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天主様に感謝! 今日、東京で聖伝のミサによる枝の祝日が執行されました

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アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

天主様に感謝! 今日、東京で聖伝のミサによる枝の祝日が執行されました。次の通りご報告を戴きましたのでご紹介いたします。レネー神父様には感謝します。レネー神父様のお説教については、明日、改めてアップいたします。
愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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今日レネー神父はお説教で主キリストの偉大さについてお話しくださいまし
た。聖パウロのヘブライ人への手紙に沿って、新約は旧約にまさり、キリスト
が真に造り主であることからモイゼにまさり、大祭司としてアアロンにまさ
り、さらに旧約を完成する永遠の新約を定めてくださったこと、また主キリス
トは大祭司として、唯一かつ完全な犠牲をご自分の教会を通じてミサという形
で捧げ続けておられること等を教えていただきました。

昼食後の霊的講話は教会の教父についていろいろ説明していただきました。教
父たちは聖人であり、教会の初期(5世紀まで)に活躍し、書物を残している
人々で、私たちは教父たちの著作をみることによって、例えばカトリックの教
えはいつも使徒から代々伝承されたことにあり("Nihil innovetur, nisi quod traditum est")、真の意味で使徒継承のものであること、初期の教会の
時代からローマの首位権があまねく認められていたことがわかること等、教父
たちの著作を直接引用しながら、また聖ステファヌス教皇と聖キプリアヌスと
の論争などの具体例を挙げながら解説していただきました。

その後、枝の主日の晩課を歌って終了しました。

ミサの参列者数
男: 15人(内、子供1人)
女: 17人(内、子供1人)
計: 32人(内、子供2人)

霊的講話の参加者数
男: 5人
女: 7人
計: 12人

晩課の参加者数
男: 5人
女: 4人
計: 9人


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今年で8回目になる巡礼ですが、ご参加希望の方々は、聖ピオ十世会日本 秋田巡礼 SSPXJAPAN PILGRIMAGE TO AKITAなどを通してお申し込みください。


キリストの偉大さについて(4月12日土曜日―大阪、枝の主日―東京 レネー神父説教)

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アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様

 聖金曜日です。予定が遅れてしまいましたが、枝の主日のレネー神父様がなさったお説教の日本語訳をご紹介します。お説教を日本語にすばらしく訳してくださる信徒会長様には、心から感謝します。

 愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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キリストの偉大さについて(4月12日土曜日―大阪、枝の主日―東京)

親愛なる兄弟のみなさん、

今日群衆は「ダヴィドの子にホザンナ」(マテオ21章9節)と叫んで、私たちの主イエズス・キリストが王であることを歓喜の声で宣言します。しかし私たちの主は謙遜な方で、驢馬にまたがっておられます。ご自分を守る軍隊を持っていらっしゃる訳でもありません。私たちは、私たちの主イエズス・キリストが卑下(ひげ)されたこと、とくに御受難の際にお示しになった驚くべき卑下(ひげ)、すなわち「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた」(フィリッピ人2章8節)ことを、いつも考えることには慣れています。しかし私たちの主の偉大さの方を忘れてしまいがちではないでしょうか。聖パウロはその節の冒頭で、「かれは、本性として神であった」(フィリッピ人2章6節)と言っているのです。この本性という言葉は哲学の用語で、本質のことを意味しています。キリストは天主の本質をもっておられるのです!

天主の偉大さについて、聖パウロはヘブライ人への手紙の中で美しい描写をしています。このヘブライ人への手紙の書き方が聖パウロの他の手紙と違うところは、おそらく聖パウロが自分と同じヘブライ人達に対して話しかけているということ、つまりヘブライ人達が異教からの改宗者達よりも旧約聖書のことについてずっとよく知っていることを意識して書いていることです。ここでの聖パウロは、ガマリエルの下で学び(使徒行録22章3節)、「先祖の伝えにたいして非常に熱心で、同族の同年輩の多くの人々よりも、ユダヤ教の教えにすすんでいた」(ガラツィア人1章14節)ユダヤ人の律法学者サウロとして語っています。このヘブライ人への手紙では、聖パウロは他のどの手紙よりも多くの旧約からの引用を行ないますが、それは手紙を読む人達が自分の引用する聖書の箇所の背景に通じていることを前提として書いているからです。

聖パウロは長さの異なる三つの論を述べますが、それは全て新約が旧約にまさっていることの証明をするためのものです。聖パウロはまずイエズスを旧約での仲介者であった天使と比較してこう言います:「神はどんな天使にむかって、『あなたは私の子である、私は今日あなたを産んだ』、また『私はかれの父となり、かれは私の子となる』とおおせられたことがあろうか。」(ヘブライ人1章5節)と。聖パウロはここで詩編の第2篇と第88篇とを引用していますが、共にメシアがまさに天主の御子であることを明確に預言しているものです!彼こそが本性において子であり、それゆえに父と同じ天主の本性、即ち神性をもっているのです。なぜなら父から生まれる子は父と同じ本性を持っているからであって、そうでなければその子は怪物ということになってしまうでしょう。これによってメシアが全ての天使にまさるものであることが示されます。

聖パウロは続けます。「そして神は、長子をこの世に入れられたとき、『神のすべての天使は、かれを礼拝せよ』とおおせられた。」(ヘブライ人1章6節)と。ここで聖パウロは詩編第96篇を引用しています。もし全ての天使がメシアを礼拝せねばならないのであれば、メシアは全ての天使にまさるものであって、造られたものではなく、また天使達は創造物の中で至高のものであるから、メシアは創造主ご自身である、と言います。天使達は最初に次のように試されました。すなわち天主は天使達を創造されるとすぐ、天使達に御托身の計画を明かされました。良い天使達は、私たちの主イエズス・キリストにお仕えするため、すぐさま自分自身をお捧げしました。このような天使達が実際に主にお仕えするところを福音の中に見ることができます。例えば大天使ガブリエル、あるいは砂漠での試みの後、また十字架上でのお苦しみの間などです。良い天使達は、メシアが真の天主、真の人であることを信じ、自分たちがメシアにお仕えしてメシアを礼拝することに同意したと同時にその報いを受け、直接天国に行きました。悪い天使達はキリストを礼拝せよとの天主の命を拒み、悪魔とともに「ノーン・セルビアム―もうお仕えしない。」(エレミア2章20節)と言って、直ちに地獄に送られるという罰を受けました。

次に聖パウロは、王と王妃、花婿と花嫁、王たるキリストと王妃である教会、王妃であるマリアについて書かれた詩編第44篇を引用しています。この詩編はユダヤ人達によってメシアのことについて書かれていると広く認められていた大変美しい詩編です。この詩編では、王のことについて、「神よ、あなたの王座は世々とこしえにあり、あなたの王国の笏(しゃく)は正義の笏(しゃく)である。」(ヘブライ人1章8節)と書かれています。この詩編の作者は王に対して、『神よ』と呼びかけるのです!

異教徒の人達がキリストの神性を否定するのは無知によるものです。私たちには、彼らが真の知識を得るのを助ける義務があります。しかし、いわゆるキリスト教徒、例えばエホバの証人の人達がキリストの神性を否定するのはずっと深刻なことであって、冒涜にあたります。私たちが今見たように、聖書には明らかにキリストの神性、すなわちキリストが真の天主であり、真の人であることの証明が載っており、彼らはこれを知っているべきであるからです。

このように、私たちの主イエズス・キリストは天主の御子であり、真の天主であって、至高の天使に無限にまさるお方です。ヘブライ人への手紙の続く章で聖パウロは次の結論を導きます。即ち、天使によって命じられていた古い律法の下でそれに反抗する者達がその場で罰を受けたのであれば、真の天主、真の人である私たちの主イエズス・キリストによって命じられる新しい律法に、どれほどより忠実に従わねばならないであろうか、と。

聖パウロはさらに続けて、キリストと、天主の古い律法をヘブライ人達に伝えたモイゼとを比べます。モイゼは天主の家の「忠実なしもべ」でした。天主の家というのは当時のイスラエルの民のことであり、現在ではカトリック教会のことです。しかし、私たちの主イエズス・キリストがこの家におられるのは子として、さらにはこの家の造り主としてです。聖パウロは「キリストが私たちを造られたから」と言うのです!まことに聖ヨハネは「万物はかれによってつくられた。つくられた物のうちに、一つとしてかれによらずにつくられたものはない。」(ヨハネ1章3節)と言っています。また聖パウロ自身もヘブライ人への手紙の冒頭でこう言っています。「このおわりの日々には、子を万物の世つぎと定め、また、よってもって万物をつくられたその子を通じて語られた。神の光栄のかがやき、神の本性の型である子は、その勢力あるみことばによって宇宙を保ち、罪のきよめをおこなって、高いところの[神の]みいつの右にすわられた。」(ヘブライ人1章2-3節)ですから、家の造り主が家のしもべにまさっているように、キリストはモイゼにまさっておられるのです。

そしてこのヘブライ人への手紙の残りの部分では、私たちの主イエズス・キリストと、旧約の最初の大司祭であったアアロンとが比べられています。まず聖パウロは、司祭の定義をして、イエズスが司祭であることを示します。「大司祭はすべて、人間の中から選ばれ、神に関することについて、人間のために任命されている。それは、罪をあがなうそなえものといけにえとをささげるためである。かれも弱さに包まれているのだから、無知な者と迷う人々とに同情することができる。そのために、かれは、人々のため、自分のために、罪について犠(いけに)えをささげる義務がある。そして、アアロンのように神に召されたもの以外は、この誉れを自分でうけることができない。キリストも大司祭となる誉れを自分でうけられたのではなく、こうかれにおおせられたお方によって立てられた、『あなたは私の子である。私は今日あなたを生んだ』。他のところでは、『あなたはメルキセデクの位(くらい)にひとしく、永遠の司祭である』といわれている。」(ヘブライ人5章1-6節)これは詩編第109篇からの引用で、主日や全ての祝日の晩課に含まれているものです。メルキセデクの名は旧約聖書全体の中で、ただ2度しか登場しません!一度目はアブラハムの勝利の後、メルキセデクは感謝の生け贄を捧げ、アブラハムを祝福し、アブラハムからすべてのものの十分の一を受け取りました。二度目はこの詩編の中で、メシアは「メルキセデクの位に等し」い永遠の祭司であるとダヴィドが預言した箇所です。そして聖パウロはヘブライ人への手紙の中で、この二つの短い記述から全く驚くべき結論を導き出すのです!

人類が始まった時、長男は父から王権、司祭職と倍の相続権を引き継ぎました。しかしモイゼから後、古い律法が与えられてからは司祭職と王権とは切り離されました。王はユダ族から(例えばダヴィドが)、司祭はレヴィ族から(例えばアアロンが)選ばれました。ダヴィド王は、メシアが再びこの二つを結びつけ、メシアが至高の王であるばかりでなく大司祭でもあることを、預言の光の中に見るのです!

次に聖パウロはキリストがアアロンよりもずっとまさっていることを示します。アブラハムがメルキセデクに十分の一を払い、メルキセデクから祝福をうけた時、アアロンや全てのレヴィ族の人々は「まだ生まれていなかったから」です。十分の一を受ける者は十分の一を払う者よりもまさっており、祝福を与える者は祝福を受ける者よりもまさっています(第7章)。司祭職が変われば、儀式に関する法や司法に関する法も変わらなくてはなりません。なぜなら旧約における司祭の義務は儀式や司法に関するものだったからです。このようにして、聖パウロは旧約の儀式や司法に関する法は新約の下ではもう適用されないことを示します(ただ倫理に関する法、例えば十戒やその他倫理的な教えはそのまま適用され、旧約の下よりも新約の下ではより高い聖性が求められます)。まことに、古い律法によって定めされた旧約はキリストと共に終わりを告げ、新しい永遠の契約が私たちの主イエズス・キリストによって定められました。この契約はずっと完全な契約、即ち、新しいものを告げるかたどりや将来起こることの前触れに過ぎないものではなく、赦しと救いという事実そのものなのです。

聖トマスは、御聖体におけるキリストの現存を次のように証明します:聖トマスは、犠牲のいけにえ、即ちキリストご自身の御体と御血が単なるかたどりではなく、現実に存在するということは、旧約に対する新約の完成による、とします。御聖体にキリストが現存するという事実を否定するプロテスタント教徒達は、旧約に戻ってしまい、事実上新約を否定してしまっています。

事実、聖パウロはこのヘブライ人への手紙の続きで、もしキリストが司祭であるならば、キリストは何かを捧げている筈だ、と説明します。キリストは何を捧げるのでしょうか?キリストご自身の御体と御血です(第9章・第10章)。パウロの結論は次の通りです。「山羊と牡牛(おうし)の血、牝牛(めうし)の灰などを、汚れた人々にそそいでその肉体をきよめるのなら、ましてや永遠の[聖]霊によって、汚れのないご自分を神にささげられたキリストのおん血が、私たちの良心を死の業(わざ)からきよめて、生きる神に奉仕させ得ないことがあろうか。そのためにかれは、新しい契約の仲立ちであって、前の契約のときの違反をあがなうために死なれた。それは、選ばれた人々に、約束された永遠の遺産をうけつがせるためである。」(ヘブライ人9章13-15節)

キリストの犠牲は完全なものです。それ以外の犠牲は必要ありません。これこそが唯一かつ完全な犠牲です。私たちはみなこの犠牲を必要としています。そこで私たちの主イエズス・キリストは御聖体を制定され、キリストの唯一の犠牲が全ての新約の祭壇の上に存在し、奉献されるようにしてくださいました。主はご自分の犠牲をご自分の教会に与えられ、いやむしろ、ご自分の司祭達の奉仕を通して、選ばれた者のうち最後の者があがなわれるまで、ご自分の唯一の犠牲を捧げ続けていらっしゃるのです。

