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天主様に感謝!2014年6月20日、21日の大阪での聖伝のミサ

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか?今月の聖伝のミサはアジア管区長クチュール神父様が日本で捧げてくださいました。

 大阪での聖伝のミサについて次のような報告を戴きましたので、ご紹介します。

【報告】
アヴェ・マリア!

6月は、アジア管区長様としては最後の訪問として、クチュール神父様に来日いただきミッションをしていただきました。御ミサの報告をさせていただきます。

6月20日金曜日
平日でしたので、前日の「御聖体の祝日」の読誦ミサで、これには、11人が与りました。お説教は「十字架の印について」でした。

6月21日土曜日
聖アロイジオの歌ミサには、24人が与りました。お説教は、「主祷文」についての考察でした。

21日、御ミサのあと、18年間アジア管区長様として日本のミッションにも心身ともに働いて くださったクチュール神父様の為に御ミサに与った全員が参加してちいさなお別れをいたしました。
信徒会長から代表で、感謝の印にバラの花束と、秋田巡礼の記念アルバム、お別れにあたってのメッセージなどが入ったDVDを神父様にお渡し、神父様からは集まった信徒全員にクチュール神父様の叙階の時に作られた美しい聖ピオ十世教皇様の御影を頂きました。

"天使のシャンパン"で乾杯した後、皆で神父様に送るDVDを観ました。限られた時間内でのDVDの中では、神父様の私たち日本のためにして頂いた多くの事すべてを見ることは出来ませんが、それでも本当に色々な写真を見て、クチュール神父様のたくさんのご奉仕に信徒一同感動いたしました。涙する方々もいらっしゃいました。クチュール神父様の目もうるんでいらっしゃいました。クチュール神父様をアジアに、そして日本にお送りくださった天主様の御摂理に感謝し、今後のカナダで のご活躍を祈り、天国で再会するお約束をしました。

18年間のクチュール神父様のお働きに天主様が多くの御恵みをお与えくださいますように!

 金曜日のクチュール神父様のお説教は、次の通りです。

【お説教】

聖父と聖子と聖霊との御名によりて。アーメン。

親愛なる兄弟の皆さん。

数年前、あるフランス人の大学教授が真の宗教を探し求めていました。彼女はいろいろな教会に行って、いろいろな説教を聞き、いろいろな説教師が話すところを見ました。そしてついに、ノートルダム大聖堂の近くにある私たちの教会、大変有名なニコラ・デュ・シャルドネ教会にたどり着きました。でも彼女はほかの教会では見たことのないものに戸惑いました。説教の前後に、司祭がいつも十字架のしるしをしたからです。説教は、二つの十字架のしるしの間に「はめこまれて」いたのです。最初、彼女は戸惑いましたが、この教会が好きになり始めていましたから、その後の主日に何回も説教を聞いているうちに、天主の光がやってきて、彼女は理解しました。つまり、十字架のしるしは救いのしるしであり、真の宗教のしるしである、と。ですから、彼女はカトリック信者になりました。

この前の主日は聖霊降臨後第一の主日であり、また唯一の天主には聖父と聖子と聖霊の三つのペルソナがあるという聖三位一体の祝日でありました。私たちが十字架のしるしをするときはいつでも、この神秘を思い出します。私たちの宗教の始めであり、中間であり、終わりであります。カトリック信者だけが十字架のしるしをしています。プロテスタントはしませんし、ユダヤ教徒や仏教徒もしません。東方正教は十字架のしるしをしますが、やり方が違っており、私たちとは逆に右肩から左肩に手を動かします。皆さんがどこに行っても、誰かが十字架のしるしをするのを見れば、その人がカトリック信者だと分かります。飛行機の中でも、オリンピックで金メダルを取った有名なアイススケート選手(キム・ヨナ)のようにスポーツにおいても、またレストランでも。十字架のしるしは、はっきりとしたカトリック信者のしるしなのです。私たちは、十字架のしるしをする理由のあるときはいつでも、そうするのが本当に好きであるべきです。

私たちは、他人の前であっても祈りの前後、食事の前後に十字架のしるしをします。多くの人々が、車で旅に出かけるとき、小さな旅であっても、旅の間の天主の御保護を願って十字架のしるしをします。飛行機の中でもよく見かけます。朝起きるときや、夜寝るときにもします。恐れているときや、危険な場合もします。罪への試みにあうとき、典礼にあるように言います。「十字架のしるしによって、主よ、われらを敵から救い給え」と。

十字架のしるしは準秘蹟であり、助力の恩恵が与えられます。聖トマス・アクィナスの教えによると、私たちが成聖の恩恵の状態にあり、信仰と奉献をもって十字架のしるしをすれば、小罪への執着がない限り、すべての小罪は洗い流されます。ご存じのように、お御堂(みどう)に入るとき、聖水で十字架のしるしをしますが、これは小さな洗礼のようです。お御堂に入るときはそうしますが、お御堂を出るときにはすべきではありません。なぜなら、お御堂を出るときは、私たちはすでに清められているからです。

司祭が聖なるミサを始めるとき、世に多くの恵みをもたらすことになるこの最も重要な行為に、天主の御助けがあるよう願って十字架のしるしをします。聖なるミサは十字架のしるしによる祝福で終わります。聖なるミサには、33の十字架のしるしがあります。もちろん、聖伝のミサのことを言っています。なぜなら、新ミサでは、ほとんどが削除されており、ほぼ三つしか残っていません。十字架のしるしの一つ一つは、ミサの特別な場面で行われ、特別な意味を持っています。たとえば、聖福音の始まりには、額と口と胸で十字架のしるしをしますが、これは、聖なる十字架の力によって、私たちの精神が聖福音の光で照らされるように祈り、私たちのくちびるが預言者イザヤのくちびるように清められるように祈り、私たちの心がエマオの弟子たちのように燃え上がるように祈ることを意味しています。

ミサの典文では、三つまたは五つからなる一連の十字架のしるしがあります。五つの十字架のしるしは通常、十字架上のイエズスの五つの御傷によって聖なるミサを捧げることを表しています。聖パウロがヘブライ人への手紙(7章25節)の中で、主が天に「常に私たちのために取り次いでおられる」と言っていることを思い起こしましょう。これは、主は私たちのために、御父に五つの御傷を常に見せておられることを意味しているのです。

十字架のしるしは力を与えます。これは疑いありません。すべての世紀にわたって見られた殉教者の伝記を、皆さんは読まなければなりません。殉教者たちは牢獄の壁に十字架を描きました。自分たちの苦しみを私たちの主の苦しみと一致させなければならないことを思い起こすためです。強制収容所に入れられたカトリック信者の話に似た例があります。偉大であり、かつ素晴らしい神秘であります。また、体に痛みがあるとき、病院に入院しているとき、十字架は天主の祝福をもたらします。

聖ピオ十世会のスイス人の司祭の一人であったアンリ・ラ・プラ神父は1993年に亡くなりましたが、司祭として7年過ごし、130回以上の手術を受けました。スイスの10の異なる病院で約1000日過ごしました。あるとき、ある司祭がラ・プラ神父を訪問しました。そのとき、神父は集中治療を受けており、非常の多くのチューブにつながれて病院のベッドにまさに「くぎ付け」にされていました。神父は、大変な苦しみであるため、天使祝詞を一回唱えるのに集中することもできないと説明しました。彼に慰めと力を与える唯一のものは、親指で他の指の上に小さな十字架のしるしをすることだけでした。

信者の皆さん、十字架のしるしを愛しましょう。十字架のしるしをすることを好きになりましょう。十字架のしるしを上手することを好きになりましょう。尊敬を欠くやり方でなく、またすることを恥ずかしく思うことないようにしましょう。十字架のしるしが、私たちを創造し、私たちのためにあの救いの十字架の上で亡くなられた愛の天主を表すということを、私たちが思い起こすために、十字架のしるしを愛徳の業(わざ)としましょう。

ルルドで1858年、最初に聖母が御出現になったときのことです。聖ベルネデッタはポケットからロザリオを取り出して、急いで十字架のしるしをしようとしました。すると聖母がお止めになり、ご自分がゆっくりと十字架のしるしをなさいました。そして、この若い農家の羊飼いに正しい方法をお教えになりました。それ以来ずっと、聖ベルナデッタは聖母のまねをしていました。私たちが十字架のしるしをするとき、そのことを思いましょう。ゆっくりと、上手に、大きな愛をもって、無原罪の御宿りである聖母のことを思いましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて。アーメン


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2014年6月の東京での聖伝のミサについての報告

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

こんにちは!東京での聖伝のミサについて次のような報告を戴きましたので、ご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
今日、クチュール神父は御聖体の荘厳祭の歌ミサを捧げてくださり、その後、 東京では大変珍しい聖体降福式を行なってくださいました。お説教では、主の 祈りのなかの『願わくは御名の尊まれんことを』と、『われらの日用の糧を、 今日われらに与え給え』の二つの節について、それらの言葉が実は深い意味を 持った宝の山であるということ、そして私たちが唱えるお祈りと私たちの心と が一致すべきであるということについてお話しくださいました。

昼食後の霊的講話では、ミサの奉献の部について、「しるし」というものの性 質、聖トマスによるミサについての原理、奉献の部のミサ中の位置づけ、そし て奉献の部中の個々の祈りの文について教えていただきました。とりわけ、伝 統的なミサの中には様々な歴史的な事件の結果としてのしるしがあり、誤った エキュメニズムにもとづいた人々が新しいミサを作る際に「初期の典礼に帰 る」という名目で行なった変更がいかにそのようなしるしを破壊したり、不明 確にしてしまったかについて、いろいろ具体例を挙げて説明してくださいまし た。

その後、主日の晩課を歌って終了しました。

ミサの参列者数
男: 17人(内、子供0人)
女: 19人(内、子供0人)
計: 36人(内、子供0人)

霊的講話の参加者数
男: 6人
女: 7人
計: 13人

晩課の参加者数
男: 5人
女: 6人
計: 11人


【お説教】
クチュール神父様が、土曜日に大阪で、主日に東京でなさったお説教は次の通りです。ご紹介します。

2014年6月21日(大阪)/22日(東京)説教

御聖体の荘厳祭

『願わくは御名の尊まれんことを』

『われらの日用の糧を、今日われらに與え給え』

親愛なる信者の皆さん

偉大な聖人達の霊的な生活を調べてみますと、人生の終わりにあたって聖人達の祈りの生活がとても簡単なものになり、主の祈り、めでたしと詠唱の三つを唱えていただけ、という例に行き当たることが大変多くあります。これらの基本的な祈りは、私たちにとっては時々退屈に感じるものかもしれませんが、偉大な聖人達はこれらの基本的な祈りに思いもよらなかったような宝の山を見つけて、その基本的な祈りに満足していたのです。偉大な聖人達は、天から与えられたこれらの祈りの一つ一つの言葉を何時間も黙想することができたのです。

御聖体の祝日が近いですから(大阪)[御聖体の荘厳祭を祝っていますから(東京)]、今朝は主の祈りに隠された宝をいくつかみなさんに発見していただきたいと思います。主の祈りは天主である救い主ご自身の口と聖心(みこころ)から直接私たちに伝えられたものです。その目的は、みなさんが毎日祈っていらっしゃる言葉によく注意を払っていただき、みなさんが口で唱えていらっしゃることと、皆さんの心にあることとを一致させていただくことにあります。

主の祈りの中で、次の二つの節を見てみましょう:『願わくは御名の尊まれんことを』と、『われらの日用の糧を、今日われらに與え給え』とです。これらの二つの節は密接に結びついています。それは、めでたしのなかの『聖寵充満(みちみ)てる』と『今も』とが密接に結びついているのと同じですが、それについては別の説教の機会にしなくてはなりません!

今日の説教はいつもより少々長くなるかもしれませんがお許しください。というのも、ここで次に説教をするのもずっと先のことになるかもしれませんから。


『願わくは御名の尊まれんことを』

『御名』というときの「名」という言葉は、或る人のことを指していることは明らかです。母親が自分の子の名前を聞けば、その子が自分にとってどういう意味をもっているのかという様々な考えをたちまち思い浮かべます。私たちが自分の母親の名前を聞くときも、同じことです。名前というのは私たち一人一人についているものですから、その人が私たちの人生においてどういう意味をもっているのかをことごとく表しているのです。

『尊まれんことを』というのはラテン語では「sanctifecetur」ですが、これは、聖化されますように、聖なるものとして認められますように、崇敬されますように、という意味です。聖パウロが言っているように、この名を聞いて、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものもみな膝をかがめるように、ということです。ですから、私たちが祈っているのは、全ての人が天主の法に従い、全ての人が私たちの創り主であって贖い主でもある天主に栄光を帰し、天主に向かってなすべき崇敬をなしますように、ということです。

このお祈りの言葉にはもう一つ別の意味もあります。それは旧約聖書の有名な預言の中にあって、御聖体の随意ミサにも用いられているものです。その箇所は預言者マラキアの書、第1章11節にあります。またこの預言は日本のことを言っているということさえできるでしょう、日本とミサ聖祭についてです!これがその預言の一節です。
『日の昇るところから、日の没するところまで、私の名は、異国の民の中で、偉大なものといわれている。あらゆる地で、いけにえがささげられ、私の名に、清い供え物がささげられている。
そうだ、私の名は、異国の民の中で、偉大なものといわれている、と、万軍の主は、仰せられる。』

この一節の中では『名』という言葉が三度でてきます。1)『私の名は、異国の民の中で、偉大なものといわれている』、2)『私の名に、清い供え物がささげられている』、3)『私の名は、異国の民の中で、偉大なものといわれている』。この意味するところは、異国の民、つまり全世界の人達が天主の名を聞き、天主を信じ、天主の名の外には救いがないことを信じ、聖ペトロが聖霊降臨直後の説教で言ったように「この世においてわれわれの救われる名は[イエズスの御名]のほかにはない」ことを信じるということです。

この預言の中程のこの部分に注意して下さい:『あらゆる地で、いけにえがささげられ、私の名に、清い供え物がささげられている。』この名はどのように聖化されるのでしょうか?その名に『清い供え物がささげられ』るのです。これは聖書の中のミサ聖祭に関する預言のうちでも最も有名なものの一つです。みなさんにまずご理解頂きたいことは、ユダヤ人にとっては天主に供え物を捧げられるところはただ一か所しかなく、それがエルサレムの神殿であった、ということです。マラキアの預言のこの箇所では、まず『清い供え物』、ラテン語でいうと『oblatio munda』という言葉がでてきます。清い供え物というのは無垢の、汚れの無いいけにえを意味しています。これを聞くと、ミサ聖祭のカノン(典文)にある『Hostiam sanctam, hostiam puram, hostiam immaculatam(この清く、聖(とうと)く、けがれなきいけにえ)』という言葉が思い浮かびませんでしょうか?

第二に、この供え物は『あらゆる地で』、『日の昇るところから、日の没するところまで』、世界中で捧げられます。この預言に対応するのはカトリックのミサだけです。この預言が完成されるのは、ミサの神秘とカトリック司祭職の神秘とによるものです。『あらゆる地で、いけにえがささげられ』と言われているのは、ただ一つのいけにえ、つまり、あらゆる所で、あらゆる時にささげられる同じいけにえのことです。天主の力によってのみこれが可能になります。みなさん、司祭というのはあたかも「拡声器」のようなものです。司祭は『これはイエズスの体である』とは言わず、『これは私の体である』と言うのです。つまり、司祭が『私の』と言う時、イエズスが司祭を通して語っておられるのです。ですから、西暦33年に最後の晩餐でイエズスがマイクロフォンを持っておられて、世界の歴史の中で何世紀にもわたってあらゆるところで一人一人の司祭が拡声器のようにイエズスの言葉を伝えているかのようなものです。すなわち、何十万人の司祭がいようとも、いけにえはただ一つであるということです。ミサ聖祭の神秘を通して、まことに、『あらゆる地で、いけにえがささげられ、私の名に、清い供え物がささげられている』ということなのです。

そこで、『願わくは御名の尊まれんことを』は次のように翻訳することができるでしょう。『すべての異国の民、全世界があなたの天主としての御名に服するため、ミサ聖祭が、世界中で、日の昇るところから日の没するところまで、日本からバンクーバーまで、御名への清い供え物として捧げられますように』と。このお祈りの言葉がどんなに深い意味をもっているかがおわかりいただけましたでしょうか!私たちが主の祈りを唱えるときはいつも、ミサ聖祭が世界中で常に捧げられていることをお頼みしているのです!


『われらの日用の糧を、今日われらに與え給え』

では、主の祈りのもう一つの節について見てみましょう。この節はこれまで見た節と密接に結びついており、最初にお話しした通り、毎日、私たち一人一人にとっての真の宝の山です。『願わくは御名の尊まれんことを』という節がミサ聖祭のことを指しているように、『われらの日用の糧を、今日われらに與え給え』という節は明らかに、私たちの霊魂、精神、心の糧である御聖体のことを指しています。この意味を、体のための物質的な食物に限定している人達はどれだけ現実から遠ざかっていることでしょうか!

