痺のような状態になったのも説明がつきます。

第2点:現代におけるロザリオの必要性

『また、教皇のために!』

その通り、親愛なる兄弟のみなさん、教皇のためにロザリオを、たくさんのロザリオを唱えることが必要です。教会の状況は悪化しており、今の教皇はベネディクト教皇のように第2バチカン公会議の教父ではありませんでしたが、第2バチカン公会議の子であり、公会議の原則が物事をどれだけ変えてしまっているかを示していますが、これは非常に憂慮すべきことです。

教皇の行動の多くは、悲しいことに、大変悲しいことに、この教皇が近代主義に冒されていることを示しています。例えば、教皇の最初の信仰に関する回勅、『Lumen Fidei(信仰の光)』では、教皇は信仰と愛とを混同しています。信仰と愛は異なった二つの対神徳です。信仰は知性のうちにあり、その対象は天主によって啓示され、教会によって示される真理であり、これに対して、愛は意志のうちにあり、その対象は至高な善としての天主です。ところが、教皇は回勅――以前これは司教たちのためのものであったのですが、今やむしろ一般世界のためのもののようですが――のなかで、「信仰は、愛に繋がる範囲で、愛自体が光を運ぶ範囲で知ることができる。」と述べています。この回勅を読むと、信仰は愛に基づいた宗教的感情に過ぎないとされているのがわかります。実は、これこそが聖ピオ十世が近代主義と呼んだものです。

次に、教皇は公会議の二人の教皇であるヨハネ23世とヨハネ・パウロ2世とを列聖すると発表しました。ヨハネ23世については、人が天国にいることの徴しである奇蹟をも求めないこととしてしまいました。ヨハネ・パウロ2世については、Angelus Pressから出版されている『Doubts on a Beatification(列福への疑問)』という本をお読みになることをお勧めします。ヨハネ・パウロ2世は信仰・希望・愛の3つの徳に関して異なった理解をしています。このような列聖――もし天主がそれをゆるされるのなら――は教会の四つの印の一つである聖性という考え自体を変えてしまいます。このような列聖の真の目的は第2バチカン公会議と教会を破壊している公会議の誤謬を列聖することにあります。

フランシスコ教皇が行なった全てのこと、例えば昨年8月ブラジルで行なわれた恐ろしく、恥ずべき世界青年の日の行事や、第2バチカン公会議は変更不可能であると述べた最近のイエズス会との長いインタビューなどについて詳しくお話しすることはできません。ここでは、より最近、10月2日に、無神論者を自認する編集者が発行するイタリアの新聞『Reppublica』に掲載されたインタビューについてお話ししたいと思います。

この新聞の編集者エウジェニオ・スカルファリに対して教皇が最初に言った言葉のひとつは、「改宗は大げさで馬鹿げたことだ。改宗に意味はない。」というものです。この言葉の意味するところは、私たちは人々を改宗させようとすべきではない、ということです。これは私たちが聖書で読んでいることとは違っています。「あなたたちは、行って、すべての人々に福音をのべ伝えよ!」

この新聞の編集者であるスカルファリ氏は、何が善であるかについて唯一の見方が存在するか、またそうであるとすると、誰がこれを決められるのか、と教皇に尋ねました。

教皇はこう答えました。「すべての人は何が善であるか、また何が悪であるかについて自分自身の見方を持っている。私たちの役目は、全ての人が、自分が考える善によって示される道に従うことを勧めることにある。」また教皇は更に次のように述べました。「わたしはこれを繰り返して言いたい。全ての人は善を悪とについて自分自身の考えをもっており、各人は自分自身の考えに基づいて善に従い、悪と戦うことを選ばなくてはならない。よりよい世界に住むためにはこれで十分だろう。」

このような世界はひどいものです。十戒も、十戒の保護者であり唯一の解釈者である教会の役割もなくなってしまっています。

なぜ、ファティマの子供達が『教皇のために』あれほど祈り、苦しんだのか、また聖母がなぜ「毎日ロザリオを唱えなさい!」とおっしゃったのかが、私たちには理解できます。

最後に、現代の出来事を見るにあたって大変重要な知恵の言葉を『キリストに倣いて』から引用したいと思います。
『もしもあなたが他の人の罪を目の当たりにしたり、他の人が重大な罪をおかすのを見たとしても、 自分はその人よりも良い人間だと考えてはいけません。というのは、あなたがいい状態にいつまでいることができるのか、 あなたは知らないからです。人はみな、弱くもろいものです。しかし、あなた自身が一番弱くてもろいものだと認めなさい。』(第1章、第2節)

親愛なる兄弟のみなさん、聖母が私たちに勧めてくださったように毎日ロザリオを唱え、教皇のためにお祈りください。皆さんお分かりのように、教皇の考えは近代的な誤謬に満ちています。教皇のためにロザリオをお唱えください。私たちが教皇を助けるには、これが最良の方法です。罪を避けてください。度々告解に行ってください。ご自分の身分に応じた義務を果たしてください。

ロザリオの聖母、我らと「教皇のために」祈りたまえ!


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