聖パウロは主日の礼拝―ミサのこと―について第10章で取り上げています。「約束されたお方は忠実であるから、私たちは、宣言した希望にしっかりとふみとどまり、愛と善とをたがいにはげましあうように、注意しよう。ある人々の習慣をまねて、集会をおろそかにすることなく、たがいにすすめあおう。かの日が近づくのを見て、なおさらそうせよ。私たちが、もし、真理を深く知ってのち、故意に罪をおかすなら、罪のためのいけにえはもうのこらない。ただ、審判のおそるべき待期(たいき)と、反逆者をやきつくす復讐の火だけがのこる。」(ヘブライ人10章23-27節)聖パウロが「集会をおろそかにすることなく」と言っているのは、信者に主日のミサの義務について注意しているのです。聖パウロはまた、主日の義務を果たさない「習慣」のある人々は「真理を深く知ってのち、故意に罪をおかす」のだと言っています。そのような人々には「罪のためのいけにえはもうのこらない」、つまり自分たちが捨ててしまっている唯一の犠牲以外の犠牲はない、と言っているのです。実際それに続いて、聖パウロはこのような人々はキリストの御血そのものを見くびってしまったとします:「それならなおさら考えよ。神の子をふみつけ、自分が聖とされた契約の血をけがし、恩寵の霊を侮(あなど)った者の罰は、どれほどひどかろうかと。『仇(あだ)は私がとる。報いるのは私である』、また『主はその民を裁く』とおおせられたお方を私たちは知っている。生きる神のおん手におちるのは、おそろしいことである。」(ヘブライ人10章29-31節)この節は簡単ではありませんが、これがミサの犠牲としての性質とキリストの御血の現存を教えていることはおわかりいただけるでしょう。しかし警告されていることは明らかです:罪は恐ろしいことであり、御聖体への不敬も恐るべきことで、恐ろしい罰が下されるということです。

このヘブライ人への手紙の最後の箇所で―その前には大変重要な教えが沢山あるのですが、今日全てについてお話しすることはできませんので―聖パウロはミサが犠牲であると非常に明白に言っています:「私たちは祭壇をもっているが、幕屋に奉仕する人々は、祭壇のものを食べる権利がない。」(ヘブライ人13章10節)今犠牲が捧げられる「祭壇」とは何でしょうか?旧約の「幕屋」では何が行なわれたのでしょうか:様々な犠牲の奉献です。私たちは祭壇を持っており、これが教会の中心です。プロテスタント教徒は祭壇を持っていません。したがって彼らはキリストに忠実ではないのです。しかし、近代主義者達はこの教会の中心そのものを攻撃し、ミサの犠牲としての性質を隠したり、否定したりもしてきました。こうしてみると、教会の中心自体が攻撃されたのですから、教会に沢山の問題があっても驚くにはあたりません。

これらすべてのことを考え、私たちの主イエズス・キリストの偉大さを、よりうやまうようにいたしましょう。私たちの主イエズス・キリストは真の天主、御父の独り子、真の天主かつ真の人であり、また仲介者、救い主、大祭司、至高の王でもあるのですから。

私たちが主の偉大さを知ると、主の謙遜について黙想するとき、より大きな驚きを感じます。そして私たちがこの大祭司、汚れなき生け贄になられたお方について知るとき、十字架とミサの犠牲の価値をもっとよく理解することができるようになるのです!

私たちが私たちの主イエズス・キリストをさらによく知り、愛し、忠実にお仕えし、聖父と聖霊と共に永遠に統治しておられる天国で私たちが主を目の当たりにすることができるよう、私たちの主イエズス・キリストの偉大さと謙遜とを共に完全に知っておられた童貞聖マリアが、いつも私たちを助けてくださいますように。アーメン。


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苦しみの玄義 第三玄義、イエズス・キリスト、茨の冠を被らせたもう

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アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

十字架の道行きの十四留の中にはありませんが、ロザリオの苦しみの玄義 第三玄義、イエズス・キリスト、茨の冠を被らせたもうを黙想をすることを提案します。

特に、茨の冠は、上からの正式な命令なしに、部下らが勝手に課した拷問でした。(マテオ27:27−30)

天主の計画としては、ユダヤ人たちがイエズスをキリストであり自分たちの王であると宣言することでした。ユダヤ教の存在の目的がまさに真のメシアを宣言することでした。しかしユダヤ人たちはこれに値しませんでした。
しかし真のメシアの王国はこの世からのものではありませんが、イエズス・キリストには真の天主として、王として、最高の司祭として、戴冠式が行われるべきでした。
イエズス・キリストは、大司祭カイファの前で天主の聖子であることを宣誓しました。真の天主は戴冠されるべきでした。また、ピラトの前で自分が王であると宣言しました。王である主の頭には王冠があるべきでした。旧約の大司祭はいけにえを捧げるときに三重冠(ティアラ)を頭に戴きます。十字架上で新約のいけにえを捧げる大司祭イエズス・キリストも王冠を戴かなければなりませんでした。主は言います。「私はこの世に勝った」と(ヨハネ16:33)。凱旋将軍であるイエズス・キリストは王冠を被る権利がありました。ユダヤ人の習慣では花婿は婚姻の式である種の冠を被りました。イエズス・キリストは、真のソロモンとして、自分の聖なる血で、自分の花嫁である教会をあがない、清め、霊的な婚姻のちぎりを結びます。

私たちの主イエズス・キリストは、もっとも純粋な黄金と銀とで出来た、高価な真珠と美しい宝石とダイアモンドとがちりばめられた王冠を被るべきでした。しかし、罪を犯したアダムとエワとのためにこの地が受けた「茨とあざみが生え出る」呪いを取り除くために、この真の王かつ救い主は、この呪いの印を持つことを天主は計画されました。

アブラハムによって屠られるべきだったイサアクの代わりのいけにえは、その角が茨に刺さって動きが取れなくなっていた雄羊でした。あたかもこの雄羊は、頭に茨の冠を被って、もがいているかのようでした。
ローマ軍人たちは、イエズス・キリストに対してあざ笑いながらこう言ったことでしょう。「頭をまっすぐにして動くな、おまえが長い間待ち望んだものを与えよう」と。確かにイエズス・キリストは、この茨の冠をかぶせられる時を待ち焦がれていました。人類が頭で犯す罪を償うことができるために、この時を待っていました。傲慢の罪、虚栄の罪、愛徳に反する考え、世俗的な考え、不潔な不純な考えや想像の罪を償うために。
もしも頭が苦しむのなら、体全体も苦しみます。もしもキリストの神秘体のかしらであるイエズス・キリストが苦しむのにもかかわらず、苦しむことを拒むのなら、快楽の生活と、罪の喜びを望むのなら、頭と一致していることはできません。

ローマ軍人は、私たちの主イエズス・キリストに茨の冠を押し被らせます。あざけりと軽蔑を込めて。茨はイエズス・キリストの頭に突き刺さり、血潮は流れ、顔は赤の血に染まります。聖伝によると茨は私たちの主の目にも刺さったと言われています。イエズス・キリストは全てを私たちの罪の償いのために堪え忍んでいます。

Popule meus, quid feci tibi? Aut in quo contristavi te?
我が民よ、私がおまえにいったい何をしたのか? いったい何においておまえを悲しませたことがあるというのか?
Ego propter te Chananaeorum reges percussi: et tu percussisti arundine caput meum.
私は、おまえのためにカナアンの王たちを打ちやった。しかしおまえは私の頭を葦で打った。
Ego dedi tibi sceptrum regale: et tu dedisti capiti meo spineam coronam.
私はおまえに王の笏を与えた。しかしおまえは私の頭に茨の冠を与えた。
Responde mihi.
私に答えよ。

私たちは時に、間違いを犯して注意されることがあり、叱られることがあります。私たちは頻繁にその間違いを指摘されても、偽りの弁解や、言い訳をしたりするのではないでしょうか。アダムとエワも言い訳をしました。「私の責任ではなかった、エワのせいだ」「蛇のせいだ」と。私たちはどうでしょうか?「病気だったので」?「天気のせいだ」?
私たちは、人から悪口や侮辱を言われたりすることもあります。しかし私たちの主は、どれほどの侮辱を受けたことでしょうか。

主の茨の冠を黙想し、いつも心の平和を保ち、イエズス・キリストともに苦しみを捧げる恩寵を願い求めましょう。悲しみの聖母よ、我らのために祈り給え!


さて、すでに報告しましたが、11月10日の主日にはフィリピンの台風被災者のために22020円の特別献金が自発的に集まりました。12月には東京で JPY48,350 (approx. USD462)が集められました。感謝します。さらに、12月のボーナスミサの時に、大阪で5万円の特別献金が集まりました。
それ以外にも、フィリピン台風募金として、ある方が11月26日に1万円、11月29日には5万円、入金がございました。総計で日本からは、180370円が集まりました。
韓国からも、現金として172万ウォンと200米ドルが集まりました。
これらの合計をフィリピンのペソに換算した161,212ペソが、レイテ島の被災者の復旧作業をしているダニエルス神父様の元に届けられました。
天主様に感謝します!ありがとうございます。

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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レネー神父様のお説教 4月11日金曜日―大阪―聖母の七つの悲しみ:共贖

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アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖土曜日です。レネー神父様がなさってくださった受難の金曜日のお説教をご紹介します。(ご紹介が遅れてしまい、大変申し訳ありません。)

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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4月11日金曜日―大阪―聖母の七つの悲しみ:共贖

親愛なる信者の皆さん

日本は聖母の汚れなき御心に奉献されています。聖母は汚れなきお方です。これは教会の古くからの信仰です。聖母が汚れなきお方であるということは天使の証言に基づいています。即ち、聖母は「恩寵にみちたお方―ギリシャ語では『κεχαριτωμένη(ケハリトーメネー)』、恩寵において完全であるという意味」(ルカ1章28節)です。聖母こそがイザヤが預言(7章14節)した完全なる、即ち罪に犯されていない処女なのです。また初期の教会はアダムとエバのかたどりからもこれを証明します。即ち、キリストは新しいアダムですが、アダムが天主の手によって、手つかずの、つまり童貞である土から直接造られたように、新しいアダムであるキリストは童貞マリアから聖霊の働きによって生まれました。ところで、アダムが造られた土はまだ罪のない土でしたから、新しいアダムが生まれた童貞マリアも罪のない人であったのです。

私たちの聖母は天主の母、即ち天主の御子であるイエズスの母としてふさわしい母となるため、汚れなきお方です。それだけではありません。私たちの主イエズス・キリストが私たちを救うために人となってくださったように、私たちの聖母は贖罪の神秘に参加するために汚れなきお方なのです。実際、聖書で「汚れのない」という言葉を探してみれば、生け贄の条件として使われているのがほとんどです。旧約では、いろいろな種類の生け贄が捧げられました:子羊、子牛、山羊、などです。しかし捧げられる子羊は汚れのないもの、子牛も汚れのないもの、山羊も汚れのないものでなくてはなりません。新約においてさえ、汚れのないという言葉が使われているのはヘブライ人への手紙の中で私たちの主イエズス・キリストについて書かれているところのみで、それは聖パウロがキリストの生け贄に関して述べているところです。「山羊と雄牛の血、牝牛の灰などを、汚れた人々にそそいでその肉体をきよめるのなら、ましてや永遠の[聖]霊によって、汚れのないご自分を神に捧げられたキリストのおん血が、私たちの良心を死の業(わざ)からきよめて、生きる神に奉仕させ得ないことがあろうか。」(ヘブライ人9章13-14節)また聖ペトロもこういっています。「あなたたちが、祖先からうけついだむなしい生活からあがなわれたのは、金銀などの朽ちるものによるのではなく、きずもなく汚点(しみ)もない子羊のような、キリストの尊いおん血によるのであることを、あなたたちは知っている。」(ペトロの前の手紙1章18-19節)

汚れのないことが生け贄の第一のそして最も重要な性質であるならば、聖母マリアはイエズスと共に生け贄となり、十字架の下でイエズスと一致するために汚れなきものであったのです。

実際、天主がアダムにエバを「彼に似合った助け手」(創世記2章18節)としてお与えになったのは、新しいアダムにも、また「彼に似合った助け手」であるあたらしいエバ、即ち、彼とともに汚れなき生け贄として贖罪の神秘に参加する聖母マリアがいるためであったのです。

大天使ガブリエルがマリアが天主の御子の母になることを告げた時、マリアは「主のはしため」(ルカ1章38節)としてご自分をお捧げになりました。聖母こそ、はじめにおいてばかりではなく、イエズスのこの世でのご生活のすべてにおいて、そしてイエズスが十字架にかけられた最後の日まで、はしためであり、助け手であったのです。聖母は十字架の下でイエズスと共に自らをお捧げになっておられました。

私たちの主イエズス・キリストも、聖母も、全く罪のない、汚れのない方でしたから、ご自分たちのために苦しむ必要はありませんでした。天主はお二人を理由なく苦しめるような不正義な方ではありません!罪人である私たちこそ苦しむべきなのです!お二人の苦しみはお二人を益することはありませんから、その効果は贖罪であり、キリストが贖い主、聖母が共贖者となられたのです。天主は水の一杯でも与える人に必ず報いをくださる(マテオ10章42節)ほどのお優しいお方ですから、十字架の下でキリストとキリストの母が受けられた沢山の深いお苦しみを、贖罪、無数の罪の赦し、数多くの聖人達の聖化など数えきれないお恵みをもって報いてくださらないことがあるでしょうか!実際私たちの主の御受難はアダムから始まる全ての人間一人一人の罪を贖って余りあるものですから、もしだれかが贖われないのであれば、それは私たち自身の過ち、私たち大人の個人的な過ちのためなのです。「その審判というのは、次のようなことである。光は世に来たが、人々は、その悪いおこないのために、光よりもやみを好んだ。悪をおこなう人は光を憎み、そのおこないがあらわれることをおそれ[る。]」(ヨハネ3章19節)光を拒むということ、私たちの主イエズス・キリストの愛を拒むこと、私たちの聖母の母としての愛を拒むことはなんと恐ろしいことでしょうか!