『日用の』という言葉に特に着目したいと思います。ミサ聖祭がひと月に一度か二度しかないとすれば、どのようにしてこの言葉が実現するのでしょうか?私たちは、他の六つの秘蹟が全て御聖体に向かっていることを知っています。御聖体はキリスト教的生活全体の中の真の「求心点」です。私たちが洗礼を受けるのは御聖体を拝領をするためですし、告解に行くのは御聖体を拝領するのによりふさわしい状態になるためです。婚姻は、沢山の小さな心に受け入れられる喜びを私たちの主にお与えするための秘蹟です。

『われらの日用の糧を、今日われらに與え給え』。天主は善い方です。私たちが物理的に秘蹟を受けられないときにも各々の秘蹟の霊的なお恵みを受けることができるよう、天主は秘蹟をお定めになりました。例えば、洗礼の望みがあれば、その人が水の洗礼を受ける前に死んでしまっても、成聖の聖寵を受けます。完全な痛悔は霊的な告解であって、その人は司祭による罪の赦しを受ける前に成聖の聖寵を受けるのです。

私たちがミサ聖祭に参列して御聖体を拝領することができない時、霊的な聖体拝領を行なうことができます。霊的聖体拝領というのは、御聖体を受けることを熱心に望むことです。お祈りの本にこの霊的聖体拝領の祈りの文が載っていますが、霊的聖体拝領のために唯一重要なことは、私たちの主に対して、私たちの心に来てください、と熱心にお願いすることです。霊的聖体拝領のもう一つの特徴は、一日に何度もすることができるということです。私たちが一日の間にすることのできる霊的聖体拝領の数には限定がありません。霊的聖体拝領を一回行う度に、秘蹟である聖体拝領と同じお恵みを受けられるのです。ただ目を閉じて、心を込めて、『わたしのイエズス、わたしの心に入ってください!』と言えば、それは霊的聖体拝領なのです。

ですから、『われらの日用の糧を、今日われらに與え給え』と言うことによって、私たちは真の霊的聖体拝領をすることができますし、秘蹟である真の聖体拝領の実りを全て受けることができるのです。すばらしいことではありませんか!そうすれば私たちのカトリック生活は本当にミサ聖祭と聖体拝領とに向かい、真の聖体的な生活となり、ミサの様々な側面に入ってゆくこととなります。天主を礼拝し、天主に感謝し、私たちの罪とあらゆる時に世界中で犯されている罪の赦しを天主に願い、私たちが『日用の』、つまり日々必要としているお恵みを願い求めるのです。これこそが『われらの日用の糧』であり、私たちが日々、霊的に成長するために必要な全てのお恵みなのです。

みなさん、これまで主の祈りの中の二つの節について大変手短かにご説明いたしましたが、私たちは宝の山をふたつも見つけました!みなさんは是非、主の祈りの他の部分についてもこれを続けて、まためでたしについても同じことをなさってください。これが、私たちの聖母がロザリオの祈りを通して私たちにこれらの祈りを繰り返しするように望まれる理由の一つなのです。ロザリオは私たちをミサ聖祭に結びつける鎖となるのです。

御聖体の聖母よ、聖なるロザリオの聖母よ、私たちがこれらの聖なる信仰の宝を忘れず、その宝を実行に移すことができるよう、祈りたまえ。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて。アーメン。

【いつもすばらしい翻訳をしてくださる信徒会長様に感謝します!】

聖伝のミサ(いわゆる「トリエント・ミサ」と呼ばれているローマ式典礼様式のミサ)にようこそ!

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ミサの聖なる犠牲についての黙想 (Youtubeの日本語)

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
 こんにちは!お元気でいらっしゃいますか。

 最近、興味深いビデオを紹介してくださった方がいて、そのビデオの登場人物は毎日メルマガを発行している方のようですが、その人の説明によると、私の理解が正しければ、メルマガとかブログなどを書くために難しく考えなくても良い、とにかく頻繁に書けば良いのだ、という話をしていました。これを聞いて、非常に嬉しく、その通りだ、と思いました。そこで、思い通りに好きなことを頻繁に書いていく気持ちがわいてきたように思いました。

 さて、今日は、ルフェーブル大司教様が4名のカトリック司教様たちを聖別して26周年の日です。昨年のこの日、聖ピオ十世会総長のフェレー司教様が「司教聖別二十五周年に際しての宣言」を発表しました。その日本語訳はここに掲載されています。

 今から26年前の1988年、私は聖ピオ十世会の神学生で、フラヴィニーに学んでいました。毎年のように司祭叙階式にはフラヴィニーから貸し切りバスでエコンに行き、叙階式に参加するのですが、1988年もその通りでした。その歴史的な瞬間に居合わせることが出来たことは本当にお恵みであったと思っています。

 1988年、全世界は聖伝のミサについて誤解していました。カトリック教会の高位聖職者でさえ、本当のことを知りませんでした。聖ピオ五世の荘厳な宣言、聖伝のミサはどの司祭でも捧げる義務と権利があることは、全く忘れ去れていました。

 カトリック教会は、司教聖別の20年後の2007年、ようやく、教皇様の口を通して本当のことをポロリと告白しました。「決して廃止されたことのないローマ・ミサ典礼」を私たち全てが守らなければならない、と。
「このミサ典礼書が法的な意味で廃止されたことは決してありません。したがって、このミサ典礼書は原則的にはつねに認められてきたということです。」
「過去の人々にとって神聖だったものは、わたしたちにとっても神聖であり、偉大なものであり続けます。それが突然すべて禁じられることも、さらには有害なものと考えられることもありえません。わたしたちは皆、教会の信仰と祈りの中で成長してきた富を守り、それにふさわしい場を与えなければなりません。」

 今、2014年現在、世界の各地で聖伝のミサがまだ捧げられているのは、天主のお恵みによって、私たちにルフェーブル大司教様が与えられ、聖伝による司祭叙階が続くように司教聖別があったからです。

 天主様に感謝!ルフェーブル大司教様に感謝します。

 さて、秋田でクチュール神父様が見せてくださった、ミサについての動画 " A Meditation on the Holy Sacrifice of the Mass ──ミサの聖なる犠牲についての黙想" のコメント部分の日本語訳をご紹介します。天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)




 A Meditation on the Holy Sacrifice of the Mass ──ミサの聖なる犠牲についての黙想


The Mass is the Sacrifice of the Body and Blood of Jesus Christ offered on our altars under the appearances of bread and wine, in commemoration of the Sacrifice of the Cross.
ミサは十字架の犠牲を記念して、パンとぶどう酒の外観のもと、祭壇上で捧げられるイエズス・キリストのおん体とおん血の生贄です。

Transport youself to Calvary.
Keep your mind focused on the mystery that is unfolding before your eyes.
─Padre Pio
自分自身をカルワリオの丘へと運ばせなさい。
目の前であらわにされる神秘に、あなたの心を集中させておくのです。
─ピオ神父


A Meditation on the Holy Sacrifice of the Mass
ミサの聖なる犠牲についての黙想

†††

Thanks be to God.
天主様に感謝致します。

Death was the supreme moment for which Christ lived.
死は、キリストがそのために生きた最も崇高な瞬間でした。

It was the one thing He wished us to remenber.
この死こそ、私たちが記憶にとどめておくよう、彼が望まれたことでした。

Christ does not renew Calvary in His phsical body,
but He renews it in His Mystical Body──the Church.
キリストはご自身の肉体においてカルワリオの犠牲を繰り返されませんが、
ご自分の神秘体──教会において、それを新たに繰り返されます。

In order that our sacrifices, our sorrows, our Golgothas, our cucifixions, may not be isolated, disjointed, and unconnected……
私たちの犠牲、私たちの悲しみ、私たちのゴルゴダ、私たちのはりつけが、孤立し、ばらばらで、つながりのないものにならないために……

……the Church collects them, harvests them, unifies them, coalesces them, masses them.
……教会はこれらを集め、刈り取り、結びつけ、つなぎ合わせ、一つにさせるのです。

And this massing of all our sacrifices is united with the Great Sacrifice of Christ on the Cross in the Mass.
そして、私たちすべての犠牲を一つにすることは、ミサにおける十字架上のキリストの偉大な犠牲に一体化することです。

Such is the purpose of life.
人生の目的とはこういうものなのです。

聖伝のミサ(いわゆる「トリエント・ミサ」と呼ばれているローマ式典礼様式のミサ)にようこそ!

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ルフェーブル大司教様のために子供たちが歌った「小鳥たちの歌」 Le Chant Des Oyseaulx

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 秋田で、また、東京で、ルフェーブル大司教様のドキュメンタリー映画を皆で鑑賞しました。

 その中の最後の方で、つい数日前に亡くなりになったドミニコ会の修道院長シムラン修道女が、ルフェーブル大司教様が最後に修道院を訪問したとき、大司教様のために子供たちが「小鳥たちの歌」を歌った、と証言しています。
 ところで、最近、この「小鳥たちの歌」は、Clément Janequin の Le Chant Des Oyseaulx であることが最近分かりましたのでご紹介します。

「小鳥たちの歌」、Clément Janequin の Le Chant Des Oyseaulx は、Youtube でも視聴できます。子供の歌だと思っていたら、子供たちが歌うには難しい歌のようです。さすが聖伝のドミニコ会の学校に通う生徒たちです!




楽譜はここにあります。

Clément Janequin - Le Chant Des Oyseaulx

TEXTE
Réveillez-vous, cueurs endormis,
Le dieu d’amours vous sonne,
À ce premier jour de may
Oyseaulx feront merveilles
Pour vous mettre hors d’esmay.
Destoupez vos oreilles.
Et farirariron, Et farirariron, Et farirarison,
ferely, ioly, ioly, ioly, ioly, ioly,
Et farirariron, farirariron, ferely, ioly
Vous serez tous en joye mis,
Car la saison est bonne,
Vous orrez, à mon advis, une doulce musique,
Que fera le roy mauvis,
D’une voix authentique:Ti, ti, ti, ti ,ti, ti, pyti,
Chou-ty, thou-y, thouy, Toi que dy tu, que dy tu.
Tu di, tu di.
Le petit sansonnet,
Le petit mignon,
Qu’est là bas, passe, passe, vilain!
Saincte teste Dieu!
Quoi, quoi, le petit mignon,
Tost, tost, tost, au sermon,
Le petit sansonnet, din, dan, din, dan.
Il est temps, Guillemette, Colinette,
Il est temps d’aller boire,
Sansonnet de Paris,
Saige courtoys et bien apris,
Au sermon, ma maîtresse,
Sus, ma dame, à la messe
Sainte Caquette
Qui caquette ... ma maîtresse.
À saint Trottin
Voir saint Robin,
Le doux musequin.
Rire et gaudir c’est mon devis,
Chacun s’i habandonne.
Rossignol du boys joly,
À qui la voix resonne,
Pour vous mettre hors d’ennuy
Votre gorge iargonne
Frian, frian, frian,frian, frian, frian, frian, frian,
ticun, ticun, ticun, ticun, ticun, ticun,
qui la ra, qui la ra, qui la ra,
huit, huit, huit, huit, huit, huit, huit, huit,
fereli fy, cy ty oy ty oy ty ot ty, trr,
tu, tu, tu, tu, tu, qui lara, qui lara,
ticun, ticun, ticun, ticun, ticun,
coqui, teo, teo, teo, teo, teo, teo, teo, teo, teo, teo,
tar, frian, frian, frian, frian, frian, frian, frian,
tycun, tycun, tycun, turry, turry, turry, qui-by.
Trr, qui lara qui lara,
Et huit, huit, huit, huit,
quoi, quoi, quoi, quoi, quoi, quoi, quoi, quoi,
qui lara, ticun, ticun, ticun, coqui, coqui, coqui,
tar, tar, tar, tar, tar, fouquet, fouquet, quibi, quibi,
tu, tu, tu, tu, tu, fouquet, fouquet,
fi, ti, fi, ti, frian, frian, frian, frian, fi,ti, tr,
qui lara, qui lara,
huit, huit, huit, huit,
tar, tar, tar, tar, tar, tar, tar, tar,
trr, trr, frr,trr, trr,trr, trr, qrr, qrr, qrr,
vrr, vrr, frr, vrr, frr, frr, frr, frr, frr, frr, frr, frr,
Fuyez, regretz, pleurs et souci, pleurs et soucy,
Car la saison l’ordonne, fuiez, regretz, pleurs et soucy,
Arrière; maistre coucou,
Sortez de no chapitre, Chacun vous donne au hibou
Car vous n‘estes qu’un traistre,
Car vous n’estes qu’un traistre,
Coucou, coucou, coucou, coucou,
Par tra-i-son, en chacun nid,
Pondez sans qu’on vous sonne,
Reveillez vous, cueurs endormiz, revillez vous,
Le dieu d’amours vous sonne.


聖伝のミサ(いわゆる「トリエント・ミサ」と呼ばれているローマ式典礼様式のミサ)にようこそ!

ローマ・カトリックの聖伝のミサ vs エキュメニカルな新しいミサ(第二バチカン公会議のミサ)




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カスパー枢機卿による結婚への新しい司牧的提案について、フェレー司教による声明

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アヴェ・マリア・インマクラータ!


愛する兄弟姉妹の皆様、
「カスパー枢機卿による結婚への新しい司牧的提案について、聖ピオ十世会総長・ベルナール・フェレー司教による声明」の日本語訳をご紹介いたします。ご紹介をするまでに時間が掛かってしまい、申し訳ありません。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


原文はこちらです

カスパー枢機卿による結婚への新しい司牧的提案について、聖ピオ十世会総長・ベルナール・フェレー司教による声明

二〇一四年四月十二日

 二〇一四年十月五日から十九日まで開催予定の「福音宣教との関連から見た家庭の司牧的問題」に捧げられた「世界代表司教会議臨時総会」で、何が起きるのでしょうか? この疑問は重大な懸念とともに投げかけられます。なぜなら、二〇一四年二月二十日に行われたこの前の枢機卿会議の間、ウォルター・カスパー枢機卿は、教皇フランシスコとその強烈な支援による要請を受けて、次回の司教会議のテーマとして司牧的な解放案を表明しており、この案は教義的には恥ずべきものだからです。


 この提案は、当初は公表されないままのはずでしたが、マスメディアに報道され、枢機卿会議のメンバーたちの間で火花を散らす議論を巻き起こし、暴露される結果となりました。カスパー枢機卿が「離婚したのち "再婚" したカトリック信者たち」は、たとえ最初の婚姻に無効宣言が出されなくても、聖体拝領ができる ---- これは、「離婚が出来ないというイエズスの非常に厳しい・明確な言葉に基づいて、今現在はそうではない」(サンドロ・マジステル)------- と提案した事実を、ある大学教授は、本物の「文化的革命」 (ロベルト・デ・マテイ) であると言ってのけ、あるジャーナリストは「パラダイム・シフト」だと描写しました。

 一部の高位聖職者たち、例えばボローニャ大司教カルロ・カファラタ (Carlo Caffara) 枢機卿は、この変更に声を上げて反対し、次のように問いかけました。「では、最初の承認され完全なものとされた結婚についてはどうなるのか? 教会が[離婚したのち "再婚" した信者たちに]聖体拝領を認めるなら、二度目の結びつきの合法性について、教会はどうにかして判断を下さなければならない。論理的にこうならざるを得ない。だが──私がさきほど問いかけたように──最初の結婚はどうなるのか? 彼らが言うには、二度目のは、本当の二度目の結婚ではあり得ない、なぜなら重婚は天主のみことばに反するからだ、と。それなら、最初の結婚はどうなるのか? それは解消されるのか? だが過去の教皇たちは常に教えてきた、教皇の権力はそこまでは及ぶことができない、と。つまり、教皇には、承認され完全なものとされた結婚を覆す権威はない、ということである。(カスパー枢機卿によって)提案された解決策は、"最初の結婚は有効なまま残る、しかし、教会が正当なものと認める二度目の同棲の形もまた存在する、と考えさせることになる。従ってもっとも基本的な疑問は、いとも単純である。すなわち、"最初の結婚はどうなるのか?" これだ。だが、回答できるものは誰もいない」(Il Foglio 二〇一四年三月十五日)

 また、ゲルハルト・ミュラー(Gerhard Ludwig Müller)枢機卿、ヴァルター・ブラントミュラー(Walter Brandmüller)枢機卿、アンジェロ・バニャスコ(Angelo Bagnasco)枢機卿、ロバート・サラ(Robert Sarah)枢機卿、ジョヴァンニバッティスタ・レ(Giovanni Battista Re)枢機卿、マウロ・ピアチェンツァ(Mauro Piacenza)枢機卿、アンジェロ・スコラ(Angelo Scola)枢機卿、カミッロ・ルイニ(Camillo Ruini)枢機卿たちによって述べられた深刻な反論の数々も付け加えることができます……。ですが、これらの反論にも答えが与えられないままです。

 カスパー枢機卿が、破壊的精神において今年の十月に開催予定の司教会議で回答したいと望んでいる答えを、私たちは声を上げないまま待つことはできません。「カスパー枢機卿による結婚への新しい司牧的提案」と題された次に掲載する研究は、枢機卿の表明には重大な誤謬があると教えています。これらを非難せずにいることは、カファラタ(Caffarra)枢機卿が次のように指摘した危険へとドアを開け放つ結果となるでしょう。「従って、教会が合法であるとみなす婚外の性交渉といったものが存在することになるだろう。だが、これは教会の性に関する教えの中心となる柱を否定している。この時点で不思議に思う人も出てくるだろう。すなわち『では、婚外の同棲はなぜ認められないのか? あるいは同性愛の関係については?』と」

 ここ最近の数ヶ月間に、多くの家族たちが勇気をもって、自然なキリスト教的な家庭を蝕んでいる社会の法律に、いたるところで抗議の声を上げています。その一方で、このような法律が聖職者たちによって密かに支持されており、彼らが霊魂たちの回心を探し求める代わりに、カトリック教義と道徳を、非キリスト教的社会と同じ立場で考えるのを見るのは、不面目そのものです。結婚の非解消性についての明確なキリストの教えを嘲笑う「司牧的提案」なるものは、慈悲深さであるどころか、すべての人々に十分な恩寵をお与えになる天主への侮辱です。また、これは、困難な状況に置かれた時、キリスト教的生活を送るため、また、英雄的と言えるほどにまで徳を高めるために必要な恩寵をいただく霊魂たちに対しても、残酷なことなのです。


二〇一四年四月十二日、メンツィンゲンにて

+ベルナール・フェレー
聖ピオ十世会総長


【訳者注:フェレー司教様が文中で言及している「カスパー枢機卿による結婚への新しい司牧的提案」と題された研究」の日本語訳は、後ほどご紹介いたします。

以下のリンクは、あくまでも参考資料です。
ローマ教皇庁公文書:第3回シノドス臨時総会 準備文書(2013年10月)【カトリック中央協議会の公式訳】

シノドス事務局による同「準備文書」【真生会館「学び合いの会」による私訳】

準備文書への日本司教団回答(日本語)【2014年1月15日】

カスパー枢機卿、離婚・再婚者の聖体拝領への道筋示す 【CNS記事の真生会館「学び合いの会」による訳】

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日本で働いた聖なる宣教師たち

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愛する兄弟姉妹の皆様、

 20世紀初頭、革命政府によってフランスのカトリックの修道会が迫害を受けていたことがありました。それを避けるためには、カトリック教会が受け入れることが出来ない条件をのまなければならない、とされた時、修道院と教会と学校を没収されて、国外追放になっても、国外から祈った方がフランスのためになる、と答えた、ということを読んだことがあります。

