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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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「もしも四旬節をうまく使う事ができなかったら、一体どうなってしまうのか?」

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

2020年3月15日(主日)四旬節第3主日のミサ(大阪)
聖ピオ十世会司祭 小野田神父説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2020年3月15日、四旬節第3主日のミサを捧げています。

この昨今コロナウイルスの事で窓を大きく開けてあります。皆さんにはミサの間、寒い思いをされているかもしれませんが、どうぞご容赦下さい。

今日は、四旬節の主日ですので、このミサが終わった後に、できれば皆さんのお時間があれば、聖務日課の終課を、グレゴリオ聖歌で皆さんと歌いたいと思います。10分から15分ぐらいです。
特に私たちが守られますように、お祈り致しましょう。

それから私の事で申し訳ありませんが、コロナウィルスのおかげでフィリピンに戻る事ができなくなって、皆さんの近くに居る事ができるようになりました。

特に今、日本の多くの所で、16の司教区の内の10で公のミサが停止されています。本当に私たちはこのミサを捧げる事できて、本当にイエズス様とマリア様に感謝しております。この少ないミサが、ますますこの日本の為に、世界の為にミサが必要だと思いますので、19日の聖ヨゼフの祝日と20日の春分の日と土曜日に、3日特別にミサを付け加えたいと思っております。ちょうど私も日本にいる事ができて、付け加える事ができるようになったからです。

来週の主日は、フォルティン神父様がいらっしゃる予定でしたけれども、一応私がその代わりにそのままする事になりました。

またコロナウィルスのおかげで、聖週間も本来ならば東京で行なう予定だったのですけれども、いざという時の事を考えて、大阪で聖月曜日から聖火曜日、聖水曜日、それから聖木曜日、聖金曜日、復活の徹夜祭と行なう事になりました。

また詳しい時間割など皆さんにお知らせします。どうぞ既にご予定を立てて下さい。東京の皆さんは非常に残念がっておられたのですけれども、「全ては御恵みなので。与えられたものなので」という事なので、超自然の精神で受け止められておられました。ある方はもう、「大阪に与りに来る」とも仰っておりました。皆さんももしもできればいらして下さい、聖週間。

そして私の飛行機の都合によって、もしかしたら更に主日のミサが増えるかもしれません。あるいは、この予定されたミサがどうなるか分からない、という事もあるかもしれません。とても不確実ですが、どうぞ予定通りに行かなかった場合でもその時にはご理解下さい。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

「天主を真似る者となれ。愛された子供たちとして、天主を真似る者となれ。愛の内に歩め。」

愛する兄弟の皆さん、私たちは聖なる四旬節のこの中に、ますます深く入って行きましょう。そして今年は天主様の御摂理によって、特別な四旬節を迎える事になりそうです。なぜかというと、学校はお休みになったり、会社には行けずに家で仕事をしなければならなかったり、あるいは外に出るのを控えて自宅にいなければならなかったりなど、本当にイエズス様が40日間、この世を離れて砂漠に行って、そして祈りに没頭されたように、私たちも何か世俗の事から離されて、多くの時間が与えられたかのようです。

ではそのような御摂理に従って、このきっと私たちの霊魂の善の為に、あるいは世の中の多くの人々の善の為に、このように御摂理で配慮された天主のその御計画の中に深く入って、私たちも御旨に従って四旬節を送る事に致しましょう。

四旬節第1主日は、イエズス様の模範を私たちは黙想しました。40日間、私たちを愛するが為に、私たちに代わって断食と苦業をされて、砂漠に行かれた、荒れ野に行かれたイエズス様の御姿。悪魔に誘惑を受けたイエズス様。どうやって悪魔に打ち勝つ事ができるかを教えてくれたイエズス様。

第2の主日には、先週ですけれども、主の御変容を黙想しました。遂に私たちは、イエズス様と同じ姿になる、栄光の姿になる、という事を垣間見て、四旬節を、「さぁ、これを目指して、このゴールを目指して、イエズス様と共に行こう」と来ました。