私たちは、私たちの主、イエズス・キリストの無限の功徳、そして十字架の下での私たちの聖母の数えきれない功徳を大いに信頼し、自分自身をお二人に、イエズスの聖心に、聖母マリアの汚れなき、悲しみの御心にお捧げしなくてはなりません。私たちはまた、私たちの全ての友人、親戚、その他私たちの大切にする人たち、私たちの国、大陸、そして全世界をお捧げしなければなりません。

今日悪がはびこっています。イエズスとマリアの犠牲に一致して自分自身を捧げ生け贄となる霊魂が大変必要とされています。このようなあらゆる悪を目の当たりにして、これを止めるためには私たちは何をすることができるのでしょうか?私たちはイエズスとマリアを見て、お二人が何をなさったかを学ばなくてはなりません。お二人は私たちの救いのためにご自分をお捧げになりました。ですから、私たちも、私たちの救いのため、他の多くの霊魂の救いのためにイエズスとマリアに一致して自分自身を捧げなければなりません。私たち自身をお捧げするというのは、天主が私たちに既に送ってくださったあるいはこれから送ってくださる十字架や苦しみを受け入れるだけではありません。それはまた、大罪だけではなく(それは全く問題外ですが)、あらゆる罪を避け、小罪や熱意のなさをも避け、私たちの隣人に喜んで与え、私たちの隣人を赦すというしっかりした努力をすることにあります。

私たちの捧げものが天主に喜んでいただけるものであるためには、汚れなき童貞と汚れなき子羊である私たちの主イエズス・キリストの例にならい、キリストのお恵みによって、私たち自身の霊魂をできるだけ純粋に、できるだけ汚れなきものとしておかなければなりません。私たちの苦しみを私たち自身の罪のためにお捧げしなくてはならない分が増えれば増える程、私たちの隣人や友人のためにお捧げする分が減ってしまいます。もし私たちが一方で犠牲を行い、他方で私たちの隣人を非難したり無分別に裁いたりしていれば、「一人が建て、他が打ち壊す、苦労以外のどんな利益があるのか?」(集会の書34章28節)

実際、十字架の下がもっとも安全な場所、悪魔が来ようとしない場所です。そこでは、私たちは自分の霊魂をキリストの血で何度も何度も洗う事ができます:「深い憐憫によって、私のとがを消したまえ。」(詩編50篇2節)そこでは、「私を守り、翼のかげに、[隠したまえ。]」(詩編16篇8節)翼は鳥が空に飛び上がるときに広げる腕の延長であるように、十字架の上に広げられたキリストの腕は、「すべての人を、[主]のもとに引きよせる。」(ヨハネ12章32節)「私は御手に魂をゆだねる。真実の神よ、あなたはすでに私を救われた。」(詩編30篇6節)私たちの精神はしばしば、いいえ常に、この十字架の下に戻って、黙想の内にそこに留まらねばなりません、とりわけ聖週間の間においては。

十字架の下では、私たちの聖母が私たちの大いなる助け手です。聖ヨハネと聖なる女達は、聖母への崇敬のゆえに、聖母と共に十字架の下にいるお恵みを受けました。もしキリストのお苦しみを黙想するのが難しければ、十字架の下で私たちの聖母が何を感じられたかを考えてみましょう。聖母がファリサイ人たちの冒涜を聞かれた時、ご自分の息子の両手が十字架に打ち付けられた時、ご自分の息子の体が鞭打たれた時、ご自分の息子の頭にいばらの冠がかぶせられた時、ご自分の息子の心臓が貫かれた時。聖母は何をお考えになったでしょうか?聖母は何をお感じになったでしょうか?どんなにお苦しみになったでしょうか?



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聖ピオ十世会日本は、毎年恒例の公式秋田巡礼を5月2日から6日まで行います。特に今年の巡礼に、多くの兄弟姉妹の皆様を巡礼にご招待いたします。

今年で8回目になる巡礼ですが、ご参加希望の方々は、聖ピオ十世会日本 秋田巡礼 SSPXJAPAN PILGRIMAGE TO AKITAなどを通してお申し込みください。



この聖週間の間、贖いの神秘に深く入り、常により深く罪に死に、私たちの主イエズス・キリストと共に永遠の命に復活することができるよう、私たちの汚れなき聖母、私たちの共贖者である聖母が私たちを助けてくださいますように。

アーメン。

レネー神父様の御復活祭のミサでのお説教 大阪2014年4月20日

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アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
私たちの主イエズス・キリストの御復活のお喜びを申し上げます。

真の天主イエズス・キリストは、私たち(ふさわしくない者ですが!)に永遠の命を与えるために、死者のうちから蘇り給いました!御復活祭を日本で捧げてくださったレネー神父様に心から感謝申し上げます。
次のような報告を戴きましたので愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。
また、レネー神父様のお説教を翻訳してくださる東京の信徒会長様には心から感謝申し上げます。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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アベマリア!アレルヤ!!
ご復活おめでとうございます!
今日大阪で行われたご復活の主日のごミサには、26人の方が与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!

韓国での御ミサを終えてすぐ日本にお越し下さったレネ−神父様に天主様の沢山のお恵みと祝福がありますように!

テレジアさんがお持ち下さったイ−スタ−エッグと手作りケ−キや、色々な方の差し入れを御ミサ後神父様と一緒に頂きました。皆さん顔には特別な幸福が溢れ、主の御復活の喜びを分かち合う素敵一時になりました。
アレルヤ アレルヤ

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アヴェ・マリア!

本日21日ご復活の月曜日には、15名の方々がごミサに与るお恵みを頂きました。
デオグラチアス!


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2014年 4月20日 復活祭(ソウル/大阪)説教

親愛なる兄弟のみなさん、

「死者からよみがえられたキリストは、もう死ぬことがないと私たちは知っている。かれに対してもはや死は、何の力ももっていない。」(ローマ人6章9節)私たちの主イエズス・キリストは「死者の中から最初に生まれたお方であ」(コロサイ人1章18節)り、即ち、体が永遠の命へとよみがえる最初のお方になられたのです。永遠の命は、本質的に霊魂の中にありますが、体へも流れ出るのです:聖人たちの体は霊魂の栄光や喜びに参与することによって永遠に生きるのです。

注意していただきたいのは、地獄に堕ちた人達の体も霊魂と結びつけられ、永遠に結びついたままになるのですが、その条件はあまりに悲惨なものですから、「命」という名にも値しないものです:それは永遠に続く罰、「苦しみ」、「咎(とが)め」です。その意味でこう書かれています:「だから悪人はさばきに、罪人は正しい人の集会に耐えられない。」(詩編1篇5節)と。罪人たちの霊魂は体と結びつけられますが、罪人は再びですから、立ち上がるのではなく、永遠に押し砕かれるという意味で、「復活する」ことはありません。

私たちが「永遠の命」という時、それはこの世の終わりの後、義人達の永遠の状態のことをいっているのです。私たちの主イエズス・キリストは「義人」であり、永遠の命に入る全ての人達を義化してくださるお方です。イエズス・キリストは私たち全てのかたどりであり、また救いの原因でもあるのです。イエズスは、人としては永遠の命に最初に生まれたお方であり、また天主としては「命」(ヨハネ14章6節)であり、全ての命の源です。イエズス・キリストは「万物を支配下に置く力によって、私たちの卑しい体を、光栄の体のかたどりに変えられるであろう。」(フィリッピ人3章21節)

罪が死の原因ですから、聖金曜日の十字架上の犠牲による罪に対する勝利こそが復活の主日の死に対する勝利の原因なのです。このように、私たちの主イエズス・キリストは自らの御受難といけにえとによって、このような栄光の復活のための功徳を私たちのために積んでくださったのです。イエズスの功徳は全ての人にも有り余るものですが、全ての人が栄光に復活するのではありません。どうしてでしょうか?それは、私たちがイエズス・キリストの功徳のお蔭をこうむるためには、キリストと一致していること、愛によって一致していることが必要だからです。愛は天主からの贈り物です:「私たちに与えられた聖霊によって、この心に神の愛が注がれたからである。」(ローマ人5章5節)しかし愛のために、私たちもまた、「すべての心、すべての霊、すべての力、すべての知恵をあげて、主なる神を愛」し、「また隣人を自分と同じように愛」(ルカ10章27節)さねばなりません。

ひとつ非常に重要な概念があります:「究極の目的」です。私たちは他のなにものよりも私たちの主なる天主を、私たちの究極の目的として愛さねばなりません。究極の目的への意志には限りがありません:究極であるからです。ですから教会が教えるのは、人は天主を愛して愛しすぎる事はない:天主は無限に愛すべきお方であり、私たちはいつも天主をもっと、もっと愛すようにすべきだということです!人が天主を究極の目的とする時、行き過ぎを恐れていけません:私たちの天主への信仰が強すぎることはありませんし、私たちの天主への希望がありすぎることもありませんし、私たちが天主を愛しすぎることもありません!それは、天主が客観的にみて、無限に信用できるお方であり、無限に助けを下さるお方であり、無限に愛すべきお方であるからです。

しかし、もし人が被造物を究極の目的としてしまったら、被造物は無限に良いものでも、無限に愛すべきものでもありませんから、人がそのような被造物を愛しすぎることによって、たちまち混乱が生じてしまいます。被造物は天主という究極の目的への手段です。人が目的ではなく手段に過ぎないものに目的を定めてしまう時、混乱が生じ、続いて破滅が起こります。目的は手段を計る物差しです:私たちは、自らの目的を達するにあたって助けとなる範囲で手段を用い、目的を達する障害になるのであればその手段を使ってはなりません。私たちはこの物差しに従って手段を愛します。つまり、その手段が私たちを目的の方に導いてくれる範囲で愛するのですが、私たちの目的に対する愛は物差しとは関係なく、無限定のものです。

私たちが手段を通して進むのは、人が旅の目的地まで途中の地点を通して旅するのに似ています:私たちがこの地上にいるのは、天国への巡礼の途中としてです。旅の目的地に到着するときのように、私たちは目的地で憩います:聖人達はこのように天主に憩いでいるのです。ですから私たちは亡くなった信者のために彼らが「安らかに憩わんことを」、つまり安らぎを得る天主において憩うように、と祈ります。「実に神の国は、飲食にあるのではなく、正義と平和と聖霊とによるよろこびにある」(ローマ人14章17節)が、「『悪人には平和がない』と、私の神は仰せられる。」(イザヤ57章21節)そこで聖パウロはこのように書いています:「私たちはここに不変の都をもっていない。私たちは未来の都を探している。」(ヘブライ人13章14節)と。そして聖パウロは太祖の例を挙げて次のように言っています:「信仰によって、[アブラハム]は、他国にいるかのように約束の地に住まい、同じ約束を嗣(つ)ぐイザアクとヤコブとともに幕屋に住んだ。かれは、神が設計し、建造される、たしかな基礎をもっていたからである。…それらの人々は、みな信仰を保って死んだ。…かれらは…この世では他国人であり、旅人にすぎないことを認めた。そういった人々は、自分たちが一つの故国を求めていることをあらわしていた。それがもし、かれらが出てきた国[アブラハムの出身地はカルデアのウール。]のことであったのなら、いつでもそこに帰れたはずである。事実、彼らは、天にあるさらにすぐれた故国を慕った。そのために、神はかれらの神と呼ばれるのを恥とされなかった。かれらのために、一つの町をそなえられたからである。」(ヘブライ人11章9-16節)


これこそ真にキリスト的な生活の本質的な側面のひとつです:即ち、私たちはこの地上では巡礼者であり、天国に向かって巡礼をしている、ということです。私たちがこの地上でずっと留まる場所はありません:私たちは皆ここを通り過ぎるのであって、この地上に永遠にいるのではありません。ですから、真の信者はすべての心をもって天国に向かい、祝福された報いと永遠の喜びを望みます。この希望によって、信者はこの世で毎日自分の十字架を担うための慰めと力とを得るのです。しかしながら、もし信者が天国のことを忘れてしまえば、聖パウロが言うように、「私たちが、キリストに希望をかけたのが、この世のためだけであるなら、私たちは、すべての人の中で、もっともあわれなものである。」(コリント前15章19節)ことになってしまいます。しかし私たちはこの世の生活のためだけに生きるのではなく、聖パウロが書いているように、「さて私たちも、これほど多くの証人[即ち、天国にいる聖人達]に雲のようにとりかこまれているのであるから、すべての障碍物と包まれている罪とをのぞき、忍耐をもって、私たちにさし出された競争をきそい、信仰の創始者であり、完成者であるイエズスに目をそそぐようにしよう。かれは、さし出されたよろこびのために、恥をもかえりみずに十字架をしのび、今や神の玉座の右にすわっておられる。」(ヘブライ人12章1-2節)

これが、「この世の人々」と真のキリスト教信者との最も大きな違いです。(今日の朝課で)聖アウグスティノが言うように、「この世の人々は、この世を愛する人々」であり、自らの究極の目的をこの世の物に置く人々です。しかし私たちの主イエズス・キリストを本当に信ずる者は、この世から離れ、天国を渇望して、「今の時の苦しみは、私たちにおいてあらわれるであろう光栄とは比較にならないと思う」(ローマ人8章18節)がゆえに、十字架を恐れません。真の信者は十字架を愛し、十字架においてキリストの勝利に参加します。しかしこの世を愛する人々は、「キリストの十字架の敵…かれらの行先は亡びである。かれらの神は自分の腹であり、自分の恥にほこりをおいている。かれらは、この世のことにだけしか興味をもたない。」(フィリッピ人3章18-19節)

この重大な真理を黙想するのは大切なことです。第一の理由は、ここにこそ、「この涙の谷」における真の喜びがあるからです:その喜びとは、聖パウロが「希望のよろこびをもち、艱難(かんなん)に耐え、祈りにうまず」(ローマ人12章12節)と言う、希望の喜びです。また第二の理由は、カトリック教会の現在の危機の根本にあるのが、「この世を愛すること」、つまりこの世の物や目的に意識して向かうことにあるからです。フランシス教皇は治世のはじめ、自分にとって今日の最大の問題は「失業中の若者と孤独な老人」であると言われなかったでしょうか?教皇はもっと大きな問題を考えるべきではないのでしょうか?例えば、何百万人もの人々の信仰の喪失、さらには司祭達の信仰の喪失のような、より高い次元の問題を考えるべきではないのでしょうか?私たちの主イエズス・キリストがこの「世」―つまりこの世を愛する人々―からお受けになった反対のことを考えてみれば、教皇が雑誌タイムズの「今年の人」に選ばれるというのは相当恐ろしいことです。教皇が自らの義務に本当に取り組むならば、沢山の人々、特に熱心な信者達の支持と承認とを得るでしょうが、私たちの主イエズス・キリストがファリザイ人やピラトやヘロデのような当時のこの世を愛する人々から強烈な反対をお受けになったように、そのような教皇はこの世を愛する人々から間違いなく強烈な反対を受けることでしょう。聖ピオ十世のように真に聖なる教皇達はこの世に軽蔑され、この世からひどく攻撃されました。聖ピオ十世は、真の教会のしるしは「一にして、聖、公、使徒伝来、…そして迫害をうけること」とおっしゃいました。