 最近、アルゼンチンに任命を受けて働いているフィリピン人の聖ピオ十世会司祭がマニラに休暇で戻ってきました。フェレール神父様で、彼は司祭になって8年になります。彼に私はこう尋ねました。アルゼンチンで働いていて、一番の慶びは何んですか、と。
 フェレール神父様は、答えて、「天主様の御旨を果たしている、と言うことです。」
 まさに、それこそが最高の慶びです。

 日本における霊魂の聖化と救霊とのために、私も天主様の御旨として、祈るという職務を捧げております。

 特に日本で働いていた、聖なる司祭たちの御取り次ぎを求めます。日本では次のような聖なる司祭たち(日本人および外国人)が働いていました。

日本で働いた聖なる宣教師たち

聖フランシスコ・ザベリオ SJ
聖マキシミリアーノ・コルベ、フランシスコ会司祭

聖トマス西 OP (1590-1634)、ドミニコ会日本人司祭(1626年マニラにて叙階、1629年11月10日帰国。1634年11月17日殉教)
聖ヤコボ朝長 OP (1582-1633)、ドミニコ会日本人司祭(1626年マニラにて叙階、1632年帰国。1633年8月17日殉教)
聖ビセンテ塩塚 OP (1637)、ドミニコ会日本人司祭(マニラにて叙階、1636年琉球到着。1637年長崎移送、9月29日殉教)

聖ドミンゴ・エルキシア OP (1589-1633)、ドミニコ会スペイン人司祭(1623年来日、1633年8月14日殉教)
聖ルカ・スピリト・サント OP (1594-1633)、ドミニコ会スペイン人司祭(1617年叙階。1623年来日。1633年10月19日殉教)
聖アントニオ・ゴンザレス OP (1594-1637)、ドミニコ会スペイン人司祭(1636年琉球に到着。37年長崎に移送。同年9月23日殉教)
聖ミゲル・アオザラザ OP (1594-1637)、ドミニコ会スペイン人司祭(1636年琉球に到着。37年長崎に移送。同年9月29日殉教)
聖ヨルダノ・アンサロネ OP (1594-1637)、ドミニコ会イタリア人司祭(1622年叙階。1632年来日。1634年11月17日殉教)
聖ギョーム・クルテ OP (1594-1637)、ドミニコ会フランス人司祭(1617年叙階。1636年琉球に到着。37年長崎に移送。同年9月29日殉教)

福者セバスチアン木村 SJ (1565-1622)、イエズス会司祭、最初の日本人司祭(1601年長崎にて叙階)
福者トマス金鍔 OSA (1600-1637)、アウグスチノ会日本人司祭(1628年セブにて叙階)
福者ユリアノ中村 SJ (1568-1633)、イエズス会日本人司祭(1608年長崎にて叙階)
福者ディオゴ結城 SJ (1574-1636)、イエズス会日本人司祭(1615年長崎にて叙階)
福者ペトロ岐部 SJ (1587-1639)、イエズス会日本人司祭(1620年長崎にて叙階)
福者トマス辻 SJ (1570-1627)、イエズス会日本人司祭(1608年長崎にて叙階)
福者アントニオ・ピント石田 SJ (1570-1632)、イエズス会日本人司祭(1612年長崎にて叙階)
福者ルイス笹田 OFM (†1624)、フランシスコ会日本人司祭
福者ルイス馬場 OFM (†1624)、フランシスコ会日本人司祭
福者イエロニモ伊予 (†1632)、日本人司祭

福者エルナンド・デ・アヤラ・デ・サン・ホセ、アウグスチノ会スペイン人司祭(†1617.6.1)
福者ペドロ・デ・ズニガ、アウグスチノ会スペイン人司祭(†1622.8.19)
福者バルトロメ・グティエレス、アウグスチノ会メキシコ人司祭(†1632.9.3)
福者ビセンテ・カルヴァーリョ、アウグスチノ司祭隠修士会ポルトガル人司祭(†1632.9.3)
福者フランシスコ・デ・ヘスス、アウグスチノ司祭隠修士会スペイン人司祭(†1632.9.3)
福者フアン・バウティスタ・マチャード・デ・タボラ、イエズス会ポルトガル人司祭(†1617.5.22)
福者カルロス・スピノラ、イエズス会イタリア人司祭(†1622.9.10)
福者カミロ・コンスタンッオ、イエズス会イタリア人司祭(†1622.9.15)
福者ペドロ・パブロ・ナバルロ、イエズス会イタリア人司祭(†1622.11.1)
福者へロニモ・デ・ロス・アンヘレス、イエズス会イタリア人司祭(†1623.12.4)
福者ディエゴ・カルヴァーリョ、イエズス会ポルトガル人司祭(†1624.2.22)
福者ミゲル・カルヴァーリョ、イエズス会ポルトガル人司祭(†1624.8.25)
福者フランシスコ・パチェコ、イエズス会ポルトガル人司祭(†1626.6.20)
福者バルタザール・デ・トルレス、イエズス会スペイン人司祭(†1626.6.20)
福者フアン・バウティスタ・ゾラ、イエズス会イタリア人司祭(†1626.6.20)
福者アルフォンソ・デ・ナバレテ、ドミニコ会スペイン人司祭(†1617.6.1)
福者フアン・マルテイネス・デ・サント・ドミンゴ、ドミニコ会スペイン人司祭(†1618.3.19)
福者ルイス・フローレス、ドミニコ会ベルギー人司祭(†1622.8.19)
福者フランシスコ・モラレス、ドミニコ会スペイン人司祭(†1622.9.10)
福者アンヘル・フェレール・オルスッチ、ドミニコ会イタリア人司祭(†11622.9.10)
福者アロンソ・デ・メナ、ドミニコ会スペイン人司祭(†1622.9.10)
福者ホセ・デ・サン・ハシント・サルバネス、ドミニコ会スペイン人司祭(†1622.9.10)
福者ハシント・オルファネル、ドミニコ会スペイン人司祭(†1622.9.10)
福者トマス・デ・スマラガ、ドミニコ会スペイン人司祭(†1622.9.12)
福者ペドロ・バスケス、ドミニコ会スペイン人司祭(†1624.8.25)
福者ルイス・ベルトラン・エクサルチ、ドミニコ会スペイン人司祭(†1627.7.29)
福者ドミンゴ・カステレット、ドミニコ会スペイン人司祭(†1628.9.8)
福者)
)
福者ペドロ・デ・ラ・アスンシオン、フランシスコ会スペイン人司祭(†1617.5.5)
福者フアン・デ・サンタ・マルタ、フランシスコ会スペイン人司祭(†1618.8.16)
福者リカルド・デ・サンタ・アナ、フランシスコ会ベルギー人司祭(†1622.9.10)
福者ペドロ・デ・アビラ、フランシスコ会スペイン人司祭(†1622.9.10)
福者アポリナール・フランコ、フランシスコ会スペイン人司祭(†1622.9.12)
福者フランシスコ・ガルベス、フランシスコ会スペイン人司祭(†1623.12.4)
福者ルイス・ソテロ、フランシスコ会スペイン人司祭(†1624.8.25)
福者フランシスコ・デ・サンタ・マリア、フランシスコ会スペイン人司祭(†1627.8.17)
福者アントニオ・デ・サン・ブエナベントゥラ、フランシスコ会スペイン人司祭(†1628.9.8)


聖なる司祭たちよ、我らのために祈り給え!
全ての聖なるカトリック司祭たちよ、我らの祈りを取り次ぎ給え!

愛する兄弟姉妹の皆様に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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2014年は聖ピオ十世会では20名の新司祭が誕生しました

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愛する兄弟姉妹の皆様、

 今年は聖ピオ十世会では20名の新司祭が誕生しました。いくつかの写真をご紹介いたします。

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トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2014年は聖ピオ十世会では20名の新司祭が誕生しました

2014年は聖ピオ十世会では20名の新司祭が誕生しました

2014年は聖ピオ十世会では20名の新司祭が誕生しました

2014年は聖ピオ十世会では20名の新司祭が誕生しました

2014年は聖ピオ十世会では20名の新司祭が誕生しました

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エコンの神学校
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ツァイツコーフェンの神学校
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聖ピオ十世会の本部からの二〇一四年のロザリオ十字軍の結果発表

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愛する兄弟姉妹の皆様

聖ピオ十世会の本部から二〇一四年のロザリオ十字軍の結果発表がありましたのでご紹介いたします。

【なお、日本(およびその他)からは、管区長に報告後も更に私の手元に報告を戴きました。それによると、日本は、16,544環でした。なお、マニラでは多くの信徒の方々が友人や知人、その他のグループに参加を呼びかけてくれたために多くのロザリオが集計され、マニラ管下の全てのミッション(たとえば、タナイ、バギオ、ボホル、レイテ、日本、韓国、香港など)からの報告を全て集めると、1,955,426環となりました。アジア管区の本当の報告数(フィリピン全国、インド、シンガポールなどを含める)は、実は、以下に報告された2,094,757環よりもずっと大きな数となりました。今回のロザリオの十字軍で多くのロザリオを心を込めて唱えてくださった、信徒の皆様に感謝します。将来、カトリックの聖伝の信仰が、私たちの母なるカトリック教会のメインストリームとなり、世界中どこでも、聖伝のミサが捧げられ、いつも変わらない信仰が教えられ、実践されますように!そして多くの霊魂が救われますように!多くの家庭が聖化され、社会がキリストを王としますように!】

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

全世界より──二〇一四年・ロザリオ十字軍の結果発表

二〇一四年七月四日

 二〇一四年六月八日、聖霊降臨の大祝日に終了したロザリオの十字軍は、五百万環の要求であったにも関わらず、六百万環以上の霊的花束を集めることができた(二〇一三年十二月二十日付、DICI no.287を参照)。ここに七月四日現在の国別の集計結果を表にして載せる。この統計値は、聖ピオ十世会本部にまだ届けられていない結果が届き次第、補足される予定である。アジア管区(二〇九万四七五七環)とアメリカ管区(一六六万一四一環)の熱烈なる寛大さに、私たちの目はただちに引きつけられるはずである。

(Source: FSSPX/MG – DICI no. 298 dated July 4, 2014)

†††

聖ピオ十世会本部と神学校

メンツィンゲン 9,513
エコン 23,025
ウィノナ 15,718
ツァイツコーフェン 18,960
フラヴィニー 10,814
ゴールバーン 8,735
ラ・レハ 11,285
サルヴァン(オブレート修練院) 5,463
モンガルダン(聖ピオ十世会の司祭黙想の家)2,458
その他 4,349


各管区

アフリカ 145,122
ドイツ 383,652
南アメリカ 100,360
アジア 2,094,757
オーストラリア 187,504
オーストリア 48,218
ベルギー 38,395
カナダ 82,188
アメリカ 1,660,141
フランス 532,502
イギリス 45,553
イタリア 44,000
メキシコ 149,029
スイス 154,685
スペイン 28,172
東欧諸国 485,530


カルメル会
Quiévrain 5,591


総計 : 6,295,719

(Source: FSSPX/MG – DICI no. 298 dated July 4, 2014)

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聖マリア・テレサ・ゴレッティ:十一歳で亡くなったイタリアの貞潔の殉教者

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 7月6日は、聖マリア・テレサ・ゴレッティの祝日でした。そこで聖マリア・ゴレッティの小さな伝記をご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


原文はこちらです。
St. Maria Teresa Goretti


聖マリア・テレサ・ゴレッティ

十一歳で亡くなったイタリアの貞潔の殉教者(一八九〇〜一九〇二)

 マリア・ゴレッティの物語は多くの人々にとってすでになじみ深いものです。貞潔に反する重大な罪への同意を拒んだ一人の少女の物語。あまり知られていないことですが、マリアは最期の劇的な拒絶の前に、甘い言葉と脅しにも抵抗していたのでした。マリア・ゴレッティの列聖は、罪に抵抗したただ一度の戦いに基づいているのではなく、彼女の短い一生を通じて実行された英雄的徳によるものでした。マリアにとって罪を犯すよりも死ぬことは、もう一つの選択──死を避けるために罪を犯すことよりもずっとずっと自然な選択だったのです。

 マリアの物語は彼女の家庭とともに始まります。家庭は彼女の英雄的選びを培った道徳の礎となる場所でした。母アスンタは読み書きを習ったことのない孤児でした。マリアの父は兵役義務を終えた後、故郷のコリナルドに戻り、アスンタと結婚して、生計を立てるため農場を始めました。この夫婦にとって、天主と聖母とお互いへの愛だけが、自分たちを養う術でした。

 アスンタは正規の教育を受けるため学校には一度も行ったことがありませんでしたが、天主の愛を教会から学び、この偉大な愛を、言葉と振る舞いで家族に伝えたのでした。夫のルイジも天主への深い愛と信心を持っていました。この勇気ある夫婦は、自分たちの貧しさと生き方を辛く思うよりも、すべてを天主のご意志として受け入れ、子どもたち一人一人の誕生を天主からの贈り物として、喜んで迎えたのでした。このような愛の学びは、子どもたちに受け継がれました。長男が夭折した後、ルイジとアスンタにはもう一人男の子が生まれ、一八九〇年十月十六日、女の子が生まれました。子どもは感謝のうちに聖母とカルメルの大聖女にあやかって、マリア・テレサと名づけられました。マリアは誕生の翌日に洗礼を授けられました。これは死の危険があったからではありません。母アスンタは原罪への大変な嫌悪を持っていたので、とにかく誕生の瞬間からできるだけ早く我が子を原罪から解放してやるための時間を無駄にしたくなかったのでした。マリアとその兄も当時の習慣に従って、コリナルドで堅信を受けました。

 四人の子どもが一家に加わり、元々貧しかった家庭はよりいっそう貧しくなりました。コリナルドに、一家は小さな家とわずかな土地を所有していました。ルイジはその土地を豊かにしようと努力しましたが、一家を養う糧を生み出すほどの広さはありませんでした。一家には財産はほとんどなく、聖母の小さなご絵は大切な宝物だと考えられていました。子どもたちにはおもちゃがなかったので、りんごや石が遊ぶためのボールの代わりになりました。マリアにはたった一つのお人形もありませんでした。子どもたちは貧しさのために学校に行ったことがありませんでしたが、このような生活にも関わらず、家族全員が幸せでした。食料不足が非常に深刻になって、ようやく対策を講じなければならなくなりました。

 ルイジとアスンタは、イタリアのこの美しい場所にある二人の小さな家を愛していました。しかし、経済的状況をよりよくするため、二人は別の場所で小作人になることを決めました。二人には、この引っ越しが子どもたちに必要なものを与えてやれるだろうとわかっていました。「私たちは自分自身のことを思い煩うべきではないけれど、子どもたちは善い神様からの贈り物だ。あの子たちに必要なものを与えることで、私たちの感謝を示さなければならない」と、ルイジが説明したようにです。

 さて、マリアはどうだったのでしょうか? マリアが六歳の時、従順であること、よく祈ること、そして天主とそのおん母を愛することを娘に教えたのは、母親の功績だと父緒は考えていました。他の六歳の子どもたちと同じようにマリアは遊んだし、野原を駆け回り、花を摘んだりしていて、にこにことよく笑う子どもでした。わずか六歳であっても、マリアには年齢を超えた理解力があったようだと、母アスンタは私たちに伝えています。マリアは従順でしたが、助けを願われるのを待っているよりも、自分からこの名誉を乞い願うのでした。遊ぶことが大好きでしたが、弟たちを面白がらせようと一緒に遊んでやり、彼らが母親に面倒をかけないようにしていました。マリアの列福のために証言した人々は、彼女がほがらかであったと口を揃えて言いました。

 マリアが八歳のとき、一家はポンティノ沼地(Agro Pontino, Marais pontins, Pontine Marshes)へ引っ越しました。この土地の大部分は農地改革によって現在は改善されていますが,一家が引っ越した時には、イタリアで一番痩せた土地の一つでした。湿地帯であったため疫病が蔓延していました──特に蚊が原因でした。空気でさえ健康には良くないと言われていました。マリアの父は、仕事仲間のセレネリ氏とその十六歳の息子、アレッサンドロとともに、マッゾレーニ伯爵の小作人になりました。

 フェリエーレ・ディ・コンカ(Ferriere di Conca)というところで、ゴレッティ一家とセレネリ一家は古い乳牛小屋の二階の家屋へと移り住みました。これ以前に、ゴレッティ家はこのポンティノ沼地の最悪の地域へと引っ越すことを話し合ったとき、ルイジはここの雰囲気が子どもたちに及ぼす影響について憂えていました。アスンタは、マリアはどこにいても自分たちの喜びとなってくれるでしょうと予言しました。その通り、マリアは幸せな、頼りになる子どものままでした。マリアはマリエッタと呼ばれ、優れた善い性質のおかげで、彼女を知るすべての人々から愛されました。マリアは長い明るい栗色の髪の毛の可愛らしい子でした。いつもきれい好きでこざっぱりしていましたが、うぬぼれたところは少しもありませんでした。マリアの友人や遊び友だちの多くは、宝石やレースがないときは、ばらの花で髪の毛を飾っていました。ポンティノ沼地でルイジが最初に小作人となって働いた地主は、見回りの途中、髪飾りの花をつけていないこの少女に気づきました。地主は小作人の親方にマリアを紹介するように頼み、少しばかり会話を交わした後、マリアは遊び友だちのところへ戻されました。親方は地主に「マリエッタはみんなの人気者なんでさ。可愛い上に気だてもいいし、あの年の子にしちゃ頭も冴えてますよ」と説明しました。マリアの美しさを引き立てるためには、ばらの花など必要ないのだと地主にはわかりました。