今度は今日は、「もしも四旬節をうまく使う事ができなかったら、一体どうなってしまうのか?」という事を私たちに教えようとしています。

⑴そこで黙想のテーマとして、福音を、イエズス様が仰る事を黙想致しましょう。

⑵次に、私たちはではこの第3主日に、四旬節第3主日に、どのような決心を立てるべきか、聖パウロの書簡から、私たちの遷善の決心を立てるヒントを取る事に致しましょう。


⑴第1にでは、イエズス様は今日福音で、どんな事を仰っているのでしょうか?少し難しい福音なので、教父たちの解説に従って黙想致しましょう。と言っても、これは聖トマス・アクィナスの『カテナ・アウレア』という『金の鎖』という書物からの引用された教父からの孫引きなのですけれどもお許し下さい。

イエズス様は悪魔を祓います。実はこの悪魔によって、この悪魔に憑かれていた人は啞でした。言葉を言う事ができませんでした。しかしイエズス様がそれを、悪魔祓いをすると、すぐに体にも影響が及ぼされて、話をする事ができるようになって、主を讃美し出します。それを見た一般の人々は、イエズス様のこの力に、「何と、悪魔を追し出す力があるこのイエズス様は、何と素晴らしい事か!」と感嘆しますが、悪意のある人は、イエズス様を認めようとしない人々はいちゃもんをつけます。

「この男は、悪魔の頭の、ベルゼブルによって祓っているのだ。悪魔祓いをしているのだ。」だからつまり、イエズス様は悪魔のものだ。

ところがイエズス様は主は、それに対して、非常に論理的な返答をします、「もしも悪魔の頭が悪魔の部下に戦ったら、一体それはどんな秩序か。そんな国は保たない。またお前たちも悪魔祓いをしているのではないか。お前たちのやっている悪魔祓いは一体何なんだ。」

そしてイエズス様は更にこのような例えを出します、「ある強い男が、お城を武器を持って守っている。しかし更に強い人がやって来たら、その男を打ち負かして、持っていたお城は取り、自分のものとして、そしてその戦勝品を分かち合う。」

教父たちは説明します、「『強い男』というのは、『悪魔』の事だ。そして『武器』というのは、『罪や、悪意や、天主に対する無知や、あるいは偽り、嘘、ごまかし、悪意』などによって、この世と人間を自分のものとして支配している。」

ところが、「悪魔」というのは、「強い」と言われていますが、「それは、『弱い、私たちの弱さに比べれば強かった』というだけで、本当は強くなどは何もない。イエズス様はこの悪魔などよりはるかに強い方であって、彼がやって来ると、イエズス様が御託身されて御降誕されて、悪魔の支配を全て打ち負かしてしまった、悪魔を追い払ってしまった。そしてその戦勝品である私たちを、天使たちに委ねた。守護の天使に委ねた。この私たちを見守るように。そして私たちを天国に連れて行こうとされた。悪魔よりも更に強い方である、それがイエズス様だ。」その事を例えに出します。

ところで教父たちは話を続けて、「イエズス様が話した、悪魔祓いをされたその悪魔は、一度逃げるのだけれども、しかしどこかに自分の支配できる獲物はいないか、見回すのですけれども、もしもいないならば、追い払われたその元に戻って来て、綺麗になって整えられている所に、また襲いかかって来る。それを虎視眈々と狙っている。そしてその時には、別の七匹のより酷い悪魔どもを連れてやって来る。」

「『七』というのは完成された数なので、全ての悪徳を持った悪魔を連れてやって来るので、せっかく悪魔祓いされたその人の状態は、更に悪くなるだろう。」

「イエズス様の話したのは、」教父たちによると、「これはユダヤ人たちの事だ。」アレキサンドリアの聖チリロは特にそう言います。そして「せっかくイエズス様の御憐みによって、天主の御憐みによって、エジプトの悪霊から解放されて、そして子羊の血を塗られてエジプトから脱出して、モーゼから受けた律法によって清められたにもかかわらず、悪魔祓いをされたにもかかわらず、特別に愛されたにもかかわらず、しかしあまりにも盲目の為に、あまりにも主を軽んじて、そして更に悪くなってしまった。イエズス様をもう認めようとしなくなってしまった。」