ヨハネ・パウロ二世とヨハネ二十三世の列聖を推進しているのも、またこの同じこの世の愛です:しかしこの二人の教皇としての実績を信仰の光、永遠の光で見るならば、アッシジの教皇、即ち仏教徒達が自分達の偽りの神を礼拝するように教会を提供した教皇、コーランに接吻した教皇、躓(つまず)きとなるような公式のミサ(例えば、明らかに正しい服装をしていない現地の女性ダンサーの参加するミサ)や、また御聖体が正しく敬われていないようなミサを捧げた教皇、さらにはマシエル神父やその他躓(つまず)きとなるような司祭達を保護した教皇がいかにして列聖され得るのでしょうか?しかしながら今日、このような信仰に関する問題は横に置かれて、注意を払われていないのです。この世は喝采し、それが重視されています…しかし永遠の光から見ればそうではありません。聖書にはこうあります:「『私は罪を犯したが、私の身になにか起こったか』と言うな、主は待つことを知っておられる。」(集会5章4節)言い換えれば、主は罰を下すのを待ち、痛悔の時間を与えられますが、この時間を悪用して罪を続け、天主の掟を無視する人もいます。恐るべき怠慢です:天主が私たちに罰を下すのを待たれれば待たれる程、天主の罰がより突然、さらに恐ろしいものになるのだと聖アウグスティノは私たちに警告しています。今日、私たちの多くは突然の死に襲われますが、誰もこれを気にしていないのです。

現代におけるもう一つの大きな誤りに「過ぎ越しの神秘の神学」と呼ばれるものがあります。「過ぎ越しの神秘」というような旧来からの言葉の裏には、新しい、非常に深い誤り、いえむしろ異端が隠されています。この誤りは時間と永遠の違いを実質的に否定するもので、私たちが既に「復活した命」にあると主張し、あらゆるもの、あらゆる聖なる行為に「秘蹟」という言葉を使うことによって、七つの秘蹟とその特別の効果と恩寵の具体性を破壊してしまいます。外的な行為、特に典礼における外的な行為は霊的な行為を示しています:例えば外的な礼拝という行為は、霊魂の礼拝、天主に対する霊魂の崇拝を示しています…しかしこの一般的な「意味」に加えて、七つの秘蹟の各々には、私たちの主イエズス・キリストの御制定によって、非常に特別な力が備わっています:霊魂を清める力、恩寵を与える力、霊魂を挙げ、聖化する力、そしてとりわけ御聖体には、私たちの主イエズス・キリストの現存があります。ところで、典礼におけるすべての行為、例えば聖書の朗読、撒香(さんこう)、聖水の灌水(かんすい)等をあたかも「秘蹟」であるかのように扱ってしまうと―ちなみにこれらは「準秘蹟」であって「秘蹟」ではなく、信心をもって用いられる範囲において恩寵が与えられるものですが、特別な「力」はもっていないものです―これらの準秘蹟と七つの秘蹟との違いが見えなくなってしまい、秘蹟をこれら通常の行為に格下げすることになってしまいます。

この近代的な神学は理解するには相当複雑なものですが、今日では大変広く知られていて多くの人の信仰を傷つけており、またとりわけ近代的な神学校では非常によく教えられているので、多くの司祭の信仰を危うくしています。非常に近代的な司祭が正しい信仰を持っていないと、信者は満たされないままにされ、また度々誤った道に導かれてしまうのです!


ですから今日、私たちの主に忠実であり、また、主が使徒にお与えになった後、カトリック教会の中で何世紀にもわたって正しく守られて来た主の教えに従う御恵みを豊かにくださるよう、復活されたキリストにお祈りいたしましょう。この世から離れ、そして天国に、なにものをも超えて限りなく愛されている天主に向かう御恵みを求めましょう。多くの霊魂が改宗し、彼らにキリストの数えきれない宝が与えられる御恵みを求めましょう。童貞聖マリアが、常に主において喜ぶ御恵みを下さいますように。

アーメン。


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今年で8回目になる巡礼ですが、ご参加希望の方々は、聖ピオ十世会日本 秋田巡礼 SSPXJAPAN PILGRIMAGE TO AKITAなどを通してお申し込みください。


4 /22(火曜日)現在のロザリオの総数は、7708環です

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アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

こんにちは!
4 /22(火曜日)現在のロザリオの総数は、7708環です。
天主様に感謝!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
エリザベト様 62環(体調が、お悪かったとの事です、、でも、御復活の御ミサ!!!♪♪に、お与りにお出でになられまして、安心しました♪)


非常なお恵みの秋田巡礼!!♪♪
2週間を切りましたね!♪
全行程の参加の御恵みを頂けます様に!♪
御祈り御願い致します!!  もしかして、前にも御願しましたかもしれませんが<m(__)m> 非常な楽しみなものですから!♪
もし宜しければ、どうぞ宜しく御願い致します!!

御復活下さいました!♪天主イエズス様!!!♪♪♪
秋田の聖母マリア様!!♪♪
秋田の聖ヨゼフ様!!♪♪
 デオ・グラチアス!!

【報告】
修院長様、主の御復活の御慶びを申し上げます。
大変ご無沙汰しております。

本題の2、3月のロザリオのご報告ですが、81環でございました。
どうかよろしくお願い致します。


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秋田の巡礼の報告と、5/1(木)現在のロザリオの総数報告=7830環

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アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

いかがお過ごしでいらっしゃいますか?

 私たちは秋田に巡礼に来るお恵みを頂き、50余名の方々が参加しています。今回は秋田の巡礼のためだけのためにポーランドからはるばるやって来られた方、アメリカから来られた方、シンガポール(2名)、マレーシア(2名)、オーストラリア(3名)、フィリピン(4名)、また日本の各地(岡山、赤穂、大阪、神戸、和歌山、名古屋、静岡、千葉、東京、埼玉、仙台、山形、秋田など)から参加されています。今回秋田で初めてお目に掛かる方々もおられ、また、懐かしいお顔を拝見する喜びがある方々もあり、嬉しい限りです。

 今日は、午前中は聖伝のミサに三回与り、ジョン・ヴェナリさんとクチュール神父様の講話を聞き、秋田の聖母マリア様の御像の前でロザリオを皆で2環唱えることが出来ました。天主様に感謝します!

 また岩手県の方々も私たちの巡礼に合わせてはるばる来られ、秋田の聖母マリア様のところでお目にかかれ大変うれしく思いました。


5/1(木)現在のロザリオの総数は、前回7708環+29環+93環=7830環です。

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【報告】

アヴェ・マリア!

トマス小野田神父様
ロザリオの十字軍のご報告をさせていただきます。
4月1日から4月27日22時(日本時間)まで
私と子供あわせて29環でした。

トマス小野田神父様に天主様の祝福が豊かにありますように!
第5次ロザリオの十字軍が成功しますように!

P.S. 枝の主日でいただきました棕櫚の枝を私の不注意で電車に置き忘れてしまい、見つかりません。申し訳ございません。どう償えばよろしいでしょうか。

【お返事】
仕方がありません。今度注意なさって置き忘れのないようにお願いいたします。


【報告】
第五次ロザリオ十字軍の報告 4月分

4月は、93環です。
ロザリオの祈りを、私のようなものにも与えてくださる聖母マリア様に感謝します。

【お返事】
たくさんのロザリオをありがとうございます。



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レネー神父著 『偽りの反リベラル主義者の錯覚』The pseudo-anti-liberal illusion

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アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

5月は聖母マリア様の月です。聖母マリア様にロザリオをたくさん唱えましょう。

さて、大変遅れてしまいましたが、1年前の2013年3月にアジア管区に所属して私たちのために日本に来てくださるレネー神父様が『偽りの反リベラル主義者の錯覚』という文章を書いてくださいました。「我こそは "反リベラルだ"」と言って聖ピオ十世会を批判するような人々が何人かいますが、そのような人たちのいい振り回すいわゆる「反リベラル」なるものが、権威を否定するが故に、実は、リベラルそのものだ、ということをわかりやすく説明してくれています。実は、私もそのような人を何名か身近で見てその現実を知り、全くレネー神父様のおっしゃるとおりだと、頷くばかりです。正しく、彼らの主張は、錯覚であり、幻想であり、現実から乖離した頭の中での話であり、イリュージョンにしか過ぎません。願わくは彼らがみずからを正し、謙遜に聖ピオ十世会にもう一度受け入れられることを請いますように! 聖母の汚れなき御心と聖ヨゼフが彼らのためにこの恩寵を勝ち得てくださいますように! 聖母の汚れなき御心よ、我らのために祈り給え!

 これはすでに長らく前から日本語に翻訳されていたのですが、愛する兄弟姉妹の皆様にお知らせするのが遅れてしまったことを深くお詫びします。またこれを日本語に訳す労を執ってくださった姉妹の一人に心から感謝します。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

======偽りの反リベラル主義者の錯覚======

原文はこちら或いはこちらをご覧ください。


偽りの反リベラル主義者の錯覚
The pseudo-anti-liberal illusion


 ある人々が、聖ピオ十世会の長上方に反対してほとんど強迫観念といえるほどの最悪の非難を発表し続けてしばらくたちます。彼らは、自分たちが現実との接触を失ってしまったと気がつかないまま、私が「偽りの反自由主義(反リベラル主義)」と呼ぶ間違いに陥ってしまっています。なぜなら彼らは自分たちが排斥するまさにその問題(リベラル主義)へとみずから陥ってしまっているにも関わらず、反リベラル主義者を装っているからです。それはちょうど聖パウロがこのように書いたそのままです。「他人を是非することによって、あなたは自分をさばいている。他人をさばくあなた自身が、同じことをおこなっているからである」(ローマ二章一節)


教会法的正常化──それ自体は善いことである

 リベラル主義者の概念を──天主と天主の法の権威を拒否する人々──と定義した後に、聖ピオ十世会の指導者たちがリベラル主義者だと結論づけるためには、彼ら[反リベラル主義を装う人々]は必然的に、この指導者たちは天主と天主の法を拒否したと証明する必要が出てきます。が、彼らはフェレー司教様と聖ピオ十世会の指導者たちは、天主と天主の法を拒否したと証明できなかっただけでなく、天主と天主の法に正確に従うためにこそ──ルフェーブル大司教様の模範(ルフェーブル大司教様は常に教皇聖座空位論を拒絶なさいました)にならって──この指導者たちがカトリック教会に執着していると認識できてもいません。カトリック教会は実際には今日のようなありさまですが(キリストが十字架上において外観を損なったように、悲しむべきことに近代主義とリベラル主義によって外観を損なっています)、それにも関わらず、キリストがペトロの岩の上にお建てになり、地獄の門はこれに勝たざるべしとおっしゃったカトリック教会のままなのです。聖トマス・アクィナスは、すべての法は本質的に秩序 ordo rationis であると説明しています。つまり天主の法への服従は、必然的に秩序への愛を暗示することになり、従って天主の教会の内部の秩序のうちにあるべきだという熱望を暗示するのです。教会法的正常化とは、この目的のために他なりません。ですから、この中にリベラル主義的なものはなにもありません。その反対です。


ペトロの後継者への服従ということを区別する

 では、問題はどこにあるのでしょうか? 今日、教会内で職権を持つ人々が、程度の差はさまざまであれリベラル主義に感染しているという事実が原因です。フェレー司教様も聖ピオ十世会のどんな司祭もこれを否定しません。しかし、フェレー司教様と聖ピオ十世会の忠実な司祭たちが、ルフェーブル大司教様の模範にならって、リベラル主義者としてではなく、否、リベラル主義に反対しつつ、十二使徒の後継者としてペトロの後継者に服従することとの間に区別をつけている一方で、フェレー司教様に反対する人々は、感情的になってこのような区別をつけられず、聖アウグスチノのドナトゥス派に反対した教え「善い人々は悪い行為に同意しない限り、教会内において悪い人々と交っても害を被らない」を知らずに邁進しているのです。この悪い人々という言葉は、ラテン語のmaliの翻訳です。リベラル主義者という言葉を悪い人々という言葉に置き換えてみて下さい。リベラル主義は悪ですから、聖アウグスチノの原則は間違いなくフェレー司教様の立場となり、司教様に反対する人々への反論となります。すなわち、カトリック教会において、リベラル主義者たちと交わることは、善い人々が彼らのリベラル主義に同意しない限り、害を被らないのです。

 聖アウグスチノの原則を理解するためには、カルメル神父様がたびたび喚起させていたこと「教会のかしらはキリストである」という偉大な真理を忘れてはなりません。教皇はキリストの代理者にすぎません。教会のメンバーたちとの交わりは、まず第一にキリストとの交わりであるがために、善い人々は悪に同意しない限り害を被ることはありません。そして、ある人々は、キリストが教会のかしらであることを忘れているので、教会の人間的側面だけに注意を払い、キリストの教会で万事を支配されるイエズスの聖心を忘れ、この交わりをとても恐れています。彼らの苦々しい熱心──ルフェーブル大司教様の精神とは正反対の──は、このイエズスの聖心を軽視していると告白しています。彼らのために祈りましょう。