 マリアが九歳になる頃には、一家の雑用を引き受けることになりました。彼女はいつも親切に時間を割いて使い走りをこなし、自分を必要としている家へとできるだけ早く戻るのでした。町中でのちょっとした立ち話のときでさえ、行商人たちは、家事をするために送られるこの子が、特別なものを持った少女だと感じ取っていました。彼らはたいていマリアにささやかな贈り物をしました。マリアが心から感謝してくれるからでした。ある日、マリアは食料品店で少しばかり買い物をしました。店の主人のジョバンニは「ほら、お嬢ちゃん、あんたのためにおいしいりんごを取っておいたよ」と言いました。マリアは大喜びで彼に感謝すると、りんごを買い物袋に滑り込ませました。ジョバンニは驚いて、りんごをどうするつもりなのかと尋ねました。マリアは元気よく、弟のアレッサンドリーノにあげるのだと答えました。りんごは弟の好物だったからです。これを聞くと、ジョバンニはシュガー・クッキーをマリアにあげました。マリアはもう一度彼に心からお礼を述べましたが、クッキーを食べようとはしませんでした。ジョバンニは「マリエッタ、そのクッキーをどうするつもりなんだい?」と聞きました。マリアはひどく申し訳なさそうに、家にいる妹のエルシリアに持って行くつもりだと説明しました。彼女は自分たち一家にとてもよくしてくれた店の主人に感謝して、帰ろうとしました。けれどもジョバンニはマリアのために何かをしてやらねばと決意し、マリアが自分のささやかな贈り物を受け取ってくれないなら、とても辛いよと告げました。彼はクッキーをもう一つマリアに手渡し、これはマリアのためのクッキーだからと言いました。ジョバンニをがっかりさせたくないので、マリアはその場でクッキーを食べ、もう一度彼にお礼を述べました。


 マリアの人並み優れた資質──親切、ほがらかさ、従順、そして人なつこさ──のために、この地域の多くの人々は、彼女に注目していろいろと噂をするのでした。マリアはこの噂にはまったく気づいていませんでしたが、母親の耳には入りました。母親は「あの子は自分のやるべきことをやっているだけですよ」と答えるのが常でした。でも、時が経つにつれ、マリアは本当に特別な子どもだと母は感じたのでした。マリアの死後、何年も経ってから、アスンタは、マリアが自分から機嫌を悪くしたり、背いたりしたことをまったく思い出せないと述べるでしょう。ゴレッティ家は経済的にはうまくいったように見えました。セレネリ家と協力して働いた時ですらそうでした。過労のために疲労困憊したルイジは、湿地帯でおなじみの多発していた病──チフス、マラリア、髄膜炎、肺炎にかかりました。彼が死ぬまでの十日間、アスンタは夫の病床に付き添いました。十歳のマリアがすべての料理を作り、雑務をこなし、弟や妹たちをなだめるのでした。マリアもまた絶えず祈っていました。マリアは手首にロザリオを巻きつけておき、すぐ手元にロザリオがあることで、空いた時間に祈ることができるようにしました。一九〇〇年五月、ルイジは死の前に、子どもたちを連れてコリナルドに帰るようアスンタに懇願しました。

 ルイジの死によってアスンタは、畑で男がする肉体労働を引き受けなければならなくなりました。アスンタは、この土地から引っ越すことは無理だと感じていたので、一家はポンティノ沼地に住み続けました。マリアはゴレッティ家と、そしてセレネリ家のために必要な家事をしながら「母の務め」の立場を引き受けました。マリアは料理が得意ではありませんでしたが、料理がまずいと責められると、アスンタのように料理ができないことを、ただ詫びました。不幸なことに、一家はさらに悲惨な貧しさへと落ち込んでいきました。原因の大部分はセレネリ氏の吝嗇にありました。彼はある時、自分の食事のとき以外に子どもたちが食べられないよう、食器棚に鍵をかけておきました。アスンタはこの問題を解決するために地主に頼る他はなく、この行動は、セレネリ氏の目にアスンタが反抗していると映り、もう一つの争いの原因となったのでした。

 マリアが当時、自分の義務だと心得ていたことの一つは、彼女が教えられたように弟妹たちを教えることでした。マリアは祈りを教え、物語を聞かせてやりました。正式な教育を受けたことはないにも関わらず、マリアはいつも教会から帰ると、教わった聖書の物語をほとんど一字一句間違いなく繰り返すのでした。この当時の一家を知っていた人々の証言によると、マリアが父親の死後、すべての責任を受け入れ、効率よくだけでなく、喜びとほがらかさをもって実行していたという事実が残されています。マリアは疲れた様子をまったく見せませんでした。マリアが遊んでいる時は、自分が楽しむためではなく弟や妹たちを喜ばせるためでした。一家にスープの鍋を運んできた友だちは、マリアは最初、自分以外の全員にスープを配り、自分のためにはほんのわずかしか取っておかなかったと記憶しています。このことを不審に思われると、お母さんと兄さんは重労働をしなければならないので栄養が必要だし、弟や妹たちはまだ小さいのだから、ごちそうが与えられるべきだと言い訳するのでした。それに加え、マリアはたびたび母を慰め、元気づけ、必要なものとご保護を求めて、天主と聖母に全面的に頼るよう勧めるのでした。父の死は、マリアのうちに蓄えられた精神の強さを引き出したのです。

 父を失ったことに加え、マリアが口にしていたもう一つの唯一の悲しみは、初聖体まで長く待たされたことでした。アスンタはこの秘跡に対して大いなる敬意を持っていたので、マリアが読み書きができないから、また、一家にはお金がないのでドレスを用意してやれないからだと説明しました。アスンタはマリアが待たなければならないのを心配しました。マリアの返事は「大丈夫よ、ママ、神様がお計らいくださるわ」でした。マリアはというと、自分に要理を教えてくれる人について考えていました。その人は要理の勉強のためコンカへ歩いて行く前に、家事の義務をすべて放棄することを約束しました。一九〇二年の春の間中、十一歳のマリアは聖主をいただくための準備をするにつれて、精神的に成長したように見えました。この天主の愛は、周囲の人々のために、日々の仕事を喜んで、よりいっそう積極的に果たすための意欲へと変えられていったのでした。

 五月には教区の司祭がマリアをテストしてみると、マリアがご聖体を受けるための準備がよくできていることがわかりました。白いドレスとレースと真珠をマリアのためには準備できませんでした。その代わり、一九〇二年五月二十九日の朝、マリアはベッドから起き上がると近所の貧しい人がくれた贈り物で身支度しました。贈り主はそのことを名誉に思っていました。アスンタは細かい白の水玉模様のあるワインカラーのドレスを用意しました。ある友人は新しい靴を一足、もう一人はヴェール、三人目はろうそくを持ってきてくれました。さらに別の友人は生花で作ったリースを持ってきました。最後の仕上げに、アスンタは夫ルイジがくれた二つの宝物──珊瑚のネックレスと金のイヤリングを持ってきて、娘を飾り立てました。

 マリアの繊細な良心は、もう一つ、最後の準備へと自分を向かわせました。家の中をあちこち回って、自分の家族とセレネリ一家に、犯したかも知れないすべてのあやまちの許しを乞いました。その後、一家全員はもう一度初聖体の儀式のためにコンカへと歩き出しました。初聖体拝領をする子たちに主席司祭が与えた言葉は「いかなる犠牲を払ってでも潔(きよ)くありなさい」でした。マリアがこの教訓をどれほどよく自分のものとしたかは、二ヶ月と経たないうちに証明されたのです。

 マリアは六月中に、さらに四回の聖体拝領をしました。またこの月の間に、アレッサンドロ・セレネリは二回、マリアに言い寄りました。アレッサンドロは二回とも家の中でマリアと二人きりになろうとしました。この二十歳になろうとしていた青年に、マリアは兄弟のように接していましたが、彼は急にマリアにおべっかを言い出し、近づいて彼女に触ろうとしました。本能的に、マリアは彼が何をしようとしているのかを悟り、純潔な彼女の霊魂は嫌悪を抱きました。アレッサンドロはマリアがもし誰かにこのことを話したら殺してしまうぞと二回とも脅しました。マリアは沈黙を守りましたが、殺されるかも知れないという恐れからではありませんでした。そうではなく、アレッサンドロの悪事を暴露したら、母に心配をかけ、一家が路頭に迷うことになるかも知れなかったからです。六月の間、マリアはできるだけアレッサンドロに近づかないようにし、彼がいるときにはいつも母から離れないようにしていました。こうすることでアレッサンドロと向き合うどんな機会をもマリアは避けようとしたのです。この残酷な殺人者、マリアを強姦しようと企んでいたアレッサンドロとは、どんな人物なのでしょうか? 彼が幼少期に母親を亡くした後、荒々しく乱暴な父親に育てられたということに、精神分析医は興味を抱くかも知れません。十代の数年間を孤独のうちに過ごし、波止場で働きながら、彼はありとあるゆる悪習の中にさらされました。少しばかりの教育を受けましたが、彼の一家はゴレッティ家と変わらない貧しさの中でずっと生きてきました。アレッサンドロは無口でたいへん内気で、アスンタはのちに、アレッサンドロはいつも自分の部屋に閉じこもっていたと証言しました。彼は自室で暴力描写であふれ返った新聞を読んでいました。伝記作家の何人かは、彼がボルノを読みふけっていたと言っていますが、正確に言えば、こういった新聞は官能的というより、暴力や殺人のニュースを報道して、それを煽るような記事を書いていました。いずれにせよ,不健康な読み物でした。

 一方、アレッサンドロと父親がゴレッティ家と共同生活を始めた頃、アレッサンドロは善い性質をたくさん見せていました。ミサにあずかり、ゴレッティ家とともに家族で唱えるロザリオの祈りにたびたび加わりました。畑では働き者で、時には父親の暴言に対抗して、何度となくゴレッティ一家を擁護したのです。アレッサンドロ自身の証言によると、一家で唱えるロザリオの祈りの時に、彼はマリアがどんなに美しいか初めて気づいたのでした。また、祈りの時、この少女はただ口先だけで唱えていたのではなく、心から祈っていたことにも気づいていました。

 一九〇二年七月五日、土曜日の朝、ゴレッティとセレネリの一家は、家から約一三〇ヤード離れた畑で働いていました。昼食の後、セレネリ氏は階段の下で眠り込み、他の者たちは畑に戻りました。マリアは踊り場に腰を下ろして、縫い物をしながら眠っている赤ん坊の妹の子守りをしていました。ゴレッティ家の他の子どもたちは、ギイギイと音を立てる脱穀機に母親と一緒に乗っていました。アレッサンドロはアスンタと一緒にいた先頭の牛たちの後ろに移動し、家へ戻りました。彼はマリアを無視して自室へ行き、ハンカチを持ってもう一度マリアの前を通り過ぎ、階下の貯蔵庫へと入って行きました。後になってわかったことですが、彼は九インチ半の長さの先の尖った鋭いナイフを所持していたということでした。彼はふたたび家へ戻り、マリアに自分のところに来るよう呼びました。

 マリアが理由を聞き返すと、アレッサンドロは自分の要求を繰り返しました。マリアはなぜなのか理由を言わない限り行くつもりはないと伝えました。アレッサンドロは踊り場へ出て来ると彼女を家の中へと引きずり込みました。マリアのあげた悲鳴は、照りつける太陽のもとでぐるぐる回り続ける脱穀機の立てる大きな音にかき消されました。アレッサンドロによると、マリアの言葉は「だめ、絶対にだめです! 何をするつもり? 私に触らないで! それは罪です──あなたは地獄へ行くわ!」でした。マリアは自分の身を守ろうとの本能的な戦い以上に、アレッサンドロを地獄に落とす罪の機会について考えていたのです。彼女は全力で抵抗しましたが、 頑健な若い男に長時間の抵抗は無理でした。アレッサンドロはマリアの口にハンカチを押し込んで猿ぐつわの代わりにしましたが、自分よりも強力な意志に直面して彼女に触れることはできませんでした。

 この時点でアレッサンドロはナイフを取り出し、マリアを刺し始めたのでした。刺し傷がいくつあったのか、報告はまちまちですが、病院では十四カ所の大きな刺し傷を治療しました。脱穀機の音のせいで、畑にいた人々はマリアの助けを求める悲鳴が聞こえませんでした。踊り場にいた赤ん坊が物音に目を覚まし、泣き出しました。赤ん坊の泣き声は階段の下にいたアレッサンドロの父親を起こし、そちらのほうをちらりと見たアスンタは赤ん坊のそばに誰もおらず、踊り場から落ちる危険に気づきました。セレネリ氏とアスンタは家の方へ走って行き、そこで二人はドアに向かって這い寄ろうとしていたマリアを発見したのでした。何があったのかと聞かれ、マリアはアレッサンドロに刺されたのだとはっきり答えました。「彼は私に悪いことをさせようとしたの。私は拒みました」

 その地方の医者が到着し、マリアの傷を包帯で縛った時、マリアは苦痛のせいで悲鳴も出ませんでした。ですが、時間が経つにつれ「おお、アレッサンドロ、なんてかわいそうな人! あなたは地獄へ行くわ!」と言いました。救急車が到着するまでには人だかりができていました。何人かが自室に閉じこもっていたアレッサンドロを引きずり出し、警察が彼を連行しなかったら暴行を受けていたかも知れませんでした。多くの人々は救急車の後を追い、徒歩で病院までついて行きました。病院に着くまでの間、死ぬ前の二十時間の激しい苦痛に苛まれた時をマリアは過ごしました。マリアは長い間意識がありました。一言も文句を言わず、痛みで呻き声をあげることもありませんでした。マリアは水を飲ませて欲しいと二回頼みましたが(傷が内蔵にまで達していて、水を飲むともっと傷が酷くなるからと拒まれました)、不満を言わずにこの慰めを放棄しました。また夜の間、母親がそばについているという慰めも同じく放棄しました。面会人は病院には泊まれないという病院の規則があり、アスンタは仕方なく救急車の後部座席で眠りました。

 マリアが病院に着いてまもなく司祭が呼ばれました、医者たちは手術しましたが、三人の医者にはもう手の施しようがありませんでした。司祭が到着すると、Bartoli医師は「神父様、できることは限られています。私たちは死の淵にいる少女を残して行きますが、あなたは天使を見つけるでしょう」と言い切りました。

 マリアの初聖体の時にご聖体を与えたのと同じ司祭が、最後のご聖体を運んできました。臨終の聖体拝領の前に、司祭は殺人者を心から許すかどうかマリアに尋ねました。マリアはなんのためらいもなく「はい、イエズス様への愛のために、私も彼を許します……天国で私と一緒に天国にいてもらいたいのです……私が彼を許したのですから、神様も彼を許してくださいますように」マリアは午後三時を過ぎてすぐに亡くなりました。

 アレッサンドロの裁判は一九〇二年十月十六日、マリアの誕生日に開始されました。アレッサンドロは精神異常であったという口実で弁護されたものの、有罪判決を受けました。未成年だったので禁固三十年の判決でした。シシリア島に送られ、そこで八年間は自分の犯した罪に対してまったく反省や後悔のしるしを見せませんでした。ですが、魂が死んだままの数年間を生きてきたある夜、アレッサンドロは夢を見ました。彼は花畑にいるマリアを見ました。マリアは腕に抱えた白いゆりの花を何本か彼に差し出しました。この夢から数日のうちに、教区の司教がアレッサンドロに会見したいと要求し、それは叶えられました。一九一〇年十一月十日、アレッサンドロは司教に手紙を書き、自分が犯した恐ろしい罪の許しを乞いました。

 アスンタは、夫ルイジの最後の望みに従って、子どもたちを連れてコリナルドに帰りました。そこで彼女は一家を養いました。教区司祭の賄い婦としての職を得て、何十年も働きました。マリアの英雄的な生涯と死は忘れ去られませんでした。ご受難会の司祭たちは、マリアの亡骸を恩寵の聖母教会へと移す許可をアスンタに願いました。この願いは一九二九年に果たされました。聖ピオ十世はすでにマリアを、まことの献身の模範、そして若者たちに勇気を与える存在として掲げていました。この同じ年に、アレッサンドロはマリアの列福調査のために証言するよう求められていました。彼はこのときまでには釈放されており、労働者として静かな生活を送っていました。アレッサンドロはあらゆる非難を受ける覚悟で、進んで証言をし、マリアは襲われた時でさえ彼の霊魂の救いを考えていたこと、回心へと導いた夢の話を繰り返しました。一九三七年のクリスマス・イブ、アレッサンドロは司祭館で働くアスンタ自身の口から、確かな許しの言葉を聞くために、彼女を訪ねました。彼は涙を流してアスンタの許しを乞いました。マリアがあんなにも熱心に彼を許したならば、それを拒んだりはできないとアスンタは答えました。アスンタとアレッサンドロは、マリア・ゴレッティに捧げられた教会で、深夜のクリスマスのミサに一緒にあずかりました。

 一九四七年、教皇ピオ十二世はマリアを列福しました。彼女の死は殉教であるからとして、列福のためには奇跡は必要なかったのですが、その後、マリアの助けを求める人々の声が上がりだし、彼女の取り次ぎによって大変多くの願いが聞き入れられ、列聖に必要な二つの奇跡が、あっという間になんの疑いもなく証明されました。一九五〇年六月二十五日、マリアの列聖式が執り行われました。列福からわずか三年後のことでした。

 そのときまでにはすでに年老いていたマリアの母は、列聖式に出席しました。大変な人ごみだったので、儀式は聖ペトロ大聖堂を前に、外で行われなければなりませんでした。列福から列聖までの期間が最も短かった聖人の一人としてバチカンでは記録されています。

聖伝のミサ(いわゆる「トリエント・ミサ」と呼ばれているローマ式典礼様式のミサ)にようこそ!