ですから、「この遂には、彼らは預言者たちを殺したのみならず、預言者の王であるイエズス様を、預言者の主であるイエズス様をも殺害しようと謀るだろうし、その為にユダヤ人たちは、エジプトやバビロンで罰を受けたよりも更に酷い罰、つまりローマ皇帝のヴェスパシアヌス、あるいはティトゥスによって、全くエルサレムの神殿は崩壊し、全くエルサレムが廃墟となってしまうほどの、そしてユダヤの国が無くなってしまうほどの罰を受けなければならなかった」と説明しています。

そして聖ベーダ・ヴェネラビリスによれば、「これは、ユダヤ人のみならず、異端者、あるいは離教者、あるいは悪しきカトリック信者たちにも、それは当てはまるだろう。せっかくイエズス様の御血の功徳によって洗礼を受けて、罪の赦しを受けて、そしてイエズス様の御体に養われたにもかかわらず、悪魔と少しずつ少しずつ誘惑に乗っかってしまい、そして最初はちょっと、次にはこれくらい、と悪魔の餌食になってしまう人々の事だ。もしもそうなってしまったら、私たちはどれほど更に悪くなってしまうだろうか。そしてまた、どれほど恐ろしい罰を受けなければならなくなってしまうだろうか」と警告しています。

確かに私たちも、この四旬節は最高に、この悪魔から清めを受ける、悪魔から身を守る最高の手段であります。私たちの罪を痛悔し、今まで弱さの為に、あるいは私たちの不賢明さの為に、あるいはその他の理由によって犯してしまった罪を悔い憎み、悔い改め、そして主に御赦しを乞い求めるその絶好の機会です。祈りと償いをする最高の時期が与えられています。

しかし、私はどれほど多く過去、その四旬節を、「あぁ、四旬節がやって来た」と思いつつも、何もせず、そして何も変わらずに、悪魔の話を聞いて、誘惑に耳を傾けて、そしてそのままやって来た事でしょうか、あぁ、私の過去の今までの四旬節は一体、どうだったでしょうか。一体どれほどの事ができたのでしょうか。あぁ、それを思えば、全く今までの四旬節は何でもなかったかのように思われます。

ですから、「もしもこのままそのままであったならば、私たちはどうなってしまうか分からない。他の、今私たちから出された追い出されたこの悪魔が、私たちの入る隙を狙っている、獲物がないか狙っている。だから私たちは更にこの四旬節を注意して、良い四旬節として送らなければならない」との話です。


⑵では、私たちは遷善の決心に何をすれば良いでしょうか?

聖パウロは言っています、「何も恐れる事はない。なぜかというと、私たちは深く愛されているから。私たちは下僕や奴隷ではなく、天主の子供として愛されているから。だから天主を真似る者となれ。愛された子供として、子供が父を親を真似るように、天主を真似る者となれ。そして愛の内に歩め。」

「この『愛』というのは、イエズス様が愛されたこの愛であって、私たちを愛された、その愛の為に、自分をいけにえとして、自分を全く奉献された、そして犠牲として捧げられた。」ですから、「そのように、愛において歩め。」

つまり、「イエズス様を愛して、そしてこの私たちの日々の十字架と苦しみを、自分の思い通りにいかなかった事や、あるいはこの私の身に降りかかる事を、イエズス様を愛するが為に捧げよ」と招いています。

「光の子として歩め。決して闇の中を歩むな」と。

では今日、ますます良い四旬節を過ごす事ができますように、マリア様にお祈り致しましょう。

マリア様、私は今まで生ぬるく、今までの四旬節は、今年の四旬節はまだあたかも本番に入っていないかのようです。マリア様、どうぞ助けて下さい。

今私の祈りを、私が祈りをする事ができますように、この与えられた機会を利用して、世俗の精神を家庭に、私の心に入れる事がありませんように。

インターネットはしばらくお休みにして、そしてコロナウイルスもしばらくお休みにして、そしてイエズス様の永遠の冠(corona gloriae)について黙想する事ができますように。

そしてロザリオの数珠(Rosarii corona)に寄り縋る事ができますように、イエズス様の受けた茨の冠を黙想する事ができますように、私の弱さを助けて下さい。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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