リベラル主義の度合い

 ルフェーブル大司教様がよく指摘していたことは、リベラル主義の度合いは多岐に渡るということです。ある人々はあらゆる法と義務の原則を一つ残らず拒絶しています。このようなリベラル主義者たちには間違いなくまことの信仰がありません。
別の人々は、天主と天主の法、そしてカトリック信仰のすべての真理を認めつつも、自分の置かれた具体的な状況に天主の法と信仰とを充分に適応せずに、あるいは、近代社会において天主の法と信仰との持つ論理的結論を認める勇気を持っていません。そして、これらリベラル主義者たちの中でもリベラルの度合いもまた、多岐に渡るのです。私たちの主が使徒たちに向けた叱責「ああ、信仰薄き者よ!」(マテオ八章二十六節、十七章十六節など)がふさわしいとはいえ、これらの人々にはまだ信仰はあります。ですから、リベラル主義に染まっているすべての人々を、まるで、彼らが全て等しく、恐るべき重罪、すなわち天主との敵対に陥っているかのように、誰彼かまわず非難してはなりません。さらに、リベラル主義者のすべての行為を一つ残らず邪悪であると解釈すべきではありません。十九世紀には、教皇ピオ九世やピ枢機卿のような偉大な反リベラル主義者たちは、リベラル主義を猛然と非難しつつも、デュパンルー枢機卿やモンタランベール伯爵のようなリベラル主義者が行った善いことを賛美するのを恐れませんでした。

眼に見える教会

 その上、フェレー司教様を告発する者たちには驚くべき論理の欠如があります。引用してみましょう。「私たちは眼に見える教会に加わらなければならない、なぜなら眼に見える教会はカトリック教会であるから、と彼ら[聖ピオ十世会の指導者層のこと]は言います。しかし、英国国「教会」は依然としてイギリス中に眼に見えるものです。これはアングリカンをカトリックにするというのでしょうか?」この論拠は聖ピオ十世会の指導者たちが「眼に見えるものなのでカトリック教会です」あるいは「すべての眼に見える教会は、カトリックです」と言った場合に限り有効です。ですが聖ピオ十世会の指導者たちは明らかにそのようなことは言っていません。従ってこの見せかけの反論(「しかし、英国国「教会」は云々」)は単なる詭弁に過ぎません。

 フェレー司教様と聖ピオ十世会の指導者たちが強調して主張している真実は、カトリック教会は、昨日だけでなく今日も、眼に見えるものである、ということです。この教会は、過去にルフェーブル大司教様によって認識された、そして、今日、フェレー司教様と(私たちが一九七〇年の創立からずっと現在もその会員であり、その中において私たちの義務はその "秩序" の中にあることである)聖ピオ十世会によって承認されている、眼に見える、具体的な、ローマの、カトリック教会のことです。この中にはどのようなことであれ、リベラル主義的なものは何もありません。

 今日、フェレー司教様に反対する人々が、この眼に見える、具体的な、ローマ・カトリック教会を拒絶するなら、どれが彼らの教会なのでしょうか? それはどこにあるのでしょうか? 目に見えるものなのですか? さもなくば、権威も義務もない彼らの言う「緩やかな結束」のようなものでしょうか? このような構想にはカトリック的なものは何ひとつありません! こうれが教会についての彼らの考えであるとは思いません。

しかし、彼らの誤りは、次のことであるようです。つまり、教会の一致とは副次的であり、信仰に付け足しの飾りだと考えていることです。まるで信仰を持っているならば、教会の他の成員たちがリベラル主義者である場合、聖職者同士の交わりから免除されるのだといわんばかりです。確かに信仰は純粋なまま固守しなければなりません。なぜなら「信仰がなければ、天主によろこばれることはできない」からです(ヘブライ十d一章六節)。でも、愛徳なしの信仰は無に等しいのです(コリント前書 十三章二節)。これは、聖アウグスチノがたびたび説明したように、交わりの絆を保つために用いるように強いる愛徳であり、「完徳の絆」(コリント三章十四節)です(ディノイア大司教はこのことについて美しい文章を引用していますし、だれにでも非常に多くの類似の文章が簡単に見つかります)。ここに、現実的かつ奇妙な危険があります。それは、聖伝の信仰を守るために、彼らは「信仰のみ sola fide 」という【プロテスタント式の】考えに傾いているのではないか? ということです

 三ヶ月前、私は「いろいろな「教会」とは?」というタイトルの記事の中で、このような文章を書きました。

「(彼らの主張の記事の一つに)このような文章があります。「眼に見える(visible)教会の、この一部分だけが、聖なる、一なる、カトリック(普遍)の、使徒継承の教会です。残りは腐敗している種々のその他いろいろです。すぐに次のような疑問が湧き起こります。カトリック教会とは「眼に見える教会の中の一部分」にすぎないのか、と? そして、これはさらに次のような基本的な別の疑問へと導かれます。つまり、キリストの教会たるカトリック教会と、(それとは別の)眼に見える教会という区別をつけることは正当なことだろうか? と。それどころか、カトリック信仰により、私たちはキリストの教会たるカトリック教会と眼に見える教会との間にある同一性を告白する義務があるのではないのか? その通り! キリストの教会とはカトリック教会であり、この教会は眼に見えるものなのです!」
 ルフェーブル大司教様の信仰とはこのようなものでした。


「公会議のローマ」に対する戦い

 「ルフェーブル大司教の信仰を決して理解したことがなかった」人々とは、実のところ、大司教様が信じ、大司教様が晩年を含むその全生涯をお捧げになった、この眼に見える、具体的な、ローマ・カトリック教会を拒絶している人々であると、私には思えます。

 フェレー司教様に対するもう一つの非難は「フェレー司教は自分の権威を、配下の者たちが聖ピオ十世会に入会したときに持っていた指導方向と反対のこと、すなわち、公会議のローマに対する戦いの放棄を彼らに強いている」というものです。初めからこの公会議のローマという表現を明確にしておかなければなりません。つまり、彼らがこの言い方で、公会議の精神、第二バチカン公会議の誤謬とそれらの多様な適用を指しているなら、このような非難は中傷です。すなわち、これは偽りであり、フェレー司教様の評判を深く傷つける重大な攻撃です。

 ローマとの神学的討論に対する聖ピオ十世会の会員の選択は、フェレー司教様が、公会議の新奇なことに反対するカトリック真理の擁護において一切の脆弱を望まなかったということ、そして昨年のまさに初めに、司教様はご自分の最初の原則である「信仰について一切の妥協なし!」を明確に据えていたと教えています。それに続く数ヶ月は、フェレー司教様が聖ピオ十世会を妥協させるだろうと吹聴された偽の予言にも関わらず、司教様はこの原則に忠実であったと証明するのみでした。

 反対に、もしも「公会議のローマ」ということによって、それがカトリック教会の組織であると言うよりも別の教会組織を意味するのならば、このようなことを言う人々は、教会の危機について間違った理解、ルフェーブル大司教様のものとは違う理解をしていると言わねばなりません! いいえ、フェレー司教様は「下劣な父親」ではないどころか、むしろ(一握りの反抗的な子どもたちをも持っている)「忠実な父親」です!


カトリックのローマのために

 次のことを付け加えましょう。これは基本的な論拠ですが、ルフェーブル大司教様の本質的立場とは、反対とう立場ではなく、むしろ、そのためにという立場でした。大司教様はすべての時代のカトリック信仰に完全に忠実であったために、公会議の新奇なことに反対されたのでした。このような態度はまず第一に「そのために」であり、そのつぎに「反対」なのです。このことは、大司教様の有名な宣言の中ではっきりしています。

「私たちは、心の底から全霊を上げてカトリックのローマに、すなわちカトリック信仰の保護者でありこの信仰を維持するために必要な聖伝の保護者である永遠のローマ、知恵と真理の師であるローマによりすがる。私たちは、しかしながら、第二バチカン公会議とそれに由来して公会議後の全ての改革において明らかに現れた公会議新近代主義と新プロテスタント主義の傾向を持つローマに従うのを拒否し、常に拒否した」と。

 しかし、自分たちを一九七〇年代と八〇年代のような近代主義が華々しかった状況に反抗することを第一とした人々は、もはや異なった状況、例えば、明らかな逸脱を正し、典礼と教会の生命をより聖伝に近づけるために戻そうと(不完全ですが現実的に)努力したベネディクト十六世の状況下においてどうやって対処するのかがわかりません。何故なら、彼らは、あらゆる状況下で依然として有効である、優れた肯定的な原則を持たない(あるいは忘れてしまった)ので、自分たちの身の処し方がわからないのです。


的外れな抵抗

 こういった批判の中に、もう一つあまりにも頻発している錯覚が存在します。すなわち、彼らはフェレー司教様への抵抗を、ルフェーブル大司教様の公会議の新奇なことへの抵抗になぞらえているということです。彼らが「公会議の革命と【ローマと聖ピオ十世会の】同意の革命」とが類似していると耳にしますが、この比較はむしろ彼らの立場の愚かさを示しています。それどころか、この二つの比較は、際立って全く違う対照的なものであることがわかります。三つの側面を考えることが出来ます。
第一に、ルフェーブル大司教様は公会議の新奇なことが導入されたのちに抵抗しました。つまり、公会議の後にそして新ミサが導入されたのちにエコンでの事業を開始し、アシジの集会ののちに司教聖別をなさったのです。反対に、この批判の数々がフェレー司教様を攻撃しているのは、いかなる妥協もされる前になされたことです。これらの批判は、将来の妥協が来るだろうとなされましたが、そのようなものは全く起こりませんでした
第二に、原因の規模を考えてみましょう。一方で、まず公会議、新ミサ(そして何一つ見逃されることなく起こった全ての秘跡かかわる典礼全体の改革)、そしてアシジの集会──これらは巨大なスキャンダルであり、何万という霊魂にすさまじい損害をもたらしています。それに対し、彼らは即興で答えたインタビューの中のいくつかの言い回しや、片手で数えることの出来るほんの少数の機会を大問題にして批難しています。この両者は全く正反対の態度であり、このことを理解しない彼らの盲目にただただ驚くしかありません。
第三に、ルフェーブル大司教様は、公会議と典礼改革、アシジの集会の深刻さにも関わらず、パウロ六世の退位もヨハネ・パウロ二世の退位も要求しませんでした。ですが、この批判者たちはフェレー司教様の辞職を要求しています。聖アウグスチノはこう教えています。人を殉教者とするのは苦しみや死ではなく、なによりもまず、その人の大義である、と。つまり、ルフェーブル大司教様には公会議と典礼の新奇さに抵抗する、正当かつふさわしい大義がありましたが、フェレー司教様の批判者たちには、抵抗運動に対してのいかなる釣り合いもありません。これは単なるあからさまな反逆にすぎません。


リベラルな反リベラル主義者

 冒頭で私は「彼らは自分たちが排斥するまさにその問題(リベラル主義)へとみずから陥ってしまっているにも関わらず、反リベラル主義者を装っている」と書きました。正しく、リベラル主義者たちの特徴とは、権威を拒絶すること、教義的真理の権威であれ、天主の法の権威であれ、教会位階の権威であれ、権威の拒絶にあります。「リベラル主義者は、狂信的な独立愛好者である。あらゆる分野で、狂気の沙汰に至るまで独立を促進する」と、ルッセル(Roussel)神父はこのようにリベラル主義者を定義しました。そしてこの定義を、ルフェーブル大司教様は引用しています(『彼らは主の王冠を奪った』十四ページ)。
ところで、見てください。例のご立派な "反リベラル主義者たち" が画策している「独立した細胞(基礎組織)」、すなわち、彼らの間の緩やかな結束、しかも従うべき権威のない結束を! 彼らは従順とは何かを知らないがゆえに、命令の仕方もわからないのです。そして権威とは上から来るので、また彼らは正当な長上たちからみずからを切り離したので、彼らはあらゆる権威を失ってしまったのです。
その反対に、ルフェーブル大司教様は、教会の根幹に良く根付いた生ける枝として、聖ピオ十世会を創立されました。それは、シャリエール司教の教会法的承認によって、従って、権威の正当な線にしっかりと結びつき、まことのカトリック教会のわざとして、創立したからです。これは、私たちを批判する人々の間にあるようにではありませんでした。
ルフェーブル大司教様ご自身、この権威の行使の仕方をご存知でした(たとえば他の例として、聖座空位論者たちを聖ピオ十世会から追放することによって行使しました)。ここにも、一方でルフェーブル大司教様のした正当な抵抗と、他方で、権威の拒絶により、彼らが批判したまさにその間違いへと陥った反逆者たちとの間にある正反対のものを、また見ることとができます。

「父性の模範(これは権威を含む)に頼り、権威的組織そのものによらない」などとうそぶくことには、重大な幻想があります。なぜなら、正しくその権威的組織をきっぱりと拒絶することで、彼らはリベラル主義の典型である権威なしの父性に否応なく転落することになるからです。彼らはこのように言います。「それが矛盾でなかったとするなら、権威なし構造を、しかし父性をもった構造、そう、父性のある構造を目指したい、父性は、不可欠なのだ!」と。
彼らにとって不幸なことには、これは矛盾です! 権威(authority)という言葉はまさしく生み出す者(author)という言葉に由来します。子どもたちを生み出す者ではない父親は、間違いなく父親ではないはずです! 子どもたちの上にまことの権威を持つのを拒否する父親は……リベラル主義者の父親でしょう! 権威なしのまことの父性などというものは存在しないのです。

 彼らはリベラル主義を「なんの規則もない、あるのは自己の意志だけ、という宗教」であると、実にうまく非難します。しかし、それならなぜ、彼らは司祭たちの自由な同盟、なんの規則もない、あるのは彼らのやりたい放題だけという同盟を作っているのでしょうか?

 彼らがみずからを正し、謙遜に聖ピオ十世会にもう一度受け入れられることを請うよう祈りましょう。聖ヨゼフが彼らのためにこの恩寵を勝ち得てくださいますように!

フランソワ・レネー神父



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聖ピオ十世会日本は、毎年恒例の公式秋田巡礼を5月2日から6日まで行います。特に今年の巡礼に、多くの兄弟姉妹の皆様を巡礼にご招待いたします。

今年で8回目になる巡礼ですが、ご参加希望の方々は、聖ピオ十世会日本 秋田巡礼 SSPXJAPAN PILGRIMAGE TO AKITAなどを通してお申し込みください。

聖ピオ十世会日本の第8回公式秋田巡礼は55名が参加しました。天主様に感謝!