ローマ・カトリックの聖伝のミサ vs エキュメニカルな新しいミサ(第二バチカン公会議のミサ)




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7月13日(主)には、東京と大阪とでミサ聖祭があります

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 7月13日(主)聖霊降臨後第5主日(2級)には、東京と大阪とでミサ聖祭があります。

 その理由は、主日の午後6時半からレネー神父様が大阪でミサを捧げてくださるからです。

 東京では、小野田神父が午前10時半から聖伝のミサをお捧げします。バイロケーションする予定はありません (^^;)


よろしくお願いいたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

     東京
午前10時  ロザリオ及び告解
午前10時半 ミサ聖祭
  〜昼食休憩〜
午後2時半頃 公教要理
午後4時頃  主日の第二晩課


     大阪(レネー神父様)
午後6時   ロザリオ及び告解
午後6時半  ミサ聖祭

 レネー神父様は、聖ピオ十世会アメリカ管区長、豪州管区長、本部総会計長、などを歴任されたとても立派な方なので、このような神父様に来ていただけることを大変うれしく思います。

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2014年7月の日本での聖伝のミサの報告です。天主様に感謝!

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
こんにちは!いかがお過ごしでいらっしゃいますか?

 今月の聖伝のミサには、天主様のお恵みで多くの方々が与ることが出来ました。天主様に感謝します。
 マニラは、台風の影響で停電だったり、インターネットが不通だったりしたために、ご報告が遅れてしましました。
 7月の日本での聖伝のミサの報告をご紹介いたします。

 また、東京と大阪の有志の方々が18年間聖ピオ十世会アジア管区長をつとめてくださったクチュール神父様へ贈った霊的花束の内容は以下のとおりです。これは、今回大阪にミサ聖祭を捧げにいらしてくださったレネー神父様にお預けいたしました。レネー神父様はシンガポールへ帰られて、クチュール神父様にお渡しすることになっています。多くのお祈りを感謝します。


ミサ拝領 161回
聖体拝領 177回
霊的聖体拝領 3833回
十字架の道行き 265回
ロザリオ 6188環(秋田巡礼での888環を含む)
小さき犠牲 1078
その他  いろいろたくさん


聖母の汚れなき御心よ我らのために祈りたまえ
聖ヨゼフわれらのために祈りたまえ
大阪での主日の御ミサを、たくさんの御ミサを
天主様に感謝!聖母マリア様に感謝!聖ヨゼフ様に感謝!
至聖なるイエズス様の聖心よ、我らをあわれみたまえ。
聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈りたまえ。
いとも尊き聖ヨゼフ、我らのために祈りたまえ。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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7月13日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 14人(内、子供0人)
女: 17人(内、子供0人)
計: 31人(内、子供0人)

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

日本でのミッションありがとうございました。小野田神父様にお会いできて、とてもうれしかったです。

7月の御ミサの報告をいたします。
御ミサに与られた方の人数は、

11日金曜日 13人
12日土曜日 19人
13日日曜日 19人
14日月曜日 11人  でした。Deo gratias!!!

13日主日のミサにはレネー神父様が予定通り、韓国での主日のミサをささげられた後に来日してくださいました。日本の為に大きな犠牲を払ってくださったレネー神父様にも心から感謝申し上げます。

13日主日のレネー神父様のお説教は以下の通りです。


「もしあなたたちの正義が律法学士やファリサイ人たちのそれにまさらぬ限り、決して天の国には入れぬ」(マテオ第5章20節)

親愛なる兄弟の皆さん、

10月にローマで、司教のシノドス(司教会議)が行われ、離婚して再婚したカップルのことや、同性愛者などの問題について議論することを、皆さんもお聞きになっているかもしれません。2月20日にローマであったシノドスの特別準備会議で、カスパー枢機卿が非常に悪い発言をしました。その結果、全世界の各国の司教協議会、例を挙げればドイツの司教協議会は、再婚したカップルに婚姻の秘蹟を与えることはできないが、少なくとも彼らが祝福を受けられるようにしよう、ということをほのめかしました。こういう態度の結果、彼らは自分たちの状況にある種の承認が与えられるという印象を持ちます。理論的には何も変化がないように見えても、実践的には聖 書、そして教会の変わらない教えに反する振る舞いが支持され、広められているのです。

今日の教会には、「十戒に基づく道徳を超えて行くこと」を推し進める人々がいます。彼らは、「洗礼を受けた人々(信者)と、公式な教理との間にある、明白な隔たりを減らす」ことをしたがっています。この意味は、教会のメンバーの実際的な要望に、教会が実践していることを合わせていくべきだということです。

本日の福音がまことに教えているのは、現代世界の不道徳に実践で妥協するような態度は、私たちの主イエズス・キリストの言葉に反しているということです。「もしあなたたちの正義が律法学士やファリサイ人たちのそれにまさらぬ限り、決して天の国には入れぬ」(マテオ5章20節)。自分をキリスト教徒、カトリック教徒と呼びながら、現代の不道徳に従うのは偽善です。そのような妥協を進める人々は、本当に信じているのでしょうか、最後の審判があり、そのとき主が左側にいる人々に次のようにおっしゃることを。「私はいまだかつてあなたたちを知ったことがない、悪を行う者よ、私から離れ去れ」(マテオ7章23節)、「のろわれた者よ、私を離れて悪 魔とその使いたちのために備えられた永遠の火に入れ」(マテオ25章41節)。彼らは本当に信じているのでしょうか、聖パウロが次のように書いたことを。「不正の人は天主の国を継げないことを知らないのか。思い誤るな。淫行をする者も、偶像崇拝者も、姦通する者も、男娼も、男色する者も、泥棒も、貪欲な者も、酒飲みも、讒言する者も、略奪する者も、天主の国を継がぬ」(コリント前6章9―10節)。また、ローマ人への書簡(ローマ1章26―27節)で、聖パウロは異邦人の悪徳を攻撃し、同性愛が異邦人の悪徳の縮図であると指摘しました。旧約聖書においては、律法が明確にその点(レビ18章22節、20章13節)を指摘していますし、そのような悪徳に対して天主が怒りをお示しになったソドムという例がありました。

離婚して再婚することもまた、私たちの主イエズス・キリストによってはっきりと拒否されています。「人は、天主が合わせられたものを離してはならぬ」(マテオ19章6節)。「妻を追い出してほかに結婚する者は、はじめの女があるのだから姦通することになり、また妻が夫を捨てて他の男に嫁ぐなら、やはり姦通することになる」(マルコ10章11―12節)。ですから、そのような人物にご聖体を与えることは、まことに重大な汚聖です。聖パウロはこれについて言っています。「主のお体をわきまえずに飲食する者は、自分自身へのさばきを飲食することである」(コリント前11章29節)。

そのため、今日の教会においては、良き道徳を求める戦いがあるのです。これには、三つの立場が存在します。まず、司教であっても、カスパー枢機卿のように枢機卿であっても、この世との実践的妥協を好む人々がいます。次に、天主の恩寵によって、これに対して立ち上がり、反対であると明確に述べ、そんな行動はキリスト教の信仰に反すると思い出させてくれる人々がいます。三番目のグループは、……沈黙したままです。

しかし、慰めもあります。聖伝の司教方だけでなく、他の司教方、特にカザフスタンのアタナジウス・シュナイダー司教や、またシンガポールの司教さえも、これらの不道徳にまったく明確に反対を述べておられるのを見るからです。シュナイダー司教は、道徳についての妥協を推し進める人々と、キリストの良き道徳を支持する人々との間で、潜在的なシスマ、教会分裂が存在しているという警告さえなさっています。

ここで疑問が生じます。天主は慈悲深い方でいらっしゃらないのか。天主は簡単にはお赦しくださらないのか、と。

おお、そうです。天主は慈悲深い方でいらっしゃり、お赦しくださいます。しかしながら、正確にいえば、天主はまことに善き方でいらっしゃるので、罪びとの真の癒やしをお求めになります。天主が罪びとを本当に癒やす恩寵をお与えになるのは、私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって、もう罪を犯さないように罪びとを完全に変容させるためなのです。これが真の改心なのです。つまり、自己中心でこの世の物や喜びに向かう生活から、天主に対して開かれ、すべてを天主の方へ向け、この世的な感情から離れる生活へと立て直すことなのです。

こういう恩寵は、祈りを通して、また秘蹟を通して与えられます。特に頻繁な告解や、ご聖体拝領がうまくなされた場合、つまり成聖の恩寵の状態で、聖化を求める強い望みをもってなされた場合に与えられます。悔悛の秘蹟を受けるとき気を付けていただきたいのは、悔い改めをし、苦行によって罪のつぐないをし、注意深く罪の機会を避けること、特にわいせつなものや不純なものを避けることが必要です。自分は天主の十戒に忠実であると思いながら、一方で罪の機会を避けようとしないなら、それは自分を欺いているのです。

さて、過去の罪が、霊魂において再び罪に陥る傾きの原因になります。例えば、飲みすぎることは再び飲もうという傾きの原因になります。そんな傾きがあっても、何も悪いものはないと偽る人がいますが、それは誤りです。実際のところ、その傾きは罪への傾きであるため、悪しき傾きなのです。それ自体で悪ですが、それに同意しない限り、罪ではありません。

そのような傾きは、正確に言えば罪の傷、つまり過去に犯した罪の傷であり、原罪の傷なのです。この傷を癒やす過程には時間がかかります。このような傷は、自らをへりくだり、絶えず祈り、試みに遭わせないよう天主にこいねがう機会となるのです。このへりくだりや絶えざる祈りはよいものであり、私たちの過去に犯した罪という悪から、天主が引き出してくださる善なのです。ですから、天主はこれらの祈りを喜ばれ、私たちをお助けくださいます。天主のご保護の下、私たちは罪に打ち勝つのです。天主の恩寵により罪を避けることができるということをはっきりと言い、堅く信じることは非常に重要です。それは可能であるだけでなく、罪 に対する勝利には大きな喜びがあります。霊魂がどんどん強くなるのです。

罪は三つの結果をもたらします。1)霊魂の闇、光である天主から顔をそむけること。2)当然受けるべき罰。3)罪による傷、つまり再び罪に落ちる傾き。私たちの主イエズス・キリストの恩寵は、これら三つから私たちを癒やしてくれます。実際、赦しそれ自体によって、また成聖の恩寵を与えることによって、主の恩寵は、天主との友好関係を回復させ、霊魂に天主の現存も回復させます。さらに、主の恩寵は永遠の罰を赦し、悔悛を求める熱意を与えることで、現世での罰を受ける力を与えてくれます。そうして、宗教的に熱心な生活を繰り返していくことで、主の恩寵は、一度にではなく徐々に少しずつ罪の傷を癒やすのです。

私たちの主イエズス・キリストの恩寵は、私たちの霊魂を癒やすだけでなく、高めてくれます。恩寵は、私たちの霊魂を高めることで超自然の生活へと導いてくれ、天主との友好関係を持ち、キリストの神秘体の一員となり、天主の子となるのです。「天にましますわれらの聖父よ、…」と、人間に祈ることを教える宗教は、これまでほかに全くありません。この霊魂を高めることは、「聖化」と呼ばれます。「実に天主のみ旨は、あなたたちが聖となることにある」(テサロニケ前4章3節)。聖パウロが、これをすぐに貞潔と関連付けていることに注意してください。全文を引用しますと、「実に天主のみ旨は、あなたたちが聖となることにある。 淫行を避け、おのおのが器を神聖に尊く保ち、天主を知らぬ異邦人のように情欲におぼれてはならない。また、このことについて誰も兄弟を害したりだましたりしてはならない。主がこれらのことについて報いられることは、すでにあなたたちに告げて証明したとおりである。天主が私たちを招かれたのは不潔のためではなく、聖となるためである。したがって、このおきてを退ける者は、人を退けるのではなく、私たちに聖霊を与えられる天主を退けることになる」(テサロニケ前4章3―8節)。

私たちの主イエズス・キリストは、私たちの霊魂を癒やし、高める恩寵をお与えになるのですから、主はこの世の正義をさらに上回る正義を私たちにお求めになります。「もしあなたたちの正義が律法学士やファリサイ人たちのそれにまさらぬ限り、決して天の国には入れぬ」(マテオ5章20節)。主は、殺すことを避けるだけでなく、短気も避け、心から敵を赦すようお求めになります。姦淫を避けるだけでなく、不純な視線や思いも避けるようお求めになります。偽証を避けるだけでなく、悪い言葉や悪い誓いも避けるようお求めになります。主は完徳をお求めになります。「天の父が完全であるように、あなたたちも完全な者になれ」(マテオ5章48節)。しかし 、主がそれをお求めになるのは、主が「私たちに与えられた聖霊によって、この心に天主の愛を注がれた」(ローマ5章5節)からなのです。

主は、私たちに聖であることをお求めになります。なぜなら主は、私たちのために御血を流すことにより、私たちを買い取られたからです。主は、私たちが自分で望む以上に、私たちの救いと聖化を望んでおられます。そのために、主は十字架の上で亡くなられたのです。十字架の聖なるいけにえによって、主はこれらの恩寵をすべて買い取られ、私たちが秘蹟を求め、信心をもって秘蹟を受けるときにはいつでも、私たちの霊魂のために恩寵をお与えになる用意をなさっています。ミサの聖なるいけにえは、まさに私たちの主イエズス・キリストの御体と御血のいけにえを捧げることであり、この恩寵を受ける最も偉大なる手段です。尽きることのない恩寵と聖性の泉です 。祭壇の下で、以前の罪を悔い改め、聖性の行いを実践しようという決意が形成されます。ですから、親愛なる兄弟の皆さん、私たちだけではなく他の人たちにも、癒やしと聖化の豊かな恩寵を与えてくださるよう、主に熱心に願い、こいもとめましょう。愛徳と善き業を行えるよう、聖なる競争心をもって、お互いに祈りましょう。

しかし、何よりも、真のキリスト教徒だと主張する一方で、天主の法を実践において無視するという偽善から完全に逃れましょう。

天主の恩寵に常に完全に忠実でいらっしゃった童貞聖マリアに、私たちをお委ねしましょう。そうして、私たちもまた、天主が私たちの霊魂に注いでくださる恩寵に忠実であり、天主の恩寵によって天主を喜ばせる生活を送ることができますように。アーメン。


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天主様は本当に私たちの祈りを聞いてくださっています

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今年の大阪でのご復活のごミサの後、近くのレストランでレネー神父様と夕食を取りました。そのとき「ニュージーランドにいたとき、ロザリオの祈りで病院での中絶をやめさせた」という主旨のお話をしてくださいました。
アジア管区のサイトには、レネー神父様がこの時のことを詳細に報告しているお手紙があります。
レネー神父様への感謝をこめて、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。
(これを訳してくださった方には心から感謝します!)


天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


天主様は本当に私たちの祈りを聞いてくださっています

原文はこちら
God Really Listens to Our Prayers


レネー神父からクチュール神父への手紙

聖アントニオ・カトリック教会
88 Alma Road
ワンガヌイ、ニュージーランド


二〇〇五年十月七日

尊敬する親愛なる神父様、

 数ヶ月前、ワンガヌイの病院の衛生局が、ワンガヌイに「中絶施設」を作ろうという計画を検討していました。彼らは現在、不幸な女性たちをここから三時間ほどかかるウェリントンへと送っています。私たちの信者の数人がこのことを耳にして、小教区で反対運動をできないだろうかと尋ねてきました。私たちは実行しました。毎週土曜日にロザリオ三環を病院の前で唱え、それに加えて毎日ピケを張りました(Raaymakers一家によってです)。若者たち、特にJean-PaulとRebecca Borbergが先頭に立って、ワンガヌイで何度も自発的な行動を、例えばプロ・ライフのTシャツ、プロ・ライフの風船(!)、プロ・ライフの行進をするなどしました。教区全体で断食する日を持ちました。


 二週間前に検討結果の決定がなされるはずでしたが、衛生局の会議は延長されなければなりませんでした。なぜなら、耐震構造の特別な病院建物に関する報告書の準備ができておらず、彼らは同じ会議の席上でそれについても検討しなければなりませんでした。ですからこの問題について決着をつける予定の会議を延期しなければなりませんでした……十月七日まで。この日付に私たちはみ摂理からの最初の希望のしるしを見つけました。私たちは聖ミカエルの祝日から聖母の祝日を含むノヴェナの祈りを企画しました。つまり聖ミカエルのチャプレットの祈りと聖母の連禱を加えたのです。午前七時十五分のミサの後、今朝のことです、私たちは最後の連祷を唱え、約二十人の信者たちは衛生局の会議を支援するため出かけました。天主の恩寵によって、衛生局の一人のメンバーが、もう一人のメンバーに続いて、この計画に反対する発言をしました。賛成投票したのはたった二人で、約六名が反対でした。その他はどうやら棄権したようでした。ワンガヌイに「中絶施設」を作る決定はこうして取りやめとなりました。天主に感謝。私たちは自分たちの教会に戻って、テ・デウムを歌いました。

 来週ワンガヌイに聖テレーズの遺物が届くという視点から見てみますと、この出来事は聖女の自叙伝の短い一節を思い起こさせます。その中で、聖女は「天主様が本当に自分の祈りを聞いてくださったかどうか」を知りたがりました。そして天主はまことにお応え下さったのです! 私たちは教会で聖女の遺物とともに二時間を過ごします。

 このニュースを知らせてください。そして私たちの主イエズス・キリストに、天主のためにまことに勝利を勝ち取ってくださる聖ミカエルに、至聖なるおん母、聖テレーズに微笑んでくださった「勝利の聖母」を通して、ふさわしい感謝をお捧げしましょう。

 イエズスとマリアにおいて、心をこめて挨拶を送ります

 フランソワ・レネー神父


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ミサ聖祭の価値と司祭

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 6月は、アメリカにあるウィノナの神学校に行き司祭叙階式に与る機会がありました。司祭として神学校に行って叙階式に与ったのはこれでようやく二回目で、この機会が与えられたことを天主に感謝します。
 この叙階式の模様がYouTubeにアップされているとのこと、教えてもらいました。

2014 St Thomas Aquinas Seminary Priestly Ordinations 1

2014 St Thomas Aquinas Seminary Priestly Ordinations 2

2014 St Thomas Aquinas Seminary Priestly Ordinations 3

2014 St Thomas Aquinas Seminary Priestly Ordinations 4

2014 St Thomas Aquinas Seminary Priestly Ordinations 20

 さて、私たちの主イエズス・キリストは、天主でありながら、罪人の義化のために、私たち人間の救いのために、人間となりました。イエズス・キリストが人間となることによって最も望んだことは、自らをいけにえとして罪の償いのために捧げることでした。すなわち、カルワリオで十字架の犠牲を捧げることでした。そして、このカルワリオの犠牲は、毎日、私たちの祭壇の上で再現実化しています。ミサ聖祭こそは、私たちキリスト教生活の源であり、聖化と超自然の命の源です。

 私たち、理性を持った被造物である人間は、真の天主を真の創造主であると認める義務を持っています。私たちは、全てを創造した天主から、全てを無償で受けました。私たちが持つ全ては天主から戴いたものです。私たちはこのことを認める正義の義務があります。宗教の徳は、正義の徳に属するものであり、私たちを天主と結びつけ、天主が当然受けるべきものを、私たちをして天主に与えるようにさせる徳です。天主が当然受けるべきものとは、私たち理性的被造物が天主を創造主として認めて天主に従うこと、つまり礼拝(흠숭)することです。それはちょうど子供が父母を親と認めてそれに従う、つまり敬愛する務めがあるのと同じです。

 この宗教の徳行は、何よりもまず内的なものです。つまり知性と意志によるものです。私たちの知性を真理に従わせ、私たちの意志を善に従わせ、私たちの全てを真理と善と美の源である天主に従わせることです。そして、私たちの全てとはつまり、霊魂と肉体と私たちの所有する全てのことですから、この天主への礼拝は同時に外的なものになっていきます。

 天主は、その憐れみにより、私たちに対する愛により、全く自由に、人間となって私たちのところに来ることを望みました。天主は、今から2014年前に人間となって、私たちにどのように天主に対して祈り、礼拝するべきかを教えてくれました。人間となった天主イエズス・キリストは、ご自分を全く天主御父に従わせ、十字架の上で天主御父にいけにえとして自分を捧げました。御父の栄光のために、霊魂の救いのために、真理と霊において、十字架の上で自らを最高のいけにえとして捧げました。それは私たちがイエズス・キリストに倣うためです。

 このイエズス・キリストのカルワリオでの犠牲は、天主御父の御稜威にとって無限に嘉するものでした。天主イエズス・キリストは、自分の血潮を流して罪の償いとして捧げ、天主御父の正義を宥めたのです。聖パウロはこう言います。
「実に愛される子らとして、天主に倣う者であれ。私たちを愛し、私たちのために、香ばしいかおりのいけにえとして天主にご自分をわたされたキリストの模範に従って、愛のうちに歩め。」(エフェゾ5:1-2)イエズス・キリストの御受難は、真の犠牲であり、全人類の歴史でもっとも荘厳な瞬間でした。いえ、全創造の歴史の全てにおいて、人間となった天主のいけにえこそが、天主に最高の栄光と賛美と礼拝とを捧げた瞬間でした。

 天主イエズス・キリストは、この唯一の最高の犠牲の効果を、何時の時代でも私たちに及ぼすことが出来るように、この十字架の犠牲が時において継続することを望みました。主は、このカルワリオの犠牲が、今なお、カトリック教会の祭壇の上で、ミサ聖祭において再現実化することを望みました。そしてこの十字架の犠牲の再現実化であるミサ聖祭を中心に、主はご自分の神秘体を形成することを望みました。キリストの花嫁でありキリストの神秘体であるカトリック教会は、天主に祈りを捧げます。キリストの真の教会であるカトリック教会の最高の祈りは、このミサ聖祭です。何故なら、花婿であるイエズス・キリストはご自分の教会にこのミサ聖祭という祈りを委ねたからです。ミサ聖祭よりもすぐれた祈りはあり得ません。何故なら、天主御子のご自分の祈りであり、礼拝であり、犠牲であり、贖罪の最高の業だからです。この最高の祈りにおいて、イエズス・キリストは、御聖体を通して、ご自分の体、御血、御霊魂、天主性に私たちが与ることを望みました。それは私たちもイエズス・キリストのように、祈り礼拝し賛美し償いと感謝をすることができるためです。

 イエズス・キリストが望んだ司祭職の目的とは、このカルワリオの犠牲が日々祭壇の上で継続させることです。カルワリオの犠牲をミサ聖祭において再現実化させることです。ほかの言葉で言うとパンとブドウ酒を聖変化させてミサを捧げ、御聖体の秘蹟を執行することです。パンをイエズス・キリストの真の現実の体に全実体変化させることです。天主であるイエズス・キリストを祭壇の上に来させ、このイエズス・キリストを今日天主御父に捧げ、このイエズス・キリストを霊魂たちに与えることです。司祭が聖変化の言葉を発するとき、イエズス・キリストはあたかも命じられたかのように祭壇の上に来るのです。ここに新約の司祭職の核心があります。ミサ聖祭を執行すること、これが司祭叙階の目的です。

 聖変化の言葉を発声するたびに、天主を祭壇上に、真に現実に実体的に現存させることが出来る、これが新約の司祭の持っている想像を絶する権能です。イエズス・キリストはその全能と憐れみとによって、哀れな被造物である人間である司祭にこのものすごい力を与えました。

 ミサ聖祭こそが、キリスト者を聖化させる根源です。従って、その論理的な結論は、ミサ聖祭こそが、キリスト教文明の根源です。別の言葉で言うと、ミサ聖祭の祭壇なくして、キリスト教世界はあり得ないということです。

 キリスト教世界とは、キリストの統治する世界のことで、つまり、人間によって実現され認識された天主イエズス・キリストの統治のことです。イエズス・キリストの王国はこの世からのものではありません。しかし、人間の聖性、祈り、良き模範、勇気、愛徳、隣人愛、救霊を求める熱意などは、イエズス・キリストを真の天主として認めさせ、イエズス・キリストを主と宣言させます。その時、文化的に、社会的に、政治的に、キリストを天主であると認識する世界が現れます。それと反対に、臆病や無関心、背教や聖徳の欠如によって、キリスト教世界は消えていきます。

 キリスト教世界は、西暦33年の過越祭(パスカ)と五旬祭との間にエルサレムにおいて、住所も無いような家の高間に集まった、ガリラヤ出身の漁師を指導者とする少数の男女から、歴史的に、社会的に出現します。個人も、家庭も、町も、ミサ聖祭によって聖化されるからです。家族生活を送る上で必要な徳行も、社会生活。市民生活、政治生活を送る上で必要な徳行も、愛徳も、誠実も、勤勉も、正義も、犠牲の精神も、忠実の精神も、赦しの精神も、ミサ聖祭から由来するからです。

 ミサ聖祭こそが、カトリック教会の中心であり、カトリック生活の中核であり、使徒職の心臓でもあります。何故なら、ミサ聖祭から超自然の命が流れ出るからです。私たちにとってイエズス・キリストの超自然の聖寵が絶対に必要です。何故なら、究極のところ、霊魂を変化させ、心を天主へと開かせるのは聖寵の業だからです。そして、イエズス・キリストは、司祭の手にこの贖いの全ての聖寵の源であるミサ聖祭を委ねました。私たちの主は、ミサ聖祭を通して個人を、家庭を、社会を聖化することを望みました。司祭は単なる道具に過ぎず、霊魂を聖化させるのは、イエズス・キリストです。司祭の一日は、つまり、ミサ聖祭の準備であり、ミサ聖祭の続きです。つまり、司祭はミサ聖祭を生きるのです。司祭生活とは、ミサ聖祭の延長です。

 従って、カトリック教会を通して天主に使えることを望む司祭は、祈りの精神と観想の精神を保ち続けなければなりません。外的な活動主義、アジテーションによって、内的生活、霊的生活を消すことを避けなければなりません。私たちではなく、イエズス・キリストこそが私たちの内にますます生きなければなりません。願わくは天主の聖母、永遠の司祭の母である終生童貞なる聖マリアが、私たちを助けてくださいますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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イエズス会の復興200周年 天主様に感謝します。

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愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖イグナチオ・デ・ロヨラの祝日、おめでとうございます。

 今年は、イエズス会の復興200周年です。イエズス会の復興を天主様に感謝します。


 ブルボン家のポルトガル王、フランス王、スペイン王のたちにより追放され、ついには教皇によって41年間の不当な排斥を苦しんだイエズス会は、かえって非カトリックのプロイセン(非カトリックのフリードリヒ二世)とロシア(エカテリーナ二世)によって保護されます。
 これらの国々は特別に祝福されたと思います。たとえばロシアはナポレオンに勝つことが出来ましたから。それに引き替え、イエズス会を圧迫し追放したフランス王はギロチンに終わり、同じくイエズス会を追放したスペインとポルトガルとはフランス革命の波に飲み込まれてしまいました。

 イエズス会の廃止は、ウォレン・カロルが言うように、ちょうど夜中に鳴る火災警報器のようでした。人間の作った「黙示録」、つまり革命がやってくると言うことを知らせる前兆でした。

 クレメンテ十四世は、フランス革命の16年前、すなわち1773年「ドミヌス・アク・レデンプトール」でイエズス会を廃止します。パリの大司教であったクリストフェール・ド・ボモン(Christopher de Beaumont)は、1774年4月24日付けで教皇クレメンテ十四世に抗議の手紙を書いています。

 イエズス会はピオ七世によって復興します。1814年8月7日(本当は7月31日の予定でした)、教皇ピオ七世はローマのジェズ教会に行き、聖イグナチオの祭壇でミサを捧げ、その後、横にある「貴族のための小聖堂」(Capella dei Nobili, 今では Cappella della Assunta)に行き、大勅書「ソリチトゥード・オムニウム・エクレジアールム」を読み上げてイエズス会を全世界で復興させることを宣言しました。

 すでにピオ七世は、ロシア帝国においてのイエズス会の存在を公認しており(1801年3月7日の「カトリチェ・フィデイ」)、両シチリア王国においても同様に公認していました(1804年7月30日の「ペル・アリアス」)。1814年の大勅令は、これを全世界に拡大させたものです。

 ラテン語の原文はここにあります。Sollicitudo omnium Ecclesiarum

 これはナポレオンのヨーロッパ征服という大混乱と、ナポレオンに敵対する戦争によってヨーロッパが大変革した後のことでした。




パリの大司教クリストフェール・ド・ボモン(Christopher de Beaumont)の、1774年4月24日付けで出した教皇クレメンテ十四世への手紙は次の通りです。
【出典】
The Jesuits, 1534-1921 A History of the Society of Jesus from Its Foundation to the Present Time
by Thomas J. Campbell


"This Brief is nothing else than a personal and private judgment. Among other things that are remarked in it by our clergy is the extraordinary, odious, and immoderate characterization of the Bull "Pascendi Munus" of the saintly Clement XIII, whose memory will be forever glorious and who had invested the Bull in question with all the due and proper formalities of such documents. It is described by the Brief not only as being inexact but as having been 'extorted' rather than obtained; whereas it has all the authority of a general council; for it was not promulgated until almost the whole clergy of the Church and all the secular princes had been consulted by the Holy Father. The clergy with common accord and with one voice applauded the purpose of the Holy Father, and earnestly begged him to carry it out. It was conceived and published in a manner as general as it was solemn. And is it not precisely that, Holy Father, which really gives the efficacity, the reality and the force to a general council, rather than the material union of some persons who though physically united may be very far from one another in their judgments and their views? As for the secular princes, if there were any who did not unite with the others to give their approbation, their number was inconsiderable. Not one of them protested against it, not one opposed it, and even those who, at that very time, were laying their plans to banish the Jesuits, allowed the Bull to be published in their dominions.

"But as the spirit of the Church is one and indivisible in its teaching of truth, we have to conclude that it cannot teach error when it deals in a solemn manner with a matter of supreme importance. Yet it would have led us into error if it had not only proclaimed the Institute of the Society to be pious and holy, but had solemnly and explicitly said: 'We know of certain knowledge that it diffuses abroad and abundantly the odor of sanctity.' In saying this it put upon that Institute the seal of its approbation, and confirmed anew not only the Society itself, but the members who composed it, the functions it exercised, the doctrines it taught, the glorious works it accomplished, all of which shed lustre upon it, in spite of the calumnies by which it was assailed and the storms of persecution which were let loose against it. Thus the Church would have deceived us most effectively on that occasion if it would now have us accept this Brief which destroys the Society; and also if we are to suppose that this Brief is on the same level in its lawfulness and its universality as the Constitution to which we refer. We abstract, Holy Father, from the individuals whom we might easily name, both secular and ecclesiastical who have meddled with this affair. Their character, condition, doctrine, sentiment, not to say more of them, are so little worthy of respect, as to justify us in expressing the formal and positive judgment that the Brief which destroys the Society of Jesus is nothing else than an isolated, private and pernicious judgment, which does no honor to the tiara and is prejudicial to the glory of the Church and the growth and conservation of the Orthodox Faith.

"In any case, Holy Father, it is impossible for me to ask the clergy to accept the Brief; for in the first place, I would not be listened to, were I unfortunate enough to lend the aid of my ministry to its acceptance. Moreover, I would dishonor my office if I did so, for the memory of the recent general assembly which I had the honor to convoke at the instance of His Majesty, to inquire into the need we have of the Society in France, its usefulness, the purity of its doctrines, etc., is too fresh in my mind to reverse my verdict. To charge myself with the task you wish me to perform would be to inflict a serious injury on religion as well as to cast an aspersion on the learning and integrity of the prelates who laid before the king their approval of the very points which are now condemned by the Brief. Moreover, if it is true that the Order is to be condemned under the specious pretext of the impossibility of peace, as long as the Society exists, why not try it on those bodies which are jealous of the Society? Instead of condemning it you ought to canonize it. That you do not do so compels us to form a judgment of the Brief which, though just, is not in its favor.

"For what is that peace which is incompatible with this Society? The question is startling in the reflection it evokes; for we fail to understand how such a motive had the power to induce Your Holiness to adopt a measure which is so hazardous, so dangerous, and so prejudicial. Most assuredly the peace which is irreconcilable with the existence of the Society is the peace which Jesus Christ calls insidious, false, deceitful. In a word what the Brief designates as peace is not peace; Pax, pax et non erat pax. It is the peace which vice and libertinism adopt; it is the peace which cannot ally itself with virtue, but which on the contrary has always been the principal enemy of virtue.

"It is precisely that peace against which the piety of the Jesuits in the four quarters of the world have declared an active, a vigorous, a bloody warfare; which they have carried to the limit and in which they have achieved the greatest success. To put an end to that peace, they have devoted their talents; have undergone pain and suffering. By their zeal and their eloquence they have striven to block every avenue of approach, by which this false peace might enter and rend the bosom of the Church; they have set the souls of men free from its thralldom, and they have pursued it to its innermost lair, making light of the danger and expecting no other reward for their daring, than the hatred of the licentious and the persecution of the ungodly.

"An infinite number of splendid illustrations of their courage might be adduced in the long succession of memorable achievements which have never been interrupted from the first moment of the Society's existence until the fatal day when the Church saw it die. If that peace cannot co-exist with the Society, and if the re-establishment of this pernicious peace is the motive of the destruction of the Jesuits, then the victims are crowned with glory and they end their career like the Apostles and Martyrs; but honest men are dismayed by this holocaust of piety and virtue.

"A peace which is irreconcilable with the Society is not that peace which unites hearts; which is helpful to others; which each day contributes an increase in virtue, piety and Christian charity; which reflects glory on Christianity and sheds splendor on our holy religion. Nor is there need of proving this, though proof might be given, not by a few examples which this Society could furnish from the day of its birth to the fatal and ever deplorable day of its suppression, but by a countless multitude of facts which attest that the Jesuits were always and in every clime, the supporters, the promoters and the indefatigable defenders of true and solid peace. These facts are so evident that they carry conviction to every mind.

"In this letter I am not constituting myself an apologist of the Jesuits; but I am placing before the eyes of Your Holiness the reasons which, in the present case, excuse us from obeying. I will not mention place or time, as it is an easy thing for Your Holiness to convince yourself of the truth of my utterance. Your Holiness is not ignorant of them.

"Moreover, Holy Father, we have remarked with terror, that this destructive Brief eulogizes in the highest way certain persons whose conduct never merited praise from Clement XIII, of saintly memory. Far from doing so, he regarded it always as his duty to set them aside, and to act in their regard with the most absolute reserve.

"This difference of appreciation necessarily excites attention, in view of the fact that your predecessor did not consider worthy of the purple those whom Your Holiness seems to design for the glory of the cardinalate. The firmness on one side and the connivance on the other reveal themselves only too clearly. But perhaps an excuse might be found for the latter, were it not for the fact which has not been successfully disguised that an alien influence guided the pen that wrote the Brief.

"In a word, most Holy Father, the clergy of France, which is the most learned and most illustrious of Holy Church, and which has no other aim than to promote the glory of the Church, does now judge after deep reflection that the reception of the Brief of Your Holiness will cast a shadow on the glory of the clergy of France; and it does not propose to consent to a measure which, in ages to come, will tarnish its glory. By rejecting the Brief and by an active resistance to it our clergy will transmit to posterity a splendid example of integrity and of zeal for the Catholic Faith, for the prosperity of the Church and particularly for the honor of its Visible Head.

"These, Holy Father, are some of the reasons which determine us, myself and all the clergy of this kingdom, never to permit the publication of such a Brief, and to make known to Your Holiness, as I do by this present letter, that such is my attitude and that of all the clergy, who, however, will never cease to unite in prayer with me to our Lord for the sacred person of Your Holiness. We shall address our humble supplications to the Divine Father of Light that He may deign to diffuse it so abundantly that the truth may be discerned whose splendor has been obscure."

聖伝のミサ(いわゆる「トリエント・ミサ」と呼ばれているローマ式典礼様式のミサ)にようこそ!