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アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様

 聖ピオ十世会日本の第8回公式秋田巡礼は55名が参加して明日終わろうとしております。天主様に感謝!マリア様に感謝します。

 秋田巡礼にいらしてくださり私たちにお話をしてくださったジョン・ヴェナリさんに感謝します。

 今日、5月5日は夕方6時のミサから真夜中の0時まで御聖体礼拝があります。御聖体のうちにまことにましまし給う私たちの主イエズス・キリストにカトリック教会のため、日本のため、世界のために祈ります!



 愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


 次は昨年の記事です。
秋田の聖母への巡礼第三日目アヴェ・マリア!愛する兄弟姉妹の皆様、秋田の聖母のもとに、聖ピオ十世会は第7回目の巡礼をしております。今年は司祭が3名が参加しております。たくさんのお祈りを捧げています。...>続きを読む

秋田巡礼、第四日目
アヴェ・マリア!愛する兄弟姉妹の皆様、今年は、49名の巡礼者の方々がこの巡礼に参加しました。貸切りバスは補助席を使っても満席で、秋田巡礼のためにトヨタのクラウンを購入した方...>続きを読む


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今年で8回目になる巡礼ですが、ご参加希望の方々は、聖ピオ十世会日本 秋田巡礼 SSPXJAPAN PILGRIMAGE TO AKITAなどを通してお申し込みください。

5/4(日)現在のロザリオの総数は9411環です

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アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

5/4(日)現在のロザリオの総数は、

前回7830環+75環+1476環+30環=9411環です。

*********************************

【報告】

小野田神父

秋田巡礼にとても関心があったのですが、
仕事の関係で参加できずに残念です。

4月のロザリオ数を報告させていただきます。

?御聖堂・教会敷地内ルルド 30環
?移動中のiPhone(教皇様のCD) 32環
?You-Tube動画 13環

計75環

秋田巡礼に参加される方々に
豊かなお恵みがありますように。

【報告】

十アヴェ・マリア!!♪♪

聖母の愛しておられます!!♪♪トマス・マリア小野田圭志主任神父様!♪
もう、書こうと思うだけで、涙が!本当に!!本当に!!素晴らしい!♪非常な御恵みの!♪秋田の聖母マリア様!!♪♪聖ヨゼフ様!!♪♪の御元への巡礼でした!♪
荘厳ミサ!!!♪♪♪真夜中までの御聖体顕示!!!♪♪♪心に、いっぱい思いが感謝が有りますが、聖なるロザリオの十字軍の!!♪♪御報告をさせて頂きます♪

*シスター                   90環
*ヨゼフとマリア               308環
*ヨゼフ・パウロ             90環
*マリア・クリスティーナ・ヨハネ     310環
*マリア・テレジア             20環
*マリア・ベルナデッタ・ヨゼフィーナ   180環
*バルナバ                   63環
*エリザベト                   60環
*幼きイエズスのテレジア        103環
*マリア・クリスティーナ            48環
*マリア                     20環
*マリア・ローザ                28環
*マリア・エリザベト・ベルナデッタ     30環
*マリア・ローザ・デオ・グラチアス     69環
*アンナ                     57環

以上で、1476環です、宜しく御願い致します♪

嬉しい嬉しい非常な御恵みの!♪巡礼の!!♪♪御計画!♪来年も!♪どうぞ宜しく 御願い致します!♪来年も全行程参加!♪の御恵み頂けます様に!♪御祈り御願い 致 します!♪
聖ヨゼフ様の帯!♪楽しみです!♪

御優しい!♪御優しい!♪天主イエズス様!!!♪♪♪
秋田の聖母マリア様!!♪♪
秋田の聖ヨゼフ様!!♪♪

とても有り難い♪クチュール管区長様♪大切な!非常な御恵みの!♪トマス・マリア小野田圭志主任神父様♪遠いポーランドから御出で下さいましたコヴァルスキ神父様を♪感謝致します!♪御護り下さいませ!!

非常な御恵みでした!♪巡礼!!♪♪を感謝致します!!

デオ・グラチアス!!

【報告】
追加です。
十アヴェ・マリア!!♪♪

2日に頂いておりましたメールに書いてありました!見落としていた事が、八木澤さんよりのメールで判明しました(*_*;

*マリア・ルチア・フィロメナ様 30環


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大阪で聖伝のミサでは「聖ヨゼフの帯」を皆様にお分けします。また来年の秋田巡礼は・・・

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アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 明日から大阪で聖伝のミサがあります。今回は「聖ヨゼフの帯」を皆様にお分けしたいと思っています。

聖ヨゼフの帯
聖ヨゼフの帯は、1657年のベルギーのアントワープにおいて、シスター・エリザベトという名の信心深いアウグスチノ会の修道女の奇跡的治癒と共に始まりました。
三年間の重くて痛い病気の後、医者は彼女の治癒の望みをあきらめ、彼女はまもなく死ぬと予測しました。しかしシスター・エリザベトはいつも聖ヨゼフへの信心を持っており、帯を作って聖ヨゼフの名誉において祝別してもらい、それを彼女の腰の周りに着けていました。数日後、彼の御像の前で祈っていると、彼女は突然痛みから解放されました。彼女の回復は奇跡的だとみなされました。
遂にはその帯の信心が広まり、そしてその敬虔な使用を通じて無数の即別な恵みがもたらされました。この帯は身体的病気に対しての救済だけでなく、貞潔の徳を保つ為の霊的助けとして使われました。この信心は1859年の9月19日に典礼聖省によって認可され、教皇ピオ9世によっても祝福され認可されました。
この帯を着ける事による恵みは、1) 聖ヨゼフの特別な御保護、2) 霊魂の清さ、3) 貞潔の恵み、4) 臨終の時までの堅忍、5) 死の時の特別な援助の恵み、です。

この帯は糸もしくは綿で、端に7つの結び目があり、腰の周りに着けねばなりません。それは司祭によって祝別されねばなりません。その帯を着ける者は聖ヨゼフに敬意を表して、日々7回の栄唱と共に「聖ヨゼフに向かいて貞徳を求むる祈」を唱えねばなりません。【7つの結び目と7回の栄唱は、聖ヨゼフの7つの苦しみと喜びとを意味しています。】

聖ヨゼフに向かいて貞徳を求むる祈
童貞者の父かつ保護者なる聖ヨゼフ、御身は純潔そのものにましますイエズスと、童貞中の童貞にまします聖マリアとの、忠実なる守護者と選ばれ給えり。願わくは、御身に託せられたる最愛のイエズスとマリアとによりて、われをしてすべての汚れを免れしめ、精神も、心も、身体も、清浄潔白にして、完全なる貞潔を保ちながら、絶えずイエズスとマリアに仕えしめ給わんことを、ひたすらこいねがい奉る。


 さて、昨年の秋田巡礼では、夕方のリクリエーションの時間には1931年(昭和6年)に戦前の日本で制作された『日本26聖人』の映画を皆で涙しながら観賞しました。

天主様に感謝しますアヴェ・マリア!愛する兄弟姉妹の皆様、昨日は、夕方のリクリエーションの時間には1931年(昭和6年)に戦前の日本で制作された『日本26聖人』の映画を皆で涙しながら観賞しまし...>続きを読む

 今年は、A Meditation on the Holy Sacrifice of the Mass【ミサ聖祭の黙想】の動画を皆で鑑賞しました。





 また、ルフェーブル大司教様に関するドキュメンタリー映画【1時間30分】の日本語版の試写会もありました。


 来年の秋田巡礼は、秋田の聖母が涙を初めて流されてから40周年にあたる(1975-2015)ので、それを記念して第9回目の聖ピオ十世会公式巡礼を行う予定です。

 また、来年は、元和元年(1615)2月5日【従来2月5日とされてきましたが、一説によると2月5日の "5" の数字が、よく見ると "3" に見えるとのことで、2月3日だという主張もあります】に 高山右近がマニラで熱病で倒れ、63才で生涯を終えて、400周年(1615-2015)です。そこで、ユスト高山右近を称える記念も行う予定です。

 更に、潜伏キリシタンの発見(1865年3月17日)の150周年(1865-2015)です。このお恵みも感謝して、来年の巡礼で記念したいと思います。

 すでに今年の巡礼から「ユスト高山右近を讃う」歌【河合まり子 作詞・鈴木和之作曲】を歌いました。

身は貴(たか)き 城にありとも
道の子は 御国(みくに)求めて
ひたすらに 讃(たと)う 主の御名(みな)
いと 聖き そのいさおし
いざ 讃えん ユスト高山右近

みはたかき しろにありとも
みちのこは みくにもとめて
ひたすらに たとう主のみ名
いときよき そのいさおし  
いざたたえん  ユストたかやまうこん

もののふの みちけわしくも
パライゾを いのりもとめて
はらからに つどうみおしえ
いと 聖き そのいさおし
いざ 讃えん ユスト高山右近

てにつるぎ むねにはクルス
マルチリの こころさだめて
あだびとに むこうおおしさ
いと 聖き そのいさおし
いざ 讃えん ユスト高山右近

あだしよは ゆめにしあれば
とわのさち あおぎのぞみて
とつくにに うたうほぎうた
いと 聖き そのいさおし
いざ 讃えん ユスト高山右近





高山右近の辞世の句

わが魂(アニマ)は、天地万物の御作者(ごさくしゃ)なる御主(おんあるじ)を、 ひたすら慕い奉る。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



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毎年恒例の聖ピオ十世会公式秋田巡礼は、今年で8回目になりました。ご参加希望の方々は、聖ピオ十世会日本 秋田巡礼 SSPXJAPAN PILGRIMAGE TO AKITAなどを通してお申し込みください。

天主様に感謝!2014年5月の報告

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アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 5月の東京での聖伝のミサの参列者数は下記の通りでした。天主様に感謝します!

ミサの参列者数
男: 14人(内、子供0人)
女: 16人(内、子供2人)
計: 30人(内、子供2人)


 ところで、今年5月1日には、とても不思議な天主の御摂理の業がありました。クチュール神父様が私と一緒に秋田に行く予定だったのですが、突然、沖縄から連絡があり、赤ちゃんが生まれるから洗礼を授けてほしいとのこと。そこで、クチュール神父様が沖縄に行くこととなり、那覇の港の船の上では無かったのですが、沖縄の国土の上で、ちょうど170年後の2014年5月1日、フォルカード神父様がなさった奉献と同じ祈りをクチュール神父様がしました。

「ああマリアの至聖なる御心、全ての心の中にも至って麗しく、いと清く、いと気高き御心よ、善良と柔和と憐れみと愛とのつきぬ泉なる御心、全ての徳の驚くべき至聖所にして、いと優しき鑑なる御心よ、ただイエズスの神聖なる聖心にのみ劣る御心よ、初めて宣教すべきをいとも不肖なれども我に委託されたかの琉球の島々を、この時、我にある限り、また我に属する限り、御身の特別なる御保護のもとに奉献し、置き、宣言し、聖別し奉る。とりわけ、布教が開始され確立し、それがたとえ幾ばかりかであれ、空しき偶像礼拝よりキリスト教信仰に移ったかの島々の住民らのために、たとえごく小さき聖堂にても建設したならば、いかなる遅れもなく、使徒聖座によって、この国全てが、公にまた公式に、特別の御保護の下に置かれるように全てをなすことを宣誓し奉る。
ああ慈悲深き御心よ、神聖なるイエズスの聖心の前に於ていとも力ある御心よ、何人たりともその祈祷の空しかりしことなき御心よ、卑しき我が祈願を軽んじ給はず、みじめなる我が心を一層善に改心せしめ、かくも暗黒に取り囲まれたるこの心の悪を払い給え。謙遜、賢明、上智、剛勇の精神を、かくも多くの困難と、かくも多くの危険との中において、我が為に勝ち取り給え。願わくは、御身の御取り次ぎによりて、全能にして憐れみ深き天主、聖父と聖子と聖霊が、この賤しき道具を使い給うことをかたじけのうさせ給え。そは「強い者を辱しめるため、有る者を空しくするため(コリント前1:27-28)」なり。幾世紀前より暗闇と死と陰に座るこの民を聖なる福音の光と永遠の生命とについに改心させ、導き、辿り着かしめ給え。アメン。」

 さて、秋田巡礼のために、ロザリオの玄義をよく黙想するために巡礼のしおり別冊「ロザリオの信心」を作りました。これは、渡辺吉徳の小冊子「ロザリオの信心」を参考に、これを読みやすく現代語に編集・加筆・訂正し、その他の記事を追加し、カラーの挿絵をたくさん挿入したものです。これを巡礼中に印刷費の1000円でお分けしましたが、まだ、在庫があります。
 ロザリオ800周年、ロザリオ十字軍中、アジア管区でロザリオの年ですので、たくさんのロザリオの黙想の助けになると思います。またメール便で1冊82円、2冊なら164円で日本全国に発送できます。
※ご注文をご希望の方は、聖ピオ十世会日本 秋田巡礼 SSPXJAPAN PILGRIMAGE TO AKITAを通してお申し込みください。


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聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph

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アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、「聖ヨゼフの帯」について改めてご紹介します。
天主様の祝福が豊かにありますように!