ローマ・カトリックの聖伝のミサ vs エキュメニカルな新しいミサ(第二バチカン公会議のミサ)




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キリストによって創設された教会は、不朽である

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今から2000年前にイエズス・キリストがお生まれになり、ご自分の教会を創立しました。

 この教会の特徴を見てみましょう。すると、このキリストによって創設された教会は、不朽であることが分かります。

キリストの教会は不朽

 不朽というのは、滅びることが無い、という意味です。
 何故こう言うかというと、天主の名において人びとに話す権利をもつ社会であるキリストの教会は、ある時代に限定されるような、その時かぎりのものではありえないからです。

 このことは、キリストご自身と聖霊とが、たえずこの教会とともにいて、助け導くという、キリストの約束を見れば、あきらかです。

 イエズス・キリストは、いつまでも弟子たちと共にいると約束してくださいました。

 この約束は、けっして一時的なものではなく、いつまでも続くものでした。

「私には、天と地との一切の権力が与えられている。だからあなたたちは諸国に弟子をつくりにいき、聖父と聖子と聖霊とのみ名によって洗礼をさずけ、私があなたたちに命じたことをすべて守るように教えよ。私は、世の終わりまで、常にあなたたちとともにいる。」(マテオによる福音28章18-20)

「そして、私は父に願おう。そうすれば、父は、ほかの弁護者をあなたたちに与え、永遠にいっしょにいさせてくださる。それが真理の霊である。」(ヨハネによる福音14章16)

 キリストは聖ペトロにこう約束しました。
「私はあなたにいう。あなたはペトロである。私はこの岩の上に、私の教会をたてよう。地獄の門もこれに勝てないだろう。」(マテオによる福音16章18)

 《地獄の門》というのは、闇の勢力、悪魔の仕業とその勢力、死、滅亡、などという意味です。ここでは、キリストが建てる教会は、岩の上に立てられた要塞・家として理解されています。要塞都市の「門」とは、その都市にとって、商業や公共の広場として生命線です。とくに古代は、城塞の門はその最も大切なところでした。そこで、古代は、都市のことを「門」と言うこともありました。(たとえば、創世記22章17には「おまえの子孫は敵らの「門」を所有するだろう」(possidebit semen tuum portas inimicorum suorum)とあります。イザヤの預言には、「泣け、門よ、叫べ、都市よ」Ulula, porta; clama civitas ともあります(イザヤ14章31)。)つまり、キリストの教会という要塞都市に対立して、地獄の勢力は、総攻撃をかけますが、キリストの教会に勝つことはない、と言うことです。

 キリストは、自分がたてた社会である教会に、こういうはっきりした約束を与えた。この約束は、教会に「不朽性」というしるしを刻印したということです。

 したがって教会は、世界に終末がくるまで人びとをおしえ、司牧し、聖化しつつ、存在していくべきなのです。


天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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キリストによって創設された教会は、可視的である。

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愛する兄弟姉妹の皆様、

 イエズス・キリストはご自分の教会を創立しましたが、このキリストによって創設された教会は、可視的であることが分かります。

 「可視的な教会」というのは、「目に見えない霊の教会」の反対で、今この世に現実に生きている人々から成り立っている教会、従って"目に見える"教会」という意味です。

キリストの教会は可視の教会

 キリストは、教会を目に見える社会としてつくりました。

 これはどう言うことかというと、ひとつの組織体として、人びとの目のまえに、はっきりわかる教会をつくったという意味です。

 この組織体は、おしえる人びととおしえられる人びと、司牧する人びとと司牧される人びとによって形成されていて、いずれもみな、おおやけの礼拝において一つになり、かれらの信仰を宣言していくのです。

 使徒たちは、洗礼をもって、人びとを教会の信者にうけいれました。

 また使徒たちは、信者の外的行動を規定する律法をつくり、これにしたがうことを命じました。

 使徒らは、信仰をおおやけに宣言するために、キリストの命令をそのまま与えている。「人々の前で、私の味方だと宣言する人を、私もまた、天にいます私の父のみ前で、その人の味方だと宣言しよう。人々の前で私をいなむ者を、私もまた、天にいます私の父のみ前でいなもう」(マテオ10:32)と。

 「目に見える教会」ということを言い換えると、キリストの建てた教会は、社会として人々が認識することが出来るもの、その他の組織と区別することが出来るものであるということです。

 つまりキリストの教会に属する人々は、秘密結社のように誰も知らない秘密のつながりでつながれるのでは無く、公の入会で属する社会である【認識することが出来る】こと、を意味します。

 さらに、単に人間社会の組織として認識するだけではなく、天主の御子によって創立された社会組織として区別されうること、人間の救いのために天主様によって与えられた救いの手段であると認識されうること、をも意味します。

 キリストの教会は、その存在が全ての人々によって認識され、天主が創立したものとしての印を持っていなければなりません。天主が創立した組織としての印には4つがあります。それがキリストの教会が、一であり、聖であり、公【全世界に亘る不変的なという意味】であり、使徒継承である、という他の組織から区別される印です。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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キリストの教会は唯一

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 この項は、これから洗礼を受けようとされている方のために書いています。

 キリストは、人間の社会組織として教会を創立しました。イエズス・キリストが創立した教会は、四つの特性をもっています。それは、唯一で、普遍的で、使徒的で、聖であるという、ことです。

 ここで、さらにくわしく見ておきましょう。

キリストによって創設された教会は、唯一、公、使徒的で、聖なる教会

キリストの教会は唯一

キリストの教会が一つであること

(a) 最後の晩餐がおわってから、キリストは祈って言う。「また、彼らのためだけではなく、彼らのことばによって私を信じる人々のためにも祈ります。父よ、あなたが私の中においでになり、私があなたの中にあるように、皆が一つになるように。そして、かれらも、私たちにおいて一つになるように。それは、あなたが私をお遣わしになったことを、世に信じさせるためであります」と。

 これらのことばによって明瞭であるように、キリストは、自分の教会に、絶対的な一性を要求しています。

 これは、いかなる分裂もない一性であって、たとえそれが、統治上のものであろうと、教義上のものであろうと、祭式の面におけるものであろうと、一致を欠くものはなにもない唯一の教会をのぞんでいるのです。なぜなら、キリストは、教会の唯一性を、おん父とおん子との完全な一致になぞらえているからです。また、この唯一性は、キリストの天主的権の証明をひきだすことができるほどあきらかな、奇跡的な一致でなければならないといっているからです。

(b) 聖パウロも、あくまでも、唯一性が教会の根本的な特徴であることを主張します。かれは繰り返し繰り返し、教会を生きている人のからだにたとえています。

「体は一つであるが肢体は多く、体の全肢体は多くても体は一つであるが、キリストもそれとおなじである。私たちは、ユダヤ人もギリシア人も奴隷も自由民も区別なく、一つの体となるために、一つの霊によってみな洗礼を受け、そして、みな、一つの霊を注がれた」と。

 聖パウロは、教会の信者たちをひとつの生きた有機体のおおくの部分であると見ていました。何故なら、ひとつの霊によって生かされ、同一の教えを信じ、同一の礼拝にあずかり、ひとつの同じ権威にしたがっていくからです。


キリストの教会は、統治において唯一

(1)キリストは、自分の教会を、一度も複数で呼んだことがありません。したがって、キリストの教会は、唯一の統治権によっておさめられる唯一の社会組織体であって、けっして、それぞれ別な統治権によっておさめられていく、たくさんのちがった社会組織体ではありません。

(2)キリストは、自分の教会を、《羊の群》《都市》《王国》などにたとえています。これまた、統治権がひとつであることを、それぞれものがたっています。

(3)使徒たち自身も、教会が統治において、唯一であるということを例外なく認めていました。

(4)キリストは、「相互にわかれてあらそう国はほろびる」と、はっきりいっています。不朽の社会につくられたキリストの教会においては、統治上の分裂などゆるされません。

(5)聖パウロは教会に関して、「体はひとつ、精神はひとつ」でなければならないといっています。したがって、教会は生きている人のからだに似ていなければなりません。生きている人には、唯一の統治意志しかないように、教会においても、ただひとつの統治支配権があるたけでなくてはならない。


キリストの教会は、信仰においても唯一

(1)キリストは使徒たちにこう言いました。「だからあなたたちは諸国に弟子をつくりにいき、聖父と聖子と聖霊とのみ名によって洗礼をさずけ、私があなたたちに命じたことをすべて守るように教えよ」と。

 それゆえ、使徒たちは、キリストの教えをみな、すべての人におしえなくてはなりませんでした。

 使徒たちは、信者ひとりひとりがみな、同一の真理体系を信じているかどうかに、注意してゆかなければならなかったのです。つまり、キリストの教会は信仰において唯一でなければならないのです。

(2)聖パウロによれば、教会の「主は一、信仰は一、洗礼は一」です。またかれは、教会を生きているからだにたとえて、この表現をなんどもくりかえしていますが、生きているからだには、唯一の精神があるだけです。従って、教会には、ただひとつの信仰しかありえません。

 かれがローマのキリスト教徒におしえているところによると、キリスト教徒は、「忍耐と慰めの天主が、キリスト・イエズスにならうあなたたちにも、たがいに同じ心をもたせてくださるようにと祈る。それは、あなたたちが、みな一致し、一つの口をもって、私たちの主イエズス・キリストの父であり、天主である者をほめたたえるためである」といわれています。

 コリント人たちには、「兄弟たちよ、主イエズス・キリストのみ名によって、私はあなたたちに切に勧める。みな同じく語り、たがいに分裂せず、同じ心、同じ考えをもって完全に一致せよ」といっています。

 また「兄弟たちよ。あなたたちが受けた教えにたいして、争いと躓きを起こす者を警戒せよと勧める。かれらから遠ざかれ。かれらは、主キリストの奴隷ではなく、自分の腹の奴隷であって、甘いへつらった話をして、質朴な人々を騙している」、ともいっています。


キリストの教会は、礼拝においても唯一

 この主張は、前述したことから自然に帰納されるものです。というのは、礼拝というのは、信仰の実践だからです。

 キリストの教会のメンバーは、唯一の信仰をもっています。それゆえ、かれらは、礼拝においても一致していなくてはならないのです。唯一の信仰は、人びとの聖化と、天主の礼拝とのために、天主がさだめた典礼に関する意見の相違をゆるさないからです。

 以上、三つの唯一性について説明しましたが、そのなかで一番重要視されなければならないのは、信仰に関する唯一性です。

 なぜなら、信仰の唯一性は、他の二つの、いわば、根の役割をはたしているからです。

 キリスト教に改宗する人は、まず、キリストとキリストの教えとを信ずることからはじめます。キリストの教えを信ずることによって、その教えの一部として、キリストが制定した方法によって、天主を礼拝しなければならないこと、かれらの教導のために、キリストが指定した司牧者にしたがわなければならないこと、などがわかってくるからです。

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キリストの教会は、全世界におよぶ、普遍的(カトリック)な教会

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愛する兄弟姉妹の皆様、

 この項は、これから洗礼を受けようとされている方のために書いています。

 キリストは、人間の社会組織として教会を創立しました。イエズス・キリストが創立した教会は、四つの特性をもっています。それは、唯一で、普遍的で、使徒的で、聖であるという、ことです。

【ポイント】キリストによって創設された教会は、唯一、公、使徒的で、聖なる教会

 ここでは、キリストによって創設された教会が、全世界に及ぶもの、普遍的な(ギリシア語で「カトリックな」)教会であることを見てみましょう。


キリストの教会は、全世界におよぶ、普遍的(カトリック)な教会

キリストの教会は普遍的、あるいはカトリックです。キリストは使徒たちに、非常に力強く命令を与えましたが、それはある特定の民族とか、社会層とかにその教えを限定するためではありませんでした。

キリストは、「すべての国」「すべての人びと」に福音をのべつたえることを、使徒たちに命じました。

「私には、天と地との一切の権力が与えられている。だからあなたたちは諸国に弟子をつくりにいき、聖父と聖子と聖霊とのみ名によって洗礼をさずけ、私があなたたちに命じたことをすべて守るように教えよ。私は、世の終わりまで、常にあなたたちとともにいる。」(マテオ28章)

「あなたたちは、全世界に行って、すべての人々に福音をのべ伝えよ。信じて洗礼をうける人は救われ、信じない人は亡ぼされる。信じる人々は、私の名によって悪魔をおい出し、新しいことばを話し、へびを握り、毒をのんでも害をうけず、病人に手をおいてなおすなどのしるしを見せるだろう。」(マルコ16章)

 使徒たちは、従順にイエズス・キリストのことばをまもり、たとえば、聖パウロは、こう言っています。

「信仰は宣教により、宣教はキリストのみことばによる。しかし私はいう。かれらには聞こえなかったのか?決してそうではない。"その声は全地に響き、そのことばは世界の果てまで及んだ"」と。

 従って、聖パウロは、コロサイ人たちに、福音は「全世界で実をむすんでいる」と書きおくることができました。

【ここで注意しなければならない点は、この場合、聖パウロは絶対的な普遍性(catholicitas absoluta)を指していったのではなく、比較的な普通性(catholicitas moralis)として、全世界に福音が実をむすんでいるといったということです。すなわち、キリスト教徒がひろくどこにも見られるという意味で、一般的な表現にしたがって、世界に実をむすんでいる、または、普過的であると言いました。
 教会の比較的な普遍性は、また、社会的な面と、数的な面とにおいて、それぞれの普遍性が考えられます。
 社会的普遍性というのは、教会のメンバーが、いろいろな文化面とか、階級にわたって、ひろがっている場合にいわれます。
 教勢が伸び、教会が世界的にひろがっている場合には、数的普遍性をもつといわれます。】

 キリストの教会には、創設後、相当の期間をへた後には、比較的普遍性がなくてはなりません。なぜなら、教会の宣教者たちは、世界につかわされるために、キリストご自身の支持を受けているし、その教えは天主の教えであるから、善意の人びとの精神と心とに強くうったえる力があるからです。

 キリストの教会は不朽であるから、現世にいまも存在しつづけ、おなじ理由によって、すなわち、天主の助けと、人間の要求をみたす教えをもつという理由で、比較的普遍性をもっていなくてはなりません。

 キリストの真の教会である、だから、全世界の人々の大部分がこれを信じている、という数的な普遍性を必ずしも常に維持しているとは限りません。キリストの教会が普遍性とは、信じる人々の数が減少しようとも、キリストの教会が持つ普遍的な性格のことです。

 つまり、一切の人の救霊がキリストの意志なので、キリストの教会はこの意志にしたがって、実際的な、組織だった機構をそなえ、絶対的な普遍性の理想にすすんでいかなければならない、という性格です。


【キリストが建てた教会が、普遍的であるとうことから帰結すること】


キリスト教徒になる義務

「あなたたちは諸国に弟子をつくりにいき、聖父と聖子と聖霊とのみ名によって洗礼をさずけ、私があなたたちに命じたことをすべて守るように教えよ。」(マテオ28章)

「あなたたちは、全世界に行って、すべての人々に福音をのべ伝えよ。信じて洗礼をうける人は救われ、信じない人は亡ぼされる。」(マルコ16章)

「全世界に行って、すべての人々に福音をのべ伝えよ」という、使徒たちに与えられたキリストの命令には、立場をかえると、別の大きな意味があります。つまり、人類の側からも、それに相当する義務があり、すべての人は使徒たちとその後継者らの教えを聞き、それに従う義務があるということです。

つまり、キリストの教会のメンバーになる義務があるということです。

「すべての人々に福音をのべ伝えよ。信じて洗礼をうける人は救われ、信じない人は亡ぼされる」といわれているのであるから、まことの教会を知っていながら、故意に信者にならない人たちは、だれも救われません。

まことの教会に属していながら、異端や分派をつくって教会をすてる人も救われません。

「異説を立てる者は、一度か二度いましめてのち、それから遠ざかれ。このような人々は、罪をおかして自分自身を罰した人であると、あなたも知っている」と、聖パウロもいっています。

教会は、キリストをかしらにいただく、生きた体であると聖パウロは教えていますが、教会から自分を切りはなす人は、キリストから分離するわけであるから、救われるはずがありません。

なぜなら、救霊は、キリストにあるだけで、ほかにはないからです。「私はぶどうの木で、あなたたちは枝である。私にとどまっていて、私もまた彼のうちにいるなら、その人は多くの実を結ぶ。なぜなら、私がいないと、あなたたちにはなに一つできないからである。私にとどまらない人は、枝のように外に投げすてられて、枯れはててしまい、人々にひろい集められて、火に投げいれられ、焼かれてしまう」とキリストは言っています。

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聖ピオ十世会日本 聖母被昇天のミサの報告です。天主様に感謝!

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アヴェ・マリア・インマクラータ!


愛する兄弟姉妹の皆様、

 昨日は、聖母の被昇天の大祝日でした。おめでとうございます。
日本では、大阪でレネー神父様が聖母被昇天のミサを捧げてくださいました。私の記憶が正しければ、これは聖ピオ十世会が日本で初めてささげる聖母被昇天のミサでした。レネー神父様に深く感謝します。
 私は、司祭となって始めて8月15日にマニラで、特に勝利の聖母教会(Our Lady of Victoires Church)で、ミサ聖祭を捧げました。(叙階のその年から毎年8月15日は、天主様のお恵みで、私はソウルでミサ聖祭を捧げていました。)昨日のミサは荘厳ミサで、その直後に聖母行列も行いました。天主様に感謝します。
 大阪のミサ聖祭について次のようなご報告を戴きましたので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

今月の大阪での御ミサの報告です。

15日(金曜)聖母の被昇天 歌ミサ には、24人の方々が、
16日(土曜)聖ヨアキム  歌ミサ には、25人の方々が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオ・グラチアス!

日本で、マリア様の大祝日の御ミサが捧げられた大きな御恵みに感謝いたいします! マリア様のこの世でなさったすべての事が報われて、天主様と一致された大きな祝日を一緒にお祝い出来て、幸せでした。御ミサに来られていた方々のお顔にもどこか嬉しさが漂う金曜日でした。(*´▽`*)
また、今月も真夜中にシンガポールを発たれて大きな犠牲を払って日本の為にミッションに来て下さったレネー神父様にも感謝の気持ちでいっぱいです(;_;)

土曜日の御ミサの後、自然法についてのお話をして頂きました。

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2014年8月18日の東京での聖伝のミサの報告です。天主様に感謝!