Source; “FAVORITE PRAYER TO ST. JOSEPH” TAN BOOKS Imprimatur 1997
出典 同上

聖ヨゼフの帯は、1657年のベルギーのアントワープにおいて、シスター・エリザベトという名の信心深いアウグスチノ会の修道女の奇跡的治癒と共に始まりました。
三年間の重くて痛い病気の後、医者は彼女の治癒の望みをあきらめ、彼女はまもなく死ぬと予測しました。しかしシスター・エリザベトはいつも聖ヨゼフへの信心を持っており、帯を作って聖ヨゼフの名誉において祝別してもらい、それを彼女の腰の周りに着けていました。数日後、彼の御像の前で祈っていると、彼女は突然痛みから解放されました。彼女の回復は奇跡的だとみなされました。
遂にはその帯の信心が広まり、そしてその敬虔な使用を通じて無数の即別な恵みがもたらされました。この帯は身体的病気に対しての救済だけでなく、貞潔の徳を保つ為の霊的助けとして使われました。この信心は1859年の9月19日に典礼聖省によって認可され、教皇ピオ9世によっても祝福され認可されました。

この帯を着ける事による恵みは、1) 聖ヨゼフの特別な御保護、2) 霊魂の清さ、3) 貞潔の恵み、4) 臨終の時までの堅忍、5) 死の時の特別な援助の恵み、です。

この帯は糸もしくは綿で、端に7つの結び目があり、腰の周りに着けねばなりません。それは司祭によって祝別されねばなりません。その帯を着ける者は聖ヨゼフに敬意を表して、日々7回の栄唱と共に「聖ヨゼフに向かいて貞徳を求むる祈」を唱えねばなりません。【7つの結び目と7回の栄唱は、聖ヨゼフの7つの苦しみと喜びとを意味しています。】


聖ヨゼフの帯のための祈り
栄唱 7回
願わくは聖父(ちち)と聖子(子)と聖霊とに栄えあらんことを。▲始めにありし如く、今もいつも世々にいたるまで。

ラテン語版 Latin ver.
Gloria Patri, et Filio, et Spiritui Sancto.
. Sicut erat in principio, et nunc, et semper, et in saecula saeculorum. Amen.

英語版 English ver.
Glory be to the Father, and to the Son, and to the Holy Ghost.
. As it was in the beginning, is now, and ever shall be, world without end. Amen. × 7 times

聖ヨゼフに向かいて貞徳を求むる祈
童貞者の父かつ保護者なる聖ヨゼフ、御身は純潔そのものにましますイエズスと、童貞中の童貞にまします聖マリアとの、忠実なる守護者と選ばれ給えり。願わくは、御身に託せられたる最愛のイエズスとマリアとによりて、われをしてすべての汚れを免れしめ、精神も、心も、身体も、清浄潔白にして、完全なる貞潔を保ちながら、絶えずイエズスとマリアに仕えしめ給わんことを、ひたすらこいねがい奉る。

ラテン語版
Virginum custos et pater, sancte Ioseph, cuius fideli custodiae ipsa Innocentia Christus Iesus et Virgo virginum Maria commissa fuit; te per hoc utrumque carissimum pignus Iesum et Mariam obsecro et obtestor, ut me, ab omni immunditia praeservatum, mente incontaminata, puro corde et casto corpore Iesu et Mariae semper facias castissime famulari. Amen.


O Guardian of virgins, and holy Father St. Joseph, into whose faithful keeping were entrusted Christ Jesus, Innocence itself, and Mary, Virgin of virgins, I pray and beseech thee, by these dear pledges, Jesus and Mary, that, being preserved from all uncleanness, I may with spotless mind, pure heart, and chaste body, ever serve Jesus and Mary most chastely all the days of my life. Amen.


【聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び】

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失ならんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔さ良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。

2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。

3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。

4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。

5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。

6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。

7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。


交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。

THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Ipse Jesus erat incipiens quasi annorum triginta, ut putabatur filius Joseph.

V. Ora pro nobis, sancte Joseph.
R. Ut digni efficiamur promissionibus Christi.

Oremus.
Deus, qui ineffabili providentia beatum Joseph sanctissimae Genitricis tuae sponsum eligere dignatus es; praesta quaesumus, ut quem protectorem veneramur in terris, intercessorem habere mereamur in coelis. Qui vivis et regnas in saecula saeculorum. R. Amen.


Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.


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6/3(火)現在のロザリオの総数は、11,753環です

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アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
こんにちは!お元気でいらっしゃいますか。

6/3(火)現在のロザリオの総数は、
前回9411環+261環+150環+1826環+105環=11753環です。

天主様のお恵みで6月2日には、叙階以来八万千回【失礼しました。八千回の間違いです。(- -;) 】のミサを捧げることが出来ました。天主様に感謝します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

*********************************

【報告】
3月から5月 261環

【報告】
4月分のロザリオの十字軍
フランシスコ 30環
モニカ    30環
テレジア   90環

【報告】

十アヴェ・マリア!!♪♪

聖なるロザリオの十字軍の!!♪♪御報告をさせて頂きます♪
*シスター                  93環
*ヨゼフとマリア               265環
*ヨゼフ・パウロ                93環
*マリア・クリスティーナ      589環(途中から、めざせ600環でしたのですが(T_T))
*マリア・テレジア                20環
*マリア・ベルナデッタ・ヨゼフィーナ      207環
*マリア・クリスティーナ             49環
*マリア                     20環
*マリア・ローザ                 36環
*マリア・エリザベト・ベルナデッタ       45環
*マリア・ローザ                 45環
*アンナ                     60環
*マリア・ルチア・フィロメナ           80環
*幼きイエズスのテレジア            102環
*エリザベト                   62環
*バルナバ                    60環

以上で、1826環です♪どうぞ宜しく御願い致します。

8日聖霊御降臨の大祝日!!!♪♪♪までの分を、又、お聞きしまして、御報告致します♪

あの〜御忙しいですのに申し訳ありませんのですが、御復活節の祈り!♪は聖霊御降臨の大祝日!♪の前日まで唱えても宜しいのでしょうか?
御指導頂きましたら、祈祷書に書いておこうと思います、何となく毎年、家で揉めています様な気がします(*_*;
もし御時間がございましたら<m(__)m>

御昇天なされました天主イエズス様!!!♪♪♪
聖なるロザリオの聖母マリア様!!♪♪
聖会の保護者なる御恵みの聖ヨゼフ様!!♪♪
どうぞ、非常な御恵みの!♪フェレー総長様!♪トマス・マリア小野田圭志主任神父様 !♪を、御護り下さいませ!!
デオ・グラチアス!!
十チーム・パラマイ


【報告】

小野田神父さま、

今月のロザリオの祈りは105環です。
今月は0環の日が2日続けてありました。記録をするたびにこの「0」が気になり、ロザリオの時間をつくるよう努めました。
結果いつもより多めになりました(汗)。これを続けていきたいと思います。
一つ一つの玄義を黙想し、マリア様に向かうことができるのは、とても心強いことです。
マリア様に感謝します。


聖伝のミサ(いわゆる「トリエント・ミサ」と呼ばれているローマ式典礼様式のミサ)にようこそ!
ローマ・カトリックの聖伝のミサ vs エキュメニカルな新しいミサ(第二バチカン公会議のミサ)


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6/4(水)21:30現在のロザリオの総数は、11860環です!

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アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
こんばんは。

6/4(水)21:30現在のロザリオの総数は、
(6/4のブログ)11753環+11環+96=11860環です。


【報告】

小野田神父様

11 環 お祈りいたしました。

どうぞよろしくお願い申しあげます。


【報告】

小野田神父様

5月のロザリオ数を報告させていただきます。

?御聖堂・教会敷地内ルルド 41環
?移動中のiPhone(教皇様のCD) 44環
?You-Tube動画 11環
計96環

なかなか100環には届きませんね…


以下は、個人的な意見なので、
読み流して下さい。

ピオ十世会のご活動には、大変なご苦労がおありとお察し申し上げます。

日本のカトリック教会(司教様方というべきでしょうか)は
ローマのご意向すら無視して
ご自分たちに都合の悪い情報を信者に伝えません。
むしろ隠ぺいしているとしか思えない状況です。
信者は信者で、司教団を疑うことすらせずに
盲目的に追従しています。
典礼においても、政治的発言に関しても…
ピオ十世会は聖座から破門されているので
活動にかかわってはいけないという風潮も
信者に与えられる情報不足も一因と推測されます。

インターネットの普及とともに、
YouTubeなどの動画サイトで
ローマでの教皇様のごミサも、
世界で行われているトリエント形式のごミサも
視聴することができるようになりました。
ピオ十世会におかれましても、
神学校でのロザリオのご様子とか、
トリエント形式のごミサでの信者の所作とかの
動画サイトへアップしていただけないでしょうか…

美しい映像は、人々の心に訴えるものがあります。
かつての美しいごミサに憧れたように。
正しい情報に触れる機会が増えることによって
日本の一般信者がピオ十世会のご活動を
理解できるようになると考えます。

活版印刷の技術がなければ、
聖書が広く普及しなかったのですから、プロテスタントは単なる一地方の異端に過ぎなかったかもしれません。
正統なカトリックが復権するためはインターネットの活用により、視覚情報を多く提供していただくことが重要ではないでしょうか。
勝手なお願いで恐縮です。

少しでも多くトリエント形式のごミサに与りたい、
というより、主日のごミサでイエズス様の尊い犠牲と
ご聖体に現存されていることを感じたい、そう願う日本の平信徒に多くのチャンスを与えて下さるのが、ピオ十世会の神父様方です。
5月は体調不良でごミサに与ることができませんでしたが、
6月は是非ごミサに与りたく存じます。

今後とも、よろしくご指導下さい。


聖伝のミサ(いわゆる「トリエント・ミサ」と呼ばれているローマ式典礼様式のミサ)にようこそ!

ローマ・カトリックの聖伝のミサ vs エキュメニカルな新しいミサ(第二バチカン公会議のミサ)


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ミサ聖祭はカトリック教会の中心、超自然の命のよりどころ

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アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ミサ聖祭はカトリック教会の中心を占めており、超自然の命のよりどころとなっています。

カトリック教会が、ミサにおいて司祭にさせている祈りと動作とは、神学的な意味があり、カトリック教会の信仰に直接に関わっています。これらは、カトリック教会の教義一般がにじみあふれ出たものであり、特に、ミサ聖祭が罪の償いのために捧げられていること、イエズス・キリストが御聖体においてパンとブドウ酒の外観のもとに真に常にましまし給うことを言葉と動作で表しています。

 上のことを確認した後に、今、パウロ六世の典礼革命を考察してみます。

1969年、パウロ六世が「新しいミサ」にもたらした変更は、私たちのカトリック信仰の純粋さと明確さを強調するためのものではなく、その反対に、カトリックらしさをより取り除き、曖昧にさせ、ぼやかし、プロテスタントに近づけるためでした。

1969年の新しいミサは、より「エキュメニカルなミサ」を創作するための第一のステップとして導入されました。

確かに「典礼憲章」は、見かけ上は教会の聖伝のローマ典礼様式を維持すると述べ、将来新しい典礼様式によって古い典礼を取り替えるとは言っていません。

典礼憲章 4「聖なる公会議は聖伝に忠実に従い、聖にして母なる教会が、合法的に承認されているすべての典礼様式を、同等の権利と栄誉を持つものと認め、それらが将来も保存され、あらゆる方法で促進されるように望んでいることを宣言する。」
典礼憲章 36 §1「ラテン語の使用は、ラテン典礼様式において遵守される。」
典礼憲章 101 §1「数世紀にわたるラテン典礼様式の伝統に従って、聖職者は聖務日課のラテン語を守らなければならない。」
典礼憲章 116「教会は、グレゴリオ聖歌をローマ典礼に固有な歌として認めている。したがってこれは、典礼行為において、他の同等のものの間で首位を占めるべきである。」

 しかし、すでに1964年3月、まだ第二バチカン公会議の開催の途中であったが、パウロ六世は、個人の資格で公会議文書である典礼憲章の「暗黙の結論」として、典礼改革のための委員会を作りました。それがコンシリウム(Consilium ad exequendam Constitutionem de Sacra Liturgia)「聖なる典礼に関する憲章の実行のための委員会」です。その委員長としてジャコモ・レルカロ枢機卿(Cardinal Giacomo Lercaro)が、事務長としてアンニバレ・ブニーニ(Annibale Bugnini)が選ばれました。本来なら典礼聖省にこの仕事が委ねられるべきでしたが、当時、当該聖省長官はきわめて保守的なララオナ枢機卿(Cardinal Larraona)であり、典礼聖省を脇に外して仕事をするためにこのコンシリウム委員会が設置されたのです。

 1965年、モンシニョール・ブニーニは次のように発表しています。
「教会は、霊魂への愛に導かれ、また別れた私たちの兄弟たちが一致の道へと至るように全てをしようと言う望みとに導かれ、(プロテスタントたちにとって) 躓きや気に入らないかもしれない危険の陰とでもなるかもしれないものは全ての石を取り除いた。」
"L'Eglise a été guidée par l'amour des âmes et le désir de tout faire pour faciliter a nos frères sépares le chemin de l'union, en écartant toute pierre qui pourrait constituer ne serait-ce que l'ombre d'un risque d'achoppement ou de déplaisir."
(Annibale Bugnini, Documentation Catholique N. 1445 du 4 avril 1965, col. 603-604)

 モンシニョール・ブニーニは、ミサ聖祭においてプロテスタントたちにとって「躓きの危険」や「気に入らない危険」となる全てを取り除くと言っていますが、まさに、叙階の秘蹟による司祭職、ミサ聖祭が持つ罪の償いの価値、御聖体に於けるイエズス・キリストの真の現実的で実体的現存、などといったカトリックの信仰を言葉と動作で表明することが取り除かれたのでした。従って、パウロ六世のいわゆる「改革」は、あまりにもはっきりとカトリック的なところは、反エキュメニカルであるとして廃止し、曖昧にし、ぼかすことであったとことが良く理解できます。

 従って、カトリックの聖職者たちや信徒たちが、改革された新しいミサに与ることによって、ゆっくりとしかしますますプロテスタント化しているのが分かります。何故なら、私たちは信じるごとく祈るのですから、ついには、祈るように信じるようになってしまうからです。

【オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿によるパウロ六世への警告】

 改革された新しいミサ典書は、コンシリウム委員会のした最も重要な仕事でしたが、これは1969年パウロ六世によって公布されました。しかし発表されるやいなや、典礼に造詣の深かった枢機卿、司教、司祭、信徒たちがそれに反応し、典礼のプロテスタント化に反対しました。

 その中でも典礼聖省の一員であったアントニオ・バッチ枢機卿と、倹邪聖省長官であったオッタヴィアーニ枢機卿とは、パウロ六世に手紙を書き、新しいミサの批判研究を同封しました。この手紙の中で両枢機卿はこう書いています。

教皇聖下

「聖なる典礼に関する憲章の実行のための委員会」の専門家らによって準備されたミサの新しい司式(Novus Ordo Missae)を、注意深く吟味し、その他の人々が綿密な調査をするように願い、そして、長い祈りと考察の後に、私たちは次の考察結果を聖下の前に報告するのが、天主の御目の前における、また聖下に対する重大な私たちの義務であると感じます。

1、添付のミサの新しい式次第の批判的研究は、神学者、典礼学者、霊魂の牧者らから成るあるグループのなしたものでありますが、これは短いものにもかかわらず、次のことを非常に明らかに示しています。すなわち、もし暗になされた、或いは当然なされた改革を私たちが考察するとき、この改革は様々な仕方で評価できるかもしれませんが、新しい司式はその全体といいまたその詳細といい、トレント公会議の第22総会で宣言されたミサに関するカトリック神学から目を見張るばかりに逸脱しています。この公会議総会は、典礼様式についてのカノンを決定的に定め、神秘の完全性に対して向けられたあらゆる異端に対抗して越えることのできない防御の壁を築き上げました。[il quale, fissando definitivamente i «canoni» del rito, eresse una barriera invalicabile contro qualunque eresia che intaccasse l’integrità del magistero.]