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 8月17日の東京での聖伝のミサの報告を戴きましたので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。日本でのミッションに行ってくださったレネー神父様に心から感謝します。レネー神父様のような聖なる学識の深い司祭に私もなれるように聖母マリア様に祈ります。

 シュテーリン神父様は、8月16日にシンガポールに到着されたとのことです。
昨年の8月は、私はアジア管区を代表してポーランドのチェンストホーバへの巡礼する恵みを受けましたが、シュテーリン神父様は、今年の8月は東欧の管区長として最後の時をチェンストホーバへの巡礼で過ごされたようです。ポーランドの方々が私たちに「大きな挨拶」を送り、シュテーリン神父様に、アジア管区の信徒の皆様と一緒にまたチェンストホーバへ巡礼に招待しているとのことです。


 8月18日の聖霊降臨後第10主日のミサは、いつもの聖歌隊の方々が数名、仕事や家庭の関係でどうしても参加することが出来ませんでした。しかし、有志の方々の練習とがんばりで、全曲歌い切り、立派な歌ミサになりました。

 聖歌隊の方によると「各自全力を尽くし何とか歌い切れたというだけで十分な達成感でした^^;」
「なんとかかんとか歌えたと思います。(;´∀`)」
とのことです。本当にありがとうございます。

 報告によると、18日の主日のごミサの人数は24名でした。
男9人(侍者2人を含みます)
女15人

霊的講話は10名でした。
男4人
女6人

晩課は5名でした。
男2人
女3人

 19日の月曜日の朝ミサ聖祭に与った方々は、
男:5人
女:2人
の計7人でした。


 来月は、東京では9月14日に聖伝のミサが行われます。ミサ聖祭は「聖十字架称賛」で、聖霊降臨第14主日のミサとは別のものになります。来月は、シュテーリン神父様と参ります。その日を楽しみにしています。

 もしも出来ましたら、シュテーリン神父様のために霊的花束を日本からお送りしたいと思っています。シュテーリン神父様が来日するときまでお祈りをして(或いはお祈りの約束をなさって)、霊的花束のご報告をいただければ幸いに思います。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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 それではレネー神父様のお説教をご紹介いたします。大阪(8月15日)東京(8月17日)

親愛なる兄弟の皆さん、

【大阪】本日は、童貞聖マリアの被昇天をお祝いしています。
【東京】二日前、童貞聖マリアの被昇天をお祝いしました。

 被昇天の際、聖母の御体は霊魂とともに天に上げられました。それから聖母は、天主に、私たちの主イエズス・キリストに完全に忠実であった生涯にふさわしい報いをお受けになりました。聖パウロは、ローマ書8章17節で「もし私たちが、キリストと共に、自分の苦しみを天主に捧げる生き方をするならば、永遠の命を受け、キリストと共に栄光を受けるようになる」と教えています。聖母は、私たちの主イエズス・キリストと共に十字架の下でお苦しみになりました。そこでは、聖母は主の苦しみと最も密接に一致しておられました。ですから、聖母は、天に上げられ、イエズス様の栄光に最も密接に一致するにふさわしい方となりました。そして、この報いは、被昇天において与えられたのです。

さて、聖母が豊かな恵みの報いをこの日にお受けになったのなら、この真理は、生涯の最初からすでに聖母が「聖寵充ち満てる」状態だったという教会の教えと、どのようにして矛盾無く両立するのでしょうか? 聖トマス・アクィナスはこの疑問に対して、「豊かさ」を3種類に区別することによって答えました。つまり、「ご托身の天主の御母」になるという、聖母の使命を果たすために必要な完璧なdisposition , すなわち日本語でいうところの心構え、精神的態度、準備された心を持っていたという豊かさ、聖母の使命それ自体の豊かさ、そして聖母が受けた報いの豊かさです。

この心構え、精神的態度の豊かさとは、聖母が無原罪の御宿りにおいてお受けになった恩寵の豊かさの結果なのです。この第一の豊かさ、恩寵による豊かさによって、聖母の心は、次の段階の豊かさをお受けになれるよう完璧に準備されていました。それは、へりくだりの豊かさ、従順の豊かさ、忠実さの豊かさでした。さて、ヤコボ書4章6節は「天主はおごる者に逆らい、へりくだる者を恵まれる」と言っています。ですから、このへりくだりという精神的態度が、聖母がさらなる恩寵をお受けになる準備となったのです。すなわち、ルカ1章48節で、聖母御自身がおっしゃられたように「主は、そのはしための卑しさをかえりみてくださった」のです。

第二の豊かさは、聖母の使命の豊かさです。お告げの日に、聖霊の影が聖母を覆ったとき、聖母はこの使命をお受けになりました。そのとき、聖母は「天主の御母」になられました。これが聖母の偉大な使命でした。それは、天主の賜物のうち最も偉大なもの、すなわち、天主の御子であるまさにその方、私たちの主イエズス・キリストが、ご自分の子になることでした。聖母は、聖霊の御働きによって、そのいとも清らかな御胎内にイエズスを宿されました。聖母はイエズスの世話をし、誰よりもイエズスを愛し、誰よりもイエズスに仕え、誰よりもイエズスと一致するようになられました。聖母は、イエズスの生涯の初め、幼子のときだけでなく、イエズスの地上生活の終わりのときにも、すなわち「世の罪を取り除く天主の小羊」(ヨハネ1章29節)としてイエズスがご自分の命をお捧げになるときにも、イエズスにお仕えになりました。聖母が、この使命を完全に果たすことができるように、この第二の豊かさ、恩寵による豊かさをお受けになったのです。

ところで、第一の豊かさがすでに充ち満てる程のものであるのなら、第二の豊かさが、さらに大きな豊かさであったというのは、どのようにして可能だったのでしょうか? これは、恵みを受けて容れて置く聖母の霊魂の側の容量が増えたからなのです。受ける容量が大きくなれば、つまり器が大きくなれば、小さな器よりも多くの豊かさを受けられるようになります。しかし、聖母の使命を成し遂げるには、単なるその使命のための「心構え」以上のさまざまな「質」、素養、美点が必要とされました。このポイントを、さまざまな聖人の中から、一つの例を取って考えてみましょう。例えば、聖ピオ十世は、司祭時代、既に良き司祭になっていましたが、司教になったとき、その職務を果たすため、より大きな「質」、美点、素養が必要とされました。その後、教皇になったときには、既に良き司教になっていましたが、さらに大きな「質」、美点、素養が必要とされました。でも、小教区での司祭としての良き運営の経験が、彼に良き司教となる素養、準備、質を与えました。そして、司教として、自分の教区で、良き霊的指導を与え続けた経験が、良き教皇となる準備となりました。

第三の豊かさとは、聖母が受けた報いの豊かさです。聖母は、それを被昇天の際にお受けになりました。地上の命というのは、天国の永遠の命への準備に過ぎません。人生の究極の完成というのは、天国で天主と顔と顔を合わせて完全に一致するときの、その天主との一致にしかないのです。聖母にとってさえも、地上生活の間に、私たちの主イエズス・キリストと完全に一致して協力したことは、イエズスと天国で最も完全にそして最も密接に一致するための準備でした。そこでは、今も、また、これから先も、聖母は、王たるキリストの右に座す元后として、この王と協力して、いとも聖なる三位一体への讃美を捧げつつ、全ての恩寵を私たち信者のために分配してくださっているのです。ですから、被昇天の祝日は、童貞聖マリアの終わりのときに起きたことを私たちに黙想させてくれるのです。それは、どんな被造物も、かつて持ったことのない、今も持っていない、またこれからも永遠に持つことのない最も美しい栄光なのです。「壮大なしるしが天に現れた。太陽に包まれた婦人があり、その足の下に月があり、その頭に十二の星の冠をいただいていた」(黙示録12章1節)。

聖母がほかのすべてのものの上にいらっしゃるのならば、聖母の栄光は私たちすべての模範であり、天主が私たちにお与えになりたがっているもののモデル、ひな型、模範なのです。もっとも、私たちが聖母のへりくだりや信仰、希望、愛、そして完璧な忠実さの模範に従って生きていこうとするならば、私たちにも、栄光と救いを与えてくださるという話なのですが。

聖トマスは、道徳についての論文の最初に次の原則を置いています。「主体は皆、ある目的のために行動する」。これは言い換えれば、私たちの選択はすべて、次のものによって動機づけられるということです。つまり、私たちが求める目標、私たちの考慮する目的、私たちが獲得し到達しようと願う善です。直近の目標は、長期にわたる目標を考慮して選ばれ、長期にわたる目標は、最終の目的を考慮して選ばれます。ビジネスの言葉で言えば、「強いモチベーションを持ち、自分の目標に突き動かされて行動するビジネスマンは成功する」ということになります。キリスト教の言葉で同じ真理を言えば、「聖人とは、天主に対する愛に満ち、それに突き動かされて生きた人間である」ということです。このように、私たちの人生の終わりを、人間の究極の目標、そして聖母マリアの被昇天の祝日の意味を黙想することは大変有益です。天主が、童貞聖マリアの一生の最後にお与えになったものを黙想することは、私たちの霊的生活に非常に役立つのです。

私たち人間は自分で自分をつくったわけではありません。両親でさえも、私たちを創造したわけではありません。両親は、自分たち自身もその親から受けとった命を私たちに伝達しているだけです。両親は、私たちが二つの目や二つの耳などを持つことを意図して、決定したわけではありません。両親は、私たちの体を設計したわけでもありませんし、まして、私たちの霊魂を設計することなどできません。両親は、私たちに命が伝達された際に使われた道具に過ぎません。命の作者は天主です。天主は偉大なる設計者であり、すべてのもの、特に私たちの命に秩序を与えた至高の知性的存在であり、私たちの体のような目に見えるものと、私たちの霊魂のような見えないものすべての創造主です。誰かが何かをつくるとき、その人には何か考えがあり、それをつくる目的があります。自動車をつくる技師には、うまく運転でき、安全に運転できる機械をつくろうという目的があります。家をつくる建築家には、実際的で心地よい住居にしようという目的があります。それと同じように天主は、私たちを創造なさったときにも、ひとつの目的を、しかも驚くべき目的をお持ちだったのです。自然のレベルにとどまる目的ではなく、超自然的な目的をお持ちだったのです。それは、天主ご自身の幸福へ私たちを参加させようという目的なのです。天主は、私たちを天国で天主と共に、永遠の祝福に満たして生きさせたいのです。「よくやった、善良で忠実なしもべよ。おまえはわずかなものに忠実だったから、多くのものを管理させよう。おまえの主人の喜びに入れ」とマテオ25章21節が述べている通りなのです。これが私たちの最終目的であり、私たちは常にこれを考えておく必要があります。私たちがつくられたのは、地上の喜びのためではなく、天国の喜びのためなのです。聖アウグスティヌスは美しく言っています。「主よ、御身はわれらを、御身に向けて、つくり給えり。されば、われらが心、御身のうちにやすろうまでは、安らかならず」

さて、私たちは人間ですから、人間らしいやり方で、すなわち、意図的な、計画的な方法で、目的に到達しようと努めるべきです。人は知性と意志を与えられているのですから、これらの能力を上手に使えば、目標に到達できます。言い換えれば、最終目標に到達するのにも、放っておけばそうなるというものではありません。私たちがそれについて考えをめぐらさなかったとしても、また、その目的のために意志の力を使わなかったとしても実現するような、自動的なものではありません。私たちは、自分の全生涯を積極的にこの目標に向けて、秩序立ててゆくことが必要です。知性をもって天主を求めて選択し、何にも超えて天主を愛し、天主を悲しませるだろうと思われることを避ける必要があります。聖アウグスティヌスは、これを次のような言葉で単純に表現しました。「gressibus amoris – 一歩一歩、愛の手段を重ねてゆくことによって」と。最も重要なのは、力を尽くして、決意と忍耐をもって、この至福に到達しようと本当に願うこと、そして、この偉大な望みを他のすべての望みに優先させることです。別の言葉で言えば、天主を喜ばせようと努めることです。

人間の人生のドラマは罪であり、これがあるために、私たちは 天主という最終目標を脇に片付けて、創造主の中でなく、被造物の中に、私たちの幸福を探し求め始めます。私たちの最高の目標として、創造主の場所に被造物を置くのです。これは大罪であり、人を天主から引き離してしまいます。なぜなら、この態度が、すべてに超えて天主を愛すべきという掟と相容れないからです。聖母はそのようなことは決してなさいませんでした。小罪さえも犯しませんでした。小罪とは、本質的に、これらやがては過ぎ去ってしまうような被造物を人生の最終目的としたり、また、天主よりもそれらをもっと好むというところまでいかなくても、あまりにもそれら過ぎ行く被造物に愛着しすぎることなのです。

現代世界において、極めてよく見られる大きな罪、それは絶望です。テサロニケ前書4章13節が指摘するように、今日、多くの人々には「希望がありません」。希望がないということは、天主を私たちの人生の最終目的として、求め、望みということに完全に矛盾します。絶望は人々を自殺や、合法的な安楽死に導きます。今日の世界は、安楽死を強く推し進めようとしています。現代人の多くの人生目標は、お金や楽しみ、権力といったこの世的なものだけです。彼らは自分たちが最早それを獲得することができないと分かると、特に老いが苦しみとともにやって来ると、特に死の近い病気になると、自殺をします。彼らにとって、苦しみは十分悪いものですが、絶望は苦しみをさらに悪くします。そして自殺は、人生最後の罪によって、天主なき人生の最後を飾るということと同じです。故意に自殺をする人々はすべて、罪びとして死にます。自殺する前に既に罪びとであったのか、あるいは、その人が成聖の恩寵の状態にあったとしても、そのような自分自身を殺すことによって、大罪者になるかのどちらかです。苦しみを避けるどころか、彼らは自分たちを永遠の苦痛の中に投げ込んでしまうのです。本当に悪いことであり、自分を殺すことで、悔い改めるのに必要な時間をなくしてしまいます。この大きな罪を防ぐために、教会は、教会による埋葬を拒否することによって罰してきました。私たちは、自殺の誘惑にさらされている人々のために、私たちの主イエズス・キリストに祈らなければなりません。彼らがそのような行為に出る前に天主が恩寵を持って彼らの霊魂に触れてくださり、そのような最終的な罪を避けることが出来るように祈らなければなりません。彼らには希望が必要です。まさしくこのポイントに関して、聖母の被昇天は希望を与えるものです。天主が私たち一人一人について、素晴らしい目的、すなわち永遠の命を与えるという目的をお持ちだということを教えてくれるからです。天主の愛に応え、信仰を自分の人生の宝物とし、私たちの罪を悔い改めるようにいたしましょう。

自殺は悪いこと、大変悪いことですから、安楽死によって自殺を助けることも悪いこと、大変悪いことであるのは明らかです。さらに悪いことは、年老いた病気の患者や死が近い病気の患者に自殺するようプレッシャーをかけることです。これらの患者は、家族や友人たちに対して負担をかけるものです。(年老いた両親や親族の面倒を見るのは簡単ではありませんし、経済的負担がかかります。)安楽死が法律によって認められているならば、患者たちには自殺するようにプレッシャーがかかってしまい、こうして永遠に霊魂を失ってしまうきっかけとなる心理的圧力がかかってしまうのです。現代人は、人間社会が制定する法律が安楽死を許すならば、しても構わないと考えます。ですから、さらに多くの人々が、実質的に自殺であるこの恐るべき犯罪によって自分たちの命を終わらせようとし、多くの人がこの犯罪の共犯者になってしまうのです。これは、まさに現代世界を脅かしている悪なのです。人々はまず、始まったばかりの命を殺す中絶という恐るべき罪を受け入れました。そして今や、終わろうとしている命を殺す安楽死という恐るべき罪を受け入れようとしています。これはまことに死の文化です。まことに「罪にたいして与えられる報酬は死である。しかし天主の恵みは、主イエズス・キリストにおける永遠の命である」とローマ書が、6章23節で述べている通りです。

聖母の被昇天はこの絶望から人を癒やし、人生に意味を与え、人のために天主が定めた人生の目的を教えてくれます。しかも、聖母の被昇天は、苦しみそれ自体にも意味があることを教えてくれるのです。聖母は、十字架の下にたたずんで苦しむ御子イエズスを天主に捧げたとき、御自分の苦しみをキリストの苦しみと一致させてお苦しみになりましたから、苦しむすべての人々、特に死が近い病気の患者にとって、偉大な模範であり、インスピレーション(励み)になる御方なのです。この模範から学ぼうとすれば、全ての苦しむ人と死が近い患者たちは、自分の苦しみを私たちの主イエズスの苦しみと一致させ、自分自身の過去の罪を償うだけでなく、他の人々の贖いに協力し、参加することができるのです。彼らは、自分を十字架に上げられた私たちの主と一致させることの中に、いつの日にか、聖母に起こったのとまったく同じように、天の栄光に包まれた主イエズスと自分を一致させることができるのだという最上の保証を見出すでしょう。

私たちは命のために立ち上がる必要があります。中絶に反対することにより、始まったばかりの命を守り、安楽死に反対することで、終わろうとしている命を守るのです。私は、日本の「プロライフ運動」のことはよく知りません。しかし、多くの国々では、この運動は、それを見た多くの人々がカトリックの信仰に改宗する機会になってきています。なぜなら、カトリック教会は、全力で命のために立ち上がる唯一の組織であるからです。近代主義者はこの点で弱いのですが、カトリック教会の公式な立場は、ピオ十二世が述べたように、非常に明確です。

聖母は、母そのものです。命を与えてくださる方です。聖母は、至高の命そのものである御方、すなわち、私たちの主イエズス・キリストを与えてくださいました。コロサイ書の3章4節が教えるように、イエズスこそ「私たちの命である方」なのです。聖母は、あらゆる死の文化に対する最上の治療薬であり解毒剤なのです。受胎から死に至るまでの命を保護し、老いた者にも死にゆく者にも希望を与え、被昇天において、人生の美しい目的が何であるか、また、わたしたち皆が人生において追い求めるべき目標が何であるかをお示しになりました。その目的とは、天主と共に永遠に生きるのにふさわしい者となるように生きるということなのです。

私たちは、私たちの主イエズス・キリストへの忠実とへりくだり、従順において、童貞聖マリアの模範に従うならば、この目標を達成することができます。また、私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって、これを達成することができます。この偉大な祝日において、聖母が、私たちのためにこの恩寵を獲得してくださいますように。アーメン。

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ローマ・カトリックの聖伝のミサ vs エキュメニカルな新しいミサ(第二バチカン公会議のミサ)




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