2、聖伝からのこのように重大な逸脱を支持するような司牧上の理由は、たとえそれらの理由が仮に教義上考察した上で正しいものだと考えられたとしても、私たちには十分だとは思われません。新しい式次第における改革を見ても、そして永遠の価値をもつもの全てが、そしてそれが何らかの形であれそこに止まったとしても、単に隅の方に追いやられているという事実をみても、キリストを信ずる民が常に信じ続けてきた真理を変える、或いは無視する、ということをしても、カトリック信仰が永遠に結びつけられている教義の聖なる遺産に対して忠実であり続けることが、あたかも出来るかのような疑いを、(残念なことにこのような疑いは既に多くの所で支配的になっているのですが)確信にすっかり変えてしまうことでしょう。最近の改革は典礼に於いてしたばかりの変化のために信者の側では、ただ完全にまごつかせる以外の何ものにも行き着かなかったことを十分に示しています。信者は落ち着きが無くなり、信仰をますます無くしているとの疑うことの出来ない印を既に見せています。聖職者の中で最も優れたものの間でさえ、良心の危機の苦悶を訴え、これに関して無数の例を私たちは毎日知るに至っています。

3、これらの考察は牧者らとその群の両方の生の声によって聖下の元にのみ届くことが出来るのですが、聖下の慈愛溢れる父の心にそのこだまを見つけ出さざるを得ません。聖下の父の心は常に教会の子らの霊的必要を非常に深く心配しておられるからです。ある法律がその臣民の善を望んで作られたにもかかわらず。それがその反対に有害であったと分かるときにはこれらの臣民はその法律を廃止するように忠孝の信頼をもって願う権利、いえ義務があるというのはいつも本当のことでした。

 ですから、これ程の痛ましい分裂と、信仰の純粋さと教会の一致に対するますます大きくなる危機(このことは私たちの共通の父である聖下ご自身がお嘆きになったことでもあります)の時に当たって、私たちは本当に心から聖下にひたすらお願い申しあげます。聖下ご自身がかくも高く賞賛され、全カトリック世界がかくも深く愛し崇敬してきた聖ピオ5世のローマ・ミサ典書の実り豊かな完全性に私たちが続けて使用することが出来るようにその可能性を私たちから奪わないで下さい。

オッタヴィアーニ枢機卿(署名)
バッチ枢機卿(署名)

 オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿がパウロ六世に提出した報告書については、「新しいミサ式次第の批判研究」をご覧ください。



聖伝のミサ(いわゆる「トリエント・ミサ」と呼ばれているローマ式典礼様式のミサ)にようこそ!

ローマ・カトリックの聖伝のミサ vs エキュメニカルな新しいミサ(第二バチカン公会議のミサ)



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6/7 現在のロザリオの総数は、12015環です

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アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
こんにちは!

6/7 現在のロザリオの総数は、12015環です。

ありがとうございます。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
遅くなりましたが、5月分のロザリオの報告いたします。
フランシスコ    31環
モニカ       31環
テレジア      93環

神様のみ心の通りになりますように。
祈りのうちに。デオグラチアス。

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6/11(水)23:50 現在のロザリオの総数は、15,104環です

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アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
お元気でいらっしゃいますか。

6/11(水)23:50 現在のロザリオの総数は、
12,015環+3,013環+40環+36環=15,104環です。

愛する兄弟姉妹の皆様のたくさんのロザリオの祈りを感謝します!
ご報告は戴かなくとも、どうぞ、これからもたくさんのロザリオをお願いいたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

*********************************

【報告】
アヴェ・マリア!
トマス小野田神父様
ロザリオの十字軍のご報告をさせていただきます。
4月28日から6月8日18時(日本時間)まで
私と子供あわせて47環でした。
トマス小野田神父様に天主様の祝福が豊かにありますように!
第5次ロザリオの十字軍が成功しますように!

【報告】
アヴェ・マリア!
ロザリオの祈りの報告です。
秋田巡礼含めて、1月〜6月8日までで、計638環でした。

【報告】
+Ave Maria!
聖霊降臨の祝日おめでとうございます!
小野田神父様、聖務にお忙しいのに私たち日本の信徒のためにブログやご連絡をあり がとうございます。
日本でのミッション、聖伝の御ミサをたくさんあげてくださるとのこと。
天主様に感謝!
聖母マリア様に感謝!
聖ヨゼフ様に感謝!
聖ピオ十世会の神父様方に感謝申し上げます。
聖ピオ十世会の神父様方は、日本のミッションのために、どれほどの犠牲をはらってくださっていらっしゃることでしょうか!
聖母の汚れ無き御心のご保護を毎日お祈り申し上げております。
4月の報告が大変遅れまして、申し訳ありません^_^;
拙くもロザリオ十字軍の意向で唱えましたロザリオの報告をさせていただきます。
今年はアジア管区ではロザリオの年ですし、今後もロザリオをできるだけたくさん唱えて聖母マリア様の汚れ無き御心にお捧げいたします。
9人で4/1〜6/8までに、1258環を御捧げいたしました。
小野田神父様、どうぞお身体を大切になさってくださいますように。
日本に聖伝の御聖堂が与えられますように!
日本に聖ピオ十世会の神父様方が常駐してくださいますように!
至聖なるイエズス様の聖心よ、我らをあわれみたまえ。
聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈りたまえ。
いとも尊き聖ヨゼフ、我らのために祈りたまえ。

【報告】
+アヴェ・マリア!
小野田神父様、遅くなりましたが、ロザリオ十字軍のロザリオ数の報告です。
3月までは報告済みで、4月以降の合計はちょうど130環でした。
良き実りが結ばれて、聖伝のミサ、聖伝の教えがさらに広まっていきますように。

【報告】
161
for Bishop Fellay's Rosary Crusade, and
for the Philippines (against RH bill)

【報告】
小野田神父様、
聖霊降臨おめでとうございます!お元気ですか。
五月の一日から6月8日までにはrosarioを141環お送り致します。
こちらは、昨日から気温は36.5なので、猛暑日と言いますね。そちらは今どうですか。
いつもお体にはくれぐれも気をつけて下さいね!
神父様に何時も親切に頂くのをお礼を申し上げます。よろしくお願い致します。
心から、お祈りのうちに。

【報告】
十アヴェ・マリア!!♪♪
聖母の愛しておられます!!♪♪トマス・マリア小野田圭志主任神父様!♪
聖霊降臨の大祝日!!!♪♪♪ おめでとうございます!♪
8日間付きですね♪
至福の御ミサ!!!♪♪の御恵みが!♪たくさん増えるという嬉しい!♪嬉しい!♪御手紙!♪本当に有難うございました!!♪とてもとても嬉しいです!!♪♪
聖ヨゼフ様!!♪♪への2着の祭服!!♪♪ 祈ります!!
では、6月の聖なるロザリオの十字軍の!!♪♪御報告をさせて頂きます♪
*シスター      24環
*ヨゼフ と マリア 88環
*ヨゼフ・パウロ  24環
*マリア・クリスティーナ・ヨハネ  134環
*マリア・ テレジア 4環
*マリア・ベルナデッタ・ヨゼフィーナ 70環
*マリア・クリスティーナ 14環
*マリア 5環
*マリア・エリザベト・ベルナデッタ 36環
*アンナ 16環
*マリア・ルチア・フィロメナ 20環
*バルナバ  15環
*エリザベト 16環
以上で466環です。
フェレー総長様!♪と主任神父様の!♪御望みの聖なるロザリオの環数!!♪♪達成ですといいですね!♪
そして、意向が!♪実現になりますと良いですね!♪
御降臨下さいました天主聖霊様!!!♪♪♪
聖なるロザリオの聖母マリア様!!♪♪
聖会の保護者なる聖ヨゼフ様!!♪♪
どうぞ、御恵みでしたクチュール管区長様を♪
有り難いレネー神父様を♪
新しい管区長様のシュテーリン神父様を♪
私達の大切な♪非常な御恵みの♪嬉しい♪トマス・マリア小野田圭志主任神父様を♪
御護り下さいませ!!
デオ・グラチアス!!
十チーム・パラマイ♪

【報告】
JMJ
聖霊降臨の大祝日おめでとうございます!
五月一日から六月八日までの分で、合計七十環です。
前回メールで、四月分の報告として三十二環を報告しておりますが、届いておりますでしょうか?
念のため添えておきます。
聖心の月に入りましたね。
私は六月生まれなので、信者になって六月が聖心の月ということを知ったとき大変嬉しかったです。
実は信者になりたての頃は五月がマリア様の月、ということしか知らなかったのて「ああ、うちの母があと一ヶ月早く生んでくれてたら!」などと無茶なことを思っていましたが……。
その後、十二ヶ月がそれぞれ何らかの信心のために捧げられていることを知り、六月が聖心だと知ったとき「ああ六月生まれでよかった! 神様ありがとうございます!」と大喜びした次第です……現金なものです。
聖心についてよく黙想し、信心を深め、ご聖体のうちにまことにましますイエズス様の聖心、これほどまでに私たちを愛してくださった聖心をもっとお愛ししなければと思います。
こちらは二週間近く曇り空と大雨が続く毎日です。
神父様もお体にお気をつけて!!! 次回いらっしゃる日を楽しみにしております!

【報告】
フランシスコ・ザビエル 30環

【報告】
マリア・セシリア  40環
以上です。

【報告】
小野田神父様、夫がお陰様で、明日退院することになりました。お祈り有難うございます。(...)
夫の枕の下に不思議のメダイを置いて、帰りました。その翌日夫は、「昨夜はなかなか寝付けなくて、ふと思いついて、枕をどかして寝たら、ぐっすり眠れた。そして、朝になったら、痛みがほとんどなくなっていた。」と言いました。
いつだったか、小野田神父様は聖母マリア様のインマクラータというラテン語の意味について教えて下さいましたね。まくらというのは、ラテン語では罪という意味で、いんというのはそれがないという意味だと。聖母マリア様は罪が全くないお方なので、インマクラータというのだと。私は聖母マリア様が助けて下さったのだということを、理解しました。(...)

6月8日までのロザリオの報告をさせていただきます。
フランシスコ    8環
モニカ       8環
テレジア     24環
以上です。

【報告】
小野田神父さま、
6月1日〜6月8日までのロザリオの祈りは、36環でした。
ロザリオ十字軍はこれで終了ですが、聖母の汚れなき御心に対する侮辱の償いのために、この半年近くしてきたように、ロザリオの祈りは続いています。



6/18(木)20:00 現在のロザリオの総数は、15576環です

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
6/18(木)20:00 現在のロザリオの総数は、
15104環+472環=15576環です。

多くのロザリオのご報告をありがとうございます!
天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】

小野田神父様
6月8日までのロザリオ数を報告させていただきます。
?御聖堂・教会敷地内ルルド 9環
?移動中のiPhone(教皇様のCD) 14環
?You-Tube動画 5環

計28環


【報告】
十アヴェ・マリア!!♪♪
*レジナ・マリア  1月〜6月8日!♪まで  259環

御祈りお願致します!♪
デオ・グラチアス!!

十チーム・パラマイ

【報告】
十アヴェ・マリア!!♪♪

御元気でいらっしゃいますでしょうか?
*マキシミリアノ・マリア・コルべ 1月〜6月8日!♪まで 185環


至聖なるイエズス様の聖心!!!♪♪♪

聖なるロザリオの聖母マリア様!!♪♪

聖会の保護者なる聖ヨゼフ様!!♪♪

非常な御恵みの聖ピオ十世会の司教様方♪神父様方♪を御護り下さいませ!!

デオ・グラチアス!!

 十チーム・パラマイ

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アジア管区長クチュール神父様の謝恩会のお知らせです

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

こんにちは!

 今月の聖伝のミサですが、アジア管区長のクチュール神父様が来日されます。ところで、クチュール神父様は、18年間、三期に亘ってアジア管区長の責務を果たされてきましたが、今年の8月15日付けでカナダ管区長に転任されることになりました。

 そこで、今月の日本の訪問は、クチュール神父様のアジア管区長としての最後の訪問になります。(私たちは、将来、カナダ管区長としてクチュール神父様が日本を又訪れてくださることを期待しています。)

 今までの神父様が私たちのためにしてくださった多くのご恩に対して感謝を込めて、大阪では6月21日の土曜日のミサの後に、東京では6月22日の主日のミサと御聖体降福式の後に、ささやかな謝恩会を計画しております。大阪では大阪の信徒会長様が、東京では東京の信徒会長様が司会をしてくださるはずです。多くの愛する兄弟姉妹の皆様が参加されることをお願い申し上げます。

 謝恩会では、クチュール神父様の思い出の写真がいっぱい詰まったスライドショーやその他を上映する予定です。またいくつかの聖歌を歌って、お別れにあたって感謝の意を伝えるつもりです。
 クチュール神父様の後任の新しいアジア管区長は、現在ポーランドで東欧の管区長をしておられる、そして以前日本にいらしたこともあるシュテーリン神父様です。シュテーリン神父様は、9月に日本を訪問される予定です。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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